ああ、鼻柱イッたな、と悟らせる物音。
 骨がひしゃげる轢音は、どこか快感ではある。
 血袋がはじけ、硬度のある物体が屈し潰れる。男なら誰でも持ってるだろう、暴力衝動を満たす。
 ――まぁ、自分の鼻じゃあないから、よけいにな。
 そう思いながら、音の発生源。
 背後に、チラリと視線を流す。
 ビルの狭間、少々広めの路地裏。
 踊るように、一瞬ごとに軸足を変え、蹴りを踏んでいる少年のシルエットが見える。
 表通りのネオンに、輪郭だけが浮き上がる程度にしか、現在の相棒であるその姿は見えない。
 だけど、暴れてるときに必ず見せる。
 獣っぽくて油のようにギラついた。
 赤みの強い、薄茶色の瞳は。
 記憶に焼きついているせいもあるのだろう、今も、あざやかに視認できる気がした。
 ……そのイメージとあいまって、相棒が纏う気配は、乱舞しているみたいに感じられる。小競り合いにそぐわないほどに、どこか華美だ。
 すっかりそちらに気をとられていると、「ナロゥ」だか、「クソォ」だかの奇声を響かせながら、古き良き鉄パイプが、横払いに襲ってきた。
 まぁ、バットじゃあ小回りきかないしな、と感慨しつつ、ふりむきざま相手の首筋を狙って。
 季節がら、街中で携帯していようともなんら不自然じゃあない、傘を、打ちおろす。
 長年の稽古のたまもので、あっさりと敵は失神する。
 雨に濡れた地面に、死にました、と言わんばかりに、ドゴシャと撃沈する。
 ……気絶というものは、ミステリードラマの役者の演技みたいに、いかないから怖い。
『脳天うちつけるぞ、ガイコツ割ってみそぶちまけるぞ』と、心配になってしまうほど、体のどこもかばっていない落下のしかたをする。地球の重力のままだ。
 さすがに、面や胴当てのガード無し、な立ち合い稽古なんか、めったにしてこなかっただけに。最初のうちはその意識断絶っぷりをおそれていたが。
 それもこの街に来て二箇月の今は、もう慣れきった。
 オチる人間続出のケンカに、明け暮れる生活。
 力はじゅうぶんにセーブしているし、打ち所が万が一レベルに悪かった、というのでない限り、大丈夫だろ。
 そして奪った鉄パイプをもてあそびながら、『おれもこういうの使えれば、もっと早いのにな』と考える。
 まぁ、けど、自分が使ったら、死者がメチャメチャに出ることまちがいなしだ。その位の自覚はある。
 にしても、この傘ってのは、使い心地が悪い。
 おれの流派は正統派極まりなく、握る両手指の位置すら、個人差をほとんど認めなかったくらいだから。
 こんな邪道な、傘を使えなんて、教えられるわけも、許されたことも、もちろんないのだ。
 ……そもそも、日用品を武器として使えという流派は、ないだろうが。
 周囲を見渡すと、既に事態は収束しきる直前だった。
 相棒――爛が、片づけてしまったらしい。
 まったく、好戦家なことで。
 その好戦家は何をしているか、と更に見まわせば。現在も喧嘩中で。
 関節をぶんまわし、スナップもおおいにきかせて、遠心力を産み出して。
 それをのせ、しっかり手首の上部分、肉がみっしりついた箇所により、掌底を相手のひたいド真ん中へ撃ちこみ。
 のけぞったところに間髪をいれずな追い討ち、上段蹴りを、こめかみへ見舞って。
 敵の頭を逆さまに、路上はじのポリバケツへ、ぶちこんだところだった。
 ぶちこんだ、と言っても、一発の蹴りこみでは、『バケツ穴に頭がもたれかかって倒れている』くらいで済んでいる。
 それではイカンらしく爛は、ドワ、ドゥワ、と、数度、蹴りこみを加えている。
 別に太っているわけではないが、わりあいに腰元がしっかりした、野球選手のような下半身安定型の体形をしているから。
 くりだされる爛の蹴りには、パワーにうわのせして重量感がある。
 それを何発も上から繰り返され、ごふごふドフ、と、ポリパケツに詰まっていた空気がすきまから押し出される、にごった音を洩らし奏でながら。
 ポリバケツ底へと、どんどん埋まっていく、最後の敵の上半身。
 今、立ち上がれば、コントさながらのポリバケツ人間ができあがるであろう、少々コメディな光景。
 これがこの喧嘩の、しめくくりの証なのか。
 ……攻撃をやっとヤメた爛が、右脚をおろし、両足を揃えて立つ。
 直立姿勢がわりあいに、背筋がピンとしていて、綺麗だ。
 本格的に武道をたしなんだことはないそうだが。
 街の夜のなか、全身の輪郭が淡く光っている。
 明るい茶髪も。
 かなりの短髪。けれど前髪だけは、眉あたりまでのごく一般的な長さという、えらくファンキーな印象の髪型だ。印象は、両耳合計で十個ほどくっつけられている、ピアスのせいもあるが。
 ハッ、ハ、と、少しみだれた息を吐き出しながら。
 爛は口元をぬぐうみたいに、肘を折って、右手を顔まで持ち上げた。
 よく見ると、親指のつけねあたりが、広範囲に黒い。
 誰の、というか、地面に伏した個体のうちどれの、なのかは知らないが、血がぺったりとついていた。
 ぬぐうのかな、と思って眺めていたら。
 ギラギラした、まだ戦闘に飢えているみたいな下劣な目で。
 ――べろり。
 その手を、すするみたいに舐め上げた。
 ……こらこら。
「ストップ、ストップ」
 仲裁するように、手と体のあいだに割って入る。
 すると、身内からの声に。
 んあ、という、間の抜けた声と共に。
 つり上がっていた目尻が少し丸まり、如実に一段、印象が柔らかくなる目。
 それでも興奮を残した、ぎらぎら、ぎとぎとした明るい茶の瞳が、夜のネオンに光りながら、こちらを捉えた。
「エのつく性病持ちだったらどーすんだよ……」
 てのひらを引き離しながら、なだめると、
「おっと」
 そうだなこりゃ失敗、と言わんばかりに、舐めたばかりの右手を、ぽん、と頭に当てる。
「でも、血ってウマイんだよな」
 さらりと、そんな。『革』の類友だとひしひし実感させる独り言をはき。
 爛は何事もなかったように、すたすたと『パトロール』を、再開しだした。
 金魚のふんのように、それに続く。
 没個の続く路地裏風景。
 素人目には迷路にしか映らない、狭い道々を、縫うように辿って。
 左折、右折右折、左折。
 ルートを熟知していないとできない、自分の庭……なわばり内だからこそ出来る足運びで。
 爛がスイスイとかき分けていって、いくらかすると。
 いきなり、ポッと丸いライトが、ひとつきり灯る茶色いドアが、出現した。
 吊り下げのフダが、『OPEN』側の表示になってる。
 それがなければ店なのかどうかもわからない、そっけないバー。
 バーと言うか、飲食店と言うか、喫茶店と言うか。
 いっそそのどれでもないと言うか、要はグループの溜まり場だ。
 第一拠点は他にあり、爛や『革』なんかはそこで生活しているわけだが。
 そこは大部分、倉庫のような廃屋のようなロッカールームのような家屋で、かなり広いんだが、イスなどは五個ほどしかない。
 おまけに汚いし、喧嘩防止のため、基本的に缶ビール程度しか解禁にはなっていない。飯も出てきたりはしないし。
 というところで、そこよりは居心地もいいこの店が、心安い陣地として活用されている。
 外部の人間がコンタクトを取るために幹部を待っていたり。メンバー同士が世間話をだべっていたり。そういう用途。狭いので、収集などにはとても使えないが。
 バーの現店主は三代目孫息子で、店に一歩ふみいれたらわかるほどに、道楽商売を堪能している営業ぶりだ。
 もうけを重要視してないその姿勢ゆえに、グループの人間なら、採算無視してどれだけ長居しても平気だった。
 あからさまにお得意さまな客層が決まりすぎているので、事実上、専用店と化しているのだ。
 近所につらなっていた店々が、歯抜けに閉店していってしまったせいで、とおりすがりの客など来ようもない人通りがない道に、ポツンとはぐれて生息することとなってしまった立地条件のせいもあるらしいが。
 この街の地価は全般的にとんでもないのだが、このバーは一等地とも言い切れない場所にある。
 占領軍があーだ、マッカーサーがどーだという言葉が、ピチピチとした鮮度を持っていた時代の『青線』――政府非公認売春地帯としての歴史を持つ土地。
 法律が、国際国家として顔向けできるようなものに改正されるにあたって、宣伝看板から売春は抹消されたわけだが。
 カラン、と爛が扉をくぐると、ささやかにカウベルが鳴る。
 続いて入店すると、目に入るのは青、水色、マリンブルー。
 客よりむしろ水槽が主役の店。
 マスターの道楽――『熱帯魚マニア』の欲求を、いたく満たす内装。
 深夜もすぎきった時間帯、店内にはもう客がいなかった。
 爛が、マスターの前のカウンター席に腰かける。
 その隣席に、自分も腰をおろした。シマ中のシマとはいえ、そばを離れるわけにはいかない。
「…………」
 座ってから、あらためて、背中にせまってきている、水をたたえたアクリル板を、凝視してしまう。
 カウンター席がほとんどの店舗。
 壁面に配置された水槽が、座席へとせりだしている。
 人が不快に思う空間になってしまう、そのギリギリのラインまで、水、藻、魚に支配されたバー。
 圧巻されていると。
 手元へ、カクテルがスーッと送られてきた。
「…………」
 しまった、出遅れた。
 口元だけで苦虫を噛みつぶす。
 いつも思うのだが、どうしてこの店のマスターは、注文もしないのに勝手にオーシャンブルーのカクテルを出してくるのだろう。
 要は背景の、個人熱帯魚館によく似合うからだろう。
 カウンター上までもできる限り、水槽で埋めたいのだ、きっと。
 ご丁寧にこのカクテル、グラスまで四角いのだ、そうに違いない。
 ……魚オブジェクトでも浮かべられていないだけマシと思わなきゃいけないのか。
 しかたなくオリジナルカクテル『タウン、タイム』に口をつける。
 とにかくスパイシーで、飲みこむ時にハーブらしきレモンの香りがスウッと鼻に抜ける。後に残るのはジンのそっけない強さ。
 別に、嫌いな味ではないのだが。
 一番の自信作だからとか、店の名物にしたいからとか、そういう理由じゃないはずだこれを売りたがるのは。
 趣味優先にもほどがある。
 おさかなのおまけじゃねーだろっつーの、客は。
 ……半分ほど飲んでから、視線を流すと。
 臨時雇いのサポートとはさすがに扱いが違うのか。
 爛は、水槽色カクテルを押しつけられることなく、別種のカクテルを前にしていた。
 甘党である爛の嗜好を把握しているからこそだろう、チョコレートリキュールがベースらしき何かが、こちらも注文なく、ひとりでに置かれている。
 オレンジの輪切りがグラス口にさしてあり、マドラーがオレンジ色なのを見ると、オレンジ風味と言ったところか。
 しかし爛は、それに手をつける気配なく、ぼーっとしている。
 少し左へ傾いた姿勢で、リラックスしてスツールに座ってるだけだ。
 普段からぼーっとしていることも多いヤツだが、喧嘩の後だからだろう、特にボヘェっとしている。
 逆正三角形に近い、卵型の顔。
 間接照明のような、水のゆらぎを投影する、淡い光を受け。
 ほっそりした鼻のつくりだす一本筋が、頬に落ちている。
 暴れ狂っていた時間がウソのように、こういう時は、おだやかな子ども顔。
 もしかしたら眠いのかもしれない。
 夜明けも近い。
「…………」
 ふと、首を上げた。
 思わず視線をめぐらすが、窓は一つもない店だ。
 時刻を確認したかった目に映るのは、悠久の時を泳ぐような、魚達のスタイルだけ。
 けど、そうだ、もう夜明けが近い。
 朝鍛錬にそなえ、こんな時間にはまちがいなく就寝済みで、徹夜なんて数回しか体験したことがなかった二箇月前の自分からは。
 考えもつかなかった今の生活だ。

