ズバン、バシッ、という、足先が相手の足首を打つ、足払いの音。
 シュシュシュ、という、足の裏が、畳を素早く這っていく音も、派手に耳に伝わってくる。
 武道場の床に、しきつめられた人工素材の畳。
 そのすべてで今、柔道の試合のまっさい中だ。
 悠は、壁に背を預け、ちょうど目の前でやっている試合を見つめていた。
 おおがらで、でっぷりとした同期の坂田が、異常なほどの大男で、がっしりと筋肉質な相手の腕に、身体を振り回されながら、なんとか倒されずに相手の動きについていっている。
 が、もう時間の問題だろうな、ということは、一見して伝わってくる。
 息をぜぇぜぇと熱く乱している坂田に反して、相手の兵頭は、あまり息も乱すことなく坂田に足払いをくらわせ続けている。
 もう何秒か似たようなシーンが続いたあと、坂田は、両腕を固定された状態で足元をすくわれる、支え釣りこみ足で、見事に、畳の上に倒された。
 審判役の、柔道着姿の警官が、片手を上げて、
「一本」
 とおもむろに宣言する。
 坂田がはっ、は、と荒い息をついて起き上がり、乱れた柔道着を直しながら、兵頭に礼をする。
 兵頭も同時に、少し会釈をする程度に礼をする。
 性格の違いが、見た目でもうわかるよな、と悠は思った。
 気のいい坂田は、ひとなつっこい色白なその顔に、荒い息ながら、スポーツの後らしい、さわやかな笑いを浮かべて礼をしている。
 比べて、兵頭はむっつりと、いかにもうっとうしそうな顔をしている。
 礼を済ませた坂田が、首を左右にひねり、こきこきと小気味よく骨の音を鳴らしながら、こちらに近づいてきた。
 兵頭はといえば、兵頭に雑談する相手などいないのだろう。水道のある廊下の方へ、兵頭のその背は歩いていった。
 角ばった、スポーツ刈りの兵頭の頭を眺めながら、あいかわらずやくざくせぇな、と悠が思っていると、ふいに横の、下の方から、声が響いてきた。
「すっげーすっげー。一本負けくらっちまった」
 明るい声の方に目を向けると、坂田がもう、自分の脇に座りこんでいた。
 首にかけたタオルで顔をぬぐいながら、
「そういや、おまえも兵頭さんとさっきやってたよな」
 坂田は血色のいい大きな唇に、にやにやと少しだけイヤミっぽい笑いを浮かべ、言ってきた。
「即、負けてたよな」
 秒殺だったよな〜、と、続けてからかってくる。
「……まーな」
 悠は答えながら、目の前で新しく始まった試合に、目線を戻した。
「まー、おまえは見た目、強そうでもないしな。なんつっても体重がねーもんな。でも俺はよー。もうちょっと勝っとかないと、情けねェよなあ、このデカさで……」
 ぶつぶつと言いながら、自分自身の百キロ近い身体を見おろしている坂田に、
「……負けといた方がいいぜ」
 と、悠は、ふいにつぶやいた。
「……は?」
「兵頭さんに勝っちまったら、ぜってぇやべェもん」
 坂田は、小さな丸い目をしばたたかせて、
「ナニ、それ」
 と聞いてくる。
「有効とか技ありとか取ったら、試合中に嫌がらせされんだもん。プライド傷つけられたのかなんなのか、知んねーけどさ」
 悠は淡々と、自分の体験を振り返りながらそう言った。
「……なんか、されたわけ?」
 少し声をひそめてそう聞いてきた坂田に、こくんとうなずいてみせる。
 坂田は感心したような調子で、
「へー。どんなん?」
 と無邪気に聞いてきた。
「どんなんって……」
 悠は答えながら。
 試合に顔を向けたまま、一年ほど前のことを思い出していた。

 ◆

 二十一歳の去年の二月、警察学校を卒業した。
 最初の勤務地は、県で一番の繁華街の交番だった。
 そこに勤めるようになってすぐに、新人の教育係にあたっていた先輩から、学生時代のクラブ活動のようなものが、柔道であるんだけど、やらないかと誘われた。
 毎年ある県警柔道大会での上位入賞のため……それともちろん、職務に役立つ実力を身につけるためのものであるらしい。
 勉強会のノリのそれは、今でも所轄の警察官がかなりの割合で在籍しているものらしい。
 署の武道場を借り、自主参加で行われているというその部活は、多少、腕に自信があって、力を持てあましている自分や、他の若い警官にはぴったりだった。
 そういうわけで、悠は勧められるまま、この部活動に入ったのだった。
 そうして。
 入ってから最初の練習試合の相手が、運悪くも兵頭だった。
 兵頭は同じ交番に勤務している、三年年上の同僚でもあったが、なにしろ入りたてだったから、悠は、兵頭に関する周りの評価は、何も知らなかったのだ。
 誰ともまともに親しく会話しないとか、上司から注意を受けるほど暴力的な言動が多いとか、どこでも全員にほとんど無視されている男であるとか、そういうことを全然、まだ知らなかった。
 畳の上で対峙した瞬間に、眼つきのするどい、やくざか殺し屋みたいなこの男に、体格でも、力でもかないそうにないことは、既に歴然とわかった。
 組んだ瞬間に、それは確信になった。
 上から強い力でふりまわされる。まともに立っていられなかった。
 このまま負けるだけ、というのもくやしいので、悠はいちかばちかで、一本背負いをしかけたのだった。
 これがたまたま、かなり綺麗に決まって、どすん、とにぶい音をたてて兵頭は、横倒しに畳の上に落ちた。
 審判役の警官は、技あり、と判定した。
 お、やったね、と内心思いながら、悠が寝技に移行しようとしたが、なんなく、形勢を逆転された。
 一瞬前までは相手に上からのしかかっていたはずなのに、いきなりくるりと視界が九十度ほど回転したのだ。
 あまりにあざやかに形勢逆転されたので、悠は一瞬後にやっと、上体を引き起こされそのまま首をかためられているのだと、悟った。すごい息苦しさだった。
 はずそうともがいたが、後ろの相手はびくともしない。
 さっきまではそれほどではなかった相手の殺気が、ビリビリとしたゆるがないものに変わっていて、相手の腹と密着した部分、悠の背中、に、ひしひしと伝わってきていた。
 こりゃあもうダメだ。と。
 悠はすぐにあきらめ、まいった、をしようと、床に手を伸ばした。
 ギブアップの意思表示は、どこでもいい、どこかを二回叩くことだ。
 膝立ちの体勢で、後ろから持ち上げられながら固められているせいで、なかなか手は床に届かなかった。
 練習試合とは思えないほど、全く手加減なしの強い喉への絞めつけに、悠の意識はかなり早急にもうろうとしてきていた。
 悠はあわてて、指先を必死に伸ばし、ばしばし、と畳を叩いた。
 が、審判役の警官から、一本、それまで、の声がかからない。
 変だな、と思った。
 もう一度、二回叩いて意思表示しようとした。
 その瞬間、ずる、と畳を擦って、かかえた自分の身体ごと、相手が身をひねった。
 なんだろう、と苦しい息の下から悠は思った。思いながら、畳を叩く。
 また、審判からの反応はない。
 おかしい、と、いよいよ詰まってきた息で、悠は考えた。もう一度床を叩く。
 瞬間、また、ずる、と、兵頭に身体をひねられた。
 ……ひょっとして。
 邪魔されてる。
 圧迫感の下から。悠はそう悟った。
 自分と相手には、たっぷりひとまわりの体格差がある。
 今の審判の立ち位置からして、相手の大きな身体に後ろから抱きすくめられた自分の身体は、審判からほぼ死角になっている。
 それだけでも審判からは合図が見えにくいのに、更に相手はこちらの動きを察知して、叩く瞬間、広い自分の肩幅を使って、その場所を審判から隠しているようなのだ。
 ばったばたと、悠は激しくもがき始めた。こうなったらなりふりかまっていられない。
 それでも審判の声はかからない。
 悠は手当たりしだいに、相手の身体のあちこちを、必死で二回ずつ叩いた。
 音で感知してくれないか、と思ったのだ。
 が、今、考えれば。
 その時も、すぐそばで、もう一つの試合がおこなわれていた。音など、混じってしまって審判に聞こえやしなかったのだ。
 ましてや、審判も若い警官だった。柔道をかじっただけの、プロの審判でもないその警官に、そんな心づかいを求めても、無駄だったのだ。
 それでも、殺されそうな勢いで首を絞められていたあの瞬間、そんな風に達観できるわけがない。
 なんとか。なんとか。
 悠はそうやって、じたばたし続けた。
 そうしているうちに。
 悠はぶざまに、意識を失った。
 ……完全に落とされたことなど、あれが初めてだった。

 ◆

「……ふーん、んなことあったのかよ」
 坂田が非常にのんきに、あいづちを打つ。
 悠はあいかわらず、目線だけは試合に向けたまま、うん、とうなずいた。
「じゃあ、そのせいか。おまえが兵頭さん怖がってんの」
 気やすい口調で。
 当然のように、坂田がそう断言してきた。
 一瞬、悠の頭は真っ白になる。
「……は?」
 言いながら、かたわらの坂田を見おろすと、そうじゃん、という目を、坂田が上げてきた。
 悠は少しうろたえながら、
「怖がっては、ねーよ……」
 と弁解するように弱く言った。
「そうかねぇ」
 坂田が見透かしたように、のんびりと返してくる。
「……そーだよ……」
 そう返事して、悠は目を伏せた。
 ……怖がっている、わけではないと思う。
 ただ。あれ以来。
 ヤバイ奴だ。そう、思うようになって、警戒するようになったのだ。
 ……あたりまえだと思う。

