いた。
 といっても。
 丸顔に似合ってないようで、似合っている、横長楕円なレンズのサングラスを下にずらされて。
 そこから見上げてきた、色素の薄い、いたずらっぽいでっかい瞳に、
「あのな、おれ、弟なんだけど」
 と言われて気がついたのだが。

 ◆

 マンションとアパートの中間のような、この建物。
 若年層向けのワンルームなので、うちっぱなしのコンクリート部分がほとんどだ。
 最上階のここは特に、屋上の一部のような感が、強い。
 ……それにふさわしい、住居用としてはブコツすぎる、水色の玄関ドアを、閉めて。
「おじゃまおじゃま」
 とか言ってあがりこんでくる相手を、とりあえず、
「……まあ……。茶ァそそぐから、そこ座っといて」
 と、ダイニングの小さなテーブルへ、右腕で示し、案内した。
 そのまま自分は、台所へ足を踏み入れる。
 冷蔵庫のポケットから、ストレートティのペットボトルをとりだす。
 適当なマグカップを二つ、水切りから出して、ごとごと、とシンクに並べた。
「よく……この住所なんか、知ってたな」
 相手に背中を見せたまま、しゃべりだす。
 一人暮らしの、この住所。
 母親とこの間まで一緒に暮らしていた、マンションなら……。出資者はあの男だったわけだし、まだ、わかるんだが。
「前にオヤジが、『他の隠し子の話』になった時、メモってある手帳見せてくれたんだ〜。んで、こいつは年が近いし、近くにいる、って言うから」
 どぼどぼと、カップに紅茶をそそいでいると。すぐそばのダイニングからそう、相手が答えた。
 ……少々、複雑な気分になる。
 あの男がここに訪ねてきたことなんて、ないのに。知ってはいたのか。
 ……まぁ、会いにこられたりしても、今更、困るだけなんだが。もう十年以上、顔を会わせていない。
 そんな感慨にふけりながら、マグカップを両手で、ダイニングに運んでいく。
 テーブルの上に投げ出されたサングラスの横に、コン、コン、と置いた。
 相手はわしづかみにする勢いで手にし、元気よくあおって。
 ごくり、と一口飲んだ。
 それから、
「そのうち会ってみたいな、と思って」
 おもむろに、続けた。
 そうして、避けるヒマもなく。
 ガチっと、目を合わされた。
「……っ?」
 特徴的な、相手の瞳の虹彩。
 意味なく、心臓がはねた。
「そっちこそ、おれの顔、知ってた? ピンとくるの、はやかったよな?」
 向こうは、動揺の気配もない。
 尋ね返してくる。
「――、あの騒動の時に……話だけなら、母親経由で聞いたからな。髪の色とか」
 気を取り直して。
 腰をおろしながら、そう伝えた。
『ドイツ系アメリカ人の血が入ってる女の子ども』だそうで。
『髪とか目の色が、緑がかった茶色らしいわ。あなたより五つ年下で』とか。聞いた覚えがある。
 ……今、初めて前にする実物は、ほぼ聞いたとおりの髪と目の色を持っていて。確かに十五歳ていど……だろうか、というように見えて。
 ちっとも、自分とは似ていなかった。
 自分の、スタイリングしなくともツンツンと角立つ、ポピュラーな黒の硬い髪。目も鼻も口もおおぶりで、腕や脚も、規格外なほどでかく、手の大きさもそれに準じている。先天的に、体格に恵まれすぎていると一目で判断できるような、そういう容姿。
 そんなルックスとは、対極にあるような相手を眺める。
 鼻も口も、ちょこん、という風に、小さめにくっついている。
 だが目は、縦長、と表現したくなるほどにでかかった。
 茶色と言うより、オリーブグリーンとでも言うような、緑と黄色がかった、ガラス玉じみた透明感を持っている、黒目。
 そしてそれと同じ色で、もっとくすんだ感じに発色している髪。
 つやつやとキューティクルが輝いて、見事に『黒』の印象がない。
 さっきも、この完璧な自然さに目を奪われて、染めたてだな〜。ってあれ、ひょっとして、天然か? などと思っているところに、『弟なんだけど』発言をぶつけられて、一気に我に返ったのだった。
 服装は、薄手でホワイトなかぶりパーカー――正面に、真紅でタトゥのようなロゴが入っている。
 そして、いやみがない程度に、色落ちしてかすんだジーンズ。
 このウォッシュ具合はけっこう高そうだ……で、思いっきりあぐらをかいている。
 その姿勢で、ゆらゆらと、上半身を遊ぶように前後させたりしている。
 前のめりになったときの、丸まった背中のラインの印象が、やさしい。
「アレも、もう五年くらい前だけどなァ。でも、目とか髪の色は、ほとんどそのまんまか」
 まだ少し残暑の気配をひきずる空気のなか、汗をかきはじめたマグカップの表面を、指でなぞりつつ。相手は、言った。
『あの騒動』とは。
 説明してしまえば、一言で済む……大物芸能人の、隠し子騒動だ。
 そしてその『大物芸能人』が、この、日本人らしい童顔のくせに、髪や瞳に異国の匂いを漂わせる、青年になりかけた少年と……自分の。
 共通の父親、というわけだ。
 本業はロックバンドのボーカルで、デビューもそれだった。それでも映画俳優といえば映画俳優のような感じもするし、さらには監督経験もあったはずだ。バラエティ番組も、最近は看板で、ひとつ持っていた。
 ただ、タレント、という軽いイメージの人では……なんとなく、ない。だから、『大物芸能人』。
 メインの『実力派ロックバンドの代表格』のボーカルだけでも、世間の支持は高い。
 若い頃に聞いたなぁ、となつかしむ世代から、デビュー時なんか全然知らない若い世代にまで、絶大だ。
 新曲も、いまだにバリバリと出し続けているし、おまけに最近のリバイバルブームに乗って、ここのところはウハウハだったようだ。
「ほら、まさにアレでさ、おれ、マスコミにばれてっからさー」
 わずかに弱り顔で、相手が。
 頭をポリポリと、人差し指でかいた。
 西洋人形のような光りかたの髪が、サラサラと。乱されるのではなく、数ミリ位置をずらされて、音を立てる。
 ……その『大物芸能人』には。唯一、でもないんだろうが、欠点がある。
 なんというか、不必要なほど芸能人らしい、ヤツ、らしい、のだ。
 思いっきり要約して言えば、金と女が、まるで007かなんかのようにハデすぎる男。
 というわけで、その生活態度に比例して、隠し子は『わんさか』といる。
 世間にバレてるのこそ、正妻の子どもと……この目の前にいる隠し子、だけだが。
 余裕であと、片手の数ほどは、この日本に浮遊しているはずだ。
「というわけで、あの共通のオヤジが」
 つまり、この対峙の現状。
 発覚済みの隠し子と、まだ報道されたことのない隠し子、なのだ。
「ご存知の事態なんで。しばらく、かくまって泊めてくれね?」
 ポフ、と両手を合わし。
 おどけて拝んできながら、口元に笑みをたたえて、明るく、相手が言った。
「…………」
 想定外の言い出しに。
 思わず、長い沈黙で返した。
「ダメ?」
 拝む手のまま、首をチョン、と、コミカルにかたむけた。
 すこし、不服そうな、拗ねたような表情をしている。
「……いや、そうじゃなくて……」
 はっきりと三角形すぎる自分の鼻筋を、親指でこすって。
「『ご存知の事態』って何?」
 そう、尋ねると。
「えっ?」
 確かに、こっちは現状が把握できていないのだが。
 それでもちょっとおおげさなのでは……と思うほどの驚愕ぶりで、ほとんどフローリングの床から立ち上がって、相手は反応した。
「なんで知らねぇのっ?」
 テーブルの上に、バァン! と両手をついて。せまるように、顔面をのりだしてくる。
「……いや」
 ますます、鼻の側面をいじった。
「最近、テレビも見ねぇし……。新聞も、とってねぇし」
 こりゃあ、自分がこもっているあいだに、あのオヤジになんかあったのだろう。
 とは、さすがに悟って。
 そう、手短に、自分の近況を伝えると。
「コンビニでスポーツ誌の見出しとか、見かけなかったか? デカデカ連日で載っかってんだけど」
 それでもまだ不審そうな様子で。だけど座りなおしながら、相手が言った。
 ……さすがに。外出も怖いような気がするとはいえ、コンビニ程度になら外出していた。食い物がなくなる。
 だが、そこで父親の芸名を、見かけた覚えはなかった。
 注意力がまるごと欠落していたのだろう。こんな状態だから、別に、おかしなことでもない。
「うん……」
 だから素直に、ほんとにサッパリ知らねぇんだ、と肯定する。
「……いや……。まぁ〜。単純な話なんだけどさ」
 すると。
 相手は、わずかに言い出しにくそうにした。
 首のうしろを、ボリボリと、手のひら全体でかいたりして。
 今度は、あっちがもじもじしている。
 ……それでも、しばし後。
 ピン、と、右手のひとさし指を、一本、立てて。
 笑い話のオチを言うように、簡潔に言ってくれた。
「大麻所持でパクられました」
 ……なるほどな。

 カーテンのない窓から、風がぶわっと、舞いこんできた。
 一瞬、そちらに目をふり向ける。
 夕方前の日ざしには、気温よりさらにしぶとく、夏の気配が残っている。

 ……室内に目を戻すと、なんとなく、安堵のため息をもらしそうになった。
 屋根で防がれた日光、そのままの。日影に、テリトリーの中に、隠れられている安心感。
 隔絶感。
 それは、今の自分にとっては唯一、安心できるものだった。
 今は、他人が同じ室内にいるせいで、完璧には得られていないが。
「それで……ここにいんのか。今日」
 よく考えてみたら、平日ではないのか。
 頭のなかでは、あれから何日経ったのかのカレンダーもあいまいだけれど、なんとなく。
「やー、マスコミとか、パパラッチとかで、どーせ収拾つかなくなるに決まってっから〜」
 やっぱり平日だったらしい。
 事情が事情だからか、悪びれのカケラもなく、相手は説明する。
「あの、『隠し子発覚』騒動の時も、おれまだ小学生だったんだけど、容赦なくそうだったし」
 つーわけで、しばらく休学にしました。と。
 相手は、さっさとくだしたらしい結論を、あっさりと報告してきて。
「だから、隠し子どうしのよしみでな?」
 再び、パフ、と、ほほのあたりで、軽く両手を合わせて。
「かくまって」
 にっこりと、笑った。
「……なんで……おれのところに……?」
 いやだ、と言ってもよかった。そんな気まずくない関係でもねぇだろう、とか。なんか薄々感じてはいたがずうずうしいぞおまえ、とか。
 だけど、ぼんやりと口をついて出たのは、そんな……前向きと取れなくもない、疑問だった。
「いいじゃん。隠し子シンボク、ってことで」
 シンボク……の意味が、一瞬通じずに。
 数秒後、親睦、とあてはまった。
 ……いや、それは、なんというか。
 親睦ってのは、PTAとかで、親どうしが子どもも含め、深めたりとか。職場の親睦会だったりとか。
 とにかく、別腹な隠し子どうしって、『親睦』するような関係でもなかったと思うんだが。
「いちおう、身内なんだし? な?」
 頭の後ろで腕組みしながら。お気楽に、にやにやしている相手が、強引に押ししてくる。
 ……ホントに一応だ、とは思ったが。
 なぜか。
「いいけど……な」
 しばしの逡巡のあと、そう返事している自分がいた。
 まぁ、なんとなく、寂しい、とか、いろいろ思惑もあって。
 それで、済んでしまったのだった。

「えっと。名前、なんだっけ?」
 話がようやっと一段落したところで、やっと自己紹介に入った。
 順番が、あべこべどころの騒ぎじゃなくなっている気もするのだが、別の女から産まれた隠し子どうしという異様な状況下、こんなもんだろう。
 五年前の隠し子発覚騒動で、チラと聞いたような気がする。
 かわった、そのわりにはシンプルな名前だった、記憶がある。確か……。
「チトセザツ。ちとせあめの千歳に、雑」
 マグカップを持ち上げ、口をつける寸前の体勢で、相手はそう言った。
 ああ、そういえばそうだっけ。と思う。
 しかし、だ。
 ちろん、と、視線を、横流しにして投げかけてしまった。
 だって、変な名前だ。
「ざつ? いいかげんの雑? そのまんま?」
「そうそう。意味もそう」
 なんでそんな名前を……。
 と思っていると、顔に出ていたらしい。
「なんか〜。細かいことにとらわれず自由に、とかいう感じでつけたらしいけど。本音はおもしろがってつけたんじゃね?」
 そんなもんだと思いますよ、という顔で、だけどそれを不快には思ってなさそうな表情で。相手は、そう解説した。
 なんとなく、父親が命名したんだろうな、と思った。
 直接に、『自分の父親』としては知らない、遠い男ではあるけれど。
 広がっている歌詞とか、キャラクターとかで、そう感じられた。
「おれは……」
 そして、確信があるから、相手に尋ねはしなかった。
 ……そういえば、自分の名前は、どうだったろう。母親がつけたのか。まぁ、これもいまさら、どうでもいいことではある。
「なりた、は知ってる。よな」
 表札にあるし。それをたよりに、訪ねてきたんだろうし。
「で、あけるだ。暁、に流れる」
 うんうん、と、相手は、小ぶりな頭で、頭髪をつやめかせながら、うなずき。
「うんじゃ、アケルって呼んでいい?」
 とリクエストしてきた。
 ……たまらず、苦笑する。
 かなり年上なんだが……。ほんとに、人なつっこくて、遠慮がないヤツだ。
「ああ、いーよ。おれは――」
 許可を出して。
 さて、では自分は。
 相手をどう呼ぼう、えっと、と、口ごもっていると。
「ザツ、でいいんじゃねぇ?」
 と、こちらも相手があっけらかんと決定した。
「そか?」
「ゥん、だって、一応兄弟なわけし」
 ……ほんとに、一応、って感じだけどな。
 と、またもや、抑えようもなく思っていると。
「それに、名字で呼びあうと、なんか因縁っぽくてアレだし」
 と、良く聞くと、ヘビーな内容なことを言ってきた。
 ……なんつーか。両家、なわけだ。
 二号と妾ってどっちが上だ?
 思わずくだらないことが、アホーアホーと鳴くからすのように、頭をよぎっていく。
 ――だが、ふと、眼前からただよってきた違和感に。
 そんな呆けから、抜け出た。
 ほんのしばらく、こっちが一人の世界に捕らわれていただけなのに。
 ザツ、は『まったり』とした、ユルんだ態度になりきっていた。
 初めて会った兄、訪れたその家、という緊張が、見受けられない。
 テディベアかなんかのように、両脚を投げ出すようにのばし、片腕でダルそうに、体重を支えて。
 ズズーっと、右手のマグカップの茶を、だらしなくすすり続けている。
 ……なんだか、つられてリラックスしてしまう。
 そして、あらためて、その微妙な血統の割合をあらわす髪の色に、目を奪われた。
 カプチーノ色っぽくはあるのだが……そう言うよりは、黄土色っぽく、弱められて光る髪と言うか。
 つや消しのイエローを、黒髪にベールとしてかけたような、そんな色だ。
「クォーターだっけか?」
 ぽつりとこぼした質問に。
 主語は入れなかったが、聞かれ慣れているのだろう、
「うん、母さんな、ハーフで」
 ザツは、そう答えてきた。
 まじまじと見ると、瞳の色も、カラーコンタクトをはめたように、とまではいかないが、やたらと薄い。
 こうやってじっくり見てると、こんなんでちゃんと目、見えてんのかな、と余計なお世話なことを考えてしまうくらい。
 黒目の中心の部分、色の濃い瞳孔の部分が、やたらと浮いて見えるほどだ。
 この瞳も、基本は茶なのだが、なんだか黄色と白がかなり思い切って混ざってしまったような、そんな脆い、透ける……。
 シャンパン色、と言うのかもしれない、色あいをしている。
 それでも形容しろ、と言われたら、まぁ。うっすーい茶色くらい、かなぁ、という程度ではあって。顔立ちのせいか、あんまり外人っぽいという感はないのだが。
 ……そういえば、髪型も、ちょっと個性的だ。
 耳まわりの毛が長めで、自然、顔の輪郭をえがきだすようになっている。
 うなじあたりの髪の毛も、ショートよりはわずかに長く、首に沿うように幾本かまとわりついている。
 一本一本が存在感のあるこんな髪色だから、そんなちょっとした遊び毛アレンジだけでも、すごく目に華やかだ。
 と。観察がバレたのか、さっと。
 ザツがこっちにむけて、目を上げた。
 素直に、ビクッと、肩を揺らしてしまった。
 こっちは無意識に、日本人の標準色が来ると準備しているから、ザツの日本人としては明らかに奇異な、水晶めいた瞳での直視は、鼓動を跳ねさせる。
 おまけに、どうやらコイツはいつも、思わず腰が引けてしまうくらい、がつっと勢いよく視線を、合わせてくるのだ。
 心臓に悪いからやめろって、小学生くらいのとき、先生に遠慮がちにでも注意されませんでしたか? というほどに。
 ……そういう経緯で、こっちが意味もなく、身がまえていると。
 ぱかぁ、と口を開いて、ザツが言うことには。
「なぁ、そろそろ、腹へってこねぇ?」
 ……そうきたか。

 ◆

 まだ、日落ちはおそい。
 それでもアスファルトから立ち上ってくる、夏特有の、昼の熱の名残は、すでにない。
「ふ〜ん。仕事、やめたばっかか〜」
 ザツが、そう軽く言った。
 コンビニに買い出しに向かいながら。
 自己紹介の続きのような……世間話。
「ばっかじゃねぇけどな」
 と、返した。
 じーわ、じーわ、と、バックミュージックにしては主張しすぎる声。
 いまだに街路樹には、しつこく何匹かセミが残っているらしい。
 空気から暑さの要素が完全に払われないと、やかましいあいつらはいなくならないのかもしれない。
「なにやってたんだ?」
 目をまた、ばっちりと見てきて、聞くのに、
「興信所」
 と回答する。
「ハ?」
「……探偵、事務所」
 把握できなかったらしい相手に合わせて、平易に言い直した。
「探偵? かっこいいじゃん」
 思ったことをそのまま口に出しているタイミングで。
 ザツが、所感を言う。
「……そんないいモンじゃなかった」
 ほんとうにそんないいものじゃなかった、と心の中でさらに強く、念を押した。
 恨みをこめてそうしたせいで、眉間に皺がより、顔つきが渋く苦いものになる。
 だが、隣に歩く相手は、足元を見ていたせいで、それに気づいた様子はなく、
「今度はどーいうのにすんの? また探偵っぽいの? ほかのなんか?」
 と、無心に聞いてきた。
「仕事」
 単語を呟きながら。
 空を、見上げた。
 紅と墨の混じりあった色が、金魚の尾びれのようにくっついた。夕焼けのすきまに居る雲。
 ……下を見れば。アスファルト。
 紅葉の季節もまだで、綺麗なもので。
 あまり出かけてないせいでやたら清潔な、自分の二十八センチのスニーカー、動きに合わせて揺れるその靴ヒモが、目に入る。
「さがす気……ねェから」
 なんとなく眺めながら、そう、暗めに答えると。
「ふ〜ん? まだ貯金とかあっから?」
 やっぱり、深刻度零に、ザツが言った。
「まぁ、うん」
 そう、貯金が。あるから。
「そんな感じ……」
 出口のない考え事を、どうしてもしてしまいながら。
 異様に煮え切らない、返事をし終わる。
「まぁそれなら、明日の朝からフルで遊べっな!」
 ……せっかくの事態だから、夏休みの延長のつもりなのだろう。こっちの立場まで、ポジティブシンキングに巻きこんだ結果を、ザツがはじきだす。
 しかし、次の瞬間。
「あっ、でも、じゃあ、貧乏か? 食いもんも困ってさいあくか?」
 ぐるり、と身体ごと、こっちに振り返って。
 目の前で、ひらひらと手を、ふってくる。
 起きてますか〜? 意識ありますか〜? と、確認するみたいに。
「いや……。貯金に、よゆうあっし」
 金はむしろ、もっと使わなくては、と思うくらいだ。
 でも、使い道も思いつかない。遊び歩くような気にはならないし。
 ぽそぽそと、そう伝えると。
「金があまってる!」
 ぱっちりした目を、さらにこぼれ落ちそうにさせて、ザツが驚く。
 ……何だか、はしゃいでいる、その表情に、早まった、と思った。
 言うほどあまってはいない。
 いや、そもそも、あまってるっていうのは……曲解だ。
 だが、それを言う前に。
 ザツが、うきうきした心を表すように。
 くるん、とその場で、一回転した。
 ――動作がいちいちなめらかで、のびやかで。
 細いのに、骨っぽいイメージと、全く直結しない。
 若い柳のすがた、とでも形容すべきなんだろうか。
 髪の光沢も、キラキラと、夕暮れにも鮮やかで。言葉を、奪われていると。
 ザツが、得意そうに。
 新品のおもちゃか、できたての友達を手に入れた、小学生みたいに。
「じゃあしばらく、それ使って、おれと遊んでな」
 ……どこかしみじみとした言い方だった。
 その、今までの印象とは、ちょっと違う口調の響きに。おおげさだが。
 ツメの先ほど、こわくなった。
 遊ばれる……という。
 馬鹿げた印象。
 だけど、捕まってしまった、錯覚がして。どうしてか逆らいようも、ないような気がして。
 静止していると、
「なぁー。ここの横断歩道、わたるのー?」
 ……気づけば数歩、先に行ってしまっているザツが。
 そう尋ねてきた。
 指をすでに、黄色いペンキがあちこち剥げ、錆びたハコの中の、歩行者ボタンに押し当てている。
 こっちを見ている、朱色の世界の中ではさして気にならない、鳶色の瞳。
 影法師を長く伸ばした、すんなりとした身体。茜色に染まった丸いほお。
 その全体を、眼にしながら、
「おぅ、押せー」
 返事、して。
 止まってしまっていた足で、大股に、あとを追った。
 ……ま、どうせ……。もしもコイツにぶんどられるにしたって、たいした金額じゃないんだけどな。と、気を取り直しながら。

 夕方のコンビニは、ガラス壁すべてから、光を放って誘っている。
 最近、買い物といえばここしかない。
 かなり前からだいたいそうではあったが、ここ以外、絶対に行かなくなったのは、やはり、あのこと以降。
 ……到着した店で、なにかお目当てがあるらしく。ザツはすぐに、ぱたぱた小走りに行ってしまった。
 姿は見えなくなったが、その後も、順調に店内を駆け回っているらしい。
 いつもどおり、一周コースをまわる自分にも、足音だけは聞こえてきていた。
 そうしてそつなく、あんまり重くなることはないカゴを片手に、レジの前までめぐり終え。
「…………」
 はたと、このままでは会計できないことに気がつく。
 なんの商品を探し回っていたのかは知らないが。
 ……ザツはどこへ行ったんだ。しかも、一度もすれちがわなかったってのは。どーいうこった。どんだけウロウロしてんだ、あいつは。
 そう思いながら、逆行し、棚のはざまの通路を、一本一本、覗いていく。
 ザツは、スナック菓子のコーナーにいた。
『どれか一個なら、おかしを買ってあげてもいいわよ』と言われた子どものごとく、んー、と物色している。
 そして、横目に見えたのだろうか。ひょいっ、とこっちを見て、
「なぁ、『海老せん』ってここにあるだけか?」
 と聞いてきた。
「――? ここにあるじゃねーか。ホラ」
 答えながら、見慣れすぎてほほえましい、赤いパッケージを、右手で棚から取った。
 そのまま、ザツに差し出す。
 派手、より、毒々しい、に、片足をつっこんでいる、赤い袋。
 中央でエビが、エビらしくえびぞり、日本語らしい毛筆書体が、言われなくてもわかってる商品名を告げている。
 さっぱりした塩味の、サクッとしているが、歯ごたえはまるでない、定番スナック菓子。
 しかし、コレはザツの求めているものではなかったらしい。
「ああっ、それじゃダメなんだな〜。もっと、油ぎたぎたしてるようなやつ」
 ザツは袋を、ひょいっと両手でもって取り上げ、棚にもどしてしまった。
「んむむ〜。アッチで、妥協すっか」
 そう言って、一本、店の奥寄りになる通路に、行ってしまった。
 やがて、つまみ用の、味の濃い、揚げ菓子を手に戻ってくる。『エビのすり身いり!』とキャッチフレーズに書いてある。
 なんだか、とにかく、エビ入り、というところに、探すこだわりポイントがあったらしい。
「んで〜。卵、家にある? わさびは?」
 そして、ザツの買い物は、これ一品で終了ではなかったらしい。
 楽しげに、ひとつひとつ、チェックを入れられて。
 せっかく迎えに来たのに。足りない……らしきものを仕入れに、またまた離れられてしまった。

 コンビニを出ると、完全に夜になっていた。
 月の光にも似た外灯のもとを、二人して、のんびりテクテクと帰路につく。
 ザツは先に立って歩いているのだが、会話のはしばしで、くるっ、くるっ、と、しょっちゅう振り返ってくる。
 背中で指を組んで、持っている、ポリ袋が。そのたびに、アライグマのしっぽのように、わさっと揺れるのもあいまって。かろやかな、人なつっこい印象。
 どうやらクセらしい。
 そうしながら、
「どんな音楽が好き?」とか、「趣味は?」とか、「遊びってったらナニ?」といったことを、聞きこんでくるのだが。
 ……かんばしくない返事しか、できなかった。
 ちゃんと答えようにも、なんだか。自分のこれまでの人生の記憶すら、あいまいだからだ。
 しばらくそんなやりとりが続いたあと。
 ようやく、ザツが、実りのないやりとりにあきたのだろうか。
「ん〜」と思案するように、への字の、唇になって。
 転じて、竹を割るようにパッキリと、
「おまえ、無気力系キャラ?」
 と失礼な質問をしてくれた。
 あどけない声音が、すでに敬語もへったくれもなくなったなれなれしさを、苦笑まじりにだが雲散させてくる。
「……ん、どーだった……だろな」
 見失っているのだ。
 今、気がついたけど。
 自分がどういう人格だろうが、どういう人生を歩んできたんだろうが。もはや、どーでもいい。
 目指す場所もない。
 ばちゃばちゃと、なんにもよくわからぬまま、ただ沈まないように犬かきしてるだけ、なのだ。
 実は、死に物狂いで。
 ……苦笑の残ったままで、天を見上げる。
 ザツの顔を見るあいだ、かなり首の角度を、うつむかせているから。
 筋がほぐされるような感覚に、ほぅ、と。知らずため息が洩れた。
 今晩は三日月だった。
 ミッドナイトブルーに、ぽっこりイエローのナイフが浮かんでいる。切り絵のように。
 セミも、だいぶ大人しくなって。
 人通りも少なく、静かな世界。
 ……こんな瞬間は。
 時間を巻き戻し、その地点に自分を返すことなど、簡単なように思えるのに。
 あの長い髪が、指のすきま、ふりはらえず絡んだ日より。前に。

 家に帰り着くと。
「今日はおれが晩飯を作らせていただきます!」と、敬礼するように、ザツが、威勢よく言った。
 ……じゃあ、ということで、任せて、自分はダイニングへと消えた。
 そうして、我ながら救いようのない日常だが。
 現実的な息づまる圧迫感と、たまにジャブのようにやってくる薄気味悪さに――膝をかかえ気味にして、ただ時間を過ごしていると。
 ガコンガコン!……ビタン!
 と、破壊系の音が、響いてきた。
 ……それでもしばらく、放っておいていたのだが。
 ガッシャ! ガツッ! カシ!
 と、やや殴打系に、音がかたむいてきた。
 そのあまりな不穏さに。様子を見に、腰を上げた。
 ダイニングとのしきいの壁に片手をかけ、それに体重をのせて、キッチンを覗くと、『料理中』というのにそぐわないほど躍動している、ザツの上半身が見えた。
 金色に近い輝度の髪が、ぱらぱらと舞っている。
 しかもその後頭部には、黄緑と黄色のチェックもようのタオルの、結び目。
 ……オイオイ、はちまきしてるよ。
 そう思いながら、ザツの体越しにシンクを見下ろすと、ザツが向き合っているなべの中に白い物体が見える。
 どうやらこれを、こねるかなにかしているらしい。
 それでどーやって、あの音になるのかはわからないが。
 シンクの上は、小麦粉まみれ。さすがに床にまでは粉は散乱してないが。
「ふぃ〜。……あ、どした?」
 一段落、という風に。
 手の甲でひたいの汗をぬぐったザツが、労働の爽快感のにじんだ表情で、ふりかえってきた。
「……や」
 この気合いの入りようを、せきとめようとは思えない。
「なんでも」
 長いものには巻かれろとばかり。
 流されるまま、素直に。
 キッチンから頭を、ひっこめた。

 それから更にしばし。
 ドンドン! ガサガサ。ドッドッドッ。
 などと、正体不明の音が響いてきていたが。
 もようでそうとわかる、頭にしていたタオルで、今度は手をぬぐいながら。ザツが、てくてくダイニングへやって来た。
「……できたのか?」
 当然、そう問いかけると。
「ううん、寝かすの」
 と返答がかえってきた。
 寝かす? なにを作ってるんだろう、こいつは。
 ……って言うか、初対面の、腹違いの兄貴の、初来訪の家で、ほんと、何を。
「あれ?」
 そう思いをめぐらすこちらを気にせず、ザツは、キョロキョロと周囲を見まわした。
 ついていないテレビと、雑誌か何かが広げられているわけでもないローテーブルを、確認した後、
「テレビもつけねぇの?」
 目をまぁるくして、尋ねてくる。
「……あ、ああ。つけろよ」
 つけてもいい、というニュアンスで、そう言うと。
 丸くした目のまま、ザツは。
 あきれた形に口を開いて。
「ほんと無気力キャラ」と、こっちに聞こえないように、こっそり毒づいた。
 ――聞こえたが。

 テレビでは、特番シーズンにありがちな、ものまね合戦番組をやっていた。
 お約束的な番組だが、意外にザツは気に入ったらしい。チャンネルをそこに合わせた。
 こちらの向かいの席に、両脚を伸ばして座り、視聴しはじめる。
 ノラの年季が長い、猫のようだ。
 危害を加えられるのではないかという警戒心を、ずぶとさで相殺してしまっている。
「『ご本人』が、登場しねーのの方が、むしろ少なくねぇ?」
 思いっきりほおづえをついているせいで、片頬がつぶれて愉快な顔になっているザツが。
 テレビに視線を注いだまま、いかにもだらだらと、投げかけてくる。
「そかもな」
 あいづちを打っていると、ザツは流れている懐メロ自体にも、
「八時ちょうどの八号じゃマジーのかな?」
 と茶々を入れる。
「……まじーだろ」
 ギャグでも語呂合わせでもないんだから。一応、別れの、こんな歌で、受け狙ってどーする。
 そんな風に、そこそこ熱心にテレビも見ているのに。
 CMの間や、演歌の時など、ザツはまめに、何度も席をはずし。キッチンで作っているなにやら、の面倒を見に行っていたが。
 ものまね特番が、もう終わりかける時間になって、やっと、
「あ、そろそろだなっ」
 明らかに、完成、というのを全身からにおわして。
 いっそう身軽に、立ち上がった。
 あの音のこともあり、監視と言ったらおおげさだが、ついていった。
 キッチンに入ると、あの白い物体が、なんと床におりていた。
 まぁ、そのまま落ちているわけではなく……なんだかぶ厚めのポリ袋に、鏡もちのように鎮座している。
 ザツはまた、タオルをねじりあげ、頭に巻いている。
 はちまきをし終えると、おもむろにしゃがんで。
 ぺらっ。と、そのもちのようなものから、ポリ袋をはずしていく。
 その行動には、がさがさ、という音が伴った。
 それでピンときた。
 ダイニングに聞こえてきた音の、種類の一つ。あの、ゴキブリが台所あさってるような音はコレか。
 そう納得しているうちにも、ザツはポリプロピレンフィルムから出し終えて。
 その白を、両手に、かかげ持つようにしながら、こちらを振り返り、
「めんぼうある?」
 と、聞いてきた。
「めんぼう……」
 ぼそり、復唱してしまった。
 ……これは、まさか。
 まな板の上に、スタンバイOKとばかり、盛大に広げられた、ラップ。
 シンクにある、マグカップに入った、麦茶かコーヒーのような液体。
 その横に、コンビニで買ってきたネギ。
 ザツの手には、水……? で練られた、小麦粉の固まり。
 次々にそれらを、視界に映した。
 つまり。
 やっぱり。
 手打ちうどんだ。
「麺棒……ねぇよ」
 耳そうじの方ならあるけどよ……。
 めまいに襲われているので、自然、不安定な声音の、回答になった。
 だから、初めて泊まる家に、なじみすぎだっつーの。
 男の一人暮らしの家にしては、調理器具は、どちらかと言えばある方だと思う。
 だが、んな手作り用アイテムを求められても、困る。
 途方に暮れたような、黄昏気分。
 ザツは気にした様子もなく、「あ〜やっぱな〜」などとつぶやいている。
 そして、特に困った感じも見せず、
「じゃ、ダンベルある?」
 再び明快に、リクエストしてきた。
「……は?」
 思わず瞬きしてしまった。
 これまた、なんと唐突な。
 つられて、キッチンに入ってくる時に、くんでいた腕組みが、ほどける。
「ダンベルは……あるけど」
 そう、手作りお料理用のアイテムはなくても、それくらいならある。
 むしょうに体を動かしたくなった時、てっとりばやいし。
「うん、じゃ、それ貸して? 一本でイっから」
「…………」
 言われるがまま、後じさるような体勢で、キッチンから出た。
 水色のタオルケットと、灰色のシーツが寝乱れたままのベッド、その下から、少々ほこりにまみれたダンベルを、ごとりと片方だけ取り出す。
 キッチンに戻り、「ほら」と、それをザツに渡すと。
「うんうん、十分!」
 ひまわりのよな笑顔に、なって。
 十キロあるのに、ザツは顔に似合わず、かなりぶんぶんと振り回した。
 そしてその金属製のダンベルを、流し台に持っていって洗剤をつけ、サパー、と流水で小気味よく洗う。
 更にティッシュで水気をぬぐうと、打ち粉もかかって準備万端な、うどん生地ののっかったまな板の所へ、移動する。
 そうして、ダンベルの、車輪のようになってる部分を、片側だけころがし。見事にうどん生地を平らにならしていってしまう。
 けっこう器用だ。
 機転がきくと言うのか……。と言うよりは。
 ……まな板の上で、打ち粉まみれになってゆくフィットネス用品。『強引』というインパクトが、どうしてもぬぐえない。
 ちゃんとできていってるようだから、全然いいけども。
 ふんふんふ〜んッ、と楽しそうに、いつのまにか奏でられている、ザツの鼻歌。
 なりゆき上、じぃっと、徹底したそのマイペースぶりを見てしまっていた。ずっと、つきっきりで。

 ざくざくざく。
 一見して荒っぽい、とわかるほど、おーざっぱに刻まれるネギ。包丁が動くたび、新鮮な匂いがはじけ、濃厚に漂う。
 シンク台の大きめのマグカップの中には、氷が浮いていて、手作りめんつゆらしきものを、強引に急冷している。
「で、最後にポーチドエッグを作ります。黄身とろとろ」
 ぶつぶつ、講師のようにザツは言いながら。
 冷蔵庫をかぱっと開けて、卵を四つ取り出し、シンク台にコロン、コロコロロ、と並べる。
 それから、水をはって火にかけてある鍋のほうへ、近づいていった。
「八十度でやんのがミソなんだよ。う〜んと」
 へぇ……と、また腕を組んで。壁によっかかったまま。
 あいかわらず、傍観していたら。
 ――ザツの次の行動に、驚かされた。
「っおいッ!」
 反射的に踏み出して。
 ザツの二の腕をわしづかみにしてしまった。
「イ、いでで、なにすんだよ」
 不服そうに、ザツはなべから顔を上げる。
「どっ……なっ。……どーいうはかり方してんだ!」
 ほこほこと蒸気を立てる湯面に、鼻がくっつくくらいに顔をつけていた。
 顔の皮膚も、なべに今にもふれそうだった。
 ……激熱になってるなべだというのに、何を考えてんだ。
「てっとりばやいんだもん、コレが一番」
 だから腕、はなせよ、と言わんばかりに、見上げてくる。
 ムカムカした。
 こんな……。そうだ、こんな『綺麗』としか形容できないような、顔をしているくせに。
 白人の血統を存分に発揮して、ミルクのような薄ピンク色の、極上の皮膚をしているくせに。
 なんで本人は頓着せず、こっちが惜しんで心配してやらなきゃいけないんだ、と歯がみしながら、
「……もう、やんな。少なくとも、おれの家にいるうちは、絶対」
 と、握りしめた腕を離さぬまま、とりあえず言い聞かせた。
 するとザツは、きょとん、とした目で、一度またたきをして。
「うん、もー温度わかったから、やんねぇよ? で、卵を入れま〜す」
 さっさと話題を流し。
 こっちの手から、するりと抜け出て。シンク台に並べてあった卵を取りに、横歩きしていく。
 ……だめだ、コレは。わかった、というのは、湯の温度が把握できたってことで、こっちの意図が伝わったわけではない。
 わからせなければ、なんとしてでも、と、なぜかせっぱつまって、眉間に皺をよせていると、
「おたまの中で、はぐくむよーにあっためるのがコツでぇ〜す」
 んなクッキング教室はいいんだよ、と毒づきたくなるような、ザツのはずんだ声が聞こえてきた。
 ますますイライラしながら、それでも、作業をなんとはなしに見守ったままでいた。
 ザツは右手にした卵を、シンクにぱきっと叩きつけ、ヒビを入れる。
 そのままスムーズに片手だけで、湯の中に、卵のなかみを割り入れた。
 左手で支えられたおたまが、なべの中に沈んで、待ちかまえていて。
 そのおたまの範囲だけで。茹でられると言うよりは、白濁させられていく、というペースで、白身が、不透明になってゆく。
 ふわふわくるくると、湯の中でゆらぐ、白身につつまれた黄身。
 そうして感覚的には、あっというまに卵は引き上げられた。
 火が通ったたんぱく質の匂いが、鼻をくすぐった。ぷん、と。
 ――カラになっている胃袋のあたりに、なにかの刺激が走った。
 痛みほどはっきりせず。かゆみほど、衝撃がないわけでもない。
 反射的に、そこに手のひらを当てていた。
 ……あれ……おれ。
 腹が、減っている?
「で、冷水で、軽く冷やし〜」
 ザツの解説が、またして。反射的に、そちらを横目で見た。
 あいかわらず、楽しげに動いている、ザツ。
 それを目に映しながら。
 のろのろと、胃の上から、手をはずした。
 まさかな……。と、考え直す。
 だって、食欲がわくような、健常な状態でもあるまいし。

 てまひまかけた麺が、多めの新たな湯が沸騰してるなべの中に、ぱらぱらと指でほぐし落とされていく。
 沸騰で自然、起こる対流と、ザツが箸でかきまぜるのに導かれて。おどり、ふくふくと茹で上げられる。
 ……やがて、タイマーも何もしかけていなかったのに。
 ザツが唐突に、ざばっ! と、なべの中身を、全部、シンク内のざるにぶちまけた。
 追って勢いよく出した水道水で、ざばざば、と、手首をかえし、乱暴に麺を素手でかきまわしていく。
 そこから先、ザツの両手は、通過する台風のようだった。
 スピード命、と体言するように、かちゃ、かちゃん! と、シンクに二枚の蒼い深皿を並べて。
 手づかみで、丸めるように、二等分に冷やしうどんを盛りつける。イキのいい水滴が、ピチャとはたかれたような音をたてる。
 どかしてあったまな板を持ち上げ、その上のきざみネギを、包丁で払うようにそれぞれに落とす。
 開封してあった袋から、刻みのりも、ネギと同量程度、ぱらぱらとふりかける。
 次いで、つまみの小袋を手に取り、
「ちょっと大粒すぎっからな〜」
 と言って。
 手のひらで、わしっ、わしっ、と、袋ごと、揉み始めた。
 ばきばき、乾燥した菓子が、砕かれていく音。
 ……強引なアレンジだ。
 ザツはしばしそうしてから、そのなかみを、深皿にあけた。
 小粒で薄い揚げせんべいが、更に多少、細かくなった姿で、ザザザッ! と、うどんの上に転がり出てくる。
 ……これは適量……なのだろうか。あんまり厳密に目測してやってるようにも思えないが。
 やっぱりいーかげんに、これまた双方に、それを激しくほうりこみ終わって。
 繊細さを母親のお腹に忘れてきたしぐさで、さらにザツは、マグカップからめんつゆを、ざぱ、ざぱっ! と、それぞれの深皿に、等分にぶっかけた。
「でっ……と」
 くるっ、と踵を返して、冷蔵庫をカパッと開く。
 練りわさびチューブをひょいと取り上げ、またシンクに向かう。
 フタをねじりあけ、少量、チャ、プチャ、と、素早く皿のふちにひねった。
 そして冷蔵庫に、すぐさまわさびを戻す。
 そこまでの全工程を終えてから。
 ザツは、深皿をまず一個とりあげ、ガシャガシャと箸でかきまぜだした。
 ……その大胆さ、ダイナミックどころの騒ぎではない。
 見てるぶんには、ふちからこぼれでるかと思った。
 一皿目をまんべんなくかき混ぜて。よっ、と言いながら二皿目も持ち上げ、同じようにしだしたが。やっぱりハラハラする。
 だが、うずまき状に箸が動かされているために、麺にからみとられる具は、綱渡りな状態で、二皿目も結局はみでることはなく。
 かきまぜ作業終了と同時に、やっとザツの両手は止まった。
 ……と思ったら、今度は白い靴下の足が。パタパタと動き出し、できあがったうどんの蒼い深皿を両手に、ダイニングのテーブルの方へ小走りに行く。
 すぐに帰ってきて。今度は、トッピング用なのであろうポーチドエッグとかいうものが二つずつ入った、それぞれの小鉢をまた持って、タッタッタと、ダイニングとキッチンを往復していく。
 かいがいしい、と、言えなくもないが。
 どちらかと言えば、ザツのそんな食事準備風景は全て、にぎやかで、微笑ましい感じが強かった。
 ……はっと気がつくと。
 キッチンはシーンとしていて、自分の視界に、ザツの姿は完全になかった。
「もう食えるよ〜」
 当の本人の声は、しきいの壁越しにダイニングから、呼びかけてくる。
 ……あ、どーせ見てんなら、運ぶのくらいは手伝ってやりゃあよかったか。手ぇ出すヒマもなかったけどな。
 そう思いながら、だるく、体重をかけていた壁から、身を起こした。
 ダイニングに踏みこむと、ローテーブルに、食事が並んでいた。
 うどんの蒼い深皿と、卵の入った小鉢。汗の浮かんだガラスコップの、氷入りの冷水。
 ……まとも、な、食卓。
 数ミリの違和感を覚えながら、もう座っているザツの対面に、あぐらで腰をおろしかけた。
 その中腰の体勢の時に、
「召し上がれ、讃岐うどん!」
 ザツが、両腕を広げて。
 テーブル上の料理披露しながら、誇らしげな笑顔、を、放出してきた。
 無邪気さに。思わず、目を奪われる。
 ……だが。
「讃岐風だったのか……」
 やや茫然としながら、腰をおろした。

 さすがに手作りなだけあって、うどんがつやつやと、水気で電灯にキラめいている。
 蒼い深皿を左手にとって、箸をつけた。
 ずぞずぞずぞ、と一口分、すする。
「…………」
 おいしい、と思ったわけではなかった。
 やはり、味は茫洋と。よくわからないままだった。
 それでも、せかされるように、すぐに、二口目を口にしたのは。
 なんと言うか。胃に優しい、無理のない、うどんというメニューだったからかもしれない。
 清水のように、無理なく。
 口に、歯に、腹に入ってくる。
「あっ、コレのっけねぇと、意味ねって!」
 ザツが唐突に、そう咎めてきて。
 小鉢を近づけてきて、箸で、ぽいぽい! と、ポーチドエッグとかいうものを、うどんの皿にすべり落としてくる。
 ……思わず、そのうちの一つを、箸でつまむ。
 プルプルと、今にも、火が通っていない黄身の重みでやぶけそうに、震える。
 白身は完全に固くなっていて、黄身は半熟未満なほど半熟だ。
 なんじゃこりゃ、と思って観察していると、ザツが食べながら、口を開いた。
「揚げ卵、作れればよかったんだけど。まだイマイチ習得してなくってな〜」
「あげたまご?」
「そっちの方がうまいんだ〜うどんに油っぽさが合うから。油で揚げたえびせんでおぎなうのは、比べたら、邪道」
 そう言って、またモクモクと食いはじめる。
 ……なんだか。
 よくまぁ、卵ひとつに、こんな手間をかけようと思えるものだ。
 確かに黄身は半熟、白身はなまの部分なし、という卵が、自分だって一番好きだが。
 多少、白身がなまっぽかろうが、カッタイかちかちなゆで卵だろうが、腹におさめるだけなら十分だろうに。
 しかし、うどんをねってたくらいだから、凝り性に決まってるのか。
 だけど、あの見ていた料理手順には、随所に、繊細さが欠けていた。まさに『男の料理』という風だったのに。
 そんなことを思いながら、はぐり、と、卵のはしに噛みついた。
 どろり、と黄身が流れてきて、あわてて全部を口に入れてしまう。
 ……手間をかけていただけあって。
 不満のない、ものだった。
 あくまでどこまでも、ふるふると軟らかく、しかしヘタな半熟の鼻水を連想させるような、白身部分がない。
 あいかわらず、味覚ははっきりとしないが、『美味』なのだと思う。
 ふ〜ん、と思いながら、再びうどんをすすった。
 黄身の濃厚さが舌に残ってるせいで、思いがけぬほど、変化した角度で舌にくいこんでくる。
 太い、としか言いようのないほどの、しこしことした極太麺。このでかい口も、すぐに満たすほど、一本一本にボリュームがある。そして、素朴な麦の味。
 少量だが、濃い目のぶっかけつゆ。おそらく、これも妥協せずに自分でつくったのだろう。強いかつおの薫に気がついた。
 微妙にめんつゆがしみこんだ、揚げえびせんの粒。昔、修学旅行で、ぬれせんべいというのを食べたよな、と思い起こした。そんな、ぱきぱきした噛みごたえ。衣からじゅわっと油が出てきて、淡白な炭水化物の味に、ねっとりとしたものを添える。
 鼻に抜けていく、ごく微量のわさびの風味。
 青々しいきざみネギと、しょうゆつゆをたっぷり含んだのり。
 ……ろくなモンが入ってないはずなのに、だし、辛味、油、ネギやわさびの香り、もっちりとした食感、すべてがちゃんとハーモニーとしてまとまり、口に有無を言わさず広がる。
 芳醇なあじわい、とも表現できそうなほど。
 ふと我に返ると。
 深皿には、あと五口ほどのうどんが、すみに残るだけになっていた。
 ……惜しむような気持ちがわいた。
 食べ切ってしまうのがおしくて、スローペースに。一本の半分くらいずつ、口に放りこみ、嚥下していくような食べ方になる。
 食物を摂取している、という、生き生きとした実感。
 ……そうか、そういえば、食物、ってこんなもんだっけ。
 夜が明けたから食わねぇと、日が暮れてるから食わねぇとと、最近そんな感じだった。
 ゼリー飲料で、一日を済ませることも多かったのに。
 ……ついに、つゆで貼りついたかやくが、皿にこびりついているだけになった。
 箸を、うつわの上に置きながら。
「ごっそ……さん」
 殊勝に、そう、締めくくる。と。
 もう食べ終わっていたザツが、
「うん」
 と言い。続けて、
「うまかった?」
 と、ことん、と、小首をかたむけた。
 瞳が、なごやかに細められている。
 ……またちょっと、通常と印象が違う。
 年上のような。母親のような。癒す、ような。
 コクリ、と頷き返すと、
「またつくる?」
 短く、ザツが、尋ねる。
 長くしゃべることが、今、この数分間だけ、禁じられているみたいに。
 おもちゃ箱の人形が、真夜中にだけ動き回れるという、おとぎ話の雰囲気に似た、気のせいの魔法……。
 どこまでも、暖かい夢に、まどろませようとする。
 ザツの、雰囲気。
「……うん」
 返事をすると、ザツは、瞳をますます細く、たわめて、
「じゃ、あらためて、しばらく」
「お世話に、なります」と。わずかに。今までとは逆側に、首をかたむけて。笑いかけてきた。
 サラ、と、こんなかすかな仕草でも、髪の流れる音。
 八重歯ぎみの犬歯が、チラ、と、のぞいて。
 ……ザツの背後には、窓。
 紺色の夜色に。
 数時間前に見た時より昇った、オレンジがかった三日月。
 猫かぶってるように、穏やかでおとなしげな。ザツのにっこり顔。
 見慣れて、なじんだ部屋に。
 そこだけ、何かを飾ったかのような、新鮮さがあった。
 どうも……ちょっと日常で見かけないほどの。
 汚点を見つけられない顔立ち、風変わりで文句なしに綺麗な、髪と目の色の。
 初対面の男の子。

 ――前に、デパートで見かけたポスターが、ふいに記憶からころがり落ちてきた。
 通路のはじまりからおわりまで、果てなく展示されていた、同じ画家のポスター。その世界観。
 通りすぎながら、なんとなく眺めただけだったが。
 部屋を、コポコポと深海の一部に染め上げてしまうような雰囲気の、ポスターばかりだった。
 海にさしこむ、弱められた日の光。
 その源を目指すかのように昇っていく、大小の球形のアワ。
 水中での水の動きをあらわす、布の皺のようなモアレ。
 悠然と仲間をひきつれておよぐイルカ。
 その、知性と優しさのある、癒しの丸い漆黒の瞳。
 ガラスの海底トンネルを抜けるように、同じ世界がとぎれることなく続いていた。
 急いでいたし、買わなかったが、後から買っておけばよかった、と思っていた。
 ……目の前の『人物画』を、そう、同じイメージのものと、心の位置にあてはめた時。

 ぱきん。と。
 小枝を、踏んだような音が。
 内側で、した。
「…………」
 思わず、反射的に。左胸、心臓の上に、右手をあてていた。
 なにか、一枚。
 世界が鮮明になったような気がした。
 味覚も。視覚も。
「……ああ」
 タイミングが遅すぎて。
 返事だったのか、感嘆だったのか、自分でもわからなかった。
 けっこう。
 楽しいかも……しれない。
 こいつとの、同居生活は。

 ◆

 ガッチャ。
 という、どこかのドアが開く物音。
 はっ。と、勝手に、自分の目が見開かれる。
 薄闇色の中の、ついていないテレビ、コンクリートの壁、綺麗に片付けられたローテーブル。
 それらが、順々に突然に、目に入りこんでくる。
 ビクリッ、と、異常に反応し、波打っていた身体が。また静止へと、沈みこむように落ち着いていく。
 ……あれは……浴室のドアの、音だ。
 時刻は深夜近く。
 ザツが風呂に入っていた。
 そうだった。
 ……はぁ、と、息を吐きながら、ひたいに手をあてる。
 ひたいも、あてた手のひらも、汗ばんでいる。冷や汗で。
 玄関を入って、右がキッチン、左がユニットバスの、この部屋の間取り。ザツの姿が、ゆらゆらと、キッチンに近づいていくのがわかる。
 やがて、キィ、……カコッ! パッタン、と、冷蔵庫を開けて、何か取り出し、閉める音が、して。
 ダイニングに、シンプルな白Tシャツと、赤と黄色のチェックのパンツな、ザツが現れた。……パジャマらしい。
 ガシガシ、と、首にかけたタオルのはじっこを持ち上げ、片手で頭をふいている。
 まるで見せつけるように、髪が散りふりまかれて、玄関のライトからの逆光に、光る。
 膝をかかえるようにして、自分の前の床に、座ってきた。
「ビールもらっていー?」
 ザツは左手に、銀色の缶を握っていた。ニカッとして、こちらに示す。
「ああ……」
 いまだ、冷や汗にふさわしい、氷塊のような冷たさをかかえて、跳ねている心臓。
 そちらに気をとられていて、惰性で返事をした。
 だが、砂粒のようにかすかな、違和感が、脳をかすめた。
 ……わずかに、眉間に皺を寄せる。
 ひっかかったそれが、
「……十五」
 明確な数字で。
 口をついて出た。
 しかし、ザツは悪びれず、
「いいっしょ?」
 モロに甘えた目で、ダメ押ししてくる。
 はいはい勝手におし、と諸手を上げたくなるような。
「……どうぞ」
 迷ったのは、ほんの数瞬だった。
 たいしたことじゃない、上に。
 親ではないし、兄という実感も、ほぼナシなのだから。

 ぐいっと、豪快に上向く、ザツのあご。
 絶対にコイツは常飲している、と確信できるペースで、ごくごくと喉が鳴る。
 いかにも旨そうに細められた瞳は、充実した獣の至福で、じっとり濡れていて。
 ……タバコもついでに吸い始めないだけマシか。
 そう思いながらぼんやりと、さらされている、喉仏がまだ目立たない、白いのどぶえを見ていた。
 半分くらい一気に飲んだあと、ぷは! と、ザツは息を吐いた。
 ……はた、と目があった。
 本日何度目にかに、こっちは気まずい気分におそわれた。目が合いすぎる。しかもがっちりと固く、絡みあいすぎる。
 コイツ相手なら、特にヘンなことではないと思う。
 あっけにとられるような風貌と、生きいきとした多彩な表情、おまけに、芸能人のオーラ、というやつも……受け継いでいるような。
 そんなザツを、感嘆するような、呆けるような気持ちで、無自覚に目で追ってしまうのは、自分だけじゃないだろう。
「あのさ〜」
 ……このように。
 慣れっことばかり、硬直した雰囲気にぜんぜん無頓着に、口を開けるザツの様子からも。それはうかがえる。
 続きをうながすように、まぶたを一度、おろしてみせた。
「そろそろ、寝てもいー時間なんだけど」
「あ? ああ。オヤスミ」
 ふぅ、とため息をつきつつ、うつむきながら、そう返事をした。
 手を、こめかみのあたりに当てて、頭部の重みを支える。
 ぐしゃ、と潰れる、汗が残っていた、短い前髪。
「あの〜」
 なんの脈絡もなく。
 ザツがごそごそと、両脚をたたみ。ちんまりと、正座した。
 そのまま、チンチンをする犬のように、何かをねだる目で見上げてくる。
「どこで寝ればよろしいでしょうか」
 ……そう言われて、やっと気がついた。
 客用のふとん一式、などない。
 ソファーもないから、上にかけるふとんだけあれば、という問題でもない。
 必然的に、ベッド以外に寝かすなら、フローリングに雑魚寝だ。
 しばし、まばたきして、考慮した。
「……ベッド、でいいだろ。一、二泊じゃすまねぇみたいだし」
 そして、腕を持ち上げて、唯一のベッドを指さした。
 買うのを最後までためらったほどの、キングサイズ。
 体がでかいので思い切ったのだが、完璧に、寝室にしてる部屋のヌシになってしまっている。他の家具をほとんど置けなかった。
 あの広さなら、二人でも、そうそう気にしないで眠れるだろう。
「えっ、いいの!」
 わーい、と、両腕をあげて、ザツは大喜びする。
「優しいなぁ、おまえ」
 惜しみない、咲きほころぶような笑顔を。ザツがぶつけてくる。
 映画の一シーンかなんかでもおかしくない。セリフまで綺麗。
 あいまいに、首をかしげてしまった。
 ――真逆なセリフをぶつけられることに、さんざん耳慣れていたせいで。
「…………」
 まぬけにもう一度、首をひねってしまった時。
 ザツが、よいしょっ、と反動をつけて、立ち上がった。
 首にかけていたタオルをほどいて、パン! と両手で伸ばす。
 そうして、さっそく一歩、二歩、ベッドに向けて、歩き出しかけたが。
 その場で立ち止まり、くるり、とふりかえってきた。
「アケル、寝ねぇの?」
「……ああ」
 そう、短く肯定すると。
 ぱち、ぱちり。と。
 ザツが、軽く、まばたきした。
 連続して隠される、脆い琥珀色の、瞳。
 ……またペタペタと、裸足の足で戻ってきて。こちら前に、しゃがみこんだ。
「ビール持ってこよか?」
 ピクとも動こうとしないこちらに、かまってくる。
 いや、と頭をふって示すと、
「そ〜んな風にじっとしてっと、そこでそのまま落ちちゃうよ?」
 おどけて、くいくい、と……可愛く、袖を引いてきた。
 だるく、うなずいた。
 それならそれでもよかった。
「めんどくさがり……?」
 そう呟きながら、のぞきこんでくるザツの目が。
「っつーより、ちょっとビョーテキよ?」
心配そう、に、シフトした。
 ……って、びょーてきって何だ?
 あ、病的か。
 ……まぁ、こう一日中、何をしているようにも見えない状態をさらしているのだから、妙だと思われて。当然だろう。
 実際何もしていない。
 ただ、無駄な思考を組み立てては、ペッキリ折れてしまう。そのくりかえし。
 それでも、何も手につかないのだから、しょうがない。むりやりフラフラと動いてみて、ケガしたり、絶叫したくなったり、歯をくいしばって泣きたくなったりするよりは、こーやってんのがまだ、一番マシだと、最初の五日間ほどで気がついたのだ。
「さっきも思ったけどさ〜。カレンダーもなんにも壁にねぇのに、じーっとそこ見てたり、死にましたみたいにうつむいてたり、……時間、必死に流してるカンジだから」
 ……鋭い。
 くす、と。歯列のすきまから、多少いきおいを持って、自分の吐息が洩れていって。
 あ、笑った。と。
 自分で、意外に思った。
 自覚するほど笑んだのなんか、どれくらいぶりだろう。
 ……言われたとおり、自由時間が、広がっているのに。それはじんわりした苦痛にしか、今のところ、なっていなかった。それでも、ハッキリとした地獄よりはマシなんだが。
 何かに集中して、恐怖を、まぎらわしてしまいたいと思うことはある。
 遊びでも、酔いでも、セックスにでも、なんでもいい。
 とにかく忘れさせてほしい、と思うことも。
 ……でも。なんにも。
 ほとんど一瞬だって、忘れさせてはくれないのだ、やっぱり。
 この、首のうしろが、チリチリとこげているような、なのに寒い感じを。
「うん……なんでもねぇよ」
 たはは、と笑い続けながら、ザツをはぐらかそうとした。
 するとザツは、眉を、むずかるように、キュッとしかめて、
「でも、悩んでんだろ」
 と、追及してきた。
 ザツの顔を見下ろしていた、顔面を、天井に向けて。
 さらにあごを上げて、壁に、頭を押しつけた。ゴン、と壁を頭で叩いた音が鳴り響く。
「……自業自得、だろしなぁ……」
 逃げられるもんなら逃げたいが。
 どーにもならなそうだから、煮詰まってるわけで。
 袋小路。
 これだけ一つのことばかり延々考えて、いつも『後の祭り』という結論しか出ない。
 ……だから、誰に何、言っても。
 後頭部を、再び、ごつん、と壁に押しつけた。
 ふぅ、と、ため息をついた。
 少し、喉の渇きを覚えた。
 視線が下がり、雫をたらす、ザツの手中のシルバーへ、ちらりと走る。
 すると、ザツが、ん? と、目の色を、ひらめかせた。
 物欲しそうな視線に、目ざとく気づいたようだった。
 スック、と立ち上がって、グッ、と、片手をこぶしにし、胸のあたりで突き出した。
「おし、体育会系の先輩後輩だ」
「ハ?」
「あるいは、修学旅行の夜」
 わけのわからないことを、並べて言い捨てて、パタパタ、と、キッチンに走っていった。
 その行きがけに、蛍光灯のスイッチをパチリと入れていったせいで、室内が明るくなる。
 帰ってきた時には、未開栓の、自分の二缶目を持っていた。
 そしてもう一本。
 ……それは、こちらの手のひらのなかに、落とされた。
 おっと、と、あわてて握りしめると、
「ハイ。語り合って、仲良くなりまショ」
 カコン、と。お互いの缶が、ぶつけられてきた。
 ささやかに鳴る、チープな音。
「んで〜。手はじめに、おれらの甘酸っぱい青春共通話題っつーと〜」
 どすん、と、豪快に、腰をおろしながら。
 ザツは、思案顔で、宙を見はじめた。
 その、視線を漂わせた状態のまま、ぐびり。と、新たな缶を、遠慮なしにやる。ぷは。と息をつく。
 そうとう至近距離にいるせいで、ぷんとザツからかおってきた。ホップの香ばしさ。
 ザツは、言葉を、とぎらせたまま。
 膝を、たぐりよせるように、両腕でかかえて。
 すりつけるように、自らの膝小僧に、頭を寄せた。
 くしゃりと、なんの抵抗もなく乱れる、鳶色の頭髪。
「……やっぱ、捨て子トラウマ加害者な、共通のオヤジ?」
 予想外なことに。
 わずかに、寂しそうに、笑った。

