「アダルトDVD撮りに、旅行いくから、一緒に来て」
 と、小学五年生の頃から一緒にいる、翔が言った。
 玲は机の上の、緑色をしたジンジャエールの空き缶を引き寄せ、吸っているタバコの灰を、缶の中に落とした。
 ふっと、ため息をつく。
 放課後の教室だった。もう夕暮れなのに電気をつけていないせいで、視界が薄暗い。
 自分より高い位置にある翔の顔を、目線を上げて、ちらりと眺める。
 スッととおった鼻筋や、すっきりした目元に、赤っぽい影がおりている。
 制服の半袖ワイシャツを着た翔は、にこにこしていた。期待している表情で、こちらをまっすぐに見てきている。
 もう一度、玲はため息を吐いた。
 いつか、こんなことを言い出しそうな気はしていたのだ。

 で、カメラマンやってくれ、というのは、OKするかどうかは別として、いいとして。
 続いて話された、バイト代がたまらないからといって、出張がちな父親が置いていく生活費や塾代を撮影費用のために溜めこんでいた、という話にもあきれたが……、それよりも開いた口がふさがらなくなったのは、知的障害の女の子をだまして、女優に使うつもりだ、という話だった。
 そういえば、翔は今年の春から、何回か市の福祉施設に、ボランティアに通っていた。
 実は、女の子の品定めのために、通っていたというのだ。
 玲はさすがに、口をまぬけなくらい開いて、まじまじと翔を見つめた。
「おまえ、そんなことのためにボランティア行ってたの」
 そう聞くと、そう、とあっさり答えながら、翔は目を閉じ、こくこくとうなずいた。
「だってさ」
 明るい声で、言う。
「普通の彼女じゃ、頼んでも撮らせてくれねぇでしょ」
 タバコの灰を落とす玲の動作が、一瞬、完全に止まる。
 玲はそれから、一拍遅れて、つぶやいた。
「悪いヤツ……」
 翔が、声を立てずに、くくっと笑う。
「バレたら、パクられんじゃ、ねえの」
 ぶすっとして玲が、文句をつけると、
「バレるような数、流通しねえって。そういうこと言ったら、盗撮モンとかなんか全部、やばいんだからさ」
 と翔がサクサクと言う。
 そんな翔の顔を眺めながら、そのやさしそうな容姿と、話す内容とのギャップに、玲はとまどっていた。
 翔には小悪魔みたいなところがある。いかにも現代っ子的なタイプだ。
 それはわかっていたが、なんだか今回は、ずいぶん吹っ切って悪魔になりきっている。
 ……そこまでして、どうして。
「撮って、どうすんだよ」
 不満げにぶくっと唇をつき出し、そう訴えると、
「監督に送る」
 と明瞭に返された。
 あー、やっぱりな、と玲は思う。
 翔には、アコガレている映画監督がいる。
 映画監督というか、アダルトDVD監督が本業の監督なのだが。
 高校一年生の春、翔はたまたま本屋で、その監督が出した私小説を手にとって、……すっかり影響を受け、染まってしまったのだ。
 その監督は、自分には実母と小学生の頃から性的な関係があった、と、その本で暴露していた。
 そうしてそういう人生経験を、むしろ生かして、AV監督になった、とその本を占めていた。
 翔としては、そうか、その手があったか、という開眼があったらしく、以後めっきり翔は、その監督に心酔するようになったのだ。
 実際、ハマったばかりの頃の翔は、酷かった。
 あんまりその監督のアダルトDVDにのめりこみすぎて、学校で二人、昼飯を食べている時にいきなり、『アナルセックスって気持ちいいのかな』と、メシを吹き出しそうになることを言い出したりしていたのだった。
 しばらくすると、そこまでのどハマりぶりではなくなったものの、翔は今でもあいかわらず、その監督を自分の目標としているのだった。
「出来がよかったら、監督の会社にバイトで入れてくれるってさ。弟子っていうの?」
 翔が意気ごんだ口調で、続ける。
「絶対、入れてもらいたいんだ」
 そうして、何気ない風に、つけたした。
「ほら、おれ、これしかとりえないじゃん?」
「…………」
 それを否定してやることはできなかったので、玲は黙っていた。
 翔はあいかわらず、嬉しそうにへらへら笑っている。
 しかし、なんだって一足飛びに犯罪に行けるのか。
 玲は、
「その監督知ってんのか? 女が、そーゆー女だってこと」
 と聞いてみた。すると、
「知ってるよ〜」
 と軽く返される。
「止めねぇの? その監督も」
 そう聞き返すと、
「止めない」
 とキッパリ言われ、更に、
「というより、推奨してる」
 とつけ加えられた。
「そんくらい女、非情に扱えるようでないと、うちの会社には、はいれないってさ」
 どういう会社だよ。
 と玲があきれていると、翔は、
「監督だって、女、道でだましてつかまえて、連れてきて撮影の部屋ぶちこんだりさ。電車の中で、他人のスカートの中に隠しカメラつっこんで、四方から男優にいじらせたり、いっぱいいっぱいしてるもん」
 と言い、見せただろ? と確認してくる。
 玲はうなずいた。確かに、翔に何本か、その監督のDVDを見せられたことがある。
 その監督の作品ときたら、男優二十対女優一とか、そういうグロイものまであった。
 どうも、そういう作風の人であるらしいのだ。
 そして、その作風には、もう一つ大きな特徴があった。
 旅行モノが多いのだ。色っぽい人妻の温泉不倫旅行とか、卒業旅行の女の子グループが、事件にまきこまれて全員強姦されてしまう、とか。
 つきあっている彼女といつもの自分の部屋でナチュラルな行為、なんてのを撮ってもしょうがねぇだろ、というポリシーに基づいてやってらっしゃるそうで、……その理論には確かに、まぁ、それはそうだなぁ、と、玲もオスとして同意せざるを得ない部分もあった。
 だから多分、翔が言い出したこの沖縄撮影旅行も、それを参考にしてのことなのだろう。
 ……しかし、それにしたって。
 玲が苦い顔をしているのにかまわずに、翔は、
「見た目は悪くないよ。ちょっとぶすなだけで。体は、綺麗」
 とその女の説明をした。
 商品説明のような、ドライな言い方。
 確かめ済みなんだな、と思って、玲はますます眉をしかめた。
 なんだか、腐った魚のような、どうしようもなく生臭い匂いが鼻をつく。もちろん気のせいだ。
「ボランティアにけっこー通ってたから、もう、その女の家族にも、信用あんだよ。おれ。女子も何人か参加するグループ旅行なんですって、説明してあるから、旅行に連れていく許可ももう、もらえたし」
 まあ、コイツ、人畜無害そうなカオしてやがるからなぁ。信用されるだろうな。
 と思いながら、玲は天井に向かって、ぷはぁ、とタバコの煙を吐き出した。
「だからさ」
 翔が身を乗り出して、こちらを見つめてきた。
「つきあってくんねーか。撮影旅行」
 黒目がちな、楕円形の眼。翔の髪と同色の茶色いその玉が、真剣に光っている。
 玲はタバコの灰を、とん、と落としながら、聞いた。
「……どこだよ」
「沖縄」

 そういうわけで。
 旅に出たのだった。
 監督兼男優の翔と、女と、三人で。

 ◆

 夏休みまっさかりの朝に、地元の駅で待ち合わせた。
 四泊五日の予定で荷造りした、でかいリュックを背負って改札の横で玲が待っていると、翔がそれらしき女を連れてやってきた。
 女は肩まである長い髪を、二つに分けて、幼い感じに、下の方で結んでいた。
 垂れさがった太い眉毛。気弱そうな目。妙に子どもっぽい、つるんとした色白な肌。
 玲と目が合うと、その女は翔の後ろに、もじもじしながら隠れてしまった。
「平木華、っていうんだ。華って呼んだげて」
 翔が笑いながら、言う。
「……いくつ」
 華、という名前の女をじっと見ながら、翔に尋ねると、
「おれらと同い年だよ」
 と翔は答えた。
 華はあいかわらずもじもじしたまま、翔の影から、じっとこちらを見ている。時折、すがるように翔の顔を見上げている。
 一言も、しゃべらない。
 何と言っていいのかわからなくて、玲は無言で二人に背を向けて、切符販売機に向かった。
 電車で空港に向かい、昼前の便で、沖縄に発つ。玲の費用も華の費用も、全部、翔持ちだ。
 この旅行は、沖縄を自転車でめぐる、自転車旅行になるらしい。
 わざわざ沖縄に行く必要があんのかと、あの日、夕日の教室で翔に聞いたら、どうしても舞台にしたい場所が一箇所あるのだそうだ。
『修学旅行の時さ、比地大滝ってところに行ったろ。あそこスゲェ景色だったじゃん。狙ってたんだ。あっこで撮ったら、ヌケるもんができるって』と、翔は興奮した口調で答えたのだ。
 そう答えられた時、玲は肩の力が抜け、拍子にまっ白な半袖シャツがずるり、と肩口から滑り落ちるのを感じた。
 何がヌケるだ。この色ボケ。
 そんな玲におかまいなしで、『あっこで撮影したいんだよー。もう、撮り方の構想もできてんのー』と翔はだだをこねる子どもみたいに、身をばたばたよじらせながら訴えてきた。
 そういえば去年、高校二年生の修学旅行は沖縄だった。その二日目あたり、翔がそんなこと言って興奮していたような気がする。
 修学旅行の思い出も、とんでもない活用のされ方してんな、と、玲はひたいを押さえた。学校側も、そんな活用のされ方、予想もしてなかっただろう。
 そんなことを思い出しながら、乗りこんだ飛行機でぼんやりしていると、機内食のクッキーを、スチュワーデスが配りにきた。
 電車ではずっと跳びはねてはしゃいでいた華は、飛行機内では疲れて眠っていた。
 が、クッキーが出てくるとそれにつられて起き、自分のクッキーをうれしそうに、翔の口にムリヤリねじこみ始めた。
 翔は困った表情も見せず、それをもぐもぐと咀嚼している。
 そして、自分の分のクッキーを一枚一枚、華の袋に返していた。
 玲はそれを横目で見ながら、ぼりぼりと自分のクッキーを食べた。
 どんな四日間になるのか、予想もつかなかった。

 那覇空港に着くと、まだ日はがんがんに高かった。
 ターンテーブルに載って流れてくる荷物を待ってから、空港の外に出る。
 超簡易なものだが、テントが入っているせいで、玲の荷物は重い。
 飛行機代だけでけっこうな額になるため、旅行中はずっと、かついできた超簡易テントの中で野宿なのである。
 翔の荷物も、テントの下に敷く薄いマットが入っているため、かなり重い。
 華の荷物だけは、着替えだけなので例外だ。
 まずバスに乗って、国際通りという、沖縄で一番にぎやかな繁華街に向かう。
 バス停に向かうため空港を一歩出ると、さすがに沖縄だった。
 むわぁっと暑さが、全身を包む。一気に汗が全身に吹き出してきて、くらりとする。
 空港構内の土地なのに、バス停に向かう道に、人影はまばらだった。
 翔と華は、玲の目の前を歩いていく。
 華は、翔の左腕にうれしそうにからみついて、にこにこしながら歩いている。
 ピンクのぴっちりした、小さめのTシャツから、つき出た華の胸が、翔の二の腕に当たっている。
 あんなにぴったりとくっつかれたら、さぞかし暑苦しくて歩きにくいだろうに、翔は平気で華を寄り添わせたまま歩いている。
 そんな二人のようすを玲が見ていると、ふいに華が翔を見上げ、口をにまあっ、と開けて、いかにも頭が足りない、という風に笑った。
 それを見て、玲は思わず目を見開いた。
 いきなり、罪悪感が噴出した。
 一気に喉が、カラっカラに渇く。
 あわてて、むりやり口の中に唾を出し、玲はその唾を道路に勢いをつけて、吐きつけた。
 わかっちゃいたけど、これは詐欺だ。
 頭が悪い、障害のせいで悪い女の子をだまして、セックスして、その映像を売りさばく。
 ノンスリーブのシャツから露出した腕や背中に、暑さのせいではない嫌な汗が浮き出てくる。
 顔をばっと上げて、玲は自分の前で上下に揺れている、大きなリュックを背負った翔の背中を、食いいるようににらんだ。
 あんなに優しげな表情で、平気で華をだましている、翔。
 ……翔は。
 翔は。なぜこんなこと、平気なのだろう。いつから。

 国際通りはさすがに活気にあふれていた。みやげもの屋が並んでいて、いかにも観光地の商店街だ。
 しかしふいに、平然と透明のポリ袋に青い魚を入れて歩いている人とすれ違って、玲はぎょっと目をむいてしまった。
 沖縄の人はあれを食べるのだろうか。
 華はいちいち、みやげもの屋に飛び込んではぬいぐるみなどを、目を輝かせて手に取っていた。
 が、翔が無視して、華を置いたまま歩いていってしまうので、いつも華は、あわてて出てきた。
 華がはぐれたらどうする気なんだろうなコイツ、と翔に呆れつつ、玲は華から一定以上離れないようにしていた。
 翔の華に対する態度は優しげで、その実ものすごく冷たかった。
 華のためにちょっとはみやげもの屋にいてあげようかな、なんて気持ちは、全くないようだった。
 もう昼をとっくに過ぎているので、まず、食事を摂る。
 適当に安そうな、とんかつ屋に入って、千円くらいの定食を、全員で食べた。
 華は自力で食事をするものの、キャベツの千切りなどをどんどん、自分の服やテーブルの上に落としている。
 翔は、食事が終わるまでそれを放っておいて、食事が済んでからそれを始末してやっていた。
 それから、歩いてレンタルサイクル屋に、自転車を取りに向かう。
 翔は、持ち運び式の自転車を三人分買ってもいいかな、と思ったらしいが、華が自転車のハンドル操作がうまくできないのと、三人分買ったらすごい額になるのとで、断念したらしい。
 電話で翔が予約してあったので、店に着くとすぐに、二人乗り用の長くて不恰好な自転車と、普通の自転車を一台ずつ、渡された。
 翔が料金を店の人に前払いする間、華は、翔の腕にしがみついたまま、首だけで振り返って二人乗り用の自転車に興味を示していた。
 玲はさっさと荷物を、自分の一人乗り用の自転車に載せた。翔もすぐやってきて、自分の分の荷物と、華の荷物を、それぞれ前の荷カゴと後ろの荷台に、載せている。
 店を出て時計を見ると、なんだかんだで五時をまわっていた。
 今日、テントを張って泊まる公園に、これから行かなければいけない。
 翔が荷物からごそごそと地図を取り出して、地図上の国道五十八号線の位置を、玲に示した。
 翔の計画では、毎日主にこの国道を北上して、最終日に例の比地大滝に着く予定なのだった。
 走り始めると、二人乗り自転車になれていないせいで、華を後ろに乗せてハンドルを握っている翔は最初、
「なんか、コケそうー」
 と笑っていた。
 が、しばらくすると調子よく普通に走り出す。
 華も、翔の後ろで神妙な顔つきでペダルを漕いでいる。
 それでも、やはり華が足を引っぱっているのか、二人乗り自転車のスピードはかなりゆるやかだった。玲は二人のペースに合わせて、自転車を漕いだ。
 国道五十八号線は、広い広い道だった。自分達の千葉の地元ではお目にかかれない、片道三車線以上の道が延々と、まっすぐに続く。
 おまけに、走り始めてしばらくしてから気がついたのだが、信号があきれるほど、ない。
 通っている車の数も少ないから、必要ないらしい。
 さすが田舎、と感心しながら、走る。
 三十分ほどすると、腕がヒリヒリし始めた。
 五時なのでまだ日差しに、昼独特の強さが残っている。少し日焼けしてきてしまったのだろう。
 やはり、沖縄の昼は長袖じゃないと、皮膚がボロボロになりそうだ。
 翔にそう忠告されていたから、持ってきた着替えは全部薄手の長袖だ。今日は夕方にならないと走らないから大丈夫だろう、と思って袖なしにしていたが、甘かったようだった。
 この暑さはただごとじゃない。着いてから何時間しか経っていないのに、全身が汗でベトベトだった。
 自転車を漕いでいることを差し引いても、やっていられないくらい暑い。
 これから毎日こうかぁ。と、玲が多少、嫌な気分になっていると、翔が自転車に乗ったまま首だけで振り返って、
「次のコンビニで、晩メシ買おー」
 と言った。
「んー」
 なにしろ沖縄だから、メシ屋とかコンビニとか、ちゃんとあんのか、と来る前は思っていたが、国道で、まだ国際通りの近くなので、今まで走っているうちにも三軒ほどコンビニを見かけた。
 これから毎日、コンビニかメシ屋に毎食必ず世話にならないといけないので、店がそのへんにちゃんとあるかどうかは、死活問題だったが、そう心配する必要はなさそうだった。
 二十分ほど走っていると、またコンビニがあった。晩メシにする分の惣菜パンと、明日食べるための菓子パン、それからミニのペットボトルなどを買う。
 こういう食費も、翔持ちだ。
 だけど翔は今朝、華の親に、華の分の食費はもらってきてしまったらしい。
「断りきれなかったんだよー。あんまり遠慮して『なんで娘を旅行に連れて行ってくれるのに、食費も受け取ってくれないんだコイツ。さてはうちの娘になんかする気か?』って、疑われてもまずいっしょ?」
 とレジで会計する前、ごまかすように笑いつつ、翔は言った。悪い奴だ。
 また公園を目指す。
 毎日野宿は、公園でする予定になっている。
 翔は用意周到に、ちゃんと公園まで載っている細かい地図を用意していて、今日泊まる公園も、もう決まっていた。
 しばらく走ると、海を正面に臨む公園が見えてきた。
 低いコンクリートの台で円形に囲われていて、ベンチと植木が置いてあるだけの、広場みたいな公園だ。
 獅子舞の獅子に似た、赤いシーサーの置物が置いてある。
 とっぷり日が暮れた公園で、玲はまずテントを張った。
 といっても高さが人の身長分くらいしかない、広さも人がやっと三人寝られるくらいのテントで、頂上の白いポッチをつまんで広げるだけで張れる、ワンタッチのやつだから、簡単だ。
 玲がそうやって、公園の隅に青いテントを張っていると、自分の分の荷物を自転車から翔が持ってやって来た。
 華は何してんのかな、と思って玲が後ろを振り向くと、華は買ってきたパンをわしづかみにして、もう食べ始めていた。
 玲はちょっと呆れたが、ああ、まぁ当然だよな、と思った。
 全ての荷物をテントにしまってから、玲達も公園の隅にしゃがみこんで、パンを食べ始める。
「……まだ、風があっからいいけどさー」
 玲はパンを歯でむしりとりながら、翔に言った。
「コレ、テントの中で寝んの、地獄じゃねぇ?」
「んー」
 翔も、もぐもぐとパンを食べながら、返事する。
「まあ、夜中はもうちょっと涼しいよ、多分。入り口のトコのシートは、まくって寝るしさ」
 確かに、風が強いので、外にいればけっこうしのげる。
 しかしこの公園が海に面しているため、風は思いっきり潮風だった。
 ただでさえ汗でべとついている体がますますべとついてきている気がする。
 根性で、むりやり寝なけりゃしょうがないか、と玲は思った。
 これから四日間は、風呂にも入れない。
 最初からわかっていたが、サバイバルというか、貧乏というか、とにかく待遇の悪い旅行なのだ。
 と、眠るよりもっと重大なことに、気がついた。
「今日、撮影すんの」
 こわごわ、翔に聞いてみると、
「するよ〜」
 と、軽い返事が返ってくる。
 思わず正直に、玲は暗い顔になってしまった。
 翔がその顔を見て、くくっと笑う。
「心配しなくても、今日は、さわるだけだからさ」
 驚いて翔の目を見ると、翔はおどけた調子で、
「最終日までは、クライマックスにしないのよぅ」
 と言い、柔らかい口調で、
「……安心した?」
 と言って、からかうような瞳で、見つめてきた。
 翔の目は、自分が華に同情していることを、見透かしていた。
 なんとなく恥ずかしくなって、玲はうつむく。
「玲君は、やさしいねぇ〜」
 くすくす笑いながら、いかにも楽しそうに、翔が言う。
「うるさい」
 玲は言って、パンにかじりついた。
 ムカつく。
 この情況で、華に同情しない人間なんかいるもんか。悪人の翔は、例外だ。
 華は、パンなのでほとんど食べこぼすこともなく、自分達の横で一心不乱に食べていた。