 ◆

 初めて入る、署の応接室に、悠は困惑していた。
 練習が終わって、坂田と連れだってロッカールームへと廊下を歩いていたら、
「白石、ちょっと」
 と後ろから突然、同じ交番勤務で、直属の上司の、大川巡査部長に呼ばれたのだ。
 ……この署の、こんなとこ呼ばれたの、初めてだ……。
 思わず落ち着きなく、悠は柔道着のままキョロキョロと、応接室のぶなんな絵がらの絵画や、飾られた造花を見ていた。
 だいたい。
 部長は柔道部に所属してはいない。用があってたまたま署まで来ていたのだと、さっき言っていたが、用とはいったいなんだろう。
 ……俺。
 なんか、怒られるようなことしたっけ……。
 不安な悠の目の前で、悠が座っているのと同じ、黒いビニールレザー製のソファーに腰かけながら、制服姿の部長は、
「せっかくの非番に、熱心だなァ」
 と悠に、温厚そうな皺を顔に刻んで、笑いかけてくる。
「いえ……」
 強制的ではない、自由意志にまかせた部活動のはずなのに、『逮捕術の訓練にふさわしい柔道を好んでやる態度は、警察官として模範的だ』ということで、上の人には、よくこうやって誉められる。
 確かに、まじめな警官やってるなァ、と悠は自分で思う時もあったが、だからといって部活やめても、実はヒマなだけだった。
 中学時代からやっていた柔道以外の趣味は、テレビゲームと、かじったサッカーくらいで、どっちも柔道ほどには好きじゃなかった。
 女にも、あまり興味はなかった。
 外見がジャニーズ系にけっこういいせいで、子どもの頃からわりと、女に人気があった。
 だからというか、中学時代にはもう、だいたい女とできることはやりつくしてしまって、正直その方面にはあきている。
 部長は、なぜかそわそわと手を組み合わせながら、
「いや、たいした話じゃないんだがな」
 と言い。
 そうしていきなり言葉を切って、
「……茶でも飲むか」
 と、おもむろに立ち上がった。
「あ、やります」
 あわてて後を追い、悠が立つと、
「いや、座っててくれ」
 と、五十過ぎらしく、少し丸まった背中を見せたまま、部長はこちらを制してきた。
 応接室の奥にある、小さな給湯室に、そのまま部長は入っていく。
 そうして、給湯室の戸を開けたまま、ごそごそと茶の準備を始めた。
 なんだか話を切り出しにくそうにしている部長のようすを察知して、悠はますます首をひねった。
 一体、何の話なのだろう。
 給湯室から、部長のしわがれた声が、かなりのんびりとした調子で響いてくる。
「それでな」
 もう、話は始められるらしい。
「はい」
「……二箇月前の、覚せい剤の売人捕まえた事件、覚えてるか」
「あ、はい」
 言われてすぐに、その事件のことは思い出せた。
 忘れるわけがない。
 警察官になってからこっち、自分が関わった中で、一番大きな事件だった。
 九月の末だった。
 かなり大きな、イラン系の覚せい剤の密輸ルートが摘発され、日本人を含んだ売人が二十人ほど逮捕された。
 今年この県で起きた事件の中で、もっとも華々しかった事件だ。
 といっても、末端の交番にはあまり出番がなかった。
 手が足りないから一人逮捕に行ってくれと、ある日、上から交番に、出動要請が出ただけだ。
 それに応じてあの時、交番のそばの、売人の一人の家に、逮捕に行ったのは、自分だった。
「あの時にな」
 給湯室の奥で、白髪がたくさん混じった部長の頭が揺れている。
「……兵頭と一緒に、出動しただろ」
「あ、はい……」
 部長の頭を見やり、答えながら悠は、数箇月前、まだ蒸し暑かった、あの日のことを思い出す。
 ……そうだ、あの時は、確かに。
 兵頭と一緒に、パトカーに乗って、交番を出た。
 部長が白いまるい盆にのせて、白い湯呑みを二つ、運んできた。
 コト、コトン、と、悠の前の応接机に置く。
 そうして、部長は悠の向かいに座り、指を組み合わせて。
 悠に真剣な瞳を向けてきた。
「……なにか、不審な行動取らなかったか」
「え」
 悠はまばたきをして、意味を理解し、すぐに聞き返した。
「……兵頭さんがですか?」
 部長は、うなずくような、頭を振るような曖昧な動作で、顔を伏せた。
「いや、なんか問題が起こってるってわけじゃないんだが……」
 言葉を濁しながら、部長は続ける。
「長時間、おまえと離れて行動してたか、とか、そういうことなんだが……」
 悠は混乱しながら部長の言葉を聞いていた。
 なんだ?
 兵頭が疑われている?
「……トイレ」
 悠はひたいに片手をあてながら、
「には、そういえば、一回、行って、……らしたような」
 と、途切れがちに、答えた。
「覚えがありますけど……?」
 そう言い終えると、部長は間髪をいれず、
「何分くらいだった?」
 と突然するどく、突っこんでくる。
「……え、いや、たいして長くなかったと思いますけど……」
 部長の勢いに押され、悠はこめかみを掻きながら、ごにょごにょと続けた。
 そうして、何秒か熟考した後、
「五分以上、……」
 と具体的な数字を出した。
「……は、かかってたと思います」
 部長は警官らしい、少しけわしい目つきでこちらを見るまま、うなずいている。
「……でも、別に」
 悠は手をおろし、言い添えた。
「特に長くは、感じませんでしたが」
 そうして悠は、正面から部長の目をじっと見た。
 部長の目には、どことなく老獪さがあった。
 そして怖いほどまっすぐに、こちらを見返してくる。
 その目は、何かこちらを疑っている表情を浮かべているようにも見えたので、悠は少しおどおどと、
「自分は……」
 と、なんとなく、弁解するような言葉を発した。
 しかしそう口を開いた瞬間、部長はうつむいてため息を吐き、
「そうか、わかった」
 と、さばさばとした口調で言った。
 そうして部長は、自分の湯呑みを手のひらにつつみ、ぐび、と一口あおった。
 悠もなんとはなしにつられて、自分の分の湯呑みに、ゆっくりと手を伸ばす。
 しかしそれを手に取ったものの、まだ緊張を残した空気に、なんとなく飲めずにいた。
 部長はさらに、もう一口あおる。
 そうして、指先でトントン、とつつんだ湯呑みの表面を叩きながら、最後につぶやいた。
「……何か、もし思い出したら、報せてくれるか」

 ◆

 着替えるために、ロッカールームに向かって廊下を歩きながら。
 悠は、あの日のことを振り返っていた。
 あれは、真夜中すぎだった。
 出動要請が交番に入ってきたのが、だいたい二時過ぎで。
 多分、大川部長本人だったと思う。
「兵頭と白石、行ってくれ」
 と、詰めている警官の中から、自分達二人が選び出されたのだ。
 選ばれた理由は、なんとなくその場の全員が把握していた。
 一番目と二番目に、柔道が使えるから。
 ……そう、そして。
 パトカーに乗って、十分ほど離れた、犯人のマンションへ急行した。
 サイレンを鳴らさずに、穏便にマンションの前に車をつけて、三階のその部屋の玄関ブザーを、激しく鳴らした。
 ドアを開けたのは女で……逮捕するよう指示された犯人は男だったから、犯人の女だな、とすぐにわかった。
 そのまま、有無を言わせずずかずかと中に押し入っていくと、痩せた犯人の男が、逃げようかおとなしく捕まろうか迷っているように、ベランダで目をぎょろつかせていた。
 ためらいなく兵頭が、ベランダに出て、犯人をむんずと手で捕まえ、部屋の中に引きずってきた。
 犯人の男は、曖昧な抵抗をしていた。単にじたばたと暴れているだけだった。
 向かってきた兵頭の体格がよすぎて、おまけにもう一人自分という警官までいたから、ほとんど観念していたのだろう。
 犯人の腕をひとまとめにねじり上げ、もう片方の腕で首を絞めている兵頭の脇にまわりこんで、自分は手錠をかけようとした。
 が、兵頭にぎろりとにらまれて、……やめたのだった。
 交番の他の人間も気がついていることだが、兵頭の暴力性は酷いものがある。
 繁華街の交番だから、よっぱらいがからんでくることなどはよくあるが、兵頭はそういう時、決まって自分によっぱらいの矛先を向けさせる。
 わざと挑発して、先に相手に手を出させる。
 あげくに、公務執行妨害に基づいて、ちょっとやりすぎではないかとこちらに思わせるような声を、よっぱらいに上げさせるのだった。
 今も、兵頭の目は、あきらかに喜びを浮かべて興奮していた。
 犯人の男をかばう義理もないので、そのまま放っておいた。
 この位なら『逮捕に必要だった』のいいわけで通るだろう。
 やがて、ぐぇ、とあひるのような声が上がって、ぐにゃりと犯人の男は気絶した。
 ほんと好きだよなァ、とあきれながら、自分は兵頭が退いた後、犯人に手錠をかけたのだった。
 そのあと……犯人の恋人の女に、兵頭が簡単な事情聴取をしていた。
 女は、自分の男が麻薬の売人だったことは知らなかったようで、かたかたと小刻みに震えていた。
 綺麗に染められた長い茶髪が、その震えに合わせ、さらさらと揺れていて。
 わりと綺麗な女だな、と感想を持った。
 チンピラの女のわりには。
 それ以上同情するでもなく、ただ見ていると、すぐに事情聴取は終わった。
 そのまま犯人の片腕ずつを、兵頭と自分の肩にそれぞれかけ、三人でマンションの部屋を出た。
 女はあいかわらず、部屋のすみから涙目で、こちらを見てきていた。
 ……そうして。
 そう、車に戻って、さあ、署に連行だ、となった時だった。
 兵頭がトイレに行きたい、と言い出したので、ああ、わかりました待っています、と答えたのだった。
 別に何の不審もなかった。
 一人にされることへの心配もなかった。犯人がもし、目を覚まして攻撃してきても、弱そうな犯人だ、絶対に一人でも勝てそうだった。
 おまけに、もう手錠もかけている。
 そうして、兵頭が去って……。
 まあ本当は禁止されているのだが、どこかで立ちションするのだと思っていた。
 だからしばらくすると、まだかよ、と感じ始めたのだった。
 そうして、どこまでションベンに出てんだよ、と思いながら、パトカーの窓から頭を突き出して、周囲をうかがった。
 真夜中すぎの道。
 住宅街だから通行人も一人もいなかった。
 パトカーに気づき、窓からのぞいてきているような住人も、一人もいない。
 そんな、外灯だけが光っている夜の街角を、じっと見ていた。
 兵頭の姿は、どこにもなかった。
 手持ちぶさたに、後部座席であいかわらず意識を失ったままの、頭をたれている犯人の男を振り返った。
 夜中なのに、セミがじわじわと鳴いていて。
 その声が、耳にじんじんと響いていた。
 ……そういえば。
 トイレなげーな、と、あの時。
 確かに少し、感じて、いた。