「……そんなもんか」
「そ。だから、あの騒動以降のが、ぜんぜん親子っぽい。それまでは多分、アケルと同じくらい、父親の顔知らず、だったんじゃねぇ?」
 付け加えて「母さんと、寝に会ってはいたみたいだけど」と、どこかソラ恐ろしい事を言いながら、また、ぐびじゅ、と、一口、黄金色の液体を、ザツはすする。
「反発、なかったわけか?」
 適当に、こちらも杯をかたむけながら、そう聞くと。
 ケケケラ、と、ザツは、笑い飛ばすように、声を転がした。
「アケルはあるみたいだもんな〜! ま、おれも、あったし。あんだけど?」
 酔いがまわってきたのか、ほんのり赤いような気もする、ザツの耳。
 その耳のうしろを、ポリポリ、といじった。
 弾力のある耳のなかの軟骨がはじかれて、耳の先が、ピンピン揺れる。
「ちょっとね〜。ごまかせないくらい、好きなのね」
 サラッとそう言われて、目を剥く。
 ……まさか、父子でそーゆー。
 いやでも、こいつアイドルみたいな外見だし。
 いやでも、そんなわけは。
 と、内心うろたえていると。
「おれも音楽好きでさ。父親として、のおれへの態度っつったら、ま、失格だったと思うんだけど。尊敬とか、やっぱ、あって。性格も合っちゃってさ?」
 妙な動揺を片づけるように、語ってくれた。
 ――あァ、よかった。
 廃油の浮いた海の、夜の波のように。ひた、と足元に寄せてきた疑惑が、さっさと撤退していくのを感じて、ほっとしながら。
 ……しっかし。ホントにあけすけと言うか。どーいうのかね、コイツは。と思った。
 ふつうこんな年になって、父親のこと。なかなか、好きだとか。まして尊敬してる、なんて、言えないと思うんだが。
 でもまぁ、なんかコイツなら、言いそうか。
 そう、この数時間で観察した、相手の人物像から。
 納得へと思考が流れてしまって。
 ふと、クッキリと、思い当たった。
 ――なるほど。『ザツ』なわけだ。
 料理のしかたも。未知の相手のテリトリー内での態度も。自身の内面のコンプレックス、およびその原因への態度まで。
 しがらみがなく、とらわれない。
 ……ちら、と、また、目の前にうずくまるソイツを、見てしまった。
「ん?」
 しっかりと、また視線がかち合う。
 ふ、と、なんとなく、瞳だけで笑ってしまった。
 体の末端が、ぽかぽかとする。リラックスを、かすかにでも、手ごたえとして感得する。……酔いがまわってきたかもしれない。
 わずかな心地よさ。ここのところ追い詰められてばかりだった自分からしたら、最高の贅沢。
 うん、まぁ、コイツは。
 多分、誰からも好かれやすく。
 おれも、好く、タイプなんだろう。
 これだけ拒否しようがないほど身近にいても、おまけに初対面なのに。イヤにならねーっていうのは……すごいから。
 いくら、おれもひきこもりっぱなしで、いーかげん寂しかった、っつったって。
 ……ザツは、きょとん、と、見上げてくるまま、目をそらすことなく。視線を絡ませたまま、ズズズ、と、ビールをすすった。
 わずかにびっくりしてるように、目がきょろついているのは、こっちが勝手に一人で笑っているからだろう。
 また首にかけている、風呂上がりのタオルが、もこもことその首元を彩っている。
 泊まりにくるの、これで十度目です、と言われても信じれそうな。無防備とおりこして、なじみすぎた姿。
 くすくす、と、もうすこしはっきりと、息にあらわれるほどに笑うと、ますますザツが、珍しいものを見ているように、目を大きくする。
 そのさまも、えさを差し出された野生動物のように、愛嬌がある。目の前の『弟』は。
 ……奇跡的なほど、極上な気分になれていたのに。
 ……忍びこむように。
 心が、ざわめいて、しまった。
 ――泊めると決めた時。
 ついでに、実は尋ねかけていた事。
 だけど、それにはその時。数時間前にだ、フタをしたのに。
 視界の中心にある、リラックスや笑顔を誘う、弟の姿に。フタがかたつき、ゆるむ。
 聞いてしまいたくなる。
 こいつは絶対。嘲笑はしないだろう。
 ――すぐに、相反する思いが、その気の迷いをつぶそうとする。
 昔のことだ。
 それにおれはもう大人で。
 だいたい、望んだ答えを得たとしても、それでどうする気だ?
 だが、ザツは、何か言いかけそうになったこっちに、感づいてしまったらしい。
「なに、なによ」
 陽気にうきゃきゃ、と、親しげな笑い声をあげながら。
 ずりずり尻で前進し、身を寄せてくる。
 スキンシップも、過剰タイプらしい。
「ほれ、吐け。ゲロれ」
 遠慮なしに、つんつん、と、つま先でふともものあたりをつついてくる。
 やっぱりまだ、子どもの残る、そのぷくぷくとした、三角形のライン。
「…………」
 ビールをさっきも一口、飲んだのに。
 少々、喉が、ひりつく。
 舌をぺろ、と出して。下唇を、湿らせた。
「ひょっとして」
 ようやっと切り出しかけて。
 あ、と気がついた。
 ……話題としたい人物を、どう呼称していいかわからない。
 父さん、というのなんかイヤ、と言うよりも変だし。
 オヤジ、というのも馴染まなくてもっとアレだ。
「あ〜っと」
 目線を天井に上げ。
 ぐるぐると、意味なく左右上下に泳がせた。
 缶ビールを、上からおおうように手で持ち直した拍子に、親指の先が、ずぼりと、開いたプルトップの穴の中にはまってしまった。
 ……そんな風になってしまいながらも、口からは。
「ここに来たのって、ひょっとしたら」
 つらつら洩れていた。
「……アイツに言われてか?」
 情けない。心細い。
 子どもに還元されていってしまうような、気分。
 ひとつ、音声を唇から出すたび、桜ふぶきが散っていくように。そう錯覚していった。
「マスコミがあっちにも行ってるかもしんねーから、ようす見てきてくれ、とか」
 しゃべりながら。顔を、ザツに向けて。下げた。
 ……じっと、こっちに瞳を向けてきていた。
 首がちぢまっているその座り姿が、幼い。
「面会とかで、さ……」
 問いを続けながらも。
 見てきてる瞳に、もう返事はされていた。
 困ってる。かわいそうだと思ってる。なんて言っていいかわかんねぇなァ、と思ってる。
 そういう、目。
「……そ、か」
 自分より三割ほど小さい、相手の姿から、目をそらす。
 後悔の後味は、苦いと言うより。
 やーい気になんかかけられてねぇよバァカ、という……恥、に近く。
 やっぱり。
 口に出すんじゃなかったなー、と思う。
 いまさらで。おまけに望み薄だと、わかりきっていたのに。
 馬鹿馬鹿しい。
「…………」
 ザツが。
 なぜか、拗ねたような様子になってしまって。
「ぅ〜」
 カシカシ、からっぽになった缶ビールに、爪を立てている。
「ごめん、ってのも……なんか」
 胸の前で揃えていた、両のひざこぞうを、左右に開いた。崩れたあぐらの体勢になって、さらに前屈みに、その優しいラインの背を丸めた。
 苦悩するように。
「シツレーっつーか……。なんでおれが? とか……かえってムカつかねぇ? みたいな感じもすっし……」
 脳のなかに駆け巡ってる言葉、全部、開いて見せるように。
 ぶつぶつぶつぶつ、と、とめどなく。ザツの、桃色の小ぶりな唇が、動く。
 ……ザツとアイツの関係は、そこそこ良好なようだから。
 この現状の空気に対するスタンスを、決めかねているのだろう。
 おんなじ隠し子の立場なのに、良好。たって、それはザツの、くったくのなさのせいだろうから。
 自分にこうやって、なんの因果も感じさせず、友達のように接してくるように、アイツにも接したのだろう。後ろめたい父親が、それにホッとしなかったわけがないだろうから。
 だからその良好さは、ザツが、ザツならではの個性で、手に入れたもんで。
 ――自分にはできなかったし、これからもできそうにない事だ。
 そういうわけで、もちろん、ザツをうらやむような気は起きなかったし。
 ザツからアイツの代わりの謝罪も、アイツの弁護も、してほしくもなかった。おりしも、ザツが悩んでるとおりに、どっちも筋違いだ。
 別に、それをきっかけにしたザツの来訪であってほしかった、と、切望して言い出したわけではなかった。
 ただ、もしも、そうだったら……。
 息子として、心のどっかに留めておいてくれたのなら……。
 ほのかに、嬉しいような気が……。
 ってそれって期待してんじゃんなぁ。
 あおった缶ビールから唇をはなし、自分にあきれて、ため息をポフッとついた。
 別に、特にアイツが……あの男が。
 好き、ってわけではないんだが。
 ただ、父親というもの、それから受けられるはずの恩恵を、かなりの部分まったく受け取りそこねて生きてきた自分が。なんか、損したな、という未練が、ぬぐいきれてなくて。
 いまだにこーやって、取り返せねぇかな? と、誘惑される事があるだけ。
 ――どっちからでも、いーから。
「……いんだよ」
 そう、語りかけると。
 ぱっ、とザツが、頭と目を、上げた。
 ほんの少し眼球が、特に目尻や目頭のあたりが、アルコールで充血している。
 ……強がりは見抜くぞ、と、その瞳が、叩きつけてきているような気がして。
「いいんだよ」
 意識して、笑顔を作って。
 安心させられるよう、ザツに向けた。
「おれは、……グレーだから」
 それは、一歩まちがえば、あの大物芸能人がその気になれば。
 訴訟沙汰になるような『秘密』を、話す準備となるキーワード。
 自分に深く食いこんでくることを、ザツに許可し、強要する。
 前哨の鐘のようなもの。
「グレー?」
 オウム返しに問いかえしたザツに、うん、とうなずいて見せた。
 残り少なくなっていた一缶目を、ごくりっ、と、喉にほうりこんで。
 床を見ながら、つけ加えた。
「濃いめの、な」

 物心がつく前。
 父親がいないとは、思っていなかった。
 顔がそっくりな同居人がいたからだ。
 シャープな顔の輪郭、太めのまっすぐな眉に、きりっと上がった眼。どこをとっても、自分にそっくりで。年齢もぴったり。母親とあきらかにできている。これで父親と思わない方がどうかしてる。
 母親がたまに、強制的に電話口に呼びつけ、会話させる『おじちゃん』のことは、そのまんま、どっかの親戚かなんかだろうとしか思っていなかった。
 もう少し年長になると。その同居人は自分の父親として世間に認知されてないらしいとか、外泊が非常に多く、別に自宅があるらしいとか、……っていうか自分を養っているのは『おじちゃん』の方であるようだとか、だんだん、わかってきて。
『同居人は、離婚後の、第二の夫?』くらいの見当は、つけるようになった。
 その予想は、振り返ればかわいげがありすぎた。なんつーか、マトモすぎた。
 決定打は、三人そろって、いい牛肉ですき焼きを食べた、まれに見るほど平和な晩に。
 母親が風呂に入ってるとき、べろべろ酔った同居人から、もたらされた。
「おまえ生まれる前からつきあってたけどね〜」
 ひとさじの劇薬のような。
 ふだん抑制されている悪意が、泥酔に押されて、出てきてしまったような、宣告。
 ――そこそこ、世界がヒビ割れるような、衝撃があって。
 翌日、母親を問いただした。幼い真摯さで。やっぱり同居人がおれの父親なんではないか、と。
 母親は、「確かに生まれる前も少し、つきあってはいたんだけど」と言って。
 それはもう、隠しようもなくズルさの見える目で、
「でも、あけるくんは、おじちゃんの子なの。その時はおじちゃんとしかつきあってなかったんだから、まちがいないのよ? でも、……なるべく、おじちゃんには。ほら、今もママのこと好きだったら、おじちゃん嫉妬するかもしれないし……。そういうこと言わないのよ、ね?」
 ――うわぁ、タチの悪ぃドラマみてぇ。……と思った。
 その頃には、セックスのなんたるかが、どこにナニつっこむかまではおぼろげでも、だいたい理解できていて。
 母親は自分の子が絶対わかるけど、父親はわからない、そのメカニズムを知っていた。
 酔いにまかせてのとはいえ、証言まで取ってある。
 ……ちくしょう、と思うしかなかった。何に対してなのかはわからぬままに。
 どっちの子がわからないのに、養育費を受け取り続ける恥知らずな母親も。
 都合のいい時だけ家族ヅラして居座る、父親未満な男も。
 そのいびつな構成の中心にいる、無力なガキの自分も。
 ずっと、引きずって、育っていってしまうことになった。
『誰の子かわからない』という、ありがちなジョークは、へらへら笑ってごまかそうとしても――まぎれもない基底不安だった。

「……だから、アイツ、よく養育費、払い続けてくれたモンだよ。うすうすは自分の子じゃねーかもって、わかってただろうにな」
 だんだんクダを巻く口調になってきたのを自覚しながら。
 缶を、惰性的にかたむける。
 そういうわけで……あの大物芸能人に寄せている、おれのうらみは。
 少なめに見積もっても、半分は言いがかりなのだ。
「理想は……」
 遠くなる目線を、うつろに彷徨わせた。
「DNA鑑定かなんかで、誰の子なのかハッキリさして……。その父親に、しっかり親してほしかったんだよな」
 今となっては、完全にないものねだりだ。
 チャプン、と。二本目に、三割ほど残った液体が。ふりこのように手のなかでもてあそぶアルミ缶のなかで、移動して音を立てた。
 ザツが、膝下を交差させるように、たたんだ脚をかかえなおした。
 はだしの指が遊ぶ、足先を重ねながら、
「ま、誠意も情もあんまなくても、気前はよいとこがマシな『種馬サン』だったじゃんな?」
 わりと仲良いはずのわりには、過激に。共通の父親を、評価する。
 ……普通なら、自分のことを、他人に、こんな風に断ぜられて。
 ムカつくかもしれない。でも。
「お互いな?」
 左手に持つ缶を、乾杯を求めるように、こっちにつき出して。
 ザツは、ウインクに片足つっこんで、片足は逃げてしまっているような。単に目もとをしかめているようにも見えてしまう表情を作った。
 はげまし、おどけている、その顔は。魅力的ではあって。
 ――そう。同じ人物から、同様にハンパに捨てられた、立場。
 おんなじように、はばかられる、みたいな存在で。かなりナチュラルに、汚いもの見るように見られたりもして、成長してきた。おそらく。
「…………」
 自然に、利き腕をのばしていた。
 くしゃり。犬猫にするように。
 ザツの前髪を、握った。
 ――シャレに混ぜた、なぐさめの、礼。
 見て思っていたように、ありえないほど。
 むしろ化学繊維か何かじゃないかと思うほどの、つやつやした指ざわり。
「おー」
 パチパチ、と、ザツが浮かれきって拍手する。
 ケラケラ、と、酔っぱらい特有のハイテンションな笑いもプラスされている。
 赤いほっぺた。なんせ、こいつは九缶あけている。
「なかなか女タラシな反射行動」

「おら、寝るぞ」
 ベッドに運びこんだザツに、バサッ、と、頭から水色のタオルケットを、乱暴にかける。
「まだ飲むぅ〜」
 水色の芋虫が、じたばたとのたうつ。
 ……自力でベッドに来れなかったくせに、何を言うか。
 どうやらコイツは、酔うと甘えたになるタイプらしいが。
 素直に『かわいらしい』だけに、めんどくさい感じはしない。
 美少年はトクだな。
 そんなことを考えながら、ベッドに腰かけ。立てた片膝に、ほおづえをついて。
 なんとなくしばし、水色からはみだす、ミルクティー色の毛束を、見守っていると。
「あ!」
 という、悲鳴と共に、タオルケットからにょっきり、丸い顔だけがのぞいて。
「そんで、落ちこんれる原因は、そもそもなんらんだよ!」
 と、うつぶせに寝たまま、まくしたててきた。
 ……まだ覚えてたのか。
 左目のまぶたが半分おりた状態で、それでも右の瞳で、まっすぐに斬ってくるザツを、少々あきれつつ、見返しながら。
「もう、そっちは本当に、いいから」
 秘密主義ってわけではないんだが。
 これは……さっきの話題よりさらに重く、しかも話して軽くなるってわけでも、ない。
 ばふばふ。と、我ながらでかい両の手で、ザツの胴体を、ベッドへおさえつけていく。
「ホラ、寝ろ」
 なかなかクセになる感触だったのもあって、ザツの髪へ、指をとおす。
 優しく、眠りへ、いざなおうとする。
 ザツは、しばし「うむぅ〜」と、不満そうにうなっていたが。
「……ま、いっか! とりあえず引きズりまわしちぇやる!」
 と、気を取り直したように、言った。
 どうやら明日から、ひきこもり解消を余儀なくされるらしい。
「こもっててもなんにもなんねぇ〜て。おでも一人になちゃうし」
 楽しそうに、実はどー聞いても自己中な意見を、ザツは述べる。
「ここの町って、でっかい百円ジョップビル、あったよなっ?」
 きゃっきゃ! と、タオルケットのなか、まだごそごそしながら、続けてそう尋ねてきた。
 だが。意外で、聞きかえしてしまった。
「……そんなとこ、行きたいのか?」
 もっと、金を食うところに行きたがるヤツだと思っていた。
 だが、まぁ、二世とはいえ。
 自分と同じ……ではなくても、日陰の立場だ。
 正妻の子より、質素に育ったに決まってるか。
 しかし、ザツは、意外に思っただけのこちらの質問を、乗り気でないために発せられたと思ったらしい。
「イヤ?」
 むしろ、やっと、だが。
 気弱げに、おうかがいを立ててきた。
 自分の口のはじが、ゆるゆると上がる、実感があった。
「別に……」
 ものわかりのいい、薄い笑みを。
 ザツに、投げる。
 ……元気になったってしょーがねーんだ、未来なんかねーんだ、ということを、コイツに言ってもしかたがない。
 ほんとうは自宅にこもっていたいが、どこでだって、挙動不審なほどビクついたり暗くなったりするのは、どうせ避けられない。ま、程度の差はあるだろうが。
 断って、ザツのしょげた顔を見るのは、多分、かなりイヤだった。
「ふへぇぇ〜」
 酔っぱらいきった意味のない笑い声をあげ、ザツが安心したように、にんまりとしながら、目を閉じた。
 ……すかぁ〜。と、間髪をいれずに、聞こえてくる、寝息。
 鼻が赤みがかっている、こころよさそうな寝顔。
 よっ、と、タオルケットをまたひっぱり上げ。
 体のすみずみにまでかけてやった。風邪をひかないように。

 どうやら、早々に、そうとうに、入りこまれてしまったらしい。
 まぎれこんできたノラ猫のような、この弟に。

 ◆

 チュンチュン、というすずめの声が。
 けっこう、無視できないほどうるさくて。目が、あいた。
「…………」
 まぶたが上がりきった瞬間、気づいたのは、なんとなくクリアになっている脳、だった。
 ……あれ。けっこうよく眠れたような……。
 しかも、覚えていないが、夢まで見たような気がする。
 睡眠がたりている、というだけではない。
 なんとなく、体のキレというか、自分全体が、スッキリしている。
 むくりと上半身を起こして。
 しばし寝癖のついた髪を、もしゃもしゃと片手で所在なくいじり。
 おもむろに、自分の脇に、目をやった。
 さんさんと降りそそぐ日光に、より金髪っぽく見える、乱れた毛。
 ぽってりとした頬が、おだやかにゆるんでいて。
 くわぁ〜とばかりに口を開き、むさぼるようにまだ、眠りの中にいる。
 ……やっぱ、誰か隣にいるって、違うのかな。
 そう考えてから、ぼりぼりと腰元をかきつつ、えっこらせ、と、ベッドから脚を出した。
 つられてか。ザツが、もぞもぞとうごめきだした。
「うう……。うぉ〜」などと、しばらく眠気をふりきるように唸っていたが。
 しばらく後、ぺたん、と、脚をM字にして、ベッドの上に座り、
「おあよ〜ございまーす」
 と、なにに向けてるのかあやふやな挨拶をしつつ。
 いや、ひらいてないから、とつっこみたくなるような開眼率でもって、猫が顔を洗うように、ごっしごっしと目を、ひたすらにこすっている。
 顔を洗いに行こうと思ってたのも忘れ、しばし、その場で立ちつくして、見つめてしまっていた。結果的に、待っていたような形になるまで。

 カラ、ガラ、グァラ。
 昨夜の酒のせいか、かなり長々と、うがいをしていたが。
 それが済むと、またチャキチャキと、ザツは寝起きの作業を進める。
 顔面を濡らして、手に石鹸をすりつけその泡を移すように顔面をがしがしと洗い、水道水に頭をつっこむようにして、さばざばすすぐ。
 ブラウンの電動で、じじゃー、とヒゲをそりながら、それを横目で見ていた。
 専用の洗顔フォームかなんか、持ってきてても、おかしくないのに。
 ほんと外見と違って、こう……。ナルシズムと縁がないと言うか。
 あるものでまにあわせてしまっている。
 実際、お次は、クシを貸してくれ、とも言い出さず。手グシで髪をザッザととくと、ちょいちょい、と、手先で全体を整え。
 それでとりあえず始末はついた、とでも言うように、
「ハラぁ減りましたぁ〜」
 もっと優先するらしきものを、求めに歩いてゆく。
 ぺたぺた、と足音をたてて、キッチンにその姿が消え、冷蔵庫の、かぱ。という音が追う。
「といっても、ロクなもんないしな〜」
 うどん作りの際に、ひととおりチェックを入れていたのだろう。
 食材を探しているタイムラグもなく、呟きが聞こえてきた。
 そして、ザツの首から上が、キッチンから、ひょこ、とのぞく。
「外でいい?」
 うん。と頷き答えると。
 タタタ、とやって来たザツに、ぐい、と。
 まだ、悠長にひげそりを持っていた片腕を、引かれた。
「じゃ、さっそく出かけましょう!」

 バタン! チャリ、ガチャガチャと。ドアを閉め、鍵をかけてから。
 既に数歩先で待っている、ザツを視界に入れた。
 イエローグリーンと言うよりは、もっと渋い、草色の綿シャツを着ている。印象としてはワイシャツに近いが、首元に、ぺらぺらとパーカーがついている。
 こっちは半袖の黒いTシャツに、ザツと同じく、ジーンズだ。
 平日昼前に、学生くらいの年齢の二人組が、完全にオフ仕様。
 ……そんで行く先が、百円ショップって。健全なんだか不健全なんだか、よくわからねぇ。
 穴ぐらにこもっていたようなものの、自分にとっては、キツい日ざし。
 手をかざして、まぶしい午前の太陽から、目元へひさしを作った。
 そのまま、五歩ほど歩いた時だった。
 パッ、と、ザツが、こっちを見つめてくる。
 なんだろう、と一瞬だけ思ったが、射抜くビームかなにかのように。
 ザツの視線は、こちらの足元へ一直線だった。雄弁に。
 ……そいや。
 今日履いているのは、家にこもる前に愛用していた。
「雪駄ですか?」
「いいだろ、ラクなんだよ」
 ほとんど無意識にひっかけてきてしまったのだが、替える気はなかった。
 心なし、ぺったらぺったら、という、引きずるだせぇ足音になるが、この素足感覚が好きだった。
「スニーカーとかにすればいーのにぃ〜」
 後ろ姿を見せながら、ザツが「おまえ、がたいがヨイから、若頭っぽい雰囲気になって、ちょっとヤ」と、遠慮なしにコメントしてくれる。
 片手でつかめてしまいそうな、細く、キメこまやかな、涼しげなうなじ。
 サラサラと、そこにまとわりつく毛が、風にながれる。
 ……なんとなく、ついていくスピードが、緩んでしまった。
 見送っていると。
 ザツが、気配がなくなったのがわかったらしく、振り返る。
「アケル〜?」
 ついてきてるか、と、無心に確認してくる。
 散歩に浮かれぎみの、元気よすぎる仔犬みたいに。
「……おう」
 足をわざわざ止めているザツに、大股、三歩で、追いついて。
 ――久しぶりすぎる本格的な外出に、ひっぱりだされていった。

 平日で、昼前のハンパな時間だというのに、マックはそこそこ混んでいた。
 カウンターわきの壁かけメニューを。尾てい骨の上で、指を組んで見上げ、眺めながら、
「ん〜む、やっぱし『うしにく』だけがお買い得か」
 やや不服そうに、ザツが言う。
「細けぇんだよ、おまえ……」
 なんか、そういう、ずれたポイントだけ。
 あれだけ普段、名は体を表して、ざつなくせに。
「シェイクも百円マックね――種類は〜」
 ドリンクも、同じ着眼点で選別されるらしい。
 よって、シェイクにするという所までは即決されたくせに。
 四種全部を見比べて、バナナとチョコで迷ったあげく、結局、ストロベリーにするという、お約束なマネをかましてから。
 ザツは、やっとレジに向かう。
 こんなファーストフードで、んなにしっかり悩まなくても。
 コーヒーをこの気温ならアイスで、あとはその場の気分でなんか頼むか頼まないか、くらいに思っているので、そのまま自分も移動した。
 0円スマイルつきのマニュアル質問に、まずはザツが、気分より安さが優先されたチョイス結果を、伝えていく。
 お買い得だからって、ハンバーガーばっか四つ注文すんのはどーかと思うが。
「……以上、で」
 ぽつり、と、注文を終わらせて。
 カウンター上のメニューから、こちらに、ザツの目が移行する。
 じぃっ、と、見つめてきたかと思ったら。
 唐突に、にま、と、その瞳を細める。
 ……うわ、糸目だ。なんか招き猫のようで、キモチワルイ。
「おごってくれる?」
 ……ハイハイ、そんなよ〜な気はしてましたよ。
 無言で、尻ポケットから、財布をひっぱり出した。
「ゴチ〜っ」
 ザツが唄うようにそう言いながら、ご機嫌に上半身を左右にゆらす。
 金ないんだろうか、ひょっとして。
 ……もしや、払いたくないだけかもしれないが。

 合間にストロベリーシェイクを吸い上げながら、ぱくぱくぱく、と制覇されていくバーガー。一つ目はもう、ザツの腹の中。
 酔いのかけらも残していない、さすがな若さの、食欲だ。
 ……というより、おまえかなりザルだな?
 そんなことを考えながら、対面に座る相手を、ぼー。と見ていた。
 アイスのブラックコーヒーを、片手で上からかぶせるように持ち、ストローを使わず、フタを取った状態で、だるくズズズ……とすする。
 ……水分は摂る気になれるんだが。
 ガラスを通過して、いっぱいにふりそそいでくる、全てをかすませるような陽光に、目が、しょぼつく。
 あきらかに食欲不振で、飲料ばかりながしこんでいるこちらを、ふと、手を止めたザツが、
「ほんと不健康〜」
 いっそ感心したように、言ってきた。
 そして、何を思ったか、カサカサと、かじりとりやすいように、バーガーの包装紙を筒状のままずり下げて。
「はい、あ〜んっ」
 そのバーガーをこっちに向けて、差し出した。
 気まぐれに、からかうように。
 ……だけど。
 視界いっぱいに広がるのは、愛想全開の、微笑。
 保温されていたパンの熱気が、ほほに、かすかに伝わってきた。
 ケチャップやピクルスの、酸味のあるにおい。
「…………」
 無意識に、首をのりだした。
 ザツの噛み跡にかぶせるように、がじり、と。ほふった。
「うわ、ホント食いやがった」
 受けたらしく、ザツは腹に手をあててのけぞって、ケタケタと白い歯を見せる。
 ……おまえが出したんだろ。
 平然と、モゴモゴ、咀嚼しながら。そう心の中だけで思う。
 なりたての恋人か、ガキのようなじゃれあいに、店内からかなり多数の視線が、殺到してきたのを感じる。
 そんな衆人環視の状況に、赤くなるくらいしてもいいはずなのに、どうも。
 人の喧騒と、漂白してくるような日ざしに、まだ慣れないせいか。麻痺しているようで。
 口の中のものを喉に落としても、もう一口コーヒーをのんでも、テレはわいてこず。
「もっと食べるか?」
 笑いのおさまったザツに、再び。
 さっきよりは乱暴に、オラ、とばかり、つきつけられたバーガー。
 ……ニヤリと歪んだ口元が、一緒にからかう? とばかりに、誘っていて。
 なのに、瞳に浮かんでいるのは、悪戯っけというよりは、不敵さに近く。
「…………」
 またも一口。
 大口をあけて、かっさらった。

 電車に少し揺られて、辿り着いたのは。
 実に地上六階、地下一階。
 丸ごと全部百円ショップなこのビルは、街の名物でもあるらしい。
 一階部分に四つもある入り口のうち、一番右端をくぐり、店内に入りこむと、けっこう壮観な景色が開ける。
 一つの棚全部がこぼれんばかりにぬいぐるみ。
 一つの棚全部が落ちそうにワイングラス。
 一つの棚全部がいやんなるほどごはん茶碗。
 ……エンドレス。
 色違い、型違い、絵柄違い、で繰り広げられる、商品の乱舞。
 さぁ練り歩け、掴みどりしろ、買え、と言わんばかりの強制力に。
 他人の通行の邪魔にならない位置まで来て、とりあえず、ストップしてしまった。
 ……って、そーいえば。
 一階部分だけでも、あまりに広大な売り場に、視線をやったまま。質問した。
「何、買いに来たんだ?」
 同じくザツが、前を向いたまま、答える。
「欲しいモノ」
「…………」
 パシンッ。と、乾いた音がした。
 押し出されたザツが、けつまずきそうになりながら、トトト、と、二、三歩、前へ進むのが見える。
「も〜。はたくこたねぇだろ?」
 いたわるように、自らの後頭部に手をあてて。
 ザツが、声だけで、抗議してくる。
「……わ、悪い」
 かなり動揺してしまいながら。謝った。
 ……自分の行動が、自分で少々、信じられない。
 勝手に手が出ていた。空を切っていた。ザツの後頭部をとらえていた。
 自分の、我ながらデカイと感じる手のひらを広げ、マジマジと見つめてしまう。
 男同士なんだし、別にこういうコミュニケーション、ありだとは思うが、学生時代も、あんまりこういうことをするタイプではなかったのに。
 ――それに。
 ぐ、と。
 体勢を立て直すように、ザツにつっこんだ手を、にぎった。
 知り合ってから、二十四時間経ってないのだ、まだ。
 ちょっと普通じゃない。
 ザツの気安さが、伝染しているようだ。
 ペースに乗せられてる自覚はあったが、どうやらそれどころではない。
 巻き込まれて、役割すらもわりふられて、それをシッカリとくるくる演じさせられている。らしい。
「ま、いいテンポだったけどな〜」
 ザツはお笑い芸人のようなコメントを言いながら、スタスタと、振り返らないまま、先導するように歩いていってしまう。
「…………」
 ぎゅう、と、右手を再び、握りこんだ。
 スピードをのせてとはいえ、小さい頭を、つつんだだけだったのに。
 あの軽い体重は全部、持って行きそうになった。
 その余韻は、どこか、甘やかで。

 結局、六階からまんべんなく、ぶらついてゆく。
 ザツは、興味があるもの以外は、完璧なスルーをかましていくタイプだった。
 代わりに、
「おぉ、これ」
 おめがねにかなうものを見つけると、キツネ色の目をひらめかせて、駆け寄る。
「もっと欲しかったんだよな!」
 ぽい……ぽい……ぽいぽい、と。
 なんとなく先に手に取ってしまったなりゆき上、こっちが持っていた黄色カゴの中に、品をがんがん入れこんでくる。
 漫然とそれを眺めていたが。
 くすんだ赤で一、くすんだ青で二、黒で三、灰色で四、まだ、同じ商品を買おうとしているザツに。
「こ、こんなにいるのか……?」
 モノは、布製でたっぷり収納できる、CDケースだ。
 一個に二十四枚はいるんだぞ?
 どんだけCD持ってんだ……。
 思わず引いてしまいながら、そう尋ねると。
「そりゃ、CDはコレクターですから」
 ようやく最後のにするらしいCDケースを、どれにするか選びながら。ザツが、じっくり手元を見ている姿勢のまま、背中で答える。
「市販のはほとんどないけど」
「――?」
 謎な言葉に、問う視線を投げかけたが。
 気づくことなく、「あ、アレ」とふいに零して、ザツは。
 後ろ姿のまま、ぽいっ、と、最後のCDケースを、後方へ指ではじくようにしてから。歩き出した。
 ……回転しながら、ぽすん、と、カゴの中に着地してくる。真紅っぽい赤のCDケース。
 ポリポリ、と、思わず耳の上あたりを、かいてしまった。
 どうも……気安く扱われてると言うか。
 気を許されている感じなので、不愉快ではないのだが。
 長年そばにいたかのような、息の合わせてきかたを、する。
 ――それこそ、兄弟のような。

 ザツが次に目をつけたのは、百円小型目覚まし時計だった。
 正方形、丸みを帯びた四角、たまご型、などが揃っている。
 パステルカラーなプラスチックでできているが、少しシアーな色づき……というか。シースルーになっている。
「携帯あっから……いらねぇだろ?」
 近づきながら、そう言うと、
「きぶん! きぶん!」
 と、既に、形や色を物色しているザツは、聞きやしなかった。
 ……まぁ、百円で目くじら立てることもない。
 まったりと待ってしまう。
 しばし経ってから、ザツはクリームイエローのたまご型のを、カゴに、むぎゅ、と押しこんで。また先に進みだした。

 ……やっぱり夏休みの延長気分が濃いらしい。
 いちおう秋だと言うのに、今度は花火を買おうとしている。
 もうシーズンは終わったせいか、置いてある花火の商品展開バリエーションは少なかった。
 ……と言うより、まともに手に持ってするやつは、一種類だ。線香花火。あとはねずみ花火系統のものが、ほんの添える程度に展示されていた。
 ザツは、線香花火だけ、三百円ぶんもカゴに入れた。
 値段はともかく、一束だけでも飽き飽きしそうなほど、じゅうぶんにあるから。大量、だ。
「いや、こんな……。鬼のよーな線香花火特集、どーすんだよ」
 黄色いカゴの中を見おろしながら、あごに軽くこぶしにした片手を当て、そう、文句をつけた。
 えんえん、こればっかやらなければいけなくなる。
 個人開催、個人参加の花火大会にしたって、地味すぎるだろう。
「なに言ってんだー。この量! この価格! ああ、もう、それだけでありがたい……」
 そう言って、ザツはカゴからもういっぺん、線香花火を一束とりあげ。
 火薬物に、すりすりと、そのほほを寄せる。
 ……おまえ、薄々思ってはいたけど、ひょっとしなくてもケチだろう?

 さらに横手に移動する。
 娯楽商品が、多く並んでいる一角に入った。
 見た目から安っぽい、だけど機能的には問題なさそうなダーツセットや、毒々しいキャラクターや怪しげな言葉が添えられた折り紙セットらしきもの。スポーツ新聞より内容が薄そうな雑誌。それらを、
「うわ、信じらんねぇ!」
 とか言いながらも。そこそこ厳選して、カゴに入れてくるのは。
 ……どうやら、こわいもの見たさらしい。
 続いて、駄菓子コーナーで、酒のつまみのイカやら、カレー味のにせものとんかつとか、あきらかにモチではない質感の『○○モチ』と言い張っている何かとかを、ザツは買いあさる。
 いかにも口の中が染色されそうな、着色料べったりのフルーツあめ玉も。数本の清涼飲料も。
 さらに、雑用品みたいなコーナーで、なんに使う気なんだか……な赤い布と、木製の洗濯バサミや、アイスキャンデーを冷凍庫で作るための容器なんかも、仕入れて。
 ようやっと、精算を済ませるべく。
 一階だけにあるレジをめざし、連れだって、エスカレーターで下る。
 しかしいざ一階に着くと、エスカレーター脇に、めだつように陳列してあったクッションの山に、
「あ、アレもいい」
 ザツは、ピュッと行ってしまう。
 まだナンかいるのか? と、反射的に隣にやった目は、ザツの残像すらとらえられない。
 やがて、円筒形の……ぬけるようなレモンイエローのクッション一つを、ふにふにと両手で揉みながら、戻ってきた。
 ジェンガ状態につまれている、カゴの荷物のてっぺんに、ポン、とクッションをのっけてくる。
 ぐらぐら、と、絶妙のバランスで揺れるそれを。
 あぶなっかしーと思って見ていたら。
 ……はっ、と我に返った。
「ちょ、いくら百円つったってこれだけ買ったら。けっこーな額になるんじゃねぇのか?」
 たたらを踏むように、止まってしまった。
 一、二歩、先に行ってしまっていたザツが、スニーカーをキュッと鳴らし、踵を返してきて、
「って〜CDケースだろ、目覚まし時計だろ、遊び道具、食い物、布、洗濯ばさみ……、全部いるって!」
 カゴのなかみを点検しながら、自信まんまんに言う。
「こんなにホントいるのかよっ? ってか、この駄菓子とか、ゼッテーまじぃだろっ?」
「駄菓子はおれが責任持って残さず食うし!」
「そのへんはまだいーけど、このガラクタは本気で欲しいわけじゃねぇだろっ? ゴミになんだろっ?」
 相乗効果で、ぎゃいのぎゃい、と、うるさくなっていく。
 よく考えたら、今の自分にとっては、金なんてほとんどどーでもいいわけで。
 だからどーでもいい議論ではあるのに、騒ぐこと自体が楽しそうなザツにつられて、テンションが上がっていく。
「この折り紙とか、ぜってぇキャラの不気味さにっ」
 ……ふと、すれちがっていく、主婦風の女が、目にはいって。
 その顔が笑っているのを知って。
 しかも種類が、『ほほえまし』そうなものであることに、気がついて。
 少し赤いと自覚がある顔で、口をつぐんだ。
 さすがに、恥ずかしい。
 いい年してんのに。しかも、こんな図体のデカイ男が。
「だって我慢できねぇんだもん! 使いたい! ためしたい!」
 まだザツは、手足をじたばたさせながら、わめいている。
 説得するというより、ただただ嬉しそうで。ワクワクしてるのが嫌でも伝わってくる。
 みひらかれたブラウンゴールドの瞳なんか、輝いていて。
 こっちが静かになった後だと、その……迫力とは微妙に異なる、生命力にも似たものに、飲まれていくしかなくなる。
 なんか……かわいいかも。
 と、すんなり思ってしまう。
 かわいい盛りの娘を持った父親って、こんな気分かもしれない。
 なんか、甘やかしてはいけない理由が、脳と身体のどこにも存在しない。
 ゆえに、止められない。
 まぁ……『遊び』に出かけたと思えば、同額……くらいにはなるよなぁ。
 自分にいいわけするように、そう結論づけてから。
 口に、していた。
「……ドウゾ」

「あ」
 そう呟いて、ザツが足を止めたのは。
 ビルを出てすぐの、大型リサイクルショップの前だった。
 百円ショップ帰りの客をねらってるんだろう。
 ぞろぞろと、家具やら小物やらが、雨ざらし状態に、軒先にディスプレイされている。
 ザツが目を奪われているのは、木製のこげ茶色の、円板の小机の上に、ちょこんと載せられた、ガラス製のちいさな置物だった。
 淡い蒼色のエンゼルフィッシュが、ジャンプしている形で。
 その尾からしたたる水しぶきのように、六本の棒が、竪琴……ハープのような形でもって、たれさがっている。
 これが風にそよめき、時折つつましい音を奏でる。
 それらを銀色の、なにかの芽のような形をしたスタンドに吊ってある、風鈴のようなもの。
「ちょっとキレー」
 通常より更にまぁるくなった瞳で、まじまじと見つめている。
 ガラスのように澄んだ緋金色が、ガラスの蒼を。
 しばし、ザツに追随するように観察し。
 のちに、ザツの、サラサラの後頭部を観察し。
 ……咳払いするような声音で、
「ザツ」
 うながしてみたが。
 ……動かない。
 ちらっ。と、品定めするように、再び机上に、視線を走らせてみた。
 今度は値札をメインに見る。
『単品売りは致しません』という、注意書きのフダ。
 中古品だからこその破格値だろう、小机自体と、そのエンゼルフィッシュ、セットで七百五十円となっている。
 だから、まぁ値段的には、OKも出せるのだが。
 ……あきらかにおまけ目当てだろうこいつ。
 そう思い、うろんな眼で、またザツを見ると。
 ザツは、気配を察したらしい。
「だってコレ置く棚とかも、ねぇんだもん! なっ?」
 百円ショップで仕入れてきた物々がはいった袋を、目線にがさっとかかげられて。
 うれしそーに言われれば。
「…………」
 ガリガリ、と、えりあしの髪の毛を、わさぁっと持ち上げるように、ツメで掻きむしる。
 ……えっと、寝室にしてるとこはダメだけど。
 ダイニングの、玄関よりの部屋のすみ、なら、なんとかなっか。
 両手を、その小机へと、伸ばした。

 午後にさしかかったばかりの、あまりに健康な陽光の下、てくてくと帰ってゆく。
 兄弟のような、そーでもないような、二人連れとして。
 百円ショップの袋はザツが持ち、小机は、こっちが小脇にかかえている。
「……さっそく何、飲んでんだ」
 さっきから、百円清涼飲料のうちの一本を開栓し、歩き飲みしだしたザツに、そう聞くと。
 ぴょん、ぴょん。と、両足をそろえて、階段をくだっていっていたザツが、振り返った。
「さんがりあーのコーヒー、けっこう好きなの」
 ほい。と、こっちの手の内に、押しつけてくる。
 渡されるままに、受け取った。
 口に、ふくみ。
 ……うへぇ。となったが、吐き出すわけにもいかず、そのまま、ごくり、と。しぶしぶ、喉に通した。
「半分以上、水の味なんスけど……」
 げんなりと、パッケージも安上がりな缶を、日にかざすようにして、うらめしく見つめる。
「いいじゃん、イッキできて」
 クケケ。と、ザツは、おもしろがるように、笑っているが。
 ……そーはいっても甘さは十分だし。うええ。
 言葉もなく、ただベロをだーっと、口から出す。
 死にかけている味覚にも明らかな、しぶとく甘ったるい後味を、追い出す。
 ザツは宣言どおり、ごくごく喉を鳴らして、帰ってきた缶にまだまだ大量に残った中味を、あおっている。
 子ども味覚め。
 手の甲で、口もとからあごにかけてをぬぐいながら、そう、心の中で悪態をついた。

 ◆

「ただいま〜」
 今は日陰側の玄関ドアを開けると、部屋の中から、日光が忍び寄ってくる。
 ザツの元気のよい挨拶、と共に、帰ってきた、自宅。
 ……左手の、帰りがけに寄ってきたスーパーの袋、を、ごとりと床におろした。
 小机は右脇にかかえたまま、肩甲骨のあたりを、軽く揉む。
 別に肩こってるわけではないんだが、なんとなく。まだ落ちてはいない筋肉が、みっしりと手の中に、硬い。
 そうして雪駄を脱ぎ捨て、素足で、予定していた場所、『ダイニングの玄関より、テレビ脇』を目指す。
 ごとごと、と、小机を、やっと置いた。
 と、そこで気がついた。
 自分の横、並行して、ハヤブサのように室内に入りこんだと思ったザツが、そのへんにいない。
「――?」
 どこいったんだ、と思いながら、とりあえず、寝室に足を踏み入れると。
 ザツはそこで、白地に赤いチェックもようの布を広げ、窓辺でなにか作業をしていた。
 ……そんなザツを見つめ、腕組みをし。ゆっくりと、寝室の入り口の壁に、もたれかかった。
「カーテン?」
 そう問いかけると。
「うん」
 手を休めることなく、ザツは答えた。
 ……そーいやカーテン、ねーんだよな。
 いまさらながら、そう気づく。
 ハンガーにかけた服とかを、窓枠につるして、ごまかしているのが常だった。
「朝まぶしかったからさ、気がついたの」
 買ってきた生地を。
 適当に、これも買ってきた木の洗濯ばさみでまとめて、ザツは『カーテン?』という状態のものを、作り上げていっていた。
「カーテン代わりにすっから、コレを」
 ぱきぱきぱきぱき。
 洗濯ばさみを、鬼のように留めている。
 ……また、手持ちぶさたに、背後から見ているハメになった。
「どーでもいいけど、なんで赤なんだ?」
 黒か灰色か青ばっかの部屋の中、あきらかに配色が浮いている。
 だから、尋ねてみたのだが。
「赤かわいいじゃん。おれに似合うし」
 まだ布を、あいかわらず木の洗濯ばさみで、バシバシとめていきながら、ふりかえってきて。
 豊かな笑顔で、ザツが、そう回答した。
 ……ええと『ザツ』に似合う、って……。
 ここはおれの家、だったと……。思うんだが。
 しかし、響き続ける、けなげなまでのパキパキ音に。またもや、まぁいいか、となし崩しにされてしまうのだった。

 カーテンを製作し終えると、ザツはやっと、設置してやった小机に向かった。
 腰くらいの高さがあって、やたらと軽い、小机。重いものをのっけたら、あっさり逝きそうだ。
 ザツは初日に持ちこんだ自分のスポーツバッグをひきずってきて、その下の、本来なら足をつっこむ空間に、とりあえず収めた。
 ……大きく開けられた、スポーツバッグのファスナー部分から、中が少しのぞいていて。
 ぎょっとしてしまった。
 CDのクリアケースが、ぎっちり詰まっている。
 バッグの三分の一ほどのスペースが、そのプラスチックのCDケースで、占拠されていた。
 ……なんなんだ。
 服とかのがそりゃ、容量は大きいが。
 荷物のほとんどを占めていると言ってしまっても、過言ではない。
 ……こいつ音楽ジャンキーだな。
 びっくりしたままの、こちらに気がついたのか、
「ね、いるデショ」
 と、整理のため、手をバッグにつっこんだザツが、顔をねじって、同意を求めてくる。
 百円ショップで『こんなにいらねぇだろ』と文句をつけたことを、覚えているようだ。
 うん……。と、思わず従順に、うなずいてしまう。
「前から二、三個持ってたんだけどさ。コレなんか、もう危険だし」
 そう言って示す、買ってきたのと同タイプの、ザツが元々持っていたらしき布製CDケースは、ファスナー部分が馬鹿になってて、半分開けっ放しでいるしかなく、CDがこぼれそうになっていた。
「……どんなCD持ってんだ?」
 興味がわいて、そう聞いてみた。
 音楽が好きで、だから父親をちょっと尊敬していると言っていた。
 これだけのコレクションの数からも、けっこう本気で、そうなんだろう。
 すると、黄緑のiPodを差し出された。
 ――iPodにおさめてある分は抜いて、これなのか。
 しかしなぜだか、
「つまんないかも?」
 と、渡す時、ザツは困ったように首をかしげた。
 かまわず、両耳にイヤホンをさしこみ、再生ボタンを押した。
 しばし、なんの感想も言わず。黙々と、耳をかたむけていたが。
「…………」
 なんじゃこりゃ。
 笛の音色らしきものやら、聴いてると乗り物酔いしてきそうな不思議に安定感のないなにかの旋律、裸族のおたけびらしきものまで。
 表現するなら、『音源』だろうか。
 パーツや素材と言った感じで、音楽、としては、どー考えても完成していない。
 ……しまいには。頻繁なガサガサとした雑音、パン、とか、ガッタとかいう物音、若い男女数人のやる気のない会話。という、どっかの盗聴記録まがいのものになってしまった。
 いや、会話の盗聴記録と仮定したって、雑音というか、空気音がひどすぎる。
 もしや、こっちが、雑音こそが主役なのか、ひょっとして?
 これまでの脈絡のないラインナップからすると、それでもおかしくはない。
 ……こんなもん聴いて。
 何が楽しかったり、リラックスできたりするのだろう。
 珍妙な顔をするしかなくなったこっちに、ザツが反応し、
「ヒップホップ系はこっち」
 と、操作して違う部分へ飛ばしてくれた。
 耳をすましていると、覚えのあるナンバーが流れてきた。
 聞いたことがないのももちろんあるが、多分、新旧入り混じったヒットナンバー集なのだろう。
 飛ばしで短く聴いていくと、どうやらテクノ系もちょっと入ってる様子だ。
 ……ふむ、こういうのがコイツの好みか。いや、さっきのが謎だが。と。
 聴きながら、ザツに目を向けると。
 ザツは私物を、あるものはスポーツバッグの中に入れたまま、あるものは小机の下のスペースに積み上げて、おさめていっていた。
 ……シアーなクリームイエローの、たまご型、目覚まし時計は。
 光沢のある黒の、スポーツバッグの上が、定位置となったようだ。
 ことん、と。
 エンゼルフィッシュの風鈴を持ち上げていたザツが、また元の場所に置いた。軽い音。
 戻しても、ザツはしげしげと、いかにも海を思わせるその置物を見つめているままだ。
 銀の中心棒と、蒼いガラスの組み合わせ。
 いかにも、暑気払いにふさわしそうな。
「この季節から、風鈴ってのも……」
 まぁ、キレイではあるかな、とは思いながらも。
 あごのあたりを右手でさすりながら、苦言を呈すと、
「むしろウィンドチャイムと言いマス」
 ……なんか、日本風でない見た目だとは思っていたが。やけに詳しいザツの訂正に、気勢をそがれた。
 けっこう、この熱帯魚を、本当に欲しかったのかもしれない、ザツは。
 やたら優しげに、ザツが、爪が短い指先で、六連の蒼ガラス棒の箇所にふれ、そこを揺らした。
 ……セット販売だったくせに、安いくせに。
 チリン、シャン、シャリ。
 と。涼しげな、良い音色を奏でる。
 思わず、聞きほれていた。
 はっ、として、隣にいるザツを、見おろした。
 視線に気づくことなく、うつろうように、ゆっくり。
 ザツが、瞬きする。
 強い黄金色につやめく瞳が、隠され、現れる。
 午後の日ざしに、ほほに落ちた長いまつげの影が、ぱたり、芸術的に、動画する。
 ――一瞬で、目を奪われた。
 シアターで売られている、名場面集ポストカードのように。
 切り取れる、無言のワンシーン。
 すんなりとした体からは、いつもの活発な魅力が失せて。代わりに静けさを、その身に内包していた。
 はためくカーテンにさざなみのようになる白光と、涼やかな音色に、ひっきりなしに洗われながら。
 珍しく緩慢に、永遠じみて、そのまたたきは繰り返される。
 並んでしばし、佇んでいた。
 ……終わった夏の、ウィンドチャイム。

 ぼこぼこと上がってくる泡に揺れる、ぎっしり水面を埋めた、細い麺の集団。
 夏の名残はここにもある。消費しきれなかった『実家より』のそうめん。
 鍋のなか、数分の時を待つそれを、片手に箸を握り、ただぼさっと見つめている。
 米を炊いていなかったので、てっとりばやくコレにすることにしたのだ。
 めんつゆは濃縮タイプが、冷蔵庫から既にテーブルに。ザツのように手作りする気など、最初からない。
 薬味はわさびチューブと、ちくわと、スクランブルエッグ――なぜなら薄焼き玉子など作れません、を用意済み。
 ちら、と視線を流して……見えないが、ダイニングのザツの気配をうかがう。
 物音ひとつしない。
 やはり、あの状態のままらしい。
 やがて、量だけはたっぷりと茹で上がったそうめんを、大きな皿にのせて、のしのしとダイニングへ向かう。
 ダイニングに広がる景色は。
 ザツが荷物をひととおり収納し終えた小机。
 新しい布製CDケースになかみをおさめたので、不燃物としてまとめられた、いらなくなったプラスチックCDケースの山。
 無残にもまんべんなく試食された後の、駄菓子の袋がまとめられた一角。
 床に散乱する、いいだけ折り目のついた、ちょっとおどろおどろしいガラの折り紙。
 アイスキャンデー作りの容器が入っていた、箱。さっそく本体は、冷凍庫でアイスキャンデーになるのを待っている。
 壁にも、暴行を受けたのはたった数時間だとは考えられないほど、ダーツが穴だらけでビリビリの状態でかけられている。
 ……ザツが買い込んできた品で、全開フルスロットルで遊んだ跡。
 を、観察するように。ぐるりと視界をめぐらせて、から。
 おもむろに、足元を見下ろした。
 ……その景色の中央、ザツが腹を押さえ、目を閉じて。
 海岸に打ち上げられたトドのように、転がっている。
 正確には、燃料が切れてるのに気がついて、突然、倒れているのだ。
 それで遅めの昼食を、作って、供給してやる気になったわけだが。
 持ってきたそうめんを、テーブルの上にどん! と置く。別に、どん! と音を立てる気はなかったのだが、重量が重量なので、そんなイイ擬音が響きわたった。
「……メシ」
 同時に、最低限に、口をぼそりと動かし、勧めると。
 さっきっから両手で腹を押さえて、
「……ぅ〜。……う〜。……く〜」
 などと、無人の部屋で『腹へってますアピール』にいそしんでいたザツが。
 もぐらたたきで出現したもぐらのように、ピッコン! と跳ね起きて。
 箸を手にとった。
 つゆを椀に入れて、水と混ぜるのももどかしく、んガッツ! と大量のそうめんが、その箸に捕獲される。
 ざぱっとつゆに漬けこまれたそれが、えらく太い滝のように、口にずぞずぞと、ほおばられていって。
 ……こいつは、エンゲル係数が、高いタイプなのではないだろうか。
 メシ抜きとか叱ったら、単純に、みーみーとプライド無く泣いて謝る子どもだったような感じがする。一緒に育ってない兄弟としては、想像するしかないが。
 そう思いをはせながら、こっちも箸をとって、椀を持った。
 と、その時ちょうど、ザツが、リスのほおぶくろ状態に、ほほを膨らませたまま、
「っ、……もぎゃぎゃぎゃぎゃが」
 何かを、言ったが。
 ……なに言ってんのか、ぜんぜんわからん。
 濃縮めんつゆを、箸でぐるぐると水に溶きながら、そう嘆息した。
 ――ザツは、あきらかにこっちに意味が通じてないのに、それはどうでもいいのか、安心したように、再び両頬を、もごもごとへこまし始めた。