 ◆

 食後の一服タバコを吸いつつ、自分のタバコの煙と、緑のうずまき蚊取線香の煙が混じりあう様子を見ながら、玲はぼんやりしていた。
 すると横で立っていた翔が、
「そろそろ、行こうか」
 と、けっこういきなり言った。
 玲は思わず、不安気な瞳で、翔を見上げた。
 翔は冷静な、冷たくも見える眼で、こっちを見おろしていた。
 そして、さっと身をひるがえして、華の方に行ってしまう。
 そうして地面に膝をかかえて座っていた華の、両腕を捕らえ、引っぱり上げて立たせている。
 撮影。
 そりゃそうだ。そのために、来たのだ。
 でも、本音を言えば、やめたかった。
 玲はため息をついて、タバコを地面に押しつけ、揉み消した。
 やらないわけにはいかなかった。
 公園に荷物とテントを置いたまま、再び自転車に乗って、撮影によさそうな場所を探す。
 もうすっかり夜になっているので、視界が暗い。たまにある外灯に照らされているだけの景色は、よく見えなかった。
 こんなんで、ちゃんと撮影場所なんか見つけられんのかな、と玲は自転車を漕ぐ翔の背中を見ながら、思った。
 これから犯罪をやろうというのに、翔の背は堂々としていた。ゆるがない決意を感じさせる。
 こんな奴だったかな、と、玲は、首にかけていたタオルで、顔の汗をぬぐいながら、そう思った。
 こんな奴じゃなかった。
 もっと気弱そうで。のっぽなだけで。ほんとに優しい瞳をしていて……。
 ……あんなに、悲しそうに、うなだれていたくせに。
 ひたすらかわいそうな少年だったくせに。ぼんやりしたあの色が、似合っていた……。
「ここー」
 と翔が、振り返らないまま唐突に言い、自転車を止める。
 玲は、はっとして、あわてて自転車を止めた。そして横を見ている翔の視線を追った。
 翔は、公道のわきの、芝生の植えこみを見ていた。
 その芝生の植えこみには花壇がもうけてあり、花壇には、赤いハイビスカスの花が、咲き乱れていた。
 ちょうどその真上に外灯があって、ハイビスカスの花が植えられているあたりだけが、明るくなっている。
「…………」
 玲が黙って、自転車にまたがったまま立ちすくんでいると、
「ここで、撮ろ」
 と言い、翔はさっさと自転車から降りて、華も降ろした。
「……おう」
 玲は覚悟を決め、低い声でそう返事をして、自転車を停めて翔達の後を追った。
 道路側からなるべく遠い位置に、翔は華を座らせた。
 外灯の真下なため、昼のように、とはいかないが、かなり明るい。
 翔はしゃがんで、あきれるほど手早く、華の服を剥ぎだした。
 華は何にもわかっていない顔で、あいかわらずうれしそうに、翔を見上げていた。
 Tシャツを脱がされても、ジーンズを脱がされても、驚きもしないし、逃げようともしない。
 寒くはないのが、唯一の救いか。
 裸にされていく華の姿を見ながら、玲もしゃがんで、つとめてクールにそう考えようとした。
 やがて華は、芝生の上に白いパンツだけの姿で座る格好になった。髪までほどかれた華は、きょとんとして、翔と玲の顔を、交互に見上げている。
 と、いきなり、翔が、横に咲いているハイビスカスの花を勢いよくちぎって、芝生に一つ落とした。
 続けて、二つ目、三つ目。むしって、どんどん落としていく。
 玲はさすがに、唖然としてそれを見上げた。
 真っ赤なハイビスカスの花が、華の座っている芝生の上をうめていく。
 赤い花の絨毯だ。
 翔の意図はよくわからないものの、玲は花の降ってくる光景を見守り続けた。
 翔はあらかた花をむしってしまうと、華の前にひざまずいて、いきなり華のパンツをひきずりおろした。
 華の黒い茂みが、さらされる。
 一瞬だけ、華が嫌そうな顔をして、身をよじった。
 翔は完全に無視して、ぱたぱた暴れる華の足から、パンツを剥ぎ取ってしまった。
 そして、いっそ楽しそうに、
「じゃ、始めるか」
 と言った。
 時刻はもう、十二時をまわっていた。横の道に、人の往来は全くない。車が通りかかることが、ほんのたまにある程度だ。
 玲は背負っていた小型のリュックから、翔のDVDカメラを取り出した。
 それを見て翔が言った。
「とりあえず、いいんじゃないかな、と思うアングルで、撮ってくれればいいから」
「……おー」
 玲は返して、DVDを構えた。
 スイッチを入れ、片膝をつく体勢になって、ファインダーを覗く。
 翔は芝生の上に華を横たわらせ、華の肌を指先で優しくたどり始めている。
 華の肌は、驚くほど白かった。あちらこちらの静脈が、浮き出て見える。
 反対に、腕やすねの体毛はそうとう濃かった。剃ったことなどないのだろう。
 暑いせいで、全裸の華の肌も、見た目でわかるほどしっとりとしていた。鳥肌なんか全然、たっていない。
 翔の指は、ゆっくり動く。猫を撫でるように、華の首筋や、胸の突起を、愛撫する。
 見ているこっちがじれてきそうなほど、曖昧に。
 華は全く反応しない。あいかわらずきょとーん、としている。
 と、くすぐったそうに、
「ぎゃはっ!」
 というカン高い、色気もクソもない声を上げた。
 そうして断続的に、その声を上げ始める。
 その声に、なんとなく壮絶な萎えを感じながら、玲は華の顔を避けて、翔の指先を撮り始めた。
 翔の指はやがて、華の、かなり濃い、下半身の茂みに到着した。
 くるくると、そこの毛をかきまわす。
 と、翔はそこをいじるのをやめ、華の足首を捕らえて、華の股を開かせた。
 玲がぎょっとしていると、翔は全くためらわずに、揃えた中指と人差し指を、さらされた華の秘部にいきなり挿入した。
「ふひ……っ?」
 華が悲鳴を上げる。ばたばたと、手足を暴れさせ始める。
 すると、翔がもう片方の手で、華の髪を優しく撫でた。
 華はぴたっと、動きを止める。
 翔が優しく、華を見つめて微笑むのを、玲はファインダー越しに見た。
 華はすっかりおとなしくなって、翔の顔を見つめている。
 そのまま、翔の指は、ゆっくり華の内で動く。
 根元まで見えなくなり、また指先が見えそうなほど抜かれ、また華の中にしずんでいく。
 生々しいその光景を、玲は息を詰めて撮っていた。
 すると、
「玲」
 いきなり冷静な声で翔に呼びかけられ、玲はDVDカメラをとり落としそうになった。
「ああいうのも、撮らないと」
 翔がそう言って、あごであるものを指す。
 赤い花の上に転がっている、白い、華のパンツだ。
「――?」
 なんであんなもんを、と思いながら、玲はそこにカメラを近づけてみた。
 指先で、丸まったそれを、地面に押しつけて広げてみる。
 秘部からの分泌液である黄色いしみが、真っ白なパンツには円形についていた。
 それをカメラに納めた瞬間、純粋な吐き気を覚え、玲はあわてて口元を押さえた。
 ここでうぇ、とか、おぇ、と声を上げてしまったら、また翔に、優しいとバカにされる。
 玲は必死でそれを何秒か撮り、華と翔の方に戻った。
 翔はあいかわらず、華の胸や腰を、優しく手のひらで撫でまわしながら、指の挿入を繰り返していた。
 玲は華の秘部へと、カメラを近づけてみた。
 近づくと、すっぱいような、華の愛液の匂いがぷんとした。
 そのままファインダーを覗くうち、玲はびっくりした。
 カメラを近づけてみて初めてわかった。
 華の秘部のひだから、透明なゲルっぽい液が出ていて、ハイビスカスの赤い花びらを濡らしていっていた。
 その花びらが赤く、ひかるさまは、異様になまめかしくて、いやらしかった。
 玲は思わず、感嘆した。
 翔は、こういう視覚的効果を狙って、花びらをしきつめたのか。
 そして、ふっと気がついた。華のあのまぬけな、笑いを誘う声がしない。
 玲は顔を上げて、華の顔を撮ってみた。
 すると、ファインダーに入ってきた華の表情は、さっきとは一変していた。
 眉をぎゅっと寄せ、目を閉じた。むず痒そうな、不快気な顔。
 ひたいには、玉のような汗も浮かんでいる。
 それを見た瞬間、また吐き気がした。
「ぅっ……」
 思わず洩れた、軽いうめき声は、翔の耳に届いてしまったようだ。
 翔は無表情に、玲を振り返った。じっと、その茶色い目で、見つめてくる。
「…………」
 玲は何もいいわけできずに、カメラから顔を離し、ばつが悪い思いで翔の顔を見つめ返した。
 すると翔は、華の方に顔を戻し、指を華の秘部から引き抜いた。
 そして人形のようにだらっと天を見つめている華を見おろしながら、
「今日は、ここまでにするわ……」
 と言った。
「…………」
 玲は突然の終了にとまどったが、しばらくして、
「いいのかよ」
 と、不機嫌に言った。
「うん」
 翔は、勝手に華のパンツで指をぬぐいながら、飄々と返事をした。
 そして寝ころがったままの華に、服を着せ始めた。

 公園に戻って、先に華をテントで寝かせる。
 華は自転車漕ぎで疲れていたのか、さっきのことで疲れたのか、とにかく、すぐにすやすやと眠ってしまった。
 その後、テントの前で、二人で座って、懐中電灯でDVDの液晶画面を照らして、簡単に映像のチェックをする。
 だいたいいいよ、と翔は言った。
 そして、もうちょっと対象に熱意持って撮ってくれればもっといいけど、と笑う。
「玲、センスいいじゃん」
 最後には、そんなことまで言った。
「うるさい」
 玲は吐き捨てた。白々しいお世辞だ。
 イヤイヤやっているのに、センスがいいわけがあるか。
 そう、玲がぶすっとした表情をしていると、翔はふいに、冷たい、監督の顔になって、
「華はなー。初日だからなぁ。こんなもんか」
 と、液晶画面を見つめながら言った。
 そして打って変わって心配げな表情になる。こっちを振り返ってきて、
「……大丈夫?」
 と言う。
「……なにが」
 あぐらをかいた姿勢で、すごい勢いでタバコをぶかぶかふかしたまま、玲は冷たく返した。
 翔が気づかってくれているのが、わかる。
 でも、男として軽蔑されている気がして、癪にさわる。
 自分だって、そんなに純粋で繊細な神経を、持ち合わせているわけではないのだ。
 これが、普通の女にしていることだったら、なんだって平気な顔をして、受けとめられる。
 あのパンツのしみや、ひたいに浮かんだ痛々しい汗が、普通のAV女優のものなら、十分耐えられた。
 でも、華は華なのだ。
 普通じゃないのに。判断能力のない哀れな、女の子なのに。
 ……グロすぎる。
 そう思いながら、玲は軽く頭を振って、立ち上がった。
 テントの入り口をめくって、中に上半身をつっこむ。眠っている華の顔を眺める。
 薄いマットの上で、タオルにくるまって眠る、華の顔。
 華の顔の輪郭はまん丸なので、無邪気な寝顔は、どこかおかしく、微笑ましかった。
 安らかな、幸福そうな表情だ。幼い子ども、そのものだった。
 玲はしゃがんで、華のひたいにかかっている前髪を、かき上げてやった。
 そばかすの散った華のほほを見つめる。
 可哀想に、と、なぜか人ごとのように思った。
「頭悪いと、すぐ寝つけるよな」
 後ろで翔が、優しげな表情のまま、そう吐いた。

 ◆

 ……熱い……。
 そう頭の中でつぶやき、玲は目を開けた。
 湿度の高い、テント内の空気。汗の匂い。
 べたべたした肌。汗があちこちの体のくぼみに、溜まっている。
 玲はごろりと寝返りを打った。青いビニールテントの生地に占められていた視界に、変わって翔の背中が飛びこんでくる。
 息を詰めて、じっと耳を澄ますと、翔と華の規則正しい寝息が聞こえてきた。華の寝息には、ごわごわといういびきが混じっている。
 玲はため息をついて、半身を起こした。
 ……あんなことの後で、よく眠れるもんだ。
 何をされたのかわかっていない華は、いいとしても。
 翔はヘンだ。罪悪感が、ほんとにほとんどないらしい。
 ……やーな、目の冴え方だな〜。
 興奮して眠れない。と言っても、一種異様な、色気のない華のセックスシーンに興奮しているわけじゃない。
 翔の後ろめたさの感じられない、ひたすら堂々とした態度。それに、心を乱されている。
 ……こんな、奴だっけ。
 玲はかたわらの翔を見おろしながら、またそう思う。
 昔より、当然大きくなった、翔の背中。
 青いTシャツに、二つの肩甲骨の線が浮き出た、青年らしい背中。
 じっとそれを見ながら、玲は昔見た、翔の背中を思い出していた。
 気弱なのっぽの中学生の少年に、よく似合っていた淡いオレンジ色のパーカー。
 うつむきがちになっていた顔が、とても淋しそうで、悲しそうで。
 あれはウソだったのだろうか。それとも幻だったのだろうか。それとも。
 だから、違う。
 昔のことなのだ。今の翔とは違う。
 玲は肘を持ち上げて、手の甲で、ひたいにたまった汗をぬぐった。
 ……そうだ、あれは。
 通夜の、晩だった。