 ◆

 ロッカールームの戸を開けると。
 練習が終わってもうこんなに時間が経ったのに、中に一人だけいた人間が、こちらを振り返った。
 大きな体躯。どぎつい、見事なまでの三白眼。
 ……兵頭だった。
 悠は思わず、立ちすくんだ。
 兵頭はそんなこちらに、無関心そうに背を向ける。
 もう私服に着替えている兵頭の、背中。
 青いブルゾンが、淡い蛍光灯の光に、てかてかと光っていた。
 悠ははっと我に返って、部屋の中へと踏み出した。
 戸を後ろ手に閉めるのに、少し勇気が必要だった。
 換気扇しかない、密閉された薄暗い部屋。
 自分と、今、怪しげな噂を聞かされたばかりの兵頭と。
 二人きり。
 悠はぎこちなく歩いて、自分が荷物をしまったロッカーの前に立った。
 悪いことに兵頭の真後ろだった。背中に、兵頭の気配を感じる。
 緊張したまま、悠は自分の縦長のロッカーを開けた。
 するとほぼ同時に、ばたん、と、兵頭が自分自身のロッカーを閉めた音がした。
 意図せず、ほ、と、悠の全身の力が抜けた。
 無言で兵頭が、出口に近づいていくのがわかる。
 もう、びくつくことはない。兵頭は帰る。いなくなるのだ。
 ……そう思うと。
 悠に、必要以上の、勇気が出た。
 好奇心と。
 もやもやと気持ちの悪い疑心を、すっきり片づけたい気持ちとで。
 悠は思わず兵頭を振り返り、口を開いた。
「あの……先輩」
 兵頭が足を止める。
 そうして、ブルゾンのポケットに両手をつっこんだまま、兵頭はゆっくりと首だけで、振り返ってきた。
「さっき」
 丁寧に悠は続ける。
「大川さんに、聞かれたんですけど……」
 そこまで言った時、悠はぎくりとした。
 こちらをぎょろりと睨んでくる。
 白目が光る、兵頭の剣呑な目つき。
 それは。
 兵頭のこととしては、いつものことだった。
 ……が。
「…………」
 無言のままの、兵頭の睨みと、その全身から立ち上ってくる殺気。
 悠の全身は、総毛だった。
 危険。危険。
 ……いくら、いつでも兵頭の目つきは悪いからといって。
 この表情。この雰囲気。
 尋常じゃない。
 それでも、いまさら打ち切れず。
 悠は震える唇で続けた。
「あの晩」
 兵頭が、こちらに完全に向き直る。
 そうして、一歩こちらに、踏み出してきた。
 その兵頭の踏み出された足を、後じさることもできずに見つめながら、悠は、
「……なに、してたんですか?」
 と、細く聞いた。
 既に。
 その、普段とは比べものにならないほど、すさまじくぎらついた目線や、気配で。
 何かしていたんだ、この男は。とわかっていた。
 そうして、目の前まで兵頭が来た瞬間。
「……っ!」
 ブルゾンのポケットから飛び出してきた手に、瞬時に両手首をバンザイする格好に捕らえられ、悠は目を見開いた。
「……っ」
 何かを叫ぼうと、悠はあわてて唇を開いた。
 しかし、捕らえられた手首を、背後のロッカーへ、思いきりガシン! と音を立てて押しつけられた。
「……っ!」
 びりびりと、手の甲から肘のあたりへ、痺れが走る。
 思わず悠が目をつぶると、次の瞬間、兵頭の手が、手首から離れるのを感じた。
 そうして腰に、その手がまわされ、身体を引き寄せられる。
「……っ?」
 悠は急いで目を開ける。
 が、もう遅かった。
 引き寄せられた腰の裏、背骨の上に。
 こぶしで思いきりの一撃が、入る。
「げッ……」
 激痛に目を見張り、悠はつぶれたような悲鳴を上げた。
 それでも、兵頭は止まらなかった。
 続けざまに、悠のひたいをわし掴みにして、悠の後頭部をロッカーに、ガン! と叩きつける。
 鋭い痛みの後の、重い衝撃に、悠の目の前は一瞬まっ白になる。
 そうして、一瞬後気がついた時には、悠は床にずるずると崩れ落ちていた。
 激痛の走る背骨と、頭を、無意識に腕でかかえながら、悠は、防戦しなければ、と、兵頭をふりあおごうとした。
 が、勢いよく頭上の兵頭を見上げたつもりなのに、のろのろとしか頭は上がっていかなかった。
 蛍光灯の光が目に入る。
 その光を逆光に、影になった兵頭の、険悪な顔。
「…………」
 は、と息をつきながら、悠は何かを言おうとした。
 しかしショックの名残で、口からは吐息しか出てこない。
「……っ」
 何も言うこともできず、悠は兵頭を必死ににらみつけた。
 戦う前からこんなダメージを与えられては、とても勝てない。
 ……リンチされる。
 内心おびえながら、悠は兵頭をにらみ続けた。
 なんなのだろう、この男は。
 一体、何者。
 そんな恐怖心をかかえた悠の前で、兵頭は膝を折る。
 そうしていきなり、悠の柔道着の下に手をかけ、力任せに剥いできた。
「……っ?」
 驚愕して目を見開くだけの悠の下半身を、兵頭はその無骨な指と手を使い、あっというまにむきだしにさせる。
「……っ」
 薄気味の悪い予感に、悠はあわててばたばたと足を振り回した。
 兵頭はうるさそうにそれをひょいとよけ、自分自身の青いブルゾンを脱ぎ始める。
 なにをする気だ。
 うすうす予感していながらも、悠は背中に首筋に、じとりと冷汗を感じ始めた。
 と、兵頭は脱いだブルゾンを、さらされた悠自身に、ばさん、とかけてきた。
「っ?」
 悠は再び目を見張る。
 ブルゾンの表の面。青い、つるつるした生地の感触が、敏感な根をつつむ。
「な……」
 なにすんだ、と叫ぶより前に、兵頭が思いきり悠自身を、ブルゾンの上から握りこんだ。
「あ……!」
 思わず悠は目をつむり、かすれた、高い声を上げる。
 兵頭の力は強すぎた。握りつぶされるのかと思ったほどだった。
 しかし、すぐに兵頭の握ってくる力は、ずっと弱くなる。
 そうして、ほとんど繊細と言ってもいいほどに、兵頭の手はゆっくりと動き始めた。
「ぅ、……」
 背筋と頭に残るダメージのせいで抵抗できないまま。
 悠はうめき声を洩らした。
 ブルゾンのするするとした生地が、憎かった。
 生ぬるく体温が移っていくそれは、本来起こるはずの摩擦抵抗やわずかな痛みを、全くなくしてしまっていた。
 ただでさえ敏感な部分に、酷くダイレクトに、快感を与えてくる。
「う、わ……」
 こらえきれず悠は、うわずった声を上げた。
 どんどん反応していく、自身を感じる。
 兵頭は手馴れたようすで、どんどんその反応を煽り立てていった。
 悠は必死に目を開けて、兵頭の顔をうかがった。
 兵頭の顔は伏せられていた。視線は、ブルゾンにくるまれたそこを、凝視しているようだった。
「……く……」
 くやしくて恥ずかしくて、悠は思わず自分の手を持ち上げ、やめさせようと兵頭の手をつかんだ。
 と、兵頭のいらだたしげな舌打ちが聞こえてくる。
 次の瞬間、また頭を大きな手のひらでつかまれた。
 防御するヒマもなく、がんっ、とまたロッカーに、頭を叩きつけられる。
「……が」
 一瞬意識がくらくらと、わずかに混濁する。手も兵頭の手の上から、すべり落ちていってしまう。
 兵頭は、その隙にも手を休めることはなかった。
 反応したままの悠自身を、一気に絶頂へと追い詰めていく。
「う、……は……!」
 いっそ泣き声のような声を上げて。
 悠はとうとう、はなってしまった。
「……ぅ、……っ」
 あたたかいそれで、ブルゾンの生地が濡れていく。
 悠自身も、どろどろに汚れていった。
 屈辱感に奥歯を噛みしめていると、兵頭がごそり、と動く気配がした。
 瞬時に屈辱感などどこかへいってしまう。
 恐怖感でいっぱいに心が満たされ、悠は兵頭を見上げた。
 ……と、拍子に、快感のせいで口の中に溜まっていたゆるついた唾液が、口のはしからたらりと、あごへこぼれ落ちる。
 情けなさで、悠の目はうるんだ。
 涙の浮かんだ視界の中で、兵頭の顔はあいかわらず影になっていた。
 ただ、その三白眼の白目だけが、キレイなほどに光っている。
 兵頭が悠自身にかぶさっていた、ブルゾンを取り上げる。
 空気に、萎えた悠自身はさらされる。
 悠はぐったりと目を閉じた。
 自身にまとわりついたままの、生ぬるい精液が気持ち悪い。
 そうして、悠が少しだけ気を抜いていると、兵頭が新たな行動を起こす。
 悠の両足首をつかみ、自分の肩へと悠の両足をかつぎ上げる。
 身体からも力を抜いてしまっていた悠は、両足を高く掲げられてやっと、
「……あ?」
 と、まぬけた声を発した。
 兵頭は、自身の脇に広げていた青いブルゾンに、指を伸ばす。
 そして表面にべっしゃりとついた、乳白色の精液をすくい取り、あらわにされている悠の秘部に、塗りつけ始めた。
「……あ……っ?」
 ぺたぺたとなすりつけられて、悠は目を開き、狼狽した声を出す。
 そうして、あいかわらず力の出ない腕で、
「や、めろぉ……ッ!」
 と、相手の厚い胸板を、どんどんと突いた。
 当然、兵頭の身体は、びくともしない。
 悠は兵頭をにらみつけるため、顔を上げる。
 薄暗い視界の中、キツく兵頭をにらみつける。
 が、次の瞬間。
 え? と、悠は、目をしばたたかせた。
 朦朧とした頭の中、ばちっと音がするような、落雷に似た刺激が走る。
 兵頭の顔の表情は、さっきとはまるで違っていた。
 ほとんどさがっていると言っていいほどの眉。細められ、三白眼ではなくなっている目。わずかに開いた血色のいい唇。
 ……な、んだ?
 そんな場合じゃないのに、兵頭の表情から受けた印象があまりにも意外すぎて。
 悠は、そちらに気を取られていた。
 が、兵頭の行動は止まっていなかった。
 ファスナーから取り出された兵頭自身が、すぐに悠の秘部に入りこんでくる。
「が……っ!」
 悠は口を大きく開き、にごった悲鳴を上げた。
 悠のこわばった体と、固くなっている秘部にかまわず、どんどんと兵頭は入ってくる。
 悠は固く固く瞳を閉ざした。
 兵頭が強引に腰を進めるたび、めり、とそこの敏感な皮膚が、わずかにやぶけていく。
「……は……!」
 たまらず首を激しく振り、悠は激しくその黒い髪を乱す。
 と、自身のある程度を埋め終わった兵頭が、動きを静止させた。
「……ぅ、……ぅ……」
 うめきながら悠は、うっすらと目を開けた。
 ……このまま終わってくれるのだろうか。
 と、また兵頭の顔が見えた。
 兵頭の表情は、さっきと同じだった。
 なにか、情けないくらいの表情を、取り続けている。
「――?」
 地獄の痛みの中なのに、悠はまた、兵頭の表情に意識を奪われた。
 なんなのだこの顔は。
 なんで、なんでこんな顔をしてる?
 ……これじゃ、まるで。
 ……てるみたい、じゃ、ないか……。
 が、次の瞬間、兵頭自身の頭に、ぐ、と突き上げられた。
「うあ……!」
 悠は再び、きつく目を閉じてこらえる。
 兵頭の律動は、そこから激しく続いた。
 速い、キツい、えぐってくるような動き。
「……ッ!……ぐ……っ」
 悠は必死に両の手でこぶしを握り、耐え続けた。
 兵頭の奇妙な表情など、もう。
 意識の果てに飛んでいっていた。

 ◆

 兵頭の、ぬるっとした精液が。
 じゅくじゅくと、秘部からすべっていき、股をつたっていく。
 あえて見なかったが、それに自分の血も混じっているのが、悠にはわかった。
「…………」
 兵頭が無言で、床の、自分自身の青いブルゾンを拾い上げる。
 そうして、ロッカールームの奥へと歩いていった。
 棚の上に備えつけてあった、エリエールと大きくプリントされたティッシュの箱を、取る。
 シュッ、シュ、とそこからティッシュを何枚も抜き、兵頭はごしごしと、ブルゾンに付着した悠の精液を、ふいていった。
 そうしながら、兵頭はぼそりと言う。
「誰にも、言えねぇだろ」
 悠は。
 力なく、まばたきをした。
「……こういう、リンチだとよ」
 兵頭の言葉は、気のない調子で続いた。
 そうして兵頭は、悠の前まで戻ってくる。
 腰をかがめて、転がっていた悠の柔道着のパンツを取り、バサン、と悠のむき出しになった下半身に、放り投げる。
 そして、兵頭は床に膝をついて。
 ぼんやりと前を見ている悠の顔を、のぞきこんできた。
 兵頭の目は、はっきりした三白眼に戻っていた。
 凶悪なつり上がったその目で、脅しをかけてくる。
「よけいなこと言うなよ。大川にも誰にも」
 くっきりとした低い声で、兵頭はそう言い残して。
 それから、さっさと立ち上がり、ドアに向かって歩いていった。
 バタン。
 安っぽいドアが、兵頭の不必要に強い力で、勢いよく閉められる音。室内に響く。
 それを聞いて、悠は、やっと。
 機械じかけの人形のように、うつろに、目を閉じた。