 とりあえず満腹して。
 左肘を立てて、手のひらの上に頭をのせ、横向きに寝ころがる。
 ザツはならうようにして、同じポーズで、目の前で寝てる。
 ……二人して、腕を枕にねころがる、兄弟もどきの図が完成だ。何十時間か前には想像しようもなかった、空間。
 チリンチリン、リ……。
 蒼いエンゼルフィッシュのウィンドチャイムが、平穏な静寂を伝える。
 食後。
 怠惰な午後。
 夏を色濃くのこす日ざしのきつさが伝える、外の気温。
 揺れる観葉植物の……大きな……葉……。
 ふと思い出して。
「で、さっき何て言ってたんだ?」
「――? さっき?」
 ザツは、枕にしていた己の腕から、頭をもちあげ、見上げてきた。おいおい。
「そうめん、一口目ほおばった時に、なんか喉の奥で言ってたろ」
「ああ!」
 やっと心当たったらしい。
 ……で、なんだったんだ、と。
 うながす心持ちで、待っていると。
「いただきます、って」
「…………」
 ……は?
「腹へってたからさ〜、いただきますって言い忘れて。思い出して」
 ――なんの脈絡もなく。
 抱きしめそうになった。
 一瞬のスキをつかれたように、心臓がおもしろいくらいに、速められている。どこどこ、と鐘のようにうるさい。
 いつのまにか、枕にしている左腕が動かないように、必死になっていた。筋肉が、感情の影響で、ぶるぶる振動している。
 これをはずしたら、両腕を獣のようにのばして……。思いっきりかき抱いてしまいそうだった。攫うように。
「〜っ……!」
 おさえろおれ、落ち着けおれ、と。
 内心、格闘のような激しさで自制する。
 ――ここで抱きしめたら、ただの変態だ。
 なんだか、右腕まで伝染してわなないてきた。衝動と欲望で。
「――? あ〜? どうした?」
 ザツが、匂いをかぐように、ほうけてるであろうこっちの顔を、しげしげと見てきた。
 なんの狙いも含めてない、のほほ〜んとしたザツの顔。
 鼻くらいしかでっぱった部分がない、むき卵のような童顔。
 大きさのせいだけではなく吸引力のある、躍動的な力を張らせた瞳。
 サラサラと揺れた光沢ある毛先が、くすぐるように、こっちの短い前髪と、ほのかに絡んだ。
 ……ガッバ! と、その絡みをほどくように立ち上がる。
「ひゃあっ?」
 いきなりこっちが跳ね起きたせいで、勢いの波動に押されたザツが、ころころと床を回転していく。
 おかまいなしに、ズンズン、と。
 ザツとは逆側にがしがし、歩いていった。
「アケル〜?」
 呼びかけには、叩きつけるように。背中で回答した。
「シャワー!」
「……汗かいたのか〜?」
 転がっていった体勢のまま、横倒しにあいかわらず寝ころんでいるザツが、間延びした声でそう言うのが響いてきた。

 感覚的には、さっき昼飯を食べたばっかなんだが、ザツは昨日のようにキッチンに立て篭もった。
 夕食の準備に、余念がない、わけだ。
 持ち主すら忘れていた、ほこりをかぶっていたホーロー鍋を発掘し、なにやらまた始めている。
 買ってきたバターを、包丁でずいぶん大胆に、大きく切り落とし、弱火の鍋に入れる。
 くちゅくちゅと溶けかけたバターの固まりの上に、ばさばさ小麦粉をふりかける。
 ……うちには、はかりなんて高尚なモンはないから、必然的に、目分量で片づけなければいけなくなっているはずなのだが。
 それで困らない……と言うより、本領発揮に生き生きしているこいつがコワイ。
 しかし、ほのぼのとしたバターの香りが、キッチンをつつんでいるな、と思っていたら。
 あっという間に、きな臭い感じに変化した。
 再びザツを見れば、ひたいに汗を浮かべんばかりに、へらを乱舞させている。
 ガチャガチャ。ガス台と鍋との接触面が、ズレながら、音を奏でまくっている。
「な……んか、こげくさいんですけど?」
 思わず鼻をひくつかせながら、そう注意した。
 ザツからの返事は、しばらくなく、がっしゃがっしゃがっしゃ! と、音のみが激しくなっていく。
 こいつは破壊音を立てずに料理というマネはできないのか。
「平気、へいき、普通」
「普通って……」
 つまり、普通じゃないと感じられてることに自覚があるんだろう。
 やっぱアヤシイ。
 しかし料理のことなんか、さっぱりわからない。
 ほんとになんか失敗状態になってるのかどうかなんて、わからないし、なってたとしても『くいしん坊万歳』なこいつに任せておくより他に、ないのだ。
 はぁ、と短くため息をついて。素直に開けたばかりの缶詰を、シンクの上にカタリと置いた。
 助手的に、開栓を命じられて、今まで開けていた。煮たトマトらしき……トマトピューレ。
 そんなこっちを尻目にザツは、今度は、ニンジンやたまねぎなどの野菜を、男らしくぶつ切りにしてゆく。
「メシ、なに?」
 ふと興味がわいて。
 育ち盛りの子どものような問いを、発した。
 ザツは、「これは、メシっていうか」と、ポツリと言って、
「デミグラスソース作ってるの」
「……デミグラスソース」
 期せず、オウム返しにしてしまう。
 ……って、あのビーフシチューとかの?
 洋食屋さんか、おまえは。
 根性とマメさには脱帽するが。しっかし。
 青いホーロー鍋を、横目で、おしはかるように見やって、
「こんなに食うかな」
 零した、こちらの、疑問に。
 ザツの対応は、即答だった。
「冷凍できるから」
「…………」
 主婦か、おまえは。
 あきれ半分、感心半分で、かたわらのザツの顔をのぞきこむと、
「市販のルゥじゃなっかなかこの味は出ないんですよ」
 ぺろ。と、ザツは、待ちきれないように、ぐるりと一周、舌なめずりをした。
 グロスを塗りたくったように、一瞬でぬらめく、色よりはなめらかさが目立つ、その唇。
「ま、お楽しみに?」
「……はぁ」
 なんだって。
 たかだか料理で、そんな、気高い誇らしげな笑みを形づくるのか。
 あまつさえ、ソレに、惹かれるなんて。なんとも。

『煮込み時間』は長く、五時間ほどかかるらしい。それでまだ腹のすきようもない時間からかかっていたわけだ。
 その間、ダイニングで、ザツはあいかわらず折り紙を散らかす。
 おたふく風邪にしか見えない子ども、子泣きじじいのような子ども、金をくれ〜親をくれ〜と言ってそうな世にも暗い表情の子ども。
 それが全員『うらめしげ』なポーズでもってプリントされた、不気味系キャラオンパレードの。例の百円折り紙で、彩られていってしまう部屋。
 どーしたもんかなコレは、まぁでも折り紙がなくなるまでの辛抱だから、と眺めていたら。
 ザツにまたぐいぐいと袖を引かれて……いつのまにやら。
 どっちの知ってる『紙飛行機の折り方』が、遠くまで飛ぶかの競争、につきあわされてしまい……。
 いつしか熱中してしまい。
 ハッと我にかえって、羞恥に、内心だけでのたうってると、ちょうどなにか時間の区切りだったらしいザツが、
「おし、こしに行くか」
 と、すんなりした腰を、さっと上げ、キッチンへ向かう。
 ……勝手に恥ずかしがっていた男が、また置いてけぼりにされた。
 しばしのタイムラグの後、「おお、これでしばらくのメニューのネタ確保〜!」とはしゃいでる声が聞こえてくる。
 ……追いかけるように、キッチンに入った。
 ザツはホーロー鍋のなかみを、ざるを通して漉しつつ、別のなべにザバーっとあけている。
 やってきた気配を感じたのか、
「で、今日は〜。オムライスにすっから」
 と告げてくる。
「はぁ……」
 それならと、もりつけできそうな食器とかを棚から出してやってから。またザツを見ると。
 またもやどこかアウトドアチックに、まな板の上でたまねぎをザク切りしている。
「席で待ってて?」
 ……こっから先の段階では、全く役に立たないことを見越してか。
 こっちを見ないまま、せわしなく淡く透ける栗毛を揺らしながら、ザツがそう勧めてきた。

 ようやっとおどろおどろしい紙達を片づけることができたダイニングに、脚を伸ばしきって座っていると。
 ザツがてきぱきと、水のはいったコップや、スプーンなどを持ってくる。
 続いて、メインメニューの皿も運ばれてきた。
 ピーマンやニンジンのかけらがのぞくケチャップライス。
 つやつやと豪華なハヤシライスソース。
 ――しかし、そのどれよりも。皿のなかで目立つのは。本当に黄色い、ぐちゅぐちゅと今にも音を立てそうなほどに、
「流動体くさい……」
 オムレツ。
 ……思わず心のままにつぶやいてしまった。率直すぎる感想に。
 ザツは、すました顔で、
「凝ってるの、ものすげぇ、トロトロ半熟に」
 と、答えてきた。
 そういえば、昨日も半熟卵を食わされた。
「でもあんまり火ィとおさなすぎっと、魚のよーに生臭くなったりする」
 やりすぎはいけませんね〜ッ、と、鼻歌のようにしゃべる。
「ファミレスみてぇ」
 またもや、つぶやくと。
「あ。もうちょっと……なんかな〜」
 ファミレスという表現では、不服だったのだろう。
 ザツは口を、微妙にとがらした。
 ポリポリと頭をかきながら、「フランス料理店とかゆえとは言わねぇけど、ファミレス?」と、複雑そうな顔で言いながら、着席する。
 そんなザツを、じっと見てから。
 手元の皿に、視線を落とした。
 ……こーやって三度の食事を一緒にしたりとかしていると。なんだか既に、共同生活の様相を呈してきた、実感がある。
 いや、金銭面のスポンサーは、なんか一方的にこっちくさいが。
 準備されてたスプーンを、手に取る。
 悪態をついてはみたが、このフワフワオムレツは、もうしぶんなく、旨そうではある。
 舌の味縣感覚が半死しているのがもうしわけないほど、昨日も今日も、食卓がしごく家庭的だ。
 牛肉はひらひらと、薄切りのものが入っている。
 マッシュルームは、丸ごとタイプ。ころころとアクセント風に顔をのぞかせている。
 ひとさじ口に入れると、こっくりとしたデミグラスソースが、米粒にまとわりつき、絡んで。それから濃厚さが、ほろほろとほどけていく。
 肉や野菜の、わりとしっかりした歯ざわりと。
 香ばしく抜けていく、ソースの香り。
 スプーンと口を、順調に動かしながら、いつしか洩らしていた。
「おまえ、料理うまいんだろうな……」
「『だろうな』ってなに?」

 真夜中にはまだ遠いが、お子様はぼちぼち就寝するような時間。
 ベランダとも呼べないような。変則的な三角形をした……狭いバルコニーもどきから。
 水を張った洗面器と共に、いそいそとスタンバイを整えたザツが、
「アケル! アケル!」
 と満面の笑顔で呼んでくる。
 はいはい、とせかされるままに、雪駄を玄関から取り上げてきて向かえば、ノルマらしきぶんの線香花火を、胸元にドン、と押しつけられた。きっちり一束。
 こんなにいらない。
 はっきりきっぱり、辞退してさしあげたい量だが。しかし、ザツがウキウキと、左手に握りしめているのは、二束だ。
 なにか、反抗しない方がいいような気がする。
 ザツにならって、暗闇のベランダに、しゃがみこんだ。
 どこかの店名が入った紙マッチで、お互い一本目に火を灯した。
 すぐに、パチパチ……という音のみが、支配する場になる。
 不快な沈黙、では、ありえないが。
 なによりこの、しゃがみこんで、紐状のものを目の前にぶらさげて、それを見る姿勢が。落ちこんでいるか、いじけている人間のモンだ。
 ……暗いヤツの遊びだ。と思いながらも、コスモスのような火花を見つめる。
 火薬の、プンと鼻腔をつく、刺激。
 どこか鼻を鳴らし、嗅ぎたくなるような匂いだ。
 あんまり好きにもなれず、さっさとやめたタバコを恋しがらせるような煙も、たちのぼっている。
 一本目が、あっという間に終了した。
 おもむろにごそごそと、マッチを折り取り、擦り。二本目に、火をつけてから。
 燃えていることを確認だけするように、眼前の線香花火に、しばし視線を注いで……。
 それから。
 都会の夜空を、眺めてみた。
 昨日とさほど変わらない、三日月の細さ。
 ふりそそぐような、わずかな天体の光。
 ……そうこうしているうちに、また、一本が終わった。今度はけっこう早かった。どうやら、ゆすってしまったらしい。
 同じように、また始める。ボーっと脳をからっぽにして見ているうちに、また緋色の火種が落ちる。やや作業的にまた、ごそりごそりと火をつける。
 順々に、それを、繰り返していった。
 ……ちり、チりリ、という、くすぐるような、火花のはじける音色。
 けっこう多く、空に吸いこまれていく。けぶる、白い煙。
 ――ふいに、リアルな錯覚がおそってきた。
 前歯をやわくこじあけられ、口腔に、昔はよく食べたスイカの、ひとかけらが押しこまれたような。
 蘇る、弱い甘さ。酸味はなく、どこかツンとした植物のアクがあって。
 シャリ、と、歯に涼しくて。だけど口のなか、すぐなまぬるくなってしまう。
 ……あの、食感。
「…………」
 猿のようにしゃがみこんだまま。
 なんとなく、目を細めた。
 抱擁してくるような、曖昧な都会の闇。
 身をまかせるように、力を抜いて、たゆたってみる。
 はぁ、と。
 自然に、みぞおちの、深いところから、息をして。
 また、自分が、かなりリラックスしていることに、気がつく。
 ……たかが、花火。
 今も、そう、思っているけど。
 悪くなかった。
 思えば、ザツがもたらすものは、なんだか強制的にだけども――。今の、自分を、癒してくれる。
 ……ふと、ザツに目をやると、ヤツは既に、ラストスパートに入っていた。
 よく見ると、三本、ねじり合わせて、まとめてやっている。
 ……安いから、テキトーに消費する気なのだろうか、と思って、見ていたら。
 違った。
 息してるか? というくらいの集中力で、顔を寄せて、真剣に食いついている。
 どうやら、アレだ、でかい火の玉を作ろうとしているらしい。
 ザツの顔に近い位置で。
 わずかな、光源。
 生まれ変わり、うつろい続ける、爆ぜる炎。
 長いまつげが、あどけない、ふっくらとしたほほの曲線に落とす、影。
 ――完全に、ザツの方だけに、視界を集中させてしまうことになった。
 しゃべっていない、隣に人がいることをあまり意識していない、ザツは、雰囲気が変わる。
 幽玄で、儚い、貌。
 今は。
 消えゆく、夜半の精霊、のような。
 ……じゅんっ。
 冷えた地面に、大きな火の玉が。
 吸いこまれ。瞬時に消滅、した。
 ……ザツは、言葉を発さず、真剣な顔で。
 コンクリートに尽きた、最期の火の玉を、看取っていた。
 ……のかと思ったら。
「夏が終わってしまうわ……」
「って、夏は終わってるっつの」

 花火に使用した洗面器を持って、ザツがダイニングを歩いていった。ユニットバスで、処理をしてくる気なのだろう。
 水びたしになった火薬の匂いが、ザツの背を追いかけるように余韻として流れ、すぐに立ち消えていった。
 ……飽くほど十分したような、なのに寂しいような、半々の気分で。
 とりあえず、キッチンに向かった。
 習慣どおり、ビールを漁って。ごくり、ごく、と少量ずつあおりつつ、ダイニングに戻る。
 ダイニングでは、もうザツがうつぶせに寝ころんで、雑誌をめくっていた。
 そのザツに、自分が飲んでいるのとは違う、左手にぶらさげたもう一本を。さしだしてやると、
「いただいてもいいですかー?」
 へらへらと笑いながらの、やたらめったら丁寧なごますりと共に、ザツの両手がぱぁっと、花開かれた。
 ぺたり、と冷たい缶が、その手にシッカリと捕らえられる。
 ……かぶってる猫が、物理的に見える気がするな。茶トラだ。
 などと思って、横目に見ていたが。
 ハッと、ザツの広げている雑誌の写真に、目の焦点が吸い寄せられた。
 ……ザツが広げていたのは、スーパーの前の本屋でしいれてきた、週刊誌だった。
『共通の父親』の大麻スキャンダルが、ご丁寧に巻頭カラー特集で組まれているもの。
 やれやれ。と思いながら、ザツの左脇に、腰をおろす。
 世間的には関係のない人だとはいえ、まぁ随分、好き勝手に生きてくれているもんだ。
「ホラホラ、デビューからの軌跡までふりかえってツッこんでる。いつからやってたのか推理だってさ」
 ザツが、見ろ見ろと、雑誌をこちら側へと、ずらしてきてくれるが。
「――いや、いい」
 見ようとはせずに、肩をすくめた。
 しかし、ザツもたいがい、おもしろがっている。
 ザツはバレている隠し子だから、この先この件で、なんか迷惑をこうむることもあるだろうに。
「母さん、うまく逃げれてるらしーなー。出てこねぇ……」
 けっこうスミズミまで丹念に眺めながら、ザツが、感想をもらした。
 ……そういえば、ザツがここに居るということは、別々に避難したわけだ。
「……お母さんの方はどーしてんだ?」
 自分とおなじく、母子家庭のようなもの……なんだと思うが。
 なんで一緒に逃げなかったのだろう。そう、少し不思議に思いながら、聞いてみると。
「この機会に、男と駆け落ちしました」
 雑誌を熱心にめくり、こっちに視線も向けないまま。
 ザツは、そう答えた。
「…………」
 一瞬信じそうになる。が。
 明らかに真実味がないと言うか……ネタっぽい言い方だったことに気づき。
 あいかわらず雑誌に集中してるザツの後頭部に、疑惑のまなざしを、じっとりとそそいでみると。
 感づいたのか、チラ、とザツが、薄茶の瞳で見上げてきて。
『バレたー?』という風に、口をほぐして笑った。
 そうして、むくりと起き上がり、楽にあぐらをかく。
「ま、駆け落ちかどうかはともかく、マジで男んトコだと思うよ、うん。最近、新しい男に切り替わったとこみたいだったし」
 クケケという笑い声を付随させながら、そう言った。
 ――その笑いに、違和感がうず巻いて、眉をしかめた。
 息子としては……母親のそういうとこ……男関係っていうのは。
 ――見せられるの……ヤなもんじゃねぇのか?
 少なくとも、自分はそうだったし、今もそうなのだ。
 男がそこそこ一人だけに絞られていてすら、いわゆる『正式な』関係ではなかったから……気に食わず、認められないままなのに。
「……おまえの、母さん」
『どんな男遍歴、送ってるタイプなんだ?』と、ぶしつけに聞いてしまいそうになったが、あわてて、
「……どんな、人?」
 ブレーキをかけて、無難な言い回しで尋ねた。
「はーふ。見た目、がいじん」
 ザツが、えらく簡潔に説明する。
 ……そりゃ、ハーフなんだろうが。
「や、そーでなくて」
 そーいう事が聞きたかったんじゃないし、そもそもひとことであまりにも情報が足りないし、という、言外の非難がわかったのだろう。
「えと」
 ザツはそう、考えこむように、一声をつぶやいて。
 ……いきなり、ハッと口をつぐみ、赤くなって。顔をうつむけてしまう。
「――?」
 怪訝に思い、ほんのわずかに、顔をのぞきこむように動くと。
 ザツがまた短く、口を開いた。
「りょ、料理がヘタ……。かな」
 ――なんで。
 最初に思いつくことがそれで。
 ……しかもそんなんで赤面する必要がある……。
 とは思ったが、ザツにとっては重要な母親の地雷であるらしく。
 もともとピンク色がかった肌を、首筋まで赤くして。
 あいかわらず、うつむいている。
「…………」
 ……って、だからって。
 なんでコッチまで、頬やら鼻やら紅潮させなきゃならねーんだよー。
 なんでこんな話題で、そんなくすぐりまくるような態度になりやがるー。
 理不尽でなげきつつ、気まずく、ぎこちなくザツから視線をそらす。
 主に、ザツのかつてないほどの、珍しい態度が原因で。実に初めての、てれくさく他人行儀な空気が到来する。
 しかし、昨日っからせっせと食事を作る……作れる理由がわかったぞ。
 要するに、母親が、こいつの要求を満たせるメシを作れないので、自分で作るようになっていったのだろう。

 ザツが、ようやっと顔を上げて、とりなすように、
「アケルの母さんは〜、どんなひと?」
 と、場つなぎ的なのが丸出しで、聞いてきた。
「っ……」
 思わず、不必要なほど、口を結んでしまった。
 どーにも、母親にまつわるコトには……苦手意識が強い。
「――?」
 なんかまずいこと聞いた? とばかりに、ザツが頭をかたむけた。
「いや……」
 ふぅ、と、こわばった口元を、とく。
 昨日も、少しは、母親にまつわるエピソードってのが……会話に出たが。おれの母親ってのは。
『はーふ。見た目、がいじん』並に、一言で、言い表すなら。
「おまえ、どんな女が――好み?」
 缶の中の発泡する黄金色の液体を、揺らしながら、ゆるく腕を組みつつ。
 ひとりでに唐突に、投げていたセリフ。
 脈絡が断ち切れ、ぶっとんだ話題だった。
「ん〜? 女の好みっつってもなぁ〜」
 ……でもザツは。
 ビール缶の飲み口を、ぺろりと舐め上げながら。
 不審に思う様子もなく、のってきてくれた。
「や〜。おれ、守備範囲広いのよ」
 しかし、具体的な返事はかえってこず、
「雑食なのよ〜。若いから好み固まってねぇのかも、ゼリーのように」
 とか、調子よく続けたあげく、
「……今までで一番よかったセックスなら、サッとゆえるんだけど」
 おい! とつっこみたくなるような、提案をして、きた。
「……ほー」
 でも、止めなかった。
 ちょっとおもしろい。
 ……なんか、ちょっと複雑でもあるんだが。
 やっぱ、童貞じゃないわけかこいつ。そんなよーな気はしてたけど……。
 あらためて、ザツを、まじまじと見てしまう。
 中学生と高校生、どっちに見えると問われれば、中学生かな……と回答するような姿だ。
 首のあたりとか、さらさらした皮膚の質感とかに、輝くような子どもっぽさが見え隠れしている。
「おれの、初体験のときの、なんだけどっ! ちょっとスゴイよ〜!」
 ザツの、深い蜂蜜色の目が、くるくると陽気に動き。
 こっちの目に、からんできた。
 ビールを手放し、両手を、祈るように組み合わせ、その手を片ほほに当てて、うきゃうきゃとハシャいだザツの様子。
 ……無邪気でカワイイが、言っていることはただのワイダンだ。
「スゲェの?」
 そそのかすように、口をはさむ、と、
「うん、豪華!」
 との返答。
 豪華って……? どういうことだ。
 そう思ったが、しかし、そんな入口でつまずいている場合ではなかった。
「相手はねー、小西のお姉ーさん」
「…………」
 小西と言われても。
 ……だが、小西って誰だ、と顔に浮き出たらしい。
「小西は中学ン時の友達。そいつんチに、遊びに行ってたのね」
 ぺらぺら、と。
「居間のテレビでゲームやってたんだけど、そいつ、コンビニにおかし買いだしに行ってくれてさ〜。一人でレベル上げやってたのね」
 身ぶり手ぶりを交えながら始まる。ザツの独壇場。
「そこにね、すーっとね、妙齢の女の人がさ、横切っていったの。小西におネエさんがいたのは知ってたからさ〜。『あ、おじゃましてマス……』って、頭さげて挨拶したんだけど。そしたら!」
 ――ああ、コイツ立ち上がりやがる。
 と、瞬間的に、思った。
 それほどに、ザツの丸い瞳は、一挙に燃えあがるように興奮した。
「なんか、じっと見つめてきて! んでもって、ちょびっとだけ笑いかけてくれて『ちょっと手伝ってくれる?』って。部屋に連れてかれちゃったのっ!」
 しかし。ザツはなんとか、そわそわとながら、腰を落ち着けなおし。
「なんかぁ、その段階でドキドキしちゃうっしょ? お部屋につれてかれて、スーッとふすまの内側に『しまわれちゃって』さ。お互い正座なお見合い状態で、しばらく黙ってたのよ。したら、玄関の音がして、ああ、小西が帰ってきたな〜、と思ってたら、『千歳〜?』って探してる声が聞こえてきて。そしたら、そのお姉さんが、サッと立ち上がってね、ふすまから顔だけ出して、『用ができたって、帰ったよ? あやまっておいてくれって』って……。それを、ほっそりした腰のラインとか、背中見ながら、聞いてるわけよ!」
 ねずみのおもちゃをいたぶりまくっている子猫みたいな、全体的につりあがってしまってる顔で、トリップを続行する。
「もぉ、だらだら汗、出ちゃって。冷や汗っぽい、でも興奮の汗なわけよ! いやおーなしに、膝の上のこぶしにも力ぁ入るってもんでしょっ?……『いるのにいないって、それって、ソレっ? これからココでっすかっ?』って、もーこれはあぁってテントも絶好調だしょッ?」
「……っ」
 つばが、とんできた。反射的に、左目をつむってしまいながら、
「それ、いただかれてるぞ、どっちかってと」
 顔を半分しかめ、半分わらって。
 左あごのあたりを手の甲でぬぐいながら。聞き手に、徹する。
 ……罪のない感じがする、こいつの女の話は。
 年齢のせいも……あるかもしれねぇ、けども。
「シますか? って言うか、スルんですよねっ? って雰囲気がビンビンで」
 右手を、ぶんぶん、蚊でも追い払っているかのように、まわしつつ、
「またこれが、ナンにも言わないのよっ! で、ぷちぷちぷちっておれの服のボタンはずしてくれてさぁ……」
 どんどん熱にうかされていく、ザツの顔。
 ただでさえ桃色がかったほっぺたが、つるつると、わずかな発汗に、艶めいている。
 ……なるほど、こいつがソノ気になった時の顔って、こんなんか。
「んで彼女、立ち上がって、パンツだけこう、くるっとさ、脚からぬいたの! 下着だけ脱がれるのって、けっこうなショックじゃん! 獣っぽぃ感じでムハーっつか……! また、女モンの下着って、なんであんなに薄くてちっちゃくてカラフルかなぁって……! クシャクシャに丸まっちゃって手のなかにおさまっちゃってて……。ああっ、あの映像も忘れらんない!」
 じたばたっ! という音が聞こえそうに、自分の体を両腕でかかえつつ、身をよじる。
「あっと思ったら、もーピンクのフレアスカートがぶわ〜っと広がってて、もお、またがられちゃってて! また流れるよーな指つきで、ジッパーなわけですよ! んで、唇と唇くっついて、リンスの香りがふわぁぁ〜って」
 皮膚から発散されているのであろう、ザツから、なにやらやけどしそうな熱気が漂ってくる。
「んで、間髪をいれずにくちゅり〜なワケっすよ……ッ! もー、下着のなかグッショリだったのっ? って位、つやつやでさ〜! ああお姉様って感じで……。メチャクチャ気持ちよかった!」
 ズッ、とかすかながら確かな、下卑た音がした。……ヨダレをすするなよ。
「わぁわぁ、リード取れないよ〜! とか思ってたら、さらにさ、ゆさゆさしながら、合わせて、おれの髪、長い指の両手でくしゃくしゃとかもし始めてくれてさ〜っ。もう、ひったすらアワワワワぁ……って感じで……っ」
 指先で床にのの字を書くようにしながら。思い出す快楽のやりどころなのか、上半身をクネクネさせている。
 首もたまにふるもんだから、ゴールドに煌めく髪が、乱れて。
 心底嬉しそうで、わずかにはにかんだ微笑で。
 ――はっきり言って、目の毒だ。
 しかし、ザツは話をこっちにくりひろげつつも、自分の世界に入ってしまっているので、そういう自覚は微塵もないのだろう。
 おきざりな気分を味わいつつも、
「……主導権にぎられっぱなしじゃねーか」
 情けないヤツ、というニュアンスをふくめて。
 挑発、したのだが。
「なんでっ、悪いっ? 性体験、初心者級、の初日よっ?」
 などと、勢いだけはある単語をぶつけられる。
「ああ、も一回、アレくりかえしたい……」
 そして、あいかわらず、大好きであろうビールも、ほっぽらかしたまま。
 うっとりと夢想する目で、ザツは天井のすみっこを、ぼぉっと見あげる。
「お願いしに行きゃいいじゃねぇか。家、知ってんだろ?」
 少々は。胸のすみに不穏に巣食う、イライラを、自覚しながら。
 右手のなかの缶をチャポチャポと左右に振りながら、あえて軽い調子で言ってみた。
「ちがう、ちがうってー!」
 ザツは憤慨した様子で、えらい勢いで向き直ってきた。
「相手の問題じゃねぇの、もう二度とこねぇからこその最高なの!」
 ぐっと、顔を近づけられて、
「わかるだろ?」
 と、場違いにド真剣に。
 じっと、目をのぞきこまれて言われたので。
「…………」
 おもわず、大きくうなずいてしまった。
 たしかに、ものすげぇわかる心境ではある。
 シチュエーションと言うか、『童貞』だとか、『友達の家』とか、友達の『姉貴』とか。
 とにかく……色々な要素が不可欠なのだろう。
 ザツは、言葉にしなくとも伝わる、男同士でのふかい深度での同意、が得られたせいか。
 満足しきったように、うむ、とうなずき返してきて。
 忘れてはいなかったらしい床のビールを荒々しくひったくって、さんざわめいたせいで渇いたらしき喉へ、ごくごくごきゅる、と、おもむろに叩きこみだした。
「そーゆーそっちの、好きなタイプつったらなんなのよ〜?」
 惜しみなくあおったせいで、一気に残り少なくなったビールを。
 名残惜しそうに、何度にも分けてかたむけながら、ザツが、我に返ったように、そう聞いてきた。
「好み……」
 視線を、ザツからはずし、室内にさまよわせる。
「っつーか、これだけはダメ、ってのが……」
 そもそも、好みを、なんとなく、ザツに尋ねてみてしまったのは。
 ザツがおのれの母親の……男関係すらも、ばっさり、他人事として見れているのが、……不可思議だったからで。
 おれは、そうはいかなかったのだ。
 で、そうはいかなかった、結果。いまや『自分の母親』ってヤツを。一言で形づくるなら。
「――まんま、母親なんだよ」
「は?」
 ゴリゴリと、後頭部と首のさかい目をひっかきながら、言った、意味に。
 あっけにとられたような声を出したザツに、即答せずに。
 ビールを一口すすって。間を、あけてから。
「……一番キライな女のタイプ」
 そう、告げた。
 ……いつのまにか、そう、なってしまっていたのだ。
「おお」
 ぱちくり、と、ザツの。
 室内灯を淡くともした、キャラメル色の瞳が、またたいた。
「ソラマタ、どして?」
 こころもち身を寄せるようにしてきながら、ザツが、顔をのぞきこんできた。
「……昨日、言った、ヒモみたいな同居人の男ってのの、内心がなぁ」
 まだ、髪のえりあしの生え際のあたりをかきむしりながら、
「ガキから見たって、あっきらかだったんだよ。金めあてっつか……生活費浮かすために入り浸ってんだなー。ってのは」
 未だにあのマンションに、母親と、半同棲してるのだろう、あの男は。
 一緒に暮らした十数年、徹頭徹尾、煮えきらないままだった。
 えんえん続いた、愛人なんだか夫婦なんだかヒモなんだか、わからない状態。
 そんな男に対して、『大物芸能人』以上に、確執があるのは、当然としても。
 ――それを許容し、馴れ合ってる母親さえも、嫌になっていったのは。まぁ、自分でも予想外だった。
 顔が好きなんだか、体が好きなんだか、もしかして男がいないと寂しいだけなんだか、どれだかはわからないが。
『こっちの子じゃないと思うんだな〜』と思ってるらしいのに、ダラダラもらってる養育費で、男をつなぎとめておく日々。それをまのあたりにしていると。
 料理がヘタじゃなくても。掃除がけっこマメでも。別に、露出度が高い服ばっか着てるとかじゃ、なくても。
『だらしない』そんな嫌悪が、消えなくて。
 女の嫌なところ、曖昧にでもつきつけられ続けられているようで、
「許せなくて、な〜」
 ……あぐらを崩したような体勢で、じぃっ、と、見上げてきながら、聞き入っていたザツは。
 しばし、まじめな顔で黙っていたが。
 すごい真顔で、口を開いた。
「ある意味、マザコン」
「殴る」
 しかも、ピシッとした指さしつきでか。
 一応、拳を作って、左腕をふりかぶると。
 わぁ〜、と言いながら、ザツは上体だけで泳ぎ、逃げていく。
 ザツの頭が、腕をめいっぱい伸ばしても届かない位置まで、逃げていった段階で。
 かくん、と、おれは首を折ってしまった。疲れきった感じで。
 視界に映るのは、汗をかいたアルミ缶からつたわった、床にじんわりたまった雫。わざわざ拭く気にもならない、半端な水たまり。
「……ガキってさ、多少、マザコンになるしかねぇとこ、あんじゃん」
 幼児期の、原始的に甘ったれきった、絹のような記憶。
 ひっついていたくて。頭とかさわってもらいたくて。ほほえみかけてほしくて。
 世界の全てが、その思考だけで染まっていた。
「あーそれはわかりマス」
 ずずー、と、辛気くさい音を立てて、ザツが缶を逆さまにせんばかりにして、ビールをすする。もうほぼ、中身がなくなっているのだろう。
「んなマザコンから、だんだん脱却していくうちに……。なんか、客観的に見れるよーうになって、どーしようもなく嫌になってった訳」
 幻滅と言うか。
 裏切られた、ってのとは、ちょっと、ちがうのかもしれないが。
 心情的には、そんなモンで。
 だって、たいてい誰にだって、自分の母親は……。
 最初の最初は、聖母だろう?
「……だいたい、金づるだってアテにされてるだけでよ、愛情はもー、オフにスイッチ入れられてんのが、見え見えだっつのに……」
 そこでしつこく追いすがれる神経が、わからない。
「……ンで、女って、ああかな……」
 寝たら何らかの権利が発生すると思ってるのばっかり、だ。
 たまたま、当たる女がそういうタイプばかりなのかもしれないが……。多分、そう、なんだろうが。
 ……ガキの頃、しまいこんだ机のすみで溶かしてしまって。そこままそこで、べちゃっとへばりついてぎとぎと再凝固していたキャラメルのごとき。
 始末不可能のモノ、を見たような、気分にさせられる。
「何べんナカぐちゃぐちゃ擦ったって、奥までくわえこんだんだって、おれはおまえの所有物じゃあねーんだ、っつーの……」
 ――まぶたの裏、蜃気楼のようにゆらめく。
 ――母親そっくりの内面を持っていた女の、面影。
「女のそういうトコ、ほんと、嫌。もう、嫌。ほんとーに……嫌」
 さっきから、よりっぱなしの眉間の皺。
 そのせいでちぢまる視界で、天井だけを見つめながら。
 心を。命をこめて、なげいた。
 ……ぐったりした様子のこちらを、あんまり気づかう様子もなく。
「そーだな〜。寝たらベタつくよーになる女いるけど、あれはイヤめよなー」
 ザツの。雲のごとき、ふわふわと軽いあいづち。
 暗さも重さも、なんにも伝染していない。
「…………」
 つい、口元が、ゆるんだ。
「好きじゃなくなられてんなら、さっさとこっちも好きじゃなくなればいいのにな〜。女ってそゆトコうっとうしかったりするよな」
 ザツから、はははっと、普段どおりの笑いが洩れる。
 ハハ、と、つられて笑ってしまった。
 足し算引き算の理論。
『恋愛』がそればっかじゃないことは、さすがにこの年になれば、知ってるけど。
 一瞬、反論のしようもなくなる、ザツのストレートな幼い意見は、痛快だ。
 ――簡単なことなのに、と。
 この割り切りっぷりは、羨ましい。
 無意識に、手許のビールを、ゆすっていた。そこから、ぽちゃん、と洩れてきた水音。
 アルミの内面世界で飛び散る、飛沫さえも、目に映ってくるような。
 水面に、かえるが飛びこんでいくごとき。
 静けさを、悟らせる音。
 そんな、どこか、しんとした心持ちの中で。
「……おれ、おまえと育ちたかったかもな……」
 遠い目になりながら、零していた。
「なんだそりゃー」
 足先で、パタパタっと、フローリングの床を叩きながら、の。
 真面目くさい嘆願を、いかにもシャレとしか受け取っていない。
 ザツの、合いの手。
 ……ちら、と横目でザツを見て。
 はぁ、と、盛大なため息を、みぞおちのあたりから吐いてしまった。
 ――その、ため息で。
 今、ものすごく本気で、切望して、この台詞を吐いたんだと、自覚した。

 ◆

 外に出て確認しなくてもわかる、晴天ぶり。
 ザツが製作した……カーテン? が、日光に透けながら、ハタハタと風に動いている。
 昨日、なしくずしに、やや深酒状態に陥り、そろって寝坊ぎみの目覚めだった。
 今日はちょっと、暑さがぶりかえしてきているようだ。
 おそらくは毎度のことながら、すっきりと酒気の抜けた強肝ぶりで。白Tシャツに、ホットパンツにも見える水色のトランクス姿で、ザツが室内をうろついている。
 百円ショップで買ってきた『サンガリアカフェオレ』を、やっぱり百円ショップで仕入れた容器にぶちこんで作った、お手製アイスキャンデーのはじっこを、ガジガジと根気よくかじりながら、携帯をピ、ピ、ピッ!……ピ……ピピ! っといじっている。
 あきらかに、端末として使っている様子。
 ……しかし、かなりきわどい部分まで丸出しの、こんな格好をしていると、余計よくわかる。
 混血ならではのウエストの高さ。
 一瞬、棒のようだ、という印象すら受ける、バレエダンサーか何かのようにまっすぐな足。すね毛はあるんだか無いんだか、無くはないけど色素が薄いのだか、とにかく存在感が零だ。
 男にしては、ぷくっと唐突にでっぱった、丸い尻をしている。
 ……むさいだの、暑くるしいだのという感想とは無縁の肢体を。さりげなく、しかしながら舐めるように、つい見てしまっている。
 ザツははっきりと、気温が上がった、と体感しているらしく。服装だけではあきたらず、髪もいじっていた。
 暫定的な粗いかんじで、髪を、ちょうどうさぎの両耳の位置で束ね、すっきりさせている。
 そんな頭頂部のあたりがちょっと、女のコの休日、みたいな雰囲気を発散していて、いつもと違った。
 ……しかし、ヘアピンなんか持ってきてたのか? クシも持ってきてなかった男が?
 としばしそこを中心に観察してみていたらば。木肌色な髪にうずもれがちでわからなかったが、昨日の洗濯ばさみだった。
 ……ずっとピピッ、ピ、と電子音を響かせていたザツが、ふと指の動きを止めた。
 何か、情報を得たらしい。
 ぱたん! とカメラつき携帯のフタを、威勢よく閉じて。
「んじゃ、出陣ッス!」
 間髪をいれず。笑顔を、こっちに発射してきた。

 そこそこ近代的なビルの前に、すきまなくびっちりと立てられているノボリ。
 その布地におどる、客を呼びこむポップの文字。
「おまえ……百円玉になんか、こだわりでも持ってんのか?」
 つい、そちらに目をやったまま。
 そんな疑問を、もらしてしまう。
 ……だって、昨日に引き続き、だ。
「なによこだわりって」
 目を細めて返事してきたザツは、「そんなもんどーやって持つのよ、ワンコイン換算は最近の風潮よ、風潮」と続けながら、ビルへふらふらと吸いこまれていく。
 オフホワイトの砂目パーカーに、森林迷彩のカーゴパンツ。スニーカーはゴツめで黒。
 そんな、いかにも活動的なかっこうのザツに続いて、ビルに入ると。
 そろってゲートに行く手を阻まれた。
 係員に声をかけられて、カードを作製する手続きを済ます。
 ――十五分百円のアミューズメントビル。
 色々な室内レジャー施設がそろっていて、どれをやっても同料金、だ。
 べつだん悪い遊び場チョイスだとは思わないが。
 なにやらやたら、銀色で丸い金属のニオイがする。昨日が昨日だっただけに。
 やっぱりコイツは、あんまり裕福に育ってきたわけでもないのかもしれない。
 ……ゲートを抜けると、いきなりロビーのような、極小ホールのような、ふきぬけに出た。中央に、バスケットゴールが設置してある。
 これでミニゲームを、それぞれ勝手にしろ、みたいなことらしい。
「あ〜これはまた、金かかってない設備……」
 悪態をつきながら、ザツがスッと、ちょっとしたホール状態になっているそこへ、ためらいもなく進み出ていった。
 もう洗濯ばさみは外れている。今日は出がけにクシでちゃんととかした天然モノの髪が、キラキラと揺れている。
 さっきまで誰も、そのゴール下に、近づいていなかったせいもあるのだろう。
 そこかしこにまばらにいる人々から、さぁっと、ザツに視線がからみついていくのがわかる。
 スポットライトのように陽光が射しこむ、ささやかだが、舞台めいたそこへ。
 ザツは全くおくした様子がなく、毅然としてすら見える自然体で、進み出て。地にころがっていたあざやかなオレンジのボールを、かがんで手に取る。
 ダンダンダム、と響く、小手調べのドリブル音。
 おもむろに、そうやってボールを纏わりつかせたまま、こっちにテクテクと戻ってくる。
 そして、ゴール下からかなりの距離が取れた時。
 こっちに向かっていたザツの身体が、クルリと踵を返され、反転した。
 サァっと低くなる姿勢。
 ためられる、瞬発力。
 そして、弓が放たれる。
 視野というスクリーンを斜めに斬っていくような、スピード感。
 なびき、駆け抜ける。ライオンのたてがみの色彩。
 カツッという乾いた、踏み切りの靴音がした。
 宙空でそりかえった、無駄な肉のない、背。
 えびぞりに跳ねた足先。黒いスニーカーの靴底が、瞬間的に目に焼きつく。
 あみの代わりに鎖がたれさがっているバスケットゴールに、ぶわりと。薄茶と白とカーキと黒で構成された姿が飛んでいき、……届く。
 ガッコン! と。なにかが激しくはずれるような、そんな衝撃音が、鳴り響く。
 ……それが区切りとなって、ホールに満ちていたわずかな緊迫が、ゆるんだ。
 ダン! ダン、ダンダンダン……。と、穴から落下したボールが、はずみ、そのエネルギーが消滅してゆく擬音。ころころころ……と力ないあがきを最後に、消える。
 そんな風に。
 全部が、終結したのに。
 ダンクシュートが終了した時の体勢のまま。こっちに、背中を見せて。ザツが、降りてこない。
「……なにやってんだー?」
 両手をジーンズの両ポケットにつっこんだ体勢で。そう、ザツに怒鳴る。
 ザツは、小鳥のように、キョロ、キョロと。
 首を左右に、それから上下に、物珍しげにめぐらせていた。
 ふきぬけになっているホール。どうやら、あちこちがみわたせる、新鮮な、異常に高い特等席な視点が、おもしろいようだ。
 だが、こっちの呼びかけに応えて。
 まだてるてるぼうずよろしくぶらさがったまま、ザツはくるっと、顔だけ、こっちに見せて。
 てへっ、と、笑い、
「おりられなくなっちゃったっ」
 ……木登りに挑戦してみた、子猫のようなことを言う。
 ふざけてるつもり、なんだろうが……。
 どうも、なんか。
 そうか〜よしよし、とばかりに。
 寄っていって、抱きあげたくなるような気分が……その態度で、自分の中に、生じる。
 手をさしのべない為に、ジーンズのポケットに、より深く両手をつっこんだ。
「……な〜に、言ってんだ」
 なんなんだろうなァ、と、思う。
 男で。そこそこ子どもって年でもねぇ相手に。なんでこんな。
 ……弟、かもしれないからだろうか。
 こんなにかわいいもんなのか。
 外見が、普通に目の保養になってそうなほど、良いせいもあるとは思うが。
 顔にも口にも出してないけれど、こいつが部屋に来てからというもの、『まだ明日も帰らないよな』と、何度も思った。……思わせられた。
 いなけりゃいないでどうにでもなってたのに。
 居たところが空けば、悲しいだろうと予想がつくほどに、ハメられてしまった感がある。
 ……たとえば、只今、脇のカフェコーナーにいる大学生くらいの女三人組が。
 ザツを見ながら、なにやら顔よせあって談合しているのが、なんか不愉快なほど、行きすぎに。

 相手をしろ、とねだられるかと思ったが、ザツはバスケットのコーナーを、ごくごく軽く流したあと、次のボウリングコーナーに着手した。
 レーン数は五と少なめだったが、一レーンあいていたので、さっさとザツはそこに陣取り、チャキチャキとボールを選びだす。
 黄緑色の、十五と白く表示がついたものを、ひょいっと手に取り、アプローチに立つ。
 短い助走。
 そして、お遊びとは思えぬほどしっかり、きゅうぅっ、と、内側にたわめられ、丸まる体。
 玉を持った腕だけに溜められた力が、解放され、レーンの上にはなたれた。
 ……体全体をバネにしての、渾身の力をこめての、投擲。
 自分まで、玉と一緒にシューッとレーンをすべっていきそうな、体重ののせ方、だった。フォームって馬鹿にできねぇんだな……と、なにやら真剣に思わせられてしまう。
 その感想を裏づけるように、ゴー! と、なかなかに軽快な音を立てて、レーンの少し右よりから中央へ少しずつラインをカーブさせながら、黄緑のボールが猛進していく。
 カッコーン!……ガツ、カ! と。一見すればわかるほどスピンしまくっていたボールが、派手に。巻きこみたいだけまわりを巻きこんで、整然と立っていたピンの倒壊を、引き起こす。
 ストライクの表示が、アプローチ前のモニターに、フラッシュする。
 その表示に次いで、猫やねずみのアニメキャラクターが、花束やらクラッカーやらつきで飛び出してきて、画面が祝福モードだ。
「シッ!」
 舌打ちのような歓声をあげて、軽くガッツポーズをとって。
 それから、ザツは意気揚々と戻ってくる。
 レーン後方のスペースに据えてある、プラスチック製の硬いベンチに、だら〜んと、身体をふせてだらしなく寝そべる。
 ……入れ替わりで。
 惰性まるだしにのろりのろりと、ベンチ脇のボール置き場に、近づいた。
 ごろごろとたむろしている数種の玉から、一つのボールを選び取る。
 ザツが、ひょい、と、目だけを上げて、こっちを見あげてきて。
「十八ポンドっすか〜」
 と、感想を述べる。
 かわいげのカケラもない漆黒のボール。指を入れる部分も、他のものよりは段違いに太い。白い十八という表示。
「こんくらいはないとな……」
 もっと重くてもいいのだが、ざっと探したところ、ここにおいてある最重は、このポンドだった。
「おまえ、十五だもんな……」
 ボソボソと一定のトーンで、やる気なく。
 わずかにだけ、からかってみると、
「おれはフォームも独自完璧だからいっのー!」
 と、ザツはまた、なにやら乱れた日本語で反論してくる。
 無造作に、アプローチへ立った。
 ザツとは対極的に、歩くような速度で、助走スペースを消化する。
 これもザツとは対極的に、フォームは腕を扇形にふるだけ。
 ボールが、指先から送り出される。
 とくにこだわりはないし、投げ方に詳しいわけでもないが、上背だけなら売るほどある。
 今も、それが換算され、ボールは中央部をつき進んでいく。
 まっすぐに転がせば、やがて辿り着いた先、ボールが当たった部分が確実に重量でたおれる。
 スピンにはあまり期待をかけていないが、それだってないわけではないので、ストライクとはいかずとも、そこそこの竜巻状態を見せた。
 ガツッ! カッ、ガーン! と。
 ストライクには一、二本満たなかったが。
 一瞬前までピンの頭がぎっちり並んでいた空間は、まぁそこそこのすき具合を見せた。
「おお、さすがに重いとテクいらずだね!」
 あいかわらず、ベンチの面積をほとんど一人で使い切っているザツが、拍手しながら。
 けなしてんのか誉めてんのか……まぁ、図星ではある茶々を入れてきた。

 それから一ゲーム、ザツはいちいち挑みかかるように、こっちは淡々と、ボールを投げまくった。
 結果、レシートのように吐き出されたゲーム結果は、こっちはごく普通の成年間近な男子の数値。ザツは二百超えという、バケモノスコアを示していた。
 そんな紙キレを眺めつつ、立ち寄ったカフェコーナー。
 持ち帰りで購入してきたコーラの、ラージサイズの紙コップを、まわし飲みしつつ。
 次にザツに連れこまれたのは、赤いドアが規則的に散らばる、『カラオケボックス』のコーナーだった。
 一つの空室に押しこまれて。おれだけ、ビニールレザーなアイボリーのソファーに、腰をおろした。
 ザツは、入室するなり、立ったまま。さっそく、ぱらり、ぱら、と、テーブルの上のぶ厚いカタログをめくりはじめる。
 そして、数秒という異常な速さで、もうコードを見つけたらしく、リモコンを取り上げる。
 ……そうして、しょっぱなに入れた曲が。
 イントロと共に、作詞、作曲を従えて、テレビに浮かび上がってきた曲名は。
「……『あずさ2号』?」
 なにゆえ? という表情で、ぽかんと口を開けての、こっちの追及に。
「おとといテレビでやってたじゃん! ご本人さん登場〜つって」
 両手でけっこう大事そうにマイクを握りしめて、画面だけを見ているザツが。リズムにかすかに全身を揺らしながら、そう爽やかに答えた。
 ……だからってなぜ。
「ケッコー名曲よ?」
 ……気に入ってたのか。
 そうして、もはや止めようもなく、……まあ止めるほどのもんでもないが、始まる歌詞。
 演歌っぽい懐メロ、……というかなつかしくはねぇが、捨てられた女の……。ちがうのか……?
 とにかく、男と決別しようとしている女の……せいしゅんソング? を、ザツは歌いはじめる。
 声変わりはさすがに済ませているんだろう、ザツの、歌声。
 かろうじて、男の子なんだな、とはわかるが、高らかで、甘く、優しい、どこにもひっかかりのない声だった。
 ……と、唐突に、ザツの口からこぼれていた、メロディが止まった。
 どうした、と、ザツの顔を見上げると。
「ここ聴いたことねぇ、わかんねぇ」
 ザツは、困惑した眉根で、洩らした。
 そりゃそうだろう。
 ああいう番組は、サビしかやらねぇもんだし。
 ……そうか、ならば。
 今までザツは、大部分、テキトーに歌っていたはずなのだ。なのに。
「…………」
 理解していなかった事実を認識してしまい、複雑な気持ちで、テレビに視線を戻した。
 いたずらに、文字と景色を流していく、画面。
 ……おれも知らないから、正確に判断はできないが。
 さっきから、ザツの歌はとりあえず。
 あのテロップの文字が塗りつぶされていく速度に、遅れないし、早すぎもしなかった。
 ――血を、感じさせる。
 隠そうともしていない『カエルの子』としての素質。
 そして、見せつけるかのようにふりまいている、外見だけではなく内面にすらある華やかさ。
 ここ三日、一緒にいてわかっている。
 ザツはあの血を嫌がってはいず、むしろ、あの男と同方向に進もうとしているのだ。
 ……思わず、明らかにそっぽをむいて。
 右脚のふとももに乗せる形で、脚を組んで。
 片手にしたままのドリンクを、一口ぶん、かたむけて。呟いてしまった。
「さすが、器用ですな」
 ――コイツはまちがいなく。芸能人二世、だ。
「……なんでイヤミっぽく言うんだ?」

 エネルギッシュに楽しみつつ、ビルの『全制覇』をも狙っていたザツも、さすがに。
 最上階の銭湯だけはめぐれぬまま、マンガ喫茶、インターネットカフェの階にある『リラックスルーム』で、ダウンした。
 どのコーナーも五割くらいの力で流していたこっちとは、疲弊の度合いが違うのだろう。
 なんでそんなになるまで全力で遊ぶんだ……とたしなめたくなるほどの、肉体の弛緩ぶりで。ザツは沈みこむ。
 リラックスルームそなえつけの、四十五度に流れるようなデザインの、紅いマッサージチェアへ。
「ああっ、この絶妙な斜面……。体が吸収されてゆく〜」
 ……これだけ絶賛されて、ゴロゴロされたら、本望だろう、このイスも。
 そうあきれながら、その隣の、同型同色チェアに、自分も腰を下ろした。
 ……座って気がついた、なんだこりゃ、マッサージチェアじゃねぇ。
 ただの『リラックスチェア』だ。
 なんのスイッチも、こりほぐし用の突起も、ついていない。電動を始めさすためのスイッチも、どこにもない。
 ……まぁ、いらないんだが。使おうとも思わねぇし。
 しっかし、これ一つでリラックスしろ、ってのは……看板に偽りありなような。
 と、ひととおり、手さぐりで確かめ終えて。
 ふと、また顔を上げて、ザツを見ると。
 既にザツは、ぴくりともしていなかった。
 リラックスと銘打ってる割には、眠ってほしくはないのか、あんまり控えられてないライト。
 安眠を妨げてしかるべきはずのそれの下、ザツの髪や、閉じられたまぶたのせいで目立つまつげが、キラキラと光っている。
 ……あれ。
 こいつ、ひょっとして、まつげも金色がかってるのかな……。
 今、初めて思い当たった可能性に。なんとなく、好奇心がうずいて。
 足音を潜めて、近づいていった。
 身をかがめて、じぃっとのぞきこんでみる。
 ……ライトに反射して、なかなか識別できない。
「…………」
 第三者から見れば、寝込みを襲ってるとしか思えないような位置まで、顔を近づけた。
 瞬間、ぱ、と、音すら立てそうなあざやかさで。
 ザツの瞳が、開いた。
「っ!」
 瞬間、心臓が停止したような気がした。
 ミストブラウンの虹彩に、がちがちに体が呪縛される。
 ……別に、やましいことはしてなかったんだが。
 覆いかぶさるようになっている上半身の背筋に、ものさしでも差しこまれたように、ピシっと不自然なひきつりが起こっている。
 ……しかし。
「寝ちゃっていい?」
「……は?」
 ザツの、危機感もなんにもない言葉に、束縛は、あっさりとほどける。
 同時に口も動くようになったので、
「いっけど」
 そんなもんは個人の好きに、自由にすりゃいいだろ。
 という意味で、返事をすると。
 意思疎通のズレに気づいたのか、ザツが再び口を開いて、
「じゃなくて〜」
 ――金かかるから。
 と続けた。
「…………」
 妙なところ、だけで。
 唐突に遠慮を見せる。
 これさえなければ、純度百%で、コイツはずうずうしいのだが。
 ――ほだされてしまうんだ。
 ザツから目を離さぬまま、しばし黙考した。
 十五分百円。
 六時間ここで仮眠……ならぬ睡眠してしまっても、二千四百円、という計算になる。
「ホテルよりゃましだろ」
 しばし後に、そう返答すると、
「やんっ、優しい、アケル!」
 また、ザツが、演技はいった態度で、言った。
 肩をすぼめて、うふっとばかりに微笑みかけてくる。
 ……だから、あんまシャレになってねーっての。
 ふぅ、と息をつき。
 ついでに手を腰にやり、ゴキリ、と背筋をまっすぐにした。固まってしまっていた腰を伸ばす。
 ……その、数秒にも満たない、視線が外れたスキに。
 くぉ〜。とばかりに。ザツの呼吸がのんきに、眠りの園へ、旅立っていた。
「…………」
 右の中指の指先だけで、その寝顔にかかる、鳶色の前髪を払う。
 そのまま、なんとなく。
 存在がかき消えないよう見張るかのように、ザツに注目したまま、すぐ横のリラックスチェアに、またどすんと腰かけた。
 ゆっくりと、横たわっていく。
 ……くぉお〜。か〜。と。
 いびきとは別種の、にぎやかな寝息を立てて眠る、平和なザツの姿。
「…………」
 安らかな笑みが浮かんでしまう。
 筋肉には。久しぶりに、快い疲労が宿っていて。
 そのせいか体が、少し、ぽかぽかとして。
 もったいぶるように、スローに、目を閉じていった。
 ――よく、眠れる気がした。