 ◆

 指が十本、全部ふさがりそうなほどある出口のうち、指定された所を出ると、
「おう、こっちだこっち」
 だぶつき放題のストリートジーンズに左手をつっこんで、鷹揚にかまえている革が、右腕を上げて合図してきた。
 待ち構えてくれていたらしいとはいえ、思わず嘆息が洩れる。
 しかしそうしていても始まらないので、重たく荷物をつめた大型スポーツバッグを肩にしょい直しながら。
 数年ぶりに会う、電話一本で呼び出しやがった旧友のもとに、近づく。
「よく来たなー」
 革はそう声をかけてきながら、さっさと踵を返し、歩き出す。
 どの程度の誠意で言ったのか、ひたすら疑問だ。
 一階の出口だから、抜けるとすぐ、太陽下の雑踏に巻きこまれた。
 大都会ならではの強い人並みに押されるが、すいすいと狡猾な狐のような歩き方で、革がコースを作ってくれている。
 さすが慣れてるな、とそのコースをなぞっていると。
「さてと」
 革が急に、しきりなおすように言い出し、
「オレが今、何やってるか知ってるか?」
 首で少しだけふりむいて、にやり、これ見よがしに笑う。
 ……純日本人らしくないほどの、東南アジア系に黒い肌との対比で。
 怖く白い歯が、威圧してくる。
「あー」
 先導する革に合わせ、遅めの足どりで、歩を進めながら。
 気まずく視線をそらす。
「予想された方向にイッテんだろう、って事は」
 曖昧に答えると、革は満足げに、うんうん、と頷く。
 ……正解、ってことだろう。
 まぁ、こうして再会してみりゃ。
 雰囲気でも確信できる。
 あの頃、既にあった危ない雰囲気が、もっと濃く剣呑なものに変化している。
「でまぁ、その仕事、短期でちょっとサポートとして、手伝ってくれりゃいーんだよ。大丈夫、あんまヤバそげなもんはまわさねーから」
 この言葉も、どこまで信用していいんだかは謎だ。
 ――とりあえず、ヤバくないから、という発言は、ディスカウントで聞いておいた方がいいだろう。職種からして、そうもいくわけ、ない。
 ……しかし。
「こっちの近況は聞かねぇのな」
 電話でも、一言すら尋ねられなかった。少しだけ気にかかって問うと。
 刹那だけ、革は足を止めた。
「不快、か?」
 チラ、と、視線を一瞬だけ投げかけてきて。
 再び歩みだす。
「……いや」
 かなり派手にやらかした自覚があるし。
 だいたい、革と同級だった中学三年は、相手も同じクラスだった。
 同窓から話が広まるのは、避けられないところだろう。
 ……卒業から何度かは会ったが、数年ぶりに見る革を、あらためて観察すると。
 春らしい青空の今日の太陽にてらされ、光っているピアスがまず目に入った。
 両耳に、かぞえたくなくなるほどの数、ついている。鼻にも三つ、……今は見えていないがへそにも、あの頃からあった。
 土台となっている精悍な浅黒い体は、健康的に日焼けじゃあないことも知っている。
 太陽の下に出ているところなど、中学時代もめったに見なかった。
 単純に地黒なのだ。
「…………」
 眺めていたら。
 無意識に、ごく、と喉を鳴らしてしまった。
 嫌っているわけではない。警戒しているわけでもない。
 ……それでも前にすると緊張してしまう相手だ、革は。あいかわらず。
 喉がひりついてくるような、夏の直射日光にさらされてこげていくような。
 たぶん万人に対して、そんな威圧感がある。
 裏街道で何かやっているのがふさわしい、夜の加護が何よりも似合う男。
 そんな息苦しい迫力を撒き散らしていても、醜男というのではない。
 充分に整っている方に入るだろう。
 ただ、まんまだが……任侠モノに出ている男優みたいなのだ。
 少し表情をくずすと現れる、ひとつひとつの粒が大きい、ゾロリとした印象の歯や。
 常に皮肉をのぞかせがちな眼の表情。
 やたらと長い、手足の指々。
 筋肉しかついていない、無駄のない細身。
 それら全てが織り出してくる、むきだしの刀身のような野性味が、とてもセクシャリティとかでおさまるような範囲で済まされていない。
 たとえば女が、うっかり危険な匂いに惹かれてセックスになだれこんだなら、嬌声をあげて狂ってる間にいつのまにか。
 朝には殺されていた、という結果になっててもおかしくない。
 おまけにその死体の横で、ケラケラと笑われていても。違和感はない。
『傲慢』とは狂気のあるなしで異なり、だからこそ、その表現では追いつかない、不遜な雰囲気。
 なんせ革と寝た後の女子は、観察でそうと知れたほどだ。
 中学時代、特に三年になってからは、チラホラと目にした。
 髪をいじる手、スカートの翻し方、イスに座る時のしぐさ、に。
 しとやかさをもうちょっと超してしまったようなもんが、滲み出た。
 どこか警戒心を伝えてくるような、大胆さの消失したしぐさ。
 目にも、怯えや媚びが走る。
 そうなってしまった女子と、一対一で話す時は、『おい、おれは何にもしてねーだろ、おまえに?』という……わけのわからない困惑と、イライラに襲われたもんだった。
 ――まるで、性病みたいだな、と仲間内では影口をたたいた。
 革前と革後で見分けがつくなんて。
 もうほとんど……烙印だ。
 女じゃない以上、どーやって抱かれたんだかは知りようもないが。
 王様はずいぶん無体なセックスをしいたらしい。
 ――別に、クレイジーと言っても、脳みそに齟齬はなく。それどころか確実に頭が切れる人物ではあるんだが。
 温厚とか柔和とかいう系統の、人格プラス特徴表現からは、数万キロほど距離がある。
 人間としての媚が無さすぎるのだろう。
 圧倒されて惚れるのでなければ、ただただ目をそらしてやりすごした方が、絶対に人生にとって得な人間、だ。
 自分だってくされ縁でなければ、そこそこおくさない度胸が運悪くそなわっていなければ。
 こんな『友人』と言えるカテゴリに、うっかりはまりこんでしまうことはなかった筈。
 ……そんなことを考えていたが、
「で、この角を曲がるのが最後、と」
 革の声に、ハッと呼び戻された。
 どれくらい、回想まじりに考えこんでいたのか。
 いつのまにか明らかに人通りは減っていた。
 そして目の前には、一つの地味な、曲がり角があった。
「今のメイン拠点もう長く使ってっけど、もとはバイクショップでよ。家の中でも保管してたらしくて、家全体、基本、硬めのフロアなんだわ。つーわけで土足基本だからよろしく」
 だらだらと歩きながら、革が、これからに向けたアドバイスをしてくる。
 春先のうららかな青空のもと、
「……支配地ってどのへんなわけ」
 今まで来た道を軽くふりかえりつつ、尋ねると、
「ぁ〜」
 どうでもよさそうに鼻に抜ける低声を上げ、
「少なくとも、今歩いてきたルート周辺は、完璧、シマ」
「…………」
 そうサクッと返してこられて、絶句した。
 ……駅前の一部も含めてか……?
 しかし、詳しく問い返す前に、
「で、ここが拠点、と」
 革が脚を止めた。
「…………」
 仰ぐと、大きな……『ピアノ教室』とか『手芸教室』なら、余裕で二、三個ひらけそうな規模の、建物。
 だがしかし、
「……ボロ!」
 感想を口走ると。
 革が横で、カラカラという具合に大口開けて笑った。
「だって出入りする連中、全ー員、手クセ足クセ悪りぃからなァ。物は破壊されるためにあっし、床も壁も汚されるために存在、っつー」
 筋肉質な肩を、交互に上げ下げし、コキコキと骨を鳴らしつつ、
「セレブっぽくしよーたって無駄だし、だから掃除もすっげテキトーにさしてんだよ。こっち裏口だし、表にまわりゃ、まだ綺麗だけどな」
 と続ける。
 そこまで言って、革は『けど、ま』と、区切って。
「タダで手に入れたようなもんだからなぁ。さっすがに、ボロいだ汚いだの注文は、出せなかったなー」
「無料?」
 思いっきり眉を寄せてしまった。
 そんなわけがないだろう。
 東京の一等地、じゅうぶん駅からの徒歩圏内だ。
「うちの配下の珍走団が……」
「チンソウダン?」
 聞いたこともない言葉を、オウム返しに尋ねかえすと、
「暴走族」
 と、簡潔に回答がやってきた。
「暴走族への憧れをなくそーってことで、チラホラそういう呼び方、広まってきてんの。ちょっとマヌケでキュートだろ?」
「…………」
 それはいいとして。
 自分で使うなよ。身内の呼称だろ?
 それとも、悪ふざけの域なのか。
「脱会したいなら、金か、おまえの代わりの新規メンバー一名つれてこい、ってシステム、実践してたんだけどな。『商売いきづまってて建物もボロい、土地権つきのバイクショップ持ってるヤツが、抜けたがってる』って情報、入ってきてよ。立地条件はエラくいいんで、拠点にピッタリだったんだよな。――とゆーわけで『この物件しばらく自由に使ってヨシ』って条件で、脱会の仲介役に入って」
 ……強引、強制、の匂いがプンプンする、そんないきさつを語ってから。
 ただ、返却するのいつになるかな。
 遠い目で、革はそううそぶいた。
「ふーん……」
 代理メンバーか、現金を要求する時点で、立派に恐喝なんだとは思うが……。
 入ってしまった被害者本人にも、わずかながら非はある。
 この場合は財産を不当にのっとられているだけで、まぁ命に別状がある事態にならなかっただけ……僥倖……。
 ……なわけないな……。
「そんなに無茶はしなかったぜー? 四十歳間近だし、そろそろ本気でヤメたがってたもんよ」
 げんなりした顔をしているこっちに気づいたのか、革がそう声をかけてきた。
「…………」
 一瞬。脱退したがってたヤツの父親とかが四十か? という解釈をしかけてから。
 それでは文脈が繋がらない、
「……って本人が四十だったのかっ?」
「そうよ」
 勢いよく問うと、あっさりとした返答だった。
「今、あんま珍しくないのよ、暴走族業界じゃ。スモークフィルム貼った四輪なら、年齢あんま関係ないし」
 言いながら、革は、入口ドアにスッと近づいて。
 バン! と盛大な音を立てて、豪快に開け放った。
 ――鍵はどうしたっ? と、心の中で叫んだ。ぶっそうな稼業だっていうのに。
 ドアをくぐって、建物のなかに入ると、外装にひけを取らないほど中も荒れていた。
 まず、床が砂っぽい。これは確かに全面土足だろ、というジャリジャリ加減。学校の昇降口とかであった、ああいう感じ。
 しかも店舗部分だったのか、壁がなぜかレンガだ。
 床もコンクリートが混ざっているナニモノかで、足ざわりが硬い。
 しかもなんか……。廃材みたいのが、あっちこっちに乱雑にまとめて置かれてるんだが。なんに使ってるんだこれは。
 革がすいすいと、あいかわらず動物っぽい足取りで、障害物を避けながら進んでいく。
 広いフロアだった。突然ロッカー群が置いてあったり、寝袋が転がっていたり、ソファーがでんと出現したり。一角一角に、それぞれ独自の世界を展開している。
 そのまま、かなり建物の奥まった位置まで入りこんだ時。
 革がやっと、一つのドアをあけた。
 リビングらしき場所が開けた。
 中央に十人ほど座れそうな大机。最後の晩餐かなんかのようだ。
 だが、アンバランスなことに、イスは三個しかない。
 そして生活感たっぷりに汚れている。
 丸められたファーストフードのバーガーの包装紙、使い捨てなプラスチックのスプーン、ソースを残してカラになったデパートのものらしき惣菜パック。
 ぎゅうぎゅうにタバコが押しこめられた緑のガラス灰皿、二本吸殻が入ったアルミの灰皿、からっぽの青い陶器の灰皿。
 百円ライター。銀のライター。
 蛍光ショッキングピンクの街でくばっているティッシュが一つ。
 他にももう、いろいろ。
 光景にふさわしく、タバコの匂い以外にも、フレグランスっぽいものとか。ぶつかりあうように混ざった匂いがわずかに漂う部屋だった。
 さすがにここまで来れば、内装にも居住空間の気配がある。
 床も普通にフローリングだ。あいかわらずスニーカーで歩きまわっているが。
 壁際の一箇所には、大型の液晶テレビもあった。……豪華なわりに薄く埃かぶってて、あんまり使われてなさそうだが。
「で、頼みたい仕事、なんだけどよ」
 キィ。
 イスを引く音と、声につられて目をやると。
 革が座ろうとしているところだった。
 いつのまにか火のついたタバコを口はしにくわえている。……早業だ。
「オレ、かなり長期で留守するんだわ。半年はかからねーと思うけど」
 革に続いて、対面にあたるイスに腰かけながら、
「なんの用件で?」
 素朴な疑問を口にすると。
 ニヤリ。
 つい先程も見た、金属質な笑みを浮かべて、革は言った。
「やくざに、弟子入り」
「…………」
 ついに名実共にそうなるか。
 そんな思いたっぷりに、沈黙してしまった。
「やっぱ……なりたかったのか」
 切れ切れで、そう返した。
 どうもヤーさんになりたがっている気配は、中学時代からあったわけだが。
「なりたかったって言うか、金だよ、金」
 革は煙草をくゆらしながら、頭を軽く左右した。
「この街、ハデだろ、色々と。……だからアガリが良くってな」
 資金豊潤なんですよ、うちは、と続けて、