 キツイ、厳しそうな人だった。
 玲には、それしか印象がない。
 京都で、小料理屋をしていたらしい。
 翔の父親が千葉で一戸建ての家を買う時、家を買う代金を半分出して、それで翔の家族と同居を始めたらしい。
 すぐに、嫁との折り合いが悪くなったらしい。
 自分は出ていかず、嫁をいびり出したらしい。
 それが、玲の知っている、翔の父方の祖母だった。
 いつも、こざっぱりした着物を着ていた。
 とても痩せていて、美形だけど鷲鼻の、けわしい顔立ちをしていた。
 あまりにも身のこなしが、スキがないというか何というか、とにかく、一見して素人ではないと思わせてくる人だった。
 といって、何の玄人なのかと聞かれても、当時の玲にはよくわからなかったが。
 翔の母親が、出ていったのは、翔が小学校二年生の頃で。
 翔の父親は、ロープウエーの修理などの仕事をしていて、出張が多い。
 ……だから。
 淋しかったんじゃないかなぁ、と、翔が、翔の祖母が亡くなってしばらく経ってから、言ったことがあった。
 バカかこいつ、と玲はその時、心から思ったものだ。
 翔にやたら、のんびりとしていてお人好しな一面があることは心得ていたが、でも。
 京都に暮らして長かったみたいだし、お父さんいないし、お母さんいびり出したせいで近所の人にもこわがられてるし、などと翔に並べられたが、玲は全く、翔の祖母に同情する気は起きなかった。
 だいたい。
 被害者は翔なのだ。なにを、加害者に同情してんのだ。
 最初は、茶の間で正座してテレビを見ている時に、通りすがりにいきなりしゃがみこまれ、前を擦られたらしい。
 それから、握ってしごかれるようになって。
 長い時間、一年にわたるくらいの時間をかけて、徐々に入れる段階にまで、導かれた。
『あんたはずっと、ここにおんなはれ』よく、最中に、そう言い聞かされたそうだ。
 異常は、そんな風に始まった。
 翔が小学校五年生の頃だった。
 そして、その死まで、終わらなかった。

 ……とにかく、最初に電話で、その祖母の死を、翔に告げられた時。
 やっと、と思ったのだ。これで終わる、と。
 通夜の晩、制服を着て翔の家に行くと、翔は玄関まで迎えに出てきた。
 そしてそのまま、通夜の準備でバタバタしている家から抜け出し、玲を近所の、小さな公園に連れ出した。
 中学二年の、秋だった。
 寒かったのか、翔はブレザーの校服の上に、ぶっかりとした、淡いオレンジのパーカーを着ていた。
 何も言わずに、早足で公園まで歩き、ブランコの前でいきなり立ちすくみ始めた翔の背中を、玲は冷めた目で見つめていた。
 玄関で会った瞬間わかった。目を見たらわかった。
 今、その背を見ているだけでもわかる。
「悲しいわけ」
 冷たい声で、玲はそう聞いた。
 翔の感情なんか、手に取るように読み取れる。
「ンなわけ、ないよな」
 読み取れてはいたが、玲は責めるように続けた。
 翔は、
「悲しい」
 と言い切った。こちらに、背をむけたまま。
 パンツのポケットに両手をつっこんで。うなだれて。
 ……不気味だと思った。
 玲は開始当時から、翔に聞かされていた。翔がイヤな方法で虐待されているのを、ずっと知っていた。
 だから、なおさら、翔の神経が理解できなかった。
 愛していたんだかセックスしていたんだか知らないが、あんな年上の虐待ばばあを、いくら、死んでしまったからといって、いとおしめる翔は、気持ち悪い物体だった。
 案外、慣れちまってけっこうよくなって、虐待じゃなく合意に変わっちまってたのかもな。
 と非道いことを思いながら、玲はうつむいて足元の小石を踏んだ。
 翔がぽつんと、
「気持ち悪い」
 と、自分で言った。
 玲は一瞬ためらった後、いたわるような気持ちで、翔に一歩、近づいて、横に並んだ。
 翔は半身を少し前に折り曲げて、顔も低く低く伏せ、全身でうなだれていた。
 それでも、妙に強くその目だけは、光っていた。
 走っている、となぜか感じた。
 何かを、自分の前に立ちはだかる何かを、にらむように見つめているその目は、確かに逃げずにその何かに向かい、走っていた。
 こえぇ、と感応し、身震いしたのを、最後に覚えている。
 視界が、記憶が、翔の着ている淡いオレンジのパーカーの色に染まっていった。
 あれは。いつの季節だったろうか。
 夏に近い秋だったか。冬に近い、秋だったか。
 温度は、湿度は。何度だったのだろう。

 玲は閉じていた目を、横たわったまま、薄く開けた。
 目の前の、青い翔の背中が、ぐにゃりと、溶けるようにぼやけていく。
 まどろみの中で、思う。
 あの小学校五年から、中学二年生にかけての時期の、それに漬かった生活が原因で。
 翔はそういう淫猥なことばかり、考えているような子どもになってしまっていた。
 一見普通に、学校に通っていても。適度に女子と寝てみていても。
 いつも頭のどこかで、自分自身の異様な経験の世界を回想していた。
 勉強にも、スポーツにも、他の何にも興味を持てないでいる翔を。
 そんな、どこか壊れた、子どもを。
 ……それは、何もできなかったけど、でも。
 時にアホ、とひっぱたきながら。
 いつも、見守ってきた、つもりだったのに。
 翔は優しかったのに。どこか、ふところが深い感じがしたのに。女に冷たいところはあったけど、でも弱いものいじめなんか、趣味じゃないくせに。
 それを、自分は、知っているのに。
 目が熱い。夏のせいの熱さとは違う。しみるような痛みを伴った熱。
 ぱたり、ぱたり、と、涙が落ちていく。枕にしているタオルに吸い込まれていく。
 ……翔。

 ◆

 翌朝、目が覚めて隣を見ると、翔がすでに起きていた。華に、着替えの服を取り出してやっている。
 しょぼしょぼとなんだか痛む目で、玲がそれを見ていると、翔は振り返り、
「ヒゲ、そりに行こう」
 と言った。
 ヒゲそりの道具や、タオル、トイレットペーパーを持って、テントの外に出る。
 すると、トレーナー姿の老人が三人いて、早朝体操らしきものをしながら、こちらをぎろっとした、不審なものを見る眼で、うかがってきていた。
 玲はもろにぎょっとして動きを止めてしまったが、翔は平然として、公衆便所にてくてくと歩いていく。
 玲は老人達を気にしながらも、あわててそれに続いた。
 公園の横にある公衆便所は、障がい者用トイレがついた、広いものだった。しかも、かなり綺麗だ。
 そんでもやっぱり、トイレットペーパーはねーんだなーと、ないのを確認して、玲はぼんやり思った。
 翔が、昨日の夕方コンビニで、ないだろうから買った方がいい、と言ったので、ちゃんと買っておいてあった。
 洗面台に並んで、めいめいヒゲをそったり顔を洗ったりし始める。
 そうして、鏡をふっとのぞき、玲はぎくりとした。
 鏡に映った自分の目が、おもいっきり赤く、充血していた。
 ゆうべ、泣いてしまったせいだ。
 鏡の中の自分の顔を見ながら、目のことをつっこまれないかな、と玲がひそかにおびえていると、翔が横目でこちらをうかがいながら、
「全然生えてねー」
 と、嬉しそうに、全然関係ないことをつっこんできた。
 玲は内心ほっとしたが、むっ、ともした。隣の鏡に映った翔の顔をにらんで、
「……人のこと、言えねぇ」
 とぶすっとした顔で、返す。
 翔だってヒゲの生えが、未だ薄い方なのだ。
 そう追及するたび、まだ下も生えそろってない年令ですもの、と、翔はうそぶくが。
 翔は玲の返事に、ぱちんと両目を閉じ、軽く肩をすくめて見せて、ヒゲそりを続行し始める。
 玲は蛇口を勢いよくひねって、水流の中に頭をつっこんだ。
 そのまま顔をかたむけて、落ちてくる水を、直接、飲む。
 生ぬるい、というより温かい水。
 千葉だとそんな水道水はものすごく不味いが、さすが沖縄、なんだか清涼な味がして、けっこうイケる。
 公園に戻ると、老人達が未だ、テントの方をうかがっていた。翔は全く気にせず、テントをめくって入る。
 まあ、こんなもんが近所の公園に、ある朝突然あったらな。なんだろう、と思って見るよな。
 ……でも、警察に、怪しい、とか通報されたら、ちょっとヤバイかも。
 と、思いながら、玲も翔の後に続いた。
 そうして昨日買っておいた、朝食用のパンを三人で食べた。
 食べ終わって、出発しようとテントの外に出てみると、さすがに老人達はいなかった。
「よっしゃ、じゃ、華の顔洗ってくるか」
 と、翔がぱんぱん手のひらを打ち合わせながら、言った。
 老人達に華を見られると、なんで女の子が男二人に混じって、と、ますます怪しまれると思い、華を外に出さずにいたのだろう。
 涼しい顔をしつつも、翔も用心していたわけだ。
 テントをたたみ終わり、さあ出発、と玲が自転車に荷物を積み始めると、翔は、
「はい」
 と日焼け止めのチューブを差し出してきた。
「……なに? もー塗ったぞ?」
 と、玲が眉をひそめて聞き返すと、
「腕にも塗っとけよ。玲、腕、赤くなってたから」
 と言う。
「いらねーよ、長袖着てんのに……」
 と玲は、日焼け止めを押し返した。すると、
「でも、おまえ肌弱いじゃん」
 と、腕をむにっと捕らえられる。
 ……玲はいきなり、逆らえなくなった。
「……うん」
 殊勝にうなずいて、日焼け止めを受け取る。
 そうしてうつむいて、腕に日焼け止めを塗りのばし始める。
 ほほが少し、赤くなっているのが、自分でもわかった。
 結局。翔のやわらかい物腰に、自分はいつも、逆らえない。
 今日走る道も、国道五十八号線だ。
 走り始めると、ただひたすら走る、という感じになってしまう。
 暑さのあまり会話もない。
 玲はしばらくすると、のどかな南風の吹く、海岸線沿いの風景を見るのにも飽きて、前を走る華と翔の姿に目を走らせた。
 華はかわいらしいけれども、ものすごいガキくさい、ピンクのリボンが巻かれた麦わら帽子をかぶっている。
 翔はヤンキースの野球帽をかぶっている。
 二人とも、薄手の長袖シャツとジーンズで、日光から身を守っている。
 キャップ型の黒帽子を、目深にかぶり直しながら、やっぱり自転車旅行なんか、かったるすぎるな、と玲は思った。
 しかし翔は、このかったるさも、疲れも、気にしていないようだった。自分で計画を立てたんだから当たり前だが、それ以上に撮影に燃えているのだろう。
 ……こうなると、病気だ。
 知恵遅れの女の子をだましたり、暑さも疲れも気にならなかったり。
 ただアダルトDVDを撮りたいがために。
 そんなことを考えていると、前を走る翔が振り返った。
「華、トイレ行きたいってさ」
 そして翔は、自転車を止め、ずるずると足で、二人乗り自転車の向きを反転させる。
「さっきあったからさ、ちょっと引き返して行ってくるわ。玲、ここで休んでて」
「……ん」
 少し迷ったが、ついていてどうなるものでもないので、玲はそう返事した。
 日よけになりそうなものが何もそばにない炎天下、ここに一人で残されるのも、別に嬉しくはなかったが。
 去っていく翔達を見送ってから、玲は自転車を降りた。
 車体に寄りかかりながら、タバコを取り出し、火をつける。
 目を閉じて、深く深く煙を吸いこむと、なんだか少し涼しくなったような気がした。
 が、それも一瞬で、また汗が吹き出してくる。
 玲はタバコを口にくわえて、帽子を脱ぎ、しめった髪の毛を風に遊ばせた。
 完全なストレートで、ワックスを大量に使いでもしなければ微風にでも乱されてしまう、重さのない質の短い髪は、しめってはいるのにやっぱり、サササァ……と軽い音を立てて、風に舞いおどった。
 じりじりと焼けつく太陽が、髪を熱していく。
 直射日光に目をすがめながら翔達の方を見やると、もう背中が小さくなっていた。
 ぼんやりそれを見送っていると、脇の車道を走り抜けていこうとした黄色のスポーツカーが一台、いきなりきゅっと止まった。
 驚いてそっちを見ると、青い目で金髪の、長身な白人青年が、窓から顔を出してこっちを見てくる。
「ヘイ!」
 玲は目を丸くした。
 ヘイ、と言われても。
 ヘイ、と言われても、どうすればいいのだ?
「ハロー」
 目を白黒させている玲にかまわずに、白人青年はさらにそう言った。
 玲はちょっと悪いとは思ったが、うつむいてそれを無視した。
 ヘイとかハローとか、んなアメリカンにしゃべられても困るのだ。
 そうしていると突然、
「どうしたの?」
 その青年は、そうなめらかな日本語でしゃべった。
 その響きが、あんまりにもはっきりとした日本語だったので、玲の緊張は一気にとけた。
 とりあえず、日本語をしゃべってくれるんなら、気後れすることはない。
 玲はぱっと顔を上げて、その青年を見た。
 白人青年は青い目でまっすぐこちらを見ていて、
「どうしたの?」
 と、もう一度くりかえした。
 どうもしない、友達を待っているだけだ、と返事しようとして、玲はふいに、翔が今朝出発前に、地図を見ながら、『ここ、ちょっと、わかんないんだよな。どっちに曲がるのか』とぶつぶつ言っていたのを思い出した。
 このアメリカ兄ちゃんに聞いておけば、早そうだ。
 玲は急に愛想よくなって、すばやく帽子をかぶり直す。そしてタバコを放り捨て、地図をバッグから取り出しつつ、青年に笑顔を投げかけた。
 向こうもつられるように、笑顔を返してくる。
「ここの角をどっちに曲がれば、この通りに出られるのか、知りたいんですけど……」
 とにこにこしながら玲は、青年の前に地図を広げた。
「どこどこ?」
 窓を全開にしている青年は、大きく身を乗り出してくる。
「この、赤い丸がついたところなんですよ」
「えーっと……」
 青年は目を細めて、じっと地図を見てくれた。
 しかししばらくそうした後、フッとため息を吐き、こちらを見上げてきた。
「日光がまぶしくて、よく見えないや。乗って説明してくれる?」
 玲はまばたきを、一回した。
 そしてなんとなく、空を見上げた。
 あいかわらずギンギンぎらぎらと、照りつけている太陽。
 地図の紙はつるつるしていて、表面に光沢がある。それに光が反射してしまい、見えないのだろう。
 玲は言われるまま、青年の車に乗り込もうと、車のドアに手をのばした。
 その時だった。
「玲!」
 翔の声が、いきなり大きく背後から響いて、玲はびっくりして振り返った。
 振り返ってもっと驚いた。翔が、怒っている表情で、こっちに自転車を走らせてくる。
 後ろに華が乗っているのに、すごいスピードだ。
「何やってんだよ、玲!」
 翔は自転車を、素早く玲の横に止め、降りて玲に近寄ってきた。
「……何って……」
 玲は思わず、一歩後じさりした。
「道、聞いてたんだよ……この人に……」
 翔がいかっているので、意図せず、いいわけするような口調になった。
 玲の言葉を聞いて、翔は、じろりとしか言いようがないような剣呑な眼で、白人青年を睨んだ。
 青年は睨まれて、なぜかちょこん、と肩をすくめた。
 それから玲を見て、
「道、もういいの?」
 と聞いてきた。
「……ええ……」
 玲は横目で翔を気にしつつ、
「いいみたいです……」
 と返事した。
「うん、じゃあ、グッバァイー」
 と青年は高らかに言って、車を発進させた。
 あっという間に車の姿が、見えなくなる。
 翔は、車が見えなくなってもなお、車が走り去った方向を睨んでいた。
「…………」
 なんとなく気まずい思いで、玲は翔の横顔を見ていた。
 何を考えているのだ、翔は。
 なんで怒ってんだ。
 あの白人、なんかしたか?
 さっぱりわからずに玲が心の中で首をひねっていると、翔がいきなり踵を返し、自転車にまたがった。
 そして後ろの席に乗ったままだった華を連れて、さっさと走りだしてしまう。
 玲はぎょっとして、自転車に乗ることも忘れ、自分を置いて走り去っていく翔を、しばらく眺めてしまった。
 かなり、怒っている。本気で、怒っている。
 じゃなきゃ、万事において丁寧な態度の翔が、こんなあからさまに不機嫌で、乱暴な態度はとらない。
 ……にしたって、無視して置いてくんじゃねーよ。
 と、玲は半ばあきれながら、ゆっくりと自分の自転車に近づき、だらだらと発進させた。
 どうせ、華が乗っているから、翔の自転車になんか、本気になればすぐ追いつけるのだ。
 ゆったり追いかけながらも、さっぱり翔の思考がわからない玲は、あいかわらず首をひねっていた。
 なんなんだあいつは。その考えしか出てこない。
 ……俺が車に乗ろうとしてたから、怒った?
 なんでだ。
 ……翔は。あの白人のこと、睨んでたな。
 ……白人も、翔に睨まれて、一瞬。肩を、すくめてた。
 いたずらを見つかった、瞬間みたいに――?
 だけど、あいかわらず、さっぱりわからなかった。
 翔の心の動きも、青年が肩をすくめた理由もだ。
 ただ。
 違和感だけが、残った。