 すずめの声が、今日もまたチュンチュンと、笑えてしまうほどスタンダードにさえずっている。
 ダラダラと二人そろって、パンツのポケットに両手をつっこみ、くだるのは。
 夜明けを迎えたばかりの階段。
 百円アミューズメントビルからすこし離れた所。時間的に、まだ登校する小学生すら見当たらない。
「…………」
 ふぁ〜、と、あくびをしてしまいながら、また一段、階段を降りた。
 起きるなり、焦ったように『出よう出よう』とバタバタしだしたザツは。
 起き抜けだし、ちょっとはだらだらしていたいのだが……などというこっちの思惑は酌んではくれず、まぁ、あえて強く訴える気にもなれず。
 カフェコーナーでベーグルサンドだけをつめこんで、あわただしくビルを後にしたのだ。
 ……たぶん、あれは、料金を気にしてのことだったのだろう。
 すっきりするだけ寝てしまった後に気にしだすところが、なんつーかアンバランスっつーか……。
 欲求優先な子ども体質と、貧乏性が、同居してるところが、やっぱりなんか、ほほえましい。
「ん〜む」
 ザツが、階段に。
 いきなりドカっと、腰をおろした。
 ……数歩、先に行ってしまってから。応じて、足を止めた。
 首だけをまわし、ザツを、ふりかえる。
 股をカパッと開きぎみに、階段の段をイスのように利用して座っている。
 左膝に左肘をついて、ほおづえをしながら、思案顔だ。
 そよそよと風になびいている、頭髪の表面の、幾本かの髪。
 ……暑かったのか、ザツはいつのまにか、ホワイトに茶の砂がちったパーカーの前ファスナーを、全部あけていた。
 下にはなにも身につけていなかったらしく、裸の腹やら胸やらがまるごと見える。
 ひらひらと、パーカーのすそが、風にたなびき続けている。
 森林迷彩のカーゴパンツは、ローライズだったようだ。腰まで、すっきりと出ている。
 見事にへこんだ骨盤の周囲。
 脂肪という単語をどこに置き忘れてきた、というような。
 ……よく見ると六つとはいかないが、微妙に腹筋は、割れていた。若い男らしく。
 まるでそこだけが、少女どころか、誕生したての天使役でもハマりそうな外見の中、やっと少年と見分ける手がかりのようだった。
 ただ、なかなかその筋肉の陰影を見分けられない程度だから、胸部から腹部にかけてひたすら『なだらかな』という印象しか抱けない。手をのばしてふれてみたら、気持ちよさそうだ。
 ……賛美するようなまなざしを、とぎれることなく、向けてしまう。
 教会にあるすべらかな白肌を持つ像のように、なんだか。
 ……性欲とか、関係なく取り除けておいても、綺麗だ。
「ん〜」
 いきなり首を巡らし、ザツがふりかえってきた。
 きつい朝日のせいで、通常より、ますます淡い。シャンパン色の瞳。
 性懲りもなく、ギクリッ、としてしまった。
「タバコ吸いたい」
 ……ザツがまた、瞬間的に、こっちを仰天させるようなことを言う。
 別に、驚くようなことでもないが。
 しかし年齢より幼く見えて、おまけに黙ってりゃあ、どんな品行方正で清廉潔白なお子さんにだって見てもらえそうなコイツが……ボロボロ出す、地は。
 どーにも、ワルガキで、都会っ子で、男だ。
「持ってない?」
 と、更に小首をかしげて、ねだるようにザツに聞かれたので。
 無言のまま、一往復、首を振った。
 するとザツはあっさり諦め、そっかぁ、ならしょーがないねー! と言ってから、んー、と両腕をのばし、ノビをして。
「今日、どっする?」
 と、あどけない表情で尋ねてきた。
 ……今日もここぞとばかり、遊びたおす気だなコイツ。
 半眼になって見つめてみるが、ザツはこっちの視線などどこ吹く風、という表情で。広い雲がいくつもただよう、青空なんかを眺めている。
「今日、日曜日だしな〜。あんま混むとこは覚悟いるし〜」
 あてつけではなさそうに。ザツはぶつぶつ、続けて呟いた。
 ……そだったか。
 いやまぁ、それでも、昨日やおととい、遊んでいた事実は変わらないのだが。
「で、どする?」
 再びザツが、こっちに瞳を向けた。
 リクエストを、聞かれているんだろうが。
 またもや、かぶりを振って返答とした。
 こうしてザツにひきまわされていると、なんとなく活気が分け与えられてくるものの、やっぱり自力で何かしようというようなやる気は、死滅している。
「いったん家に帰って……ちゃんと寝といて〜。夜、みっちりクラブ行きたいような気ィもするけど」
 こっちの意見に期待できないことを悟ったのだろう、ザツが本格的に、自分の考えだけで、予定を組みはじめた。
 ……クラブ。
 流してしまいそうになってから。
「あ? IDは?」
 巻き戻してみればひっかかって。聞いてみる。
 年齢制限ひっかかるだろう、どう見ても。
 無理しなくたってまだ、中学生に見える感じなのだ。
 するとザツは、
「コネ。コネ」
 悪びれる様子もなく、歯をのぞかせる笑顔を見せながら、言った。
 それにあきれるヒマもなく、
「ん〜、でも、完全、客でクラブ行くと、どーしてもナンパ系雰囲気が発生するからな〜」
 との物言いを、追加した。
 ……いや、そういう遊び方しなきゃいいだけの話なんじゃないかと思うが。
 や、この言い方だと。逆ナンもくるのか。
 ……そりゃ、くるよな。
 自己完結してしまった考慮ののち、
「……『女の子』じゃねぇ『女』に、相手にされんのか?」
 ザツの容姿の幼さを、揶揄するように。
 口に出して、みた、のだが。
 ザツはこっち向いて、にっぱーと笑い、言い切ってきた。
「そりゃあもう! ショタのお姉さまに大人気!」
 ……ご丁寧に、重ねた両手を、片頬に押しつけて、小首かしげている念の入りよう。
 子どもっぽく見えるということは気にしてないのだろうか。
「ガキっぽいの誇ってどーするよ……」
 小さく眉をしかめつつ、苦々しく、そう洩らすと。
「ショタの年齢ならショタで売る、ロリの年齢ならロリで売る、それが性別ノーミーンな正しい道でしょぉー?」
 肩をすくめて、当然、とばかりに、主張する。
 ……いや、売るって。
 芸能人じゃないだろう、おまえ。少なくとも、まだ。

 そんなことを思っているうちに、ザツが。
 ふいに、何かつまったものが抜けたような、すっきりした表情になって、自分の膝頭を、ポンとひとつ叩き。
 提案してきた。
「おし、ちとせ行こう、ちとせ」
「ちとせ……」
 ザツを見たまま。
 ぼんやり、復唱してしまってから。
 ……千歳っ? と、一人ノリつっこみのように驚愕してしまった。
 ザツの名前は『千歳雑』なわけで。つまり……ザツの実家か?
 パパラッチから逃げてきたはずなのに、マスコミがいるんじゃねぇのか?
 なにより、タイミングによっては、ひょっとしたらザツの母親と顔を合わせてしまいかねない。……それは気まずすぎる、絶対、さけたい!
 だいたいなんで行くんだそんなとこ!
 しかしザツは立ち上がって、カーゴパンツの尻をパンパンと払い。
『い〜っ?』という顔をしているであろうこっちの左腕を、容赦なく、
「そーと決まれば、ホラ、早く早く」
 と、ひっぱってくるのだった。

 ◆

 電車をのりついでやって来たのは、閑静な住宅街、というヤツだった。
 普通の一軒屋、普通の一軒家、ときおり豪邸……という感じの町並みで、道路も広くてゴミとかがなく、通りかかる人も身綺麗だ。
 やがて、一つの曲がり角を折れ、ザツが、
「ココ、ココ」
 と指差したのは、『豪邸』の方に分類される家だった。
 尖塔なんかもくっついてて、そこに風見鶏までいる。
 ……このへんの土地相場からして。
 やっぱりザツは、かなり大切に……大々的に養育費もらってきたのかな。と、反射的に浮かんでくる。
 ……いや、まぁ当然だ。だっておれはクエスチョンマークつきの『隠し子?』だからな。と、打ち消すように思っていたら。
 すたすたと。ザツが、正面の門を、華麗に素通りした。
 ……なんだ? どーして玄関から入らねえ?
 疑問に思いながらも、ザツについていくと、門からしばらく過ぎた、駐車場らしきシャッターの前で、ピタ、とザツが足を止める。
 で、そのシャッターの横についている、小ぶりな……勝手口のようなドアに歩み寄り、アーミー柄のカーゴパンツの腰にまとわりつかせていたチェーンをたぐる。
 尻ポケットから、ずるり、と、チェーンで繋がれた財布が、ひっぱりだされる。
 そこから一本の鍵を、ザツは取り出して、ドアの鍵穴に入れ、カチャと一回転させた。
 なんで玄関から入らない? という疑念はあいかわらずあるものの、ちわー、と言いながらドアを開いていくザツの背に続き、自分も入った。
 中は、想像どおりガレージだった。
 しかし、車自体は一台しかないくせに、やたらと広い。
 車にかわって目立つのは、音楽機材だった。
 全部が少々古ぼけて、おまけにホコリもちょっとかぶってるように見えるが、すごい品揃えだ。
 スピーカー、マイクスタンド。
 クラブっぽくDJ機材な、ターンテーブル、ミキサー。
 ロックっぽい、ドラム、電子ピアノ、茶色いベース、蒼いギター。
 ……そして、茶色いギターを演奏している、少年。
 ――誰だ、これは。
 ウッカリと、物体の一つとして認識してしまってから、急速に違和感が這い上がってくる。
 ザツは一人っ子のはずなのに。
 この平然と、うつむいてギターに熱中しているのは……誰なんだ。
 と、凝視していた、ジーンズとTシャツ姿の少年が、やっと人の気配に気づいたのか、顔を上げた。
 ……なんというか、一言で表すなら、少年、としか言いようのないような顔立ちをしている。
 悪く言えば、ちょっとバカっぽい顔。
 一本一本、てんでばらばらに右や左を向いたケモノっぽい、歯並びの悪い口元。
 鼻は低くはないが、少々、天向いていて、顔つきから緊張感を消失させている。
 三白眼ぎみながら、とがっていない柔和な目の輪郭のせいか、人なつっこい印象の目。
 坊主すれすれに、短く刈られた頭。
 体つきはひょろりと、もやしっぽくのっぽで。それでもわりあいに筋肉質なのが、グレー地に何色かのペンキがぶちまけられたデザインのTシャツからのぞく、二の腕から先で、見て取れた。
 ……そんな正体不明の少年を、視界の中心に据えて。思わず全身を硬直させていると。
 いきなり室内に侵入していた二人組に、ビビる様子もなく、少年が、
「あ、雲隠れザツが来た」
 と、警戒心零の口調で、喋った。
 おれの目の下、ザツが、鳶色の頭を揺らすのがわかった。笑ったのかもしれない。
「青木がオロオロしてたぞ」
 続けて少年が、ザツに向けて、そう言った。
 ……なんかまた、わかんねぇ固有名詞が出てきた。『青木』って? と思っていると。
 ザツが少年に歩み寄りながら、
「あー。マジ。……ダブってもいいから、てきとうにしといて、っつっといて」
 と言い、てのひら全体でかきむしるように、うなじのあたりをさわった。
「おまえ判断早すぎ……。――?」
 ザツが足を踏み出したことで、はっきりこちらの全体像が、視覚に映ったのだろう。
 初めて、けげんそうな目で、少年がこっちを、しっかりと見た。
 ザツが察して、
「あ、これ、成田暁流……サン。ね?」
 こちらを指さし、確認を取るように小首をかしげながら、フルネームだけの、簡潔すぎる紹介をしてくれる。
 だが、そんなザツの粗い態度にも、なれっこ、という様子で。
 すばやく視線から、不審さを消した少年は、ギターをささえてない手を、シュタっと掲げて。
 おどけて言った。
「たかぎちとせ。よろしく?」
「……はぁ?」
 思わず、バカにするような声音で、聞き返してしまった。

『高義千年』は、ザツの、学校の同級生らしい。
 まぎらわしいことに、ザツの名字『ちとせ』と、下の名前が一緒だ。ザツの実家に行くのだと思っていた狼狽の時間は、まったくの無駄だったわけだ。
 ……ザツ、わざと言わなかったな。
 まぁとにかく、仲良くなったきっかけも、そのまぎらわしさだったらしい。
 担任が、クラスに配布するプリントを、一時的に『ちとせ』にあずけて。その回収を他の生徒に指示したのだが、その生徒は、ちとせは名前で、=高義千年だと思い、持ってないのに出せ出せと言ってきた、そんな経緯。
「くだんねーことなんだけど、けっこな時間、もめたんだよな〜」
 マイクスタンドの横の、用途不明な倉庫っぽい木箱に、腰かけたザツが言う。ぷらぷらと、気ままに、ブランコのごとく揺れる足。
「あいつ、チトセのことチトセって呼んでたもんな〜。反射的に変換しきっちまったんだろうな。『あれ? 高義って指名しませんでしたっ?』って青木にゆってたもんな」
 青木、というのは、二人の、中高通しての、担任であるらしい。
 ぺらぺらと回想しているザツに対して、あいかわらずギターをいじったまま、うんうん、と、『千年』はうなずき。
 その後、律儀にザツに向けて顔を上げ、へらぁっとした笑顔を見せた。
 ……その顔。顔がいい、悪い、という評価ポイントになるような特徴は、良くも悪くも、どっちにしてもあんまりないのだが……。
 異様に少年っぽいヤツだ。
 子ども顔、というのとも、微妙に違う。ザツとは対照的に、幼児っぽさはあんまり無く、女のコっぽさなんか微塵もない。顔が縦長なせいもあるか。
 そうして、今みたいに、笑ってるところなんか……。無邪気を通り越して、なんの悩みもなさそうというか。
 ……はっきり言えば、やっぱりちょっとバカっぽい。
 でもそのガキっぽい、ボヤっと嬉しげな様子が、なんか、自分の小学校時代のころの『ともだち』の、顔々とか思い出させるように、懐かしいというか。
 いいやつっぽいな、と一見して思わせてくる。
 元来、あんま女に熱狂的にもてそうにないヤツは、そーやって同性からトクを得てることが多いもんだが。典型的にそんなタイプ。
 ――チトセは同時に、ザツのバンドの、メンバーでもあるらしい。やっぱりザツは、バンド活動をしていたわけだ。予想はしていたけど。
 このガレージは、チトセの父親の、自宅備え付けの音楽スタジオもかねているらしく、こういう充実ぶりで。で、その父親は、あんまり家にはいないから、ここはメンバーの練習場……溜まり場状態にさせてもらえているそうだ。
 ということは……と思えば。やっぱり、チトセの父親も、芸能人なんだそうだ。
 ……なんで、この場に二世がこれだけ? と不思議に思ったが、なんのことはない。
 ザツは『隠し子』とはいっても、バレきってる隠し子なので、アイツの意向で二世の子息がたくさん通っている高校に通っていたのだった。
「ま、多いっても〜。『自由な校風』ってとこに人気があるだけだから、あんまり金持ち校じゃないよな。寄付金とかも熱心には集めないし」
 と、同意を求めるようにザツがふれば、
「あそこは多いから騒がれないだろうって理由で、毎年いもづるで、二世入学、二世入学、ってなってるだけだもんね〜」
 チトセは見た目とは裏腹に、さすがにザツの友人だった。ナチュラルに、けっこう毒舌家っぽいコメントをする。
「それでもやっぱ、うちの軽音楽部とか、二世率高いよな。五人か?」
 ギターを……調律だろうか、確かめるように細かくいじり、そちらに視線は集中させながら、今度はチトセが、ザツに言う。
 ザツは、うん、と頭を縦に振りながら、
「でもおれは正規のカウントには入んないのよ〜」
 手の先を、舞うようにヒラヒラさせつつ、言った。
「……ザツも軽音部、なのか?」
 つい、口をはさむと。
「うん。チトセも、そう」
 と、ザツが目をこっちに向けて言い。
 唐突に、満開の笑顔になった。
「チトセはね、なんと! あのギターソロの金字塔、『ワンダリングワールド』の高義さまのご子息、だっぞっ」
 ものすっごく嬉しそうに、目の下を一瞬で紅潮までさせて。
 ザツは、そう言ったが。
「……ナニソレ」
 他に言い様がない。
 ギターソロ、という単語まではわかるが、その先はちょっと……。
 ……すると、スッ、と。
 ザツが、シャレだろうが、突き放すような……刀のような冷たいまなざしになって。
「知らねぇのか。おまえには音楽愛好家を名乗る資格はねェ」
「……いや、音楽愛好家、なのってねーし……」
 えらそうにふんぞりかえって、説教のようにのたまうザツに、力なくひょろひょろと反論する。
 そのかたわらで、チトセはただ、苦笑している。
 ザツのこういうお遊び的な冷たさには、慣れてるんだろう。……ザツとのつきあいは長いと見た。
「ヨシ、じゃ、だらけるのはこれぐらいにして」
 すこしばかり背をしならせ、反動をつけて。
 木箱からザツは跳ね降り、ポン、と両足揃えで着地した。
「なんか披露しましょか?」
 すると、クスクス、とお人よしそうに、チトセが肩を揺らして笑う。ガチャ歯がのぞく。
 ……披露? と、怪訝そうな顔をしていると、
「ヤルことっつったら決まってるでしょ? ここスタジオ、揃ってるのは、二人だけだけどメンバ」
 と、こっちを言い聞かせるように見た後に。
 お勉強しないとね、と、言いながら、ザツは、電子ピアノの方に歩いてゆく。
「……ジャンルは?」
 それを目で追いながら、問いかけると、
「うちはロック、ヒップホップ」
「主に?」
 ザツが短く答え、チトセが更に短くそれに応える。その、慣れたかけあいの仕方。
 そして顔まで見合わせて、にしし〜と笑う。
 ……いかにも、面白そうなもんは、なんでもとりいれてやりますよ〜という、テキトーな雰囲気だ。
「今日の教材は、『あずさ2号』で」
 電子ピアノ前の黒いイスに腰かけたザツが。
 コンサートのMCのように、瞬間的にハスキーに切り替わった声で、囁いた。
 ……あずさ2号にずいぶんこだわっている。
 そして、バラララン! タタタタタ〜ッ。という、鍵盤を叩くメロディが、響き始めた。
 ……おおスゲェ……。再現できてる……。
 ザツ達が見える適当な位置の壁によっかかって、腕組みを完了させつつ。ザツの隠された特技『聞き取りと暗記』に、目をぱちくりさせられていると。
 ピタ、と、ザツの手が止まって。順調に流れていた音楽が、突然、停止する。
「なんか、黒鍵、死んでるくさい」
 いつも以上にあどけない、ふくれている子どものような声で。
 チトセの方をふりかえり、ザツがそう言った。
「聴き取れてないくさい?」
 そう言い直しながら、たすきがけにしたギターをわざわざはずし、ガタン、と壁にかけ、チトセがザツの方へゆく。
 チトセは、細身な体躯を、ザツに重ねるように寄せ、
「おまえの耳が死んでんだ〜っ」
 と言いながら、その背後からかぶさるような体勢でキーに指を置いた。
 タン、タン、ダタンッ。切れ切れの音程が、耳に届いてくる。
 ……よくわからないが、そんなチトセのサポートを受け、修正できたのだろう。
「おお、コレ、コレ」
 きゃらきゃらと楽しげにザツが笑い、それを見届けたチトセはギターの方へ戻ってゆく。
 そして、チトセが配置につくのを見計らったようなタイミングで。
「ンじゃ即興で。ベースはだいたいチェリーブロッサム風の、サビんとこはハードブロックっぽくね? スタート」
 ザツの打ち合わせのようなMCで、いきなり始まった。『披露』は。
 ……ぜんぶ、カン違いのしようもなく。英語、だった。
 ぎょ、と。予想もしてなかった展開に、目が、出目金魚のようになってしまった。
 続く、続く。
 流暢で、ネイティブな発音。
 ……日本語じゃない、と、いうだけではなく。呑まれ、あっけにとられてしまう。
 ちょっと、一聴じゃ、意味なんかも全然、みごとなほどにわかんないが。
 とにかく……歌に含まれた、苦悩とか、悲哀とか、愛しさとか。それでもどこか未来を目指して前向きな、晴れわたったイメージとかが……。
 時に苦しげな、時にはちきれるような、時に羽根のような、ザツの歌声に。ちゃんと出ていた。チトセがピックでかきならすギターにのって。
 あと、セクシーに寄せられ皺までできた眉根や、赤い細長い舌がのぞく唇なんかにも。
 ……目が、痛いほどに勝手にみひらいたまんまなんだが、まばたきする気にも、なれない。
 黙って佇んでるような時に、綺麗だとか、はかないだとか、感じるのは、もう慣れてきていたが。
 中身の性格が性格なだけに。
 ……大人びた、なんてザツを感じる時が来るとは、今の今まで思わなかった。

 ――さして長くもない曲のはずなのに、クラシックをフルコーラスで何小節も聴かされたような、虚脱感。
 ザツの見せる新しい面、その世界の洪水に、泳がされていた。……らしい。
 ボーっとしきっているところに、
「なぁなぁ、どこがよかった?」
 いつのまにか、ザツに、目の前に存在されていた。
 ちょこん、と、小首をかしげるように、のぞきこんできている。
 珍しく、せっぱつまったような瞳、だった。
「うっ、えっ、あ……」
 意志を持てないまま、三回ほど、いたずらに口を動かし、
「サビ……んとこが……すごかった、な」
 やっと、それだけを回答した。
 元の曲がちょっとわからなくなるほどに、アレンジが加えられていた。
『チェリーブロッサム』とか言ってたから、自分達の手持ちの、なんかを混ぜていたんだろう。
 一番有名な、『Azusa』のところのフレーズは、かなりハード盛り上がりのサビだった。
 あっけにとられていてさえ、自然、体がリズムにつつかれ、波打つような。
「あーやっぱなぁ。でも、なんか、他ンとこない?」
 ……そう言われても。
 一回聴いて、圧倒されていただけで。だいたい英語、わかんねぇし。
「えっと……スプリング……とか言ってたとこは、なんか、……渋いってか。泣き、が……」
 そうは思いながらも、もう一つ、強い印象が残った部分を挙げてみる。
「『Early spring』?」
 ハッキリとはわからないが、そうだったろう、多分。
 ザツの真剣さに押されたまんまで、なめらかに口も開けず、こくん、と首を縦に振る。
「うん〜。あそこ、案外捨てないのかもなぁ〜」
 あごに手をやって。
 もう、完全にこっちからは注意をそらしたまま。ザツは、ブツブツ言いだした。
 ……長考に入ってしまっている。
 そこへ、
「じゃ、恒例の悪ふざけアレンジいってみまショか?」
 とりなしだったのかもしれない。
 打ち切らせるように、ザツの背後から、チトセが声をかけてきた。
「やりすぎアレンジ?」
 ご褒美を目の前にぶらさげられた犬のように、瞬時にキラキラとした瞳になり、ザツが嬉しげにチトセへとふりかえった。
 うんうん、となだめるように首を縦にふりつつ、チトセはまたギターを下ろし、今度は、ターンテーブルの方に移動した。
 ザツもしっぽをぐるんぐるん回転させながら、今度は、マイクスタンドの方へゆく。
 ……そうして、ギャッギャ! という、ターンテーブルからの悲鳴じみた軋みで始まった。
 ザツいわく、『やりすぎアレンジ』……は。
 なんかもぅ、ハチャメチャだった。
 観客のダイブやモッシュを重視したライブ仕様の、曲じたて。
 ザツが気持ちよさそうに開脚で飛び跳ねる回数と同数、ザツがひっきりなしに頭をふりかぶる回数と同数。
 チトセの、スクラッチが走る。
 もうギャッギャという回転音しか、音楽としては聴こえないほど。
 ザツのボーカルすらも、途切れ途切れにしか耳に届かないほど。
 まさに、悪ふざけにつめこんだ、うるささ。
 さっきより更に、元曲の原型をとどめていない。
 歌詞も英語のまんまだし、これをあずさ2号だと聞き分けるのは、あらかじめ知っていなければ至難の業だ。
 ……さっきは、ロックとヒップホップを主にやっているんだと言っていたが。
 キッチリ、ハードコア系にも手を染めてるじゃねぇか。
 ……快楽さえ深く浮かび、爽快に笑んだ、ザツの形のいい口元。
 よく見ると、その髪先から飛び散りはじめた、透明な雫。

 追い立てられるようなテンポの、嵐か、竜巻のようだった曲が、終わった。
「ふぃ〜」
 ザツが、猫背にうなだれながら。
 力かげんが上手くいかないのか、かちゃん! と大きな音を立てて、マイクを、マイクスタンドにはめた。
 そして、くるんと振り返って、自分の背後にいるチトセを見て。
「風呂、借りていい?」
 薄紅色に上気したほっぺたで、そう許可を求めた。
「オッケー」
 ターンテーブルのあたりを、調整するようにいじりながら。
「湯ぅ入ってないけどな」
 チトセが顔も上げぬまま、気の置けない、あいづちを打つ。
「いい、いー、シャワーで」
 後ろ姿に、ひらひら動く指先を添えて。
 入ってきたのとは違うドア……家の内部へと向かうのであろうドアへ、ザツが、退場していく。
 ……いつもこんな感じに、ここで過ごしてんだろうか。
 いきなりやってきた、見せつけられるだけの『披露』の終わりに。
 ボーっと、ザツが消えていったドアを見やっていると、
「あのさ〜」
 ……チトセの声がした。
 残っているのは自分だけだ。
 必然的に、こちらに話しかけたのだろう、と、声がした方へと、首をめぐらせた。
「あんた、どこでザツと知り合ったの?」
 チトセは、こっちを見ていなかった。
 あいかわらず整備中のように、ターンテーブルへ視線をそそぎながら、
「ゲーセン? あっこで男女区別なく、人間、よくひっかけっからなぁ、ザツ」
 と、具体例をあげてくる。
 ……多分、バイ……とか言う意味じゃないんだろう。
 艶を感じさせない、ごくごくノーマルな雰囲気の暴露。
「いや」
「じゃクラブ?」
「……いや」
「あ、ひょっとして……」
 ぴた、と、機器をいじっていた手を、止めて。
 チトセが、顔を上げて。
「兄貴?」
「…………」
 思わず、絶句した。
 ……そんなにアッチコッチに言いふらしてんのか、あいつは。
「あ、いやいや、違うって」
 すると、顔に全部出ていたらしい。
 あわてたような速さで、チトセのフォローが入る。
「おれ、一応親友だから」
「……。ふぅん」
 ――胸中にわきあがってきた、黒煙のようなものが。
 あんまりハッキリとした嫉妬心で、自分で驚いた。
「『おれンとこ泊まってるか?』って言ったら、『兄貴んとこ行ってみる』って言ってたから。例によってなんかの冗談だと思ってたんだけど。正妻の子のトコにはさすがに行きにくいだろし、もっとたいりょーにマスコミ押しかけてっだろしさ」
 渋い感情を、もてあましたまま。
 更なるチトセの言葉に、ふぅん、と、軽くうなずいてみせる。
 ……泊まるとこ、あったんじゃねぇか……。
 しかし、いまさら『じゃあ追い出すか』なんて冗談にも思えず。
 ザツをよく知っているらしい、チトセに、
「……ザツ、英語できたのな」
 と、しかけてみた。
 ……そりゃ、外見上、ペラペラペラと、いくらでもしゃべりそうな要素は、あったと言えばあったのだけど。
 ここまでのつきあいで、あんまりフツーに日本人の生意気なガキだったから。
 てっきり『なんちゃって外国人』なのだと思っていた。
「うん、英語だけはな。おかーさんに鍛えられたんだって。休み時間に外人教師とペラペラしゃべれちゃったりしてさ、ずっりぃよな〜」
 あんま、ずるいとは思ってなさそうな口調で、チトセが解説する。
「さすがにネガティブに育てられただけあるし、あれで舌だけは日本人ばなれしてっから、発音も向いてるしな。ま、完璧よ」
と続けて、
「でもザツは日本人だからな〜」
 と、また目を落としている手元を、熱心にいじりながら。
 チトセは、なぜか、誇らしげに言った。
 ……そんなふうに、ザツの、学校でのことなどを、小出しにしばらく聞いていると。
「お、なに〜。仲良しなったの?」
 ガッチャ、と、ドアを開けて、家内から現れたザツが、開口一番、からかうように言ってきた。
 服装は元のままだが、首に、借りたらしいタオルをかけている。
 ぽたぽた。あきらかに、ちゃんとふきとられてもいない髪から、しずくがパーカーへ、灰色の小さな丸いしみを作っていく。
 さすがにザツも、そのまんまにしておく気はないらしく。タオルのはじを左手で持ち上げて、平手でごっしごっしと水気を拭き取りつつ。
 いまだにターンテーブルの前にいる、チトセの所へ歩んでいく。
 ……並び立つと、二人の体格の違いがはっきりわかる。
 身長はわずかにチトセの方が高く、体重は同じくらいらしい……。
 のだが、なんというか、風合い……というか、印象が違う。
 チトセは、普通の男子っぽく、若枝というか、はしばしが骨ばっている感じがちゃんとする、のに対し。
 ザツは若葉っぽいと言うか、なんと言うか。どこまでも柔らかそうだ。
 ……体にカクカクした感じがなさすぎるザツのが、この場合あきらかに特殊なんだろうが。
 今も、そのしなやかさを生かすように、近づくなり。
「ねぇんねぇんチトセ」
 と、腹をすかした猫のように、チトセにすりよりつつ、
「ぼく、おなかスキマシタデス」
 ……マジで、そんな話だったらしい。
 言外に、なんか出して、とねだりだした。
「なんにもねーぞ……」
 まだ何か作業をしているままの、おのれの指先を見たまま。チトセが、ぼそぼそと、あしらう。
 しかし、ザツは出鼻をくじかれた様子もなく、
「ハイハイ! おれ、ピザ食いたい!」
 そう宣言するなり、身体ごと、こっちに向き直ってきた。
 取っていい? と、おねだり光線を飛ばしてくる。
「…………」
 すっかり、たかられ慣れたと言うか。
 迷うこともなく、目を閉じてうなずいてやった。やっぱスポンサー扱いだ。
 だが、あなどれないことに。
「ゴチですぅ!」
 ぱぁっと、イチイチ、本当に陽気な笑顔が提出されるので、……不快になっているスキはないのだ。
 ……なんというか、エサのやりがいがあるんだよな。
 そう、しみじみとしていると。
 ふと珍妙な気配に気がついて、その発生源をさがす。
 ……チトセがあきれたような顔をして。
 ザツとこっちに、交互に視線をくれていた。
 なんとなく、ザツのこの『甘えたおし』は、常套手段……と言うか、態度なのだな、と察しがついた。
 で、おそらくは。それにデレデレと、いくらでも財布の紐をゆるめる『誰か』の姿も、チトセ的には幾度も見た風景なのだろう。
「…………」
 まぁ、いい。
 多少複雑ながらも、それ以上は潜水せずに。
 ただ、腕組みを、しなおした。
 少なくとも、今は隣にいるのは自分だし。
 ……未来なんかは、ないのだし。

 ザツいわく『みみにチーズ入りのとってもカロリー上乗せなピザ』――『バジルイタリアーノ、ゴールデンチーズクラフト』を、とって。
 ザツとチトセのコンビに、さらなる披露もされつつ、ダラダラもしつつ。
 カラオケボックスで同性の仲間だけ、合コンもからまず、気楽に過ごす休日、そのまんまに。
 うっかり初対面だとか、ほとんど見知らぬ人の家であるとかも忘れ、居眠りすらしそうなくつろぎっぷりで。
 結局、晩飯を食い終わった後ですら、居続けた。

 ……んで、終電も間近な時間帯。
 やっと、初めてなのになぜかなじめる秘密基地から、這い出てきて。
 しゃきしゃきと歩くザツに先導され、夜道を行っている。
「今日は予定してなかったから、チトセだけだったけどさ。メンバーはあと二人いるよ」
 そんなことを、たまに振り返るようなそぶりを見せつつ、ザツはしゃべる。
 夜行性と言うか、……月下でイキイキと動いているし、吸血鬼かなんかのイメージと重なる。
 ……いや、青空のもとでも、コイツは元気だが。
「他の二人のメンバーもガキっぽいのか?」
 いまどき、年齢より幼く見える高校生のが少ないだろうに、ザツもチトセも、まだ中学生のからを、かぶりまくっている。
 だから、思いついてみたことを、そのまま尋ねたのだが。
「あ、なにお」
 ザツは不服そうな唇の横顔を、数秒だけ、見せて。
「けどそんなら驚くよ、あとのふたりは全然違うし」
 と、また背中だけをこっちに向けて、告げた。
「そか?」
「うん、年齢も、アケルよりずっと上」
「へぇ……」
 それはずいぶん、カラーが不統一なグループだ。
 まぁ、差別的じゃなくて、けっこうなことかもしれないが。よくやっていける、と第三者的には感じてしまう。
 そう漠然と思いをはせていると、
「しっかしさ、アケル、だまされてっかもしれないけど。チトセだってナカナカ、あんなまっすぐそーな雰囲気だけど、正常なガキらしいガキじゃないんだよ〜」
 と、後ろ姿の、ザツが語った。
 それにいっさいの反抗をまじえず、
「……そかもな……」
 と、あいづちを打った。
 けっこう、毒舌だったし。なによりザツの友人という時点で、あなどれない気がする。
 ……などと、つらつら考えていたのだが。
 甘かった。
「とにかく巨乳にこだわらねー乳好きで〜。生本番よりパイズリ専門、ってかそれしか興味ナシ! だっし。彼女できても、認識できてんのがほとんどバスト一点集中なもんだからァ、おれらにする解説ったら、中学生で硬くって、Bの六十五ではさめないけど、その青い果実ぶりもひっくるめて将来性アリな手ざわりッ、とか、やっぱあんだけ年上だといいわー、指もアレもいっくらでも沈むし、顔にかかったのわざとらしさたっぷりに舌で嘗めまわしてくれっしとか、高校生だけど乳輪まっくろけなのがなんか逆に素敵、デカイ釣鐘型なんですでにたれかけてるけど、その腐りかけかげんも良とか、…………聞いてる?」
「……もぅ若くねぇんだな、おれ、って思うよ……」
 急転直下にアスファルトにしゃがみこんで、頭をかかえてしまっていた。
 ……あんな邪性のない雰囲気だったくせに、んな、キッチリただれきった嗜好を、既に持っているとは。
 やっぱ変わり者の友人は変わり者だ。
 とんでもないジェネレーションギャップ……とは少し違うのかもしれないが、ソレに、しばらく文字通り、立ち直れないでいると、
「四つしかチガワナイ……」
 なんでか下唇の下に、人差し指をあてて、声も可愛くなって。
 こっちをそうっと、見下ろし、見守りながら。つたなく、ザツがつぶやいた。
 ……気をとりなおして、立ち上がって。
「しっかし、なんでそんな……胸フェチになったのかねぇ」
 同時に、また先に立って歩きはじめたザツに、ついてゆきながら。そう口に出すと。
「……エディプスコンプレックス……なのかな〜。やっぱ」
 小首を、左右に、ふり、ふり、と、一度ずつかたむけ、ザツはそう言った。
「お」
 その小刻みな動きが、外灯を受けて夜目になお輝く、小さな後頭部のシルエットとあいまって、やたらと、かわいかったが。それよりも。
「……なんで『マザコン』じゃないわけ?」
 こないだの晩、こっちの事は、ソレよばわりしてくれたくせに。
 なにやら、比較して、ちょっと一般的でない言い方をしてくれる。
 ま、こんなもんに高尚もなにも……ないとは思うが。
「あいつのもっと重症だもん。あの乳こだわりのせーで、彼女といっつも長続きしねーし」
 あっけらかんと、ザツが言うのに、
「そんなに?」
 と、ごくごく軽く返すと。
「ちゃんと濡れてるとこで満足させてよって言われると、しおしおしちゃう位、らしいから〜。……インポのケともゆえるかねぇ……」
 ……それは……ケじゃなくて……そうだろう……。
 ヘビーなお答えに、じっとりと、確かに重症だな、と同意の汗をかきつつ、二の句をつげなくなる。
「……んで、チトセのおかーさんが、また美乳で、巨乳なんだよな〜」
 そこにぷにぷに病の原因はあると見た、と、ザツが続けた。
「だから乳シップし足りなかったってのが、記憶っつーより、頭のどっかにあるんじゃないかな〜。あっこも、ネグレクト傾向な家庭だから」
 ……乳シップ、という、いかにもな造語の方は置いといて、
「ネグ……レクト?」
 意味のわからん単語を、オウム返しにくりかえす。と、
「『無視』だぁね」
 ザツは、気のないそぶりで、つぶやく。
「ちっちゃい頃から、おか〜さんが、父さんの出張についていっちゃうとかな、ま、そんなん」
 ……それを聞いて、なんとなく。
 ピザを食ったあとに、自分まで入らせてもらった風呂、そこに行くまでの情景を、思い出した。
 廊下にいくつもあったドア、広い家。だけど、少しだけうろついた屋内のどこにも、人の気配などいっさいなくて。
 広いぶん、それは淋しげで。掃除も、家政婦さん入れてるにせよ、行き届いていないのか。使わせてもらった浴室やトイレ以外、どこもかしこもうっすらとホコリをかぶっているようにすら見えた。
 ……アイツもそこそこ家庭崩壊した中で育ってきたのかな。
 と、眉を微妙にひそめて思っていると、ザツが更に話を広げてゆく。
「んでさ、ホラ、あいつ見た目がああ……。ほほえましーじゃん?」
「微笑ましいって」
 まぁ、その表現が、ピッタリくるほど、チトセは若々しい……わかわかしいも変か、少年くさいが。
「そういう『きしょさ』とはもー、かけはなれてんだろ、あいつの雰囲気。なのに、んなフェチ全開、向けちゃうから、引かれるのね、相手にどーしても。で、びっくりして裸足でにげられちゃうと。そーいう感じなんだ〜」
 またまた妙に愛らしい、メトロノームのような動きを首にさせつつ、ザツがしゃべる。
「まぁ『ぷにぷに病』なだけなんだし、おれらティーンエージャーもいいとこだから、そのうち生本番にも慣れっと思うし、ふところ深〜く待ってくれる女の子も、いつかめっかると思うんだけど」
 ふと。チャリチャリ、という音が、耳について。
 それはザツの方から流れてくるので、……耳を澄ました。
「だから心配はしてないんだけどね」
 ちょうど外灯の真下に、ザツが幾度目にか、さしかかって。
 そのせいで見えた。ザツの右手の方へと、腰元から伸びる、鎖。
 いつのまにかチェーンをたぐりだしていたらしい。
 あの、鎖の先端についているものは……財布、そして、その中の。
 ――防音ガレージの合鍵。
「…………」
 ひっきりなしに鳴る、チャリチャリチャリ、という、安っぽくて落ち着きのない音が。
 なんだか、……少し愛しげに動いているであろう指先を、想像させる。
『一応』いらねぇだろう、と、唐突に思った。
 鍵のおどる音に呼応して、リアルに、鼓膜に直接、蘇ったのだ。『一応親友だから』との、チトセの台詞。
 口をつぐんで。
 見えないのに、肩越しに、ザツの右手のあたりへ、まなざしをそそいでしまっていると。
 ザツが、ぱっと少し、早足になった。
 たいした距離はまだ、あいていないが、急速に小さくなっていく背中が、目に映る。
 運動エネルギーに合わせ、なびいている、えりあしの毛先。
 ザツの、ふだんの瞳の印象や、表情とは相反する。草食動物っぽくたよりなく細い、血色はいいが白い首。
 ……わずかに早口に、
「まっ、い〜んだよ、ちょっとも病んでないヤツなんか、メンバにしてつるめないし」
 捨てていくように、ザツが言った。
 思わず、足を止めてしまった。
 ……どんどんと、ザツは、離れてゆく。
 月光を浴びたアスファルトに、つくわけもないのに、ザツの足跡が、一歩一歩、できてゆくのが、視覚できる気がした。
 それは、夜風に上を、そっとなぜられていって。
 ホタルのようにぼんやりと黄色がかって、いくつもいくつも発光し、浮かび上がる錯覚。点々と続く、神秘的な足跡。
 まるで、天国へ昇っていくための螺旋階段のように。
 ……錯覚のソレを。
 観賞するように、見送ってしまいながら。
 ボソッと、さっきのザツの言い置きへの反応を、つぶやいていた。
「……なんか、音楽的」
 聞かせる意図はないほどの小声だったのに。
 ザツの耳ざとさは聞きつけたらしい。
「音楽的ー?」
 不本意そうな声で、かえしてくる。
 ……だけど、なんか、そう思ったのだ。
 ひとことで言えば、ひねくれものども、って感じか。
 無邪気な笑顔で油断させといたくせに、ひょいとふりかえったら、思いっきり黒い本性を見せてあざ笑ってた、みたいな。
 そんなことを空想していたら、
「べつに、そゆわけでもないんだけど」
 完全にこちらに振り向いたザツが。
 鼻のあたまを、ポリポリと。てれくさそうに、かいて、
「だって、あんまりまっすぐーに育ってきたヤツは、ねぇ?」
 両肩を、ちょうど寒さに身をすくめるように、すぼめて、
「おれがおれだし、合わなくねぇ?」
 と、じぃっと見上げてきつつ、同意を求めてきた。
 ……妙にしっかり、絡んでしまった目線。
 そのせいで、じっくりと、そう言ったザツの目をのぞきこめていた。
 色濃い、読めないほど深い、セピア。
 やっぱり、どこか。
 伝わってくる、言葉には表記はされていない、『暗黙の了解』の強制。
 ――同じような環境に在った『兄』だからわかるだろ?
「そだろな」
 ぶっきらぼうに答える。と。
「ハイ」
 やたらよい子のお返事が、ザツから戻ってきた。
 ――そう長くはない、自らの、過去の道程の。四角ばったものも、砕けたものも、全てを飲みこむような。
 守ってやりたい、と思ってしまうような。
 他に思いようがないような、いじらしい笑顔と、共に。

 ……んな、しんみりした空気が、長続きするわけもなく。
 それは確かに、いい月夜だったが。
 駅に向かい、そこそこ順調に距離を消化していたのに、
「お月見しましょう! ショウ! Showっ?」
 と、飲む前から酔ってるようなハイテンションとオヤジギャグで、ザツが腕をつきだし、コンビニに誘導しだしたもんだから。『帰る』という雰囲気は、だいなしにされていく。
「終電……」
 という、こっちの小声でのささやかなつっこみにも、
「始発!」
 と、超短い単語で返してくださるのみで。
 こーなると、まだ短期間のつきあいでもわかる、コイツは止まらない。
 やがて、店周辺のぽっかりとした駐車スペースの暗闇にかこまれ、いっそう目立つ二十四時間営業な明かりに、たどりつく。
 財布のなかみに残っている札と相談して、缶チューハイになった。
 ザツはアルコールなら何でも良いらしい。
 レモン大量、青梅少量、ライムも少量と買いこんだポリ袋を、自分で全てかかえ、ホクホクな笑顔で。
 どこか『月見』に適当な場所を求めて、こっちを引き連れ、ひとけのない深夜の舗道を、ふぅらりふらり、流浪していく。
 子どもにひきずられる列車のおもちゃのように、漫然とそれにくっついていっていると、
「あーっ!」
 ……突然、ザツが高い声をあげた。
 また、何か興味の対象を、発見してしまったらしい。
 スタタタターと、道路脇の方へ、じゃれつくように寄っていく。
「スッゲーぺたんこっ。つぶされたみてーでカッコイーッ!」
 そうしてザツがまとわりついたのは、路上駐車されている、銀色のスポーツカーだった。
 ザツの言うとおり、一番の印象としては、背が、めちゃくちゃに低い。
 だがフォルムは、流線型ではなく丸みを持っていて、そこが少しかわいらしい感じだった。
 ……しっかし、タダ車高が低いだけで、こんなにテンションあがるもんかね。
 と思いながら、はしゃぐザツを。
 ボーっとつっ立って、待って、いたら。
「よしっ!」
 カチャカチャ……。
 と、金属製の耳かきで、ロボットの耳を掃除するような音が、してきた。
 ものすごく長く、それが続いた後。
 ボンッ! と、何かが破裂するような……。栓が抜けるような音がした。
 ……と言うより。
 この音は、車っつーものには、いかにもふさわしく。
「……おいッ!」
 反射的に。
 実に一年ぶりほどの、鬼ダッシュをかましてしまった。
 あわてて、走りこむ。ザツがはりついていた、運転席側の、ドアのほうへ。
 目に飛びこむのは、予想どおりの光景。
 運転席のドア、それを開くくぼみに手先を入れたままこっちを見上げるザツ、わずかに見える真っ黒な車内……。
 ……なに……っ、
「盗ろうとしてやがるっ!」
 渾身の力をこめて、どなった。
 さすがにぶつける、本気のいかり。
「ちょっと! チョットだけ! チク……っとだけっ!」
 ……にも。ザツは、右の親指と人差し指で、五ミリ程度の厚みを、示して。
 ウインクに近いような笑顔。
 いたずらっ子全開ブースト、悪びれなし。
 そんな見事なものを、こっち目線で、惜しげもなく、くれたが。
 ……ちょっとだ長いだの問題かっ?
 握りしめたこぶしが、わなわなと震えてしまう。
 そんななのに、ザツは、あいかわらずなんの悪意もない笑顔を浮かべたまま、
「だいじょーぶ! 旧型もいーとこだしイジった感じもしないから、イモビもなかったし! 高級ってんじゃないから他の対策もあんまナイっぽい!」
 それなりに根拠はあるらしい断定をして。
 いそいそと、あいてしまったドアから、運転席にもぐりこんだ。
「おっ、てっ、バッ……」
『おまえ』『てめえ』『なに考えてんだバカ』。
 頭をよぎったどの言葉もが、それぞれ自己主張をしたがりすぎて。ぶつかりあい、結局、ぶざまにどもってしまって。
 鉄の塊のなかに入りこんでしまったザツには、声量も不足なら、意味も不明瞭で、……どうにも届かずに。
 その場でなすすべもなく立ちつくしていると、……やがて。
 ぶるるん、と。ふかされる、エンジンの音。わずかな空気の振動。
「アケル?」
 そして、ぴょこん、と。
 ザツが、まだ閉まってはいなかったドアから、生首を出してくる。
 ドアのすきまからななめに突き出た、子ども顔。
 薄闇のなか、カプチーノ色の頭髪が、不安定な角度のその体勢につれ、サラサラパラ、と、重力に流れる。
 なんで乗らねェの? と、不思議そうにうながしてくる。
「……この!」
 その丸っこい頭に、拳をくれてやりたくて。
 手加減ができなそうで、ためらって、いったんやめた。
 とりあえず、まだわなわなと震える身体をおさめるため。深呼吸をしてみる。
 ……すると。
「…………」
 まずいことに。
 必要以上に、落ち着いてしまった。
 ……自分的には、いまさら自動車ドロの前科がついたところで、どうでもよくて、なんともない、わけで。
 ザツの心配をしてやるのも、どーにも筋違い、らしい。なんだか手馴れているし。
 ……じゅうぶん投げやりになりきっている自分の精神状態も、関係するのだろうが、どうにも。
 叱る気も、いさめる気も、失せてしまった。
 ……なんだか果てしなくまちがってるような気はしつつ。
 やけくそ気味に、銀色のボディに歩み寄る。
 わずかに開いていた運転席のドアのふちに手をかけ、ガバッとあける、と。
 ザツは、ワクワクした表情で、なぜか助手席に腰かけていた。
「あ?……運転しないのか?」
 せっかくパクったもんなのに。
 そう思い、開いた運転席のドアにもたれて立ったまま、目線をザツの顔に注いで、そう言うと。
 パタパタとしっぽをふりそうな、子犬顔で、
「運転していいのかっ?」
 ザツが、そう発した。
 ……眉をしばしひそめたのち。
 ああ、そうだった。と、思い当たった。
「……でしたね」
 短く、それだけ言って。
 あとはさっさと体をたたみ、運転席に乗りこんだ。
 ……教習所になんか、まだまだ足踏み入れられない年齢でしたね。
 しかしコイツは、なんだか、ぐるぐるに狂った羅針盤みたいだ。
 ケチだったり、無責任に女好きだったり、ストレートに可愛かったり、法律ふみはずしてみたり。
 強固すぎるような、自分基準。
 しかもものすげぇ行動力が伴う。
 そんなんを見せられ続けていたから、年齢は覚えていたんだが。うっかり、もう免許も持っている『男』のような気が、していた。
「まぁ、いまっさら免許がどーのでもねェけどなァ……」
 ハンドルに両手をかけながら。
 投げやりに、つぶやく。
 そもそも、窃盗車にのってる段階で。
 青い制服サンに見とがめられたら、アウトだ。
 ……ハンドルを、右手の人差し指の指先で、とんとん、と、叩きながら。
「で、どこに車、まわしますかー?」
 すっかりおつきの運転手な気分、で。
 横のザツに目をやり、イヤミを含有させ尋ねたらば。
 意外なことに、臨機応変、気分しだい、なザツの標的は、決まっていたらしい。
 フロントガラス越しに見える月に、飴色のまなざしを、きっぱりと注ぎながら、
「なんか、公園」
 ……広すぎるカテゴリながら、明確な指針をしめした。

 しばし、深夜の住宅街を、なんの心当たりもなく流した。
 街道などには出ないように、でも広い道へ、家が密集はしてなさそうな道へ、と折れるのをくりかえしていると。
 やがて、白いベンチを、ザツが見つけた。
 とりあえず停めてから見ると、公園と言うよりは……休憩スペースと言うか。憩いの場……としても小規模すぎるような所だった。
『三本くらいの樹、闇に浮き上がる白いベンチ、丸いおけのような花壇ひとつ』という……近所の人もそう利用するか利用しないか、というような簡易さ。
 だが、二人での、この突発的な月見には、最適だ。
 外灯と外灯のちょうど中間点くらいにあり、月光を邪魔しなさそうなのも好ポイントだった。
 路肩に車を寄せ、ザツのエンジン停止の協力のもと、しっかりと路駐する。
 それが完了するとザツが、缶ぎっしりなポリ袋を胸に、待ちかねたように飛び出していく。
 ライトを消してから、それを追って外に出る。
 ジーンズのポケットに両手をつっこみ、だらだらとした足どりでベンチの前まで行くと。
 すでに座っているザツが、プルトップを開けた缶……ライムのチューハイを、「ハイ」と両手でさしだしてきた。
 かいがいしいんだか勝手なんだかわからん。
 二人座れば満席なサイズのベンチの右側に腰かける。
 前に設置されている花壇に、一瞬、目がいった。
 闇に沈んでしまい、判別はつかないながらも、花は咲いてないように見受けられた。
 天を見ると、もはや三日月とは呼べない月が見えた。
 ふりそそいでくる光は、あくまであやふやだ。
 目を射ることはなく、何も暴かない。
 ……人目を避けて路地裏にうずくまる男は、そのまま、そっとそこに放置しておいてくれるような。
 さざ波のように、心音のように、一定で。
 神経を、平らにしていく。
「…………」
 両手ではさみ、弄んでいた缶を。
 持ち上げて、すすった。
 この感覚は、コンクリートの自宅のすみで小さくなって座りこんでいる、今となっては不可欠な、あの厭世感になんだか近くて……安心する。
 それよりずっと、開放感とかが……上な感じではあるが。
「次、どれいく?」
 ……隣の、ザツが。
 ごそごそと、コンビニ袋のなかをかきまわしながら、提言した。
 ザツは飲みなら、アルコール以外を重視しないようで。本日の買い出し袋のなかは、手持ち予算の関係上、つまみが完全に排除されている。
 その、動作は『アルミ缶をかきわける』一種と単調ながら、熱心なさまを。ボーっと眺めながら。
 体と一緒に、緩慢にひきずられてきた唇で。
 のろく、答えた。
「まだ一本目、おわってマセン……」

 ペースが激速なザツが、いい感じに酔っぱらってきたらしい。
「ん〜これは露天風呂にも通ずる魅力といふかぁ〜」
 などと、意味不明なことを言いながら、コテン、と、上半身を、こっちに雪崩れさせてきた。
 手加減なく落ちてきたかんじではあるのだが、体重の軽さは偉大だ。
 ふとももの上の重みには、むしろ、ペット的な心地よさしかない。
「んん〜」
 むずかるように、ザツが首を振る。
 状態としてはひざまくらだから、座りのいい場所を探しているのかもしれない。
 その髪が、奇跡的なほどイタんでないのが。デニム生地ごしにも、わかる。
 髪が滑るたび、ひっかかりのない毛束に撫でられてるようで、毛先はチクチクと刺さってくるようで。くすぐったかった。
 だから、何時間でも、まくらになってやっていていいような心境でいたのだが。
 ザツはある瞬間、おもむろに、むっくり、と、起き上がり。
「ふぅ」
 区切るように、熱っぽいため息をついて。
「まだまだ飲まねば……」
 地面に置いた袋に腕をつっこみ、新たな缶を、手に取った。
 ほどなく、プシッと、寂しいソロながら、いい音が響きわたる。
 ……でも、飲みは義務じゃねぇぞ。
 そう思いながら、背もたれにべったり背中をくっつけ、体重をあずけきって楽にしているザツを。相手が酔ってるからいーだろーと、ぶしつけに、しっかり、と眺めていると。
「なんか〜このベンチ〜すっげぇいい感じ〜ィ、な」
 授業中に、席で落ち着きなく体をゆすってるヤツのように。
 ザツがごろごろと、ベンチの背もたれに背中ですりつき、なつきだした。
「ひんやりしててェ、乾いてて……」
 酔いがもうまわってきてるのか、少々ゾンビ化した舌で。
 それはベンチなのだから、あたりまえなのでは……な評価を述べだす。
「そか?」
 ジィっとばかりにぶつけたままの視線を、はずさないまま。
 缶を、また一度、傾けながら、そうあいづちを打ってやる。
 すると、
「アケルも全身をゆだねてみんさい。ハイ」
 怪しげななまりで、しゃべりながら。
 ザツがポンポンと、右の手のひらで、みずからの膝を、たたいた。
 ……それは。『おいでなさい』という意味か?
 一瞬、気恥ずかしさに、取り巻かれて。躊躇する。
 だが、まぁ、さっきザツに同じことを、してこられたわけだし。
 ……黙ったまま、かがんで。地面に飲みかけの缶を、カコンと置いた。
 そして、腹筋に力をこめながら、背をそらしていく。
 ゆっくり、ザツの両ふとももの上に、頭を乗せた。
 ゴロリと寝そべると、藍天の空が、視界のかぎり広がる。
 そこに浮かんだ、唯一のハコブネのような。
 月が、綺麗だ。
 さわさわ、その美しさを擁護するように、視界のすみで、樹の枝についた華奢な印象のはっぱが、そろって輪唱している。
 緑のベールのように、月に従えられ、ゆらめいている。
 ……高さが低いベンチだから、変にねじられた腰が少々違和感になり、あまった脚のやりどころがないが。
 それに勝る、充実感。
 こっそり、まくらにしているザツの脚へ、右ほおを寄せてみた。
 こっちの頭の重みで、少し沈んでいる。みずみずしい肉感。
 ……目をつむる。
 コバルトのスウェットと、ジーンズという、締めつけない、部屋着と変わらんラフな格好なせいもあって。
 体が、このままくずれていくような気がした。
 でも、いくらなんでも長い時間、このままでいるわけにはいかないだろう、と。
 うっすらと、目を開く。
 自分の背中が本来ある位置が、目に入ってきた。
 少し古びて、剥げた、白い塗装。
 ごてごてしすぎてはいないデザインの、背もたれの装飾。
 幾人もの人に気にいられ、腰かけられ。その人をリフレッシュさせてきたのだろう。
「……そだな……」
 いいベンチかもしれない。
 わざとらしくはないけれど、気のきいたデザインで。
 サイズもちいさめで……なんだかあたたかみがある。
 いつもそこにあってほしいような、存在感がある。
「気に入った?」
「ああ」
 ……まるで、女房のような……と言うのも変だが。
 お気に召しましたか? と問うような。優しく柔らかいトーンの、ザツの問いに。
 思わず、ため息のように返事を、素直にしてしまった。
 ……のだが。
「…………」
 不穏な沈黙。
 が、ザツからはねかえってくる。
 ――ひしひしとやって来た、嫌な予感に。
「……っ!」
 手にしていたくつろぎは投げ捨て、がば、と身を起こした。
 ひや汗をかきながら、監視するように、ザツを凝視してしまう。
 こいつがだまってなんか考えてると……そのあとは、たいてい、突飛なことを言い出すか、やりだしたりする。
 ザツは、うつむいていた。
 ピクリとも動かない。何もしゃべらない。
 ……最も、危険な気がする。
 見てるだけならただひたすらに愛らしい、未だに黙ったまんまの、淡栗色の後頭部。
 注視している、と。
「じゃ、持って帰ろう!」
「……ハァっ?」
 思わず喉の奥までさらすような、大口をあけてしまった。
 夜気に多少、冷えた空気が、とびこんできて。
 ゴホゴホ、とむせてしまい。速攻の抑止も、ままならなくなってしまった。
 そのうちに、
「だって、アケルがなんか気に入るのって、珍しいし! おれも気に入ったし〜」
 と、ウキャウキャと、身をくねらせながらはしゃぎ。
 ザツはどんどん、『決定』特急列車に、乗っていってしまう。

 ……手クセが、悪い。悪すぎる。
 というか、盗みに移行するまでのステップ……『これイイな、でもマズイだろう、けど欲しいや』という、障害ののり越えかたが。かろやかすぎる。
 ――だが、やっぱりだ、思いとどまらせることはできなかった。
 奇跡的なことに、対象のベンチは、幅、高さ、奥行き、全てのサイズが、後部座席に載らない……ことも……ないか? どうだろう? という、サイズで。
 当然のごとく、ザツは強引に、載せようと画策する。
 しかし。自分も協力させられての作業の下、いいところまではいったのだが……。
 ドアが閉まるか閉まらないか、また、実に絶妙なところで、それ以上奥には押しこめなくなってしまった。
 結局、二人がかりでむりやり、ザツは背中でぐりぐりと全体重までかけて……ドアを閉める。
 閉まるには、閉まったが。
 ……閉まる直前、バリっという、シートの一部が裂ける音を聞いたような……。
 ――ごめんなさいごめんなさいごめんなさいいィイ! と。反射的に涙がにじむような気分で、思う。
 のに、そんな自分とは対照的に、ザツはケロリとしている。
 ……もしやコイツは、どこにも出ないだけで、アルコールを摂取すると、すぐさま酔っぱらいきるタイプなのか?
 かすめた疑惑に、糸目になって。
 ザツをジトッと見ていると。
「ゲットですぅ〜」
 浮かんでいないひたいの汗を、ぬぐうふりをしながら。
 無駄にすがすがしい笑顔をばらまきつつ、ザツが助手席へ戻っていく。
 ……なすすべなく、後を追うのだった。