「遅かれ早かれ、プロフェッショナルさんに見逃してもらえなくなるからな。高齢化だのマル暴対策法だので、上納金集めもピィピィだから、どこも。……なら、ここらで、後援をきっちりイッコ決めましょう、と」
 そう言ってから。
 指にタバコをはさみ口からはなして、煙を吐いた。
「で、まぁ握手のしるしに、修業っつーか弟子入りっつーか、同じ釜の飯を食いに行くって言うか。それで留守にしなきゃいけねーわけ」
「…………」
 納得はしつつ、黙って聞き終えてから。
「……なんでおれ?」
 残った疑問を、素朴にたずねた。
 革は、タバコを吸いつつ、あさっての方を見たまま。
「おまえはよく知ってる。……背後が綺麗なこともな。そんで、ウデの方は申し分ねぇし、バカじゃねぇし」
 だから呼んだの。
 簡潔に、そうまとめた。
 ――つまり、それは。
 裏の裏まで読み切られている、底の浅い男だということだ。
「……いろいろ、あったよ」
 なんとなくくやしくて。
 そう、零していた。
 中学を卒業し、さらに革と会うこともなくなって、数年。
 環境はそう変わらずとも、いろいろあったのだ。特にここ一年は、目まぐるしかった。
 悩んだ。迷った。悲しんだ。
 ……革は噂により、おおまかに事情を知っているはずだ。
 だからこそヒマになったことを知っていて、呼びつけたはずで。
 ……なのにこの言い草。
 革は、うん、うん、と、『知ってる』とでも言うように、頭を揺らし、
「でもどうでもいいと思ってるだろ。ちったァ大事だったけど……もういい、って」
 そんなに確執の失せている話ではない。
 ムカッとした。
「今までの立場への未練とか、あいつに対しての未練とか」
 ……けれど否定は、意外にもできなくて。
「傷ついた自分とかも」
 最後のは、完全に図星だった。
 執着心の無さは、昔から師にも指摘されていた。
『熱心』に修行することはできるのだが、『熱中』して我を忘れ、没頭することができない。
 どうにも、立ち合いで負けた悔しさなども、さっぱりとして持続してくれない。
 その時点の実力ではそうだったんだろう、と、感情に冷静にカタがついてしまう。
 前向きと言えば聞こえはいいが。
 昔からの、欠点だった。
「ん〜、おま、あいかわらず、着火してねぇのな」
 反論がこないからか、革がイヤラシい感じに目を細めて、いたぶるように言ってきた。
「なんか、強いは強いくせ、おまえ植物みたいなんだよなァ。自発的には何もしねー」
「…………」
 にやにや微笑しつつ特徴をほじくられ、憮然とする。
「念のため確認〜」
 ふいに、革は片手を挙げて。
「万が一にも、『留守のっとってギャングのトップになってみよう』とかで、生まれて初めて火ィついちゃったりしねぇよな?」
「ぬかせ」
 そういうのを好んでしょいこみたがるのは、おまえだ。
 なってみようも何も、自分にはそんな資質はない。
 即答すると、
「ぉ、そんならいいよ」
 革は笑いのチャンネルを、もっと軽薄な、へらへらしたものにひねり変える。
 それからふぅ、と、煙色の息を出して、
「じゃあ、仕事説明するわ。……こい」
 ガタン、とイスを揺らしながら、立ち上がった。
 リビングっぽい空間の奥にあったドアを開くと、階段のある間に出た。
 木製で、年季を醸しだす階段は、いかにもギシギシいいそうだったが。革の体重を感じさせない足運びのせいもあってか、意外にもきしんだ音はしなかった。
 革と違い、自分は少々音を出しながら、後についてのぼった。
 革は、二階はスルーして、当然のように、三階部分へと上がっていく。
「二階は?」
 問うと、
「二階は基本的に、たまり場なんだよな。三階が完璧、居住地で」
 との答えが帰ってきた。
 ……一階もじゅうぶん、たまり場、という感じで、雑然としていたが?
「で、四階は、物干し竿とかある、サワヤカな屋上になってっから」
 そんな疑問をよそに、革が補足してくる。
 洗濯物……が似合いそうな建物でもないが。
 多分、本拠地にするにあたっても、改装とかしなかったのだろう。
 三階は、もとが住居兼用の店舗だったのだとじゅうぶん窺い知れる、細かく部屋分けされた階だった。
 たくさんのドアが並んでいる。明らかにトイレや風呂らしきドアもある。
「おーい」
 革がそう声を出しながら、手近なひとつのドアを開けた。
 中は、日光がさんさん射しこんだ広い部屋。
 だが、どうやら寝室らしい。
 カーテンが暗色で分厚いし、中央にでん、と、ベッドが居座っている。
 キングサイズもかくや、という大きさのわりには、鉄パイプむき出しで無骨なベッド。
 しかれたシーツもくしゃついているし、毛布やらタオルケットやらは、足元で全て丸まっている。
 いかにも男のヤサという感じ。
 ……ここは、住居と言うより、ねぐらだ。
 風景から伝わってくる雰囲気で、そう察する。
 体を休める場所。
 待機する場所。
 すぐに布団をはねのけて、走り出していくための場所。
 街という戦場を、今、生き抜けていくことしか考えていない、若い獣の住処。
 ――じろじろと人の家を眺めながら。そういった感想を持った。
 まぁ、マナー違反ってわけでもないだろう。なにせ今日からここに泊まる……住むのだ。
「おい、爛〜。……らん〜?」
 革がこっちの存在を忘れたように、どんどんドアをめくって、誰かを探し始めた。
 開いていったドアはそのままだから、追いくぐってゆく。
「おいー」
 飼い猫を探すように、視線をせわしなく巡らしつつ、進む革。
 ……なんとなく、らしくない。
 そうこうするうちキッチンに出た。
 これまた、なんだか、放置されてるっぽいと言うか……。
 とりあえず日常的に料理がおこなわれている台所ではない。
 多分、何かをレンジしたり、ボイルしたり、切ったり焼いたり、その程度にしか活用されていないだろう。
 掃除されていないさまがありありなのに、ホコリ以外、ほとんど汚れていない所や。
 フライパンと深鍋が一つずつ程度しか目に入らない、異様なまでの調理器具の少なさが、「私、使われていません」と訴えかけてくる。
 ……すみっこに、やっぱり鉄パイプ組みの、白いテーブルが置いてあった。
 よくある、キッチン用のテーブルだ。アメリカのドラマかなんかで、主婦が調理のあいまにちょっと腰かけて雑誌を読む、そんな用途に適している背骨によくなさそうなイスとのセット。
『爛』は、膝をかかえるようにして。
 腰かけ部分に、はだしの足裏も、両方、のっけて。
 少々無理のある、だけど不思議と苦しそうには見えない体勢で、座っていた。
 そして『爛』は、プレーンヨーグルトのでかいやつに、これまたでかいスプーンをつっこんで、今まさにすくい上げているところだった。
 そのままスプーンを口に含み、「んが?」という感じの声を発して、頬をふくらませた顔を上げる。
 顔を上げた『爛』という男は……。
 という年齢でもない、少年は。
 革よりも明るい茶の髪の毛、そうとう刈られた短髪だった。
 冬も確実にドライヤーがいらない、タオルでいつでも事足りるだろう長さ。
 ただ、前髪だけは、普通状態にふわふわと長かった。眉にかかる程度。
 すがすがしさをフルに押し出した潔いまでの短髪に、それが愛嬌を添えている。
 ゆで卵っぽい顔輪郭が全部、柔らかな肌色にすっきり出ていて……ポニーテールの女の子みたいに、あどけなさが強い。
 はっきりとした二重で、目元の印象が強い顔立ち。
 鼻も、小さいがスッと通った品の良い鼻梁なため、けっこう目立つ。
「爛、これ、例のヤツな。フウって呼べ」
「おい」
 容貌を見て取っていると。
 親指でビッとゆびさしてくれながら、革がそう言いやがった。
 ……コイツに比べると、だいぶこっちが年上だと思うんだが。なんで呼びつけだ。
 と言っても、先輩……上司にあたるのだろうか。ものすごい短期雇いだとはいえ、ならしょうがないが。
「いいだろ、風って、おまえほどスッと呼びやすい名前もめずらしいぜー? テストん時も一番で名前書ききって」
「おまえも画数おんなじだ、カク」
 そんなくだらない、けれども懐かしいことを言い合っていると。
 トン、とイスから降りた『爛』が、トコトコそばに寄ってきた。
 草色のくたっとした短Tシャツに、トレーニングウェアのようなフィット感のある、ローウエストを紐で締めるタイプのブラックパンツ。……服装でよくわかる、足が長い。
「……寝起き?」
 綺麗な躯つきしたヤツだな。
 そう思いながら見ていたら、ご本人から、そんな言葉をくらった。
「…………」
 違います……けど。
 思わず、身長差のせいで首が疲れそうな角度で見上げてきている相手を、見返しながら黙りこくる。
「いや、こいつは昔っからこー。寝起きなカンジで二十四時間」
 革から、フォローが入った。
 ……まぁ、寝起きなのか、と思われた原因は、わかっている。
 長めのまつげが、思いっきり下向いているせいだ。
 生まれつきのこのサカ睫毛のせいで、自分の第一印象は、どうやら誰にとっても、『眠たそう』になってしまうらしいのだ。
 今も、ぱっちり目はさめているのに。
「へー。……けど、寝癖も、すっげぇんですけど」
 ……確かにハネを、今日もなおしきっていない。
 硬さがない髪なせいで、クシはなんの問題もなく通っていくのだが、寝てる間に枕でつけられたクセがとれないのだ。
 そうなると、洗い直ししかないわけで……。
 そんなメンドクサイことをする習慣は、零だった。
「こんだけモノグサな手入れでコレって、闇討ちされそーだな」
「――?」
 謎なセリフに、不思議そうな目線になると、答えてもらえた。
「うちのもてない男どもに。……風呂入ってようが、ヒゲつるつるだろうが、不潔感あんの、わんさかいっからな」
 そして、にやり、と笑う。
 悲惨なことを言ってるのに、あざやかな唇の赤。
 見事な口角の上がりぶりに、イヤミが相殺されている。
 ……と、言うか。
 わかりにくかったが、外見を誉められたらしい。
「…………」
 どうも、と言うのもなんなので。
 ちょいと片方の肩を上げる、曖昧な反応を渡した。
「で、仕事ってのは、カンタンに説明すると」
 傍観していた革が、口を開いた。
「おまえ、爛の金魚のフンになれ」
 ――はぁ?
 ふざけた物言いに、眉をしかめてにらむと。
 予想外なことに、革の真顔があった。
 ……あながち、からかったわけでもないらしい。
「重要〜な役なんだぜ?」
 追随して爛が、なんだか一生懸命、訴えてきた。
「コイツこのへんじゃ顔、ちょっとご同業に売れてるから。ヘタな道、一人じゃ歩かせられねぇんだよ。……かといって、何人もつけて歩かせりゃ、派手になりすぎて喧嘩売りたいみてェになるしな」
 爛を見おろしながら、革が説明する。
「だから二人がベストなんだけどよ。……オレがいりゃ、オレがたいていペアになんだけど、……抜ける間、なァ……。誰も頼んなくて……」
 そして、ぼりぼりと、左耳の上あたりをかきむしる。
 ハンパな長さ、とれかけたパーマの茶髪が、おどった。
 ……なるほど、刑事がペアで動くような法則らしい。
 堅固と機動をかねそなえた行動が取れるように、腕に信頼ある人間に、相棒に任せたいわけだ。
 背中合わせでいれば、死角がなくなって高い警戒水位を保てるし、既に包囲された状態にあっても背後からの攻撃は防げる。突破口が開けるかどうかはまた別だが。
「そーいう仕事。OKか?」
 目線を投げてきた革に、
「…………」
 無言で、うなずいて返した。
 思ったよりは、良い役割のようだ。
 ――何をやらされるんだかと思って、来た。
 すると、こっちの了承を取るなり、革がくるりと身を反転させて、
「じゃあ、いよいよ今日から、行ってくっけど」
 爛に向き直る。
 ……今日さっそく行くのかーっ?
 と、やりとりのハタで、また驚いてしまった。
 ずいぶんとトントン拍子なことで。
 おれが断ってたらどうする気だったんだか。出発、ずらしたのか?
「サボんなよ。けど、はりきりすぎんな」
 そう申しつけながら。
 革が、ぎゅっ、と。
 単に引き寄せるような、柔らかなヘッドロックを、爛にかけた。
 ……そのまま全く、放す気配がない。
 なんだか、ぬいぐるみにするように、『うりうり』と、かけた腕を動かして、かわいがってる。
 髪に頬、すりよせてるようにも見えるし。
「どっちだよ」
 どん、と大きめな音を立てて。
 苦笑いのような、少し複雑な笑みを浮かべ。
 我侭な兄貴に対するように、爛が。
 革の浮きでた喉仏の上を、こぶしで叩いた。
「…………」
 あれ、と思った。
 思わず、微妙に目を見開いてしまうほど。
 革に対して、こんな。
 喉元を叩く、なんて。
 近しいしぐさを『演出』できる相手、初めて見た。
 中学時代ですら、革にそんな態度をとれる人間はいなかった。
 革が無言のままに、そんな対等以上なことを、許していなかったからだ。
 ……気を許されてなかったわけじゃあないと思うが、それでも革は。
 些細な日常のシーンにおいても『王様』だった。どこまでも。
 ――ずいぶん可愛がってるんだな。
 必然的に、そういう感慨を持って、目の前の光景を、受け止める。