 ◆

 翌々日の、朝に。
 悠は出勤するため、秋の道を歩いていた。
 おとといは夜勤だったが、あまりにダメージが強くて、まともに眠ることもできなかった為、休んだ。
 昨日は運よく非番だった。なんとか、体内の傷も、落ち着いてきた。
 が、いつまでも休んでいるわけにはいかなかった。……不審がられてしまう。
 確かに。
 こんな、こと、誰にも口を開けない。
 強姦された、なんてこと。
 ぱたり、と。
 首に巻いている薄く白いマフラーのすそが、乾燥した風になびく。
 悠は、重い足どりを、思わず止めて。
 あごを上げ、盛りとばかりに散っている、街路樹のイチョウを見上げた。
 ゆらり、ゆらり、とその黄金色の見事さを見せつけるように、ゆっくりとおどりながら降ってくる。
 愛嬌のある、かわいらしい形のイチョウの葉。
 茫然と見上げているうちに、くらくらと眩暈に襲われ始める。
 ……行きたく、ない。
 兵頭と相対したく、ない。
 上を見上げているから眩暈がするのだ、と、悠はあわててうつむいた。
 目線の高さにある、葉のない、枝の赤い小さな木々が、今度は目に入る。
 その赤を目にした瞬間、なんだか不吉な気がして、悠はぶるる、と身震いした。
 まだそんなに底冷えのする季節ではないのに、おとといからずっと、身体の芯には氷が入っているようだった。
 身体が冷たく、緊張し続けている。
 ……傷のせいばかりではない。恐怖のせいだ。
 交番にで、兵頭に会ったら、悲鳴を上げて逃げ出してしまいそうだった。
 あの男は何者なのだろう。
 単なる変人の、嫌われ者だと思っていたのに。
 ……夏の終わりのあの事件。あれは。
 イラン経由の覚せい剤で……売人は、日本人とイラン人が、半々くらいだったらしい。
 携帯電話の番号を知っていて、かけてくる顧客に、直接覚せい剤を引き渡すという、覚せい剤の売り方としては、一番ポピュラーな方法を取っている売買組織だった。
 あの事件については、その程度しか知識を持っていない。
 逮捕した売人の男を、引き渡すまでが、自分の仕事だった。
 あとは署の仕事で、管轄が違う。
 自分達の耳に、細かい情報は、入ってこなかった。
 ……だが。
 きっと。
 兵頭は、その組織の関係者なのだ。
 売人とかではなく、きっともっと幹部に近い人間で。
 ……警察内部に入りこんで、何かをやっているのだろうか。
 現実離れしている。
 そう感じるほど、その想像は危険の匂いに満ちていた。
 だが、これは現実なのだ。
 ……なぜ、いきなりこんなことに巻きこまれてしまったのだろう。
 兵頭がおそろしかった。
 あの男が、そんな組織に属した人間だったなんて。
 ――そこまで考えて。
 しかし、ふいに、悠は思う。
 ……でも。
 その割には。
 強姦されている最中に見た、兵頭の顔の表情が、気になった。
 なんだったのだろう。
 ほとんど気弱そうにすら見えた。
 不安定な、ゆらめく目をしていた。
 あれは、あの表情は、確かに。
 ……どう見たって。
 ……の表情。
 だったような、気が。

 ◆

 交番に着くと、着替えもしないうちから坂田がまとわりついてきた。
 着替える悠の背後から肩越しに、風邪は治ったか、大丈夫かよ、よかったな、と、あいづちを打つヒマも与えないほど、陽気にしゃべってくる。
 そうしてひととおりそれを済ませた後。
 坂田は生き生きと瞳を輝かせ、語り始めた。
「あのよ、昨日、大野からこっそりさ、スッゲェ噂聞いたんだよ」
「あー?」
 悠はうつろな目で返した。
 坂田のひょうきんな、人のいい明るさが好きだった。
 が、こんな、命もあやういかもしれないという状況に置かれている今、のんきな坂田の話に、身を入れられるわけがなかった。
 そんな悠の反応を気にせず、坂田は声をひそめつつ、うきうきと言う。
「スキャンダル、スキャンダル! また警察内部の不祥事だぜ〜っ?」
 スキャンダル、という単語を聞いて、悠は着替えの手をぴくりと止め、反応した。
 ……兵頭の件か?
「どんな」
 思わず即座にそう問い返すと、坂田があいかわらず嬉しそうに、
「なんかな、四日くらい前、大野が詰めてた時に、けっこう美人のな、なげー茶髪の女が交番に来たんだって」
 茶髪の女。
 そう言われて、連想できるものがあった。
 夏の部屋で震えていた。涙ぐんでいた。
 ……あの時の女か?
「ほんで、対応したのが大川部長だったらしいんだけど」
 悠の背後に立っている坂田は、悠の異様に真剣な目に気がつかない。のほほんと、話し続ける。
「しばらくしたら、あわてて大川部長がその女、奥の部屋に通したから、大野、二人に茶、入れて持っていったんだって」
 すると、なんだかマズそうな単語が二、三、聞こえてきたので、悠たちの同僚の大野は、盆をかかえたまま、しばらくドアのところで盗み聞きしていたという。
「そしたら、スキャンダルだってわかったんだってさ……。で、……なんの不祥事だと思う?」
 坂田を振り返らないまま、悠はひょい、と、首をひねる動作を返した。
 本当は。聞かなくてもわかっている。
 覚せい剤組織との密通だ。
 が、坂田が次に得意そうに続けたセリフは、悠を驚愕させた。
「レイプ」
 ぎょっと、目を剥いて。
 悠は、坂田を見返した。
 細い身体を跳ねさせた、悠の反応を、坂田は満足そうに見てくる。
 そうして、
「どーもな、どっかでその女を、この交番の誰かが取り調べてる最中かなんかに、ムリヤリやっちまったらしいんだよ。大野が話から推測したとこによっと」
 と、丸顔にうずもれたまるい目を、興奮できらきらさせながら、語る。
「『それが確かにこちらの者だったという証拠でもあるんですか』とか『産婦人科医の診断書でもあるんですか』とか、部長が言ってたっていうんだもん。まちがいねェって」
 そこまで言って、坂田はいきなり破顔した。
「どえらいことなのにな。なんか、わくわくするよな。これでまた警察の評判、ガタ落ちだぜー!」
 そう、いっそハイになってはしゃいでいる坂田を尻目に。
 悠はうつむいて。
 ゆっくりとひたいを、手のひらでつつんだ。
 ……長い、茶髪の女。
 取り調べ中の、強姦。
『長時間、おまえと離れて行動してたか、とか、そういうことなんだが……』
 ……間違いない。
 ……ただの強姦だった?
 いきなり気が抜けて、悠は正直に、ふぅ、と呆れの混じったため息を吐いた。
 正体不明の、覚せい剤組織という力を持つ危険な男でも、なんでもない。
 情けない、ただのアホの小悪党じゃないか……。
 さっきまで兵頭にいだいていた、滑稽なほど大きな恐怖心が、氷解していく。
 そうして、同時に、かかえていた疑問も消えた。
 悠はゆっくり、かぶりを振った。
 ……そうだ、犯されている最中に見た。
 兵頭の顔の、瞳の、表情。
 弱い。揺らいでいた、あれは。
 やっぱり、追い詰められている犯罪者の、怯えの表情だったのだ。

 ◆

 今日は兵頭と終わりの時間が同じだったから、またこうなる可能性は、確かにあったのだ。
 おとといより更にせまい、閉鎖的な交番のロッカールームで。
 兵頭が、着替えている。その背中を、見ている。
 悠は、今開けたドアのノブを握ったまま、一瞬、躊躇した。
 ロッカールームに、他に人はいなかった。
 自分は少し書類を書いていて遅くなった。そのうちに、兵頭以外の人間は、もう帰ってしまったのだろう。
 ……どうする。
 踵を返して、逃げることもできた。
 しかし、悠は引き唇を結んで、ドアを後ろ手に閉めた。
 兵頭が無関心そうな冷たい視線を、こちらに投げかけてくる。
 悠は、三歩、兵頭に近づいて。
 はっきりと、兵頭に言った。
「あの女が交番に来たって噂、流れてますよ」
 兵頭のシャツのボタンをとめている手が、ぴく、と反応する。
 悠はそれを、細めた冷めた目で見ながら、
「……レイプしたんですね」
 と居丈高に続けた。
 と、兵頭が、ゆっくりとこちらを見てくる。
 三日前のように。普段より更に、凶悪な三白眼で。
 悠はもはや相手の気迫に呑まれることもなく、ぱちり、ぱちり、とまばたきをした。
 今、相対している相手は、ただの小悪党だった。
 得体のしれない畏怖の存在でも、なんでもない。
 悠は、兵頭の両腕が自分の襟もとにすごい勢いで伸びてきても、落ち着いていた。
 ……どれだけ相手がくだらない小悪党でも、腕力では、かなわない。
 ……そんなことは、わかっていたのだ。
 不思議と、覚悟があった。
 殴られても。やられても。
 もう一度見たいものがあった。
 確かめたかった。
「……ッ!」
 三日前の時と同じに、ロッカーに背面を叩きつけられる。
 制服の肩から下がっている、胸ポケットの警笛と繋がった鎖が大きく揺れ、ジャッ! と、高く鳴った。
 頭にのっていた紺色の警察帽が、床へとはじけ飛んでいった。
 衝撃で、また、視界がかすむ。
 崩れ落ちるほどの衝撃ではなかったが、兵頭に肩をぐいぐいと下に押されたので、悠は逆らわずに床に、尻をおろした。
 そのまま、兵頭の無骨な手が、自分の装備がごてごてとついたままのベルトにかかってきても、悠は無抵抗でいた。
 見たいものは、この先にあった。
 そのまま、ボタンをはずされファスナーを下げられ、ずるずるとパンツや下着を下げられる。左脚の方だけは、脱がされた。
 また、形程度には、その部分に手をほどこされるのだろう、と、悠は目を閉じた。
 これから始まることへの恐れからではなく、ほとんど羞恥心からだった。
 が、そこからまた、大きく両足を開かされるまでは予想どおりだったのに、……何も、予想していた刺激がない。
 性急な責めを覚悟していた悠は、何もなく流れていく時間に耐えられず、細目を開けて、自分にかぶさってきている相手の様子をうかがった。
 と、いきなり目に入ったのは、弱い蛍光灯の光に、てらてらと光っている、どす黒い、勃起しきった兵頭自身だった。
 悠は思わず息を呑んで、目をそむけた。
 が、あいかわらず相手が、何もこちらに働きかけてこないので、また、こっそりと相手をうかがう。
 兵頭はうつむいて、自分の一物をいじっていた。
 観察していると、兵頭は自分自身の口に、手のひらを持っていく。
 そうして、ぺ、とわずかな音がする。どうやら唾を手のひらに吐きつけているらしい。
 そうして手のひらを自身の所に戻し、ぺたぺたと、手のひらにつけたつばを塗っている。
 ……それで、あんなに光ってたのか。
 悠はやたらどぎついその光景に、いつのまにか目を見開いて、釘付けになっていた。
 と、その、自身を濡らす作業を終えた兵頭が。
 悠にかぶさって、悠の身体をいっそう大きく、割り開いて、きた。
 そうして、濡れた硬い兵頭自身を、突き入れてくる。
「……ぅ……!」
 悠は、今日は反抗せずに、必死に体の力を抜く。
 なるべく内部が傷つかないように、それを受け入れようとする。
「……ぐ……ッ」
 うまくいかない。
 手のひらを開き、また握って、必死に体をコントロールしようとするのに、ちっとも言うことをきかない。
 が、兵頭はほとんどおかまいなしに、腰を進めてきた。
「グ、ギァ……!」
 あまり時間をかけることもなく、奥まで押しこめられる。
 そうして、情けなのか兵頭は、しばらく動きを止めた。
「……ぅ、……ッ……」
 その、体をまっぷたつに引き裂いてくるような、耐えがたい痛みが、わずかにおさまると、悠は。
 すぐさま瞳をこじ開け、目をこらした。
 兵頭の、陰気な表情をした顔が、間近にあった。
 まぶたが半分落ち、半眼になっている眼。
 どんよりとした、不安そうな瞳の光。
 かろうじて口元だけは、強情そうに下唇が突き出し気味になっているが、それすらも、なんだか泣くのを我慢している子どものようで。
 まさに、この眼だった。この表情だった。
 やられている最中に見た、意外なもの。
 もう一度見て、確かめたかったものだ。
 攻められてこちらの意識が朦朧としている時にだけ。
 無防備にさらされ、剥き出しになっている。
 これが、このおびえきった表情が、この男の本心なのだ。
 やっぱり。
 ……やっぱり、見まちがいでも、気のせいでもなかった。兵頭は。
「……あ、んた……」
 悠は、半開きでこわばっている口を、必死に動かした。
 言葉と共に、だらりとあごに、首筋に、唾液が洩れていく。
「こわ、い……のか……?」
 訴えかけるように、悠は続けた。
「…………」
 兵頭の顔つきが、わずかに、ピクリと動く。
 悠は、その兵頭の顔を、正面から見つめ続けた。
 眉間に、気難しそうに寄った、皺。
 情けなくたれ下がっている眉尻。
 力のない弱者の、追いこまれている者の表情だった。
 いつもの不遜さがカケラもなくなっている、その顔を見ていると。
 ……かわいそうだ。
 悠にほとんどはっきりと、そんな感情がよぎった。
 ……同情の余地のない。
 破廉恥な犯罪をおかした、今、自分をリンチしてきている男だというのに。
 いたわるように、悠は、指先を。
 ゆるゆると、兵頭のほほに、伸ばしていく。
「……はっ」
 熱くあえぐ。
 あえぎながら、また、呼びかける。
「こ、わ……っ」
 すると、兵頭の眼がくわっと開き、またその目に凶暴さが蘇った。つり上がっていく。
 兵頭のほほへ伸ばした悠の手の手首が、兵頭にがしりと掴まれる。
 次の瞬間、だん! とロッカーに、組み伏せられた。
「……ッ!」
 そうして、次の瞬間、容赦のない律動が始まった。
「……ッ、……っ……!」
 なすすべもなく、始まった絶え間のないその痛みに翻弄されながら、悠は。
 やっぱり、やっぱりそうだった、と。
 それだけを、思い続けていた。