 運転席のシートに、また身を落ちつける。
 見とおしの良いフロントガラスから、夜空が一杯にのぞめる。
 さっきまではくっきりと形が見えていた月が、不明確にその姿を変えていた。
 墨色に溶けこんでいたらしい雲が、もくもくと出現して、月をうっすら、おおい隠していた。
 ……そう思ったとたん、フロントガラスのはじに、動くもの。
 ごくごく小粒な、霧雨。
 また一本、開栓したザツが、あごを上げ、
「あ、雨」
 と気づき。「ベンチ濡れなくてよかった〜」と、おとなしめながら、手放しで喜ぶ。
 いや、ベンチ的には、口がきけたなら、「私は野外にいるのが自然なんです……濡れるのはあたりまえです……。ってかパクっていかないでください……」としゃべるのではなかろうかと思うが?
 そんな天気になってきても、ザツは、月見をやめる気はないらしい。
 月見と言い張るだけあって、ザツの注意は、月から離れない。
 酔いがほんのりまわってきているせいか。今は柔らかな彩りの、ブラウンベージュの瞳。
 ひたすらに、ぼんやりかかる灰色雲に隠され輪郭がだいぶぼやけている、クリーム色の月を見上げながら。こくり、またごくり、と、缶をかたむけている。
 そのたび、フルーツの香りの、発泡酒が。
 しゅわぁ、と、ごく微かな音を最後に。
 ザツの白桃色の唇に、その奥の口腔に、消えていく。
 どこか静謐な、その風景に。
 また、全ての感覚を、奪われていると。
 ザツが、缶の飲み口を、ぺろり、と、いじきたなく舐め上げた。
 尖ったその舌先は、まんま猫のソレだ。
 ――ふと、また、唐突に。
 チトセの言葉が、蘇ってきた。
『あれで舌だけは日本人ばなれしてっから』
 やっぱり、長かったり、するのだろうか。
 さしこんで、からめてみればわかる。
 その長さも、炭酸が消えていく口腔の温度も、クリアに発色するベビーピンクな唇の甘さも。
「…………」
 手を、伸ばしていく。
 ザツの頭頂部に、のせるように、手のひらをあてる。
 かつてないほどの至近距離に寄る。ふわり、と、ザツの空気と、自分の空気が、狭い車内で混じった。
 ザツの髪や、肌の体臭は、うすうす感じていたことではあるが、男っぽくない。
 なんとなく、日本人っぽくもない。あまりかいだことがないようなものの気がする。
 髪質のせいだろうか。販売されている人形のような匂い。無臭にかぎりなく近い。
 香水っぽいわけでもないが、どこか、シャレている。
 ――でもコイツ、おおいに飲んで食ってはしゃいで暴走して、だもんなぁ。
 黙っていれば西洋人形だが、動くととたんに、西洋も人形も、回転したあげく地平の彼方まですっとんでいく。
 ……人形にはありえない、分泌される、唾液の匂いは。
 どんな香りがするんだろう……。
 頭頂部から後頭部へ、なでおろすように手のひらを滑らす、と。
 無心に月を見ていた、稲穂色のザツの瞳が、ようやっと。
 外灯なのか月光なのか判別のつかない光を浴びて、こちらの顔を見た。
 ――そのうち、すぐに。
 ――さわれなく、なる。
 首を穏やかに、こっちを見ているザツの顔にむけて、折っていく。
 同時に目を伏せていったので。キスする瞬間に、ザツの表情は見えなくなった。
 ……なったが。
 すぐに、わかった。
 ……なにが起こったか、把握してねぇな、コイツ。
 ぽふん、つる、と、柔らかに受けとめてくれた、キメ細かいザツのリップ、自体は。にんまりしてきてしまうほどのモノだったが。
 そこから、進めない。
 固まってると言うほどでもなく、かといって間違っても応えてくるわけでもない、ザツ。
 それを如実にあらわす、口の様子。
 ほとんど隙間なく閉じている唇。止まらず、あまりに気負いなく、普通に繰り返されている呼吸。
 こじあけて、舌をねじこむのも、とりあえずはためらわれて。
 唇を、すべらすように、横に動かした。
 荒れてないそのつややかさと、唇のすきまから少しだけ感じられる、ザツの匂い。
 それだけを、知って。
 まずは、様子を見るために、わずかにだけ顔を離し。
 のぞきこんだ。
 ……ぱし、ぱし、と今起きた事象を確認するような、まばたきのしかたをしている。ザツが映った。
 そうして、ザツは。
『こういう時に洩らしてしまう台詞、世にもまぬけベスト2!』に堂々ランクインするような。
 ひねりのない声を、こぼれさせた。
「……へ?」
 それを聞いた瞬間、『あ、こりゃマズイな』と、ピンときたので。
 間髪をいれず、両腕でがっちりとザツを抱きこんだ。
「へ……っ」
 逃げようとしたまさにその時、ふんづかまえられて。ザツがまたもや、そのまんまな声をあげる。
 かまわず、ぎゅうぎゅう抱きしめてやった。
 後頭部にそっと当てていた手のひらを、ななめ上方からグッと押さえつける角度、首のすじを痛めつけたいかのような状態、に変え。
 脇の下から腕を通し、左側の肩関節は動かないように固定する。
 そして、左手ではパーカーの背中を、軽くだが、握る。
 実際の効果と言うよりは、心理的効果。離すつもりはねぇぞ、という、意思表示。
「そっ、そっ、そっ……」
 胸板に、ギシギシ音がしそうなほど、わななくにぎり拳を両方、押しつけてきながら。
 しゃっくりのように、ザツがえんえん、言い続ける。
 あげく、ごくり、と。
 唾をのみこむ音を、鳴り響かせて。
「その気っ?」
 叫ぶように、尋ねてきた。
 ……同時に、こっちに上げてきた、ザツの顔は。
『こわくて確認してなかった借金総額が、利子につぐ利子でふくらんでて、もう億イッてました〜』と知ってしまった人のような。
 ものすごく、深刻なマジヅラ。
 ヘコみきってて、見てると逆に笑ってしまうような、だった。
「……その気」
 もちろん。
 もう、ごまかす気もなければ、退く気もない、ので。
 なにを今更、くらいの表情で返してやると。
「うわ、おれ、弟!」
 抜け出せる体勢ではなくなっているのに、じたばたと、肘や手や腕で、押しのけようとしてきながら。ザツが、口先を使用して、あがく。
「わかってる」
「女じゃないしッ!」
「知ってる」
 ……小学生でもわかるだろ、弟は、女ではありえないっつーこと。
 そんなノリつっこみのようなやりとりの中。
 では、そゆことで、と唇をザツの耳に寄せていくと、
「うわ、ちょ、いったん停止、いったん停止ィ!」
 腕の中、びくりっ! と、体を飛び跳ねさせて。
 教習所の教官のようなことを言う。
 かまわず、隙だらけの腰まわりから手をくぐらせ、砂目のオフホワイトパーカーの中に侵入する。
 アンダーになんにも着てやがらない、ジャストな獲物ぶりだったのを、鮮明に覚えている。今朝、風に吹かれていた。
 すぐに指先が、なめらかな素肌の感触をさぐりあてる。
 ……そうやって、ひたすらにごそごそし始めると。
 着実に進行していくのっぴきならなさに、うろたえたのか。
 ザツはまたもや、とんでもないことを口走りやがった。
「いや、そりゃ、妹なら、食い散らかしとくべきだとは思うけどッ!」
 ……くしくも、要求どおり。
 いったん停止してしまいそうな手を。
「〜っ」
 共に過ごした数日間の成果、学習機能という名の慣れで、耐える。
 内心での盛大なため息は、止めようもなかったが。
 ……なにかにつけ、コイツは……。
 実妹だったら手ェだしてもいいとでも主張する気か。……こんなおさな顔で。
 ほっとくと何を言い出すかわからない口をふさぐべく、おもむろに、既に至近距離にある顔面を、じりじりとせばめていく。
 今度はすぐさま察知したザツが、ぎょっとばかりに、目を合わせてきた。
「…………」
 でかいアンバーブラウンの目が、ぱちくり、と。
 いっぺん、派手にまばたきして。
 フロントガラスからさしこむ外灯に、瞳の表面が、一回、きらめく。
 接触した瞬間、「むぐぅ!」と、またもやお約束なくぐもった声を、ザツはあげるが。
 かまわずディープキスに発展させて、かきまわす。
 整然とすきまなく並んだ歯、健康にはりつめた歯茎。
 女の膣のような、ぬかるんだ、口底の紅の湿地。
 生物の粘膜。
 あたたかい息吹。
 ……舌を、根元から持ち上げさせるように、裏筋に沿わせて、つっこむと。
 息苦しげに鼻が鳴って、無自覚に妖しく、ザツの舌が、蠢いた。
 そこを掬い上げ、口腔のスミにおしやり。表面をチロチロと、削るようにいやらしく、くすぐる。
 スポンジから染み出てくるように、ザツの唾液が、あふれてくる。
 すすりながら、予定どおり、存分に絡めて。
 その舌の。自分とさして違わない長さも、うるおった質感も、刺激的なほど薄めな厚さも、確かめる。
 ……なだめすかすように、一度、ザツの唇の中央を、チュ、と、音を立てて、軽く吸って。また少量の唾液を飲んで。
 ようやっと、キスを切り上げて、唇を離すと。
 チュガッ、という、空気がひっつきあうような音が、した。
 距離をあけつつ、ふ、と目をあける。
 と、まず、しとどに濡れた、ザツのあごやら首やらが、目に入った。……呼吸をいっぺんも、満足に解放してやらなかったからだろう。
 ザツが、酸素濃度低下中の、水槽の金魚のような口で、はぁはぁ言いながら。
 うつろな目で、のろり、と、こっちを見た。
 けだるげなその視線の巡らしかたのせいで、流し目に見えてしまう。
 色素の足りない、水晶めいた瞳。
「……おまっ……、……肺活量、こっちは、発展途上ちゅ、だっての……!」
 しかし、本人にそんな自覚はない。
 手の甲で、健全に。
 体育の授業でトラック五周後、水道で水をむさぼった後の男子のよーに、グイ、と口元をぬぐいながら、ひぃひぃ言っている。
 酸素を取り入れるのに集中し、力を失ったザツの右手から、まだ握っている缶を、するり、と右手で取り上げた。
 そのまま右腕をひねり、自分の背中のあたりにある缶ホルダーに、手さぐりで置く。
 まだ空気の吸入に気をとられていて、おろかにも油断しているザツに、再び、ガッツリ、とのしかかる。
 途端、うわ、と目を剥いて、ザツが過敏に反応する。
 そんなザツの頭を、良い子だなと誉めるがごとく。柔らかく、ナデナデ、としてやる。
 それこそちいさな弟をかわいがる、兄貴のように。
 ……サラサラな前髪を中心に、右手はそうしてかき回しながら。
 顔を、ザツの左耳のあたりに、埋めた。
 唇で、舌で、顔の輪郭に沿うようにしてカットされている毛先をかきわけ、大きめなザツの耳を、発掘していく。
 露出させた耳に、舌先でかすめるように触れ、唾液をつける。
 なぞるように舌を動かし、耳殻へ、その唾液で線をツィ、と引いたりもする。
 犬のようにあがりがちな吐息も、遠慮なしにふきつける。ふよふよとすべらかなザツの耳の表面が、しめっていかんばかりに。
「うわ、なんかぞわぞわする、ぞわぞわするって!」
 ……しばらく、茫然、とばかりに、ややおとなしかったザツが。
 また、あがきだした。
 逃げないように、体重と腕力を、あらためてしっかりかけて。左手で握りっぱなしの、ザツのパーカーの、背中の生地も、いっそう、ぐ、と締める。
 そして、
「才能あんじゃねぇ?」
 と、耳にかすめるキスを、あいかわらずしつつ。
 少し意地悪げに、囁き入れた。
 感度いい、ってのは、そういう要素だ。
 快感を、最大限に感受する才能。抱かれる才能。
 ……すると、「ヤられる才能ぅッ?」と、ザツが半泣きの声になる。
 反応が、まだやっぱギャグっぽい。
 そろそろ観念して、濡れ場な声を聴かせてもらいたいもんなんだが。
 しかし、その頑固なすこやかさが、微笑ましくもあって、頬がゆるんだ。
 それでも容赦はなく。パーカーの裾を外気にはだけさせ、ザツの脇腹に、五本の指を、もやもや、と、這わしてゆくと。
「ワー! だから、いじりまくんなー!」
 真っ赤に憤慨しながら。
 ザツが、なかば以上、本気の抵抗をしてきた。
 押しのけてこようとする腕、肘、手。
 ……ここが最後のヤマだな。
 と、本能的に感知して。
 徹底攻勢に出る。
 断られると、深く傷つくんだと。
 強引に、すりこむように、知らしめる。切ない低音。
 一番そそれる、と学習済みの自分のそんな声音を、使用して。
「男にいじりたおされんのはイヤか?」
 甘く、懐柔するように尋ねる。
 ちゅっ、ちゅ、と軽く音を立てて。
 ザツのまぶたに、キスを落としていく。
 ……ザツの目は開いているから、やんわりと、おろさせるような形になる。
 いちいち、ふらされるキスの動きにあわせ、ザツは。
 その時々で片目ずつを、ぱち、またぱちり、と、スロースピードで開閉させた。
 なんだかまぬけで、律儀で、かわいい姿。
 つるりと手に吸いついてくるような、ゆで卵めいたザツのあごを、手先で、つつ、となぞりながら、軽く上向かせる。
「なめられんのイヤ? 気持ちよくさせられんのは、イヤか?」
 軽く持ち上げたせいでさらされる、血脈の温かさを直に伝えてくる、のどぶえのあたり。
 そこを指先で、へこむほど、熱心にまさぐりながら。
 ぞわり、ぞわりとかき乱すような、喉にかすれるバスで、囁きまくってやる。
 そりゃあもう、こっから先の指名がかかってるホストのように、真剣に。
 ……ザツを、横目でもってうかがうと。
 絶句……というよりは、言葉をふさがれたような表情で、まだ、まばたきをしていた。
 まっこうから『キモチワルイ。バカヤロウ。ヘンタイ』と言えるほどの容赦のなさは、持ち合わせていないらしい。
 ……多分、こっちの『本気』が存分に伝わっているのだろう。けっこうなことだ。
 ずっとひきずられなければ何にも……メシすら食おうとしなかった男が、初めて能動的に、自主的に、求め動いているのだ。そのあたりも影響しているかもしれない。
 ぱちぱちぱち。
 ザツの両目でのまばたきが、どんどん頻繁になっていく。
 背後のフロントガラスでばらばらと音を奏でる、激しくなってきた雨足に、合わすように。
 しかし。とまどった、気迫に呑まれた顔から、一転。
 いきなりザツは、眉どころか、鼻のつけねまで、皺々にしかめて。
 不愉快そうに、言い放った。
「……おまえ、自分がイイ男だと思って、いい気になってるだろ」
「…………」
 さすがに虚をつかれて。
 ベタベタさわっていた、手が、止まった。
 ……見透かされた、気がした。
 と言うより、見透かされたのだろう、コレは。
 どうこうなるつもりなんか、これっぽっちもない女相手に、幾度もこんな風な手順でやってきた。
 真剣な目で、熱く涙の気配なんかも見せて。
 欲しいと思った数時間だけは、半強制的に陥落させる所業を、繰り返してきた。
 ――うとんでもいるが、頼ってもいる。
 この、『もしかして父親』にそっくりな、正統派二枚目ライン上の顔、を、存分に活用して。
 望めば断られないだろうという、オゴリを。
 その、重ねてきた歴史を、責められたような気がし。
 すっかり神妙に、おしおきされた犬のように、攻撃行動がなりをひそめてしまう。
 確かに。
 冷静に、そして一般的に考えれば、この状況。
 目をつけられた方からすれば、相当に、おぞましいはずなのだ。
 男相手にせまっても、そうそうブキミがられない自負が。無自覚ながら、いつのまにやらこっちの胸の内に発生して、巣食っていたということなんだろう。
 ――ザツから見りゃあ、傲慢なんだ。
「…………」
 それでも。
 ピシリとやられて、ちょっと、落ち込んでいるのだが。
 その割には、なんだか『う〜ん?』とばかりの、首だけちょいとかしげるような、軽い心持ち、だ。
 ……だって、まだちゃんと、腕の中にいる。
 柔らかくて、身じろぐたびに、髪からサラサラ微香がして。
 ズバッとするどくて、イキがいい、生意気な……。
 ――なんでか、このチャンスに逃げようとしていない、弟。
 ザツの、うなじあたりの鳶色の毛先を。
 ふわふわと指先で、巻き取るように、ナデるのを再開しながら。
「……でも、今、流されてもいっかな、と思ってっだろ?」
 図星をブッ刺されて、思わず車の天井へとそらしてしまっていた目で。
 また、おもむろに、……優しげに。
 ザツの顔を、のぞきこんだ。
 ザツが、紅潮した目もとで、それでもにらんできた。
 まだ微妙に不機嫌さが残っているものの、ウキウキと童貞話をしてくれた晩の顔を、彷彿とさせる表情。
 なんというか……逆ナンに成功して、期待ではやってる女だって、こんな魅力的な顔はしない。
 予感でサンゴ色につやつやと光るほほ。
 逡巡するように、ハタ、ハタリ、と、時折ふせられるまつげ。
 その奥の、サンセットのように、濡れてゆらゆら、きらめく瞳。
 うすく開かれた唇からしのび出る吐息が、わかるほどに、熱くて。
 抑えようのない可憐さが、咲きこぼれている。
 ……おさまりのつかない、発情の気配が見える。
 同性どうしのセックスという、こんなジャンルでもゆっる〜い、ザツの道徳観に感謝、だ。
『もう結論出てんだろうな』とあたりをつけて、眺めていると、やっぱり。
 ザツはまだ、しばらく、う〜う〜と納得しきれない顔で、うなっていたが。
 しまいに。
「……サービスだからな」
 憎まれ口を一言だけ、叩いて。
 よいしょ、と、自分で、身を浮かせ。
 くちづけてきた。

 ついばむだけの軽い、歯扉の奥にふみこまない、バードキス。
 ザツの性格、そのまんまにイタズラな。
 チロリと引き波のように、ふれてすぐ引いていく舌先が可愛いかった。
 すっかりと、にやけて。
 ……そんでもって、いそいそ火急にカーセックスへと。雪崩れこもうとしたのだが。
 移動したい後部座席は、占拠されている。何にって、白くってインテリアな盗難物に。
 自然、助手席をなるべく、コトに及べるような環境に整えるしかない。
 ……しかし、ザツいわく、『十年以上前のモデルだから、中古ゲットしたんだろーな』なこのスポーツカーに、座席のスライド機能は無かった。
 リクライニングに至っても、後部座席のベンチにすぐさまつっかかり。
 なんだか、前途の多難さがうかがえる。
 ……しかし、当然、やめられない、と。
 助手席を、限界いっぱいまで後ろ、後部シートへと、土足でもって蹴り沈める。
 力に体重が加わったその暴虐に、メリメリと不吉な音が満ちる。
 一応、どろぼーしたという罪悪感はあったつもりなんだが、そんな軋みも、この際にあたってはまったく気にならない。
 やっぱ積極性、心境の相違だな、と。
 我ながら、止められなさっぷりを自覚する。
 シートは、ギリギリ四十五度あたりまでにはなったが、そこでこれ以上にはとても傾かないな、と、いう雰囲気になった。
 あきらめてザツをうながすと、
「うわ、狭……」
 ワキにのけていた体を、助手席に戻したザツが。
 顔をしかめ、そうブツブツと言った。
 しかし、ザツも野外に移動する、という選択肢を取る気はないらしい。
 まぁ、そろそろとても無視できないくらい、雨が降ってるし。
 ハンパに傾けたシートへ、すっかりと身を落ち着けたザツは。
 異様に素直に、両腕をこっちの胴に巻きつけ、抱きついてくる。
 まんま恋人どうしな、甘いしぐさ。
 ……腹をくくったら、こっちが目ェ剥くほどの割り切りだ。
 それに、季節はずれなサーファーのように、ざばんざばんと浮かれノセられて。
 ザツの着衣に、乱暴に手をかけた。
 足を開かせ、膝を折らせつつ、剥ぐ。森林迷彩のカーゴパンツ。
 ザツは協力的に、腰を浮かし、尻を浮かして、ためらいもなくこっちにユニゾンして動く。
 ……ちょっと、まるで、慣れてるかのごとく。
 パンツにひっかかってきたので、下着もまとめ、強引にわしづかみにして、一緒に脱がせた。
 ズル、ガボッ、と、派手に引きぬかれていく布。
 どたん、ぼたっ。と、追いかける。靴が落ちる鈍音。
「……っ!」
 その音のあと。
 目に映った光景は。
 あっというまに、すごいことになっていた。
 豪快にさらされる肌色。
 まさに、ファックの為に、『足を開かせている』状態。
 ……に、こっちがうろたえる。
 初めて男を知ろうとしている人間にしては、えらく大胆な体勢。
 単に、狭い車内、こっちの体がどっしりと足の間にはさまっているせいで、足を閉じれず、おろせもしないせいなの……だろうが。
 残酷な小学生に、雨道にひっくりかえされたかえるのように。
 無防備に股間が……まだ年若い生殖器はおろか。穴の方まで、さらされている。
 しかも、かなり鮮明に、見える。
 作業しやすいようにと、つけてあったオレンジの車内灯に、細部までライトアップされている。
 アダルトビデオのようになまめかしく、淡く美しく。橙色がかって光る、肌。
 さすがの足の長さと。ピンと健康的に流れる、綺麗なその稜線。
 ……ひざまずいて、ほおずりしたくなるほど。エロティックで。
 さすがに身の置き所がないらしいザツは、下じきにされたまま、視線をおもしろいように泳がせている。
 そんな態度にも、煽られて。
 いつしか、ウブなことに思わず。
 ごきゅる、と、喉が鳴っていた。
 間違いなく相手にも聞こえたであろう、飢えた性の発露。
 みっともねーと思う反面、自分の興奮をそこからも知らしめられて、相乗効果のような興奮が、かぶさるように襲ってくる。
 血が、重苦しく、海綿体にぎゅるぎゅると集まる。
 こりゃ……。……いいな。
 人の車、ラブホにしたかいがあったと、心が乱舞してしまう。
 と、こっちの喉の鳴る音が、要因になったのか、
「ちょ、眺めてんなよっ……」
 少々ビビリの入った声で、ばたつきだしたザツが、蹴りをはなってきた。
 左耳のあたりにヒュッと飛んできた、その足先。
 反射的にパシっと、裸のくるぶしを、野球ボールのように手のひらで受け止めた。
 そのまま流れる動作で、足首をひねるようにして、元の体勢に戻させる。
 ほとんど、力はいらなかった。
「…………」
 なんだか、拍子ぬけしたような表情になってしまった……と思う。
 あまりな相手の無力ぶりに、驚いていた。
 そりゃあ、年齢差、体格差があるから、腕力で全勝できる自信はあったにせよ。ザツは弱々しい、という印象からは、ほど遠い人間なのに。
 当事者のザツは、『拍子ぬけ』どころの騒ぎじゃなかったのだろう。
 さっと顔をこわばらせ、蒼褪めた。
 可能なかぎりというくらい不自然な体勢で、しかも下にいるという。圧倒的すぎる不利に、いまごろ気がついたんだろう。
 ……こっちだって、今、その、威力、を悟ったとこで。
 ちょっとだけ、バツが悪い気分をあじわっている。
 なんというか、モロに強姦体勢だ。
 こーなれば、どれだけ抵抗されてももちこめそう、なほどに。
 なんだか、感情が、ものすごく複雑な……蜂の巣のような複雑さを呈してきた。
 こんな体勢になったのは。
 主犯はこっちだろうが、おおいにザツの自由意志のせいであって。
 ……なんつー、無防備な。
 警戒うすすぎ、と、自分がそそのかしたくせに、叱りたくなってくる。
 こんな態度で生きてては、他の男に、人生、教えられちまうぞ、と。
 今から、人生という杭を教えようとしてる張本人のくせに、そう思う。
 殺すことすら簡単にできそうな、この試合終了、完全フォール状態は、ちょっと生々しすぎる。
 実際、ザツは見た目が見た目なんだし。異常性犯罪者になら、恍惚と殺されたのち、部屋に飾られてしまいそうだ。
 しかし。『うっわ、ちょっとヤベぇかも……』と思いきり語る、小型犬の瞳で、こわごわと見てくるザツに。
 ……まぁ、たった今、多少は一抹の後悔と共に学んだようだし、と。
 とりあえず説教はヤメにして、自分の下半身の痒痛も解消すべく、本題にはいった。
 相手を安心させられるほどに、害意の滲まない、デリケートな速度で。
 パーカーの裾に一部、微妙に隠されながら、だらりと下がっているザツの物へ、指を伸ばす。
「わっ……」
 純粋に、驚きだけに彩られた反応を、ザツが見せる。
 持ち上げて、右側面から右手だけで捕らえ、やわやわと揉みしだくように、そっとしたタッチでふれていく。
「ん、……ん〜」
 ザツが、唇を、への字に結んで。
 緊張をゆるめ、かすめていく断片に身を任せようとしはじめた。
 ……やっぱ、従順と言うか。
 積極的だ。
 そうしながら、まださっぱり反応を見せていないのに。
 短気に、目的にとりかかるべく、準備を開始する。
 ……むんぐ、と口に含む、自分の人差し指からは。汗なんだろう、わずかに塩味がした。
 濡らしたソレをもって、指の腹で。
 まずはこてしらべに、さらされた部分を、押すようにさわってみる。
「……っ」
 びく、と、さすがに肩を揺らすおびえを、ザツが見せたが。遠慮はせず。
 続けてぐりぐり、と、押しこむように動かしてみた。
「……っうわ、ぁ……」
 みるみるうちに、くしゃっと。
 我慢する皺が広がってゆき、……やがてそれでいっぱいに、ザツの顔が埋め尽くされる。
 やっぱ、可愛いよなァ、と。
 容赦なく指の深度をふかめてゆきながら、感慨にふけっていると。
 ……背後から、『ぱた、ぺたっ』という。
 何かをつつくような擬音が、耳に届いてきた。
 雨音とは、違う。
「――?」
 誰か来て、のぞいてやがるのか?
 と、目つきに険を混入して、ふりかえると。
 狭い車内での、無理な姿勢のため。
 ザツのたたまれた脚の先、両の足裏は、フロントガラスにべったり、くっつけられていて。
 ザツの幼児っぽい、柔らかいフォルムが抜けない、はだしの足指が。
 そのフロントガラス上で、ぺたぺたと。
 ミニミニタップダンスを踊っていた。
「…………」
 しきこんでいる、ザツの上半身も。
 居心地悪げに、もじもじしまくっているのが、体躯から直接、伝わってきていて。
 ……こっそり、ザツから見えないように。
 笑ってしまった。
 ……だが行動だけは非情に。
 うぐりぐり、とばかり、回転させながら、また更に指をねじこむ。
 すると、
「な、なぁ……」
 ずっと、びく、びくり、と震えるだけだったザツが。
 辛抱しきれない、という感じで、肩に右手をかけてきた。
 ぐっ、と、指先に力を入れて、掴まれる。
 あ、やっぱさすが男だな、と、思うような力の強さ。一本一本、個々の指の位置が、はっきりわかる。
「ホント、に、やんの……?」
 次いで、ゆっくり、合わされてきたシナモン色の瞳は。隠しようもない、涙目だった。
「……やる気になってただろーが、おまえだって」
 それでも、許さずに。
 顔をしかめて、眼光でからめとるように、キツめに睨むと。
 う……と、気まずげに、ザツは目元をゆがませる。
 おおかた、穴を弄くられる感触がキショイから、やめたくなってんだろう。
 生物として、その感覚、まったく想像つかないわけでもないが。
 しかしもー、そうは問屋がおろさねぇ。
 というより、こんなヒートアップした期待。もう、自分の手での処理では、おさまりがつかん。
 ……と、はいえ。
 内心では、ザツごとき足元にもおよばないほど、真面目に分析し、考察しているのだ。こっちは。
 現実的に、指一本でも抜き差しが、……ほぼできてないこの状態では。
 強引に繋がるのを実行すれば。
 阿鼻叫喚絵図。
 ザツから表情が見えぬように、深い角度でうつむいて。
 ん〜む、と、深刻に思案をめぐらせていると。
 ……あ。
 ひらめいた。
 ……態度にはあらわさぬながら、上機嫌に。
 右腕を、ひねって伸ばす。
 ……カコン。缶ホルダーから取った、レモン味のチューハイを、一口、ふくむ。
 手を施したい場所に、直接、口をつけて。
 つきだすようにとがらせた口から、むにゅむにゅ、と、ごくごく少量ずつ、零してゆく。連動して、地味に左ひとさし指も、動かしながら。
「ひゃっ?」
 奇声をあげたザツが、首で、顔をぐっと持ち上げて。
 他人の手にゆだねている、自らの股間を見おろしてきた。
「うぁっ、チューハイ技……」
 行われていることを確認するや、やられた、という風に、呻いて。
 また、どさん、とシートに沈む。
 ……技、ってなんだ、技って。
 まっさいちゅうなのに、情緒がない。
 どーにも、男同士のわるふざけ、の域を、この行為はいまだに出ていない。往生際悪く。
 まぁ、それが、謎なコトに、なんかここちよくもあるんだが。
 ともかく、鍛えられてきつつある精神復活速度をもって、果実酒をたらしては、内部へと地道に塗りこめていく作業を、続行する。
 ザツの、腰の下のシートも、当然、濡れていくが。もう見ないふり、だ。
 ……しかし、しばらくすると。
 せっかくせっせと作業をしているのに、ザツが、両手をのばしてくるようになった。
 髪をぐいぐいひっぱったり、頭をべしべし叩いてきたり、しつこく横っツラを払ってきたり、妨害してくる。
「邪魔すんな」
 ザツを見上げて。
 拗ねをこめ、不機嫌にそう抗議すると。
「……っ、って、なんっか、シュワシュワする」
 そう。小声で、返してきた。
 ビブラートする口調や、不安げに寄せられた眉根、が……。
 ……すこしだけ、マジ泣きしそうな気配だったので。
 しぶしぶ、と、そこから、口先を離すと。
「うぅ……っ」
 ザツは、歯医者で歯をガリガリけずられてる患者みたいに、耐えるカオをして。
 ピンと腕を伸ばして、両手でぎゅうう〜、と、その、秘部を、隠すように握りこんでしまう。
 指のすきまから、ぽたぽたと、しぼりだすように垂れる雫。
 ……エロい。
 どっかの雑誌のフォトでありそうな。
 もてあましてる、自慰中の女みたいだ。
 潤滑のために分泌される体液に、見えなくもない、あどけない手からしたたる透明な滴を、しげしげと見つめて。
 その景色を、脳みそに焼きつけて。
 それから、
「おら、も、いだろ」
 小休止おわり、と。
 再開すべく、そのふたつの手を。どけさせた。
 中指に切り替えて、さらに内部を侵略していく。
 ……タップダンス、どころではなく。
 くすぐられて悶絶してる人のように、ザツが身をよじりつつ、どか、どん! と、フロントガラスを砕かんばかりに、踏み鳴らしはじめた。
 だが、強度から言って割れることはないだろう、とタカをくくって、丁重に無視してさしあげる。ただひたすらに、反復動作をくりかえす。
 そやって、傍若無人に、掘りまくっていると。
 うぇっく、ひっく。
 たまらず、という感じに、しゃくりあげるように、ザツの呼吸がうわずってきた。
 そして口中のチューハイが切れて、こっちが顔を上げたタイミングで、
「もらし……たみてぇ」
 と。
 泣き言を、たれられる。
「おもらししてた頃の記憶なんか、あんのかよ?」
 にやにや唇を吊り上げながら。
 数口目を、ザツのそこにひっかけるべく。
 歯みがきの最中さながらに、缶をあおりかけながら、そう、からかうように尋ねると。
 意外なことに、
「……っ、酔い、すぎて、足腰、……たたな、なって。ってのが……わりと、最近、ありマスネ……」
 と、テレをごまかしたいのかなんなのか。
 間隔の短い息継ぎで、とぎれがちになるのに、それでも強情に。
 エセ中国人のようなナマリで、かなり長々と、しゃべりきる。
 ……そして、言い終わると。
 ぐったり。と。
 目を閉じたまま、湯をかけられた葉っぱのように、しんなりと脱力しきってしまった。
 なんかよくわからんが、……というより正直、ほぼ完全に理解らないが。
 かなり、消耗しているらしい。
 右手の缶を、運転席に、置いて。
「……ザツ」
『彼女』にするみたいに甘ったるく、名前を耳元に囁きかけながら。
 元気だせ〜と。
 肩に手をかけてゆさぶるのに似た動作で、お留守にされていたザツの物へ、右手をかけた。
 やわく、上下に揺する。
「ひゃ……!」
 ずっとほったらかされていたシンボルへの刺激に、ザツが四肢の先を、がたたっ、と跳ねさせた。
 すばやく逆手に切り替えて、激しくしごきながら。
 ……背中をこごめて。
 予告を、実行する。
 なつかしい、と感じてしまうような色をした、ザツのソレ。
 眼前にまで近づいてから、目をつむった。
 まずは、平べったくした舌で。
 先端のあたりを、広く、包むように、ゆっくりと舐め上げる。
「ひわっ……」
 湿ったゼリー的な感覚を持つ舌は、快かったようで。
 ザツ自身は、ぐん、と。
 印象的にはいきなり、硬度をもった。
 ――根元をくいくい、とばかりに、コックをひねるように右に左に押しながら。
 露出してきた亀頭に、唇で、キスを雨あられと降らせる。
「ん、くぁ、ふゥ……っ」
 ……好い反応が得られるので。
 この路線でやってやれ、とばかり。
 さっきホンモノの頭にそうしてやってたように、ナデナデと。
 手のひらの中央のくぼみ、で、濡れはじめた丸い先端を、可愛がる。
 空気でかきまぜるような、もどかしい愛撫。
 ……ちゃんとツボに合ったようで、
「ふぁ、ひゃ……」
 獣チックに腰をぐるん、くる、と振ってしまいながら、ザツが気持ちよさそーに、あえいだ。
「……いい声、出んじゃん」
 言葉責め、というわけでもなく。
 敬虔なほど、真摯に、ただそう思った。
 つい、ポツリと口にまで出てしまうほど。
 ……更に熱心に、先走りを汲み出すように。
 尿道穴に、舌先をくぐらせる。
 汲みとるはしから溢れてくる。
 まさに泉のように、こんこん、と湧いてくる。つるりとした舌ざわりの液。
 ……与えられるまんまに、感受している証明。
「ゥん……! くあ……っ」
 腰をひねって、雄に与えられる刺激に、ザツがヨがる。
 ……反応も、素直だな。
 そう思って、気がよくなる。
 しっかし、初めて男にしゃぶられてるというのに。
 ここまで正直に、よさげな態度をさらけだせるのは、凄い。
 素質と言うか、性格上、というのが大きいとは思うが。
 とりあえず気を許してくれてんのは、間違いない。
 そうわかるから、嬉しかった。
 ……たち上がって触りやすくなった棒。
 重力で、側面につたい落ちてきている、とろりとした雫。
 指一本だけで、軌跡をたどるように、なぞる。
 人差し指だけを、つつり、と這わしてゆく。
 塗りのばすように。根元へと向かって。
 ……幾度も幾度も、じらしてるみたいだな、と、自分でもそんな思いがよぎるほどに、そうしていると、
「……っ、……ッ!」
 案の定、ザツのまつげが、いじめられてるみたいに、ふるえっぱなしになってきた。
 健気なわななきっぷりに、『もっと、もっと。しっかり』との、無言の要求があらわれているようで。
 よっしゃ、とばかり、いっそう顔をうずめた。
 本格的にしごきやすいように、唾液でうるおしてやるため。
 あごを、かぱり、と開いて、奥までくわえ入れる。
「ぴぁ……!」
 あぐあぐ、咽の奥でもって甘噛みしながら。
 粘膜を圧迫する異物、に対抗し、生物反応で出てくる、己の唾液を生かし。
 ほぼたち上がりきってなお、余りぎみの皮、の表面を。じゅぶじゅぶと濡らしてやる。
 そうして、中程までめりこませたままで止めていた、左中指を。キュッキュッ、と前後に揺すりはじめた。
 二点から、ガンガンにあおりたててゆく。
「うっ……、わッ……!」
 パタパタパタパタ、と、ザツが両手足の先を、ふりまわしだす。
 勢いはなく、だけどひっきりなしの、暴れ。
「ん、くぁ、……アッ!」
 嬌声も、翌朝、喉が確実にかすれていそうなほどに。高さと頻度が上がっていく。
 やがて、
「……も、……も、もいい!」
 あんまり一生懸命に目を閉じすぎていて。
 鳥の足跡のような三角形によった目の皺の中に、まつげが数ミリも埋没している状態の、顔で。
 快感や違和感の濁流に流されきった、そんな表情のままで。
 ザツが、小さく叫んだ。
 頭を引いて。
 ぬるりと唾液まみれになった、ザツ自身を。口の中から解放する。
「……いいのか?」
 でも、念のため、尋ねた。
 ……どうも、まだまだ。
 流血沙汰を見そうな……手ごたえと言うか、指ごたえ……なんだが。
「だって、な、んか、産まれそうっつーか、ひきずりだされそうつか、脳みそがどっかからこぼれそうっつか」
 ザツは、丸まった左手で。
 ごし、と、幼く、目尻をぬぐいながら、
「……とにかく変で、耐えられねぇんだもん」
 聞きようによってはヒワイなことを、たよりなさげに言う。
 ふ、と、鼻から息が。
 そして笑みが、こぼれた。
 半ばヤケになった誘いは、それでもありがたい。
 シートの席下に畳み押し込んでいた脚を、伸び上がらせた。
 助手席上に、ザツをまたいだタテ膝で、立つ。
 こっそりと、両手を己の下半身にやって。わりとダボついたジーンズの内でも、思いっきり取り出しにくくなっている怒張を、からむ下着を払いのけながら、出した。
 ……あからさまに『戦闘準備』な空白に、またもやザツが、雀色の視線を宙に泳がせている。
 こっち集中しろ、とばかりに、その唇に、かすめるだけのキスをして。
 そのまま鼻先をすべらせて。
 柔らかなのどぶえに、ひたいをくっつけた。
「…………」
 両手の突きどころを、探す。
 左掌は、シートベルトがたれさがっているあたりの、ガラスへ、べっとりとつけて。
 右腕はくの字にし、右手で、助手席シートの頭部のあたりを、肘先に筋肉が硬く浮きたつほど、強く握った。
 ……体重の基点を、ほとんど腕力だけにする用意を整えて。
 ザツの、汗を浮かべた裸体の胸に、体をあずけ重ねた。
 両足を、がに股にするように開いていって。シートの両脇へ、落としていって。
 ――腰を、すすめる。
 ぐっ、と、刺すようにすると、拒絶されるように。つるりと一瞬、すべった。
「っ!」
 反射的に、ザツの体躯が、上へとブレる。
 意識してのことではないだろうが、のがれていこうとする。
 薄く口を開いて。
 そばにあった首のつけ根に、思い切り、噛みついた。
 跡になりそうなほど。しっかりと歯を立てて、留める。
「んッ――」
 こめた力のわりには。
 あまり苦痛の滲んでいない、甘く咎めるような響きが。ザツから洩れる。
 その体を、ギリギリと歯でもって、固定したまま。
 ……食い合わせるように、がつっと。
 自身を、打ちこんだ。
「ゥ……っ」
 まずうめいたのは、自分の方だった。
 ギッチリ、と、搾ってくる具合。
「……っ」
 べしんと平手で叩かれたような衝撃に、はぁ、は、と、息が上がる。
 ……それでも。
 ビリリと下腹部に走る、強制的な快感が。
 えぐればますますの充実を与えてくれる箇所に、もっとちゃんと、入りこもうとする。
 火に飛びこまずにはいられない羽虫のように、本能がひとりでに、ますます侵入しようとした。
 その望みのままに、とっさに、するりと開いてしまう。自分の両の手のひら。
「――!」
 目をみはって。
 どん、がつっ。と音を立てて、あわててそれを中断した。
 両腕を精一杯、それぞれに再びつっぱって、体重をそちらに逃がす。
 ……こめかみに汗が、走るように滑っていく触覚。
「っ!」
 自分のことで、手一杯になって。
 一瞬、ザツの様子を追うのを忘れていた。
 バッと、相手に、視線を遣る。すると、
「ッ、――ッ、――!」
 声も、なく。
 ギチギチ、と、歯ぎしりすら響かせているザツが、間近にいた。
 このわずかな間に、広く濡れてしまっている目尻。
 受け入れを耐えて、細く、忍び出ている吐息。
 ……はっきりと、コーラルピンクに紅潮した、頬。
 伝わってくる体熱も、危険なほど急激に、上昇していて。
 ザツの髪すらも、その熱気で。蒸されたように、黄金色に、流れる。
 心配がわいてこなければいけないはずなのに、意識が、完全に目だけに吸いとられた。
 至近距離で充満する、麻痺するような。
 いっぱいの、匂いにあらざる芳香。
 ただよう魅力の微粒子に、茫然と、捉えられる。
 ……ザツの右手が、持ち上がった。
 苦痛のやり場にするかのように、こめかみのあたりの自らの頭髪を、強く引きつかんだ。
 金糸が、指でぎしぎしと、からみとられる。
 ふっと、その、髪が数本絡んだ、中指が。
 その指だけが、二ミリほど。ズレた。
 不自然な動き。
 ……たとえば、二、三本、髪がちぎれたら、そうなるだろうという感じの。
「ちょ、おい……!」
 見とれるのから、抜け出して。
 あわてて、さっき離すことを躊躇した自分の左手を、シートから外した。
 自らの髪をむしってしまっているザツの手を、ぱっと握りしめる。
 だって、なんてとんでもないこと。
 ……スゲェ、気に入ってるのに。
「っ、……ぁー!」
 頭髪からひきはがすと、ふいに、栓が抜けたように。
 声量は大きくないながら、ひときわの絶叫を、ザツがほとばしらせた。
 ……眼球がひしゃげるのではないかと思うほどに、奥へ奥へと、閉じられたまぶた。
 熱ある子どもの、夜泣き状態だった。
 悪夢か、夢かに、迷いこんでいる。
 ……うわ、もう言語、通じてねぇな。
 そう思いながらも、とりあえず。
 ザツの右手を、離してやる。
 その手が髪に戻っていかないのを、確認してから。
 左手を、ザツにかかる体重を抑える任務に、再びつかせて。
 ……ひたいで、水分で重くなっているザツの前髪を。
 すり、すり、と左右にかき分けた。
「ザ、ツ……」
 呼びかけながら、ごりごり、と、おでこを擦り合わせ。
 少しでも、落ち着かせようとするが。
「イ、イ、イ」
 可哀想に、震えて、歯をくいしばって。
 あいもかわらず、つぶれそうなほど目を閉ざしたまま。
 ザツはがちがちになって、痛い、の最初の文字しか、口にしない。
 ……まいったな、と顔に出さないながらも。
 こっちも進退きわまって、固まっていた。
 体重を、少しもザツにかけられない。
 ピストンなんか、もってのほか。
 確実に血を見ると、分身から伝わってくるからだ。
 そりゃあこっちの下半身は、むしろブラックホールがザツの体内にあるように、突撃したがってるのだが。
 それはビンビンに訴えられているのだが、さすがにそれをやったら、強姦も真っ青な状況になる。
 ふと、
「……しごいたら、ラク、になるんじゃねぇ?」
 思いつきが、口をついて出た。
 一瞬、言うヒマがあるくらいなら、その間にもやってやればよかったかな、とも思い直したが。
 あいにく棺桶のような車内で、ほぼ空中で上体を支えるために。
 助手席シートの頭と、サイドガラスから、手は移動させられず、今のところその余裕がなかった。
「っ、ぅッ……!」
 うなずいたのかもしれない、ただの応答だったかもしれない。
 ザツのアプリコット色の髪が、一つ。強くふりかぶられ。
 まさしくワラにすがるように、ザツのソレに、両手が集まってきた。
 ……腹の、あたり。
 それを揉みしだきだしたザツの動作を、感じる。
「フ、ふぅ……!……ク!」
 ギリッ、と、ザツの上下の歯が、かみあって鳴る音が。
 濃密になりだした空気に、はじけた。
 ザツの顔が、バッと、踊るように。
 こっちに向けて、上がった。
 乱入してくるような勢いで、視界に入ってきた瞳。
 ――多少、正気が戻り。
 その正気が、火花のように燃え上がっていた。
「さわって、おま、も、さ、わ……ッ!」
 唇のはしから、ホロホロと粘性のない唾液をたらしてしまいながら。せっぱ詰まった様子で、ザツはそう要求してきた。
 ……が、そこまでしか保たなかったようで、再び。
 ぶんぶん、と、だだっこのように。
 浅黄がかった茶の色彩が、散るように激しく、連続して、揺れだし。
 ……あらためて、痛み……なんだろう。おそらく。
 に、支配される。
 その髪に、ハタくようにくすぐられながら。
「さわると、……イイ、か?」
 にや、と。
 唇を歪ませて、わざわざ尋ねた。
 ザツはただただ、一層、頭をふりまわす。
 うなずいているのか否定しているのか、判然としない、でたらめな方向。
 そして、
「マシ……っ」
 ……マシ、って。
 遠慮ねぇな……。
「さわ、さわ」
 わなないてブルつく唇で、うわごとみたいに、ザツは繰り返す。
 そりゃ、異論はないが。しかし。
「……もちょっと、入って、い、か?」
 片手だけでも『支援』にまわすなら。
 どっちかの手を、体重支えの義務から解放しなければいけない。
 それは自然、ザツにもっと杭を、打ちこむことになる。
「いい、いい……っ」
 コクコク。と、ザツが景気よく、首を縦に、了承しまくる。
 絶対、あんまり聞かれてること、わかってないだろう。
 だけど、まぁいい。そろそろ、限界だし、と。
 三角筋のあたりから、ゆるやかに力を抜いていった。
 やっと落下していく体躯のまま、ザツの背中に両手をまわし、引き寄せる。
 両腕に、抱きこむ。
「――――ぅん」
 ……あーやわらけぇ……。
 そして、もっと深くなる。加減なしで締めてくる潤肉が。灼熱にアツイ。
 下半身も上半身も、腕のすみずみまで。
 極楽が、沁みわたっていく。
 ……ザツ自身を慰めてやるための、両手空けだったのに。
 半瞬、堪能してしまってから。
 おっと、と、ザツに目線を巡らせた。
「…………」
 すっげー。
 と、まず、感想をいだいてしまう。
「ッ――!」
 ザツが頭をふりたくるせいで、金の粒子が飛び交う、視界。
 ……それから、ハッとして、両手を伸ばし。
 少々強引に、ザツの両頬を、掌で押さえた。
 そうやって止めてみると、涙でめちょめちょに汚れてしまった、ザツの顔中が、確認できる。
 表情は、もう朦朧と。歪みながらも、どこか気絶のように、ゆるみはじめてて。
 ひくひく、と、小鼻をひきつかせて、息だけをしている。
 紅潮したほほからのスチームが、毒な位、直球で蜜で。
 ……うわエロかわいー。
 ヤバい、と思う間もなく、本能が勝手に、腰をつきださせた。
「ャ……! っ!」
 破裂音のような悲鳴にも、かまえない。
 捕食する野生動物みたいに、もう、むさぼる。
 ……しかし同時に、こればっかでは、と。
 両手を、ザツのたち上がったものの所へ、下ろした。
 中指の先から、手首まで、手のひらをフルで縦に使って。
 ザツの手の上から、ザツ自身を、すっぽりと挟みつつんだ。
 せわしなく、しごいてやる。
「ふハ……、……ィ……!……ッ!」
 同じ生理反応で、同じ落ち着かなさを発揮する自分自身の動きも、ずんずん、ザツへぶつけてしまう。
「っ!……ッ!」
 活け造りの刺身みたいに、ザツは、ささやかに跳ね続ける。
「ザツ……」
 引き寄せる、頭部の丸みが、気持ちいい。
 指にからむ、しめった細髪もイイ。
 ふがふがした、鼻にかかった呼気音まで。
 カワイイ。
 ぐちゃぐちゃにカワイイ。嵐みたいに、そう浸る。
 ……目をつむって、ほおずりしながら。
 らしくもなく、白うさぎのように頼りなく震えるザツに、
「ザツ……」
 うわずってきた吐息で、
「な、か出し、って、OK?」
 左手を、ザツの薄い恥毛に移動し。押すように、円を描いてなで廻しながら。
 おうかがいを、たてた。
「……ザツ?」
 ――が、答えがない。
 もっとシンプルな言葉じゃないと、今のザツには、解読できないのかもしれ、ない。たとえば。
 ……左手を、下肢から、ザツのほっぺたへ、当てて。
「終わる?」
 卑怯だって、自覚はあったが。
 この単語なら、理解もされれば、うなずき率も百%だろうと、推察できる言葉で。
 しかも優ーしく、問いかけた。
 ピク、と、わずかながら、反応したザツが。
 うん、うん。
 と、あいかわらず開かない瞳から、雫をこぼしながら。あごを二度、引く。
 ……内心、ごめんな、と謝りながら。
 左手で、ザツの右手を。
 たよりどころから、そうっとひき剥がし。
 互いの指を、しっかりと絡めて、握りこむ。
 それをシートに押しつけ。
 本格的に。
「クぁ…………!」
 フィニッシュに向けて、奔っていった。

 ……ぐちぐちに、放出されたミルクで、満たされたザツの内部。
 やっぱキツすぎるものの。そこからも、未だにやってくる達成感に、まったり、幸福で酔いしれてしまう。
 ……変わらず、ザツの目から露草のように、珠で出ている涙を、舌で舐めとる。
 ついでに、髪先を、つまむように唇ではさむ。
 ちろっと、ツヤツヤのそのキューティクルを舐めたりなんかもする。
 そうやって、ちょっかいを出しながら、うっとりしていると。
「ば、ば、か……」
 なんか、やばいくらいに、シートの上、しめった全身からフェロモンを出しているザツに。
 いやいや。と。
 心底、うざったそうに。
 かぶりを振って、嫌がられた。
「う……」
 思わずうめき、絶句してしまった。
 できるだけ、気づかって、優しく実行した、つもりなんだが。
 ……もしややっぱり、中出しがまずかったのか?
 などと、ショックを受け。
 からめた山吹茶の髪もそのままに、指まで硬直していると。
「は、早く、ぬっ……」
 ……あ、そっちか。

 ばっくん!
 タタっ壊すような勢いで、助手席ドアが開く音が炸裂した。
 ザツがへろへろと。
 水気をふくんだ白いパーカーをひらつかせて。はみだしていくように、車から降りてゆく。
「うぁ〜。ダメージ、濃ぉ〜」
 ずるずる上半身を車外に落とし、逆立ち状態で体を支えつつ、下半身も外に出し……四足動物の体勢からのろのろ立ち上がる、という暴挙を完遂させつつ。そう文句を言う。
 そして、雨はやんだ路上で、腰に手をあてて。
 首をげんなりと、ストレッチのようにぐるぐる回している。
 それを横目で見ながら、車内から、返事した。
「おま、本人の前でなぁ……」
 男なんだから、男のプライドとか……気づかってくれてもいいんではなかろうか。
 そりゃ、よかったというセリフは、あの固さでは、期待のしようもないが。
 そう思いながら、ぺいっ、と拝借したネピアの箱を、後部座席へほうる。
 後始末した丸まりティッシュも、そこに転がっている。捨て掃除はまとめて、あとだ。
 そうしてこっちはものぐさに、下車しないまま、ドアだけ開けて。
 下半身を外に出し、菱形に折りっぱなしだった脚を、伸ばす。
 膝に両手をあてた中腰の状態。ラジオ体操、屈伸の『イチ、ニィ』と『サン、シィ』の間の、ポーズになっているザツが、更に。
「う〜。ケツ、ちゅぷちゅぷする〜」
 ……口元がひきつり。
 赤面もする、自覚があった。
 ……思ったことを、そのまま訴えるな……。
 そんなこっちにおかまいなしで、ザツが、くるりと振り返って、
「今、気がついたけど、ゴムという手段はなかったわけ?」
 と、追及してきた。
「……いーだろ」
 是非、心情的にも、生でヤりたかった、と言ってしまうのも。
 どーにも、場違いで。
 そうかえすと、
「そりゃ、ニンシンする箇所じゃないけどさァ……」
 ザツは、ウエストにまた手をやって、ブツブツ言った。
「ホラ、ぼちぼち証拠隠滅に走らねぇと、マジィぞ」
 ツラそうなザツに、そう言いながら、両手を差し出した。
 ここは思いきり優しく、身体をいたわってやって、甘やかして、ポイントを稼いでおきたいところなんだが。
 日が昇りきったら、この車の持ち主が騒ぎ出すだろう。発見される可能性も上がる。
「へぇへぇ」
 せかされて、身体を反転させたザツが。
 さしだした左右の手に、自分の両方の手を重ね、ギュっと、握り返してくる。
 しっかりとしたあったかさを感じながら、ひっぱりあげた。
 車内に潜りこんできたザツが、助手席で前傾姿勢になって、また腰元のチェーンをたぐりよせる。
 カーゴパンツと同じようなアーミー柄に、ホワイトの皮でポイントが入った、デカい財布を取り出して。
「にじゅうにせいき秘密どうぐ〜」
 などと、わざわざのドラ声で、ラリったことを言いながら。
 ひたすらカチャカチャと、アングラな作業を開始する。
 ……ほどなく、ぶるるん、と車が振動しだす。エンジン始動。
 ご苦労さん、とばかり、ぽん、と、ザツの左肩を叩いて、軽く押しのけるようにした。
 ライトをひねり点けて、ステアを握り、発進準備が整う。
 と、背すじを伸ばすように、ばふん、とシートに身をゆだねたザツが、
「……こ〜んなに強烈だとァ……思わなかった」
 白みの強い首をさらして、うなだれて。
 ほとんど、しょげたように、零した。
 ……左手を滑らして、ウィンカーレバーを押しやる。
 ウィンカーが表示された、カッチン、カッチンという、作動音。
 その音をバックに、フロントガラスの方に首をつきだして、ガラス越しに周囲をうかがう。危険予知。
 まだ夜な世界。暗闇のうちに終了できてよかった。
 そんなことを、頭の片隅で、思いながら。
「あれ、ホントにもぅやんねぇの」
 軽口に似せて、そうつぶやいてみた。
 助手席におさまっている、ザツが。
 えっ、と見上げてきた。
 冗談の入らない、真剣なまなざしで、見てやった。
 ――カッチリ、と、音色すら立てそうなしっかり度で。視線が合う。
 すると。数秒、ぽっかり、間があいた後。
 ザツは、しかられた犬みたいに、両肩をキュ、とすくめてしまった。
 おどおどと、上目づかいになって、
「宿賃、ちょうしゅう?」
 ……と、口をとがらすような態度で、言ってきた。
 そんな条件、聞いてねぇよ……。みたいな。
「イヤなら、やんねぇけど……」
 気づかい無用に、おもいっきり、残念そうに。
 笑いかけてやった。
 と、ザツはクルミ色の目を、ぱちくり、ではきかないくらい。
 バちくり、とさせて。
 もじもじ、と、身と首を縮め、シートに腰を落ち着けなおし。
 そして、こっそり、気まずそうな顔になった、あと……。
 ほのかに、赤くなった。

 いったん家に帰って、ベンチをおろし。
 ついでに車内の軽い掃除……ザツが「指紋〜」と言うので……を済ませて。
 乗り捨てる為に、パクってきた町へ戻る。
 寝とけば、とすすめたのだが、
「アケル、位置おぼえてねェでしょ〜」
 元の停車位置に、この早朝前にねじこんでおけば、盗難が発覚しない可能性が高いと。ザツは、くっついてきた。
「……覚えてんのか?」
「もちろん」
 一本だけ立てた人差し指を、チチチ、とわざとらしく左右しながら。「おおごとにシナ〜い、これ常識」と、ザツは講釈をたれる。
 ……そんな常識は、ガッコで教えてくれません。
 ザツのナビゲートで、朝日があふれ始めた道路を右折し左折し。
 ……そいやここだったような気がする。
 という場所に、辿り着く。
 またザツが、かちゃかちゃと始める。
 それを横に、ステアのあたりとかドアのあたりの指紋を、ラストに、腹のあたりの生地でひととおり、荒くぬぐっておく。
 ザツが作業を終えて、車外に降りてしまってから。まだ乾いていない、あきらかに水分をふくんで重い色になったシートのある部分も、いまさらムダではあろうけども、心底もうしわけない気持ちで、袖のはしでばふばふと叩いた。
 そうして、ザツを追って、車外に出ると。
 ザツは、停めた車を、両手で合わせ拝んでいた。
「ありがとあっしたー!」
 ザツは、なぜか体育会系のシメの挨拶をしてから。くるっと、身をひるがえした。
 パーカーのすそをはためかせて、歩き出す。
 すぐに。
 ついてきていないのに気がついたのか、身体を半回転させて、
「アーケールー」
 無邪気な笑顔を、投げてくる。
 ……もうさっぱり気にしてねェな、こりゃ。
 車、盗ったこと。
 そう思いながら。
 だぼついたジーンズのポケットに、両手をつっこんで、立って。
 先をゆく、ザツを、ただ見ていた。
 まだちょっとヒナの殻をかぶった。
 スポーティで、元気な、明るい背中。
 すっかり、観賞してしまってから。
「……あ、しまった」
 思わず、ひとり言を呟いていた。
 すごく、はっきり。
 チ、と舌打ちをしたいほどの気分だった。
 ……なんで今、ザツを見ていて、しまったんだ。
 水色になった空の下。
 イヤだの痛いだのと、弱音はすぐ吐くくせに。
 意地をはって、情けなくはならないように。
 多少不自然なだけで、あんまり腰をかばわずにしゃっきり歩く、すんなりした姿。
 見ていたら、胸のなかで、形になってしまった。
 日本語でハマってしまった。
 ……そりゃあ、わかってたんだが。
 カワイかろうが、ハンサムだろうが、男なんてくどいたことなかったんだし。
 送電線の走る、快晴の青空を仰ぎながら、はふ、と、ため息をついた。
 ……だけど、もうどうしようもないから。
 文字にはめて認識とか、しないように。
 わざとしてたのに。
 こんな瞬間に、どうしようもなくコツンと生まれ落ちてくる。言葉。
 ……ザツが、斬りつけてくるように、素早くふりかえってきた。
 睨むような目つきで、きっぱり、
「アケル、とろい」
 と、のたまってくれる。
 自分は体調不良ながら、フラつきもせず駅へ進行してんのに、何をボサボサと。……そんな、こめられたメッセージに、叱咤されるまま。
 ハイハイ、と大人しく、足を踏み出した。