 次に連れていかれた屋上は、本当に『爽やか』な感じだった。
 周囲の建物が四階以上あるせいか、圧迫感も否めないのだが。やっぱり、なんとなく、空が近い。
 薄めた水色のような青空を、雲がぷかぷかと彩っている。
 白い鉄柵に近づいて。ひょいと頭を折り、地上を見わたすと。
 さっき、「いってきま〜す」と、何の用だか知らないが、ほがらかに出かけていった爛の後ろ姿が、ちょうど見下ろせた。
 ……金魚のフンな手前、ついていかなくていいのか、と質問したのだったが、
「真面目ね〜」
 と、しげしげ見返されたのだった。
 昼間、しかもやばいところに行くわけじゃない場合は、そこまで警戒の必要はないらしい。
 ふいにポケットの中、携帯が震えた。
「今、そっちにかけといたから。オレの番号、登録しとけ」
 くすんだ色に光るシルバーの携帯をパタンと閉じ、片手でしまいながら、後ろにいる革が言う。
 ……そういえば、待ち合わせの保険で、自分の番号は教えたが。
 革の今の携番は、まだ登録していなかった。
「けど、おまえが頭、使う必要がある事態には、なんねーと思うし。よッぽど緊急以外は、悪りぃけど遠慮しろ?」
 手先で先端をおおって、新しいタバコに火をつけながら、
「爛の指示あおいで、そっち従え。どんだけ重要なコトっぽくてもな」
 次いで革が、注意してくる。
「爛にフルで任してあっから」
「……エライんだな、あいつ」
 感心して、そうコメントした。
 あいつには、革ほどの凄みはなかった。
 やっぱりなんか、……年齢のせいもあるだろう、かわいらしかった。
 双方、野生のイキモノっぽいが。
 革がトラなら、あいつはイリオモテ山猫かなんかクラスだろう。
 そりゃあおとなしそうではないが。
 と言うか、現代若者風で、明らかにタチが悪そうではあるが。
 ……まだまだ毛の生え揃ってないガキ、という見た目の男なんだがな。
「ま、行ってりゃまだ、高一だからなァ。けど経験もあるし……、基本的に爛、こういうの向いてっから」
 いかにも『意外』というニュアンスで呟くと、ふぅ〜と煙を吹き出しながら、答えてくる。
「……行ってないのか」
「やめさせた」
 タバコが旨いのか、目を細めながら。
 短く、革は言う。
「…………」
 ざくっと吐かれたセリフに、眉をひそめて。
 まじまじと革を眺める。
 なんだその――自分の所有物……みたいな匂いのする、横暴な発言は。
 こっちの不審に気がついているのかいないのか、
「とにかく、他のことぁほとんどどーでもいいからよ。爛のガードだけ、よろしく頼むわ」
「…………」
 念押ししてくる革に、ハイハイ、とばかりに、二度、うなずいた。
「わかりやすいうちの弱点だからなァ」
「……弱い、のか?」
 確かに小柄、というかまだ大人の体格じゃなかったから。
 無理もないが。
 ……革が数歩、前に進み出た。
 柵にだらりと、上半身を投げ出すように、もたれかかる。
「サブってだけじゃねーから。兼用して倍率に重要なキー、っつうわけで。一石二鳥な敵駒……、アキレスのかかと、だな」
 こっちよりも前に位置するようになった革。
 紫煙がたなびいているのだけが、体脇から見えるようになる。
 白い、なんのへんてつもない、Tシャツの背中。
「ホレ、恥っずかしながらな〜?」
 すくめられる肩。
 ごりッと逞しい、二つの肩甲骨が、動く。
「知れ渡ってんのよ、あそこのサブは、トップの女役だって」
「…………」
 思わず。
 なんてことない意味なんだと、流してしまいそうになってから。
「――、……冗談だろ?」
 立ちすくんで、投げかけた。
「いや、いや、冗談じゃねー」
 退廃的な笑いを含んだ声が、返答してきた。
 あわせて首を左右するのにつられ、ふりかまれる白煙。
 ……事実なのだと。
 飲み下すしか、なさそうだった。
 ――――なんなんだ。
 いつのまに、同性OKになったんだ?
 確かに『綺麗』とも、形容できそうなヤツだったが。
 それにしたって、女じゃない、のに。
「……もうとにかく、普段はなるべく表に出さねェで、しまっておくんだけどなぁ」
 こういう場合はしかたねーよな。
 おかまいなしに革が、独白している。
 ――つまり通常は、『男』扱いしてないってことか?
 役が役とはいえ、そりゃかわいそうじゃねぇの?
 頭が混乱したまま、そんなとりとめのない感想を持った。
 ……でも今回みたいに、仕事全部、任せるくらいだから、信頼はしてんのか……。
 ああ。
 ゴチャゴチャ、わからん。
 ――つまりどうせ、革の事なんか、読みきれん。
「だからよ」
 中学時代にも何度か陥ったループ思考を、またもや放棄したタイミングで。
 やたらと静かに。
 聞こえてきた。
「よろしくな」
 沈痛なほど、静かに、そう告げてきた声の調子に。
 目を上げると。
 あいかわらずそこには、だらしなげに丸まった背中があって。
 汗でへたったTシャツの生地。
 盛り上がった筋肉のせいで、あちこちに落ちている、灰色の影。
「…………」
 空気が、渡っていく。
 ――なんとなく、その後ろ姿に、哀愁があるように……。
 くたびれているように、見えた。
 セリフにも、人格にも、全然そぐわないのに。