 ◆

 道沿いに発見した吉野家で、昼食を摂っている間も、翔はずっと無言だった。
 華も不穏な空気がわかるらしく、居心地悪そうにもじもじしている。普段より一層、翔の方をちらちら見ながら食べるので、牛丼はもうこぼされ放題だった。
 玲はもっと居心地が悪かった。どうも、自分とあの白人が原因で怒っているらしい、というのはわかる。わかるが、何に怒っているのかわからない。
 牛丼を食べ終わると、翔はほとんど食後の休憩も取らず、さっさと店を出て行く。会計もしていかなかったので、玲が払うハメになった。
 ここまでされるとこっちが怒りたいのだが、翔が怒るというのは、年に一回くらいしかないことなのだ。
 ヘタにこっちが逆ギレすると、向こうももっとキレて手がつけられない事態になりそうな気がして、玲は、それもできなかった。
 店を出た翔は、異様に速いペースで自転車を漕いでいく。それでも同じ自転車に華が乗っているせいで、後ろからついていく玲としてはそんなに苦しいペースでもないのだが、翔は多分、息切れしているだろう。
 ……こんなん、うっとうしいな。
 そう思う。なんで怒っているのか、はっきり聞けばいいのだ。
 今度どこかで止まったら、きっちり聞こう、と玲が決意した時だった。
 ジュースの自動販売機の前で、翔が自転車を止めた。
 玲も自転車を止めて、翔を見る。
 翔はぼんやりと、自動販売機に目を向けていた。視線と同じくぼわーっとした声で、
「……のど、かわいた……」
 とつぶやく。
 玲は思わず、少し笑ってしまった。
 なんだかかわいい。
「ペース上げすぎっからだ、ボケ」
 笑いのこもった声でそう言うと、翔がこっちを振り返った。
 その瞳が、もう怒ってなかったので、玲はほっとして、くっくと声を出して、更に笑った。
 翔がまばたきして、それを見てきている。
「何、飲みたいの」
「……ポカリ」
 聞くと、素直に返事が返ってくる。
 玲は自転車を降りて、ポカリを買ってやった。ついでに自分の分のジンジャエールと、華のオレンジジュースを買う。
「ハイ」
 翔にポカリスエットを手渡すと、おとなしく受け取る。
 玲はジンジャエールのプルトップを開けて、一口あおってから、苦笑いした。
 いつものこったなー。と、思う。
 怒るのに慣れていないせいか、翔は怒るといつも、ひととおり怒鳴ったりしてキレた後、たいていこんな、ぼんやりとした状態になる。
「日陰で飲もーぜ。華も、少し休ませねーと」
 翔の後ろでおとなしくしている華を、親指で示しながらそう言うと、翔はうなずいて自転車を降りた。
 玲は華もうながして、自転車から降ろした。
 三人で並んで、道ぞいの木陰に腰をおろす。
 芝生も植えられていない土肌が、尻に熱かった。
「キレんなよなー。んなタイプじゃねーんだから」
 ジンジャエールを半分飲み、ついでにタバコを取り出して火をつけてから、玲はのんびりとそう言った。
 と、翔が、まだ怒ってんだぞ、と言いたそうな目で、ムッとこっちをにらんできた。
「おまえが悪いんだろ。なにやってんだよ」
「俺、なんにもやってねーよ。……だいたい、おまえなにに怒ってんだ?」
 ふはーと煙を吐き出しながら、翔を見ると、
「……心配したんじゃねーか」
 と翔が、聞き取りにくいほどの、低い低い声で、そう言う。
「心配?」
 きょとんと、玲が聞き返すと、
「……だから!……あの、外人が。やばいから」
 とごにょごにょと答える。
「は?」
 マヌケな声で、更に聞き返すと、
「……車内に連れこまれたら、やばいだろ!」
 と、ほとんど叫ばれた。
 タイミングよく、手元のタバコの灰が、ぽろりと落ちた。
 口をあんぐり開けて、玲はしばらく絶句した。
 一分ほどそうしてから、玲はタバコをはさんだままの手で、汗の浮かんでいるひたいを押さえた。
 そして、そうやってじっとしているうちに、だんだん可笑しくなってきて、
「何言ってんだよ。んな、こんな田舎、そんなデンジャラスなわけねーだろ!」
 とけらけらと笑いつつ、玲は言ってやった。
 すると、いきなり、残酷なほど冷静な声で、言われた。
「……Yナンバーの車ン中、治外法権だぜ」
「…………」
 玲は、驚きをのせ、目を丸くした。
 そのあと、細めた。
 翔もうつむいたまま、気まずそうな表情で、無言でいる。
 Yナンバー。
 沖縄米軍基地関係車両。
 旅行の前に、なんの話のついでだったか、翔がぽろりと言っていた。覚えている。
 ……なんとなく生々しさを漂わせたセリフが、心の中を冷たくしていた。
 地面を無言で見つめ続ける翔を見ながら、氷のような声でつぶやいてみる。
「……だから?」
 翔は何も返さない。
 もう一言、つぶやいてみる。
「……殺されたり、しねーだろ」
「バカ」
 一言で、切って捨てられた。
 そして、とどめのように言われた。
「……外人にゃ、多いんだから」
 何が多いのか、と突っこむことはできなかった。言外に、わかりきっている。
「……んな、レイプなんか、わかんねーじゃん」
 懲りずに玲は、そうつぶやいてみた。
 意図せずに、少しだけ、細くなってしまった声で。
「…………」
 玲のセリフを黙殺していた翔が、ふいに玲の口元に、左手を伸ばしてきた。
 なんだ? と思った瞬間、玲はタバコを盗られていた。
 翔の方に顔を向けると、翔は盗ったタバコを、ゆっくりと吸い始めている。
 普段は絶対吸わないくせに、翔のタバコを吸う姿は、妙にサマになっている。慣れていないはずなのに、咳き込むこともなく、自分よりも似合っているくらいだ。
 玲はタバコを吸う翔の姿に目を惹きつけられ、言葉を失う。
 翔は一言も言葉を発さないまま、タバコを一本、ほとんど吸い尽くした。
 それからすっかり短くなったタバコを、やっと地面に押しつけ、
「おまえなんか……。おまえなんか、口が。赤いんだよ」
 とぼそりと言いだす。
 そうして、いきなりがばっと深く頭を沈め、手のひらでぐしゃぐしゃと自分の髪をかき乱して、
「目がでかいの。人目、引くの!」
 と、わめく。
 めずらしく、ガキ丸出しの口調で。
「髪だって……なんっかめちゃめちゃサラサラしてっし……!」
 玲は少し茫然と、それを眺めた。
「……おれがどなったら」
 いきなり一トーン低くなった声で、翔は静かに言い、こちらを見上げてきた。
 その目は少し、涙目にすらなっていて、玲はどきんとする。
「……肩、すくめただろ、アイツ。アレ、証拠じゃんかよ」
 うらみがましい視線で、翔は言う。そして更にぐちぐちと、続けた。
「だいたい、気がついてなかったかもしれないけど、おまえの腕、握りしめようとして、手ェのばしてきてたんだぞ」
 腕なんか、さわられたって握られたって、なんにも問題ねえじゃねーか、と玲は思った。おまけに長袖だ。
 そう思ったが、怖いような気分になって、少し震えた。
「おまえなんか、ぜーったいそういう奴にしたら、よだれモンなんだからさ」
 翔が妙にきっぱりと、言い切る。
「……ンなら、おまえもたいして、人のこと言えねぇだろ」
 顔を伏せて、やっと玲はそう返した。
 翔の肉付きは、典型的な東洋人タイプだ。華奢ではないが、たくましくもない。
「おれは普通だろうが。おまえだよ、おまえ。なんっか、白いし、いつまでたっても小せぇし、とにかく、もっと用心しやがれ。今日なんか、そんな服着やがって」
 翔は横で、がんがんとまくしたててくる。
 そんな服、と言われても。
 ダメージ加工でわざと三箇所裂いてある藍色の生地を、茶の皮ヒモで×印に大きく、三つとめてあるシャツ。普通のワイシャツより、少し露出とデザインが大胆なだけの、普通の服だ。
 玲は困ってしまって、早口に言った。
「女でもあるまいし、んな、用心なんかできるかよ」
 自分まで怒っているような口調になってきてしまっている。
 玲はぎゅ、と目をつむった。
 目がでかいとか、小さいとか白いとか言われ続けて、どんどん心がけばだってきてしまっている。
 そういうことじゃないのに。
 外見を翔に誉められているみたいで、どきどき心臓が波打ってきてしまっている。
「女じゃねーんだから、なおさら用心しろ」
 翔はまだ怒っている口ぶりで、続けている。
「男だからな。レイプされた時」
 翔が言葉を切った瞬間、いきなり翔に、頭を片手でわし掴みにされ、玲は目を見開いた。
 そのまま力ずくで持ち上げられ、顔を横向きに、上げさせられる。
 翔の顔が、自分にアップで迫ってくる。
 翔の目はじっと、自分の顔を、のぞきこんできていた。
 強い眼光を放っているその瞳で、まっすぐに見つめられる。
「訴え出られるか?」
 その目に、呑まれた。
 同時に、翔の口元が、きゅっとキツく閉じられるのも、視界の隅に入ってきて。
 翔が、自分を本気で、心配してきているのが、わかった。
 反論できなくなる。
 確かに、訴えでるなんて、そんなみっともないことは、できるわけがない。
 そう思った瞬間、翔がやっと頭から、手をはずしてくれた。
「まず絶対、ムリだろ。……向こうもそんなん、読んでんだよ。だからこっちナメてて、増長してて、よけー危険なの。おまけにYナンバーで、いざ訴えられてもたいしたことにならねーって……。もう、もう、おまえみたいなのは過敏なくらい、用心しやがれ」
 翔はまた、べらべらと言いつのる。
 それからいきなり、語気を弱めて、
「……つー、の……」
 とつぶやき、ふぅ、と深く息を吐き出した。
 ようやっと気が済んだ、という風に。
 そっと翔の顔をうかがうと、その顔はいつもの優しげな、子犬みたいにおとなしい表情に、戻っていた。
 玲もそれをうかがい、やっと安心して、玲もほふっ、とため息を吐く。
 それからいきなり思い出して、玲は後ろを振り返った。
 空になったオレンジジュースの缶を抱えて、不安そうな眉尻の下がった表情で、華はじっとこちらを見つめてきていた。

 ◆

 夕方になり、泊まり場所の公園に着く頃になると、翔はすっかりいつも通りに明るくなっていた。
 夕飯の買い出しをしに、そばのコンビニに行った翔を待つ間、玲は公園にテントを張り始めた。
 沖縄の日は長い。真夏ということもあるのだろうが、六時半になるのに夜ではなく、夕暮れみたいな日ざしだった。
 と、ふと、奇妙な感じを視界の端にとらえて、玲は後ろを振り返った。
 華が公園の隅から、さみしそうな顔をして、甘えるようにこっちを見てきていた。
 翔がいなくて、自分は華にかまってやらないから、つまらないのだろう。
 玲は困ってしまった。
 自分は、翔みたいに器用じゃない。
 だましているのに平気で優しく接することは、できなかった。
 華を見ないようにして、テント張りを続行する。
 ちょうど張り終わって、荷物の配置も済んだ時、翔が片手にコンビニの袋をさげて、戻ってきた。
 なぜか後ろに、仙人のような長い白ひげのじいさんと、おとなしそうな中年の女性をしたがえている。
 玲はその老人の方に、ぎょっとしてしまった。
 白いひげだけでもぎょっとするものがあるのに、じいさんは赤い派手なバンダナを、おそらくはハゲの頭にまいていた。下はいい具合に膝のやぶけたジーンズで、格好だけが若い。
 なんなんだコイツら、と思っていると、近づいてきた翔に、
「泊めてもらえることになったから」
 淡々と説明を始められた。
 翔はコンビニの場所がよくわからなくなってしまい、通行人だったじいさんと女性に、道を聞いたらしい。
 すると、旅行か、誰と来たんだ、などとじいさんに根掘り葉掘り聞かれ、そのままコンビニまでついてこられて、挙げ句の果てに、今晩泊めてあげる、という話になったらしいのだ。
 玲は状況を理解して、おずおずと、自分達を見てきているその二人に、おじぎをした。
「さっき言ってた友達です」
 と翔が紹介してくれる。
 そして翔は、
「華〜」
 と言いながら、老人と女性を連れて、公園の隅にいる華の方へ、行ってしまった。
 玲は一瞬、ほうけてそれを見送ってしまってから、はっと我に返って、今張ったばかりのテントをたたみ始めた。
 たたみながら、なんなのかな、と思う。
 なんなんだろう。
 翔は、妙に人に取り入るのがうまい。
 人たらし、というのかもしれない。
 顔が少年顔で、おとなしそうだから。
 言葉遣いが柔らかくて、丁寧だから。
 笑顔が無邪気だから。
 多分そういう、さまざまなことが組み合わさって、翔にはこういうことが、けっこうある。
 電車の切符を落として困っていると、見知らぬ人がいきなりお金を貸してくれたり、逆に、他人にバスの乗り換え方を尋ねられたり。
 特に、さすがというか、老婦人受けは抜群だ。一緒に道を歩いている時、突然お菓子を、箱でわたされたことなどもあった。
 中身ただの悪人なのにな。
 そう思いつつ、玲はたたんだテントを、リュックに押しこんだ。
 日が、ようやっと暮れ始めていた。

 老人と女性は、比嘉さん、というのだそうだ。
 二人の関係は、義父と息子の嫁。
 老人の妻は、もう亡くなっているらしかった。
「主人はねぇ、福島に出稼ぎに行っててねぇ、二人暮らしなのよ」
 と小柄な奥さんは、穏やかに笑った。
 連れてきてもらった比嘉さんの家は、赤いかわらの屋根の上に小さなシーサーが載った、大きくて沖縄らしい家だった。
 奥さんは家に帰ると食事の準備に入ってしまった。
 居間に老人と残された玲達は、困った。
 老人は好奇心旺盛らしく、積極的に玲達に話しかけてくるのだが、その言葉がうにゃうにゃした、聞き取れない程のバリバリな方言なので、何を言われているのかさっぱりわからないのだ。
 今までは奥さんが通訳してくれていたので、どうにかなっていたのに。
 老人は気持ちよさそうに、方言でしゃべりちらす。
 玲と翔は薄笑いで、通じているふりをする。
 さっぱり通じていない会話は、そうして長く続いた。
 そうこうしているうちに、老人が玲達を指さして、
「やー」
 と言うので、どうやら『やー』は、『あんた』とか『おまえ』とか、『おまえら』という感じの意味なのだろう、ということは推測できるようになった。
 同じように、老人は自分を指さして、
「わん」
 というので、これは『俺』だろう。
 だけど、
「あまんかい、いちゅみ?」
 とかいう感じになると、聞き取れても、本当に笑いたくなるほど、わからない。
 そんな最中に、玲はそっと横目で華をうかがい、盛大にため息をつきたくなった。
 華は机の上に置いてあった、シーサーの手のひらサイズの置物を、手にとってうれしそうにいじくりまわしていた。
 ばかはこういう時、楽でいいよな。
 と、少し良心の呵責を感じつつも、思ってしまう。
 すると救いの神のように、奥さんが大皿を二つ手に持って、のれんの奥から現れた。
 大皿にはごちそうが盛られている。
 老人がほくほくと、あぐらをかき直しながら、
「くわっちー」
 と、また、謎の言葉を吐いた。