 ◆

 マンションは、清潔そうな建物ではあったが、かなり古かった。
 制服姿で、悠は、夕闇の中のそのマンションを、振り仰ぐ。
 夏の記憶は、まだかなり鮮明だった。
 一度も道に迷うことなく、記憶をたどってここまで、辿り着けた。
 ここからも見える。
 クリーム色のカーテンが窓にかかっている、三階の、あの部屋で。
 売人を逮捕して。
 ……その後、おそらく、兵頭は。
 意を決し、悠はエレベーターに乗りこんだ。
 三階のその部屋の前に、降り立つ。
 表札は当時のままだった。今は、あの時の女が、一人で住んでいるのだろう。
 悠は腕時計をちらりと確認してから、玄関ブザーを押した。この時間なら、いるだろう。
 案の定、しばらくすると重いドアの向こうに、ごそごそと人の気配がし始める。
 そうして、不自然な沈黙。
 悠はそれを当然のこととして受け止め、ただ待った。
 制服姿のこちらを見て、相手は今、用件を察して、ためらっているはずなのだ。
 やがて、がちゃがちゃとドアチェーンをかける音がしてくる。
 その後、ドアが細く開く。
「……な、んですか」
 隙間から顔だけを少しのぞかせた女は、まちがいなくあの女だった。
 毛並みのいい犬のそれのような、綺麗な茶髪。
「あの事件の時に、一緒に来た者ですが……」
 悠が穏やかにそう言うと、一瞬の沈黙が訪れる。
 そうして、女は、
「……あ」
 と、目を少し、見開いた。
 そうして、ためらうようにうつむいたのち、
「……待ってください」
 と、ドアを閉める。
 そうして、がちゃりがちゃりとドアチェーンをはずして、女は扉をこちらに開いた。
「……どうぞ」
 そう言いながら、女はキッ、と、こちらを見上げ、にらみつけてきた。
 勝気な、かなり大きい瞳で。
 こたつが置いてある部屋に通され、悠はうながされるまま、女の向かい側に座りかけた。
 正座しようと腰を折りかけ、悠はわずかに眉をひそめた。
 さっき体内にぶちこまれた兵頭の体液が、拍子に、気持ち悪く流れ出す感覚。
 しかし悠は、すぐに顔を平然とした表情に戻し、正座して相手を見た。
 相手は、既に対面に座っていた。
 茶などを、出す気はないらしい。
「……で、今日はなんですか」
 緊張でこわばっている顔、固い声で、女は、そう言った。
「口止めとか、そういうことですか。上司さんの命令かなにかで」
 厳しい物言いだったが、責める口調でもなかった。
 まっすぐにこちらに向けられているその目は、ガラスのように、だた無感情に、光っている。
「いいえ」
 悠は優しい、丁寧な口調で、語りかけた。
「誰かに言われて来たわけじゃないんです。……こんなことの、あとですから、上司は、あなたと警官の誰かが接触を持つなんて、嫌がっていますし」
 ぴくり、と相手の、暗い色のルージュが引かれた口元が、わずかに動いた。
 じゃあ、なんで来たんだ。そう、思ったのだろう。
「……あの日」
 悠は目を伏せがちにして、控えめでやわらかな声で、しゃべる。
「俺は、この下で、パトカーの中に、居たんです」
 そう言って、悠は机の上に乗せている自分の両手の指を、組み合わせた。
 もじもじと、苦悩しているような動きを、その指にさせる。
「……責任も、感じていますし」
 嘘だった。
「……心配で」
 あなたのことが。と言外に匂わせながらそう言い。
 悠はそこで、顔を上げた。
 真摯な瞳で相手を見つめながら、
「何があったのか、聞かせていただけませんか。……おつらいでしょうけど」
 と、いかにも相手を気づかった言いまわしをする。
 そうして、相手の言葉を待った。
 すると相手は、一種能面のようだった顔を揺るがせ、うつむいた。
 そうして、ふ、とため息をつく。
「……あの晩、いきなりあの人が戻ってきて」
 そう、静かに女は語り出した。
「警察の人ですから、信用して……。当然、戸を開けますよね。……そしたら、すぐにドアを閉められて。Tシャツの中の、背中のところに……いきなり手を、つっこまれたんです」
 そして、女は、すん、と少し、鼻をすすった。
「……びっくりして暴れたら、身体で押さえこまれて。『これからはおれが守ってやるよ』って、ささやかれました」
 そこでいったん言葉を切って、
「……それから。…………」
 と女は、言葉に詰まる。
 明言されなくてもわかった。
『それから』。レイプされたのだろう。
「私、こわくて……。ああいう体つきの人ですから、抵抗もほとんどできませんでしたし」
 そう言う女の唇は、その時の恐怖がよみがえってきているように、震えてきていた。
 しかし気丈に、女は続ける。
「……あれから私、全部忘れようとしてたんです、一生懸命。逮捕も……。……全部」
 そうして顔を上げ、こちらに向かって女は、
「『これからはおれが』とか言ってましたけど、それっきり、あの人、来ることもありませんでしたし」
 とわずかににこりと微笑んだ。
 兵頭をバカにする気持ちなのだろう。
 しかし、またうつむいて、女は、
「……でも、妊娠してることに、気がついて……」
 ぐす。と、今度は、かなりはっきりとした、嗚咽に近い音で、鼻をすすりあげる。
「……父親ももういないわけですし、堕ろすしかなくて……」
 自分自身を哀れむように悲しげな、女の声が、室内に響く。
「でも、病院の帰りに、交番の前を通りかかって……。ああ、あそこにあの人いるんだ、あんな平和そうな光ってる場所にいるんだ、と思ったら、急に腹が立って。……だって、あの人の子どもの可能性だって、あったんです」
 最後の言葉に、悠は非常に納得した。
 あの、あわただしい時間内での出来事だ。避妊の準備も、ヒマも、なかっただろう。
「本人に直接会うつもりでしたけど、休みだったので、大川部長さんって方に、話をして」
 そうして、少し乱れた髪をかき上げ、女は顔を上げる。
 溜めていたことを一気に言ってしまって、少しは楽になったのか、すっきりとした表情になっていた。
「……今、考えると、よくあんなことできたなぁ、って思います。単身乗りこんでいくようなもんですもんね。ショックとか……身体の関係で、頭がなんだかふらふらしてたんです」
 そう、女は遠くの壁に視線をさまよわせながら、言った。そうして、
「でも、後悔はしてないんです。私」
 いっそさばさばと、続ける。
「こうなったら親も勧めるし。本格的に、弁護士さんに相談しようと思って」
 そこまで言って女は、いきなり、声をひそめた。
「……でも」
 何事かと少し身構えた悠に対して、
「……今、週刊誌から、取材の申し込みがきてて」
 と挑戦するように言ってくる。
 悠は、じ、と相手を見つめ続けた。
「母がスナックを経営してて……。そこのお客さんでフリーライターの人に、母が口をすべらせちゃったらしくて。そこから」
 そう説明して、女は、
「……費用がかからない分、弁護士さんに相談するよりいいかな、と。……記事になれば警察もハデに動いてくれるだろうし」
 と、疲れたように、多少投げやりに言った。
 しかし、一瞬後、女は姿勢をしゃん、と正し、
「……どっちにしても、私」
 少し強い目線になって、こちらを、見据えてくる。
「もう、引く気ありませんから」
 悠は、挑むようなその視線に応戦することなく。
 ただ、あいづちを打つように、かすかにうなずいた。
「……止めないんですか?」
 女は、まなざしを意外そうなものに変え、そう言ってきた。
「大川部長さんは、弁護士は待ってくれって、念を押してきました。他言も、とりあえず絶対ひかえてくれって……」
「……場合によっては」
 女の言葉をさえぎって、悠は言った。
「弁護士なども、必要かもしれません……」
 良心の呵責に耐えかねているような、少し苦しげな声で。
 そうして、悠は、ほんのわずか、うつむいた。
 うつむきがちになると、目元が影になり、自分の大きな目の印象は、やわらぐ。
 ほっそりとしたあごのラインだけが、相手に見えるようになり。
 その和やかで、優しげな線は、女の心をくすぐることを。
 悠は、知っていた。
 案の定、まだ少し敵意のこもっていた相手のまなざしは、ゆるゆると信頼のまなざしに変わっていく。
 それはそうだろう。
 取り入るために、さっきからこれでもかと、誠実な若き警察官像を演じているのだ。
 既に熱っぽくうるんできている、相手のその目を視界のはしに感じて。
 悠は心の中で、少し笑った。
 とにかく。
 女の人気を得るのは、昔から、自分にとってはたやすいことだったのだ。