 ◆

 ――それが今年の、梅雨が始まる前の季節だ。
 すっかり湿気に支配された、現在となっては。
 この、都市としか言いようがない、生活サイクルの狂った街にも。
 ほとんど荒事ばかりの仕事にも、慣れた。
 ……あらためて爛の方を見ると、まださっきと同じ体勢で、ぼっとしていた。
 と、視線を感知したらしく。
 うつむきがちにしていた顔を上げ、目を合わせてきた。
 ……その瞳の色が、一瞬置いて、塗り替わる。
 完全に上の空な、濁ったような光り方をしていたのが、さぁっと透明になった。
「すげぇな、ホントに、達人ってカンジ。革と組んでる時くらいしか背後にこんな安心感ねーよ。おかげで夜通しのパトロールでも、平気でできっし」
 あわてたように、ペラペラしゃべりだす。
 こちらの存在を忘れたかのように黙っていたのに。
 ……いや、忘れてたんだろう。
 無視時間を遡ってフォローしようとするような、まくしたてる爛のしゃべりっぷり。
 少しあきれて、少し微笑ましくなった。
 ……なにも気ィつかわなくても。
 どうも、こんだけ。
 ピットリと傍に貼りついてりゃ、性格もだいたい把握できている。
 器用に生きれる賢い性格をしているっぽいし、ドライもドライな非情さも持ち合わせている。
 だけど、いいヤツと言うか、お人よしな面があると言うか……意外に幹事とか、向いているかもしれない。
 副リーダーを任されるだけあって、身内に対してなら、人格者、なのだ。
 完全に新参者で、右も左も、もちろんグループ内の人間の顔も、一人もわからなかった頃。
 こういう世界だから「なんだおまえ」という態度を、メンバーに取られることも多かったのだが……。
 爛が「今なにを言いやがりましたかこの口は?」という風に、いちいち注意してくれていったおかげで、今ではそんなこともない。
 逆に、爛が広めた『革の旧友』という情報で、妙にくすぐったい態度をとられることなんかもある位だ。
 ――そんな、爛の性格特徴に。
 もう一つ『すぐにボーっとどっかに意識を飛ばす』というのが、確認されている。
 空想癖とか、夢見がちとか、そんな感じだろうか。
 ――ま、妥当に考えりゃ。
 いきなりまかされたグループの、あれやこれや、全体的なのから細々としたのから、山積する問題に対しての『考え事』をしているのに、違いないと推察できるのだが。
「本格的にやってきたからな。……おまえはどうなんだよ、なんか嗜む気はないのか?」
 とはいえ、せっかく気遣われているので。
 更に水を向けるような事を言うと、
「おれは喧嘩専門だからな! 今でもだいたいなんとかなってるし、そこまでする気はねーかな」
 元気なテンポで、答えがやってくる。
「武道たしなんだ奴は、いっくらでも入ってきたし〜。そいつらとか、革からかじるんで、じゅーぶん」
 繋げてそう言った爛を、ジッと眺める。
 あいつを中心に、そうやって周囲の人間に、さんざん指導されていたんだから。それはもう嗜んだに入るんだろうけど。
 ……でも邪道だ。
 そう告げると、
「うっせ」
 ムッとしたように爛は、口を結んだ。
「いーんだよ、ボコる専門で、イコール『殺しちゃいけない専』だもん、おれ」
 実情に即したご意見だった。
 反復した鍛錬は、技のスピードや角度をきわめていく。
 それは、いわゆる『キレ』を手に入れるということで。
 そうなってきてしまうと。
 技の種類を読め、どこをどう攻撃してくるかわかるから的確な防御ができる、玄人どうしの立ち合いなら、なんの問題もないが。
 乱暴なだけの素人相手となると、重要な問題が生じてくる。
 要は、鋭利すぎる刃物と変わらない。
 殺傷能力が高すぎる。手加減したって、シャレにならない事態が発生する可能性が、レッドゾーンへと足を踏み入れる。
 ――自分の現状に照らし合わせると、よくわかる。
 木刀なんかじゃヤバすぎて。
『傘』が、致死させないという絶対条件下、最も強力で適した武器だなんて、……なんだか間が抜けていて情けない。
 このへんのグループ同士の抗争では通常、最高でボコるところまでしか、攻撃しあわない。
 単に、威権をピーアールするための行動。
 シャバ争いの中、他の頭を押さえつけ、リードを取ってしきっていきたいがための――若いオスカンガルーが、老いたリーダーの前で跳ねて己の力を誇示する行動と、なんら変わりがない。
 そういった、『小競り合い』の中、死者なんて出すわけにはいかないのだ。
 殺せば警察が動くし。
 灰色な流動体につめて海へ贈り物、と言ったって、そんな目をつけられそうな『失踪事件』量産するわけにもいかない。
 カウンターの上、両手の指を組んで、ため息をつく。
 ……ふと静寂が訪れれば。
 店内をくまなく埋め尽くす水槽が奏でる、さらさら対流しあう水の曲が、耳につく。
 爛もマスターも、涼しい顔をしているが、自分の本音としては、もぅかなり眠い。以前の体内リズムが残ってる。
 ――これで。
 早朝から動かなきゃいけない日もザラなんだから、なかなか不規則で、ハードだってもんだ。
 ……食べたくなったのか、グラスふちにさしてあった、明らかにデザインで添えられているだけの輪切りオレンジを。わざわざハズし、むしゃぶりだした爛を。
 横目で見ながら。
 また、四角ばってずっしりとした、グラスをあおった。
 ――つくづく。
 演歌のような事を想う。
 ああ、つくづく、人生なんて、わからない。

 ◆

 目覚めはどんどん、という、木製のドアを蹴破るような、けたたましい音でやって来た。
 うっすらと目を開く。
 かけ布団と枕の、白いシワの海が、霞がかって目に映る。
「風、風」
 ノックと言うより、殴りの音が。
 どんどん。追加で二回。
 それからあっさりと、台所方向に気配が去ってしまう。
「…………う」
 ううー、と唸りながら、上半身をむくりと起こした。
 ベッドサイドにある携帯を取り上げ、時刻を確認すれば。寝てからまだ三時間ちょい。
 それでも、爛が起こすということは、出動ということだ。
 ……今日はそう頻繁ではない『早朝から動かなきゃいけない日』となったらしい。
 バゴッと、たてつけの痛んでいるドアを開け、欠伸しつつ部屋を出る。
 のそのそと歩んでいって、頭をかがめ、キッチンに入ると。
 爛が電子レンジの前に立ち、こまこまと動いていた。
 ――いつのまに起きたんだろう。
 どうも、こいつの睡眠時間は、わからない。
 おれよりも遅く寝て、おれよりも早く活動しだしている印象がある。
 生活サイクルが不規則になったため、ここに来てから寝つきは悪くなったが。こっちだってそんなにぐーすか長時間、寝る方じゃないのに。
 こういう生活の年季が違うのか、単純にタフなのか。
 爛は、ぽいぽいと円形の包みを、いくつもレンジに放りこんでいる。
 黄色っぽいの、水色っぽいの、赤色っぽいの、さまざまな紙に包装された、丸いハンバーガー。
 冷蔵庫にいくつか、さらに冷凍庫にいくつも、ストックされているブツ。
 最初のころ、
「なんでンなに……?」
 好物なのだろうか、と思いつつ、素朴な疑問を口に出したら、
「チェーンでバイトしてるメンバーが、入れていってくれんの。ロス品?」
 と爛に、賞味期限切れ商品かっぱらい行為を、さらり、告白されたものだった。
 ……それはともかく。
 こういう仕事なだけあって、爛は完璧、夜型人間だってのに。
 まぁ朝っぱらから、ずいぶん食べるものだ。
 現在時刻は八時前。けど寝た時間からすりゃあ、あきらかに超早朝。
 なのに、今も昨夜と変わらず、冴えた目つきをしているし……。
「…………」
 いくらタフでも、少々ヘン、だな。
 と首をかしげてから、思い当たる。
 ……ひょっとしたら、寝ていないのかもしれない。徹夜か……?
 そんなことをしていると、突如。『チーン』と軽快な音色が、空間に響きわたり。バーガーのできあがりを知らせた。
 ……冷蔵庫貯蔵のバーガーだったらしい。あたたまるのが早い。
「風はメシいらない? おれコレ食べたらもう出れる?」
「待て、待て」
 ……メチャクチャせかしてきた爛を。
 寝ぼけた、あいかわらず寝癖だらけの自らの頭部に、ぼりぼりツメを立ててかきむしりながら、止めた。
 現代人として珍しいという自覚はあるが、規則正しい生活をしていたせいで、飯は、特に朝は、キチンと食べないと活動できない人間なのだ。
 寝起きの足取りで、もそっと冷蔵庫に近づき、扉をひらく。
 ざっと見渡す。
 ウィンナーと卵くらいしかなかった。まぁ、時間もないことだし、これなら手早く、そこそこは栄養の摂れるもんが作れる。
 誰が設置したんだか、油はね防止のアルミパネルで安っぽく囲われた、ガスコンロの前に立つ。
 缶から直接、フライパンへと、油をたらす。適量ほど。
 次いで、ウィンナーを切らないで、丸ごとボトボトボ、と落下させる。三本しか残ってなかったので、残り全部。
 再び脇の冷蔵庫をあけ、二つの卵を、フライパンの上、順々に片手で割っていく。
 ぱか。ぱか。と割っていきながら、背中を見せたまま、問う。
「おまえもちょっと食べる?」
「いただきま」
 バーガーをせっせと口内におさめていってるらしい。ふがふが鼻に空気が抜けていってるような発音の答え。
 いつもの会話に。
 ちょっと口元が、にやついてしまう。
 ルームシェアって、こんな感じだろうか。気取らない感じで良い。
 もう一個、卵を手中におさめ。ヒビを入れて、親指を押しこむ。ぱか。という音が、また自分の手元から。
 そして、じゅーじゅーと、極めて平凡ながら、食欲をそそる音が、続いてしてくる。パリパリと端からこげていく香ばしい匂いと共に。
 しばらく面倒をみてやると、ほどなくシンプル極まりないメニューができあがる。
 白い大皿に、フライパンからスライドさせるように、盛りつけた。
 爛のぶんと一緒の皿に盛ったため、
「卵一個がおまえのな」
 そう取り分を告げながら、ゴト、と音を立てて、皿を簡易テーブル中央に置く。
 爛はバーガー右手にしたまま、嬉々としてフォークを左手に不恰好に握り、伸ばしてくる。
 ……イスを引きながら、それを観察してしまう。
 両手に食物。
 行儀としては悪いのだろう。けど、元気でほほえましい。
 着席して。まずは、と醤油を回しかけ。
 ナイフとフォークを適当に使い、白身のはじを切り分けて、一口目を放りこむ。
「で、今日の件はなんだ。急ぎか?」
 そうしながら尋ねてみると、
「ん〜」
 フォークでむしるように目玉焼きをちぎり、突き刺して。べろりとたなびかせながら口に運んでいる爛が、答える。
「なじみのあるマルボーさん……と、繋がった会社サンが、ね」
 ――○暴さんって。
「立て続けに、デカイ入札が二つ、あるらしくって。両方、どうしても取りたいんだってさ」
 思わずナイフが、ピタっと止まってしまう。
 分断された黄身から、とろりと中身が、皿にこぼれだしている。だらしなく醤油とまじりあってゆく。
「けど〜ライバルが強力で。勝てそうもないから、弱み見つけるなりなんなりで、どーにかしろってサ」
 モグモグ、ごくん。
 すっかり動きの止まったこっちとは対照的に、『食事に、会話に』と、さかんに動きっぱなしの爛の口。
「どーにかしろって言われても、正直、困んだけどね〜。お客さんはわがまま言うものだから」
 しかたないね。
 そう続く、爛の話に。
 低いテンションで、口をはさむ。
「……それ……企業恐喝……」
「そうね」
 咀嚼しながらの、こもった声で、爛が応ずる。
「犯罪」
「そうね」
 撃沈して。
 がっくりと、首がうなだれてしまう。
「いいかげん慣れろよ、フー」
「フーはやめろ!」
 半泣きで反論する。
 語尾のばして発音したら、単にため息、声にしてるみたいだろ!

 ◆

 どうも犯罪スレスレか、あるいは直球で犯罪な仕事ばっかりだ。
 予想はついていただけに、いまさら文句も言えないが。
 玄関にカギかけつつそう思う。
 立地条件上、正面の玄関ドアを出ると、そのままそこそこの大通りだ。
 今日も小雨につき傘をさした通行人が、かなりの数いる。しかも明らかに電車に乗ってわざわざ遊びに来ました、というカンジのが。
「うん、さっきの件。侵入できた?」
 横から洩れ聞こえてくる。雨を避けてひさしの内にいる爛と、携帯との会話。
 ……侵入? と、いぶかしむ。
「おっ、さっすが〜! 中枢じゃなきゃ早いもんだね! ヨ、熟練ハッカー!」
 ――ハッキング?
 ひやりとした感覚が、背筋をそっとくすぐってゆく。
 またシャレにならない事態となってきた。
 ……だから、文句を言う気はないんだが。けど引いてしまうのも、正直な実感で。
 おれは聞かなかった何も聞かなかった。
 日光の猿になりそうな呪文を、心中となえる。
「額のでっかいのからソート?……イヤイヤ、それよかさ。役所からの仕事でピックアップして、金額順ソートかけて」
 ハキハキと、爛が相手に指示を出している。
 寄っていくと、通話を終えたらしき爛が、ピ、と電話を切っていた。
 続いて、ピ、ピ、と、メール受信に移っている。
 こっちを見もせずに、
「役所からの仕事が、いっちばんボロいのよ。税金って『自分の金』って意識が、誰からも比較的、薄いし。オンブズマンもめんどくさいからどーしても甘くって」
 と解説してくれる。
「役人の鼻にアロマっとけば、もぉ不必要工事の祭開催で、ウッハウハ?」
 おまけに、手のひらを上向けて、五指をひらひら、花咲かせた。
 ……この場合、いやなジェスチャーだ。
 しかしなるほど、そのへんから手をつけて、賄賂とかの弱みが潜んでないか確認したいわけか。
 爛はテキパキと、たった今、受信したらしきメールを読み始めた。
「……ん〜」
 スライドを引き、数字ボタンまで併用して。
 手早くメール全体をチェックしている、よう、だったが。
「……つかめねーなー」
 携帯のスライドを、シャクっと戻して。
 こっちをスパッと見上げて、言った。
「現場、一個一個見て、調査してきますか」