 奥さんが、並んだ料理の説明をしてくれる。
 いためたそうめんの料理は、沖縄では『ソーメンチャンプルー』というらしい。
 脂身がぷりぷるり、とした豚の角煮は『ラフテー』で、
「名産の、泡盛っていうお酒で煮こむの」
 と、奥さんが少し誇らしそうに言う。
 ラフテーは、見た目で脂っこいのかと思っていたが、案外さっぱりしていて、おいしかった。
 ゴーヤの炒め物もあった。
「本島では、にがうりっていうのよね、確か」
 と奥さんが、また細かく解説してくれる。
 察するに、本島とは、日本本土のことらしい。
 ゴーヤはかなり後味が、苦かった。
 ビールに合いそうだな、欲しいな、と玲は、一瞬むちゃなことを思った。
 そうして全員で食事していると、中盤に翔が、いきなり、
「あらためて自己紹介しますね」
 と言い出す。
 玲は食事を続けながら、翔の嘘の含まれた自己紹介を聞いた。
 翔はだいたい本当のことを言った。
 どこに住んでいるか、とか、高校名とかだけが、ちょっとずつ違う。
 隣町にしたり、近所の中学校の名前を自分達の高校名にしたり、素性が知れないような説明。
 やがて翔にうながされて、玲も食事をやめ、名前だけの簡単な自己紹介をした。
 翔は名前だけは嘘を言っていなかった。玲もそれにならい、本名を言う。
 言い終えると、また会話の主導権が、翔に移っていく。
 愛想がいいヤツだよなぁ、と思いながら、玲は食事を再開した。
 と、翔の堂々としたセリフが、耳に飛び込んでくる。
「それで、こっちは妹の華です」
「……ぐ」
 玲は思わず、食べていたそうめんを、喉につまらせた。
「……コっ、……ほ」
 嘘がバレるので、派手にむせるわけにはいかず、むりやり喉の奥だけで小さくむせる。
 翔がコラコラ、という目でにらんできた。
 ちゃんと演技しろ、と。
 負けじと、家の人にわからないように、玲は軽く翔をにらんだ。
 何が妹だ。とんでもない詐欺師だ。
 華を見ると、華は多少「ん?」という顔をしていた。
 が、翔のことを信頼しきっている華のことだ、あいかわらずよくわからないのであろう周囲の会話に、にこにこしていた。
 なんとなく疲れて、玲が脱力していると、奥さんが、
「兄妹仲がいいのねぇ、夏休みに一緒に旅行なんて……」
 と言い、すぐ隣に座っている華の頭に手を伸ばして、よしよしとなでた。
 すると翔は、
「えっと、あの……」
 と言いよどんだ。
 そして、
「見ての通り」
 言外に、障害のせいで、と含ませるために少し元気なくそう言い、
「妹には友人がいないんで。夏休みくらい、楽しませてやろうと思って」
 と、はにかんで、笑った。
 長いつき合いの玲でも惚れぼれするような、純粋で、優しさにあふれた、水の色に澄んだ笑顔だった。
 少ししんみりとした雰囲気の中、それでも翔のその笑顔を見て、老人と奥さんは、ほのぼのとした笑みを浮かべた。
 玲は、こらァ、本物だァ、と、こっそりため息をついた。

 ◆

 風呂上がりに、玲は中庭に出た。
 通りかかった縁側からふっと見た中庭に、井戸があったので、つい興味を引かれたのだ。
 小さな岩を繋ぎ合わせてできた井戸に、近づいていく。
 丸い、小さな井戸だった。
 古い木でできた、もう腐っていそうな、申しわけ程度の屋根が、上についている。
 なんとなく、その井戸の横にしゃがみこんで、休憩する。
 パジャマにと奥さんが貸してくれた、浴衣の裾が、わずかな風にはたはたっとはためいた。
 リーンリーンと、鈴虫のものらしき声が、響いていた。
 ……華は。
 風呂に入る前に見かけた時、奥さんに髪をかわかしてもらっていた。
 奥さんが華を、お風呂に入れてくれたのだ。そのせいか、華は、すっかり奥さんになついてしまったようだった。
 華はしゃべらない。
 でも、かまってやると、顔中で笑んで反応するので、とても素直でかわいらしい感じがする。
 髪をかわかしていた奥さんは、華を見つめて、嬉しそうだった。
 そこまで情景を回想し、そういえばこの家には子どもがいないな、と、玲は思いあたった。
 ……普段のこの家は、一体どのくらい静かなんだろう。
 そう思いながら、空を見上げた。
 田舎そのものの真っ黒な空には、たくさんの大きな星がまたたいていた。
 じいっとそれを見つめていると、じゃり、と小石を踏む音が、背後からした。
 首だけで振り返ると、自分と同じような白地に青い模様の浴衣を着た、翔が歩み寄ってきていた。
 玲は翔を見つめたまま、ぱちん、とまばたきをした。
 すると自分を見てきている翔が、にこっ、と、笑う。
 玲はあわてて顔を元の位置に戻し、うつむいた。
 翔が、自分の横にやってきて、止まった。
 いきなり逃げ出したくなった。
 さっきの翔の笑顔が、見つめている小石の敷きつめられた地面に、ちらちらとよぎる。
 茶色い瞳、茶色い髪。
 日焼けしたガキみたいな、濃い肌色。
 それが、くしゃくしゃっと崩れて、笑って。
 ……なんで、こいつの笑顔って。
 ……あんなに綺麗なんだろう。
 ぱちぱちとまばたきをしながら、玲がそんなことを思っていると、
「今日は撮影できないなァ」
 とのんびりした声で、翔が言った。
 玲ははっと、撮影のことを思い出した。
 不機嫌な声で、
「……いいのかよ」
 と返す。
「うん。今日、色々あったし。ゆっくりしよう」
 翔がやわらかな口調で、言った。
 玲は一瞬、色々? と思う。
 それから、色々、が、昼のちょっとヤバめのナンパのことを示しているのだと、やっとピンときた。それで、
「……バッカじゃねぇの」
 とつぶやく。
「女じゃねーんだから」
 そう続けると、翔が、
「まあね〜」
 と返してくる。
 なんなのだろう。
 翔の、この気づかいようは。
 妙に、翔は、自分に対して、甘い。
 優しい。
 ……自分も、そうだ。
 翔には甘い。底無しに。
 ねだられて、犯罪の片棒をかいでしまうぐらいに。
 ……だって、いつも、一番そばにいたのだ。
 一番、同じ空気を吸い。
 一番、その姿を、見つめてきたのだ。
 淋しくなった。
 つい、口をついて出る。
「……推薦で、受けるんだよな」
 いかにもさびしそうな声になってしまい、玲はあわてた。
 翔はその声の響きに気がついた風もなく、
「うん」
 と答えてくる。
 春からは。
 翔は、東京で一人暮らしして、短大に通うのだ。
 映像系の短大で、監督とかプロデューサーとか、カメラマンを目指す奴が、行く学校らしい。
 そしてそのかたわら、翔はあの監督の会社に、修業に行く。
 もう、翔はすっかり、AV監督一直線の道を、決めこんでいるのだった。
「……東京、行ったらさぁ」
 玲は、また口を開いた。
「もう、卒業しても、こっちには戻ってこねぇの?」
 すると翔は、
「さぁ……」
 とぼんやり、あやふやに答えた。
 そしていきなり、うつむいたままの玲を、じ、と見おろしてきた。
「おまえは、東京、まだ来る気にならないの?」
 そう責めるように言い、
「一緒のガッコ行ってさぁ。一緒にやっていこ、って、言ってるのに」
 なんとなく可愛い声になって、そう、続けた。
 玲は困りながらも、正直に言った。
「俺、AV撮りたいとは、思わねーもん」
 向いているとも、思わない。
「…………」
 翔は無言で、玲に視線をそそぎ続けてきていた。
 見おろしてくる、ただ静かな瞳。
 地面を見つめたままでそれを感じながら、なんとなく、とりつくしまもない、と、玲は思った。
 翔は迷わない。止まらない。
 東京に行ってしまう。AV監督になってしまう。
 泣きそうだった。
「……ま、いいよ」
 翔が、空を振り仰ぐ気配がした。
「どうせ、二年で区切りだし」
 そして、力の抜けた声で、言ってくる。
「……卒業したら、ムリヤリにでも迎えにくるもんね。……おまえは、おれがそばにいないなんて、耐えられないんだから」
 玲は、つまってしまった息で、やっとこさ、文句を言った。
「……なん、で、んなこと……」
 わかるのだ。断言できるのだ。
 じゃりり、と。
 翔の足元の小石が、激しく鳴った。
 なんだよ、と思い、顔を上げると。
 目の前に、しゃがんだ翔の、顔があった。
「おまえはさぁ」
 目を細めて、翔は笑う。
「いつもおれ、とってくれてるから」
 玲は目を見開いた。
「……どういう意味?」
 聞くと、にや、と翔は笑って、
「……いっつもおれ、フィルムに撮ってくれてるだろ」
 とはっきり言う。
 そして、あっさりと立ち上がり、もらった寝室の方に去っていってしまった。
 玲はしゃがんだまま、振り返って、そんな翔の背中を見送る。
 翔の背が視界から消えてしまってから、玲は、目をしばたたかせた。
 それから、夜空を見上げた。
 満月に近い月が、丸く――不思議なほど優しく、そこに、いた。

 ◆

 翌朝も快晴だった。
 このままクーラーのあるこの家で、最終日までだらだらと、お世話になりたい……と思ってしまうほど、暑い。日ざしが、きつい。
 玲はリュックを自転車に積みながら、地面におりた自転車の濃い影を、げんなりと見つめた。
 セミの声も、みんみんうるさい。
 背後から、翔が奥さんと老人に、また愛嬌をふりまいている声が、聞こえてきている。
 玲もそっちに行って、ぺこりとおじぎをした。短く、お礼も言う。
 華は、優しくされたのが嬉しかったのか、別れのあいさつの間も奥さんの方を、もの欲しそうにじいーっと、見ていた。そのまま出発の時になっても動こうとせず、翔に首の根っこをつかまれて、やっと自転車に乗ったほどだ。
 自転車にまたがって、あらためてもう一回お礼を言い、発進した。
 走りだしてから、ちら、と後ろを見ると、奥さんがいつまでも手を振っていた。
 老人は玲達が去るのがつまらないのか、ぶすっとした仏頂面をしている。
 その二人の上の、はげた赤色の瓦屋根が、地面に真っ黒な影をつくっていた。
 そんな風景を視界のはしに捉えて、あらためて玲は、ああ、あの人達のことも、だましたんだよな、と、思う。
 別に、そう自覚しなおしても、心が痛むことはなかった。
 どうせこの旅行は、最初から最後まで、こうなのだ。
 前方を走る翔に、視線を走らせた。
 キャップからはみ出た翔の髪が、熱い風にぱたぱたとなびいている。
 翔はまっすぐに、前を見ていた。
 自分より更に、罪悪感などなさそうだった。
 なんとなく、あの淡いオレンジ色が、また胸に浮かんだ。
 今の翔には、あの色は似合うだろうか。
 そう思った瞬間、翔がこっちを、ぱ、と振り返った。
 一瞬どきりとしたが、正確にはこっちではなく、老人達の方を振り返ったようで、また人なつっこい笑みで、二人に愛嬌をふりまいている。
 一緒に振り返って、笑ったほうがいいんだろうな、と思いつつ、玲はそうすることができずにうつむいてしまった。
 翔ってここまで、こんなんだっけ。
 と、また、思った。

 ◆

 目の前に、あきることなくざばざばと雨が落ちてくる。
 駄菓子屋の軒下に、三人とも、立ち尽くしたまま閉じこめられていた。
 順調に自転車で走っている最中に、ぽつりぽつりと降りだしてきた雨がここまで激しくなって、ここに追いこまれたのだ。
 大粒の派手な雨を見つめ、玲が少し茫然としていると、
「これ、スコールってやつだよな」
 と、なんだかちょっとうきうきした調子で、翔が言う。
「あー」
 玲は気の入っていない声で、そう返した。
 別に、沖縄らしい事態に遭遇しているからといって、感慨はなかった。
 びしょ濡れになってしまった服が、べったりと肌に張りついてくる感触が、いまいましい。
 おまけに少し、寒くなり始めていた。

 そこで一時間近くも、ただぼんやりと休憩していると、ふいに目の前が、黄色く光った。
 うわ? と一瞬思い、まばたきをすると、次の瞬間、響き渡る轟音。
 雷だった。それも、ものすごく大きな。
 そうわかり、玲は思わず翔の顔を見た。
 翔も、玲の顔を見つめてきていた。
 目があった瞬間、大声で笑いだしてしまった。
 なんだかもぅ、踏んだり蹴ったりだ。
 そうやってひとしきり笑った後、玲はひーひー言いながら目を開けた。
 また首をひねり、翔の方を見る。
 すると翔の横、最奥にいる華が、視界に入った。
 華は翔を、じっと見上げ、見つめていた。
 とても、うっとりとした瞳で。
 それを見て、玲は少し首をかたむけた。
 なんとなく、親近感を覚えた。
 こいつも翔が好きなのだ。
 翔は華の視線に気がついていないのか、わかっていて無視しているのか、とにかく平然と、目の前の雨を見つめている。
 そんな翔と華を見比べてから、玲は前を向いて、そっと目を閉じた。
 そうすると、感じ取れるものが、激しい雨音だけになる。
 なんとなく浮遊感を覚えながら、玲は昨日の晩、二人きりだった時の翔を、思い返した。
 はっきり言われた『フィルムに撮ってくれてるだろ』と。
 そう。自分はいつも、翔を撮影している。
 視界に、入れている。
 だから。
 ……自分の気持ちがバレてしまっていることに、抵抗や、戸惑いはなかった。
 確かに、自分の態度はそうとうあからさまなのだ。
 自分は、たいがい人には、ちょっと冷てぇと言われる人間で。
 翔にだけ。妙に、昔から甘かった。
 翔にかまいすぎている自分を、玲は自覚できていた。
 翔はカンがいい。気がつかれていても、おかしくはなかった。
 だから、バレているとわかっても、動揺はない。
 そして動揺もない代わり、進展もないのだった。自分達の関係は。
 お互いの気持ちを、お互いが知っていても。
 原因はわかっている。自分が拒否しているからだ。
 ……自分だって。
 自分だって、翔に好きだと言ってみたい。言われてもみたい。
 寝てだって、みたいのだ。
 でも、できなかった。翔を昔から知っている。
 翔がそういう方面で、どんなに異常に育ってきたか、見てきている。
 自分は男で、翔の親友だった。
 自分自身の祖母まで、性対象としてカバーできるようになってしまった、翔の歪んだ性意識を。
 自分が、ずっとそばで見守ってきた自分が、これ以上ねじまげるわけにはいかなかった。
 だから、進展はないのだった。
 こんなにお互いの気持ちが、透けて見えていてもだ。
 玲は目を開いて、空を見上げた。
 濃い灰色をした空からは、大粒の雨があいかわらず落ちてきている。
 濡れたままでいるせいで、体がずいぶん冷えてきていた。
 自分の指先が冷たくなっているのが、感じ取れる。
 ふー、と息を吐き出して、……それから玲は、少し笑んだ。
 氷結させているみたいな自分の気持ち、と同じように。
 外気の温度もすごく下がってきているように実感していたのに、吐き出した温かい息は、それでもちっとも白くなっていなくて、……なんだか、なんとなく、おかしくなったのだ。