 ◆

 その翌日、悠は夜勤だった。
 が、交番に出勤する前に、自宅に電話が入った。
 大川部長だった。出勤する前にこの間の、市で一番大きな警察署に、来てくれという。
 どうせまた、例の件だろう。そう思って、悠は署に行った。
 そうして呼び出された、この間も使った応接室を、ノックして開ける。
 と、大川部長もいたが、その横のソファーのまん中に、見慣れない壮年の男性が鎮座していた。
 制服を着ているし、雰囲気からして明らかに、上の人間だ。
「失礼します」
 と言って、悠が少し面食らいながらも入っていくと、大川部長が対面のソファーを勧めてくる。
 うながされるままそこに座り、悠はこっそりと上目で、見慣れない男性の方をうかがった。
 どこかで見たことがあるような気もする。
 ちょうどそう思った時、大川部長が、
「こちら、ご存知だろうが、県警本部長の横山さんだ」
 と、爆弾的なセリフを言った。
 悠は、あっと思い、あわてて頭を深く下げた。
 そうだ、様々な式などで、壇上でいつも挨拶をしている。
 この県の警察官の、トップにいる人間。
「で、この間の件なんだが……」
 大川部長は、いつもより偉そうにそう切り出し、
「本部長も、少し気にされててな。……何か、思い出せたか」
 と、こちらを、さぐるような目つきでうかがってきた。
「え、でも特に、思い出すようなことは……」
 悠は答えながら、内心あきれた。
 たまたま自分は、部長に聞かれたあとに、兵頭にうかつにも質問してしまったから、兵頭が『やった』ということを知っている。
 が、それがなかったら、今も何も事実を知らずにいただろう。
 実際、兵頭にあのロッカールームで話しかける前に思い出せていたことは、『そういえばトイレにしては少し長かった』という、なんともたよりないものだったのだ。
「トイレ休憩で少し、離れていたというだけですから……」
 しゃべりながら、部長も本部長もずうずうしいな、と悠は感じていた。
 兵頭を追及したいにしろ、無実を信じたいにしろ、この態度は怠惰すぎる。
 自分達で何の調査もしないで、身内である自分の記憶から、何か有益なものが出てくるのを、ただ待っている、なんて。
 と、ソファーに半ばひっくりかえるように座っている本部長が、
「正確に何分、離れていた、とかは、わからないのかね」
 と、ギロリと、冷たい、人間的ではない目で、こちらを見てきた。
「……はい」
 悠は短く答える。
 そうして、そう答えた直後に、悠は覚悟を決めた。
 これは、兵頭はもう完全に、疑われている。
 警察内部から糾弾される一歩手前だ、この二人の雰囲気からすると。
 ……兵頭への追及を絶つには、今、自分が、はっきりとした証言をする必要がある。
「でも、正直」
 疑われぬよう、毅然とした調子で。
 悠は、告げる。
「既成事実があったにしては、あまりにも短すぎる時間でした。とても、そんなことがあったとは思えません」
 ……不祥事を、県警のトップが喜ぶわけがない。内心、望んでいた答えだったろうに。
 既成事実、という単語に、本部長は眉をピクンと上げる反応を示した。
 情報など、警察内部には洩れていくに決まっているのに、不祥事の種類がレイプであるということが、知れ渡っていたのが不快だったのだろう。
 不服そうに眉をしかめて、
「……もういい」
 顔をそむけて、右の手首を持ち上げ、犬を追いはらうようなしぐさをしてくる。
「白石君、下がりたまえ」
 部長が、追随するように言う。
 悠は逆らわず立ち上がり、丁寧に頭を下げ、言った。
「……失礼します」
 そうして、部屋を後にした。

 ◆

 夜勤明けに、自宅のアパートで睡眠を取ってから。
 悠は、例の女のマンションを訪ねた。
 連日になってしまうから、あせっているように思われ、怪しまれてまずいかな、とも思ったが、もう猶予はなかった。不審がられても、どんどん行動していくしかない。
 昼下がりなので、もしかしたらいないかもしれないと思ったが、どうやら女は今、働いていないらしく、ドアから顔をのぞかせた。
 すみません、と言いながら部屋に入り、駅前で買ったケーキの箱を差し出すと、
「私服だったので、一瞬、誰かと思いました」
 と、いっそほがらかに女は言って、いそいそと紅茶を入れ始めた。
 そうして、悠の座っているコタツに、ケーキと紅茶を持ってくる。
 女はベリータルトを眺めて、
「宝石みたいな色ですよね」
 などと言う。
 ときめいている顔だった。ほほが、わずかに紅潮している。
 これはいけるな、と思い、悠は自分のチーズケーキに半分ほど手をつけた段階で、
「いろいろ、考えたんですけど」
 と言い出した。
 女は、少しぽかんとした顔をして、タルトに向けていた目を上げる。
「取材のこと」
 そう悠が続けると、
「……はい」
 と、神妙な顔になった。
「取材は受けないほうがいいと思います」
 悠が言い切ると、女は少し厳しい顔つきになった。
 やっぱりこいつも、警察の体面が大事か、と思ったのだろう。
 悠はやんわりと、それを懐柔に出る。
「マスコミなんか、しょせん、被害者も見せ物にするだけだから」
 急くでもなく、落ち着きはらってそう続けると、女の顔からあっさりと険が消えた。
 ……おそらく、自分でも、多少見せ物にはなりそうだなぁ、とは思い、ためらっていたのだろう。
「本人に、直接話して、金だけ出させた方が……いいと思います」
 悠はうつむきがちになり、繊細な指つきで白い紅茶カップをいじった。
 相手に、少しためらっている印象を与え、優しい人だ、と思わせられるように。
「弁護士にも、介入させない方がいいような気がします。結局、向こうも商売ですから、高く金を取られるでしょうし……弁護士からマスコミにも洩れるかもしれませんし」
 顔を上げると、女がわずかに頭をこくりとさせるのが見えた。
「……何より、あなたはどうしてもあの人に、罰を受けさせたいんですか?」
 悠はいよいよ、本題に入り始めた。
 女は曖昧に、うつむきがちになった頭を、少し揺らす。
 首を振っているようにも見えた。
「ご自分が……これ以上なにか、つらいめに遭うようなことになっても?」
 また、女は少し首を振る。
 悠は決してあせらずに、ゆったりとした口調で、なめらかに続けていった。
「罰を受けさせたいのなら、……僕にできることは、あまりありませんが……。……もしも、それ以外のことで、あなたが癒されるなら」
 そこで、いったん言葉を切る。
 いかにも、相手の苦しい心情を、思いやるように。
「……僕が、責任を持って、あの人に話をつけますよ。僕の責任でもあるんですから」
 そんなことはカケラも思っていないくせに、悠は言いきった。
「このまま内密にことが進んでいけば、あの人としては、一番ありがたいはずなんです。上司も表ざたにはしたがらないでしょうから、警察も、クビにならなくてすむし。そのためなら、いくらでも出すはずですから」
 女は、黙っていた。
「とにかく、あなたの望むことに、協力しますから……」
 悠がせっせとそうかぶせると、
「…………」
 女は、意味深な沈黙を敷いた。
 そうして、おもむろに、細い声で訴えかけてくる。
「お金だけもらって黙ったら……汚い女だと思いますか」
 ……イケるな、と。
 反射的に、悠は胸の中で、指を鳴らした。
 最初から、女の真意は世間に公表して大ごとにし、兵頭に裁きを受けさせることではなかったのだろう。
 慰謝料だけもらえれば、まぁ黙っていてもいいかな、という風に思っていたのだ、多分。
 悠は内心を悟られないように、
「思いませんよ。……絶対に」
 と、この上なく優しい声音で、少しうなだれている女に語りかけた。
「人生、まだ長いんです。あなたは……綺麗なんですし」
 てれたように。
 少し口ごもって、そう言って、
「……あなたを、守りたいと思ってる男も、……」
 と、思わせぶりに、悠は続けた。
 女が、はじかれたように顔を上げる。
 うるうると涙で潤んでいる、そのキレイな形の瞳。
「……いるんです」
 とびっきり、甘く、幻想的に。
 その目と、熱く視線を合わせながら、悠は囁いた。
「だから、僕は、そうした方がいいと思うんです」
 幼い子どもをいつくしむように。
 言葉のキスを、降らせるように。
 悠は、目の前の獲物に、ささやき続けた。

 ◆

 ……おもいっきり遅刻してやがる。
 女と会った翌日の、日勤明けの夕方。
 ロッカールームで兵頭を待ち伏せていた悠は、そう思った。
 定時よりゆうに三十分遅れて、バタンといきおいよくドアを開けて入ってきた兵頭。
 腕組みをして、ロッカーに寄りかかっているこちらに一瞥をくれたが、気にもとめていないふりをして、愛用の青いブルゾンを脱ぎ始めた。
 悠は苦笑した。
 遅刻しているのに、兵頭に気にして急いでいるような様子は、微塵も見えない。いつもどおりの尊大な態度だ。
「おととい、県警本部長に呼ばれたんですよ」
 そう、いきなり言葉をぶつけると。
 兵頭はさすがに肩をがたっと揺らし、振り返った。
 あいかわらず冴えわたった三白眼が、自分をとらえる。
 思わず、くすくすと笑いながら、悠は更に言った。
「昨日は、あの時の女に、会いました」
 楽しんでいるようなこちらの調子が、気に食わないのだろう。
 兵頭は、抑えた声で、
「……何が言いたい」
 と、うなった。
 狂暴な、その目の光。
 ……力ではかなわない。
 だから、悠もまったく萎縮しないわけではなかったが。
 それでも、証言者である自分は、絶対的に優位にいるのだ。
 それを相手も、知っている。
 ……だから、キツイ三白眼の瞳の奥に、怯えがひらひらと見てとれる。
 その怯えを見つめながら、悠は。
 自分の中にある感情を、今、はっきりと認めていった。
 自分が。何を望んでいるのか。
 もう、はっきりと、自覚できた。
「……やって、くれませんか」
 そう、腕を組んだままつぶやくと。
 怪訝そうに、相手の眉が寄る。
「……こないだみたいに」
 そう言うと。
 相手は、驚愕で目を見開く。
 しかし次の瞬間。その目はみるみる、疑わしそうに細まっていった。
「てめぇ、なに、企んでる?」
 低い声で。
 兵頭はそう、噛みついてくる。
 毛を逆立てた闘犬のような兵頭のオーラを見ながら、悠は、
「……なんにも」
 と、静かに言った。
「たくらんでませんよ……」
 そう続けると、兵頭は眉をしかめて、
「……はあ?」
 と、気持ち悪そうに、言う。
 悠は、にっと笑んだ。
 兵頭は不機嫌そうに、こちらを、目をすがめて見てきている。
 なんだか、ねだるというより、脅しているみたいだな、と思った一瞬だった。
 腕を、ぐい、と、兵頭に引かれて。
 勢いで、警察帽が、ふぅわりと、舞っていった。地へ向かって。
 ……冴えた眼で、のぞきこまれる。
「……声、出すなよ」
 低音の、鼓膜に絡む声。
 怖い、と思った。
 自分で誘ったくせにだ。
 それでも、今回は、兵頭のセリフの響きが少しだけやわらかで。
 悠は恐怖心ではないなにかで、肩をゆるく震わせた。
 殴られることもなく、ロッカーを背に、床に座らされる。
 この前も、前の前も下だけしか脱がさなかったのに、兵頭は先に、こちらの制服のブレザーに手をかけてきた。
 素早く、乱雑に下まではずし、その下のシャツもはだけてくる。
 そうしていつものように、パンツも乱暴に剥がれた。
 下半身がむきだしにさらけ出されると、まだ全然、何も入れられてもいないのに、もう痛い気がして、悠の身はすくんだ。
 逃げたくてたまらなかった。
 なのに反面、胸が苦しいほど高鳴っていて。
 それは期待のせいだという、自覚があった。
 こちらの服を脱がし終えた兵頭は、自分自身のシャツの襟元を、ボタンもはずさずに、ぐい、と下にはだける。
 そうして、自分自身のつばをぺろぺろと、指につけ始めた。
 あっというまにその作業を終え、兵頭は悠の足を広げてくる。
 そしてはじめて、ある意味汚いそこを、直接指で、いじってくれた。
 そうされて悠は、ぎゅっと目を閉じる。
 また、ぶるぶると震えた。
 嬉しい、とはっきり思った。
 酷くわずかにでも、優しく手ほどこされるのが、嬉しい。
 ――なんて墜ちたんだろ。
 そう、うっすらと思った。
 強姦されて、その後もう一度乱暴に抱かれて。今回は合意で。
 ほんの少しずつ、犯罪めいたそれじゃあなくなっていくだけなのに。
 恋人にも似た、相手のほんのわずかな態度に、身体が、爪先まで震える。
 本気で驚喜している。
 ……止められなかった。
 感情に比例して、兵頭の視線にさらされている悠自身は、先端がぬるぬると濡れていた。
 兵頭が、それをひょいと握り、
「……おまえ、何かんがえてんだ?」
 と、あきれたように言った。
 快感が、バレているのが恥ずかしくて。
 相手のかなり親しげな口調に、耳が喜んでいて。
 悠はわけがわからなくて、目元に自分の腕を押しつけ、
「……ハ」
 と声を出して、少し笑った。
「――?」
 兵頭の、いかにも怪訝そうな沈黙が、返ってくる。
 しかし兵頭は、深く悠の態度を考えるふうも見せず、
「……入れっぞ」
 と、いきなり湿ったかすれ声で、ささやいてきた。
 びくり、と脚を揺らした悠にかまわず、押し開いた体に、自身をねじこんでくる。
「……っ、……ッ!」
 熱かった。最初の時よりは、わずかに力の抜き方を覚えたものの。
 許容量を超えすぎている。人間の熱を持っているくせに、人外のもののような硬さと圧迫感を持った、それ。
 それに必死に体をなじませようとしているのに、わずかに慣れてきたこちらの体に感づいたのか、兵頭はかなり早い段階で、腰をゆすり始めた。
「……あ……!」
 耐え切れず悠は、高い声を洩らしてしまった。
 がくりがくりと、自分の体の奥深くに、塊がうがたれてくる。
 自身の体重とあいまって、よけいずしりと響く。
 痛みも、強い。
「……ん……!」
 悠は自分の手に噛みついて、必死で声をこらえた。
 痛い。確かに痛いけど。
 確かに、その奥に、何かがあった。
 今、自分が、狂ったように泣き叫んでしまいそうなのは。
 痛みのせいでは、多分なかった。
「……んん……っ!」
 相手の息づかいが、服が。はだけさせられた肌に、擦れる。
 ぼろぼろと涙をこぼして、悠が顔をそむけるように、わずかに身をよじらせ始めると、
「……ん、だ……?」
 兵頭がのぞきこんできて、男くさい息を、耳元にかけてくる。
「……おまえ、クセ、になって、のか……?」
 切れ切れの、いぶかしむような言葉。
「……っ!」
 悠は必死で、頭を振った。ばさばさとその髪が背後のロッカーに当たり、乾いた音を響かせる。
 今は、完全に羞恥心だけが、心を支配していた。
「……ぁ……っ!」
 なってない。
 まだ、クセにはなっていないけど。
 悠は目を開けられないまま、がむしゃらに腕を出し、兵頭の大きな肩の一端に、とりついた。
 兵頭の肉体は、体熱を発散して、熱かった。
「……ど……ぅ!」
 ……なりかけている。
 それも。
 もはや、自覚できていた。