 目的としていたらしき場所まで来て、爛は、駅構内の案内板を、目でたどりはじめた。そしてひとり言。
「……うん、こっから、ここまでだね」
 地元だから場所は掴めているのだろうが。今日の調査対象となる地区が、厳密にどこからどこまでなのかを確認したらしい。
 ……でも、なんの調査をすればいいんだか、こっちには伝わってないんだが。
 エスカレーターで連れだって地下から、地上へと上がっていく。
 表に出ると、まぶしい、と一瞬思った。お天気雨と言うほどではないが弱い小雨なので、なんとなく空が明るいのだ。
 スタンダードな透明ビニール傘を、パ、と広げて。
 雑踏を縫うように、爛が歩いてゆく。
 続く自分がさすのも、おそろいの、味気ない骨組み丸見えのものだ。
「保険会社を右に見てぇ〜」
 謳いあげるように、たまにそんなことを言いつつ、爛は角を曲がっていく。
 人ごみも、やや濡れた路面も、全く感じさせない、スムーズな足運び。
「……そしたら、この案件の区画街路一号」
 何度目かの角を曲がると。
 片腕をピンと伸ばして、観光ガイドっぽく言った。
 ここからが対象地区らしい。
「一応、道の名称は、副都心街路となりま〜。……」
 が。いきなり口をつぐむ。
 首をめぐらし、とつじょ周囲の景色を、キョロキョロ見渡しはじめる。
 やがて、空なんかも仰ぎだした。
 濡れるっていうのに、傘を頭からはずし。
 雲の奥に隠れた太陽の位置を、確認しようとするみたいに、空へ強い視線をぶつけている。
「……このエリア」
 匂いを嗅ぐように、小鼻をヒクッとさせる。鼻の根元に、皺がくしゃっと寄った。
「……あーん……?」
 そんな顔つきのまま、目も、閉じそうなほどに細める。うっとうしそうに。疑うように。
 ――なんでいきなり。
 そんな本気っぽいモードになってんだよ……。
 原因不明な寒気を覚えながら、傍観していると。
「この通り」
 ぼそり、と呟く。
「去年の夏、すっげ暑かったよなぁ……」
 呪うような、おどろおどろしい――言い方、だった。
 意味、わからん。

 それからの爛の行動は、うわのせして、わけがわからなかった。
 華やかな街中を練り歩いて、ウィンドーショッピングをしはじめた。
 のは……別にいいんだが。
 ――なんで、若い女向けの店舗を見てるんだ。
 ブランド店、ディスプレイのセンスがある店、単に上品な店。
 舗道でガラス張りのショーウィンドーを覗きこむ、デパートの婦人服フロアを、商品を眺めつつゆっくり歩く、と熱心に見ていってる。
 一つだけ、一貫している点に気がついた。
 カーディガンとかボレロとか、薄いパシュミナ、を着ているマネキンがある店ばかり、だ。
 けど。その先は、ミステリーゾーン。
 なんなんだ。
 もしや欲しいのか。
 ……彼女にでも贈るとか?
 って。彼女って革じゃん。
「…………」
 うわー考えたくねー! 彼女な革っ?
 違う、違う、立場が逆!
 必死に打ち消す。連動して『もやもや』と想像してしまいそうになる『女装の革』はものすごい迫力で、そのあまりなゴリゴリしてそうっぷりと、眼だけギラついてそうっぷりへ、一人おののいて、つい髪をかきむしる。
 と。
「――うん」
 なぜか、満足そうな。
 感慨のこもった、爛のうなるような一声が、現実世界復帰を誘った。
「じゃ、文房具屋さんか……画材屋に寄って、帰りましょう」
 またもやそんな。
 脈絡のブチ切れた事を、言って。
 ……ホントに世界堂で、色鉛筆とスケッチブックを、さっと選んで買いやがった。

 さらさら、と。
 色鉛筆がスケッチブックに、自在におどる音が響く。
 クセらしい、背もたれに思いっきり背中をくっつけて、膝を立て、座席スペースに足裏ものせる、特徴的な座り方。
 今日はその太ももにスケッチブックを立てかけ、なにやらイラストを描きはじめている。
 ……三階には、このダイニングキッチンにも、他の部屋にも、テレビがない。
 昼下がりの時間帯、外からは。生き物の息吹のような、つかみ所のないざわめきが、わずかに伝わってくるが。
 それでも静かな空間。
 ティーバッグで入れた紅茶、藍色のマグカップを、すすりながら。
 立ったまま一息つきがてら、爛を見ていると。
「ど、思う?」
 幼稚園児が、親に、『おえかき』のできあがりを見せるみたいに。
 おめんのように顔前にして、イラストを見せつけてきた。だが。
「……なにが?」
 つい、そう対応してしまった。
 だって、どんなコメント求めてんだ。
 見せられたのはフツーにかわいい、OLが好んで着てそうな、カーディガン。
 のデザイン画らしきものだった。
 ……こいつ、デザイナーにでもなりたいのか?
 そう思いながら、改めて細部までを眺める。
 紫がかった青、薄い色合いなのでパステルカラーってのになるんだろう……で、前は、胸下あたりのスカーフみたいな部分、一箇所で結ぶようになっている。
 薔薇みたいなスィートピーみたいな、どっちにも見えるひらひらのコサージュが、しっぽみたいのまで数本たらし、肩口にとまっている。
「……いいんじゃねーの」
 ぶなんそうな返事をチョイスして。
 とりあえず、そう答えてみた。
 すると、
「そじゃなくて。第一印象を聞きたかったんだけど……。えっと、ピンク嬢でもニューハーフでも、これ着てれば商社OL! ってな感じに……見える?」
 今度は容赦ないほどに限定的にすぎる質問をしてきた。
「……あー」
 虚脱しつつも。まぁ。
「うん……かな……」
 流行と清楚を両立したデザインに見える。
『いかにもOLっぽく』という条件は満たしてんじゃないか。
「うん」
 曖昧な返事に、勝手に納得し。
 タタッと、なにやらFAXの方に、爛は駆けていった。

 本日の二食目は、……もう夕食だ、めずらしく爛が作ってくれるらしい。
 キッチンからトントン、タン、と。野菜を切るらしき、まな板と包丁の音。
 やがて、ぐつぐつ……という音と共に、ほのかに甘い、食物が煮込まれる香りが、座っている小さなテーブルの方まで漂ってきた。
 それにつられて顔を上げた時、ちょうどキッチンから、爛が離れるのが見えた。
 煮こむ間、何か違うことをする気なのだろう。
「んっと、パソ子、パソ子、……」
 赤と黄色のペンキ塗りのざっくりとしたカラーボックスや、アイボリーのクッションが置いてある部屋の一隅に行き、しゃがみこんだ。
 クッションの影から黒くて薄い……ノートパソコンを、ごそっと引きずりだす。
 ……パン、パン、と、フタの上をはたいてるのが見える。なんかうっすら積もってるんだな……?
 それを小脇に抱えて、こちらにやってくる。
 ゴトン、と爛の手によって、テーブルにのせられる。ホコリだらけの場所から発掘されたくせに、ピアノの黒い鍵盤のように、やたらと高級感にあふれて光る、傷一つないボディだ。やたら芸術的なパソコン。
「えー。選択肢は」
 ぶつぶつ言いながら、爛がフタを開けて、電源を入れる。
 そしてほどなく起動したパソコンを、ぱちぱち打ちながら、
「選択肢は――『いつもそうだ』『よくある』『たまにある』『経験がある』『ない』……ってトコかな?」
 お経のようにべらべらとやりだした。
「で、質問は、まずはぁ〜。『平熱が三十五℃以下だったことがある』――ちがうな〜。『朝、熱をはかったら、三十五℃だったことがある』……かな〜。で、『冷房のせいで、体がだるくなった、と感じることがある』とか……ん〜」
「…………」
 のを。
 頬杖をついて眺める、ホント。
 ……わけわかねー。

 男の手料理においても基本である『カレーライス』。
 シャワーを交互にあびた後、おもむろにルーを鍋に投入し、そろってテーブルについて食した爛のソレは。
 小学校給食で食べてたカレーライス、みたいな感じだった。
 米の比率が多くて。そのせいもあり、柔らかな口当たり。
 ルーが量のわりに少なかったらしく、カレー自体も水っぽい。だからかほのかに甘いカレーライス。
 空腹だったせいもあり、ばくばくと三杯食った。
 比して爛は。
 朝はおまけの目玉焼きまで、すすめられるがままに食べていたのに、あまり食べなかった。
 ……コイツ、食欲までよくわからん。波がある。
 弱めの蛍光灯の下、ガラスコップの水をすすりながら、前にいる爛を盗み見る。
 一杯目すら少し残っている状態で。
 めっきり、食品添加物になんて気を配らず真っ赤っ赤な福神漬けを、ポリポリやってるだけの状態になっていた爛が、
「もう、寝に入ろっかな〜」
 と、つぶやいた。
 その言い方も……首もうなだれている状態だし、だるそうと言うか。元気がない。
「早くねぇか?」
 そう感じながら、とりあえず問うと、
「昨日、寝てないし」
 ああ、やっぱり。と思わせる回答をしてきた。
 ……元気が消えうせてんのも、単にそのせい、かな。
 そう納得しかかっていると。
 かたん、と席を立ち、白いテーブルから離れた爛は。
 カレー皿を流しにさげ、そのままテクテクと、部屋から出るドアへ向かっていく。
 ……この部屋には今の爛を基点にして左右にドアがあるが、左側のドアに近づいていっている。
 ――待て待て?
「どこ行く気だ?」
 咎めるように、そう声をかけた。
 だって、爛の寝室……と言うか、まぁあえてつっこんで聞いてはいないが、革と爛の寝る部屋は。
 右側のドアの方が近いはずだ。
 寝る前にトイレや歯磨き、にしたって、水回りだって同様で。
 すると、爛はぼんやり〜とした眼つきで、振り返ってきて。
 意味を噛み砕くように、あらぬ宙空に、視線をさまよわせ、
「ああ……」
 と、気合いのない声を発した。
「最近、あっちで寝てねーんだぁ。なんか……使いづら…………くて……」