 未来のない思いだから、微妙に目をそらしたままでいたかったのに。
『好きだ』とは。

 ◆

 ぺらり、ぺらり。
 くつろいだ、スローライフな演出音。
 日の光まぶしい午後。
 白い紙面にまばらに散った、活字を追う眼球運動すら、ゆっくりで。
 それで読み取られた字も、六十%くらいしか頭には届いてこない。
 ……読みあきたやつだし、写真がメインのだから、それでもいっこうにかまわない。
 目に快い、直線の洗練美。
 蒼がかった純黒が、鏡面のように輝く、ピラミッドのような金具の拡大写真に、目をやりながら。
 ベンチの上。
 左脚を上にしていた脚を、右を上に、組み替えなおした。
 あの日、かっぱらってきた白木のベンチは。
 予想外なことに、自分の方が激しく気にいってしまい、今では就寝を除いた家での時間を一番多くすごしてるのは、ダイニングのはしに置いた、このベンチの上だったりする。
「アケルー」
 ……そして、これも。
 予想外と言えば、予想外だった。
 膝の上の雑誌に落としていた目を、ちらりと自分の右足の、甲にむけた。
「アケルー」
 みゃあ、と。
 寒がって、ぬくもりを求めて鳴く、猫のように。
 その足の甲の上に、ことんと頭をのっけたザツが。また、呼んできた。
 ……なんか。
 ミルクティー色な毛玉が、にじにじ寄ってきたなァ、と思ってたら……。
「…………」
 半眼でザツを見おろしたまま。
 かすかに、ため息をついた。
 ザツは、そんなこっちにはおかまいなしで。
 ほんとに喉元をぐにぐにと揉まれている子猫のように、嬉しげに目を閉じて、靴下を履いていない足の甲に、耳をすりつけてきている。
 少々うろたえている内心、そのままに。視線が宙を彷徨ってしまう。
 ……もちろん、別に、イヤなわけではないのだが。
 嬉しい、のだが。
 なんというか、ぶっちぎりで置いていかれそうな……ふりきっていかれそうな。
 そういう、不安まじりの、呆れがある。
 さすが、あらゆる倫理観が、欠如……。
 というより、許容できる最大値が、地の果てほどにまでもデカすぎるよーなヤツ、だけのことはある。
 ……おんなじ一月前、処女なくした女だって、こんな風にさそってきたりしねェよな。
『あれ、なんか最近、わりとキライじゃないかも。むしろ、けっこうスキかも』と気がつくと、現金にさっさと考えを切り替えて、こうしてあからさまにゴロゴロ甘え、セックスタイムを匂わせてくるようになる……人格に。
 かるく遠い目になってしまう。
 ……好都合だと、おもいっきり思っているし。
 これ幸いとホイホイ、毎回誘いにのってる現状なのだが……。
 しかし、意を決して。
「ていっ」と、つま先をふり上げ、ザツの頭をはずした。
「うぉ……ッ」
 ザツはよろめいて、頭を床に、トスン、と落っことしてしまう。
 ……首がぐきっと、ヤな音を立てたような気がする。
「〜っ」
 しばし、その首に右手をやって、静止していたザツは。
 やがて上半身を起こし。
 正座が崩れた、ヨヨヨとか言いそうな、しなを作った姿勢に、わざわざなった。
 そして、見返り美人状態で、つれない態度を咎める『酷い……』と恨みがましい、砂色の瞳で見られるが。
 ……確かに酷いとは思うが。
 ついこの間まで、人が実直な態度でお願いしてんのに、おずおずとながら、『まだどーせおれ、使えないし……』と、年上の友達からもらったというソープ、性感、デリヘル、などなどの各種優待券を、財布からビラビラ取り出されたりしていた心のキズが真新しい限り、この複雑な気分のやりどころとして、たまにはこんな態度も許されるんではないかと思うのだ。
 そこそこナイーブなんだぞ。
「なー。なー。アケルー」
 なんとなく『ちっと引いてますよ』ということを訴えたかったので、少し、じらす。
 あからさまなそっぽを向いて。
 タイミングをはかったりなんか、する。
 …………それがいけなかった。
「ね、おにいちゃんっ」
 ブッ! と吹いたはずみで、雑誌がズザザーっと、ジーンズの膝から勢いよくすべり落ちていった。
 あまりに激しく全身のバランスが瓦解したので、ダイブするように前につんのめる。
 あやうく額を床に強打するところだった。
「……っ!」
 アブねぇー!
 ……つか、二重の意味でアブねぇ。
 一気に血脈ケージが、レッドゾーンにまで追いこまれて、その意味でも『危機』だし。
 おまけに、この一言に、こんだけ興奮するっつーのは……。
 おれって趣味、そういうのだったのか?
 うわ、
「アブねぇ……」
 呆然と、前方を見たままつぶやく。
 いや、たいしたことじゃねぇんだけどよ……。
 未知の自分を見たぜ。
 そうこうしてるうちに、ザツがまわりこみ、ん? と言いながら、視界に入りこんでくる。
「うわ、顔、赤ッ!」
 口をまぁるく開いて。
 短く、叫ぶ。
 そして、
「うわあ、『兄貴ィ』でそんだけキちゃったのっ?」
 を皮切りに、
「ヘンタイ? ねぇ、ヘンタイ?」
 と、左手首を掴んできて。
 エンドレスでがくがくと揺さぶってきながら、ニギヤカに詰問してくる。
 ……だから知るか! 初めてこっちだって知ってんだよ!
 言いたい放題に弄くってくれている、ザツの腕を、手加減なしの力でひっつかんだ。
 飛空させるように引き寄せ。
 鼻の頭がぶつからんばかりの目先に、テントをつきつけた。
 これはおまえが悪い。だから責任をとれ、という意志をこめて。
「ひぁ、ひぁ、ひゃあ〜」
 ザツは目をみはって、奇声をあげる。ビビっている。
 でも目をそらすでも、目をおおうでもない。
 好奇心たっぷりにキラついた瞳で、しっかりとジーンズを見つめてくる。
 ……学生時代の、便所で大きさを確認しあった。
 うわ汚ねぇそらすなよバカ、とはしゃいだ。
 オスのでかさではりあう、罪のない対抗意識や、あこがれ。
 その瞳に浮かんでるのは、ああいう感じ。
 少し年上の相手の、自分を大きく引き離す『性の象徴』への視線に、粒子のような敬意がちりばめられている。
 の、わりに、さっぱりと敗北感がただよってないのは、性格か?
 ……しっかしこういうとこ、普段からそうだけど、絶対に女相手じゃねーんだよな……と。
 思わず、ぼりぼりと、後ろ首のあたりの自分の短髪を、かきあげた。
 いや、そうじゃなくて、だからこれからコレで犯すっつってんだけど、と、律儀に警告してやりたくなるような。
 背徳感が、微塵もないまなざしだ。
 流れる空気が、思いっきり、男どーしなまま、って言うか。
 やることは女相手とそう変わらないのに、こっちが驚くくらい、コイツは男なまんまで直面してくる。
 ……そんな、いつもながらのループな疑問に陥りながら。
 まだザツの腕を掴んだまんまの右手ではなく、左手一本で。
 窮屈を訴える膨張したモンを、ジーッとファスナーを開け、パンツと下着から、ごさごそと出した。
「うわ、グロ、ってか、デカッ!」
 大の字に広げた両腕を、ばたばたさせながら。
 まだまだ、ザツが騒いでいる。
「いまさらだろ……。もー何回もヤったってのに」
 言いながらも、左の掌をのばした。
 ザツの耳元の髪を。くりかえし、撫でつけはじめる。
 ほんの少し曲げられている自分の指は、ほっといても、緩慢に動きつづける。
 神様にあやつり糸でもつけられてるみたいに。特に動かそうという意識はないのに。
 優しく、とぎれることなく。
 それは、なんだか見た目にも、めちゃくちゃ甘く。
 ……我ながら、この完璧恋人ムードなしぐさはどうするよ、とあきれかえるほどだった。
 しかし、ザツはそんなこっちの、しみじみとした『ああ、惚れてしまった……』感慨には、気づくことなく。
 ぱくぱくと口を動かし、あいも変わらず、思ったまんまのことを言う。
「いや、こんな明るいトコでさらしものになってるとこ、初めてだし」
 ……さらしもの、だと?
 この自慢のイチモツに、なんつーことを言ってくれる……。と、眉間に皺を寄せて、むくれていると。
「あ、ごめん、一発目はヌかして?」
 テメ、さっきまででろでろに甘えてきてたのは、嘘か、という冷静さで。
 膝立ちのまま、シャッキリ背筋を伸ばし、ザツいわく『さらし者』に、両手をかけてきた。
 こっちはつっこむ気マンマンではあったのだが、あっというまの体勢逆転で。
 一気にこの弾丸の、始末の方法が変わってしまう。
 なんというか……。
 わずかにでも『ふにゃけた』状態じゃないと、最初の関門の痛みがひどすぎるらしく。
 口からフルコース入るのが、ザツの常套要求だった。
 ……しかし、そんな手順や好みを、教えこんでしまった自分って。
 いや、お互いさぐりあって、学びあっていったんだが。
 やっぱり年上で、もしかしたら多分違うけど、兄貴なわけで。
 こんがらがった状況。
 さすがに、何に対してかは漠然としてるが、罪悪感っぽいものが零ではない。
 なのに『同性間のセックス』で最初に、ザツと、教師と教え子の関係になった、最初の相手だという……満足感と自負が。
 禁忌感より、格段に強くて。
 ……重症、だ、と思う。
 細っこいキツネ色の毛を揺らして、ごそごそ、しゃぶりやすいように体勢を整えていたザツが。
 まず、親指と人差し指のあいまの、広い、指の股で。こすり上げてきた。
 既に粘液でぬめった、抵抗のない摩擦が。
 ご機嫌うかがいのような刺激を、送ってくる。
 数度、その動作をザツはくりかえす。
 くびれを締めるような、押し上げるような、つつくような。
 粘着な体液の感触とあいまって、いやんなるほどセクシャルではある……けど。
 あまりに微弱な、チリつき。
「……っ」
 もどかしさに、腰を貧乏ゆすりしたくなるむず痒さが、迫りくるように最高潮になる。
 それを嗅ぎ当てたかのように。
 ススス、と怪しげに、茶髪が近寄ってきた。
 直後、柔らかな口腔に。
 直角に、ずぼりと、犯される。
 ……ああ。
 腰を突き出し。
 ベンチをがたがた、揺さぶってしまう。
 火が燃えている場所に、獣が取り憑く。
 ……と、腹筋が割れた腹を、はっし、と、広げた右の手のひらで、押さえられた。
『やりにくいから勝手に跳ねんじゃねぇよ』という、主導欲のようなものが。その反射に垣間見えて。
 ますます『女の子』とヤッてんじゃねぇんだな、と、興奮、してしまう。
 実際には見えないのに、粘膜の肉紅色が、眼にせまってくるようだ。
 ますますふくらまそうとするように、みっちりと包まれて。
 吸い上げるように、蠕動する全体。
 うねり、蝕される。
「……ッ、……っ、ン……」
 やがて、頭をふりたてはじめる。下品なほど。
 決して広くない口を、それこそフルに使って。
 苦しいだろうに、積極性しか、そこには見いだせない。
 喉の奥の、筒状になりはじめる部分が。こつりこつりとこづくように、特に張った部分を奉仕してくる。
 陶器のような歯を通過するとき、皮が搾られるようになり、また逆行する時に柔らかくこそげられるようになる。
 底なし沼のような潤んだ天国に、翻弄される。
 ぐぶじゅる。
 唾液と、自分の先走りが混合された液が。たれて、ザツの手元を濡らす音。演奏のように響きわたる。
 目を、固くかたく、閉じた。
 ……うわ、もう、たまんねぇー。
 ほとんど苦しい。
 ダンベルをどかどかどかと、拷問で腹の上に詰まれているようだ。
 それと同量に、うずを巻く快感が、秒ごとに倍率になっていく。
「……ッ!」
 ぐしゃあ、と藁色の毛を、手の中に握りつぶした。
 断続的に、無数の白い火花が、ばちばちと爆ぜ続ける。
 ――男でよかったァ、としか言いようがないような。
 完璧なる排出の、開放感。
 ……んぐぅ、と、最後にザツの喉が鳴る。
「――吐き、出しゃ、いいのに……」
 ちょっとだけ汗ばんだ、ザツの髪を。
 初チャレンジの芸ができた、犬を誉めるように。撫でだしながら、そう言った。
 こういうとこ、親切……。
 親切は違うか、妙に尽くすというか、気づかうタイプだ、ザツは、妙に。ちっと、過剰なほどに。
 うつむいたまま、口元を、右の手のひらで覆っていたザツは。
 そのまま、その手のひらで、横なぐりに唇をぬぐって。
 えふえふ、と咳きこんでから。やっと顔を上げる。
「……いや、ちょっと哀しいでしょ、ソレ」
 ぺろん、と、手のひらにくっついた吐精を舐めたあげく、
「そりゃ〜、いちごミルクあめの味と、ニオイとかになってくれれば、ありがたいんだけども」
 と、ゲロ甘党な事をのたまいながら。
 親指にもついていたそれを、紅い舌になすりつけるようにした。
 ……目前でやられると、視覚からクる……。
「んじゃ、感謝てか、ご褒美に」
 膝で、ベンチに上ってきながら。
 そう言いつつ、ザツは、んんしょ、と、腕を交差させた。
 わずかにピンクがかった白の、地味な色のかぶりパーカーの裾に、両手をかける。
 ……脱ぎ捨てると、惜しげもなく現れる。うっすらと、柔軟な筋肉がついた、痩身。
 にま、と、至近距離に近づいてきた、ザツの瞳が、妖しくゆがむ。
「気持ちよくしてくれれば」
 パーカーを脱いだせいで、前髪が、かなり後ろへ流れている。
 だからよりよく見える、よりあどけなく見える。
 小づくりで、暗さのない顔立ち。
 ザツの両腕が、くるりと輪になって。えいっと、首にまとわりついてきた。

 手早く、薄手の灰色スウェットだけ、脱ぎ捨てて。
 もつれるように床に転がって、臨む。
 ……もっとも、準備をほどこして。つっこんでから、最初の方は。
「イ、イタ、……っ」
 しょっちゅう髪をふりみだし、汗のにじんだ全身の肌から、熱気を発散させつつも、ザツは、
「痛い……っ」
 あたりのことしか言わない。
 正直、腹が立つというより、悲しくなってくる。
「……おま、演、ギ、でもよ……」
 せっせと緩急をつけて、律動の具合をさぐることに集中しながら、もごもごとザツの肩口にすりつけていた。硬い髪質の、ツンツン長めのいがぐり頭。
 それを、持ち上げて。
「も、ちっと、イイ、とか……」
 似合わないとわかってはいるが、拗ねた表情をいっぱいに浮かべてしまいながら、ザツの顔をのぞきこむと、
「だ、……て……っ」
 超イテーんだもん、と。
 なまめかしく艶めいた瞳で。
 それでもほぼ、いつもどおりの口調で、返してくる。
「……っ、に……っ」
 だけど、息を、何度も何度も呑みながら。
「のうち、ヨガっ、から……っ」
 と言う、ザツの唇は。いろどる唾液で、フルーツゼリーのように、ちゅるちゅるに水っぽくて。
 口づけて。
 深くは差し入れず、いたわるように、泳ぎあうだけに舌を使いながら。
 なんとか痛みの奥にひそむ、奥深いところをコンコンと擦られ発生する快感を、探りあてようとしているザツを……、待つ。
 しばらくのちに、琴のような、弦楽器じみた声を、ザツが鳴らし始める。
「お……。ヨく、なって、きたか?」
 毛束ができるほど、汗でまとまってきたカリン色の髪先を、はじきながらの。
 オヤジ入った、こっちの問いかけにも。
 うん、うん、と、目尻に涙をためながら、必死にうなずくだけで。
 あとはまた、あふ、あふ、あふぅん……と。
 目を閉じて、聞いてるこっちがよっぽどとろけて、やらしい気分が最高潮になるような、鼻声をとおらせる。
 ……ザツは素直だ。
 というか、色々あけすけだ。声の出し方にも、それがあらわれている。
 ……色気ってのは、なかみとは関係ないのかね。
 真っ最中につい、そう首をひねってしまう。
 それほど。
 容赦なしの快晴な日の光のなか、苦悶をにじませて。
 ころがすように息を吐き。
 せりあがってくる快感に、抑えた悲鳴をあげて。
 翼をむしられてる只中の天使みたいに、いたいけに震えてるコイツは……。
 色気たっぷりで、普段とは別モノだ。
 別に外見のパーツは、どっこも変わってるわけじゃないのだが。
 いっそお見事な変貌ぶりに、感服しながら。
 スレンダーなカーブを描く腰を、素肌を愉しみながら、デカい右手でもってなぞり上げる。
 と、二人分の体重を受けとめている、ザツの腰骨が。
 フローリングの床にぶつかり、ゴツゴツと鳴った。
 ……なんか、そそられる物音だった。蹂躙してる気分に浸れる、と言うか。
 そんな自己分析のよゆうもなく。
 半瞬後には、ついついガスガスと、ザツの内部を抉ってしまっていた。
「ウ……、グッ……!」
 さすがに、苛まれている悲鳴を、ザツが洩らす。
 慌てて、まだ腰に這わせていた手を、ザツ自身の方へ移動させた。
 こっちの腹にぶつかり、塗り広げられていた、ザツのジュースのせいで。いくらかぬめった液をまとっているそれを、手にする。
 ……初回から、握ることも、舐めまわすことも、さして抵抗がなかった。まだ年季が足りてない上に、血筋のせいでピンクい、ザツのもの。
 最近では特に、とまどいがなくなっていた。
 というより、好んでイジってしまう。
 腹に当たってくるピンピンしたそれは、『感じてる』と、公明正大に叫んでくれている、ようで。
 そんなバロメーターもどきなもんは……。
 直球でホモ、な感情なのかもしれないが、どうしても愛しいもんだった。
 そして、そーなると。
 頂の上にピンと立った乳首と、同じようなもんで。
 手をかけて開発してやるべき場所、の一つでしかない。
 指先でやわやわ、と、袋の方を微妙に持ち上げるように刺激しながら。
 手首に近い部分で、摩擦してみる。
「……は、…………ァ」
 そうしながら、床に突いている左腕を、よりつっぱり、上半身をもっと地面から離して。ちょっとエビぞり状態になり。
 痛みが先だたないように、丁寧な腰づかいで、焼けた肉壁を。
 怒張で、裂き分けていく。
「ン、ンク……!」
 みっちり、と自身の重量を埋めこんで。
 じわじわ、ダンサーのように、尻を微妙に左右に振りながら、慎重に抜いていく。
「ふわ、あ……」
 置き去りにされる子どもと同等の。
 もどかしいのと、怖がるのとの中間点のようなカオで、ザツがおののいている。
 床に、両手を突き直した。
 角度は同じまま、ピッチを速めていく。
「……ァッ!……ンン!」
 ザツの声の振動に。いちいちふりまわされる、入れ替わる。
 救い上げているような、貶めているような錯覚。
「……ヒ、……ァ!」
 たちこめる、上昇の匂い。
 共に駆けあがっていく手ごたえ。
「……ァ、あけ……ッぇ!」
 方向感覚もなく煽られ、濁流されていく。破片のようなイメージが、脳内を満たす。
「イァ……っ!」
 腹の上で。ザツの、腫れたさやが。はじけた。
 ……つられて、ザツの体内が、変動する。
 ピッチリとラッピングしてきていた、せまくて、せまい秘部が。
 奥の方だけ、じゅんっ、と、灯るように急変する。
 海綿のように、かなり柔らかく、しずみこんだ。
「……く、ぅ」
 ……惹きこまれるように、射精していた。
 ――自らの絶頂後すら、まだ極めていなかったザツが。
 うぁ、うぁぁん、と、子犬のような鳴き声を上げて。
 躯の下。
 波打つように全身で、ぐねった。

 ザツの体脇の床に、両肘をついて、低い姿勢で。
 はぁ、はぁ、と息を整えていると。
 こっちの数倍は、ぐったりしているザツが、
「二段ジャンプ……」
 ……また、なんか、いかがわしいコトを言われたような気がする。
 ザツのつぶやきに、ふぃ、と、頭を上げ。
 その顔を見上げると。
 ぱち、と、目が合った。
「……あ」
 が、次の瞬間。
 ザツの薄茶の黒目は、くるりと、眉毛の方向へ向かっていった。
 ……そのままザツは、右腕を持ち上げ。
 両目をふさぐように掌を当て、うぅ、と呻く。
 どうやら目を回しているらしい。
「…………」
 不穏に手を蠢かす。
 だらしなく力を失ったザツ自身を、右手のなかに納める。
「ひぇっ……」
 みひらかれた、ザツの瞳。
 その中、昼の陽光にきらめく、金の色素が綺麗で。
 ……無警戒なその反応に、満足して。
 首元に顔を埋め、ザツの左耳を、まるごと食べてしまう。
「ふぁ、や」
 おそらく「やだ……」と言いながら、胸につっぱられてくる両手。
 今度はその両手を、右手でおおい返して、握った。
 ギッとやりたそうに、指先が急カーブを描いているのに、爪を立てる余力もなく、震えているのがいとおしい。
「休、憩、はさ」
 もぐもぐと、薄いモチのようなザツの耳を、甘噛みしまくっていると。
 かき消えそうな声で、ザツが言ってくる。が。
 ……んなもんナシだナシ。ごんごんと腰を進め、行動でいなす。
「うぁ、硬」
 喉ぶえをのけぞらし、歯をくいしばって。
 ザツが、憎々しげにうめく。
 またザツの骨盤と床がこすれ合い、ゴリリと音を立てた。
 ……カタイ?
 床か?……それとも、体の中か?
 しかし、こういう場合のみ、聞く耳は持たない。
 リベンジの機会なんて、そうはないのだ。
 そうそう、言いなりになんでも差し出すだけ、なわけじゃねぇぞ?
「うん、がんばれ……」
 せっせと分身を、温和めにながら、暴れさせだして。
 ザツの内部に、何かを探しはじめながら。
 テキトーに、励ましをかけた。

 ◆

 起きぬけながら、食欲によってか、ぱっきりと覚醒しきっているザツの顔を、朝日が照らしている。
 そんなザツの目線は、八十五%くらいの勢いで、テレビに釘付けに向かっている。
 ……と言っても、興味シンシン、とか、楽しげ、というわけではなく。
 そこに含まれる色合いは、どちらかといえば、冷めていて。
 いまいましげ、だ。
 残り十五%くらいで補足しているらしい、食卓の上、ザツの左手が。今度はごはん茶碗をつかんで。
 まっ白な日本米を、ひとつまみした箸先を、口元に運びながら。
 ザツが、口を、開く。
「あ〜もう、総理大臣の汚職か、天皇一家の跡継ぎ争いでも起きねーかなぁー」
 ……言ってることがいちいちアレだが、気持ちはわかる。
 朝一にテレビをつけて、画面の右下、ワイドショーのただいまの見出し、を確認して。
 おい今日も絶賛放映中かよ! と思うのがこれだけ続いたら、なんでもいいから起こってくれ大事件、くらいは言ってしまうだろう。
 ――それにしても本当に。
 連日、朝のかなりの時間、これ一色のようだ。
 アイツの、周辺の人の声。最近していた芸能活動。今までのアーティストとしての歴史。事務所のコメント。ファンの声。コメンテーターのあーでもないこーでもない論議……。
 骨までしゃぶりつくそうというように、堂々めぐりのワンパターンに陥ってきても、しぶとく繰り返している。
 ……ザツの言うとおり、ここのところ、他にニュースがない。
 そんな中で、ちょうどおいしい餌食なのだろう。
 いくら『大物芸能人』の大麻スキャンダルでも、異常なほど報道されている。
 ……しっかし、『ショックもさめやらぬ』ってまた、アナウンサーのおおげさな事。
 ゴトン、ごと、カチャ、もしゃ、と。食卓の音が満ちみちている朝。
 実はぜんぜん他人事じゃない喧騒から、切り離された世界で。
 二人して、へーぜんと咀嚼を続行しながら、
「――クスリやってないように見えてたか?」
「んんにゃ別に」
 ぽつんと言い出してみたセリフに。
 口に飯をつめこんだままのザツが、フットワーク軽い言いまわしで、応える。
 ……だいたい、これだけ隠し子がゴロゴロいる男なのだ。
 おれだって『兄弟姉妹?』の数、たぶん全部把握してるわけじゃないというのに、知ってるだけでも五人ほどはいる。
 そういう部分からも、実は『シャレで済まない素行』の悪さが、うかがえるわけで……。
 クスリやってたからって、そんなに驚くべきではない本当は……ってかあんたらダマされてたんだよ、しかも今もまだ隠されてるよ、ダマされてる部分残ってるよ? と思うわけだ。
 ガラスコップに入った牛乳を、こくこくと飲み干してから、
「朝メシ終わったら、電話してみるわ」
 と、ザツが言い出した。
「……あ、もう出てんの?」
 一拍後、『父親に』なのだと。
 主語にあたりがついてから、尋ねると、
「もちろん」
 と、ザツは答えて。
「地獄は知らねェけど、警察の沙汰は金次第よ」
 と、ボイルしてトマトケチャップをかけたウィンナーに、箸をつきたてながら、アッケラカンとのたまう。
 ……保釈金のパワーはわかりやすいらしい。
 世間はきたねぇ……。
 けど、こわい事なんてこの世に何もない、というような。
 そこそこロッカーな、唯我独尊キャラで売ってるのに……。
 やっぱり、フツーに、留置所の中はイヤだったらしい。
 情けねぇ。
 いや、父親かもということをさし引いても。
 しばらく世俗から離れて、塀のなかで修行するくらいの、根性見せりゃいいのに。
 だいたい、種から煩悩から、落としすぎだあのオッサンは。
 ――そこまで思ったところで、ふいに。
 他の所に思い当たってしまった。
 出てきてるって、知ってるってことは。
「やっぱ、けっこう連絡取ってるんだな……」
 半ば以下しか、本気ではないが。
 ジトリと、裏切り者を見るよーな剣呑な眼を、ザツに送ってやると、
「いや、マスコミ動向の情報も、もらわなきゃいけないし〜?」
 入り口である桃色唇に、二本とも箸をつっこんだまま。ザツがつけ加える。
 ……それでもなお、『キミと、嫌っているあのオヤジが仲良しなのは、気に食わないですよ』というまなざしを注いでいると。
「まー、捨てられたってトコ切って置いとけば、けっこ素敵中年だし」
 ごまかしっぽく、ザツは言葉を継いだ。
 ……そこは置いておけないぞ、おれは。
 じっとり陰湿な目のまま考えていると。
 ザツがさっと、箸をはさんだままの右手を、後頭部にやって、
「ちょびっとパパラブっ子?」
 てれてれ、というように。
 エヘヘ、とはにかみきって、笑んだ。
 ……うわ、やめてくれ、と思う。
 反射的に腰が引けた。
 拍子に、ざぶとんにしてるクッションがズレて、体がかしいだ。
 ……シャレでやってんであろうことはうかがい知れるんだが、似合ってて、衝撃が冗談では受けとめきれないのだ。身体のカンケー、を持った後も。
 危ないからそういう態度ひかえろ、と、たのむから誰か注意してやってほしい。
 自分がやれば、あばただ、えくぼだ、と、からかわれそうで……できないので。

 ザツに遅れること一、二分。朝メシが済んだ。
 とっとと食器をかたづけるか、と立ち上がる。
 すると。
 既に自らの携帯を手にしたザツが、……わざとか、こっちを見ないまま。
 するりと言った。
「ちょこっと出てみる?」
「いや、死んでも」
 間髪をいれず答えつつ。
 中腰体勢で集めた、汚れた食器を両手に、ダイニングへ背を向ける。
 えと、死んでも、まで言わなくても……。という、ぽそぽそしたザツの声が、追いかけてきた。
 頻度としては、食事作りも皿洗いも、ザツがやることが多いのだが。
 ダイニングに戻りづらい気持ちも手伝って、シンクの前、軽く紺色のスウェットの袖をまくった。
 大ぶりなスポンジに洗剤をつけ、景気よく泡立て、がちゃがちゃと食器をかたす、その背後で。
 ザツがジョグで、父親の番号を呼び出している、ピッ、ピ、という、電子音。かすかに耳に届く。
「……そ、だ〜」
 やがて、会話のはしが聞こえてくるようになる。
 ますます、派手に両手を動かした。
 シンクの中が泡風呂もどきに、白いぷわぷわな世界になっていく。
 ……もう汚れている食器はない。
 水道をじゃわ〜とひねる。みるみる消えていく白。
 手を動かせば、ますます消滅が加速する。
「わか……」
 ……まだ、ダイニングからは、切れ切れに会話が聞こえてくる。
 が、食器は洗い終わってしまった。
 気にするのはバカらしいので、腕の水気をタオルでぬぐい。
 スウェットの袖をもどしながら、しかたなく、ダイニングに歩み寄った。
「うん、じゃあそうする〜」
 ……まだ通話中のザツの、背中が見える。
 携帯に耳を寄せているせいか、もこもこしたクマ色のパーカーの背中が、いつもよりもう少し、猫背だ。
「……はい、……はい、……は〜い」
 さかんなザツの返答のあとに、ピッ! という音がかぶさる。
 ……ちょうど、会話が終了したらしい。
 が、その背中が。
 数十秒経っても、微動だに、しない。
「…………」
 落ちこんでんのかな〜。と、あたりをつけながら。
 その背を見つつ、壁に、もたれかかった。
 マスコミがまだ落ち着いてない、ということでも、確定したんだろうか。
 テレビのありさまを見れば、一目瞭然なことではあるが、それでも『まだ学校に行けない』『元の生活に戻れない』とか、はっきりすると、ダメージがあったのかもしれない。
 ……それとも、だ。
 まさか、父親が心配なんだろうか。もしかすると。
 いくら激しめだからって、マスコミの取材攻勢にどーにかなるようなオッサンではないと思うのだが……。そりゃよくは知らないんだが……。隠し子の数からも度胸はうかがえるし。
 アホみたいに、ただザツを見つめて、そんなことを考えていると。
 ある瞬間、ザツがぱぁっと、こっちをふりかえった。
 ……あったのは、満面の笑み。
「ツタヤへ、行こう!」
 ……話題の新作ゲームが、発売日なのだそうな。

 ◆

 おれは何をやっているんだろう……。
 コントローラーを両手におさめたまま、自問自答モードに入ってしまう。
 ……コントローラーも、のせているだけで、にぎりしめられない。その気力も失せてきた。
 画面からは、たつたつ、たららんッ、という感じの、軽快でエンドレスなゲーム音楽。
 歩きだせば即、一秒後に、敵とコンタクトするかもしれないというのに、のんきでご機嫌な曲だ。
「…………」
 惰性で。あぐらをかいた脚の先、炭酸もぬけきったぬるいビール、に手をのばし、口腔をしめらす。
 もうすぐで徹夜になる目が、……さほど眠くはないんだが、主に中断ナシでプレイしてる疲れのせいで、しぱしぱする。
 夜明け前、四時をわずかにまわったところ。
 暗闇の室内に、テレビ画面の光源だけが、退廃的に広がっている。
 のどかな、地平線の見える、そよそよと草揺れる平原。もちろんバーチャル。
 ……状況は切迫している。
 現在のレベルでは極悪としか言いようのない、魔法少女のようなモンスターがちょくちょく出てきては、新体操のリボンで〜す、といわんばかりの光の帯で、ブシュッブブシュっと切り刻んでくれるもんだから。
 高い回復薬はあと一つ、中くらいの回復薬が三、安い回復薬だってあと十。
 おまけに現在のHPも、パーティの全員、だいたい四分の一をわずかに下回り、くらいで。
 女神像にぺたっとさわって、ぺかーっと光ってもらった方がいいのはわかりきっているが、そこに戻るまでに確実に回復薬は切れる。
 しかもその、回復女神像をこのへんでは見てないという事実は、像まわりでぐるぐるしてレベル上げ……という、地道な策も無理だという結論を導き出す。
 そうして回復女神はセーブポイントもかねているから……このまま次の町まで着けずに力尽きれば、ここ数時間の努力は、羽を生やし、鮮やかに天国に召されることになってしまう。
 もう泣きたい。
 そもそも、ゲームなんて、RPGなんて、やる気なんかこれっぽっちもなかったのだ。
 誰が欲しがって、誰が買わせて、誰がプレイするはずだったんだ。
 視線を、ワキに落とす。
 隣でくーすか、円柱形の黄色ミニクッションに抱きついて寝てるザツは、責める視線などものともせず、幼い寝顔で爆睡中だ。
 無理もないと言えば、無理はない。実に三十八時間ぶりの、上まぶたと下まぶたのランデブー。
 ……だが、無理もないからって、スカイブルータオルケットまでかけてやって。
 たのまれたからって、こやって目こすりつつ、ピコピコレベル上げしてやってるおれは、我ながらなんなんだろうな……。
「…………」
 遠い目になってしまいながら、缶ビールの横の、白い小箱に手を伸ばし、底をトンと叩く。
 一本くわえて。
 小箱のさらに横の百円ライターで、火をつける。
 ……ふぃ〜、と。
 眠気ざましもかねて、久しぶりに肺に入れるヤニ。
 これまたザツにねだられて、おとといコンビニで仕入れたショートホープ。
 ……の、フィルターを、がじがじ、と苦く噛む。
 おととい、ザツにねだられて買ってしまったものは、だいたいあと二つ。
 本命の、今やってる『話題の新作ゲーム』ソフト。
 ……加えて、なんとゲーム機本体。
 これは甘やかしすぎって言うんじゃないのか? とは思いつつ、ゲーム機は家にあるから……できないじゃん? と、うつむいて、なんとなくしおらしい声音で言われれば。『だから買って』の一言さえ待たずに、自然にカゴに入れてしまっていた。
 首を折って、ガシガシ、と、右耳の後ろあたりをひっかく。ちょっと肩がこってるような気すらする。
 ……で、その購入した物たちを生かして、ここ二日弱、不眠不休でやっていたのだ、ザツは。
 それがゆうべ突然、こっちがタジタジしてしまうくらいの潤んだ瞳で、
「アケル、お願い」
 と、キューティに切り出してきたもんだから。
 とろりと溶けた樹液色の瞳の、あまりのラブリーさに、なんだなんだなんだっ? と恐慌に陥ってたらば……。
「ちょびっと寝たいから、レベル上げしといて?」
 と、きたものだ。
 しかもなんだ、目に涙がみちていたのは、眠かったからか。
 ……思い返せば毛細血管、充血してやがったな。
 ちら、と、再び、隣に視線を落とす。
 ねぐせでウェーブがついた、鳶色の髪。光を波うたせて、キラキラしている。
 ……この世の幸福、すべてを一身に集めているかのような……。
 赤ん坊がミルクを飲み終え、おむつも替えてもらい、父親に高い高いまでしてもらって、さらに母親に子守唄を歌ってもらいつつ眠りについて。
 天井からぶらさがる回転おもちゃの下で、ベビーベッドに収まってすやすやしているような……。
 至福、とタイトルをつけたくなるよな。
 絵画のように、芸術的な寝顔だ。
 ――だが真実は、家庭の事情を逆手にとって、全力で遊び、睡眠時間もけずってみて。
 しかし眠り断ちが四十時間近くなり、今度は第一次欲求が恋しくなっただけの、バカー! な若者にすぎない。
「…………」
 すぎないんだが。
 いまだに明るいミュージックをたれ流し続けるテレビに、向き直る。そりゃもう、まっすぐに。ヤケクソに。
 ……けど、そんなんわかっててもカワイイんだよ畜生、すげぇ、ほっぺたプニプニとか、いたずらとかしてぇ。
 心の中で吠えまくりながら。カミカミカミ、と、食う勢いで、タバコを噛みまくる。
 目が、目やにでカピカピする。眠いし情けないしで、なんか笑い混じりにでも、ホントに数滴、泣きそうだ。
 ……コントローラーをにぎり直し、意を決して。
 緑の草原、操っている主人公を、敢行させ始めた。

 ザツがゲームにとりかかって、三日目の晩。
 風呂上がり。下着と、ホワイトに近いグレーのスウェットのパンツだけ履き、バスタオルを首にひっかけた姿でダイニングへ出ると。
「ぁ〜っ!」
 ……と、悶絶の声をあげ、ごろごろごろごろ、テレビの前。
 永久を感じさせる反復運動で、転がりまくっているザツがいた。
 うう、オノレぇ、とかの呪詛も聞こえてくる。
「……なに?」
 ひとり言に近いトーンで、そう呟くと、
「だって、仲間っつっても会ったばっかじゃんかぁ、なのに、ヒロインの女が、『うん、私らしくないもんね? そんな私ッ、きらいだよね?』とか納豆みたいに言いやがんだもん、つまんねぇ、ダレた」
 思いっきりふてくされた、両の目頭のあたりに皺がよりまくった表情で、ザツが一息に言う。
 そのズバズバした物言いに。
 ……レベル上げしたおれの立場はなんだったんだ……。
 とも、ちらと思ったが。
 さすがに、五十時間熱中していたザツの方が、哀しみはでかい、のだろう。
 まだまだ竜巻のごとく地をのたうちまわりながら、今にもしくしく泣き出しそうな顔をしている。
 床の上にある、開封されたままのゲームのパッケージが。ザツの身体にぶちあたってこられるたび、中身のマニュアルとかを少しずつ吐き出していくのが……なんともプチシュールだ。
「ふ〜ん……」
 バスタオルのはじを右掌に取り上げ、頭をガシガシとぬぐう。
 そうやって髪をふきながら、キッチンに歩いていった。
 冷蔵庫に向かってかがみながら、右手を伸ばす。バスタオルのはじが、裸の鎖骨の上、ばさり、と落ちてくる。
 開いた冷蔵庫に頭をつっこんで、ごとごと、とあさっていると。ダイニングから聞きつけたらしいザツが、
「ビール、おれにも〜ッ!」
 ヒロインへの不満や怒りを一時的に放りだしたような、ちと、はずんでいる声で、ねだってくる。
「どれ?」
『ごはんですよ』や、キムチの瓶を、押しのけながら尋ねた。
「海藻エキス〜!」
 ……かいそう……。ああ、アレね。
 左手ではまだ自分のぶんを探しながら、手前にあった糖質オフな青いラベルを、手にとる。
 数秒後、自分の『一番搾り』も発見して、左手におさめ、ドアをバタンと閉める。
 踵を返して、ダイニングへと戻りつつ。右手でささげ持った、ザツのブルーラベルのプルに、右人差し指をかけて、プシッと開栓した。
「ん」
 プルトップが垂直に立ったままのその状態で、受け取れというメッセージをこめて。相手に向け、ゆらゆら、と缶の下方を振る。
「お〜」
 ……ビールを受け取りながらの、歓声のような、ザツの応答に。
 んぁ? と思って。
 自分のぶんの缶ビールを、普通に左手で支え、右手の指でひっかけて開けながら。問いかけを含め、相手に向かって、片眼を細めた。
 と、受け取ったビールを、ロクロの上で回るねんどのように、くるくると三百六十度まわしながら。しげしげと見ているザツが、言った。
「さっすが、手ェもでかいもんな〜。おれまだできないんだよな、この、片手でかぶせ持って、その片手の指使ってプルもあけちゃうの」
 ……それは、一生できないかもしれないぞ。
 十五歳の頃の、自分のサイズと、ザツの現在を比較して。心のなかで呟く。
 まぁ、ザツはまだ、バリバリ成長期だから、わからないが。
 ザツは缶を、ごく、ごく、ごく……。と、息が心配になるほどに長々とあおり、
「……っんはぁ〜、美味い!」
 将来、芸能人になったなら、ビールのCMができるんじゃないだろうか……。
 と思うほど、飲酒欲求を触発する笑顔を、花咲かせる。
 ザツの喜怒哀楽は激しいが、喜びの表現は、特に突出だ。
 このぶんだと、さっきの『ヒロインの女に幻滅でクリア危機騒動』も、今だけは忘れているらしい。
「…………」
 そう、コレに感化されて。
 最近では、だいぶまともに、露出していったような気がする。
 感情や、五感。
 同居が始まって、約一箇月。
 ――そんな期間も、そろそろ、限界がきそうな予感がする。
 重苦しく、そう考えながら。
 ……ザツの前にしゃがみこんだ。
 手をのばして。
 ザツのあごに、指をかける。
「――? アケル?」
 そのまま、キスするでもなく、ゆっくり、あごを擦っていると。
 セックスの導入でもないのに、ザツにふれるのは……。
 スキンシップをしかけるのは、実に珍しいからだろう。
 不思議そうなまなざしで、ザツに呼びかけられた。
「…………」
 無言で、ころがすように。
 ザツの、下唇の下のくぼみを、親指で撫で続けた。
 ――成長したところが見てみたい。
 プルトップを、片手で開けられるようになるのか。
 身長があとどれほど伸びるのか。
 もっとがっちりした体格になるのか、もっと痩せたシルエットになるのか。
 顔立ちは変わるんだろうか。大人らしく、もっと長い顔型になるのか。血のせいでもっと高い鼻になるのか。それとも、このあんまり凹凸のない丸顔のまんまなんだろうか。
 性格はまともになっていくのか、それとも、もっとふざけていくのか。
 ……未来まで。見守りたい。
 たぶん、肉親を。
 弟を、妹を、甥を思うような感情に近く、そう思った。
 ――でも。
 そんなの、できやしないことは、確定してるわけで。
「……おまえが」
 ゆるゆる。
 しつこく、肉の弾力を確かめるように、親指を動かすまま、口を開いた。
「ここ、来たとき、驚いたけど……」
 不快でもなく、わずらわしさでもなく。
 あったのは、ただ純粋な、水球がはじけるような意外さだけだった。
 予定外な『来訪』は。
 まるで、まぎれこんできた若く光る蒼い水。
 でもそれは、意にもかいせないような、些細な変化なのだと思っていた。
 ――このまま、泥水にたゆたいながら、暗く膝をかかえて待つだけなのに、変わりはない。どんな変化がやってきたって、逃れようなんかない。
 そう思っていた。
 でも実際は……。
「おまえがいてくれると」
 あれがあった以後の、沈みきった生活はともかく……その前の、普段の生活が。
 特につまんねえ日々だったとは、当時、感じていなかったし。今も思わない。
 でも、そう『判定』する心とは裏腹に。
 今、おんなじ生活に戻ったら、確実に毎日毎日『つまらない』と死ぬほど思い続ける自分が……わかる。
 いちおうは平穏無事だった、あの件以前の生活。
 あそこには確かにあった、ささやかながらの幸。
 そういうささやかな幸を、幸とは思えないだろう。ザツを知った今では。
「……しあわせだから」
 こいつの変化は。
 こいつとの、同居は。
 ――こんな汚泥に、強引に、莫大に、幸を与えてくれた。
「…………」
 ザツは、あごを、捕まえられたまま。
 視線を。
 天井、壁、床、と、這わせまくった後。
 ……もじもじと、なんでか『正座』して。
 このあいだ百円ショップで買ってきた、レモンイエローのクッションを、引き寄せて、ボフン、と、膝にのっける。
 ザツがよく手元に置いてるので、それは既にヨレヨレで。そろそろ円柱とも形容できない、中綿がいびつにかたよった、ぼこついたフォルムになってきている。
 それに、まさにトドメを刺すように。
 わたが含んでる空気を、追い出すがごとく。
 ザツは、クッションを両手ではさんで、むぎゅるぅ〜、と。
 執拗なまでに、潰し始めた。
 ……あからさまに。
 テレて、いる。
 ……こういうとこ、理由なんかわかんねぇけど、めちゃくちゃかわいい、と思う。
 説明できない。吸引される存在。
 心底から、ヤラれてしまってる。
 なんでよりによって……今になって。
「な、なに、なの? 告白、でも、する? のか?」
 ハハ、と妙に乾いた笑い声を、ザツがたてる。
 でも、澄んだ肌色の、そのほほに……軽く苺色が浮かんでいる様子、とかを見ると。
 ……ああ、愛しいな、コイツ、と、素直に思う。
 …………告白、か……。
 そうだ、告白だ。
「……あぁ」
 スゥッ、と、うつむいて。
 つぶやくように、返事、した。
 しゃき、と背筋をのばして、ザツが反応するのがわかった。きっとびっくり顔になっているだろう。
 ……ただ。
 一般的な……恋だ愛だのの……告白じゃなくて。
「あのな」
 目を……ちゃんと見て、話さなければ、と思った。
 こんな……思いっきり暗く。
 後々まで心配させるような、告白のしかた、いけない。
 でも、
「おれ」
 顔は、
「おれさ」
 顔は、上げれなかった。
「もうすぐ、殺人罪でタイホされっから」

「……んだって?」
 それは奇妙な顔だった。
 ひくり、と吊り上がった口も。
 冗談にしたいようにたわんだ瞳も。
 ……表出しているすべては、笑いの仮面をかぶっているのに。
 流れてくるのは、圧倒的な、空白の感情。
 こんな完璧な『無表情』――見たことがなかった。誰のものも。
「……求人に」
 昔とも言えないような。過去の話が、つまった箱を。
 たんたんと、開ける。
「普通に、あたっていってたんだけど……」
 ザツから、ザツの肩越しに見える、コンクリート地な壁に。視線を移す。
 自然、目線が、遠くなってしまう。
 回想するだけでも、脳のあたりに。なんとなく、闇色のモヤが、かかってくる。
「決まったとこ……前も言ったけど……探偵事務……。興信所で」
 たどたどしくなりがちな声で、
「入ってみて、わかったんだけど」
 それでも、進める。
「別れさせ屋もやってたんだ」
「別れさせ屋……」
 復唱するように返してくる、ザツの声。
 その存在を、知識として知っているのか、未知なものだから繰り返したのか。
 判別できないトーンの声だった。
 ……ぼうぜん、という形容が、一番正しい。
「浮気調査依頼が、一番、多いんだけど、そういうとこは。まぁ……疑われる以上、たいてー、黒じゃん?」
 カツン、と、床に。
 まだ口をつけてもいない、自分の缶ビールを置いた。
 黄色い聖獣の古風なイラストが、パッケージに駆けている。一番好物の銘柄。……もうすぐ、飲めなくなる。
「でも、浮気、やってるってわかったら。依頼してきた方にじゃなくて、浮気してる本人の方に……まぁ大部分、夫だけど……。行くんだ。『この結果、どうしますか、奥さんにわたしていいですか?』って」
 水滴を浮かべつつある、そのアルミ缶を見つめながら、
「フツーやめてくれってなるよな? そこで、一段階目の、金、もらって……」
 ばさり、と、ブラックのバスタオルを、マントのように広げて。まだ裸の両肩に、かぶりなおした。
「依頼人の方には、やっていませんでしたよ、白でしたよ、って結果を報告するわけ。で、そのかたわら……」
 暗く、濁った瞳で。
 ひたすら、話を、続ける。
「アフターケア状態で、『浮気相手と手ぇ切るのに、協力しましょう』って。二段階目の稼ぎにかかるわけ……」
 たいがい、足元がヤバくなってるとわかれば、浮気相手の方とは別れたくなるヤツが多い。
 だが、相手の女は、はいそうですか、とは、引かないわけで。
 そこで、その探偵事務所の一部署である『別れさせ屋』の出番になる。
「次の男ができてたら、別れる気になりやすいじゃんか? だから……」
 幾とおりかのパターンから、最もターゲットがだまされやすいような手段を、チョイスして。接触し。
 つきあい、を開始する。
 ……いい感じにそれが熟れてきた頃、タイミングを合わせ、依頼人の方がターゲットに別れを切り出し。
 それをターゲットが承諾すれば、あともうしばらくの辛抱で……その件は終わりだ。
『彼氏役』の携帯は繋がらなくなり、住所ももぬけのカラ。つとめていたはずの会社からは、姿を消す。
 ――金銭を直接、まきあげる形でないものの。
 行動はほぼ、結婚サギ師だ。
「その……擬似の彼氏役。おれが、いつもやってた」
 高校卒業し、入社して、すぐに。
 若さと……ルックスのせいか。
 その仕事専任、みたいに、された。
「んな、サギみたいな仕事、いやではあったんだけど……。もう入っちまってたし、そこしか決まらなかったわけだし――辞めるわけにもいかなくて」
 自分がはいった会社の、主業務の、実態を知って。
 しばらくは、精神的に荒れた。
 ……友達とかは、その愚痴につきあわすたび、『おまえならモデルとかに転職しちまえばイイんじゃねぇ?』とか、気軽に言ったが。
 それは、昔っから、何度も色々なヤツに勧められてきた道、だったが。
 でも『あの男』とおんなじ種類の人間……芸能人になるのは。
 実は。死んでも、嫌な気がして。
「でもまぁ、いやいややってる仕事でも……女の機嫌とるつもりでやってたら、ちゃんと、どの件もスムーズに進んでいったから……」
 伏せたままの、顔のなか。
 目つきだけが、突然、するどくなるのが、自分でもわかった。
 本当に目が、眼光を放つような気分。
 忌々しくて、やりきれない。
 ――後悔。
「……なめてた、ンかも」
 ちょろい仕事だと、はっきり思っていた。
 思い上がっていた。
「気ィ、つけてたんだけど……。そういう女の一人に、尾行されてて」
 今も鮮明に思い出せる。
 終了したはずの『件』の女が。
「本当の自宅――ココ、つきとめられた、んだ」
 この部屋の、あの。
 水色のドアの前に立っていたときの衝撃。
 ……冷水を浴びせられる、という表現の体感。
「……そっからはもぅ、まんま、ストーカー。待ちぶせ、電話攻撃、会社おしかけ……。なんでもアリ」
 自嘲気味に、利き手のてのひらを。
 ぺたり、と。まだ濡れている髪のせいで、湿りけのあるひたいへ、あてた。
「でも、どー考えても……会社がきっかけじゃんか? だから、なんとかしてくれって……。文句言って、……泣きついて」
 殴りかねない勢いで、上司に何度も直談判した。
 ここまで手を汚したのに、そりゃないだろ、と。
 うすっぺらい笑いで取り入って、コドモじゃあるまいし性交渉もこなして。
 そうやって何人も何人も女だまして。
 何かを着実に磨り減らして、忠実に依頼を遂行していってたのに。
「どうにもしてくれなくて」
 ……世間ってのは、そんなモンだった。
「あげく、試用期間、終了ってことで」
 のろのろ、と、無気力に。
 右手を、ひたいから離し、首の根元へもっていって。
「コレ」
 手刀で、自分の首をちょんぎる仕草をして見せた。
「別れさせ屋だったんだって、最初っからウソだったんだって……。何度も何度も、ぶったたきながら言ってやったんだけどなぁー」
 ひさびさに、顔を上げ、ザツの顔を見ると。
 ザツは、床の一角を。ただ見ていた。
「要するに、その――だまされてた、こともあって。なおさら」
 痛々しいくらい透明なその視線を、追いながら。
 ふぅ、と、ため息をついて。
「おれに責任とらせ……。……じゃねェな、おれからふんだくろう、って決めてたんだろうな」
 もともと、王道なひっかけ方……。
 グルになってる仲間がからんでるところを、助ける形、で知り合う、という。
 今どき、やらせじゃないかと不信感が先立つような。でも、あの頃はまだそこそこ有効だった……手で、とりいった女だった。
 つまり、そんなシチュエーションがまた、てきめんに効くようなタイプで。
 少女マンガひきずってるような。
 夢を、夢で終わらせない執念を抱えているような。
 ――ああ、お母さん。あんたにそっくりな。
「いーかげん諦めて、遠くの県にでも逃げるしかねぇな……、って、思ってたとこだったんだけど」
 そう、そのための準備を、始めた頃だった。
 ザツがやって来る、少し前。
「……遅かった、らしくて」
 また、深くうつむいた。
「その日、また、呼び出されてな……」
 ぺろりと。乾燥しきった、下唇を舐める。
 いい難いことこの上ない話を、むりやりに続行しようとする。
「今日こそは決着、つけてやるって……自宅に、乗りこんでいって……」
 だが。そこまでで、ついに、自分の口を、動かせなくなった。
「…………」
 気合いを入れてみても、どうやっても。しゃべれない。
 なんか、トラウマのように。
 あの早朝の、サスペンスそのものに見開かれきった目や、指にからみついてきた長い髪や、ぐんにゃりとして冷えた体の記憶が、口をふさぐ。
 ……しかし。
 ふと、長く長くたれこめる、沈黙が、痛くなって。
 バッと、顔を上げ、
「っ……。ホラ……やたら給料よかったから、貯金、あまってるわけで。……つかまる前に、使いきらなきゃな、とか……」
 全然関係ない、はずれた話題なら、ぺらぺらと軽薄なまでに動き出した口をもって。
 あいかわらず床一点を見ているザツに向け。再び、しゃべりだした。
 よく考えたら、そりゃあド深刻に決まっている沈黙を。
 まばらに、塗りつぶそうとした。
「……だからよ、ほしいもんあったら、もっと、なんでも……」
 だけど、しゃべり続けるうち。目線が、ひとりでに下がっていく。
 この告白が――申し訳ないのか、情けないのか、重苦しいのか。多分、そのどれも、なせいで。
「……買ってやるぜ?」
 むなしく。墜落していく言葉達に耐えきれず。
 うなだれて、ザツに、上目づかいに目線を送る。
 ――聞いてるか?
 窺うような視線に、気がついたのか。
 ザツは、心ここにあらず、といった感じのまま。
 その、メープルのまなざしで、右を見て、左を見て。
「…………」
 ふと、目についたらしき。
 床に転がってたコントローラーを。手に、取った。
 そのまま、体ごと、テレビに向き合う。
 ピッピ、コピッ。ひとつのセーブデータが、選択され。……ゲームが、開始された。
 その様子を見つめているうちにも、響きはじめる。
 ガッ、ビシッ、どかん! という、戦闘の音。
 極彩色の魔法の光が、うつろう画面に、照らされて。
 ザツの顔が、七色に。次々に、彩られる。
「…………」
 それでも、しばらく。
 反応を待っていたが。
 まさに無心に、ゲームを進めているように見える……ザツに。
 ……ふぅっ、と、ため息をついて。
 あきらめて。
 ベッドへもぐろうと、立ち上がった、その時、
「これ……」
 ……振り返ると、ザツが。
 ぬけがらみたいな表情のまま、すうっと、テレビ画面を指さしていた。
 アップで映し出されている。ヒロインの3Dポリゴン。
 こぶしにした両手を、肩口に持ち上げている、思いっきり演技したポーズ。
 そして、何か演じてるような口調。
『うん、落ちこみっぱなしの私なんか、私らしくないもんねっ? そんな私、きらいだよねっ?』