 ◆

 この時間帯なら可能性は低いとはいえ、いつ誰が入ってくるかわからないロッカールーム。
 握っている相手の手のひらの、指の隙間に、自分の指を埋めながら。
 背後の兵頭の胸に、悠はゆったりと、背中をあずけた。
 兵頭の指の、水かきの部分が、ひんやりと冷たくて。
 ほてった身体に、きもちよかった。
 ……痛かったが、あまり痛くなかった。つまり、最初に比べて。
 根は悪い奴じゃない。
 自分でも憤死しそうなほど好意的解釈で、悠はそう思った。
 ……兵頭は。相手を出血させてしまうような非道なセックスは、ほんとは趣味じゃないのだろう。
 ……レイプだった、とはいうものの。
 ……あの女にも、あまりひどいやり方はしなかったんじゃないだろうか。
 なんとなく、そんな気がした。
 あの女も、妊娠さえなかったら、忘れるつもりだったようなのだ。
 そんなに恨まれるようなやり方じゃなかったのだ、きっと。
 兵頭は、自分の腕力や、精力をコントロールできていない、ただの成人した、ガキなのだ。
 ……って、なに必死に、いっこいっこ弁解してやってんだよなァ、と自分でも呆れながら、悠は、
「なんで強姦したんだ?」
 と、ぽつん、と、兵頭に問いかけた。
 うっとうしそうにそっぽを向き、自身の手のひらをこちらの好きにさせていた相手が、
「は?」
 とこちらの頭に、視線を向けてくる。
 悠は振り返らないまま、更に尋ねる。
「……あの日。逮捕の途中なんかによ」
 めちゃくちゃ、せわしなかっただろうに。なぜ、強行したのだろう。
「……別に……」
 がりがり。
 相手が自身の頭を乱暴に、何度か掻く音がした。
 悠はそっと、兵頭を見上げた。
 視界がなぜかぼやけている。相手がよく見えない。
 事後の涙が残っていて、うるんでいるせいだ。
 それに気がついて、悠は何度か、ぱちぱちとまばたきをする。それを乾かす。
「やりたかったんだよ」
 しばらく経ってから、ようやく相手が吐いたセリフは、それだった。
「……それだけか?」
 確かに、わりとキレイな女だ。
 それにあの晩は、動揺してふるふる震えていたから、兵頭の保護欲をそそる対象だったかもしれない。
 そう考えて、ふと悠は思い出し、
「『これからはおれが守ってやるよ』って……」
 と、なんの気なしにつぶやいた。
 するとギロっと、兵頭に上からにらまれた。
「てめェみたいなモテそうな奴には、わかんねぇよ」
 嫉妬感情、丸出しの、卑屈で荒い言葉。
 悠は、暗い電灯の下の、相手の三白眼をじっと見返した。
「……あんた、顔はいいじゃないか」
 本心から言った。
「…………」
 無言で、相手は睨み続けてくる。
 確かに、女に好感を持たれるには、兵頭は、身体も、顔も、怖すぎる。
 角ばって、いかつくて、迫力がありすぎた。
 しかも笑わないしな。
 そう思い、悠はあごを引いて、くすくすと笑った。
 そうして悠はまた、自分が手の中でもてあそび続けている、相手の指に視線を戻しながら、
「あんた、強姦が趣味みたいだよな」
 と言ってみる。
「……バカにしてんのか?」
 即座に、相手の少しケバ立った声が返ってきた。
「だってよ……」
 あの女もレイプしたし、おまけにだ。
「……男のやり方も、妙に手慣れてるじゃねえか。あんた」
 自分がやられた、過去三回のことを回想しながら、悠が言うと、
「知識だけだ。ガラのよくねぇ男子校だったから、裏では色々あったんだよ」
 と、早口で、返事が返ってきた。
 ふ〜ん、と思いながら、悠は、相手の左の人差し指を、自分の手の中で折り曲げる。
 相手のかたちを、確かめていくように。
 そうしながら、
「……その調子で、つい女もやっちまったって?」
 けらけらっと、からかうような口調で言ってやった。
 険悪な目で見られるのがわかったが、振り返らなかった。
 いまや、相手はこわい存在ではなかった。
 悠は楽しげに、兵頭の太い、冗談みたいにごつごつした手ざわりの指を、いじり続ける。
 そうしながらも、まじめな声になって、あらためて聞いた。
「……ほんとに、他に、理由とかねぇの?」
 いいわけに、なるような。
 ……そうか、なら仕方ない、と、……自分を納得させられるような。
 そう、実のところ苦しいほど、望みをかけながら聞いたのに、
「ねぇよ」
 と兵頭の答えは簡潔だった。
 動物か。
 そう思いながら、悠はあきらめずに、
「……両親が酷かったとか、家庭がさんざん崩壊してたとかよ?」
 と続けた。
 兵頭のこの、意味のない凶暴性や、異様に無思慮な行動。
 ……ということは、いびつな家庭環境ででも、育てられたのかもしれない。
 そう好意的に解釈してやって言っているのに。
 兵頭は、完全にタメ口になっているこちらを、不満そうにギロついた眼光でにらみながら、
「離婚もしてねぇ。普通の家だ」
 とまたもやあっさりと言っただけだった。
 悠は本気で、ため息を吐きたくなった。
 同情の余地が、ない。
 ……自分でも納得できなかった。
 なんで、なんでこんな男に。
 そう思い悩んでいると、兵頭にすっと、左の手を取り返された。
「……うっとうしいこと聞くなよ」
 そう、勢いなくつぶやいた兵頭の声は。
 なぜか、切なそうだった。
 悠は意外に思って、首をねじって振り返る。
 兵頭は、疲れたような顔をしていた。
 ただ、床を見つめている。
 そうして、うっかり口をすべらしたように、
「……家族のことなんか、考えたくねぇんだよ、今。……妹まで、いるし」
 と言った。
 悠は、ぱちり、ぱちり、とまばたきをして。
 ――不祥事だもんな。……まぁ、家族にもすっげー迷惑がかかるから。
 今更、後悔して、重くなってんだろ、と察した。
 そうして、悠はうなだれる兵頭を見つめたまま。
「……あんたを、好きになれるトコ、ねーかと思ってさ」
 しっとりと、そう言った。
 不幸な家庭で育ったせいで壊れた精神を持ってしまっているのだとか。
 そういう。好きになっても、いい理由を。
 ……探していた。
 ――なくったって、変わってはくれなそうだと、今、わかったけど。
「……気色わりぃこと言うな」
 兵頭は、こちらに視線を向けないままで、言ってきた。
 悠はその様子を、光る瞳で、じっと見つめ続け、
「……あんた」
 と、ポソリ、と聞いた。
「……名前、なんて言いましたっけ」
 自分でも、唐突だな、とは思った。
「……は?」
 兵頭が首をめぐらして、眉根の寄った顔を向けてきた。
 ひるまずに、目線をぶつけたままでいると。
「毅だよ」
 と、案外素直に、答えてくれる。
「字は?」
 悠が尋ねると、手をもちあげ、指でさっと、宙にえがく。
 そして、
「……それが、どうした?」
 と、けっこうやわらかく、問い返してきた。
「……ん」
 悠はうつむいて、
「……そういや、知らねぇな、と思ってよ」
 と返事した。
 毅、というのか、と思った。
 ……ぴったりだ。
 悠は、背中でふれている相手の胸に、更に寄りかかった。体重を、あずける。
 そうして、つぶやく。
「……毅」
 視線だけを上にあげ、天井を眺める。
 光がちらついている、調子の悪い電灯。チカチカと、断続的に消える、不吉な明かり。
「あんま、ビビってガタついてんじゃねぇぞ」
 相手の胸が、ピク、とみじろぐ。
「あの女の口は、俺がふさいでやっからよ」
 それも、極めて合法的に。ソフトなやり口で。
 そう強く断言してやった瞬間、相手がぎょっとこちらの頭へ、視線をそそいでくるのがわかった。