 階段の最後の段を降りると、靴先が、ゴツ、という音を立てた。
 コンクリート剥きだしの地面。
 壁も同様にコンクリートで、高い位置にある換気用の小さな窓には、鉄格子。雰囲気はちょっとした牢獄だ。
 歩を進めると、じゃり、と靴底から、砂だか、コンクリ破片だかの音がした。ここも土足解禁の場所。
 部屋と形容するよりは、倉庫という表現がふさわしい室内を、仰ぐようにぐぅるりと眺める。
 天井まで、灰色だった。
「……ここで寝てたのか?」
 好奇心と。
 守らないとな、という義務から、行動パターン確認のためについてきたんだが。
 完璧に予想外だった。
 こんなくつろげそうもない場所で、毎日すごしているとは。
 ――爛の就床時間なんて、把握できてなかったはずだ。居場所さえわかっていなかった。
 位置的には一階だが、仲間が出入りする、たまり場的なフロアとは、完全に壁で分かたれている。
 どういう設計者だったんだか、三階のはじにある階段からしか、下れない特殊な所。
「ん〜」
 地べたに尻をついて、もそもそと、両肩でせおうように毛布をかぶり。
 あまった両端を、抱えるように曲げた膝にも、ふわり、かけている爛が、そう返してきた。
「……警戒、して?」
 ここは、いわゆるアジトなわけだから。
 まさかの敵襲などにそなえて、こもっているのかもしれない。
 退路はたたれているが、このデッドスペースなら、唯一の階段からしか人は入ってこれない。
 すぐに来たとわかるし、細い階段だから相手するのは一人ずつで済む。
 有効な武器があったり、人質を盾にするなどの戦術が取れれば、脱出すら可能になるだろう。
 そう考えれば、なかなか適した避難所なわけだが。
 ――ご苦労なことだ。
 そういう、『大変だなぁ』というニュアンスで口にしたのに、
「いや、別に……――」
 爛からの返事は、なんともまのびしてて。
 あいかわらず、睡眠薬でも盛られたように。
 それが悪い具合に効いているかのように、ぼんやりした瞳をしている。
「今は、ここが良くて……」
「――?」
 こんな暗くて、梅雨のせいで湿ってて。
 居心地いい家具なんて何もない空間の、どこがいいって言うんだ。
 そう思いながら見つめていると、爛がポツポツ、言葉をつむいでいく。
「壁の向こうの、足音とか……」
 言われて、急に、コンクリむきだしの壁に注意がいく。
 断熱材やら防音材、壁紙もないだけに。
 確かに外界を、身近に感じる壁。耳を澄ませば、耳がよければ、建物の前を通りかかる人の足音を、聞き取れそうな。
「車の……地響き……とか」
 靴底が接している、ひんやりとした床を意識した。
 夜中でも、表通りを走っている車。
 土との距離が近いこの床なら、より生々しく、それを感じ取れるかもしれない。
「雑踏の……声とか、駅前ビルのマルチビジョンが放送してる、歌とか」
 ――風向きによって、いろいろ、流れてくるんだ。
 ――神経集中させると、そういうの、感じられるから。
 あいも変わらず、遠い目をしたままの爛が。
 雨だれみたいに。
 雫みたいに。
「……街が」
 ゆるいスピードで落としていく、声達。
「ひとつの家族、みたいな、かんじする」
 雑多な気配を。
 撫ぜ、いとおしむような発言は。
 前から少し疑問に思っていることを、いやおうなく、掘り起こしてきた。
 コイツの親は。
 家族は?
 なんで、十六で、革と完全に同棲してんのか。高校を退学するかどうかまでも、コントロールされて。
 ……爛の環境に思いを巡らし、少しうろたえていると。
「おやすみぃ」
 爛が、疲れたように。
 ボスッと、あご先を、膝に埋めてしまった。
 体全体が丸まっている、窮屈なシルエット。
 眠るというより、仮眠。
 ……よりも、休息という表現しかできない。
 あきらかに翌日、体が痛くなっていそうだった。
「…………」
 二歩、爛に近づいて。
 よっこらしょ。と隣に、腰を下ろす。
 初夏も近いのに、コンクリートなせいで。梅雨独特の湿気を帯びた、底冷えする寒さが、ジーンズを抜けて尻からしみこんでくるようだった。
「……風?」
 丸まって床に放置されていた。
 あまった毛布を、腕を伸ばして取り、体へ広げていると。
 爛がこっちに顔を上げ、不思議そうな声をかけてきた。
「人の気配がする方がいいんなら……同じ部屋に誰か、増えた方が、いいかもだろ」
 ――革がいないせいなんだろう。
 と、結論づけたのだった。
 本人も、よくわかってはいないのかもしれないが。
 どう考えても……精神的に不安定っぽく、なっている。
 こんな、『眠る』とは形容できない状態で。
 体を横たえることすらなく、座りこんで夜明けを過ごすことを、好むくらいなんだから。
 ……そりゃそうだ、若輩も若輩だ。
 十六歳なのに、本業で年季も入ったヤーさんが、ちょうりょうばっこする世界において。
 犯罪行為なんかにも手を染めつつ、一組織を担っていかなければならない。
 しかも、常に共にいた。
 主君であり恋人である人物が、いない状態で。
「おまえの護衛だし、な」
 パンパン、と毛布の皺を伸ばしながら、呟くと。
 ……爛は、顔をしかめるような。
 それでいて、同情するような……あわれんで……くるような……。
 そんなわけはないんだが。憐憫されるような理由も、ないし。
 だけどそうも見えるほど、どうにも、奇妙で複雑な顔をして。
「あんがと」
 まるで傷をこらえるような表情で、小さく言って。
 そのまま顔を、また、膝に埋めてしまった。

 ◆

 ぅー、としゃがれた低音にて、うめきながら。
 寝ぼけた後頭部をごしごし掌でこすりつつ、細くて薄暗い階段を、やや注意深くトントンと上がっていく。
 三階に上がりきってすぐ隣のドアを開けば、ダイニングキッチンだ。
 やっぱり先に目が覚めている……爛が、そこにいた。
 満足そうな表情で、テーブルの上にのった。
 フタの開いた、大きくて薄いダンボールを、見下ろしている。
 ……と、こっちに顔を上げて、
「おはよ〜」
 声をかけてきた。
 ……笑顔、じゃん。
「あぁ」
 単に。まぶしい朝がきたから、ってせいも、あるかもしれないが。
 元気が、とりあえずは復活しているようだ。ちょっとホッとする。
 コンクリートざこ寝、一晩で、腰やら肩やらの骨はちょっときしむが、それもかまわなくなるってもんだ。
 壁時計に目を走らせると、十二時すぎ。
 昨日あたえられなかった睡眠を挽回してもらうように、たっぷりといただいたわけだ。
 そうつらつら考えながら、テーブルに近づき、爛が前にしているダンボールのなかみを、のぞきこむ。
 中にはガーゼっぽい素材でできた服が、五枚入っていた。
 ラメもちょっと入っているのか、うっすら光るカーディガン。
 それぞれに色が違う。どれも淡くて、ピンクとの中間のようなパープル、紫がかった水色、仄かなイエローグリーン、ほとんど黄なオレンジ、白に近い朱色の赤、と、虹のような展開を見せている。
 透明ポリ袋に、個々にコーティングされたそれらを眺めていると、すぐに気がついた。
 肩につけられたぴらぴらな花コサージュ。ボタンではなく、スカーフ風な生地がヒラついてる前を、ひとつ結びにするらしきデザイン。
 昨日の爛が描いていたデザイン画、そのものな服だ、これは。
 ……一日で仕上げられてきたのか?
 ってか、アレ注文のFAXだったのかよ。そういえば直後に電話で、ラメがどうとか色展開は五色とか言ってたか……。
「コレは見本品で、カラバリエごとに一枚ずつしか上がってきてないけどさ。一週間もあれば、百揃うから」
 一個、左手で、水色のやつを手にして、肩の上に掲げ。
 いたずらに振ることで、ポリ袋をがさがさ鳴らしながら、爛が言う。
 百枚注文したのか。
 こんな女の服、なんに使うんだか?……それにしても、
「一日仕事にしては、なんかキレイだな」
 昨日今日ということを考慮すれば、感心するしかないようなできばえだった。
 丁寧に作られたような印象を与えてくる。昨日めぐったショーウィンドーの中に、交ざって並んでいてもおかしくない。服のことなんかわからないが、多分。
「うん、ここ、老舗でな〜。最近の輸入モンはもうべらぼーに安いからさ、そっち面じゃ勝負になんねーけど。LV生地の再現から、妊娠腹かくしなケリケリバッグちゃんから……職人芸なのよ。新作だって、映像まわした一週間後には、キッチリそこそこの数で上げてくるしさ」
 ……単語、単語としての意味は、八割はわかる……つもりなのだが。
 輸入モノに価格で負けるのは、一般的に大抵のものがそうなわけだし。
 けど、単語が繋がって織り成されている『内容』が、ぼけっぱなしで、全く伝わってこない。
 何のことを言われてるのかわからない。
 やはりキーワードらしき、LV生地、とかがピンとこないせいだろう。
「誰にも正体を明かせなくてもこの縫製努力を怠らないサマは、正義の味方のようよ?」
「はぁ?」
 続くセリフは、更に大半がわからなかった。
 正体を明かせない?
 なんだその……ウルトラマンかなんかのような、守秘義務は。
「んっとー」
 爛は、こっちの様子から、疑問符を感じとったらしく。
 一着持ったままの左手を、突きだしてきて。
 右人差し指で、ある部分を、ちょいちょい、と指さした。
 後ろ首のメーカータグ。
 そこには、自分でも知ってる。
 二十代くらいの女向けの、有名ファッション雑誌のロゴが、刺繍で入っていた。
「…………」
 さっぱり意味が貫通せず。
 ぽかーんとしばらく、そのロゴを眺めていたが。
「…………」
 数拍のちに、口元を手で、おそるおそる覆ってしまった。
 ひょっとしてニ……セブランド品……。
 が専門の、零細工場がご製造くださった、お洋服なわけですか……?
 だって昨日のあの過程に、間違っても、この雑誌からの正式依頼がからむシーンはなかった。
 そういう意味での『老舗』?
 ……そう言えば、この街ってその手の露店売り激安バッグのメッカだしな……。中国産のやつとかな……。
 アハ、アハハハハ、と笑い出したいような心境で、納得していく。
 ――にしても。
 なんで素直にヴィ……とかのバッグじゃなく。
 自分で一から『いかにもソレっぽい』ようなデザインまで作って、このロゴで仕上げたんだろう。
 あの雑誌、オリジナルブランドとして服、通販で売ってるんだろうか?
 ここまで手間かけてそれを模すほど、そういう服って、高いのか?
 そう悩んでいると、ちらちらスクリーンセーバーを起こしていたノートパソコンを、カチカチとマウスで終了させていた爛が。
 今度は、接続したプリンターの方へと歩いていって、そこから印刷済みな紙束を持ってきた。
 トントン。
 百枚以上あるだろうそれを、テーブルの上で揃えて。
「じゃあ、これをエビにして」
 ひょいっと首をねじって、斜め上を見て。
 宣言した。
「鯛を釣りに行かないと」