 ◆

 ――喉のかわきで、目が、醒めた。
 ベッドの上、のろりと、上半身を起こす。
 頭のてっぺんの髪を、がそがそ、とかき毟る。
 そういえば、風呂から上がって……。
 直後、あの告白劇になだれこんだから、結局は、何も水分補給せずに寝てしまったのだ。
 ……反射的に、右手が。からっぽだと既に気配でわかっている隣を、まさぐっていた。
 いつも、そこに丸まって眠っていた。
 半分をうわまわる確率で弟じゃない、弟。
 だけど、右手に返ってくる手ごたえは、シーツのものしかなく。
 ……いない、か……。
 まだ、ゲームか?
「…………」
 そう思ってから、ぺたんと、ベッドから足をおろした。
 顔を合わせるのが、気まずくはあったが。
 どうせ、いつまでもそうは言ってられないのだし。
 ……冷蔵庫を目指して、ダイニングに入る。
 電灯は落ちていた。
 暗闇に包まれている室内で、あいかわらずにぎやかに、テレビ画面、だけ、が……。
「……ザツ?」
 ザツの姿が、見えなかった。
 テレビの前、猫背で、プレイしているはずなのに。
 部屋のすみずみまでを見渡すと。
 濃い影が溜まっている、場所があった。
 ゲームのデモ画面が流れているせいで、ちらつく光を放っている、テレビの右横。
 逆光の効果で、室内で最も暗い、そこに……。
 影に、隠れたいかのように。
 ひざをかかえて……両腕で、身をだくようにしてザツがいた。
「ザツ?」
 息をひそめるように、うずくまっているザツに向けて。
 一歩、踏み出すと。
「来んな」
 間髪をいれず。
 拒絶、された。
「…………」
 言葉の矢を、投げつけられて。
 射すくめられて、足が止まった。
「こわくなった」
 さらに続いた。迷いのない、ザツの宣言。
「え……」
 ――不安がにじんだ。
 情けない声を、返していた。
『人殺し』だって、知ってしまったから……。
 ……ってことだろうか。やっぱり。
「…………」
 あんな事を、告げた以上。
 引かれるのは、おびえられるのは、あたりまえなのに。
 それは、莫大な、ショックで。
 さぁ、と忍び寄ってきた。
 ……泣きすがりたい……気持ち、が。
 またたくまに、いっぱいにふりつもる。胸の中に。
 ――ザツ、と、呼びかけたく、て。
 手ひどい拒否……をされたら、と思うと、怖くて……。
「っ」
 なすすべなく、唇を、引き結んだ。
 全身全霊で、相手のようすをうかがう。
 かかえている膝に、押しつけるようにしている、ザツの顔。
 そこにのぞく二つのキラつきは、両目のそれ。……サバンナの夜、黄緑に蛍光する、肉食動物の瞳のように、けわしい気配を発している。
 その威嚇してくるような光が、何度も、何度も、隠されている。
 動き続ける、ザツの前髪で。
「――?」
 そう、ザツの前髪が、動き続けている。
 ようやくそれに気づいて、違和感に捕らわれる。
 ……呼吸のせいだけではなく、かなり激しく上下に動いている。ザツの身体。
 ――ザツが、震えている?
「きのうまでは、本気になるのもいっかなーって……。思ってたんだけど…………。こわくなった」
 自らの膝にさえぎられて。
 ザツのその言葉達は、くぐもっていた。
 金の前髪が、上下し続けている、震え続けている。
 ジーンズにつつまれた、二つの膝こぞうが、もう、この距離からでも目視できるほどに、徐々に激しく、がたついている。こつ、ごつ、と、ザツのあごが、そこにたまに当たっている音もする。
「…………」
 ぽかんと、場にそぐわぬほどマヌケに、口を開けて見ていた。
 ザツはあいかわらず、身を丸め、両腕で自分の身を抱いている。……かばうように。
「……ひでぇ」
 ぽつ、と、雨だれのように。
 もれてくる、ザツの、小さな。
「ひでぇ、ひでぇよ」
 小さな、叫び。
 ふるふると、揺れっぱなしの頭髪。
 やっと聞き取れる、細く謳うような、繊細な声。
「なんでおまえ、言ってくんなかったの?」
 そして。
 堰が切れたように、ひっく、ひぇっく、と。
 鼻や喉の、管を、こすりあげているような……吃音が響いてきた。
『泣きじゃくる』それ以外ではありえない、ひきつったような呼吸。
 興奮で肩が上がっていて、いじらしくヒクヒクと、痙攣しつづけている。
 ――思わず。
 非常事態に陥っている相手を、前に。
 ぼんやりとした瞳に、なっていた。
「……ざ」
 やっと、金縛りが、解けて。
 一歩を、ようやく、ようやっとで、踏み出す。
「ザツ…………」
 手を、さしのべながら……言葉を、組み立てる。
 心の、どこかで。
 ザツは、平気なんだと思っていた。
 ころがりこまれて。にぎやかされて。なつかれて。
 悪戯を共有して、その延長みたいにセックスして、……本気だとたまにアピールして。
 ――それなりに、愛されてる……はずだという、自覚が。なかったわけじゃないが。
 でもザツは、そんな。
 しがらみ、みたいなものからは、自由だと思っていた。
 もうすぐ灰色の塀に閉じこめられる、そんな男に寄せられる想いからは、ソレがどんなに熱くても、絡めとるようでも。
 あっさりと脱ぎすてて、羽化してしまう生物だと思っていた。
 違ったのに。
 ――ザツの左右のほほを、手のひらにつかまえる。
 果実の丸みと、みずみずしさが、ダイレクトに伝わってくる。
「……っ」
 ただいたずらに、喉仏を鳴らした。
 生唾が、喉を流れてゆく。
 なんとか思い浮かべ、せっかく脳のなかで組み立てた脈絡、そのどれも、言えはしなかった。
 大丈夫じゃなかった。
 心に、入りこめていた。
 それは――隠しようもなく、感激で。
 ……ああ、わかってたはずなのに。
 一緒に暮らす間に、なんとなく、嗅ぎ取っては、いたはずなのに。
 どんなに行動が突飛でも、異常なまでに自由でも。
 コイツは、常識をふりきるまでに、原始的なだけなのだ。
 だからこんな、生物として基本的なところでは、いちずに単純さだけが残るのだ。
 ――それは。失いたくない、という。
 両膝を床について、更に、ザツへといざった。
 ふにっとした耳下のあたりの皮膚に、骨ばってる指を、もぐりこませて。
 のぞきこみながらも、顔を上げさせる。
「……なんだよ」
 にらみ上げてくる、焦げた杏色の瞳。
 常よりも、もっと生気が漲っている。
 ……傷つけられた者の過敏さが、ギラついてる。
 カタカタ、と、指に直接、あごの震えも伝わってくる。わずかに合っていない、歯の根。内部から、こごえているように。
「…………」
 首を、のりだして。
 かすめとるように、唇を奪った。
 ――抵抗は、ない。
 それでも、応える、なんて遠い。
 彫刻みたいに不動な、ザツの反応。
 ……数秒して、唇を離すと。
「こわいって、言ってんのに」
 ボソリ、と。
 無彩色なトーンで、抗議がやってきた。
「……ごめんな」
 すべらせるだけのキスで。
 ザツの顔の輪郭を、大切になぞりつつ。
「でも、おまえのこと、見習うことにした……」
 ――問題あるだろ、かろやかすぎるだろ、と思うほどに。
 ごちゃごちゃと、考えない。
 行動して、もぎとりたい。
 ――望むものを。
 相手を巻きこんでも。
 たとえ痛手を、残していってしまっても。
 掌でも、ザツの顔面をさわりまくりながら。
 濡れた鼻の頭を、なめた。
 少し、しょっぱい。
 ……涙、もあるだろうが……。ひょっとして、鼻水。
「ザツ」
 ……鼻水でも、どっちでも、いい。
 今、安らかに目を閉じて。
 いっぱいに、体中に、ザツの存在を、感じられていれば――。
 しまらなくても、ドラマみたく綺麗じゃなくても。
 ――なんでも、いい。
「……ひでぇ……」
 ザツは。
 もうひとこと、そう言ったが。
「……ひっでえ〜」
 かすかに、いつものような軽めへとゆるんだ、声の調子と共に。
 グロッシーに濡れた、ピンク色の唇のあいまから。
 八重歯ぎみの犬歯が、花咲くように、のぞいた。
 ――両手でかこって、大切にはぐくまなければ、すぐさま溶け消えていくような、笑いが。ザツの顔に、浮かんで。
 はかないそんな、今のザツの笑顔が。
 いつもの、テレたような、ゆだねるような……楽しもうとするような『最大の悪戯』前の、ザツの笑顔に。なっていくことを願いながら。
 ザツの八重歯の。右上の一本へと、吸いついた。
 ザツの背中で、壁に扇形を描くように、ゆっくりとザツを、横倒しに押す。
「ん……」
 木目のフローリングに、ぱらりと広がった、コーヒーシュガー色の髪に。
 指を、とおしながら、覆いかぶさる。

 爪先までを、冷静な興奮が、浸すように支配している。
 ものすごく欲しいのに、相手を気づかってやりたいと心底思う――初めての境地。
 ……だが、それも。
 良し悪しと言うか……もどかしかった。
「おまえ、はじめての時よりひでェじゃねぇか……」
 こみあげてくる衝動で、麻布みたいにかすれてしまっている声でもって、呟きながら。
 服を脱がし、全ての肌をさらさせて、無防備にあおむけで身を開かせているザツに。
 手のひらのみならず。筋肉をそこそこ大量に蓄えているせいで、この状況下たっぷりと熱気を発散している、自分の腕をまきつけて、さするように動かす。あっためるみたいに。
 だけど、改善の気配は見受けられない。
「……っ、だ、か、ら、こええんだって、ば……」
 そう述べるうちにも、カチ、カチ、と。
 ザツの上下の歯がぶつかりあい、鳴る。
 ……だいぶ寝るのにも、慣れてきていたのに。
 最近ではもう見なかった位に、コントロールできていないザツの体の様子が、伝わってくる。
 とりあえず、他にも手をかけよう、と、
「ん」
 かけ声のように洩らしてしまいながら。ザツのあごを包んで、引き寄せ。すっぽりと、唇で、唇を隠した。
 舌先を交わし、リップをなぞり上げ、軽く歯を立てる。
 唾液のしたたるキスを、くりかえす。
「んふぅ……」
 常よりよっぽど、甘ったるい声が、返ってくる。
 キスをきりあげて、見てみれば。
 まだ伏せられたままの黒より色素の無いまつげ、桜色に上気しているほほ。
 眠り姫もまっさおになって逃げ出すよな、そそられるザツが居た。
 ……けど、それだけだ。
 往生際悪く、それからも長々と。
 暴かない場所がないくらい、あますところなく、皮膚を擦って、指を潜らせ、爪先で刺激しても。
 ザツのわななきは、止まらなかった。
 こりゃ、無理かな……。
 そう悟りつつ、だけど未練がましく。
 掌をすべらし、頬まで、ザツのあちこちに押しつけていると。
「……あ、アケル?」
 呼びかけと共に、涙目なせいで、湿り気をふくんだザツのまつげが、ぱたぱたと上下して。
 蜜色の瞳が、またたいた。
 ……もうずいぶん時間が経ってるのに、ステップを踏まないことを、不思議がり。
 無垢な問いかけを、発してくる。
 ……ムードはそうと言うか。
 ザツも、やる気は、あるんだけどな……。
 はぁ。と、呼気を吐いて。ザツの、餅みたいなほっぺたに、ほおずりした。
「……流血させっかも……」
 ここで止められそうにはないのだが。負担を強いるのが、申し訳なくて。
 むにぃっとばかりに頬をくっつけたまま、ため息と一緒に、そう告げると。
「…………」
 ザツが、何か、口ごもった。
 ああ、やっぱこんながちがちな状況で、強行されるのイヤだよな……と思って、視線を戻すと。
「……ァイイ」
 ぽつり、と。
 中央がもりあがった、小ぶりながらふっくり感はある唇が、不明瞭に動く。
「――?」
 見ていると、ザツはもごもごと、握りこぶしにした手を、その口もとへ持っていって。
 顔の三分の一ほどを、丸めたその手で、隠した。
 ……しかもこっちに見せている目まで、なんでか、泳ぎ始めている。
「……後ろ……」
 戸惑うような感じで、ザツはそう続けた。
 そして、ごそごそとフローリングの上。輝くばかりの全裸を、回転させだした。
 そこでやっとこっちも理解する。
「……っ!」
 ――バックかよ……。
 自分からすすんで、即物的な体勢を取られて。
 こめかみとか、眼球の奥とかの血管が、いくつか火花のようにブチ切れる感じがした。鼻血が出そうになる。
 ……双尻の頂点が、丸く、くりぬかれたように光る。
 おまけに。微妙に開かれた脚のあいだから、さかさまになった顔が、ひょい……、とのぞいて。
「……こ、んなら……けっこ」
 聞いたこともないほど、小さな声で、
「平気だと思うから……」
 と訴えられた。
 鳶色の前髪が、宙づりに、ぺろんと垂れている。
 おでこが丸出しになった顔で、まっすぐに見つめてくる。
 その瞳のまわりが。恥ずかしさより、多分に切実さだけを含んで、ぐしゃりと歪められていた。
 ――砕けた理性が、脳内から、跡形も残さず後方へ、ふきとんでゆくような気がした。
 あわてて指を濡らし、その一本を、爪を下にして、生贄のごとくさしだされている秘部に、刺し貫くようにつっこんだ。
「ッ……」
 ビクン、と、肩を揺らして。
 ザツが息を詰めた。
「っ、な、んか」
 ……性急に、その場所へ中指も添えかけていた右手が、口を開いたザツに反応し、止まる。
「深ァ……」
 ――思ったことを、はずかしげもなく、そのまんま言うのはあいかわらず。変わりないザツらしさで。
 だけど。はぁ、はァ、と。
 まださしたる事、してないのに。
 可哀想なくらい必死に、ザツの呼吸は、上がってしまっていた。
 ……やっぱり、こんな状態で。
 こわさを押し殺して。
 繋がれる方向へ、自らの身体をもっていくのは、無理があるんだろう。
 ……まだ、男くさい硬質さが、現れていない。
 どっちかと言うと、赤ん坊のようにぷくぷくとした印象さえ受ける、不定感のある足の形。
 間近に見ている、ザツのその足の裏に。
 土踏まずの箇所に、くっと一本、深い皺がよっていた。
 ……くすぐるように、その一筋の皺の上を、指先でなぞった。
「へぁ……ッ?」
 途端、ピクー! と、ザツの足先がひきつった。
 如実に、ポイント間違えた、と悟らすような不自然さで、背筋もしなる。
「そ、いうフンイキじゃねぇだろ!」
 からかわれた、と思ったのか。
 怒号まで飛んできた。
「――、いや」
 そういうつもりじゃなかった。ただ、足の形もいじらしく、可愛らしく見えたので、さわりたかったのと……。
「リラックス、させよ、かと……」
 そう伝えると、悪気のなさが伝わったのか。
 唐突に、ザツが沈黙した。
 そしてザツは、
「……ちが、くて」
 その白い、まっすぐな足の合間から。
 股から、にょき、と、左腕を、突き出してきて。
 指先を、求めるよう、こちらに伸ばしてきた。
「――?」
 わけのわからぬまま。
 左手でもって、その手を握り取った。
 ――公園の砂場、砂の山につくったトンネルの開通を祝って、向こう側のともだちと手をからめあったような。童心にかえる光景を。刹那、くりひろげてしまう。
「なんっ、か」
 また、逆さに現れる。ザツの顔面。
「胸のあたり、から……ぐらぐらして」
 トマトのように、真っ赤に染まった、顔。血が上ってる、にしても、異様なくらい。
「どっかに……。フッとんで……いきそ、だから、もぅ早く」
 ザツの唇は、濡れていた。雪をかぶって目を射る紅梅みたいに、紅く。
 そこから、蒸気のごとく。
 物理的に白く映るような、ここまで熱の届いてくる……吐息が吐き出されている。
 ――『充たして』きらめく朽葉色の瞳が、そんな言葉を。耳に打ちつけてきたような気がした。
「ッ?」
 闘牛士が赤布を、頭の中で閃かせたように。
 わけがわからなくなった一瞬、ザツの肩甲骨のあいだを、平手で、殴るように押していた。
「うわ……っ?」
 反発で、高く掲げられる尻。
 驚きながら、たたらを踏むように、ザツが両肘をついて体を支えた。
 その上半身が完全に崩れた、安定していないバランスのザツの体へ、
「――――!」
 ネジのように、ひねりこんだ。
「――、……っ、……っ!」
 がちがちと小刻みに震え、揺れる、ザツの首筋。じっとり、と、玉のような汗が噴出してきている。
 ぎぎ、ぎしり、と、歯をかみしめる音が。ザツの肩口に接触してるひたいのあたりから、直接伝播されてくる。
 ザツの左腹部めがけ、腕をさしこみ。ザツ自身を探った。
「ャっ?」
 目に見えない、体勢的に手中にもしにくい、ザツ自身をなんとか捕らえ、盛んにこすりたてる。
「うぁ、……ッ!」
 二方向からの、痛みと快感、まったく別種な刺激に、混乱しきったのか。
 ザツの折れた左脚が、空中に浮き上がっていく。
 ただでさえ不安定だった、這いつくばるようだったザツの体位が、三点で支えられた、曲芸のような様相を見せてくる。
 ――そんな中、強引に。
 がく、が、と、揺さぶるように、腰を進めた。
「ィン……っ!」
 暴走のまま、深くなる結合。耐えている、ザツの背骨が激しく、わなないている。
 うなだれていたザツの首が、すくむように更に、曲げられる。
 ――ザツが耐えて、身を丸め、頭を沈めてくれるほど、こちらは動きやすくなる。
「……ア、……グァ……っ」
 挿入が、ピストン運動が、やりやすくなってしまう。
「――、ザ」
 律動は、休めずに。
 せめてもの労わりのつもりで。
 汗と唾液で濡れた、ザツのあごを、左手を廻して、するりと撫で上げた。
 がくがく、と震えているザツの両手で、その左手を掴まれた。
 手先を、口腔内に、入れられる。
 ……容赦なく、連続して、歯が立てられてきた。
 振動を、そのまま返しているように。
 つき上げるたび、食いこんでくる、ザツの糸切り歯。
「ン、――ッ」
 ザツの尻が、いっそ規則的に上下する。
 ぱし、ぴっ、と軽く鞭打たれるような音も、こだまするように響く。
 ……たまに、ランダムな動きで。
 ザツの腰が、野性的な体位での結合を、浅くしようと、逃げる。
 だが、もうわけがわからなくなっているのだろう。
 タイミングが合わず、むしろ、自分からむさぼろうとするような結果すら。時に招いてしまっていて。
「ゥ、ァ!」
 前ぶれもなく、ザツが達した。
 小ぶりな尻が、竿をくわえたまま、吐精につられて。ヒクヒク痙攣する。
「ふゥ……っ」
 噛み殺しきれなかったような、くぐもったあえぎを、洩らしながら。
 体の下。ザツが、頭頂から爪先までを、感電したように、撃ち震えさせている。
「――、……く」
 搾ってきながら。濁流のように、滅茶苦茶に、ザツの内側がうねる。つい、うなり声を上げさせられる。
 苛む重みを与えてきた、そんな一瞬後。ザツの内部は、こっちにまで放火するみたいに、カァッと一気に燃えあがり、解放をそそのかしてくる。
「……う、……は」
 まだ高々と上がったままの、ザツの下肢に、体ごと押しつけて。
 内壁へ……ぶちまける。
「――ぅ、ふ……」
 ……もう、満腹だと言っているのに、無理に乳をふくまされた、赤ン坊のような息で。
 もごもごと、くしゃついた燻し金の頭を、勢いなく振りながら。
 ザツが、喘いだ。
「ふ、…………ふ、……ッ」
 ――やがて、その息、は。
 ひゅぐ、ひゅぐ、という嗚咽へ。
 自然に、移行していった。
 しゃくりあげるたびに、いつのまにか地に落ちているザツのひたいが。床にスレて、ごつり、ごつ、と鳴っている。
 折れそうなほど、曲げられている、紅潮した白い首。
「…………」
 そっと手を伸ばし、ザツの頭をかかえて、傾けさせ。
 じっと、ザツの顔を見下ろした。
 多分、天も地も、わかってはいない。
 目が強くつむられて、口は半端に開き、涙でぐしょぐしょの――。
 壊れた顔。
 理性の、日常の、すべてが剥がれ落ちた……気が狂いそうなほど愛らしい顔。
「……んっ、……ヒ、……ッ」
 注がれる視線を、感じているだろうに。
 自身の内面で手いっぱいのように――。
 一心に泣いている。
 若い筋肉のついた細い両腕をクロスさせ、それぞれの手で、二の腕を握りしめて。……自分を守るみたいに。
 ……どしゃぶりに遭ったように、汗ばんでいるその体を。
 覆いかぶさったまま、精一杯、包んだ。
 ――全身全霊で愛してくれた魂を、肉体ごと抱き寄せた。

「ごめんな」
 身を寄せあうように。
 肩のあたりでよっかかりあって、あお向けに、床に寝ころんだ状態、で。
 そう、切り出した。
 着ていた、……初日に身につけてたポイント入りの白いパーカーを、胸のあたりにひっかけているザツが。
「――?」
 と、首を、少しひねる。
 ……けだるげなスピードで。
 かなり、情事の後というか。
 瞳の表情だけではなく、仕草まで。とろんとしていて、色っぽい……霞がかった様相のザツに、笑み返しながら、続けた。
「好きになっちゃったの、忘れたいって言ってたのに」
 まぁ、正確には……。そこまで明言、していなかったが。
 ……こわいこわいって、珍しく、弱音吐いてたのになー。
 そう、思考を散歩させていると。
 ポンッ、と音がしそうに。
 ……今さら。ザツが、真っ赤に茹で上がった。
 眠たそうに細められていた目まで、瞬時でまんまるになっている。
「……どした?」
 意地悪そーには聞こえないように、気をつけたトーンで、そう声をかけると。
 さっきも、今も、こんなに可愛らしい姿をさらしてるのに。往生際悪く、
「……す、好きなんて言ってない……ぞ」
 まだちょっと濡れてる目もとを赤く染めながら、弱々しく、ザツは主張してくる。
「じゃ、なんで泣いたんだよ」
 首でもって少し、頭を持ち上げて。
 ひたいで、ザツの前髪を、左右にかきわけ。そのままザツのおでこに、おでこをくっつけた。
「……い、犬だって……。死んでたら、ひかれて死んでたら、エサあげたことあるノラだったら、泣く、じゃんか」
 喉にひっかかる、泣きじゃくった名残を残す、いとおしい声。
「……おれは犬か」
 返事してから、あんまりシャレになってないな、と思う。
 でかい図体で。
 舌をハッハッと出して、ザツに飛びついて、腰を振って。
「……あーダメだな」
 ぬいぐるみのごとく、ぐぃっと、ザツのウエストに腕を巻きつけ、だきよせる。
 ザツの鼻の頭に、唇を落とす。
「どんだけ軽口、たたこうったって、泣かれたし続かねェや」
 ちゅっちゅ、と、そこに、幾度もキスをする。
 滑らすようなキスで、別れを惜しむ。
 ――つっても、その別れは、自業自得なわけで。
 けど……。
「けど、なんかな…………いい感じになってきた」
 ザツの狐色の髪を、ひとふさ、細く、くるくるっと指にまきとって。
 それにも、穏やかにキスを繰り返しながら。
「捕まんの、いい感じで怖くなってきた」
 そう、言うと。
 ザツが、不機嫌そうに、高慢な猫科の瞳ですくいあげてきた。
 薄茶の黒目のなかで、一段、色が濃い瞳孔が、はっきりと自分をとらえてくる。
「なんだよ、それ……」
 口以上に雄弁な瞳まで活用し、いかにも不服そうに、ザツが文句をつけてくる。
 くすくす、と、忍び笑いがでてしまう。
「……嫌ではあったんだけど……特に未練もないまま、刑務所いきそうだったからよ」
 目をスッと、閉じて。
「唇にふるえが、きっぱなしなくれェ、こええな」
 率直に、ザツに白状する。
「…………」
 少々の沈黙が。
 ザツから、返ってきて。
 ……ぺた、と指の腹の感触を、あごに感じた。八本ほど。
 なぐさめるような。それとも、今はまだ実在していると、確かめてきているような。
 ……人差し指に絡めていたザツの髪が、するすると、ほどけてゆくのに気がついた。ふっと目を開けると……。
 ちょうど、目を安らかに閉じたザツの顔が、間近にせまってきている所、だった。
 ふにゅ、と、くっつけられてくる。
 自分の口に、ザツの唇の、極上の知覚。
 ――今は、ここに、幸せつかみとっている。

 ◆

「こ…………」
 レッドのチェックカーテンはためく、寝室で。
 ふりそそぐ、昇りたての朝日がまぶしい、移動したベッドの上。
「こ………………」
 下半身だけふとんに包まれた状態で、座っている、ザツ。
 乱雑にぬぐって放置しておいたせいで、その裸体の腹のあたりが、ちょっと白粉っぽい。
 ――そんな、事後のなまめかしさをアリアリと残した。
 恋人、兼、おとうと、が。
 バカになってしまったように、一つ覚えに繰り返す。
「こ……………………」
 ……いいかげん、なにか、生まれそうだ。
 たとえばにわとりの卵。コケコッコと。
「こ…………………………」
 こんな顔、初めて見るな〜。
 ……て、いいかげんしつけぇ。
 この上なく重要な会話、しかもオノレ自身のこと、をしてるのに。
 そう思ってしまうほど長時間、コ、コ、コ、と、ループで口にしていたザツが。
「殺して……ない?」
 やっと会話のキャッチボールを成立させた。
「うん」

 鼓膜をつんざく、
「なんで最初っからそう言わねー!」
 という絶叫を追って。
 続けざま、ぼかぼか殴られだした。
「だって、おまえシャレになんねーくらい、からっぽな顔してたんだもんよ。聞いてんのかな〜と思って打ち切って、やっぱ聞いてないか、焼き切れたかしてる感じだったから、続きは明日でもいいかなーと……」
 ズリ、ズリ、と体を小刻みにずらし、なんとかザツからの打撃を受け流しつつ、そういいわけすると、
「だっ、だっ、カラ、かって、っ!」
 あいかわらず、ザツはバタバタと、盛大に両腕をぶんまわして、頭部を集中攻撃してくる。
 宥めよーにも、うかつにふれられない。
 ……どころか、距離を、はなし……遠くに、もっと距離、置かねぇと……。って。
「足、足技はやめろよ!」

 ……きっちりザツの足がぶちあたって、負傷したあごをさすりつつ。
「だから、実際やってはいねーけど、同じなんだって。……無罪だって信じてもらえる証拠、ねーんだもん」
 経緯説明を、ようやっと再開した。
「あいつン家の電話番号で、携帯に来て……。チッ、またかけてきやがった、と思って、留守電のままにしてたら。『死んでやる、殺されたふりで』とか吹きこんでて……つっても、似たようなおどし文句で、何度も呼び出されてたし、いーかげんにしやがれって思って」
 食いつく目、と表現するより。むしろ食い破ってくるような、真剣な目で。
 目の前、前傾姿勢で、ザツが聞いている。
「今日こそ決着つける、と思って、テンション上げて乗りこんでったら……」
 死んでいたのだ。
 首に赤い跡を一周つけ。
 だら〜んと両腕、床の上に、バンザイのように輪にした状態で。
 青白く、土気色でもある顔色で、ピクとも動かない瞳をして。
 ……氷漬けにされたような気分だった。
 絶望、というのを、形にしたらあんななんだろう。
 何度も使われたおどしだったから、本気にしていなかったのだ。
 まさか本当に、他殺にしか見えない死体となってお出迎えしてくれるなんて。……そこまでの覚悟があるなんて、想定していなかった。
 少し冷静になった数分後に、ハッと、すがるような思いで現場を確認してみたが。
 首には、あきらかな赤い跡がぐるりとあるのに、どうやったのか、室内に凶器みたいなものは見つからなくて。マジで状況は、自殺には見えないように偽装してあった。
 だから警察は、とても呼べなかった。
 強い動機を持つ男が、第一発見者になったわけで。加えて、他殺にしか見えない状況。通報できるわけがない。
 ……そして。
 茫然と、息をしていない『女』を見つめているうちに。
 死体を……始末しなければ、と思いつめてしまったのだ。
「だって、ちっと調べりゃあ……。おれとモメてたって、丸わかりだし。いちばんの容疑者で、アリバイもなしって……。まずすぎるし」
 行方不明なら、完全な事件にはならないし。
 いつか死体が発見されても……。死んだ日時がハッキリわからなければ。
 この状態で、明日やあさって、別の誰かに発見されて、警察呼ばれて検死、となるより、数段マシだと思えたのだ。アリバイがなければいけない日時が、曖昧になる分は。
「……んで……。バイクで行ってたから、かついで、バイクの後ろにのせて……。そいつの部屋から持ち出した、新聞たばねてあったヒモで、お互いの腰のとこで縛って……。何時間かひたすら走って。なんか、穴だらけの、長い間ほうっておかれてる畑、みたいなとこがあったから、そこに捨てて。……できるだけ土、かけてきたんだ」
 今、思えば、あの死体処理が、更にマズかった。
 追いうち、かつ、決定打だった。
「……でも、よく考えたら」
 夢うつつな精神状態で、自宅にもどって。
 ぼーぜんとしたまま、背中を壁にあずけて、天井を見上げていたら。ふと、感電したように気づいたのだ。
「電話の記録、残ってる……。捜査、始まったら……その日、その時間あたりから、女の行動が空白になって……。そこから行方不明になったって、思いっきりバレる」
 そうなったら、動機。証拠。アリバイ。
 全てが、いっせいに、自分めがけて襲いかかってくる。
 ……あの女の、呪いどおりに。
 だったらせめて、死体遺棄、なんてヤバいことしないで、せめて全部、包み隠さずにおいた方が、まだ、よかったのに。
 それに気がついたのも、ホント、後の祭りで。
 今更、女の家に戻って、それらの掃除をできるだけしようにも。女の家の鍵は、一緒に埋めてしまったし。掘り返したり、女の家に出入りしたりしているところを目撃でもされれば、追い打ちでアウトだ。
 だからザツが来たあの日まで、袋小路な執行猶予を、追い詰められきって暮らしていた。
「留守電、残ってねぇの? 殺されたふりで死んでやるって、はっきり言ってたんだろっ?」
 ザツが興奮で、くりくりと丸い目を更に円くし、鼻息荒く言ってくるが。
「……どーだろな……」
 もちろん、最後の希望として、消去しないでおいては……あるのだけど。
 警察相手に、とても……。信じてもらえるかどうか。
「元の……不倫相手のほーも、あんまり『奥さんと別れてよ、じゃないと死んでやるから、あなたに殺されたみたいに見せかけて』っつー電話がくるから。そいつの番号、携帯もイエ電も着信拒否にしてた位……。お決まりのおどし文句だったから……な……」
『この電話が動かぬ証拠です!』とするにはムリがある。
 実際には、狼少年のラスト状態で、今度こそ死んでいたわけだし。
 ……そう、つらつらと語ってから。
 留守電が残ってんなら聴かせろ、と求めてきたザツに、携帯電話を渡した。
 ザツはう〜ん、とあいづちのように頷いてきた後、受け取った携帯電話のボタンを操作して、右耳に当てた。
 ……そして、聞き入ってる間、静寂が場を支配し。
「…………」
 急に。
 ザツが、がっくり、と、うつむいた。
 むきだしのままの白さが目立つ肩、欧米種の肌が、わなわな、とばかりに震えている。
「――?」
 ……なんだ?
 そりゃ、明るくケラケラと笑いながら話す内容じゃ、まったく、まったくもってないけど。
 なぜここで、そんな落ちこんで、黙りこくる?
 そう感じながらザツを見守っていると、
「……この野郎」
 ボソっと、すごむような。
 ひくい、低〜い声で、呟きながら。
 ほとんどベッド上につっぷさんばかりに、うなだれていたザツが、ゆうっくりと顔をあげだした。
「……この」
 この上なく深刻な顔で。
 さっき、マジ幽霊を、大発見してしまいました、みたいな……こわばった顔でもって。
 暗い声音のまま、吐き捨ててきた。
「……んの、アホル」

 ◆

「うん、これは録音」
 ……と、チトセまで、あっさり言った。
 セックスあとのダメージを非常識にふりきった、ザツにひきずられて来た、例の豪邸ガレージ。
 携帯を片手でもてあそびながら、パイプイスに座ったまま、
「電話口で、録音したの再生してる、明らかに」
 と、続けてチトセは言ってくる。
 ……外見は似てないながらも、まるでザツと、双子のような対応だ。
 さっき、ベッドで裸のまんま、聴くなり看破したザツは、
「だろ〜? おもいっきし雑音が二重空間だもん」
 ガレージ奥のミキシングテーブルの前で、また微妙に謎なセリフをのたまいながら『ほんっと、なんでわっかんないかな〜』という顔で、なにやらせっせとゴツい音楽機材をいじくっている。
 ……コイツら、耳がおかしい。
 鋭敏すぎるのが『普通のランク』に設定されている……気配だ。
「…………」
 ふぅ、とため息を細くはきだしながら。ぐるぐると首を、まわしほぐした。
 今朝から、そこそこ緊張感のいる話をし続けているせいで、肩がこっている。
 ……そうしながら、なにげなく視線を、チトセ前の安っぽいパイプテーブルに、落とした。
 チトセは、自分宛のファンレターを整理していたらしい。
 そこには色とりどりのレターセットが、散らばっている。
「……っ?」
 休憩のような気分で。
 なんとなく、その机上に視線を落としていた……のだが。
 ぎょっとした。
 聞いてはいたが、マジに胸にしか興味がないらしい。
 ころころした丸文字や、ちまっこい綺麗な字で綴られた、それらの女の手紙に。
 明らかに、差出人とは違う字体で、極太黒マジックでもって、読み終わった証みたいに書きつけてある。『トップは八十五』だとか、『微乳AA』とかいうメモ。『黒ずみタイプ』とか、『むにゅむにゅ』とか、『しこりデカッ!』とかもある。のきなみ、頭がくらくらしてくるような単語。
 地味に冷や汗をにじませながら、それらを凝視してしまう。
 チェックシート、かねてるわけか……?
 ってか、少なくとも、黒ずみタイプの女は食ったんだよな……。
 ……眩暈に襲われてしまいながら、トホホな気持ちにつつまれていると。
 もう一点、気がつきたくもない部分に気がついた。
 ……イラストまでつけくわえてたりしてるよ……。
 あんまりな若者像に、ほぼ泣きそうになりながら、マジマジとイラストを観賞してしまう。
 おせじにも上手いとは言えないが、ガードレール下とかにある『ピー』な落書きのように、原始的にエロティックな線画。
 そんな、今そこにある怪奇に神経を削られていると。
「よし、出来っ。……アケル、おいで」
 とザツが、プロっぽくでかいヘッドフォンを、耳から首へずらしながら、呼び寄せてきた。
 ほいほい、と近づいていくと、まだたどり着かない段階で。
 ガレージの中に、さざ波のように鳴り渡り始める……。じー、という感じの。空気音のような、雑音。
「こっちが近い、リアルタイムな空間の方から聴こえてくる、おと」
 どーやったのか、留守電からクローズアップして抽出したらしき、一部の音を。
 手元で再生させながら、ザツが、解説をしてくれる。
 ……『ササッ』という感じの、かすめるような音が、ふいに混じった。
「これは、軽い布の音だから……。レースの敷物、イエ電の下にしいてあったんだろ? その女の家?」
 視線を流してきたザツに、おぅ……、と、言葉なくうなずく。チトセの家に向かう途中で、尋問のように聞き出された情報。
「ま、着信表示が女のイエ電番号だったんだから……それは判明ズミだったわけなんだけど。……こっちには、これ位しか雑音ない」
 そう言いつつ、ザツはまた。
 銀色の機材を、つまみを回したり、スイッチのようなでっぱりをパチッと押し上げたりして……手早く操作した。
「で、こっちが……。遠ーい音。流された録音からの音、ね」
 ほどなく、『ジャリ』という、少し耳ざわりな短い音が、響く。
「砂。かたい地面……八割、コンクリの上で、それ踏んだ。体重が移動して……って感じの音」
 そう説明してから、ザツはまた、なんかの達人のようにキュッ、と、ある丸いレバーを少し、回転させた。
「で、決定的なのが……コレ」
 そのセリフを追う。
『かさ、ぱらら……』という、軽い物音。
「も、ぜってータウンページ。タウンページに足があたった、カサつき音」
 納得しきったような、充実感ある表情で。得意そうに一人、ザツが何度も、うなずく。
 ……タウンページ?
「…………」
 頭の中で、何かが飛び交い、ぶつかりあいながら、キン! キン! とガラスを叩き合わすような、耳障りな音を響かせているような気分。パチスロのじゃんじゃんばりばり音とはまた違う、スローで、つかまえられそうで捕まえられなくて、それでイライラする……。
 ハッ、と。
 その頭の中の、金属のハエのごとき物音が、なくなった。
「公衆電話!」
「そ」
 思わず大口開けて叫ぶと。
 脇でザツが、チョコン、と、わざとらしく肩をすくめる。
 ――つまり。それって。
「その女、『死んでやる』電話いっぱいかけたあげく、イエ電話と携帯の番号、着信拒否られてたんだろ? 当初の浮気相手の、依頼人には」
 ザツが既に、機材の電源を落としながら。
 もう一方の手でもって、ベージュ色のカバーを、銀色のボディに掛けだしている。
「耐えきれなくて着信拒否するまでに……いっくらでもこーゆー録音しておけたわけだ」
 背後から、補足のようなチトセの声も聞こえてくる。
 他人事のよーな、……まぁ確かに他人事なんだが、どーでもよさそうな調子だ。
「アケルにつきまとうようになってたってぇ。だから、そっちの男はもー諦めてたはずだ、ってことにぁなんないし」
 座ってるチトセの方に歩みよっていきながら、ザツが。ペラ、ペラリ、としゃべる。
「だいたい『別れさせ』依頼したのは、その男なんだから、女の復讐だって、そっちの男により強く向かうのは、スゲェ当然だよなー」
 呼応する、これまたナメらかな、チトセの声。
 そんな卓球のような、軽快なやりとりのあと。
「…………」
 ――二人そろって、こっちに向かってくる、無言の目線。
 ……恐縮したように、ちぢめてもなお、デッカイ肩をすくませて。
 うなだれるしかない。
 ここまでくれば、さすがに本人にも、わかった。
「つまり」
「真犯人にハメられたと」
「バカだね〜」
 ……事前練習していたかのように。
 見事に、分担して交互に言いやがった。
 ガバァ! と身を起こしながら、
「……っつったってなぁ! あンな、死体とふたりっきりの部屋で、殺人犯にされちまう、と思ったら、冷静でなんかいられねェっつんだよ!」
 当事者的にはいっぱいいっぱいだったんだよ!
 ――という咆哮を、二人にぶつけた。
 すると、ザツとチトセは。しめしあわせたように、揃って。
 鼻歌でも歌いかねない、そしらぬ顔で。それぞれに、あさっての方角を見やがった。

 ◆

 ――で、こうなると。
「んで、どうする?」
 となるわけだ。
 ザツが、こっちに顔を戻しながら言った、その単語。自分の脳内も、その単語で占められている。
 無気力がどっかへ行った。俄然、やる気が噴出して、全身から溢れている。マグマのようにふつふつと。
 自殺されたと思ったからこそ、ある程度は、自業自得だと……。
 女を騙した責任感から、ほんのちょっぴりは、納得できていたが。
 こうなると罪をかぶってやる義理は、いっさいない。
「大林――依頼人……。消す?」
 疑わしきは罰す、で殺しちまうか?
 ギラギラした眼で思いつめながら、そう提言した。
 もちろん、ただ殺すだけでは意味がない。
 痛めつけて、自分がやりました、と一筆書かせでもしたのちに。痛めつけた跡で他殺と疑われてしまうから、死体は見つからないように処理、くらいはやらないと、ヤる意味もないわけだが。
 ……パイプ机の上、腰をおろしたザツが。
 組まれた、色落ちしたジーンズの脚。上に重ねた方の、ブラックスニーカーのつま先だけ、プラプラ動かしながら。
「バカーだなぁおまえ、これ以上犯罪してどーすんだ?」
 あきれた顔で、そう言った。
「そうそう、ちょっとでもミスって証拠残したら、ますます重罪にまっしぐら。行き先は少年刑務所〜?」
 チトセの身もフタもないのたまいが、追随する。
 そう軽〜く笑いの方向に持っていかれると。
 むなしいっつーか、サビシイっつーか……。
 ――Tシャツの背にもたれかかる、確かな人の体。
 ――でも、ぐにゃぐにゃとすわりが悪く、落ち着かず。
 ――支えようと伸ばす手、その指の股へ、からみついてはなれない、長い髪。
 ……あの、死んだ肉を。
 運搬した記憶も生々しい、っつーのに。こっちは。
「…………」
 思わず、しゃがみこんで。
 背筋も首もしおれさせ、床を見つめ、いじけ始めると。
「あ、体張った芸してるよ?」
「めっずらしーなー。美形だっつーのにあぐらかいて、いっつも口先でしか芸しねーのに」
 ……フォローどころか、情け容赦なくとどめがきた。

「けど、これは、ハメられた、っつー証拠になんねぇ?」
 紺色のラバーストラップをつまんで。
 問題の、『ワナの留守電』がおさまった携帯を、チトセがゆらゆら振った。
「無理っしょー。コイツも、こんな電話、女から受ける立場にあって、録音可能だったわけだし」
 ザツがちょっと小首をかしげながら、返事した。
「でもコレ、あきらかに公衆電話からじゃん?」
「たしかに、アケルは着信拒否、してなかった、から……公衆電話からかけてたならアケルにした電話じゃない、はず、と。おれらなら思うけど。たまたま公衆からアケルに、女がかける事は、あるかもしんないからな。ホラ、例の依頼人にかけるついでに、とか。全然、決定打になんない」
 そこまで言ってから、ザツは。
 ムゥ、と。
 下唇をタラコにし、むくれたような顔になって、天井を見上げる。
「おれらはコイツがやったんじゃないって知ってっから、十分、決定打にできるんだけど」
「――っ」
 復活して、既に立ち上がった状態。
 ザツから一メートル三十離れた、斜め横。
 そこで、人知れず、地味に。
 絶句して、しまった。
 ……ザツとは対称的に、うつむいて、必死に涙を隠した。
 いきなり、力いっぱい、涙腺を押すな……。
 無償に、ほとんど根拠もなしに。
 信じられている喜び。
 独りの日々の、身を蝕んでいくような絶望感や隔絶感が、ウソのようだ。
 ……ザツが隣に居てくれる、それだけで。
 なんとかなるような、気がしてくる。
 ――しかし、ザツは、
「でも、アリバイはこっちもないし、運んで埋めるとこ受け持ったし、なんだったらソレ目撃されてる可能性すらあっし」
 などと、ブツブツ材料を組み立てていくうちに。
 煮詰まってきたのか、
「後ろ暗いトコもわんさかあるわ、現場に残ってるかもしんない物証なんか、むしろ不利だわっ?」
 みるみる雲行きがあやしくなった、不機嫌なしかめっ面で。早口に、ヒートアップしてゆき。
「ってことは、やっぱ、なんとか力技で自白っぽく追いこむしかねぇんじゃん!」
 ついにはヒステリーっぽくなり。『オーノー!』とでも外人チックに言いそうな、エビ反りを見せた。
 そして相変わらず、クリーム色に光沢のある髪を、わしゃわしゃと両手で左右からはさみ、もみくちゃにしながら。
 そのまま、ザツは。
 ある絶叫を、口からほとばしらせた。
「なんでこんな男と寝ちまったんだよおれは〜!」
 一瞬。
 神のつくりたもうた方程式、宇宙の法則、みたいな。
 数学的綿密さで完成された、静寂が走り抜けた。
「ぶっ」
「えぇぇえええ? ピぃキャ〜っ?」
 絵に描いたマヌケのように吹いてしまうが。
 んな場合ではなかった。
 殺される家畜のような、人間の尊厳がかろうじてしか残っていない、鳥類に片足つっこんだチトセの悲鳴に、デコレートされる。核爆発のような、混迷のるつぼ。
 ……しかし、修復することはできない。
「……ッ、……げふ、……げふっ、……げふ……っ」
 おもいっきり気管のヘンなとこに迎え入れてしまった唾に苦しみつつ。
 目を白黒させることしか、とりあえずできない。
 ……普通、人に、しかも親友に言うかァっ?
「チトセ!」
 怒り狂った声のまま、ザツが短く、吠えた。
「ぴぃ!」
 返事なのかそれは、という鳴き声で、チトセが反射的らしい返事をする。
「インターネット借りていいっ?」
 完全に引きまくっているチトセは、心なし蒼い顔色のまま、コクコクとうなずき返した。
 流れ星のように、素早くザツが、ガレージをよぎっていく。
 バンッ! っと、けたたましく閉じられるドア。
 ……そして、二人、取り残された。
 こうなると気まずく沈黙しあうしかない。
 タイミング激悪なことに、こーなったら続けてた方がまだ、間が持って良いのに、咳もおさまってしまった。
 ……この状況、どーすんだよ!
 しかたなく、一番、年上らしくどっしりおちついて見えると思われる姿勢になってみた。つまり、壁にもたれかかって、腕組みだ。
 でもしっかり、動揺おさまりきらずで、腕がピクピク痙攣していたり、するんだが。
 N極どうしの磁石のように、ぎこちなく、チトセとお互い、視線を避けあう。
 そのうちに、あからさまに、おずおず。
 チトセが、口火を切ってきた。
「で、でも、アケルって、ニューハーフとかじゃねぇのにな?」
 ……ん? と、一瞬、意味を考えてしまってから。
「お! ま! おれがやられたと思ってんのかっらっ?」
「――違うのオっ?」
 舌がもつれてしまうほど泡を食って反論すると、チトセがますますのパニックに放りこまれた顔になる。
 虚像くさいながらも、静けさだけは戻ってきていたのに、また爆風に似た混乱が、パワー掃除機のように場を席巻する。
「ぇえっ? だ、ら、ら……っ!」
 ますます輪ァかけたコンフュっぷりで、座ったまま。
 パイプイスをガッチャ、グワッチャと鳴らしつつ、竹とびのように両脚そろえてチトセは、文字通り『右往左往』している。
 愉快でブザマな、そのおどりも。
 当事者なもんで、とても楽しめない。
 こっちが視界にすら入ってないらしい相手のインナーワールドぶりに、もはや、どーにかしようという気力も失せて、眺めてるしかなくなった。
 なんか……。
 父親がホモで、しかも下のポジションでした、ということを知ってしまった息子……。
 ばりの、アイデンティティーのぐらつきっぷりを見せている。
 ……未だに、収拾のついてない、旬でホットなこのスポットに。
 ぐわっちゃ、というドアノブ音が響いて、
「チトセ?」
 ザツの丸顔が現れた。
「はいいぃっ?」
 軍隊並みの、ピッチリした直立を見せ、がったり! とイスをぶっ倒しながら、チトセが立ち上がった。
 ザツは、コトッ、と、愛嬌のある感じに、頭を傾けた。
 微笑むでもなく、にらみをきかせている風でもない。
 チューリップにとまったてんとう虫を観察する三才児みたいな、特に何も考えていない、無邪気な顔をしている。
 ――何事もなかったように、いたって常態の表情だ。
 ……だからこそ、異常な神経のヤツということになるんだが。
 ザツは、その表情のまま。
 ちょっとおねだり調子、な、高めのトーンで。
「明日、ガッコさぼって?」

 ◆

 ……その日の帰り道、ザツに、トヨタレンタリースに連れて行かれた。
 あの間にネットで、うちの近所の店舗を調べ、ちゃっかり予約も済ませていたらしい。
 そこで借りさせられた、白い、普通な国産車を持って――明けて翌日。
 早朝も早朝、まだ人があんまり活動していない時刻に、チトセをお迎えに行く。
 当然、車の往来もなくガラガラの、チトセの豪邸前の、路上。
 現在、両手をポケットに入れたザツが、妙に『すっく』と、立っている。下は、おなじみな迷彩カーゴパンツだが。
 赤いTシャツの上に、緑基調のアロハっぽいシャツをはおって……あの、初めて訪ねて来た日の、サングラスなんかかけているので……なんとなく『ちびっこギャング』といった風情だ。
 ……ほどなく、ジーンズに、ベージュのスタンドネックなごわごわしたコットンブルゾン、という気楽なカッコのチトセが、てくてくと玄関から出てきた。
 まだ、おびえられてるかと思っていたが、
「おあよ〜」
 とリラックスしきった調子でザツに言っているし。
「よっ」
 と、別に含みもない様子で、いつものように片手をあげ、こっちにも挨拶してきた。
 ……一晩眠ったら、そこそこ整理がついたらしい。
 やっぱ、ザツと類友の順応力だ。
 意味などないと思うんだが、快晴な朝日を浴びて、やたらと堂々としていたザツが。
 サングラスを右手で、横なぐりに豪快にはずしてから、
「じゃあ、あほーなアケちゃんのために、二、三肌、脱ぎに行きましょうか」
 シロップ色に髪を揺らし輝かしつつ、他二人のメンツに向けて。
 にやり、と、得意げな笑顔を見せた。
「…………」
 アケちゃん、ってなんだ……。
 なんか……やめろ……。
 言える立場じゃないが。
「まず、一肌目な」

 諸悪の根源、『大林』……依頼人の、自宅マンション。
 大林の家族構成は、妻ひとり息子ひとり。
 そのマンションをななめに見上げる位置に、いたってポピュラーな白い車を路上駐車し、しばし見張る。
 やがて、登校途中の小学生や、中学高校生の制服姿が、道にあふれてきだした。
 会社がバリバリのオフィス街にある大林は、もう出勤済みだったらしい。そんな時間帯になっても、大林家の玄関に変化はなく。
 通る学生の数もピークに達してきた頃、やっと玄関から出てきたのは、姿勢の悪いガキだった。めがねもかけている。
 ……あれは、大林息子、だろう。
 バクン、と、後部座席のドアがあく音が、響いた。
 なんだろうと、運転席から振り返ると、
「んじゃ、あの子の尾行、よろしく〜」
「おっけ〜」
 ザツがチトセを送り出している風景が、目に入った。
 ……どうやら、チトセに大林息子を、つけてもらうらしい。
 登校中の生徒達にまぎれるように、舗道の隅の方を、ひょこひょこチトセが歩いていく。
 制服姿じゃないチトセは浮いているのだが、さすがというかなんというかのツラの皮、で、へーぜんとしているので。疑いの目では、見られていないようだ。
 ……しっかし、なぜ、大林の息子を尾行するのだろう。
 いや、いまさら大林本人をつけたって……。そりゃあ有益なモノは何も得られないと思うが。でもだからって、息子なんか無関係だろう?
 そう不思議に思っていると。
「じゃ、こっちも動こっか」
 チトセのためにドアを開いたついでに、自分もいっぺん車外に出ていたザツが。まわりこんで、助手席に乗りこんできながら、そう言った。
 シートに身をおさめたザツは、かけているサングラスのブリッジの上に、ひとさし指の先っぽをのっけて。
 鼻柱の上、するすると、下方へ滑らしていきながら、
「その、前に〜」
 エアコン吹き出し口のあたりを見つつ、数え上げるようにそうつぶやいた。
 つい、と、ブリッジの上から。
 ひとさし指が離れ。
 フロントガラスの方角へ、一本に、ピン、と伸びる。
「JRの駅前に、車まーして」
 鼻の頭にひっかかったサングラスのせいで、何にも隠されずにのぞく。
 ふざけの一切ない、真剣なザツの、唐茶色の瞳。
「――?」
 何をしに、と、またもや疑問ながらも。
 チェンジレバーを入れて、ハンドブレーキを解除した。

 一番近いJRの駅前に行き、そこそこ邪魔にならないような場所に、路上駐車させられる。
 そうして向かったのは、キヨスクだった。
 そこで、イエローグリーンに、パステルカラーな小花もようが散らばったミニ紙袋を、ザツは一つ買う。
 ……なんに使う、そんなファンシーなバッグ……。
 と思ってたら。
 そのからっぽの紙バッグ片手に、そこそこの人ごみの中を、ザツはすーっと歩いていく。
 漫然と、それについてゆくと。
 アイフルのねーちゃんが、ティッシュを配っているポイントに出くわした。
 ザツは愛想よく宣伝ポケティを受け取り、こちらは微妙に体を遠ざけてやりすごす。
 そんな風にそこ通過した、一・五秒後。
「……っ?」
 いきなり、ザツに、ぐいっと、手首を引かれた。
 かなり力がこめられていて、思わず全身が、傾く。たたらも踏んだ。
「……っ……ぁ、……」
 ザツがしゃがみこんだので。
 発しかけた、おどろく声は、堰きとめられた。
 ザツは、アイフル女子社員の足元そばに置かれたダンボールへむけて、しゃがみこんでいた。
 わしっ、ばっ。わししっ、とさっ。がつっ、ばふっ。と、両手を全開にひろげて、ダンボールの中の宣伝ポケットティッシュを、思いっきりつかみ取りし。自分の紙バッグの上で、両手をまた広げ、ティッシュを落とす動作を、三度、繰り返す。
 その一連の窃盗を、早業に終えて。アイフル女子社員が不審に思いふりかえるような……間も与えず、ザツは、さっと立ち上がった。
「…………」
 あっけに取られていると、収穫を片手にぶらさげたザツは、またぐいっと、こっちの左腕を引いてきた。
 ぐずぐずすんな、とばかりに。
 そうして、その腕を持ったまま、歩き出す。なにごともなかったように。
 首をかしげたい心境で、それについていく。
 ……えっと、なんだ?
 要するに、あやしげな気配を遮断する壁、に使われた……わけか? おれは、今。

 ――大林の息子を尾行させる意味も、今、大量にティッシュを盗んだ意味も。
 さっぱりピンとこない。
 ……どーいう見通しで、ザツは動いているのだろう。
 悩みながらも、ザツに指示されるまま、車を、大林のマンション前に、また戻した。
「アケル」
 車を降りて。連れだって、マンションへ歩いていっている途中。
 ザツが、ひょいっと、見上げてきた。
「――?」
 ……すくい上げてくるような琥珀の瞳は、ビール飲みたいとか、もう眠たいとかねだってくる、いつものモノだ。
 一瞬、ポーっと見つめていると、
「腕ぐみして」
 と、要求された。
 とっさに、言われるままに、自分の両腕を、胸元で組んだ。
 すると、
「ほいっ」
 バささぁっと、そこに、ザツが両手にわしづかみにしていたアイフルティッシュを、無造作に沢山、のっけられた。
 ……ティッシュはポリ袋に包まれているから、当然、すべる。あわてて、腕どうしの絡めをふんわりと変え、曲げた腕がちゃんとうつわになるような状態にする。そして、そんなあわてさせる行動をしたザツに、文句をつけるスキも、尋ねるスキもなく、
「はい、れっつご〜」
 ザツは、また歩き出してしまった。
 大林の住んでいるマンションの入り口は、もうすぐそばに迫っていた。

 どこのマンションでもそうだろうが、入ってすぐのさして広くないエントランスには、灰色の玄関ポストが集合して並んでいた。
 ザツはまっすぐそれに近づき。
 こっちの腕からティッシュを、一個さっと取っては、ポストに入れこんでいく……のを、始めた。
 さながら、無償な自主的アルバイターのように。
 シャカ、シャカ、という擬音が聞こえそうな、その手さばきを、またまた、ただ眺めていると。
 ある一瞬、ザツの頭が、微妙に、天井に向けて動いた。
「……あ、防犯カメラあるな」
 ポソ、と洩らされた。
 ザツの呟き。
 へ? と思って、つられて、ザツが見た方角を見そうになる、が。
「クビ、動かすなよ」
 囁きで、ピシッと釘をさされて。
 ……肩をびくりとすくめるような、オロカな仕草になってしまった。
「大林さんちは401号室……」
 ティッシュをひねりこみながらも、ザツがポストへ、チェックを入れている。
 そうこうしてるうちに、『チーン』と音がして、奥のエレベーターホールに、一機、やって来たようだ。
 少し暗がりになっているそこから、誰かが出てくる。
 数秒後、おれたちに、何の不審そうな様子も見せず。マンションの住人らしきばーさんが、背後を通り過ぎていった。
 ……急に寒気がした。
 いや、まぁ、寒気を覚えるほどの事ではないんだが。
 やっと、一つは、意図が読めて。
 つまり小道具か、アイフルのティッシュは。
 通行人に不審がられず、他人のポストをじろじろ見るための。
 ひきつっているこちらに頓着する様子もなく、
「あ、ラッキ、302号室、空き部屋じゃん」
 ザツはもう一言、そんなことを呟いてから。
 つつがなく、全部のポストに、アイフル宣伝をつっこみ終え。
 マンションをさっさと、後にする。
 ……当然、その背に続いて、外に出ると。
 まだマンションから十メートルと離れていない距離で、ザツはポケットからチャキッ、と、黒光りするケータイを取り出した。
「チトセー?……第一小学校? うん、わーった。今」
 歩きながら、一分にも満たない、ショートな通話を終えると。
 携帯をしまい、またスタタタっと。いちもくさんに車を目指し、スピードを上げて歩きだす。
 真横から、そんな栗皮色の頭頂部を、見おろしながら。
「なんか目的とか意味、あったワケ? ポスト見るの」
 ――しかも、アイフルからティッシュをがめてまで。
 そう考えつつ、ザツに質問してみると、
「まぁ、わかることもあんじゃん。ポスト見るだけでも〜」
 と、ザツがサラサラ答えた。
「もし、防犯ビデオも鍵ついてなかったら、ひととおりいっぺん、中身かっさらっていきたかったけど。情報収集に」
 ザツはあいかわらず、こっちを、うわ、と思わせるようなコトを言う。
「情報……って……なんの」
 つい、そう聞いてしまうが。
「イロイロ」
 またもや間髪をいれずな、返事がかえってきた。
 そんなもん、見てから決めんのよ、と言わんばかりの。
 ……だが、ザツはそこで、フゥッと。
 冷静というより、冷酷、に近いような、さめた横顔を見せ。
「でも、別収穫はあったけど。……302号とか」
 と、独りごとのように、言った。

 第一小学校前に車をまわし。
 さて、とぐるりと首をめぐらせて、チトセを探すと。少し離れたコンビニからやってくるのが見えた。
 ささっとザツの今座ってる後部座席に、隣に滑りこむように乗りこんできたチトセは、窓に身をよせるようにして、座り。
 なんだか律儀に、校門の方に視線を注いでいる。見張っている。
「で、チトセさんの見立てでは、大林さんちの港くんは、なんねんせー?」
 軽く話しかける、ザツの声。
 ……みなとくん?
 と、頭の中で、反芻してから。
 ――イッ、と、奥歯を噛みしめてしまった。
 ……さっきポストの表札で。
 仕入れた情報、なわけだ。コレも。
 抜け目なしなザツに、未だにぼんやり引きずられてるだけの、こっちに比べて……チトセは、こんなザツに慣れきっているのだろう。
 ちらっとバックミラーに目を走らせると、チトセは右肩に、ザツの両腕の手首あたりを、なれなれしくかつ遠慮なく、のっけられているが。それもそのままに。
 じぃっと、校門にまなざしをやったまま、
「まんなか位かと?」
 とチトセは回答した。
「やっぱ小三?」
 ザツがそう返すと、そう、という風に、チトセは首を縦にする。
 それを見るなり、ザツはどすん! と、シートに身を沈めた。
「あっちゃー。ナチュラルに近づくには、年齢差ありすぎんなァ……」
 低い天井を仰ぎながら。疲れたように、そうこぼす。
 ……というか。
 近づく気、なのだろうか。
 だから、息子に、なんの為に?