 ◆

 その翌日は夜勤だった。
 悠が制服を着て、時間より前に交番に入ってみると、坂田が話しかけてくる。
 人をなごませるタイプの坂田と、一通り罪のない会話をかわしてから、悠はそっと、まだ交番内に詰めている兵頭の、後ろ姿を盗み見た。
 兵頭は、こちらを見る気配がない。
 交番の外に広がる、にぎやかな深夜の繁華街を見やっている。
 広い背中だ。
 あの背は、……とても、熱くなるのだった。
 ぼんやりと、そう情事の記憶を身体に蘇らせていると、坂田が、
「ちゃーんと聞いてんのかぁ〜?」
 と、不服そうに、こちらのほほをぶにゅっとつかんで、ひねってきた。
 しゃべりたがりな坂田の話を、全部、まじめに聞いてたら、キリがねーんだけどな。
 苦笑してそう思いながらも、悠は坂田に顔を戻し、
「聞いてっよ」
 と笑った。
 楽しそうな後輩のようすにつられたのだろう。
 同じく、早めにやってきた交代要員の、背の高い温厚な先輩が、
「おまえら、ガキくせえなぁ」
 と、ほほえましそうに笑う。
 そうして、思い出したように、
「あ、そうだ白石、おまえのロッカーの中で、携帯がぶるぶるいってたぞ」
 と、教えてくれる。
「なぬっ? 彼女だろっ? 彼女だろっ?」
 と、即座に目をつり上げて、坂田がこちらの喉を絞めてくる。
「あきらめろ坂田。白石がもてないわけがない」
 と、先輩は、ほんわりと笑う。
「違いますよ〜。きっと、実家ですよ、じっか〜」
 悠は笑って、坂田を両手で引きはがそうとしながら、そう答えた。
 そうして内心で、冷静にあたりをつけていた。
 きっと、あの女だ。
 この間の時に、携帯の番号を教えてあった。……個人的な『オツキアイ』の開始のしるしに。
 そう思いながら、坂田とじゃれたままで、帽子のつばの影に目元を隠し、こっそりと兵頭を見る。
 兵頭は、半身でこちらを振り返って来ていた。
 ガキくさい騒ぎを、軽蔑するようなまなざし。
 しかし、悠には見てとれた。兵頭の目には、悠に対する警戒心が、みなぎっていた。
 ……おびえなくてもいいのに。
 坂田のふとった、やわらかな手首を受けとめながら、悠はこっそりと、身を震わせた。
 自分は、敵じゃないのだ。
 ……ちゃんと、守ってやるのだ。

 ◆

 仕事終わりに携帯で電話すると、女は妙にわなないた声で、すぐに来てほしい、と言った。
 言われるままに女の家に行って。
 ……悠は、驚いた。
 玄関を開けるなり、女は、玄関マットの上で土下座した。
 そうして、細い、キレイな茶髪をふるふるとさせながら、
「ごめんなさい。ごめんなさい」
 と、詰まった声で、言いつのる。
 ――ライターの男に、全部しゃべってしまったのだ、と。
 懺悔する瞳で見上げてきて、女はそう言った。
 宅配便をよそおって訪ねて来た、その男に応対するため、細く玄関ドアを開けたら。
 強引にクツの先を押しこまれて。
 ドアチェーンをかけていなかったために、そのまま押し入られてしまったのだそうだ。
「そのまま何時間もねばられて……耐えられなくなったの。だって、だってよ、警察の取り調べみたいだったんだもの」
 そう、うさぎのように赤い、充血した目で訴えてくる女を。
 悠は感情を表にあらわさないようにし、なるべく優しげな顔を保って、見ていた。
「あなたの顔がよぎったの、でも……」
 いいわけするように、女が弱く、弱く言う。
「……こわくって」
 ぐすん、と派手なすすり泣きの音が、玄関先の狭い空間に、響く。
「あなたは、優しいから」
 そう言って、女は頭をぶんぶんと、いきおいよく振った。
 長い髪の毛先が、悠のジーンズの足に一瞬、当たる。
「……こわいの。不安なの」
 とっくに、冷静ではなくなっているようだった。
 目だけは、どうしようもなく氷らせて。
 立ったまま悠は、女を眺め続ける。
「信じられなくて。だって、あたし、今、こんなぼろぼろで……」
 乱れに乱れている、汗でしめったくしゃくしゃの茶髪。
 それでも、その髪は。
 かなり綺麗に輝いていた。
 ちょうど、あの夏の晩を、彷彿とさせてくるように。
「あなた、私のどこが好きなの?」

 消沈したおももちで、悠が女のマンションを出ると。
 大きなカメラを肩から提げた、下品なからし色のブルゾンを着た怪しげな男が、木陰から小走りに走り出て、寄ってきた。
 悠が不審に思う前に、すばやく、はげあがった頭と、貧乏臭い顔をこちらにさらして、
「あなた、兵頭さんですか」
 と聞いてくる。
 女の言っていたライターだ、と、すぐに察した。
 女から話を聞くだけ聞いた後、そのままここに張りこんでいたらしい。
 もみ消しがうまくいかなくなりそうなのを悟って、本人があわててかけつけてきたのか、と思っているのだろう。
 バカか、と、悠は。
 相手から、前方の歩道へ、視線を戻した。
 兵頭の身体的特徴は聞かなかったのか。あの男は、雲をつくような大男なのに。
 ライターの男は、完全にノーコメントの体制を取ったこちらにもめげず、
「今日は、なぜ?」
 と、重ねて聞き、歩くこちらについてき続ける。
 ……私じゃない、と言えば、済むことだった。
 悠は早足で歩き続ける。相手は、まだついてくる。
 ……言えな、かった。

 ◆

 兵頭を、川沿いの公園に呼び出したのは。
 その、二日後の、夜勤前だった。
 兵頭は、いつもの青いブルゾンではなく、真っ黒なコートを着てきていた。
 寒い、日だった。
 悠は首にぐるぐると巻いた、ぺらりとした白マフラーに鼻をうずめ、兵頭を頭からつま先まで観察する。
 見事な八頭身の、いい男だった。
 ……アウトローな迫力がありすぎるだけで。
 兵頭は、
「……なんだよ、用は」
 と来るなり言ってきた。
 悠は、相手の全身に合わせていた目の焦点を、相手の瞳だけに変え。
「……電話でも、言っただろ」
 と、おとなしく言った。
 フン、と。
 相手が、不服そうに鼻を鳴らす。

 ……呼び出しの際、兵頭の自宅に電話した。
 その時の、兵頭の開口一番のセリフが、
『なんで電話番号知ってやがる』
 だった。
 同じ職場なんですよ、調べればすぐわかります、と。
 悠は、電話口で苦笑して答えたのだった。
 外で会いたいんですけど、と告げると、兵頭は、
『なんでだ』
 と聞いてきた。
「……会いたいだけです」
 と答えると、たっぷり一分、兵頭は沈黙した。
 そして、その疑いに満ちた沈黙の後、兵頭はもう一度口を開いた。
『おまえ……なんなんだ?』
 どよっとした、暗い声で。
『おまえは……誰にも言ってない』
 そんなことを、言ってきた。
『それで、おれにまとわりついてくる。なんでだ? 目的は何なんだよ。何をたくらんでんだ』
 悠は、一人暮らしのアパートで、ころんと床に寝ころがって電話しながら、その声を聞いていた。
 苦悩しているような、声だった。
 ……頭の悪い、兵頭は。
 自分がやってしまった犯罪に、己の首を絞められている。
 その、追っ手の恐怖と、共に。
 証言者である自分の、不可解な行動にも、存分に悩まされているらしかった。
 悠は、携帯電話を、耳元に。大事に、当てなおして。
 それから、息を吸って、間を置いて。
「好きなんですよ」
 と、軽く答えた。
 すぐに。
 信用できるか、と吐き捨てられた。

 ……呼び出したのは。
 本当に、ただ、会いたかったからだった。
 何を話す気もなかった。
 こうなってしまったら、……もう。どうしようもない。
 記事になる。
 結局自分は、……甘く見ていたのだ。
 いかにも誰かにすがりたそうにしている、あんな状態の女さえ、だませなかった。
『あなた、私のどこが好きなの?』
 ……そんなところまで、フォローしなければならないと……思えてなかった。
 ――理由がなく好きになる。
 それは、理不尽なくらい……。自分を納得させることができないくらい。
 あり得ることなのだと、最近。身を以って思い知ったばかりだったから。
 そう、悠がうつむいて、白いマフラーに口元を埋め、歯噛みしていると、
「おれ、退職するからな」
 兵頭が、ぼそりと言った。
「そんであの女に金わたして、……しばらく海外にでも、逃げる」
 悠は、哀しい気持ちで、目を上げた。
 兵頭は、全てから逃げる気でいる。
 あの女からも。……多分、自分からも。
 ……どうせ。
 もう記事になる。
 悪あがき、言い逃れの道はまだあるにしても、高飛びなんかできるわけはないのだけど、でも。
 なんで信じないのだろう。
 兵頭に対して自分は、有利にはたらく、材料となるのに。
 抱いてほしい、まで言って。態度でも示したし。
 言葉でさえ、はっきりと言ったのに。
 ……なんで信じてくれないのだろう。
 ……理由がない。
 好きになる理由も、なっていい理由も。
 それは、自分でも、わかっている、けど。
 ……人に、おまえはあの男を怖がっている、とまで、言われていた。
 それほど、この男は苦手だった。
 強くて横暴で、意思の疎通がはかれない。
 それが、最初のあの練習試合の時に、形成された、相手の印象だった。
 そんな、印象が。
 初めて押し入れられたあの日、見た、あの気弱な瞳の光や、表情に。
 剥がれ落ち、くるりと回転していき始めた。
 それまで自分が考えていたこの男の輪郭と、あの表情は、まるで違った。
 そうして、事情がわかり、ただのあわれな男である兵頭の本当の姿が、見えてきたら。
 もう、ただひたすらに抱いていた畏怖は、崩れ落ちて。
 生の兵頭を、見つめ始めることができた。
 その、百八十度回転したイメージが。
 あんまり、意外で。
 ……そうして。そのまま。
 それだけで。印象が変化する、だけで、……終われなくて。
 ――抵抗もできずに、どうしようもなく。
 惹かれ、始めた。なんて。
「ありゃ、何だ?」
 突然の兵頭の声に、悠は顔を上げた。
 道路側との境目に植えられた樹の方へとそそがれている、兵頭の視線を追いかける。
 ……ライターの男だった。
 樹の根元から、こちらをじっとうかがってきている。
 ……兵頭まで、もう辿り着いちまったかな。
 そう思いながら、悠は天を見上げた。
 少しだけ、くもりに傾いた天候だった。
 夕方の空には、白いおおいつくすような雲が、広がっている。
 ……もう、あのライターは記事を、書いただろうか。
 ここまできてしまったら、警察も徹底的に兵頭を、追い詰めはじめるだろう。
 ……今、兵頭にそれを言うべきだろうか。
 悠はしばらく、空を見ながらそう逡巡した後。
 結局、やめた。
 どうせ、浅はかな兵頭は、ろくなことはしないだろう。
 この上、女の口をふさぐ為にもう一度レイプとか、あるいは暴力とかいう手段に出られたら、それこそ目も当てられない。
 ……自分には。
 もう、エンドマークまで見えている。
 高飛びは間に合わない。兵頭の容疑は確定し、おそらく、逮捕されてしまうだろう。
 自分が偽証するにしても、限度がある。なにせもう、一度トイレで離れました、と言ってしまってあるのだ。
 映画の最後に流れる、あのスタッフ名などが並んだ黒い画面を、見ているような気持ちだった。
 なすすべもない。終わっていく。
 悠は、瞳を閉じて。
 乾燥した空気を、胸の奥まで吸いこんだ。
 瞳を開けて、兵頭を見つめる。
 兵頭は、まだライターの男を気にしていた。にぶいなりに、なにか危険な存在だと、気がついているのかもしれない。
 悠は決意のはためく、揺るがない瞳で、兵頭を真摯に見つめ続けた。
 首を少し前方につき出して、樹の影をうかがう兵頭。真剣なそのようすは、どこかかわいらしくすらある。
 少年が、木に止まっているセミを捕まえようとしているような感じだ。まったく可愛げというものからはかけ離れた外見ではあるけども。
 悠は、唇の両端を少しつり上げ、笑んだ。
 ……そう。
 もう、エンドにはなっているのだ。
 ……それでも。
 最後まで。

 悠は、口を開いて。
 ガラスのようにつめたい、透きとおった声で、投げやりに答えた。
「……さぁな……」