 ◆

 その日、日が暮れる前に、目的の公園に着いた。
 テントを張って落ち着いていると、いつの間にか華が、眠りこんでしまっていた。
 しばらく待っていても全く起きないので、玲と翔は、二人がかりで無理矢理、なんとか華を叩き起こす。
 華は半身を起こした後も、ほほをふくらませて、不満そうに眉間に皺を寄せていたが、そのうち翔の腕に、また飛びついた。
 そして、翔の腕をぐいぐい引っぱり、翔をなぜかテントの外へ、連れ出そうとする。
「トイレだろ、多分」
 翔がそう言って、華をトイレに連れて行くため、立ち上がる。
 玲はふと思い出して、
「明日、コンビニでトイレットペーパー補充しねーと、もぉねえぞ」
 と言った。翔が、
「おう」
 と笑いながら、最後のトイレットペーパーをバッグから取り出し、華を連れて去っていく。
 二人を待つ間、玲はDVDカメラの準備をする。
 使ったDVDは、おとといの撮影の分だけだから、三十分程度だった。DVDを替えなくても、十分今日の撮影はできる。
 そうやってDVDカメラをいじっていると、翔が華を連れて戻ってきた。
 なぜか隣の華は、泣きだしそうに顔をゆがめている。
「なに、どうした?」
 と玲が聞くと、翔は少しだけ困った顔になって、
「華、出ないみたいなんだよな」
 と言った。
「……は?」
 と玲は、思わず返してから、ああ、と思い当たった。
「……便秘?」
 お腹をかかえ、ぺたんとしゃがみこんでしまった華に近づきながら、そう言う。
「みたい」
 翔もそう答え、華の正面にしゃがみこむ。
 そして翔がいきなり、華の両手を華の腹の上からどかし、大胆に華のTシャツをめくった。
 ぎょっとそれを見る玲にかまわずに、翔は手のひらでぐいぐいと、むき出しになった華の下腹部を押す。
 そうして翔は、華の瞳をのぞきこんだ。
 ゆっくりと、とても、優しく、
「……いたい?」
 と尋ねる。
 華は泣きそうな顔のまま、こくこくとうなずいた。
 なんとなく、玲は不思議な気持ちになった。
 遠慮のかけらもない、翔の、華への接し方。
 本当に、妹の面倒をみている兄のように、翔が見えた。
 同時に、さわられている華が、うらやましいような気になってきた。
 そんな玲に気づかずに、翔が横で、
「浣腸でもするかなぁ……」
 と、とんでもないことを口走る。
 玲が目を丸くして、翔を見ると、
「いや、そーゆーマニアなAVもあるし」
 と淡々と言う。
「……そんなディープなもんまで、撮るのか」
 と、玲が頭に浮かんだことをそのまま尋ねると、
「言ってみただけ。撮らないよ。おまえ、そういうグロいの苦手だもんな」
 と翔は答えた。
 そういうマニア系統が苦手なのは、本当なので、玲は反論できなかった。
 翔のつきあいで見させられたAVでも、そういうのはたいてい吐き気がしてきて、最後まで見られなかったのだ。
 それにしても、なんで何の事態でもAVに生かそうとするのか。
 玲は思わず、
「……華の健康の方とか、ちょっとは気になんねーのかね……」
 とぶつぶつ翔を責めた。
 すると翔は、華のTシャツの裾を元の位置に戻して、立ち上がり、
「明日も出なくても、たかだか四日だもん。死にゃしないだろ、どうでもいいよ」
 とあっさり、切り捨てた。
 そうして翔は、撮影の準備にかかり始める。
 仕方なく、泣きそうな顔のままでしゃがみこんでいる華を放って、玲も準備を始めた。
 今日の撮影場所は、この近くの川の岸辺、と、最初から翔が決めていた。
 外灯がないだろうから、日が『完全に落ちきる前』に撮影したいというのが、翔の要望だった。
 懐中電灯の光で撮れば、と玲は当たり前の提案をしたが、それは最終日にやるから嫌だ、と返された。それぞれの舞台により、光源にも変化をつけて、凝りたいのだという。
 あきれたが、ある意味立派なほどのこだわりだ。
 撮影の準備ができて、しゃがみこんで立とうとしない華を引っぱり上げて立たせ、自転車でその川へと向かう。
 着いたのは福地川という大きな川で、水量の多い、ゆるやかな流れの川だった。
 もうかなり、日が落ちきろうとしていた。月がだいぶ、明るく輝いて見える。
 あー、早く撮影にかからないとな、と、自転車を降りながら、玲は思う。
 翔は既に、自転車から降りさせた華を、撮影場所によさそうな川辺に連れて行っていた。
 DVDカメラを手に、玲はそれを追いかける。
 翔は川のきわに、華を座らせていた。
 華の二つに分けて結ばれた髪をほどき、靴と靴下、ジーンズと下着を手早く脱がして、足を川の水に浸からせている。
 そして、玲がカメラをちゃんと準備して持っているのを目線で確認し、翔は華を全裸にした。
 翔は今日も脱がないままらしい。
 服を着たまま、華の体を寝かせ、撫でまわし始めた。
 玲はDVDをまわし始め、ファインダー越しに、無感動にそれを見る。
 翔の手は、華の乳房をやさしくもてあそぶ。
 乳房のふくらみを擦り、やわく揉んで、時折、ピンク色をした乳首を、じらすように指先でつまんで刺激している。
 そして片手の指は、既に華の秘部のまわりをさわさわと動きまわり、ほんの少し進入したりまでしていた。
 と、ふと華が。
「……あ」
 と、かすれた声を上げた。
 おとといには全く聞けなかった、少し色を含んだ声に、玲は目を見張った。
「……あ……」
 かすれた声を、華は断続的に上げ続ける。
 玲はそんな華を、唖然、と見つめた。
 ファインダーを通して視覚に迫ってくる、愉しげにほんのり桜色に染まった、起伏に富んだ華の、体。
 なにより。
 華の顔は、嬉しそうだった。細く開かれた目は、恍惚と輝いている。
 何を撮っても、痛々しさしかこっちに残らなかった、おとといの華とは別人のようだった。
 おとといに一回さわられただけで、ここまで開発されて、快感を得られるようになるものか、と玲が驚いていると、華はもっと愕然とする行動に出た。
 自分の秘部を、浅く出入りしている翔の指を、がしっと掴んだのだ。
 そして、もっと奥まで、その指を入れさせようと引っぱり始める。
 玲は息を呑んだ。
 なまじ知恵がない分、その恥知らずなことと言ったらなかった。
 遠慮ない力で、翔の指を引き続ける。
 翔はぷるぷると震えるほど、自分自身の指に力をこめ、華に抵抗して、指を浅い位置で止めている。
 じらしている。
 ……それを撮影するうちに、玲は自分の感情が、むくむく、変化していくのを感じた。
 おとといの撮影の時は、華が可哀想だとしか思えなかった。
 ――それが。
 今、ファインダー越しに見える華は、にくたらしく、見えた。
 華の口のはしからは、唾液がたまに、たらりとこぼれていっている。
 脚は翔の手全部を呑みこみたがっているかのように、大股に開かれていて。
 あえぎ声は、あからさまだった。
 華の全部が、翔にふれられて嬉しい、翔が好きだ、とわめいていた。
 そんなものは。
 ――にくたらしくしか、見えなかった。
 ……ずるい。
 玲はキリ、と歯を噛みしめ、ごそごそとしゃがみなおした。
 カメラのアングルを変え、翔の顔を撮ってみる。
 翔はあいかわらず、無感情な表情をしていた。
 するすると手を滑らせ、淡々と作業を続行している。
 玲はまたアングルを変え、華の太ももをファインダーに入れた。
 翔の手は、そこを撫でている。
 時折、川の水をいたずらに、ぱしゃ、と、華にかけて、華の肌を濡らしながら。
 念入りに、ゆっくりと……。
「……おい……」
 玲は異常に気がついて。
 思わず翔に言葉をかけた。
 あまりに丁寧に、翔の手が華の太ももを這っていて、なにか変だと思ったら。
 翔は。
「なにやってんだよ……」
 いつのまにか、翔の右手には、翔の髭剃りが握られていた。
 翔は、華のムダ毛を、勝手に剃っていた。
 翔が小さな小さな囁きで、おざなりに答えてくる。
「こんだけムダ毛あると、まずいんだ……」
 確かに、監督として剃りたくなる気持ちは、よくわかった。
 一度も剃られたことはなさそうな、もうもうとしている華のムダ毛。
「……だって」
 それでも、玲はとがめた。
「華の親に、なんて……」
「女子が剃ってあげてたみたいですって、言う」
 ファインダー越しに見る翔の目は、本気だった。
 反論を寄せつけない。
 色白な華の肌に、黒々と醜かった体毛は、川の水に濡らされては、どんどん翔に刈り取られていった。
 玲は息を詰めた。
 やっていることは酷いのに、ズームアップして見る翔の手は、限りなく優しく動いている。
 まるで赤ん坊を風呂に入れている、父親のような手つきだった。
 玲はまた、もぞもぞとしゃがみなおした。
 落ち着かない。
 息が、荒くなってくる。
 翔が、剃っている華の下半身に向けていた顔を、ふいにずらし。
 華の目を、優しく光る瞳でのぞきこんだ。
「明日のために、キレーにしとこうな……」
 消え入りそうな、淡い声で。
 楽しそうに、ささやく。
 DVDカメラを覗いたまま、玲は背筋を、ぶるりと震わせた。
 同時に華も、ふにゃ、と顔を笑ませている。
 目の前が真っ赤になっていくのを、玲は感じた。
 翔の声も、動きも。
 魅力的、すぎた。
 だんだん、完全に光が、月明かりだけになってゆく。
 その光に、絡み合う翔と華の姿は、幻想的に浮き彫りにされていく。
 翔の腕の中で。
 華が、嬉しそうに。
 喘いで、いる。
 華の白い肌。ぬめぬめとした赤い唇。
 その姿が、瞬間、自分のもののように見えた。
 華の腕の毛までもを、剃り始めた翔の指。
 その濃い肌色をした指は、日に焼けて少し、赤くなっていた。
 あの指は、自分がよく知っている指で。
 なんの脈絡もなく、あの指は自分のものだ、と思った。
 翔の優雅に動く指が、華の毛を、脇の下まで全て、剃り終わった。
 名残のように、華の乳房をするり、と撫でてから。
 ひざまずいたまま、翔は、
「……終わり」
 つぶやいた。
 玲は反応できなかった。
 欲情しすぎて、くらくらしていた。
 丸い小石達の上に転がされている、華も、ぴくりとも動かなかった。

 ◆

 華はまた、服を着せてやった後、すぐに眠りこんでしまった。
 停めている自転車の車輪に、玲は華の背中を、ゆっくりもたらせかけてやる。
 さっきまでの、女だった華と、今、幼い表情で眠る華のギャップは、すさまじかった。
 その顔を見ていると、また普通に、申し訳ないなという思いが湧き起こってくる。
 ……でも、さっきは華が、にくたらしく見えたのだ。
 玲は立ち上がる。
 すぐそばで、髭剃りにからまった華の毛を川の水で洗っている翔に、背後から近寄った。
 翔は川のふちにしゃがみこんで、無心に洗い続けている。
 その背中を後ろから眺めながら、自分でも、今自分は冷静じゃない、と玲は思っていた。
 でも、とめられなかった。
「――? 玲?」
 翔が気配に気がついて、しゃがんだまま振り返ってくる。
 玲はジーンズのポケットに両手をつっこんで、無言で上から、翔の顔を見おろした。
 玲を見上げたまま、翔は不思議そうな表情になる。
 そんな、昔のままの、あどけない翔の顔に、さっきの淫猥だった翔の指が、ダブる。
 あの手つき。あの愛撫。
 自分の目の前で繰り広げられた。
 玲はストン、と、翔の横に腰をおろした。
 華のあの表情がうらやましい。自分も自分も。
 やって、ほしい。
「……俺もやって」
 素直に。
 そのままの言葉が、口から出る。
「ハ?」
 翔が、まぬけな声を出す。
 まん丸くなった瞳で、見てくる。
 玲は翔を見返した。
 翔は少しひるんだような表情になった。
 その翔の反応を見て、きっと自分は、すがるような本気の目をしているんだろうと、玲は思った。
 なんだか、本当に余裕がなかった。
 切実に、ふれてほしかった。
「……毛」
 一言だけ、つぶやくと。
「……剃んの?」
 その震えてしまったつぶやきに、翔が囁きで返事してくる。
「……うん……」
 目を伏せて、それから玲は、黙りこんでしまった。
 何を言ってんだろ、とやっと思った。
 翔に。翔にふれては、いけないのに。
 翔にふれさせては、いけないのに。
 翔はこちらを見たまま、一度まばたきをする。
 そして、洗い終わった髭剃りを持ちなおし、こちらにいざり寄ってきた。
 右肩をつかまれ、そのままとん、と突かれる。
 力の入っていない玲の身体は、川辺に簡単に転がってしまった。
 そうして翔は、玲の身体の上に乗り上げてきて、玲のジーンズに、手をかけてくる。
 ベルトのされていない玲のジーンズの、ボタンをするっと、片手だけではずしながら、
「でもおまえ、すね毛とかなんか、それる程ねーじゃん」
 と翔は言ってくる。
 そう言われても。
 玲は困ってしまい、首をかしげた。
 すると翔が、声を一際落として、言ってくる。
「……ここなら、あるけど」
 そう言いながら、翔はそっと、玲の股間の上を、ジーンズの上から撫でた。
 そうして、くりっとした茶の黒目で、玲を見上げてきた。
 玲は翔に圧されながら、かろうじて言った。
「んなとこ、剃ったら……」
「誰とも、寝ないだろ」
 翔らしくない。
 強引な、言葉。
「寝ないよな」
 玲はまっすぐに見つめてくる、翔の瞳を見つめた。
 翔の瞳は、怪しく光っていた。
 少し緑がかって見える、そのブラウン。
「う……」
 こんな翔の目は、見たことがなかった。
 魅入られてしまった。
「うん……」
 玲がそう、返事すると。
 ザッと翔は、玲の脚からジーンズを抜いた。
 足首から力まかせに抜く時に、スニーカーもぼとん、ぼとん、と、一緒に落ちる。
 続けて靴下と、黒い密着タイプのトランクスが、慣れたしぐさで翔にはぎ取られていく。
 玲はぎゅ、と瞳を閉じた。
 翔が、自分自身の手を川の水にひたす、ぱしゃんという音。
 そしてすくい上げられた水が、むき出しにされた玲の脚の間に、ローション代わりにぴしゃ、とかけられた。
 生ぬるい水だった。
 玲はますますぎゅうう、と、目を閉じる。
 つめたい刃の感触が、その部分にすべり始める。
 圧倒的に対照的な、熱い、翔の指。
 その熱が、敏感な部分を丁寧にかき分けていく。刃で傷つけないように。
「……はっ……」
 柔らかい肉に、伝わってくるその感触が、あまりに直接的で。
 玲はこらえていた声を、洩らしてしまった。
 うつむいて作業を続けたまま、
「……なんか、やらしい声……」
 と、感心するように、翔がつぶやく。
 じわりと涙が浮かんできた。
 自分自身を、そっと持ち上げられる感覚。
 一番剃りにくい、敏感な部分を、刃も翔の指もなめらかにすべっていく。
 玲は奥歯を噛みしめた。
 なにやってんだろう、とまた思った。
 ずっと守ってきたボーダーが、崩れていっている。
 翔の体に、ふれないようにしてきたのに。
 翔に、ふれさせないで、きたのに。
 乱れた髪の、嬉しげな華の媚態に、崩されてしまっていた。
 円を描くように、軽くシャカシャカと、刃が肌の上を遊んでいる。
 翔の濡れた手が、その周囲を愛撫してきていた。
 …………剃り終わったのか、まだなのか、よくわからなかった。
 翔の手は、まだ這いまわっている。

 ◆

 なんとか夜は寝られたものの、玲は、朝から全く落ち着かなかった。
 妙に下半身が、さやさやする。
 それを自覚するたび、赤くなった。
 ……いくら、翔の指が、魅力的に動いていたからって。
 華が、うらやましかったからって。
 ……なんであんなこと、してしまったんだろう。
 そう悶々としながら、朝から何度となく翔をちら、とうかがうが、翔はいつも通りの表情をしている。
 ……このガキ、なんでこんな冷静なんだよ。
 そう、憎たらしく思う。
 玲は昨夜の件のせいで、バリバリに翔を意識しているのだ。
 昼食で国道沿いのラーメン屋に入った時にだって、翔の向かいの席に座ることも、翔の隣に座ることも、玲はどうしても恥ずかしくてできなかった。
 しかたなく別テーブルに一人で座ったのだ。
 翔はその時も、不思議そうな顔で、こっちを見てくるだけだった。
 そうして、また今日も国道五十八号線を、翔と華の後頭部を見ながら、走っている。
 淡々と走りながら、今日も、撮影するんだろうか、と考える。
 するに決まっている。しかも今日は最終日だから、クライマックスだ。本当の強姦を、する日。
 見たくなかった。
 今までは単純に、翔に犯罪をさせたくない、という気持ちで、嫌だった。
 今はそういう感情で、見たくないのではなかった。
 ただからみ合う二人を見ただけでも、あれだけ自分は崩れたのだ。
 セックスシーンを見たら、今度は自分がどうなってしまうか、わからなかった。
 今まで、必死に。
 翔と友人でいたのに。
 ……華に嫉妬するはめになるとは、思わなかった。
 華は翔にだまされている、ただただ悲惨な存在だったのに。
 同情してりゃそれでよかったというのに、どうしてあんなに、妙なところで女なのだ。
 自分の中の、翔に対する女の部分を、完全に掘り起こされてしまっていた。
 嫌がっても、漕ぐ足に忠実に、自転車は進んでいっていた。
 時計は三時をまわっていた。
 最終目的地の比地大滝までは、あともう少しだった。