 車内で張りこみ刑事のように、コンビニおむすびやなんかで、昼食を摂り、待機を続けていると。
 そのうち下校時刻となり、校門から小学生なちびっこ達が順次、やまほど吐き出されてくる。低学年ほど律儀にせおってるランドセルが、目にまぶしい。
 大林息子を見逃さないかと心配だったが、チトセが無事、その中から見つけてくれた。
 ……が、大林息子は、家の方角ではなく、友達一人と一緒に、あきらかに繁華街の方向へと歩いていく。
「遊びに行くのか?」
 目で追いかけながら、ごちると、
「っつ〜よりは」
 と、後部座席から応じてきたザツが、
「今度はおれ、行くね」
 と、チトセに顔を向けつつ言いながら、ドアに手をかけ。車から降りていった。
 サングラスをかけたザツが、二十メートルほど距離をとりながら、大林息子をつけてゆく。
 残されたチトセとおれは、携帯での連絡を、待つしかなくなる。
「…………」
 ひたすらな、沈黙が続く。
 ……さほど気まずくはないんだが。雑談でもしようもんなら、まぁまず『寝ちまった』発言がむしかえされそうで。チトセもこちらも、お互い口を開きにくいことこの上ない。
 幸い、ほどなく、ザツからの着信で、携帯がにぎやかに着メロを鳴らし、
「ん〜、今朝のJR駅のトコでいいや、来て」
 という、ザツの能天気な声が聞けた。
 すぐさま車をまわすと。今朝路駐した、駅前から少し奥まったところの路地で。
 昼下がりのキラめく陽光を浴びて、やっぱスターみたいにふんぞりかえった感じで、ザツは立っていた。
 ……停車すると。ザツは外から、トン、と、左のてのひらを、サイドのガラスについてくる。
 はいはい、とばかりに、ウィィーンとあけると、ザツは鳶色の頭をつっこんできて。
 サングラスをずらし、こっちの顔面を、ぐいっとのぞきこんできながら。
「やっぱ塾通いだったわ」

 その場に車を捨てて、ザツがつきとめた有名進学塾へ、三人でぞろぞろとゆく。
 ある曲がり角まで来ると、わざとらしくビルの影に身を潜めたザツが、顔だけそろっと出して、塾のビルの方をうかがった。
 コントのようにおそろいの体勢で、三人でそちらを、こっそり、見る。
 おそらく、講義までの時間つぶしなのだろう。
 大林息子は、道路の縁石に友人と二人、腰かけて。楽しそうに携帯ゲーム機で遊んでいた。
 ……ザツが、片腕を、頭上までふりあげて。
 ひらっ、と、大林息子達の方向へ、手先を振りながら、
「んじゃ、アケちゃん、行ってきて〜」
 と、指示してきた。
「……ああ」
 その呼び方はたのむからやめてくれ、と、いつ懇願すべきか考えながら。
 軽く返事して、一歩を踏み出しかけると、
「ゲーム画面、見下ろして……。目に焼きつけてきて? 何のゲームやってんのか、確かめたいから」
 ぽんッ、と、肩を叩いて送りだしてきつつ。ザツが、注意事項をつけ加えてきた。

 ……実際には、ゲーム画面はちらりとしか見れなかったが、それだけでもかなり収穫はあった。
 ビルの影に戻ってくると、ザツが、淡色の瞳だけで『どうだった?』と尋ねてくる。
「ピカチュー、いたし」
 と、簡潔に報告する。
 すると。
「……○○いた?」
「はっ?」
 すぐに、ザツが聞き取れない単語を含めた、質問してきた。
「……まぁ、好きなら最新作もゲットしてんよなぁ……そこそこ金持ちな家の子だし」
「そうね〜」
 思わず『はっ?』とか言ってしまっていた、このわずかな、反応できなかった間に。
 既に見捨てられたらしい。ザツは顔をふりむけて、チトセと会話している。
 ……そうしておもむろに、ザツは、空を見上げた。
 青空が映りこむ、水晶の眼。
「……そこかな?」

 どうしてか、息子の尾行をそこで打ち切って。
 妻の尾行も、大林自体の調査もすることなく。
 チトセの家へと、帰路についた。
 ……しかしそもそも、なんで息子をつけてたんだ?
 その疑問すら、あいかわらず解けることない、取り残されぶりのままだ。
 ザツには当然、把握できているんだろうが。
 ……チトセ、にも。理解できてるんだろうか。そう、複雑な感情が、胸に渦巻く。いやいくら親友と言ったって……おそらくそんな以心伝心、ないと思うが。
 ――それはともかく、夕方間近に、チトセ家の前に着いた。
「明日はなんにも予定ないし。学校いってね〜」
 ぴらぴら片手を左右しながら、ザツが降りていくチトセに、語りかける。
「おまえもいーかげん復活しろよな……」
 バタン、と、音を響かせつつ。路上に降りたチトセが、外から、勢いをつけてドアを閉めた。
 少し赤みと暗さを帯びた陽光が、チトセのあきれたような……あるいはザツを心配しているような顔を、照らしていた。

 その後。
 ザツのリクエストで、おもちゃのチェーン店『トイザらス』……の駐車場に、車を入れた。
 入店するなり、脇目もふらずザツは、カゴをひったくり、ゲーム売り場に行く。
 とある携帯ゲーム機の本体、一個を。ほとんど一瞥もせずに、カゴに入れ。
 そのまま急いでいるかのように、レジに一直線に向かう。
 ――そして、なんでか、ソフトは一本も求めようとしない、という奇妙さだった。
 それでもザツに促されるがまま、レジにて、精算をしていると。
「ここの向かいに、ジーンズショップあったじゃん。この後いこね〜」
 と、ザツが誘ってきた。
 そのセリフと、同時に。
 ボン、という音と共に、尻に下からつきあげてくる衝撃が、襲ってきて。
 自分の視界が、ブレた。
 少々、びっくりして。ゆっくり首を真横にめぐらすと。
「――? どしたー?」
 にんまりとした、満面の笑みで、ザツが見上げてきていた。
 ……『どした』って言ったって、人の気配が真横にしかない以上、行為者は決まってる。
 ボン、と。
 再び、衝撃が襲ってきた。
 案の定の人物によって、それは加えられてきていた。
 今度はちらりと目でも見えた。
 ザツが、左脚をふりあげて、ケツ蹴りをかましてきている。かなり、思いっきり。

 ……そして、同じ行為を。なぜか、ジーンズショップでも、やられてしまった。
 グレーの深いキャスケットを会計中の、レジで。
 多少、人目もあるのに、容赦なしに。二度三度、と、ふりこ運動のようなケツ蹴りが飛んできた。
 ショップを出てからも――なんか、こっちを引き離したがっているような速度で行くザツの。その後ろを歩きながら、考えこんでしまう。
 ザツの行動は、読めないことも多いが、それにしたってコレは不可解だった。
 五歳も年が離れてるから、ザツはたいがい、さりげなくこっちを立ててくれるのに。
 スキンシップとかそういうのではない蹴り、ネチッとした、いじめにどっちかと言えば近いような……。
 いや、もしかして……。
「……なんか、怒ってんのか?」
 唯一、思い当たったことを、口に出してみれば。
「…………」
 トイザらスの駐車場に戻る横断歩道。その、まんなかで。
 いやぁ〜な事を聞いた、とでも言うような。
 困り顔で、ザツはふりかえった。
「妙なトコするでぇね〜」
 ――おまえのことだからな、と、心の中では即答していると。
「しょーがないとはいえ、つくづく子どもはヤーだなぁ、と思ってたの」
 バツが悪そうに、首をふらふらと揺らしながら。
 ザツは、ブツクサ言っている。
 店外はすっかり、日も暮れていた。
 誰かの車のヘッドライトがすんなりしたザツの全身と、柔らかな茶ベースの髪と眼球を、照らしだしている。幻想的な風景。
 それを、目におさめながら。
「――? しょうがないだろ、おまえまだ子どもなんだから」
 アドバイスするような気持ちで、そう、述べる。と。
 ――丸めたアルミホイルを、虫歯で噛みしめた直後のような、いやぁ〜な顔を、ザツにされた。

「うん、最新の。……ええー。自作じゃないくせにィ〜。…………ほんとっ? 愛してまっすー!」
 家に帰るなり、今度はダイニングに『どすん』と、あぐらをかいて。
 携帯でザツは、なにやら手配を始めた。
「んじゃ、午後着で〜。ハイ」
 ほどなく話はついたようで。
 通話を切り上げ、携帯をポケットにしまっている、ザツに、
「……誰に電話してたんだ?」
 と、聞いてみる。
 ……愛嬌ふりまくのがデフォルトなザツのことだ、漏れ聞いた『愛してます』に、深い意味はないと思う、が。念のため。
 すると、あぐらをかいたままアゴを上げ、立っているこっちを仰いできたザツが、言うことには、
「『他人の車でも開けられる鍵』ゆずってくれたおっさん」
 だそうで。
 ……それは、つまりは、車上荒らしのノウハウと、必要器具をゆずってくれた相手――ということ、だ。
「どーゆー関係の知り合いなんだよ……」
 今、なにやらしていた頼み事も、わからないがなんとなく怪しげだったような気もするし。
 どうにも流しておけずに、つっこむと。
「……えっと」
 ザツは、ちょっと口ごもって。うつむいて、少し黙って。
 ……一転。
 顔を上げ、てへっ。と笑った。
 左腕までも、猿のようにくるっと輪にして、頭の上に手をのっけ、おどける。
「母さんの、元カレ」
「…………」
 本当に、ザツの世界構成は、おおざっぱだ。
 どんな関係になってしまえば、『気まずい相手』になるんだか。

 ◆

 翌日も、室内で、だが、ザツはせわしなくうろちょろしていた。
 昨日、ジーンズショップで買いこんだ、灰色のキャスケットをかぶり。
 ジーンズショップの後に寄らされた、大型メガネストアで仕入れた、黒いカラーコンタクトまではめて。
 鏡に向かい、帽子の角度をなおしながら、
「『根元の黒毛が見えないように、いつもこだわってかぶってる』って設定」
 ……とか、言っている。
 設定? と、訝しがっていると。
 ザツは、きょとん、とすら形容できそうな、幼げな瞳で自らを指さし、……謎な言葉を吐いた。
「『田所元気』に見える?」
 そんな、『ザツ変装ショー』の観客になっていると。
 ピンポーン、という、玄関からのチャイムに、呼び出された。
「アケル、出てー」
 にこりん、と小悪魔チックに。アザヤカに唇をつりあげて、ザツが笑う。
「着払いだから、お財布持ってねっ」
 ……こっちが踵をかえすなり、ちゃっかり、背中に向けて、追加でそう言ってくるが。
 反論の余地があるはずもない。
 おとなしく配達人に金を払い、速達でやってきた、その小包を受け取った。
 小さな小包だった。
 封筒と変わらないくらいのサイズ。厚みだけはかなりあるが。
 ザツにわたすと、
「ゲームソフト、送ってもらったの〜」
 と言う。
 ……ああ、昨日、トイザらスでソフトを買わなかったのは……通……販? で、たのむからだったのか、と、納得していると、
「あるてーどヤリコミ済みに見えるデータも、おまけっつか、本命で、つけてもらってるからさ、コレ」
 ザツは、エアキャップでしっかり梱包されていた中身を取り出し、かさかさ振りながら、解説してくれた。
 ……わざわざ、そこまで、したのか。
 でも、なんの為に?
 大林の息子がこのゲームをやっていたことに、関係は……あるんだろうが。

 それからずっと、晩メシ中と風呂以外、ザツはピコピコピコと、ゲームを片時も手放さずにいて。
 翌朝、起きた時もベッドにいなかった。
 ……キッチンへ向かおうとダイニングを通りかかると、そこに、猫っぽく背を丸めて、堕ちていて。
 ずいぶん熱中してたんだな、くらいに思いながら、朝メシ用の大根を、シュカシュカ千切りにおろしたり、鍋にぶちこんだり、していたのだが……。
「……徹夜?」
 ごはん茶碗をさしだしながら、目を丸くしてしまう。
「だって、やり方とかはシロウトだもん。それじゃまずいし」
 ほこほこ湯気をたてている白飯を受け取りながら、ザツが据わった目を向けてくる。
 知らなかったとはいえ、ザツが猛スピードでゲームを習得している間に、こっちは気づかずクースカ寝ていたわけだから、無理もないが。
「おかげさんでかなりポケモンマスターなわけ」
 米に箸をつけながら、恩着せがましく。
「おまえのためー」
 ザツが珍しく、チクチク責めてくる。
 なんのためにマスターにならなきゃいけないのか、よくわからないながらも。
「……ありがとう」
 ことさら心をこめて、食卓の上の、カラの木の椀に。
 ザツのぶんの、大根のみそ汁をよそった。

 がつがつがつ、と、威勢よくメシを食べ、ひととおり食い荒らした後、
「今日、また車つきで、大林テリトリーにのりこむからな」
 と、ザツが宣言した。
「今日も行くのか?」
 さっきから、腹が満ちてくるや、あくびをしたりうつむいてみたり、と、いかにも眠そうなザツを見ていたので。
 今日は行かないのだろうな、と漠然と思っていたから……聞き返した。
「もちろ〜」
 まだ貪欲に、おかずの一つのシーチキンに箸を伸ばしながら、ザツが答える。そして。
「まぁ、夕方からだけど」
 トロンとまぶたが落ちてきている目を、こすりながら。
 そう、追加で言った。

 その日の昼下がり、また車を借りに行って。
 大林のマンション近くの、四つ角で。ザツと共に、交通安全用のミラーを長時間、見張った。
 ミラーの中に、塾帰りの大林息子の姿が現れると、ザツは車を降り。夕焼けのなか、先回りをするように大林のマンションへ駆け出していった。
 そんなザツの後ろ姿を見送っても……まだ。
 その段階になってもまだ。
 ザツが何をやる気なのか、ちっとも理解できていないまま、だった。
 ――この事件の、当事者のくせに。

 ◆

 なにも載せられていないパイプ机の上に、コトリ、と、藍色でスケルトンな、ボイスレコーダーがひとつ、のせられる。
 桜色の爪を持つ指先が、再生ボタンを押しこみ。
 ピッ、と、かすかな電子音を。静まりかえった雰囲気のせいかいつもより無機質なこのガレージに、弾けさせる。
 ……始まる、再生。
 数秒は、ほぼ完全な空白が、流れているだけだったが。
 チーン、と、かすかな、何かのチャイム。そして、ガーっという物音。
 ……数日前、両腕にティッシュをかかえながら聞いた、あの音だった。大林のマンションのエレベーターが、階に到着し、扉がスライドする音。
「あのさ!」
 いきなりザツの声がした。
 エレベーターの中にいるらしい。そんな、声の反響のしかただった。
 大林息子がいつも利用するエレベーターに先に乗りこんで、一階に下りてきて、そして否応なく顔を合わせるシチュエーションを作り出したらしい。
「……はい?」
 とまどった、覇気のない声が、それに応える。
「ここのマンションの子だよね?」
「…………」
 ボイスレコーダーからは、沈黙が流れるだけ、だが。
 ザツの相手はうなずいたのだろう、会話が続いていく。
「おれ、今度302号に引っ越してくる予定なんだけど。……君、いくつ?」
 また沈黙。
 しかし、おそらく指を数本立てて、示したらしい。
「……あ、そーなんだ。ひょっとしたら、中学生かと思った」
 ――大幅に。
 大人っぽく見られて、悪い気はしなかったのだろう……『大林息子』は。
「中学生なの?」
 警戒心が明らかに薄れ、人なつっこくなった声音で、そうザツに問い返した。
「……あ、やってる?」
 そんな大林息子の目線が。
 ザツの全身を見、年齢を判断する際……同時に。ザツがベルトにつけていた、携帯ゲーム機の上で、あからさまに止まったらしい。
 その視線に気づいたザツが、ちょっと悪戯っぽい声でもって、そう尋ね、
「一戦、やる?」
 とても断れそうにない、楽しげで気安い、魅力ある調子で。
 そう誘いを続ける。
 ――かくて、大林息子……『港』は。
 マンション前の公園に、連れ出された。

 車の雑音などを経て。ざわざわ、と、木の葉を揺らす風音が、流れてくるようになる。公園に着いたらしい。
「……あ、マスターボールあまらしてる」
 かなり唐突に、またザツの声がした。
 相手が取り出したゲーム機をのぞきこんで、コメントを述べたらしい。
「いやっ? 取ってあるの!」
 予想していたよりはるかに大きな声量で、大林息子の声が入った。
 かなり双方の間に距離がない状態で、どこかへ腰を落ちつけたようだ。
「あまらしてるわけないじゃんッ!」
 ……泡を食って訂正している、大林息子の声は、どこかはしゃいだものだった。
 この短時間で。既に、非常に打ちとけたムードが流れているのが……わかる。
「伝説、捕まえる用?」
 ザツが、よくわからないあいづちをうった。
 多分、『マスターボール』はかなりのレアアイテムなのだろう。伝説をゲットしやすいボール……か、なにかだろうか。
「伝説なに持ってるー?……あジラーチ!」
 大林息子の方も、積極的にザツと会話をしている。
 今度は大林息子が、ザツのゲーム画面を覗いたらしい。そして、驚愕とまではいかないが……ショックを受けた声を上げた。
「ん? バトルによく出してたから、きまぐれになっちゃったけど……。いる?」
 返される、何気ないザツの声。
 ――たわいない遊びの中での、ちょっと嬉しい提案。……だからこそ。
 誘惑じみた響きに、聞こえた。
「え、交換っ?」
「うん」
 嬉しげな大林息子の反応に対し。気負いのない、ザツの返答。
 ……躊躇するような、大林息子の沈黙、の後。
「……おれ、持ってるの……。コ、レ、……とかだけど」
 大林息子が自信なさそうに言い、続いてピ、ピコ、と、操作音が響いた。
 差し出せるポケモンの一覧か何か、を、表示したのだろう。
「んじゃ、おっとりピカチューでっ」
 またもや、ザツがアッケラカンと。
 不服そうな様子も見せず、貰うポケモンを、決める。
「……いーの?」
 おそるおそる、な、言い方に。
 大林息子が、ザツを見る……期待でしめった目が。実際に迫ってくるようだった。
「うん、おれピカチュー、一番スキだし。やっぱ」
 愛想よく、ザツが請け負う。
 ……わからないなりに、かなりの破格な交換なのだろうと、うかがえるが。
 実情を知っているこっちとしては、底冷えがするような心持ちだ。その、珍しいらしい、『ジラーチ』というポケモンは、ズルをしてデータで手に入れたものなのだ。
 ――しかし、そんなことはお構いなしに、しばらく飛び交う電子音。そして。
「じゃ、始めよっか〜っ」
 底抜けに明るい、ザツの声が。
 本題の対戦ゲームを、幕開けた。

 かなりの長時間、戦う電子音と。
『えいっ!』だの、『あ、ナロゥ』だのの、それぞれの熱中の声が入る。
 試合と試合の間に「たどころげんき。田んぼに〜、所に〜、元気!」「名字は大林、でー。船の港のみなと」と自己紹介なんかもしあっていた。
 ……対戦を開始して、そろそろ一時間も経とうか、という時。
「目が痛い〜。休憩、入れていい?」
 年下相手とも思えぬ、いつもの調子の。ザツのねだるようなセリフが流れてきた。
「じじいー」
 大林息子が、そうザツをからかう。
 ……クスクスと笑っているのが、目に見えるような、友好的な声で。
「ほっとけ」
 ザツの、短い返事と共に。
 ガッチャン、という、なにかの金属音がした。
 ザツがブランコに飛び乗る音だったらしい。キィ、キィ、と、金具の軋みが、そこから、一定のリズムで流れてくるようになった。
「おれさぁ……」
 いきなり寂しげになった、ザツの声がした。
 なんだか澄み渡った声だった。澄んだまま空気に拡散していき、夜空に吸収されていくような。
「ぶっちゃけ、親が離婚して、じーちゃん達と同居はじめるから、ココ来んのね。……田所も、かーさんの名字だし」
 ……血が。
 さぁっと下がっていくような気持ちになった。
 ――卑怯だ、おもいっきり。
 そんな、んな、どこにも疑う余地のない……身近で悲しげな……。
 真っ赤な、嘘。
「……そ、なんだ〜」
 案の定。
 大林息子は、同情的に口ごもった。
「…………っ、……ぁ」
 そのまま、何か言いたげなのが、ここまで伝わってくるような。
 相手を思いやるがゆえの慎重な沈黙に、大林息子は入りこむ。
「お父さんさ、残業とかで帰ってこない日とか、多いー?」
 切ない話題にまぎれこませるように、ザツが。
 核心の、『大林の事』を聞いた。
「ん、イマない、みたい……?」
 軽く萎縮してるような、礼儀正しく退化してしまっている口調で、大林息子が回答する。
 だけど、素直に返事した後、『なんでそんな事きくんだろう?』という気はしたのかもしれない。その語尾だけは、不安定にはねていた。
「やー。結局、うちがだめになったのって、それが原因っぽいからさ〜」
 だが、その疑問は。すぐにザツによって解消されてしまう。
「まぁ、すっげー存在感ねぇ父親では、あったんだけど。……離婚、されっと」
 うなだれているのではないか、と、見えずとも想起させる。
 キィ、キィ、と奏でられるブランコの音と共鳴し、ますます悲しげな声。
 励ましたく、……なって、しまうで、あろう。
「前はパパも泊まるの、多かったんだ、けど。でもおれが三年に上がってから、なんか全然……。……あ、このあいだ夏休みに、帰ってこなかったって……ママが朝、一回怒ってたけど」
 大林息子も、そうだったようで。ペラペラとしゃべりだした。
「あー。心配して?」
 いかにも世間話、ってくらいの。
 あまり関心はなさそうな。――ない風をよそおった、ザツの相づち。
「うーうん」
 首を振りながら言ったらしい。
 いったん遠くなって、戻ってくる、大林息子の声。
 そして、恥ずかしそうに、続けた。
「浮気じゃないかって。……でも、そんなワケねーと、思うんだけど。だってぜんぜんモテそうじゃないもん、パパ」
 ――無条件なのに。
 親を信じられる、純粋な子どもらしさが垣間見える、その答えに。
 ……喉仏の下あたりに、つい。圧迫感を覚えた。
「それ、土日だった?」
 しかし、そこでズバッ! っと、放たれる。
 事情を知っている者にとっては、心臓に稲妻の電気ショックを与えられたように感じる――ザツの核心への斬り込み。
「――?……あ、金曜の晩、だった、かも。夏期講習じゃなくって、普段の午前の塾に行くところ、だったから……」
 いきなり具体的な曜日を聞かれて、不思議そうに。
 それでもスラスラ、大林息子が答える。
「うちさ、土日も出張ばっかだったからさ……。家族でおでかけ、とか、経験ないわけ、ね」
 と、すかさず煙に巻きにかかっている、ザツの返事。
「せめてそん位あったら、まだ大丈夫だったかもしんない、とか……思ったりしてー?」
 ……それからしばし、また、お互いを気づかうように漂う、静寂。
 やがて。『フヘヘ』という。
 ザツの、かすかな、てれ笑いが流れて。
 キィ、と、またブランコの金具が動く音。
 それを追った、カッチャン! と鎖のしなる音。ザツが立ち上がったらしい、音。
「おれ、もう帰るわ。でも、もう一戦、やってからにする?」
「……うん!」

 ピッ! という唐突な停止ボタンの作動音が、ボイスレコーダーからの、音声を止めた。
「こっからわかる解答は」
 ――血の気が失せた、と、自覚のある顔を。
 のろ、のろり、と上げていった。
 そこには。
 パイプ机に腰をかけ、片手に持った二十五円ボールペンの、ペン先を。ピ、ピッ、と弄ぶように振りながら。
「おそらく、アケルがハメられた、九月の金曜の深夜、大林の行動がやっぱフリーだったこと。プラスすることの、目撃者がないだろう深夜近くに女のアパートに入っただろうことと、アケルへの脅迫電話が深夜遅くで、アケルのアパート到着は早朝だったこと。で、発見時の女の様子は、ぐんにゃりしてて、死後硬直ほぼナシの死んだばっかな感じだったこと。イコールは、犯行時刻、午前一時前後。……ここまで、おっけ?」
 事務的な顔でそう述べる、『田所元気』の姿があった。

「物証がナイんだから、引き出せる情報はこん位が限度かなぁ〜と思うわけ。で、こっからは、力技で押すしかないっかな〜みたいな」
 ザツが、いたってライトな言い回しでそう言えば、
「こんだけでぇ?」
 またむちゃくちゃな……とばかりに、半月状に、ぽっかり口をあけて。チトセがあきれる。
「だってしょーがねェのよ。妻つついても、なんにもならなそーだし」
 そう言いながら。ザツは一人、悩める探偵のように、腕組みをし。
「で、力技っつーと……。この場合は『人数』っしょ」
 と述べて、
「でも、あんま沢山の人に情報拡散させっのもヤバイし、メンバーだけでカタ、つけたいとこだな……」
 そうしてザツは、しばらく、ムー、と。
『考慮中』をあらわすように、唇を、ひよこみたく尖らして……いたが。
 やがて、ツカツカと、ある木箱に近づいていった。
 そしてそこに載っていた、ネズミ色の家電話の受話器を、カチャリと取る。
「ケスケ今、結び中で必死だし、来れねーかもよ?」
 パイプイスに座ったままのチトセから、そう、ザツへ注意が飛んだ。
 右耳に受話器を当てて、右肩をすくめて挟み、そうやって受話器を固定していたザツは、
「ん〜そだな……」
 そう、チトセの意見を認めながらも。
 ソラで暗記しているらしい、……おそらくはバンドメンバーの誰かの電話番号を。ピッポッパと押していく。
「…………」
 あいかわらず一脚しかないという、深刻なイス不足のなか。壁に、よっかかったまま。
 ――いまだに、さっき再生された、録音内容に縛られ。
 ザツの『なんでこんな男と』発言の際、チトセが、ザツが『下側』だと思わなかった、その理由の一端を見た気がして。
 ……動けないでいた、の、だが、
「……『結び中』?」
 やっと、金縛り状態にあった体を。
 首だけだが、チトセへ向け……問いかける視線を送ると。
 チトセの返答は、明朗で。
「ヒモは結ぶだろ?」
「…………」
 女に、とりいり中、ってことか。
 黒い気分で、納得していると、
「こら、チトセ、そりゃ禁句」
 とザツから、ピシリと、チトセへ叱りの鞭が入れられた。
「へい」
 チトセは両肩を、申し訳なさそうに、縮める。
「『才能ある貧乏あーちすとに、寝場所と、最低限のカロリーを提供してくれる、めがみ探し』……って、普段からクセつけとかねぇと。また、傷害事件クラスに暴れんだから、アイツ」
 長々とそう言いながら……ザツの、視線が。
 すばやく、ちらっ。と。
 確認するように、こっちに、走った。
 避けるヒマもなかった。
「――」
 刹那、咎めるように。
 ザツの、暖色の目の表面が、スゥっと冷たく。
 硬質に光った。
「……あ、ユッタ? 明日、ちょっと、出てきてくんねぇ?」
 電話の相手が、出たらしい。
 ――それに応じて、ザツの口は……対応を始めたのに。
 ザツの視線は、こちらに向いたままで。
 ……睨む、という目の表情ではないのだけれど。
 けど、放っている雰囲気はあきらかに――そうで。
 背筋に、冷や汗が流れた。
 選り好みしてるような事態ではないのに。『ヒモ』をやっている人物に助けてもらうことに、不快さがあった。
 態度にも、そんな表情があらわれたような、自覚があった。
 それを見抜かれたような気がして――ひたすらに後ろめたい。
「うん、うん……。……わるい、チトセ、説明たのめる?」
 そして、見抜かれた? という懸念を裏付けるように。
 ザツが『うん』をやたら繰り返してから、受話器を離し、チトセに押しつけた。
「――? いっけど、なんで? おまえ、した方がよくない?」
 座ったまま、下の位置から、ハーイ、とばかりに両手をのばしながら。
 それでも不思議そうに、チトセが尋ねている。
「うん、ちょっと」
 いかにもおざなりに、そう急ぎ答えてから。
 電話を手放した、ザツは。
 カツカツとばかりに、早足でこちらに歩んできた。
「…………」
 逃げられず、鳶色の髪すらなびかせて、ズンズンと肉薄してくる様を、見つめてしまう。
 息がかかるほどの間隔に、来た、ザツに。
 ひったくるように、左腕を取られた。
「ッ?」
 ――セクシャルに、自然体で丸めていた人差し指や中指を、ザツの右手指でなぞるように撫で上げられて。
 ぎょっ、と、目を剥いてしまった。
 ……ザツは、普段から、人前でもスキンシップは激しいが。
 こういう、あからさまに、人に見られて『怪しい』と思われるような仕草は――してきたことがないのに。
「アケル」
 うつむいたままでつむぎだされる、低い、かすれた囁き。
 不機嫌そうにも、睦言みたいにも聞こえ。
 ……全然、判別がつかずに。
「おれ、おまえ大事」
「…………」
 夢中になって。身を寄せてきたザツの、頭頂部を、目をこらして見てしまう。
 まんなかにある頭の分けめ、そんなもんを見ていても、何も読み取れはしないというのに。
「でも、あいつも大事にしてる」
 ふわ、と。
 見入っているザツの頭が少し動き、揺れた髪から、空気がやってくる。
 ほぼ無臭の、だけどいい匂い。いつもの、匂い。
「……おまえの地雷ポイントは知ってっけど」
 すくいあげてきた、ザツの瞳。
「誰だって唯一の人生通ってきて、一番イイと思うやり方で行ってんの」
 もどかしそうに、早口でそう言い切り。
「地雷だけで好き嫌いふりわけてっと、最後には気に食わねぇヤツと敵しか残んねぇぞ」
 更に一息で、……つけ足した。
 まつげにくすぐられそうなほど間近にある。いらだちを湛えて光る黒目。少しキツくなった目尻。
「…………」
 完全に、気迫に呑まれたまま。
 こくり、と、あごを……引いた。
 ……すると。
「んっ」
 一転して、明るい声を出して。
『ニコーッ』と、暑いほどな晴天の日の……太陽じみた、笑みを、浮かべ。
 ぶつかってくるように、視界いっぱいに、その顔を寄せてきた。
 ぺろり、と、唇に。心地よく……舌で、舐め上げるキスをされた。
 それで区切りはついたらしい。ザツは、身を翻して、スタスタと元の位置へもどってゆく。
 そんなザツに、チラリと視線をやって。電話相手としゃべったまま、チトセが、うなずいて見せた。『話つうじた』という、合図だろう。
 ザツは足を止めるなり、チトセの耳から、さっと電話を貰い、
「……あ、だいたいわかった? んじゃ、つきあいでわりぃけど、頼める?……んとな、ターゲットにあわせて、日曜の午前から……」
 ハキハキと、段取りをつけていっている。ザツの体から、目を逸らせないまま。
 はぁ……。と。
 潜めるように細く、息を吐いた。
 のろのろと、口を覆う。
 ドン。と。
 重く、壁に背を、預け直す。
 ――幼いと、年下だと、かわいいと思ってる。
「…………」
 ふぅ……、と。また、息を出すと。
 口元をまるごと覆っている掌から、跳ねかえってくる熱。不自然に、熱い息が出ているから。不自然に熱が、掌にこもっていく。
 緊迫の余韻で、上昇した体熱に、応じた息の温度。
 それだけ、びびらされたのだ。
 ――目にしている、似たような年恰好、双子のように仲のいい、ザツとチトセ、二人の姿が。
 今の余韻で、目に、ごく少量だが浮かぶ涙で、にじんでいるような気すらする。
『トラブルの張本人』なんだから、こんな所で静観していていいわけがない。
 ……が、呼ばれるまで、行きたくない。
 ――――近寄りがたい。
 無意識に、一人。
 ボソリ、と、呟いていた。
「……読めねー」

 ◆

 ――そして、ザツが何やら画策を、その日に向けて組んでいた。
 日曜、当日になった。
 ……たまり場のガレージに、すっかり定番となった白い国産レンタル車を、ごっとり、と入れると。
 シャッターを上げるために先に降りていたザツが。
 ガレージの真ん中、既にメンバーに囲まれて談笑しているのが、フロントガラス越しに目に映った。
「…………」
 停車して、車を降りる。
 そして、その位置から、輪に近づこうとはせずに、しばし観察した。
 ……二人、見知らぬ大人の男が、増えている。
 二人ともジーンズに、それぞれスタジャン、スウェット、と、カジュアルな格好だ。
 一人は、茶髪のロン毛。
 わりと目鼻立ちのくっきりした、ハンサムな顔立ちで。
 へらへらと笑っているが、その笑顔がなかなか、陽性で、『やんちゃ』的な魅力がある。
 そして、首に指に耳に鼻に、おまけに口に、と、シルバーアクセが義務みたいに、それぞれ一つずつ、じゃらりんとくっついている。
 ……あれが『ケスケ』かな、と。
 先日、あれだけザツに睨みをきかされたクセに、しょーこりもなく思い、見ていると。
「で、キミがアケル?」
 ぽん、と、肩を叩かれた。
 ……いつのまにか、もう一方の男、が、横に立っていた。
 いたって平凡な、一般的『男性』の髪型。
 ストレートの髪は、黒毛のまま、カラーリングもなし。
 こちらの顔は、ハンサムとかではないが……なんだか、いかにも温厚そうな感じだ。雰囲気も、同様のものを醸し出している。
 眉毛が太くて、目つきが柔和で。
 なんとなく、秋田犬を連想させるような人物だった。
 背は……こっちより低いが、年齢は、笑い皺などから察するに、上らしかった。二十代……後半くらいだろうか。
 コク、とうなずいて見せると、
「大変だったみたいだな〜」
 と、普通に、優しげな言葉をかけられた。
「……ええ、すみません。迷惑、かけて」
 無関係の、しかも初対面の人間を巻き込むわけだから。
 礼儀をもって、丁寧に、そう返すと。
「いやぁ、ザツのお呼びだし〜」
 イヤミなく笑いながら、男はわずかに胸を反らした。
 そして、またザツの方へと、戻っていく。
 ……入れ替わりのように、輪の中から、チトセが抜け出てきた。
 少し疲れたような様子で、がったん、と。
 ちょうどこっちの真横あたりにある、パイプ椅子に、けたたましく座りこんだ。
 それを、ちら、と、横目で見てから。
「……『ユッタ』に励まされた」
 ぽつん、と。ひとりごとのような感覚で、言い出してみた。
 ――と、パイプ机の上にあった、なにかの印刷物を取り上げて読んでいたチトセは、『はぁ?』という視線を上げてきて。
「……あ、あっちが『ケスケ』だと思ってるっしょ」
 と言ってきた。
 え、と思い、チトセの顔を見おろすと。
「あっちは『ユッタ』。ケスケは今、しゃべってた方だよ〜ん」
 そう説明され、見た目でだまされるタイプ〜、とゲラゲラ笑い飛ばされる。
 ……まぁ、言われたとおり、見た目でヒモと判断をしたわけで……仕方ないが。
 しかし。
「そんな風には、見えないけどな……」
 いかにもホストやヒモ風なのは、『ユッタ』の方で。
『ケスケ』は、まじめそう、実直、という単語が、すごくハマるような感じだ。なのに。
「べつに、向いてるから、で、ヒモやってるわけじゃないから、ケスケ」
 以前の状態から、机の上に転がされっぱなしだった、二十五円ボールペンを手に取りつつ。細長い頭をゆらしながら、チトセが返してきた。
「心臓病あってね〜。あんま滅茶苦茶なバイトとか、できねぇから。……スポンサー必須」
 ……さして温度のない、言い方ながら。
 見えない表情と……不必要なほど抑揚のないトーンに。
 仲間に対する心づかいが、嗅ぎとれて。
「…………」
 ザツの、『誰だって唯一の人生通ってきて、一番イイと思うやり方で行ってんの』という言いまわしが、蘇っていた。
 ――事情、がない人間、なんていないわけで。
 心臓病だからイコール……許されるってことには……繋がらない、んだろうが。
 なんだか、抵抗がスコンと、だいぶ抜けてしまった。
 ガレージ中央の、『ケスケ』に、あらためて視線を向けてみるが。
 さっきまで、『ケスケと思い込んでいたユッタ』を見ると少なからずわいていた、『こいつが……』という、憎々しいに近い気分が。
 今は『心臓病なのか〜』という感慨に、かなりすり替えられている。
 我ながら、酷く……単純なもんだが。
 しっかし。
「随分、メンバー仲、いいんだな」
 ささやかな嫉妬もにじませ、素直にそう呟くと。
 チトセが、怪訝そうな視線を上げてきた。
「……こないだ」
 と前置きして、
「ヒモって人種が嫌いでも、助けてもらうんだから、ちゃんと感謝しろって……。ザツにチビらされた」
 嘆息まじりに、チトセに報告する。
「……ん〜」
 するとなぜか、チトセは。
 ボールペンの背で、こめかみを。コリコリと、かきだした。
「ま、いっか」
 そして、意味不明にそう言い。
「ケスケね」
 スッ、と、人差し指をのばした左手を、持ち上げて。
 かの黒髪の男を、さし示す。
「おれとザツに……会ったの、おれらが中学に入ったばっかの、あたりだったんだけどさ……」
 ひょい、と、首を傾けて。
「そん時、三十二歳だったの」
 そう続ける。
「へぇ」
 ……二十代後半かと思っていた。
 若く見えるな。
 ……いや、そーじゃなくて……。
『ずっと年上』と、以前、ザツが説明していたが、確かにそうだ。
 余裕で一回り以上。親子ほどに、離れている。
 それはけっこうすごい事だろう。
「とーぜん、音楽つながりで知り合ったんだけどさ。……まぁ、おれら、その、仲間内? みたいなトコじゃ、周りからはモー、その頃、ぜんっぜんガキ扱いだったんだー」
 うんざりした、憂鬱そうなため息を吐き出しながら、チトセはつらつら語る。
 ……多分、今でもそういう扱いを受けることがあるのだろう。
「まぁ、中学生つったらさ、今よりもっと……ほんとーにガキだったし、外見も。だから、しょうがないんだろーけど。でもね、だから……惚れこんで、メンバーにって、ケスケをくどきにかかる時も」
 黒と透明で構成されるボールペンを、今度は、右の親指と人差し指と中指の、三本で。
 チアガールが回すバトンのように、せわしなくくるくるやり始めながら、続ける。
「年齢でバカにされて、一蹴される恐れは、じゅーっぶんにあったんだけど」
 そこでいったん、ピタ、と、ボールペンを止めて。
「……でも、ザツって、明らかに『違う』からさ」
 ――いっそ、爽快なほどに、チトセの言葉は、飾語不足ながら。
 しかし、ニュアンスとしては伝わってきた。
「なんとか、ザツに懸けてくれる、みたいなことに……なった……んだよなぁ」
 再度、しかし今度はゆるやかなスピードで、ボールペンを回転させだしながら。
 チトセは考え考え、しゃべる。
「ザツが欲しがるくらいだから……。ケスケにも、他に道、あったんだけど」
 ……これまた、わりに深い言葉だ。
 つまり、他の誘いとかは、切り捨てて来てくれた、って事なんだろう。
「んで、ほぼ同時期に、ユッタも入ったんだ……けどさ。ユッタもかなり、年上だし〜」
 かなり遠くで、茶髪をきらめかせながら、ザツに向かって頷いている『ユッタ』を。眺めつつ、そう説明して。
「……だからそのあたりから……ザツ、…………ん〜なんて、言うか」
 かたむいていた首を、更にぐねぐねとひねりだしながら、チトセは、
「ワンマンの社長さん? みてぇに、なったの」
 と、わかりにくい表現を、した。
「おれのオヤジにも、愛嬌ふりまいて、ゴマすって、とびっきりな笑顔大盤ぶる舞いしてさ。……メンバーが、音楽機材あるココに『いりびたってオッケー』な心証に、こぎつけたし……」
 呆れたような、だけど、ちょっと憐れむような感じで、そう語って。更に付け足す。
「コネになるかもって、遠ざけてた父親にも、なつきに行くし」
 ――みぞおちに。
 ゴスッ、と手先で突かれたような、重みを感じて。
 たっぷり数秒間、完黙してしまった。
「……『高校デビューのついでに父子関係もデビューしようと思って』じゃなくて?」
「あ、そう言った?」
 茫然とした間から、呼吸を取り戻して、すぐに。そう問いかけると。
 チトセは苦笑……を、返してきた。
「おれと二人だけのときとか、なーんか五月病チックに、無言でいること多いなぁ、と思ってたら『そっぽ向いてて縁が切れて、後でメンバー丸ごと泣くよーなことがあったら、こだわりってやっぱ正しくないよなぁ』って。イキナシ」
 ザツが父親を許した本当の動機を、淡々とチトセは暴露する。
「だから、おれらの……。大黒柱〜って感じなんだけど」
 そして、手にしていた紙を、ぱさり机上に落としながら、
「ソレが、やられる側にとは……思わなかったなぁ」
 しみじみ、と。扱いが厄介な話題を、持ち出してくる。
「…………」
 蒸し返すか、それを……。
 と、今更だが動揺し、顔をしかめてしまいつつ。
「だってアイツ、見た目が中性的だし……。そんな、おかしか、ねーだろ」
 ボソボソ、とあらがうように反論すると。
「そりゃ知ってるよ。キレイなのは誰より知ってるよ。ボーカルとしての財産でもあるしぃ」
 ちょっとフザけた語尾で、チトセは同意してきた。
「それでもね。ザツにやらせろ、っつーなんて……。ん〜『命知らず』? よく無事だったもんだよ」
『よく無事だったもんだよ』って。
 そこまで危ない橋だったのか? と、心中複雑になりながら聞いていると。
 ボールペンの先に、キャップをし。
 そのキャップ部分を、トン、と、眉間に当てて。
 ……チトセは、ちいさな声で、歌い上げるように、言った。
「やっぱ、アケルって『兄かも』だし……甘えられんのかもなぁ」
 おれらと違ってね、と。
 補足される。
 ……その、意見を。
 ――異様に耳に心地よく、聞いて、いた。

 ◆

 さわさわと常緑樹を風が吹きぬける、気持ちのいい、少し日の陰ってきた昼下がり。
 白いポロシャツに、茶色のゆるいスウェットパンツの中年男性が、慌てたようにマンションから出てきた。
「休日に、お呼びだてしてスイマセ〜ン」
 男性……大林は、背後からかけられたその軽薄な声に。
 ビクッ、と、あからさまに背を揺らし、振り返る。
 ジーンズに、数色ペンキの飛沫がちらばった灰色Tシャツ、そして柔らかそうなブラックパーカーをはおった。
 帽子と黒カラコン装備で、『田所元気』化したザツが、そこには居て。
「で、お電話でも言ったとおり〜。『あそこのアパートの女性、行方不明なのですが、何か知りませんか』って、刑事さんがうちに聞き込みに来たんですよねっ」
 と、愛想笑いを浮かべる。
 ……『あの女の近所の住人』をよそおって、自宅にいる大林に、電話で呼び出しをかけたのだ。
 ザツはそこで、マンションを仰ぎ見て。
「いいマンションですね〜」
 と、コメントを述べる。
 そして、
「なんであんたの住所、知ってるかって言うとですね〜。あの女、イタかったっしょ? あんたと『死んでやる』とかもめてるとこ、前、見てましてー。……人の修羅場って、オモシロイじゃないですか〜ッ、そん時、遊びであんたのことつけてみたんで、タマタマ家、知ってたワケなんですよねっ」
 嫌な事を、平気でぺらぺらと言い、
「まさか、こーんなにお役立ちなことになるとは、思ってもみませんでしたけど〜」
 と、ほざく。
「…………」
 ……凝固したように動かず、目玉をぎょろつかせて。
 一言たりとも口を開かないまま、警戒心に満ち満ちて、大林は険しい目つきをしている。
 そんな大林に、ザツは。
 マンションを正面に見たまま、ぽつりと、
「警察では、今のトコロ、あなたを疑ってないみたいですよ」
 と切り出して。
「も一人、あの女ともめてる、若くて背ェ高い男、いたでしょ?」
 小首を愛らしくかしげて、
「『一箇月半ほど前、この辺で見ませんでしたか?』って、そいつの写真見せられましたから、アッチが疑われてるみたい」
 薄く、唇のはしを、もち上げながら、
「……おれ、見なかったって、言っといたんです。――けど」
 あきらかな含みがある言い方を……した、後に。
 ザワザワ、と、葉擦れのざわめきが、長く耳に届いてくるほどに。たっぷりとした間を、不穏に……置く。
「……バルカン1500クラシックツアラーなんて……」
 アメリカンバイクカテゴリの、一機種の名称――おれのバイクの名称だ、女の死体の運搬にも使った――を、いきなり口に出し。
 ザツは道路側に、体の正面を向け、アゴをすぃっと上げる。
「大型バイク、あの辺に転がして来るの……あの兄ちゃんだけなんですよねー」
 そして、妖怪のように、影をはらんで蠢く街路樹を、見上げ。話を重ねてゆく。
「あの日おれ、徹夜で飲んでて。んで明け方、うとうとしてきた時に、さすがの噛みつくみたいな爆音で起こされて」
 その朝の状況を描きだしながら、
「ああ、うるせぇけど、やっぱ大排気ならではのイイ音ォ〜、……って……。シビれさせられちゃってたんですよね……」
 ……バイクマニアで。
 以前から見かけ、興味を持っていたせいで、車体を見ずとも『ああ、あのバイクが来たんだな』と判断できていたことを、匂わせる。
 ――大林が。
 顔を伏せがちにしたまま、早口に、断定口調で言い出した。
「……つまり、君は、目撃はしなかったけども、犯人を確定できる証拠を聞」
「そーあんたにだけ美味しく、コトが運んでくれるわけもなくってね?」
 ザツはその断定を、鼻で笑って、中断させた。
 くるり、と、身軽に体を回転させて。大林と対峙する。
「その数時間前、零時くらいにぃ。あんた見ちゃったんですよね」
 ――生クリームで表面だけ白くデコレートされた、褐色のホールココアケーキ。そこに入れる、後戻りできない、一刀のナイフのように言い。
「酒、買ってきた、コンビニ帰りに。『あーまた不倫に来てるよ』って。笑って見送ったんですけど」
 そして、二歩。
 ザツは大林へと、距離を、縮めた。
「……ま、それ以上、何を目撃したわけでも、ないんですけどぉー」
 ザツは両目を静かに閉じて、
「でも、あの朝の、あのバイクの再発進音は……早すぎた。排気音また出るのワクワク待ってたんで、確かなんですよ。停車してたのは、トータルで十分間、無かった」
 瞳をひらいて。
「人一人、殺しちゃって……。さらに後始末もして、出てきたにしちゃ……なんかァ、あんまりにも、ねぇ?」
 大林を、濡れ光る、つぶらな瞳で見つめて。
 問いかけるように、囁いた。
「これって、けっこう重大な『証言』だよね?……おれは、あんたのこと、疑ってマセンけど?」
 機嫌をとるような事を言いながら。
 ザツは、大林をのぞきこむような角度に、首を折り。
「でもこういう色んな事、警察にバラしちゃったら、すっげあんたの身辺、うざくなるでしょ?」
 フレッシュピンクにつやめく唇に、わざとらしく、一本立てた人差し指を当てて、
「おカネで黙っててあげますからっ」
 ご機嫌に、微笑みかけた。
「なぜ……私が」
 こわばった声、吐き捨てるように。
 大林がシラを切る返答をする。
 馬鹿馬鹿しい、そんな金、出すいわれはない、と。
「…………」
 笑みを、ゆっくりと消し。
「……あばかれんのが、浮気だけならイイ、けどさ」
 ザツは、グッ、と。大林に吐息がかかるほどの至近距離に、顔面を近づけ。
「殺人なら、かなりヤバいよ?」
 打って変わった低音で、不遜に。そう、脅して。
 ――さぁっと素早く、何事もなかったように。その顔に、貼り付けたような笑みを復元した。
 そして、肩をすくめつつ、追い打ちする。
「あ、あんたに『アリバイ』でもあればさ? そりゃあ安心だなァ、とは思うんだけどー?」
 チシャ猫のように、瞳が、いやらしく細くたわむ。
 あるわけがないことを、知っているからこその態度。
「具体的な金額は、後日ってことでーっ。今日はこれで帰りますからっ」
 ……告げたい事項だけ告げ、あっさり身を翻して。
 ザツは大林に背を向け、だらだら、と。大股で数歩、歩き出す。
 ――そうして。
 背後の大林から噴き上がる、暗褐色の入道雲のような……殺意を。
 ヒシヒシと感じきった、タイミングで。
「あ、ちなみに」
 前ぶれなく、ふりかえった。
 体を大の字にするように、ぶぅんと両腕を伸ばし。手先をぱぁっと広げて。
「そんとき、買い出しへ一緒に行って、部屋でダベって夜明かししてたメンツ、こいつらですからっ」
 ……その言葉に招かれ、角からぞろぞろと出てくる、チトセ、ケスケ、ユッタ。
「……っ!」
 驚愕。
 そして、敵が多人数になったことによる……大林の殺意の、消滅。

 ◆

 ――そこで。
 ザツの演技っぷりを再現してくれていた、三人が。
 みんな揃って、口を濁すので。
『今回、大林のそばウロチョロするし、アケルはお留守番』と、置いていかれたせいで。
 その『物量作戦』から帰還後、おれにされていた、説明……は。
 一時、とぎれた。
「――?」
 ザツをのぞけば、この中では一番馴染みのあるチトセに。
 目線で、続きを、催促すると。
「大林……の子どもが」
 気まずそうに、チトセがやっと続ける。
 ちょうどメンバー三人が隠れていた曲がり角から、大林港が偶然、やって来たのだそうだ。そして、『ア、元気兄ちゃん!』『オオッ』となって。
「そんで、嬉しそーにかるく……ザツが息子に抱きついて……」
 チトセのあとを、ケスケが受けついで言った。
『うん、お父さんとちょっとお話してた〜っ』かわいがるように大林港の背を、手のひらで擦るほどの、親しげな抱擁をかました後。そう状況を説明して。
『今日はコイツラと遊ばなきゃいけないから、もう行くな?』大林港に、チトセ達三人を指でさして、友人だと最低限に紹介し。
『じゃあ、これからホント、よろしくお願いします〜。大林さん』と、大林には脅迫、大林息子には近所づきあい風な挨拶、として残して。
「息子には聞こえねー声量で」
 最後は、ユッタが担当した。
 去っていく時、すれ違いざま。言ったのだそうだ。
『……ね、港君の、お父さん?』
 ――――直訳。
『あんたの息子もう手なずけてんだよ、港にバラされたくなかったら、大人しく支払いな』
「…………」
 エグイものを味わわされた錯覚に。目を、シパシパ瞬きさせていると。
 暗転しては開ける景色のなか、ザツとつきあいの長い、三人が。一様に、げんなりと肩を落とし。
「悪魔……」
 全員で、ハモるように同じ、感想を洩らした。
 当のザツは、
「なんで〜? 最弱ポイントたまたま寄ってきたんだから、まぁ突いとかないといけないデショ」
 やっぱり、内面の腹黒さは滲み出ていない、天使な外ヅラで。ケラケラと笑っている。
 うわぁ、デビルめ……。
 と、自分のためにやってもらってることながら、ご同様に思った。
 大林が、おそらく一番、汚したくない。
 幼く愛しい、ウィークポイント……。我が子、を突きまくっている。
「……でも、アケルに罪、着せられちゃうんだしさ。えげつない手段でも、やれる事やらねーと」
 一同の気を取り直させるように。チトセが、説得まじりな結論を述べた。
「……まぁ」
 追随するように、ぽつ、とケスケが、朴訥そうなその顔だちを曇らせて、相槌をうった。
 最後にユッタが、感想を述べる。
「……でも、子どもを利用すんのは、心がちびっと痛むね〜」
 ――『子ども』。
「ッ?」
 そのキーワードに、稲妻に撃たれたように。ビリッとした刺激が、指先にまで走った。
 ザツがトイザらスのそばで言っていた、『しょーがないとはいえ、つくづく子どもはヤーだなぁ、と思ってたの』という言葉……。
「――ッ! ザツ!」
 脈絡のない絶叫に。
 皆、目をみひらいて見てくるが、そんなこと気にしている場合じゃない。
 まさしく自分のせい。
 自分を守ってくれようとする行為がために、ザツが傷ついていた事実に、ようやっと思い当たって。
 ――いまさらながら、汗を浮かべ、息を弾ませて。訴えかけるように、ザツに眼をぶつけると。
 ……チラ、と。
 うつむきがちになっていたザツが、そのまま。
 琥珀の目を、一瞬だけ、合わせてきて。
「アケル、さわがしい」
 冷たく牽制の言葉を投げてきた。
 そして、ぷい、と。そっけなく、顔を逸らされた。
 ――まだ、本当に少年なのだと訴えかけてくる。
 あごから頬、そして耳の根元へと続く、柔らかで丸いザツの横顔のラインが。
 それ以上の会話を、拒絶した。

 なんのモメ事だったのかは、その場にいるうちの二人にしかわからないものの。
 ザツからなすすべなく一方的につけられた決着から、一分後には。ほぼ元通りの空気が訪れた。
 ――そこで、チトセが。
「……ザツ、これ、さ……」
 どよ〜んとした、陰気をまとって。
「ヘタしたら、もいっぺん、コンタクト取る必要も、なく、さー」
 右の人差し指を、意味も意図もなく、ヘビのようにうねうねと宙空へ彷徨わせながら、ものすごく言いにくそうに、もたもたとしゃべる。
「うん」
 ザツは片方の肩をすくめるようなしぐさで、ことん、と、頭部を斜めにした。
 なぜか無表情に見える、うっすらとした笑顔。
「でもさ、決定打ないんだもん。自白しかないわけよ」
 ――それは、迷いのない顔だった。

 ◆

「……それで、警察とかも、まだ来ないわけ?」
 さらに二週間後。
「あぁ」
 ユッタとケスケはいないが、同じガレージで。
 初めてパイプイスに座りながら。
 自滅した大林について収集した情報を、ザツに報告し、意見交換をする。
「自殺で決定、でイケそう? ホント平気?」
 少し離れた、対面の木箱に腰かけたザツが、そう念を押してくる。
「大丈夫だと思う……。ニュースも新聞も週刊誌も、かたっぱしからチェックしたけど……。会社でまっ昼間、しかも……社員に目撃されないで行くのなんか不可能、みたいな奥の方で、死んだらしいから」
 もそもそと、それに回答した。
 ――外部者が入りこめない場所で。ひっそりと投身自殺で死んでくれたおかげで、『殺されたのでは』疑惑がもちあがることはなさそうなのだ。社内の者の目をかいくぐって外部の人間が入りこんで、突き落とした、なんて疑惑は無理があるし。
 そして、この自殺の原因はなんなんだ? というところに端を発して。
 めでたく、不倫の清算ミス、というところまで、すでにあっさり、マスコミその他に発覚してしまっていた。週刊誌に『まだ疑惑』とされながらも、書かれまくっている。
 ――これにて、多分。
 おれの悩みは完全解決、ということになりそうだった。
 ……ここは、もー。
 ザツへ思いっきり、全身全霊かけて素直に、ありがとう、と言わなければいけないとこ……なのだとわかっているのだが。
「……後味わりーな……」
 わかった上で。
 どうしようもなく……。呟いてしまっていた。
 蘇る、テレビからの声。
『週刊誌によると、不倫関係にあったとされる女性が行方不明になっており……』
 ――結局。
 まぁ、自業自得とはいえ。
 隠しておきたかった秘密を、息子にフルセットで知られてしまったわけだ。大林は。
 死、でも、守りとおせずに。
 ……同じ女に手を焼かされていただけに、なまじ他人事とも思えなくて。
 遠い目で、逝った大林に、共感するように哀愁を感じていると。
「自分が死ぬのとどっちがよかった?」
 ジーンズ履きの脚を大股に開いて座り、前かがみになって、両肘をその二本の脚の合間に揃えてついている姿勢で。
 両方の頬にほおづえしているザツに、にこ。と。
 容赦なく、見た目は天使そのものの、だが邪悪な笑みをむけられる。
「…………」
 ガキのような反応だ、と自覚しつつも。
 ぶすっとした顔になってしまう。
 ザツの言うとおり、陥れるか陥れられるかという状態だったし。
 こう言いつつも、ザツだって色んな罪悪感を持つことは――ついこの間、自分自身に煮えくり返るように腹が立つほど、知ったのだが。
 どうも……。こいつと同じ空気を吸っていると。
 やっぱ、もう若くないせいか? ついていけねぇぞ? なんて、ブルーなことを、たびたび思わせられてしまう。
 しかし、こんなとんでもない個性な奴だからこそ。なんとか助け出してもらえたわけで。
 ……ふぃ〜、と、臓腑の底から吐き出すような、溜め息をついてしまった。
 ほんとに、なんたる二箇月間だったのだろう。
 女に、耐え切れないほどつきまとわれて。
 遠くに逃げて縁を切る気でいた矢先、他殺ぶった、つらあて自殺をかまされて。
 マズイと思って死体遺棄したはいいけれど、疑われるような証拠が山と残ってんじゃん、と、ひたすら頭かかえる日々が続いて。
 ――それもこれも。
 落としていた視線を上げて、ザツを見やれば。
 何かの譜面を持ち出して、チトセと雑談をはじめていて。しかしすぐに、見解の相違でもあったのか、チトセの背後から襲いかかり、その首をきゅ〜と絞めている。
 ――あんな日々に、ザツが、来て。
 父親からの『捨てられた子』って烙印に引き続き、『人殺しの親戚』の烙印という……メイワク、を、これからかけるから、と。
 主要な理由はそこにあって、招き入れてやったはずの、弟と。
 じゃれあって。セックスしあって。……惚れあって。
 しまいには、刑務所行きをまぬがれた。
 ……ほんと。
『君は僕の救いの神だったんだ』とか……。
 一生讃え、あがめたてまつっても、よさそうな状況なんだが。
「……ザツ」
 まぁ。
 そんな寒い言葉で、伝える必要は、……ないよな。
 そう思いながら、脚の上で指を組み。
 ザツへと、口を開く。
「おまえ、いつ帰ってくんだ」
『大林おとしいれる段取り中に、付近の住人に、目撃されたかもしんないし』と。
 ――『鳶色の頭の少年』の目撃情報が、警察の情報網にひっかかり。
 万が一、もう一名の容疑者『成田暁流』の身辺にいる自分へと結びつけられたら、やっかいなことになりかねない、と。
 大林に会った日の晩から、ザツはチトセの家に泊まっていた。
 ……さすがにまだ早いだろうが。そろそろ、戻ってくるスケジュールを、立ててもいいんじゃなかろうか。
 そう思い。
 実は、まっさらで敬虔な気持ちで。
 このセリフを言い出した……にもかかわらず、
「なんか家出した妻、実家に迎えにきて、夫が言うセリフみてーだなー」
「しかも素直にあやまれない旦那タイプ」
 チトセにあいのりして、きゃいきゃいと。ザツはこっちをからかってくる。
「…………」
 すっかり慣れた、そんななごやかな喧騒を、BGMのようにしばらく聞いてから。
「……そーだとして、なんか不満かよ」
 プライドもへったくれもなく。率直に、認めた。
 するとザツは、白鳥のように長く首をのばして、びっくりとこちらを見た。
 黄朽葉色の黒目が、さらに丸い。豆鉄砲を食らったハトのように。
 ……やっぱ、唐突になかみも可愛い。
 こーやってストレートにぶつけられると、存外たやすく、純粋な面を露呈させたり。
 そんな、妙なポイントだけ……こっちの、ツボにくるよーなトコだけ。
 そう考えながら。
 あらためてまっすぐ、ザツを見つめて。
 ――片頬だけ引き上げて、にやり、得意げに。
 そそのかすように、笑ってやったのだった。