 早朝から、昼食以外はほとんど休憩も取らず走り続けたのに、比地大滝の入り口まで来た時には、既に日が暮れかけていた。
 比地大滝は一応、観光名所なので、専用の駐車スペースがあった。
 そこに自転車を停め、近くの店で早めの夕食を摂る。
 比地大滝は大きな森、というか、山の奥にある滝だ。
 修学旅行でも来たから、かなりの山道だったという記憶がある。
 テントなどの大荷物を持って登るのはしんどそうだな、と思っていると、翔も同じことを考えていたらしい。
「チャリに、荷物は置いていこ。盗まれないだろーし」
 と、夕食を食べ終え、店を出た時に、言ってきた。
 DVDカメラと最低限の荷物だけ持って、比地大滝に入る。
 比地大滝には、木造りの遊歩道が完備されている。
 家族連れも歩けるようにか、随分しっかりしたもので、両脇の安全柵もやたら背が高い。
 修学旅行でここを歩いた時には、周りが観光客でにぎわっていたが、日が落ちきった時間の今回は、まわりには人っ子一人いなかった。
 玲は大型の懐中電灯を点け、その道を照らす。
 そして三人で、黙々と歩き始める。
 華は暗闇が怖いようで、翔の腕にいつもよりぎゅうう、と、しがみつきながら歩いている。
 虫の声や、蛙の声などがひっきりなしに響いてくる。
 ホーホーという、ふくろうの声もした。
 途中、大きな吊橋を渡る。
 けっこう揺れるな、と思いながら橋の下を流れる川に目をやる。と、黒い視界の中、その川辺に、オレンジ色のテントが浮かんで見えた。
 なんだかのどかだなぁ、と自分達が場違いな存在であることを、思い知らされる。
 その先は、階段ばかりだった。遊歩道になっているとはいえ、急な勾配に全員の息が上がる。
 華はだだをこねるように、途中何度もぺたんと、道に座りこんだ。
 そんな華を翔と二人で、何度も引っぱり上げて、歩かせ続ける。
 そうして、唯一服に覆われていない顔にたかってくる、沖縄らしい大きな蚊を払いながら、なおも進む。
 腕時計を照らして、歩き始めてから二時間くらい経ったな、と、玲がちょうど思った時だった。
 ふいに頭の上を覆っていた木々の葉が途切れ、どどどどど、という、水の激しく落ちる音が、耳を打ってきた。
 比地大滝に、着いたのだ。

 ◆

 遊歩道が途切れる。
 前を歩いていた翔が、森の大地に足をおろし、立ち止まる。
 華もそれに応じて、止まった。
 玲も足を止める。
 そうして玲は、視界の中心で轟音と水しぶきをあげているその滝を、ふり仰いだ。
 一年前にも見たそれは、その時とは違う印象で迫ってきた。
 六階建てビルくらいの高さの、白っぽい岩から、大量の清水が落ちてきている。
 その真下には、大きな滝壷ができている。
 そこを満たしている水は、鏡のような水面をしていた。満月の月をぽっかりと映している。
 その滝壷から少しこちら寄りの手前には、平べったく黒い、大岩があった。
 雄大な、闇色に光るうっそうとした木々達が、その周囲を丸く囲っている。
 そしてその全ては神秘的に、月光に照らしだされていた。
 それを立ち尽くして眺めながら。
 とうとうここまで来たんだな、と思った。
 そうして足を踏み出し、終わった遊歩道から降りて、翔の横に並ぶ。
 翔を見ると、翔も口を少し開いて、感動したように光景を眺めていた。

 緑と土と、水の匂い。
 神聖な、場所。
 なのに翔は、ここを一目見た時から、ここでAVを撮ろうと思っていたという。
 ほんと、不謹慎なヤローですみません、と心の中で森や滝に手を合わせていると、翔がつつっと、前に足を踏み出した。
 滝壷の淵にまで行き、そこにしゃがみこんで、手を水に浸している。
 それを眺めていると、ふいに翔がこちらを振り返って、
「玲」
 と呼んできた。
 呼ばれるまま近寄ると、浅瀬の中を、
「見て見て」
 と、翔に指さされる。
 翔の横にしゃがんで、玲は懐中電灯をそこに向け、目をこらした。
「……亀?」
 手のひらより小さな亀が、翔の指の先で、じたばたしているのが見えた。
「カニも、いるぜ」
 翔が別の方向をさす。そっちを見ると、やはり超小型サイズのカニが、しゃかしゃか逃げていこうとしているのが見えた。
 なんだか平和な風景に、玲は不思議な気分になった。
 ……これから、華を。犯罪を。
 横の翔の顔を見上げた。
 翔は緊張しているような、わくわくしているような、表情をしていた。
 ……ほんとにこいつ、AV撮るのが好きなんだな。
 そう悟らされる。その、夢を追いかける少年のような顔に。
 そっとその顔を見ていると、翔がすっと立ち上がって、後ろでぽつんと立ったままでいる、華のところへと行った。
 華の肩を抱いて、こちらへ連れてくる。
 玲は一度深くうつむいて、それから、立ち上がった。
 スポーツバッグからDVDカメラを取り出し、撮影の準備をする。
 そうして、
「どこで、撮んの」
 と、翔に平坦な声で聞くと、
「あそこ」
 と翔は、目線で場所を示した。
 滝壷より少し、こちらよりにある、黒い大岩。その岩の八割は水に浸かっていて、ほんの上部だけが水面より上に出ている。そのほんの上部は妙に平らな形をしていて、月光を受け、舞台のように淡く輝いている。
 やっぱりな、と玲は思った。さっき見た時、ああ、確かにここは、ステージみたいだと思ったのだ。
 月のライトを一身に浴びた、自然のステージ。
 ……AVを撮るべき場所だとは思わないが。
 翔が横で、立ったままの華の、上の服を脱がせ始める。
 素早く長袖のピンクのシャツと、下のタンクトップを脱がせて、華の肩を押し、川岸の地面に尻もちをつかせる。
 あいかわらず華は無抵抗で、じっと、自分自身のジーンズを剥いでくる、翔の顔を見つめている。しかも、翔が好き、と訴えかけるような、熱い瞳でだ。
 DVDカメラの準備を終えて、玲がぼんやりとそれを見ていると、華の服を全て脱がし、華の髪の二つのゴムもはずし終わった翔は、なぜか華も玲も置いて、森の方へとすたすた歩いていってしまった。
 あ? と玲は一瞬思ったが、ああ、スタンバイね、と納得した。
 自分も思わず、じーっと二人を見つめてしまっていたから、さすがに気恥ずかしくなったのだろう。
 しばらくすると、翔は戻ってきた。
 前を何気なく、手で隠している。
 そうして、華の前まで来た翔は、いきなりばさりと、自分のシャツを脱ぎ捨てた。
 突然おしげもなくさらされた、その小麦色がかった色の背中に、玲はどきりとする。
 それに目を引きつけられていると、翔はジーンズの尻ポケットから、財布を取り出した。
 そしてその茶色い財布を開け、カード入れの中から、四角い物体を指でつまんで、すっと取り出した。
 ……ああ。
 ……コンドームか。
 そう、玲は感じる。
 次いで翔は、ジーンズをごそごそと脱ぎだした。
 もたつくそれを、足で振り払うように脱ぎ落としてから、下着と一緒に、翔は自分自身の服を全て、華の服を置いた川岸に置いた。
 全裸になった翔は、同じく全裸で、膝をかかえて座っている華に腕を伸ばし、華を立たせる。
 そうして翔は、穏やかな水面をざばざばと泡立てて、水の中に入っていく。
 華の腕を乱暴に引いたまま。玲を振り返らないまま。
 玲はDVDカメラをあらためてかかえ直し、その後を追って水の中に入った。
 ジーンズを脱いでいない自分の脚。布が水を含んで、あっというまに重くなる。
 飛びこんでみると、水はとても冷たかった。
 一瞬、寒気が襲ってくる。
 翔が、華の身体を支えながら、目的の岩に到達した。
 数秒遅れて、玲もそこに着く。
 水位は、腰あたりまでになっていた。
 やっと、翔がこっちを振り返った。
 玲はじっと、その目を見返した。
 翔の目は、意外に静かだった。さっきの、わくわくした感じは、奥にこもってしまっていて、なんだか。
 大人のような。そして、少し怖い。目をしていた。
 翔はすぐに、顔を元の位置に戻し、華を岩の上に誘導した。
 休憩している人魚みたいに、白い肌の華が、岩の上に座る。
 岩の周囲の、水の表面は、少し波立ってはいるものの、穏やかだった。本当の滝壷から、まだかなり距離がある。
 翔がごそごそと、手に握っていたコンドームのパッケージを切った。
 玲は細めた目で、それを見つめた。翔は丁寧に先をつまみ、精液溜めの空気を抜いている。
 注意深く、傷つけないよう、とても繊細にゴムを扱っていた。
 その丁寧さが、なんだか、薄ら寒い感じを与えてくる。
 ……妊娠させたら、バレるもんな。
 ぱちぱちと連続してまばたきをしながら、玲はそう考えた。
 丁寧な指つきのまま、翔は自分自身に、ゴムをかぶせ終える。
 曖昧に目をそらして、その動作を見守って、ああ、そういえば、こういう勃起状態の翔自身を見たことはないな、と玲は思った。
 別に、嬉しくはなかった。全然。
「懐中電灯」
 翔の乾いた声に、ふいに呼ばれた。
 翔の顔に顔を向けると、翔がこちらを見てきていた。
「岩の上に、置いて」
 翔は妙に、単語でしゃべっている。
 玲は言われるまま、懐中電灯を岩の上、華がよく照らし出される位置に置いた。
「撮って」
 続けられて、玲は翔の目を見上げた。
 翔の目は、青っぽい光を放っていた。
 真剣そのものの眼。
 監督の目だった。
「うん」
 固い声で。玲は返事をした。
 はい、と言いそうになっていた。目上の者に、従うように。
 懐中電灯のスイッチを入れ、その光にぼうっと、丸く照らし出された華の姿を、ファインダーにとらえる。
 翔が、あいかわらず翔を熱い目で見上げている華の腰を、両手でかかえ上げる。
 そうして翔は、華の身体をむりやり裏返し、華の上半身だけを、うつぶせに岩に乗せた。
 そうして翔は、華の脚のつけ根を握り、華の足を大きく開かせた。
 裂かれるように開かされた股から、露出した華の秘部に、翔は中指と人差し指を挿入する。
 既に濡れていたらしい華の秘部は、なんなく翔の二本の指を、奥まで呑みこんだ。
 すると翔は指を激しく揺すって、華の秘部を刺激してやり始める。
 前後に。上下に。
 華が岩の上に乗っている頭を、もぞ、もぞっ、と、動かし始める。
 気持ちいいのだろう。
 乱れていく、華の長い髪。
 華が頭を動かすせいで、ふせられている華の顔の表情が、たまにファインダーに入ってくる。
 華の顔はうれしそうに、にたついていた。
 吊り上がった赤い唇の端に、真っ黒な髪が一房、引っかかっている。
 翔にふれられている華。
 幸せそうだった。ファインダーの中で。
 玲はそれを撮りながら、つばを飲んだ。
 血液が集中してきた、自分の前を、片手で強く押さえる。
 下唇を噛んだ。
 やっぱり。
 やっぱり、また。
 やっぱり、やっぱりうらやましかった。
 泣き声のような裏返った吐息が、自分の口から、小さく洩れた。
 澄んだ闇の空気の中、翔の腕と、華の頭が、もぞもぞと動き続ける。
 そうやってある程度、華を楽しませてやってから。
 翔はずる、と指を華の秘部から引き抜いた。
 そして華の足を、あらためてもっと開かせる。
 そうして、翔は既に硬くなっている自分自身を、濡れた華の秘部に、容赦なくねじこんだ。
 途端、何かがひしゃげるような音がした。
 うぉ、と華がうめく声だった。
 深く、翔が挿入する。
 翔自身が、根元まで見えなくなる。
 うぎゃーっという、華のわめく、猿のような声がした。
 同時に、華は暴れだす。
 翔はそんな華の腕を、後ろから岩の上へ、どがっと押さえつけた。
 華の腕が、岩に勢いよくぶち当たって、ゴン! と痛々しい音を立てる。
 ショックで玲は、目を見開いた。
 乱暴だった。
 乱暴な、男の、翔だった。
 そんな翔は、初めて、初めて。
「玲!」
 翔が、叫ぶ。
 力がこもっているせいで、筋肉の浮き出た、翔の濃い色の二の腕。
「もっと寄って撮れ!」
 怒号のような、叫び。
「寄れ!」
 猛り。
 玲は声に寄せられるまま、ざば、ざば、と二人に近づいていった。
 数センチの間近な距離に、汗ばんだ、絡み合う二人の、肌がある。
 ファインダーの中から、翔を見つめた。
 茶色くぎらぎらと、光を放っている目。
 狼のように、つり上がっている。
 これが翔か。
 大人の男の。
 女を強姦している男の、瞳。
 これが。
 いつもの子どもっぽい、おどけた表情が、微塵も残っていない。
 揺れ続けている、翔と、華の脚。水に浸かっている下半身。
 水面が翔の律動のたびに、泡立っている。じゃばり、じゃばり、と、規則的な冷めた音がする。
 二人から、立ち上ってくる。
 きつい夏の体臭。
 扇情的なすっぱい匂いと、汗の匂い。
 身じろぎもせず、それに圧されていた玲に、また衝撃が走った。
 華が、ゆっくりと。
 二つに綺麗に割れた尻を、ぐぐっと上に、持ち上げて。
 それから、ストン、と、下にさげて。
 交尾みたいに、積極的に、腰を。
 腰を振り始めた。
 ゆっくりと、それでも確実に。
 白い臀部が、もっさりと、連続して動き続ける。
 快感を得るために。
 また、頭の回線が、一本ぷつりと切れたような気がした。
 なにがなんだか、わからなくなっていった。
 しっかりと立っているのに、周囲の景色が、星をきらめかせた夜空を中心に、ぐるぐると回転しだす。
 回転する視界の、どの面にも存在する。
 入れられて、波打つ。喜ぶ。歓喜する。
 華の体。
 リン、と。
 光景に似付かわしくない、鈴の音のような静かな音が、頭のはしでする。
 どどどどどという、滝の音に混じって。じゃばじゃばという、腰の動きの音に混じって。
 自分が壊れる音だ。
 そう、玲は思った。

 ◆

 滝壷の方から流れてくる清流は、さらさらと下流に向かって流れていく。
 それにつられるようにタバコの煙も、静かにその影を風下の方へ流していった。
 玲はしゃがみこんだ体勢で、ぼんやりと澄みきった水の流れを、見おろし続けていた。
 さっきまでの、淫らな、野性的な光景にあてられて。
 ほほがかっかと、熱い。
 タバコをはさんでいる指の、小刻みな震えは、いつまでも止まらなかった。
 その指を、やはり震えているもう片方の自分の手で、玲はつつむ。
 知らなかった。
 翔が、あんなに男に、いつのまにか、なっていたなんて。
 あんな、本当の大人みたいな、冷酷な目の。
 ……もう。
 守るも守らないもねぇ奴になってるな。
 翔は、もう、起こってしまったことを体験としてバネにする勢いで『生きて』いる。
 ……やっと、そう知った。
 もう翔は、虐待されてうなだれていた、男の子じゃないのだ。その体験を嚥下して、むしろ逆な奴になっていた。可哀想な女を、あんな目で強姦していた。
 玲は震え続ける自分の手を、ぎゅうう、と、押さえつける。
 目の前で、繰り広げられたあの性交は、あまりにショッキングだった。
 翔は、守られる必要がある、と思っていたのに。
 だから、自分には、翔を守る使命がある、と思っていたのに。
 ……全然、そんなかわいらしいもんじゃないじゃないか。
 やっぱ、予感が当たったな、と玲は思った。
 見たら、なんだか何もかも崩れてしまうような気がしていたけど。
 やっぱり、崩されてしまった。
 翔にとどめを刺してしまうようで、ずっと、我慢していたけど。
 ……翔が、いたいけな子どもじゃないなら。
 もう、自分を抑えていられそうに、ない。
 自分も、もうずっとずっと、あんな風に。
 華みたいに。
 翔の下で、腰を振りたかったのだ。
 がさがさと背後から気配がして、首だけで玲は振り返った。
 性交後の興奮が静まらない華を、落ち着かせに行っていた翔が、こちらに向かってきていた。
「華、やっと落ち着いたと思ったら、寝ちゃったよ〜」
 ぐるぐると右肩をまわしほぐしながら、翔はそう言う。
「……どこに置いてきたんだよ」
 そう尋ねると、
「そこの樹の根元」
 と、十本ほど後ろの樹を、指さされた。
 またずいぶん、適当なところに置いてきたな、と感じていると、翔は、
「あいつ地面に直接転がってたから。ありゃ、朝起きたらどろんこになってるよ」
 と、言い、あーあ、と背伸びをしてから、玲の横にしゃがむ。
 そうして、翔は、玲の方に顔を向けてきた。
「どうする? あんな道、華かついで運べないし。ここで徹夜でもする?」
 蚊に刺されるけどな〜。
 そう言いながら、あくびをする翔を眺めながら。
 意味もなく、玲の口元は、笑んでいった。
 異様にハイになっている自分を、自覚していた。
 夜の森。
 華は眠っていて、いなくって。
 翔が横に、肩がふれ合う位置にいる。
 ……なぜか、二人そろって、ヤンキー座りだ。
 そんなこともツボに入って、玲はとうとう、くくくっと声を出して、笑いだした。
「……れー?」
 不思議そうに首をかたむけて、翔が子どものように舌足らずに、名前を呼んでくる。
「なんかさー」
 ひたいにこぶしを当てて、本格的に笑い崩れながら、玲は言い始めた。
「俺、もっとおまえのこと、ガキだと思ってた。かわいそーな」
 とんとん。と、玲はうつむいてタバコの灰を落としながら、
「だから、守らなくちゃ、とかさー」
 と、続ける。
 すると、翔は愛しいものを見るみたいに、目を細めた。
「やっぱ、んな風に思ってたか」
 そう言って、
「いつまでもガキじゃないって。男だもん。強姦されっぱなしじゃないよ」
 と、少し胸を張って主張し、
「今日だって、監督らしかったでしょ?」
 と、いかにも誉めてほしそうな顔で、言ってきた。
「うん」
 玲は素直に、うなずいてやる。
「もうおまえ、男なんだな。変なままだけどな」
 そう言うと、翔は目を閉じて、
「そりゃーしょうがないじゃん? おれ、もう一生変よ」
 と、肩をそびやかして見せる。
「……じゃあもう」
 てれ笑いしながら、玲は。翔の少しぱさついた髪の中に手をさしいれて、ちょっとひっぱった。
 うきうきと輝いた瞳で、翔を見上げる。
 少し驚いた表情で、目を見返してきた翔の、目を見上げて、言う。
「寝てもいいと、思わねぇ?」
 翔は、目を丸くして。
 それから、すぐに目を閉じて、顔を寄せてきた。
 目を閉じて。
 翔と、キスを、初めて、した。
 川の水の流れる、しゃらしゃらした音と、虫の鳴く音だけが、響いていた。
 軽くふれあった唇は、呼吸をするたびに微妙に位置がズレていって、翔はもどかしそうに、腕をのばしてきた。
 肩を手のひらでつつんできて、深く唇を合わせてくる。
 そうやって翔が動いた拍子に、翔の足元の懐中電灯がカタンと倒れた。
 玲は思い出して、タバコを指から離して、しめった地面に捨てた。
 そうして、暗くなった視界の中で舐めた、翔の鼻も、まぶたも。
 ものすごく近しいものだった。
 もっと早くにこうしてもよかったな、と、ふいに玲は思った。

 長い、舌を這わし合うキスの後の、翔の行動は性急だった。
 しめった青臭い匂いのする、森の土に二人して倒れこむと、慣れきった手つきで、あっという間に、玲は川の水でしめった下半身の服を、剥がれた。
 下着がまだ脚に引っかかったままの状態で、いきなり股間のあたりをまさぐってこられ、玲は赤くなる。
「……ちょ……」
 あわてて、力の入らない腕で、迫ってくる翔の肩を押す。
 すると、翔にぼそりと、かすれた、かすれた声で、囁かれた。
「……チクチク、する……」
 玲は言葉に反応して、硬直した。
 ますます、真っ赤になってゆく。
 昨日、翔にそられた跡だ。そりきれなかった毛が、ヒゲみたいに、半端になっている部分がある。
 そうして抵抗もできなくなっていると、翔はますます大胆に、手でなぶってくる。
 また、ぽつりと感想を、つぶやく。
「……子どものみてぇ」
 そんな風に言われると、自分が翔のモノみたいで、なぜだかものすごく嬉しくて。
 玲は耐えきれずに、できるだけこっそり、ビクビク震えた。
 そうして深くすくめてしまった首筋に、翔は濡れた前歯を軽く、押し当ててくる。
 そしてまた、小さく、言う。
「……くせぇ体……」
 翔には珍しく、がさつな口調だった。
 同じく昨日風呂に入っていない、真夏の翔の身体も、キツい体臭だった。
 今、くさいと言われた、その肌に、遠慮なしに、しめった舌をれろりと押しつけられ。
「……ぁっ……」
 リンリン絶え間なく鳴く虫と、流れ続ける清流の音とに、抑えた玲のあえぎが混じる。
 直接的な部分や、柔らかで敏感な肌を丹念に刺激していく翔の手に、開放されていく。
 どんどん声が洩れていきそうな予感に、玲は自分の口を、手で、がばっと覆った。すると。
 翔に逆手に握られ、しごかれていた玲自身への刺激が、止まる。
「――?」
 薄目を開けて翔をうかがうと、翔はじっとこちらを、見おろしてきていた。
 月明かりの下、黒く沈んだ周りの木々。同じく灰色に沈んだ、翔の顔。
 それでもわずかに光って見える、翔の目。
「なんかさ」
 翔の、小さい、わりとボリュームのある唇が、動く。
「……なんかさ……」
 てれているように、翔は言いよどんだ。
 玲は涙目で、それを見つめる。
 よく知っている。穏やかな翔の顔。
 始まっている興奮に、少しぎらついているものの、その瞳は何かに満たされているように、穏やかだった。
「すげェ、嬉しい」
 翔が、にこっと。
 目前で、笑んだ。
 ……手をそっとつかまれて、自分の口元から、手をどかされた。
 玲は思わず無抵抗に、はがされていく自分の手のひらを、むなしく目で追った。
「だから、もっと」
 ゆっくり、自分の唇におりてくる、翔の唇。
 合わせながら、囁かれた。
「声、出して……」
「……っ!」
 玲は顔をそむけて、歯を噛みしめた。
 性格上、そんな素直に、アンアン鳴けるわけがない。
 それは、翔には、最初からバレていた。
 くやしい。
 釘を刺されてしまった。
 声をこらえることも、素直に放出することもできず、玲はただ目を、ぎゅううと閉じた。
 わずかに、翔が苦笑して吐く、息の音が、聞こえてくる。
 くそ、と思った瞬間に、両方の足首を持ち上げられる。
 そうしてさらされた秘部に、キスされた。
 玲は目を見開いて、思わず身を起こしかけた。
 そんな玲の行動にかまわず、翔は秘部を、舌で舐め始める。
「お、い……っ」
 起き上がれないまま、顔だけを下に向けて、玲が切羽詰まった声でそう呼びかけると、
「へーき、へーき」
 と、そこに顔をうずめたまま、翔は返事をする。
 何が、平気なのだ。へーき、へーきなのだ。何が。
 なんか。なんだか。
 玲は身を起こせないまま、口元をぎゅっと結んだ。
 別に、どうするか知らなかったわけではないのに。
 されていることにも、さほどの抵抗はないのに。
 涙が浮かんでくる。
 玲は地面の土を、ぎゅっと手のひらに握った。ふかふかで、湿気を含んだそれは、あまりにも頼りなかった。
「……どーぶつ、みてぇ……」
 泣き声のような声で。玲はそう言った。
 同時に喉まで、ひくっ、と、鳴ってしまう。
 すると翔が、頭を上げて、顔をのぞきこんできた。
 どうすることもできずに、じっとその目を見返していると、目尻にたまってきていた涙を、目を閉じてぺろん、となめ取られた。
 そうして翔は、また目を開けて、こちらを見てくる。
「……アオカンだし?」
 あいかわらず軽い、翔の口調。
「…………」
 バカ、と言おうとして、言えなかった。
 口調はふざけているのに、どうして、どうして。
 こんなに真剣な眼をしているのだ。
 そう思い、また涙腺をゆるませていると、翔が、
「……力、抜けよ」
 と低く囁いて、また顔を、下の方に落とした。
「……っ!」
 押しこまれてくる翔の中指に、一瞬息を止める。
 さっき翔がなめたせいで、唾液で少しはしめっているそこに、中指は強引に入ってくる。
 そうしてその中指は、内でくくっと曲がっては、もっと奥へ、と蠢こうとする。
 玲は両腕を折って、目元にそれを強く押しつけた。
 浅く呼吸を継いで、なんとか体を弛緩させようとするのに、そこは固く、全然翔の指を、呑んでいかない。
 翔がひっきりなしに指をうねうねと動かしながら、
「力、抜けってば……。切れるぞ」
 と小さく、言ってきた。
「……な」
 勝手な言い草に、玲は切れぎれな呼吸で、文句を返す。
「……しょうが、……な……っ」
 すると、あいかわらずの飄々とした言い方で、返された。
「最後まで、やりたいもん」
 反射的に少し、射精しそうになってしまい、玲はきりきり奥歯を噛みしめた。
 そんなもん。
 自分だって同じだった。
 翔を呑みたい。
 それからもしばらく、翔は指で慣らし続けていたが、
「……も、しょうがないかぁ」
 とあきらめたようにつぶやいて、ず、と指を引き抜いた。
「……入れる、ぞ」
 顔を覆っている腕に、翔の熱い息がかかる。
「い……」
 気まずい沈黙に耐え切れなくなっていた玲は、たまらず、急かした。
「いいから、もぅ……」
 すると広げさせられている足が、もっと高く持ち上げられた。
 次の瞬間、硬く勃起しきった、雫をたらした翔自身を、秘部の表面に感じた。
 少しだけ、押し入ってくる。
 めり、と音がしそうな痛みを伴って。
「……い、って……ッ」
 自分の目元に、腕を、力の限りに押しつけて。
 玲は息を吐くような声で、そううめいた。
 すると、
「……がまん、がまん……」
 と、やさしい、ふんわりとした響きで言い聞かされた。
「……ふぁ」
 苦しいのに、思わず息だけで、玲は少し笑った。
 翔らしい言葉づかい。
 そんなことが嬉しい。
 そのまま翔は、腰を細かく揺さぶりながら、少しずつ進んでくる。
 玲は息が、ずっと吸えないままだった。
 ものすごい圧迫感。重量感。そして人肉の熱さにあふれていて。
 痛い。痛い。それしか頭の中に、ない。
 それでもまだ全部入っていないのか、翔はあいかわらず身体を小刻みに揺すりながら、侵入してくる。
「……も」
 熱い息を、がまんできずに吐きながら、玲は苦しげにうめいた。
「……はや、く……」
 すると、
「……味気ねぇの」
 という、苦笑混じりの声が、降ってくる。
 なんだか泣きそうになった。とっくに涙は出ているのに。
 痛みのせいじゃない涙が。
 翔の声の響きは、やさしかった。
 腰の動きも、こっちを気づかって完全に抑え気味だった。
 全然違った。
 さっきの、冷徹なほど完成された男だった、翔じゃなかった。
 自分の知っている、知りすぎている翔だった。
 ――愛しかったり安心したり、やっぱり痛いだけだったりで。
 混乱しきった感情で、どんどんぐちゃぐちゃに、熱せられていく。
 しばらく、その中途半端に繋がった状態が続いていたが、翔が我慢できなくなったように、ずん、と腰を繰り出した。
「ぐが……ッ」
 吐き気を含んだ、重いうめきが洩れる。
「うご、くな……っ」
 反射的にそう、短く叫ぶと。
「……むちゃ、言うなァ……」
 言葉と一緒に、耳たぶに、唇の感触がした。
 翔の柔らかい、唇の感触。
 そして、息が、かかってくる。
 熱い。
「愛してる……」
 甘い。
 溶けそうだった。中心の痛みだけを残して。
 固く握っていた指先が、言葉に反応して、ほどけてしまった。
 そのせいで中心の痛みが、酷くなる。
 足の先や指先から確かに溶けていった。
 玲はぎゅっと目を閉じた。
 丸まっている、動き続けている、翔の肩に、必死に腕を伸ばし、しがみついた。
 何も見えなかった。
 痛みと、翔の荒い呼吸音。
 それだけが。
 最後には。

 ◆

 さらさらさら、と。
 ひたすら爽やかな、清流の音が流れていく。
 玲は目を閉じ、丸まった姿勢で寝ころがりながら、それを聞いていた。
 なんだか、ものすごく、安らいで落ち着いていた。
 体は痛いのに。
 髪も体も、しめった土にまみれてしまっているのに。
 こんなに満ち足りた、安定した気分に浸っているのは、何年ぶりだろう。
 うっとりと酔った気分で、玲は目を開けた。
 隣で川面を見おろしている翔の顔が、月明かりにぼんやりと照らし出されている。
「どんなんがいいかなー」
 また翔は、そんなことをつぶやいた。
 翔は、同じような感じの独り言を、さっきから繰り返しつぶやいている。
 監督に、考えろ、と言われている、このアダルトDVDの宣伝キャッチフレーズを、考えているせいだった。
 玲はじっと、ほんのり光る翔の眼を、見つめた。
 翔のその目は、キラキラと輝いていた。
「不良少年二人、少女を誘拐し……強姦旅行……とか」
 翔が、そんなフレーズを、投げてくる。
「……誰が不良少年だ」
 玲はワンテンポ遅れて、返した。
 自分もそうだが、翔も、外見からして全然、ヤンキーじゃない。
 犯罪者なだけだ。
 ぼんやりそう思っていると、
「……おれ」
 ふいに。
 翔のつぶやきは、気弱なほど静かになった。
「……なれるかな。監督に」
「……なれるんじゃねーの」
 玲は小指で耳をほじりながら、気楽な感じで、そう返す。
 すると翔は、くるんと首をひねり、こっちを見てきた。
 その目は、素直に、真摯だった。
「……なれると、思うよ」
 玲はその目に負けて、いつになく、柔らかく言った。
 そして、腹の中で、おまえがなれなきゃ誰がなれる、とつぶやいた。
 コイツは病気だ。
 性の病気だ。
 でも、だからこそ、それしかないAV界では、……はばたけるだろう。
「あーあ、なんか」
 翔が両腕で伸びをし、う〜んとうなりながら、言う。
 そうして心から満足そうな、全開の笑顔になる。
「スッゲェ、いい旅行だった」
「……アナルセックスも、体験できたしな」
 監督として、経験豊富になれた夏だろう。
 土で思いっきり茶色く汚れ、緑のこけまでこびりついている、翔のシャツを眺めながら。
 玲はそう、撮影旅行の総評を述べた。
 と、翔はうろたえたように、目を見開いて、こっちを見てきて。
 それから、すごく楽しそうに、破顔した。

 ◆

 足を止めて、目の前の宙に舞う、淡い黄色の花びらを見つめた。
 自転車を、レンタルサイクルショップと提携しているガソリンスタンドに、返してきた、ところだった。
 空港に向かうバスに乗るため、バス停に向かう、坂道。
 その道沿いには、黄色い花が咲いた木が、並木として延々と植えられていた。
 丸い、柔らかな花弁。
 あきることなく、潮の匂いを含んだ強風にもぎ取られて、降ってくる。
 今日もここは、燃えたつような暑さだった。
 蜃気楼で、直線のアスファルトの道路が、うねうねと歪んで見える。
 自分の前を、例によって、翔と華が二人、並んで歩いている。
 柔らかな白シャツを着た肩を揺らしながら、ゆっくり進む、翔の背中。
 翔の隣を歩く華は、あいかわらずちょっとでも隙があれば、腕にからみつこうとしている。
 なのに翔は、もう腕にからみつかせる気配を見せない。
 華が翔の腕を手で握ったら、翔は乱暴に振りほどく。その繰り返し。
 翔の顔はまだ、時折、優しげに華に向かって笑いかけているが、行動で華をうとんでいるのが丸出しだった。
 用済み。
 そんな単語が頭に浮かんで、また吐き気がした。
 だから玲は、少し笑った。
 強く吹く風。黄の花びらが舞い上がって、消えていく、青い空。
 あごを上げて、天をあおいだ。
 ……それでも、いつだって。
 自分の撮るフィルムの中に、翔はいる。