 ◆

 オフィス街の近く、駅前からはやや離れた。
 なんとなく青山ふうに、上品で高級感の漂う一角。
 オープンカフェのような、総ガラス張りのとある店舗、の扉を、爛は押した。
 看板を確認すると美容院らしい。
 店内に改めて目をやると、確かに、鏡と黒いチェアの乱立。
 髪を切っている客が……と言うより客が一人もいないので、わからなかった。
 ……平日昼すぎったって、客が零ってのは、まずくないか?
 そう思いながら、爛の背中に貼りつくように入店する。両手がくだんの服が入ったダンボールで、ふさがっている。
 連動して鳴ったチャイム音に反応して、そこそこ広い店内の中央にたたずんでいた、人影が振り返ってきた。
 さほど太っているわけではないが、福々しいでっぷりとした丸顔。丹念に手入れされたあごひげ。
 ……ひげのせいで、印象としては、だいぶの歳に見えたが。
 よく見ると、ひそかに若い人物らしかった。ほっぺたのあたりが、光をはじいてつるつるしている。
「お〜ランラン! 髪切りに来たのっ?」
 訪問者を解するなり男は、顔に喜色をのせて、諸手広げての歓迎ぶりを見せた。
 オシャレにしようとしすぎた外見……赤系のシャツ、黒いゆるめのストレートパンツ、もあいまって。
 少々、カマっぽく感じるしゃべり。
「これ以上切れねーよ」
 右手を、空気を斜めに切り刻むように、ブンブンと振って。
 左手はジーンズにつっこんだまま、爛は相手へ近づいていく。
 と思ったら、相手の傍を通りすぎて。
 奥まったブースにある、応接スペースのソファーへ、勝手にどっかりと座り込む。
 柔らかげな起毛の、北欧家具らしき洒落たソファー。向かい合うように配置された、赤とオレンジの対。
 客と髪型を相談するスペースなのだろう。ソファーとソファーの狭間のガラスローテーブルに、カット見本がたくさん掲載されている流行系の雑誌が、何冊も並べられている。
「んじゃ、ヒゲだけでも剃らせてよ……。……ってないか」
 爛に続いて、爛の正面の位置へ座りながら、男は。
 一人提案し、そして、思い直し。
 あげく、あごにこぶしを当てて。考えこむ表情となった。
「今月も資金キツいの?」
 ズバっと。赤の他人の心臓が、どきぃっとしてしまうくらい、ストライクな斬り込み。
 それを放ってから、深くソファーに腰かけている爛は。
 ふんぞりかえったまま、脚を組んだ。
 ――珍しい、と感じた。
 家ではこんな、偉そうな……。
 ちょっとヤクザっぽいような仕草、しないのに。
「そら、いつも自転車操業よォ。ここ一等地な値段だし……」
 しょげたような、拗ねるような顔で、ますますカマっぽく男が訴える。
「だから顔で選ぶのヤメって言ったのに」
「だって腕が良くって口が上手くてって、オレとキャラかぶるじゃん。顔重視のが、戦ってくためにはいいかなって思ったんだよ」
 ……どうやら。
 この店の美容師についての話題らしい。
 勝ち残っていくために、ホスト的なメンツを揃えたら、裏目に出た、って所だろうか……。
「ミョーに自信ない君だし……」
 ふぅっ。
 そっぽを向いて爛が、ほうり投げるようなため息をついた。
「ところで」
 いかにも、本題に入りますーというように。
 背中を完全にソファーにあずけていた爛が、脚は組んだままだが、むしろ前傾姿勢なほどに身をのりだし、切り出す。
「お客のさ、職業、把握してるでしょ?」
「別に、メンバーズカードには記入してもらわないけどね……? ま、髪切ってる間、会話するし。ある程度は」
 目を閉じて、両肩をすくめる感じにしながら、店長が答える。
 その回答を得て、爛が、左隣の席……。
 こっちに、振り返ってきた。
「…………」
 目で送られてきた合図に応じて。
 手にしていたダンボールを、応接テーブルへ、トン、と置く。
「この近隣ビルのOLに、限定してさ〜」
 しゃべりながら爛は、ダンボールを開き、ガサリ、ポリ袋にパックされた服を、一個取り出す。
「『OLさんを対象に、アンケートをお願いしております。ご協力いただければ、この冷房よけに最適な一着を、もれなくプレゼントさせていただきます。アンケートは簡単なもので、一枚の用紙にご記入いただくだけです』……って」
 言いつつも同時進行で、左手をダンボールに入れ、一緒に入れてあったアンケートの紙束を取り出しテーブルにのせる。
「やってほしいんだけど。もちろん、このタグの雑誌からの依頼、ってカタチで」
「うわー。作ったの?」
 店長が、爛の持っている紫ピンクの一着を受け取りながら、呆れたような響きのある、感嘆の声を上げた。
 ……ニセだとは察知できているらしい。
「今日は五枚だけど。一週間もありゃ百出揃うから、またおれが運送してくるし」
 爛の追加説明に、ふんふん、と頷いてから。
 店長が、すごく現実的な質問を発した。
「いくらくれる?」
「百」
 爛の返事は、即答で。
 ――百?
 単位がわからん……。まさか……。
「………………もうかるネタなのね、コレ」
 爛とは対照的に、じっくりと黙ったあと。
 店長が、応じた。
「自分でやるか?」
 妙に綺麗な声質で。
 隣の爛が、明るくそう言った。
「…………」
 またやってくる。
 店長が一方的に醸しだしている。
 長く、重い沈黙。
 やがてそれを破ったのは、はぁ、という。
 えらく大きな疲弊した溜息。これも店長サイドの。
「……んな」
 そう口を開いて。
 だけど、ふー、と。
 改めてもう一度、店長は息をつき。
「死にますか? みたいな顔で言うなよ。わかったよ。シロウトはおとなしくすっこんでるよ」
 ……ちょっと吃驚して、横を見た。
 爛は、にこ。
 と、すがすがしいような笑みを浮かべていた。
 穏やかにつむられている目、上品な鼻、微笑んでいる唇。すんなりした頬のライン。キツさやクドさのない少年顔。
 別に、なんの腹黒さも、今の顔からは見えない。
 ……さっきの『自分でやるか』は、どんな表情で言ったんだろうか。
 店長の反応からして、声と一致してなかったのは確かだ。
 怖い。
「二百でどうよ」
「ふっかけるねっ?」
 ……引き気味になってるこっちをよそに、着々と交渉は進んでいた。
「ウソつけ、セリ始め百からなら、上限ギリってとこだろ、おまえのあタマん中じゃ!」
 ぎゃーぎゃーと、一転、コメディに。
 学生どうしのじゃれあいみたいな雰囲気。
 これはもう、交渉は決着した、って証なんだろうか。
 ……ずいぶんまぁ、スムーズに話が進むことだ。
 まさかこんな普通の、髪切るだけの『美容院』で。
 実は得体の知れないアンケートに答えさせられ、ナチュラルにニセブランド品つかまされてるなんて、一般人は思いもよるまい。
 ……現代社会っつーのは、どこでどんな風にダマされてるかわかんねーな……。
 本気じゃあなさそうな、アップダウン対決を、まだまだ楽しげにしている二人を眺めながら。
 一連のやりとりに、生き馬の目を抜く『都市』を見た気がして。
 一人、ぐったりと細く、息をはきだした。

 ◆

「どこに行くって……っ?」
 美容院での用を済ませ。
 電車で東京メトロ、四ツ谷駅に出て、のりかえ待ちの数分間。
 これから向かう場所をさらりと聞かされ、声を高くしてしまった。
「そんなに目ェ剥く場所ではないでしょ〜。そらー、ガラじゃあないけど」
 今日こそは一日、晴れていそうだったのに。
 やっぱり振り出した雨に、さっき売店で買った、まだ濡れていない傘。
 その傘の本体部分を握り、柄でポリポリと耳の裏側を掻きながら。
 爛がなだめてくる。
 ……けど、そんなこと言われたって、耳を疑うしかない。
 だって。
 大学に進学した友達から、
「課題に必要でさ、こないだ行ってきたんだ。なんかー。用紙書いて、で奥から出してきてもらう、って一連に、やったら時間かかって。スゲー待ちくたびれな場所だったよ」
 程度に話された、そんな周辺知識しかない施設だ。
 まったく縁のない場所。
 爛にだって、あるとは思えなかったのに……。
「だってぇ、国内のもんは原則、全部収集されてるし」
 爛は、かなりのスピードで、薄暗いホームへ滑りこんできた灰色の列車に、目を向けながら、
「ココ掘れわんわんする位置をまちがえなきゃ、一番、効率がいいんだもん〜」
 ふざけた口調で、説明は山ほどしてくれるが。
 まだまだ、『えー』という心境だ。
 ――ミニヤクザもどきが、国会図書館だと?

 国会図書館ってものを、初めて見た。
 平日の夕方前、雨模様なだけあって、館のまわりに人影はほとんどなかった。
 関係施設らしき、これまたもの静かで品のいい建物が、周囲をかためている。
 いま立っているのも、普通の公道とはどことなく一線を画した、ツンとすまし顔の……白っぽく広い道だ。
 インテリ風と形容すべきか、文学風とすべきか。
 どっちにせよ。
 体育会系人間としては、思いっきり気おくれしていると。
 ジーンズのポケットからガサガサ、四つ折りにした紙をひっぱり出した爛が、
「このリストの資料、司書さんに出してもらって、んでコピーしてきて〜」
 テキパキと指示してくる。
 流されるように紙を受け取り、なんとなく、その場で開いた。
 ――そこで、本日数度目に、固まる。
「ナンで……。論文とか……なんですか……?」
 思わず敬語だバカヤロー。
 こっから、ここまでは論文、と、わかりやすく囲って、本じゃないんだと示されている、リストの最初の方。
「なんとかかんとか計測学からのアプローチ」だの「人口密集都市建築なんとかかんとか」だの……いかにも学問ガクモンした、ぎっちぎちのタイトルたち。
 けれども、爛からの返事は、
「うん、役に立ちそうだから」
 ……説明が簡潔すぎるんだよ。
 後から振り返ってすら、行動が大部分よくわからず、よって、未来予測なんかは全然つかない。
 機動力があるのは、留守番リーダーとしてたいへん結構なことなんだろうが。
 役目がお供とはいえ、ふりまわされっぱなしだ。
「中に入ったらわざわざ『利用の手引き』な紙がいただけるから。それに従って、利用者カード作って。あ、不審物とか持ちこめないように、荷物はほとんどコインロッカーに預けないといけないから〜んで、百円玉いるから、コレあげる」
 ロクに息継ぎもせず、爛が、ぺらぺらと事前知識を与えてくる。
 器用に傘をさしたまま、爛が財布から出した百円玉を。
 差し出されるがままにぎゅっと握ってしまったが。
 ……こんな小銭いらねぇよ持ってるよ……。
 と言うか。
「……え、行くの、おれだけなのかよ?」
 別に。気おくれしてるとはいえ、不安なわけもない。
 ただ不服と言うより……別働して何かする気なのか? という疑問から。
 つい、眉を八の字にしかめてしまいつつ、尋ねたら。
「だっておれ、まだ十六なんだも〜」
 ――国会図書館ってヤツは、十八歳からじゃないと、利用できないらしい。
 もちろん、知らなかった事実。
 ……そう、ですか。

 友達がコメントしていた通り、リクエストに必要な用紙に記入したり、コピーしたりするよりも。
 請求した資料がカウンターから出てくるまでの、ひたすらな待ち時間の方が長くって。
 ……カラ苦労というか、妙に疲れた。
 やたらと清潔で、人が相当数いるのにありえないほど静かな館内から、ヘロヘロ出てくると。
 濡れた石畳、その艶が美しい、道のすみに。
 爛がまた考え深げな顔つきで、ぼんやり傘をさして、佇んでいた。
 はじめて親に言えない秘密をもった子どもが必死に悩んでるみたいな、真剣さが滲んでいる。
 ぺちゃんと、少しボリュームが減っている。雨に湿ったようすの、赤茶けた前髪。
「…………」
 雨でかすむ、視界のせいもあってか。
 その姿が、妙に静物画的に見えると言うか……。
 ――なんだか。
『待たせてしまった』ような気持ちすら出てくるから……非常に理不尽だ。
 けっこう疲れたんだよ、爛に行かされたんだよ。
「おぅっ、おかえんなさい〜」
 こっちの存在に気がつくなり。
 向けられてくる、天候にそぐわぬ、晴れやかな笑顔。
 さっき自分を襲った、カン違いな感覚に。
 まだ、ぶすっ、とした表情を引きずりながら、少し丸めてまとめてあるコピー資料を、つき出した。
「うん、ちゃんと、最後の方まで――『環境インフラ共有の一モデル』『密集型都市の気候変動』『京都議定書における吸収源プロジェクト』……全部あるね〜」
 爛が視線を落とし、手にした資料を、パラパラとめくっていく。
 うつむいたせいで、耳たぶを中心にちらばったピアスの輝きが、目立つ。
 雨粒がくっついて、流れていった後なのだろうか。
 普段よりもやたらとキラキラ、黄金郷に光っている。
「じゃあ、後は……」
 資料をめくるのをやめ、くるり。
 爛が、身軽に踵を返す。
 こちらを向く傘の花。
 透明なビニール越しに見える、爛の横顔。
 ……あごが、上向いていた。
 遠くの上方を見て、光っている瞳。
「…………」
 つられて、爛の視線の方向を追った。
 雨に濡れて。
 こっちもやたら煌めいている、都市の景観街路樹、新緑が若々しい木。
「主に、第三の男さがし、かな」

 ◆

 赤とオレンジ。起毛が居心地よさげな、一週間前にも見た高級ソファー。
 ホントに支払われた二百枚を、美容院店長は。
 両手で根元を持ち、扇状に広げて。
 しかし、どんよりした顔でハァ〜とため息をついている。
 ……多分、自転車操業で、あぶくと消えるのだろう。
 いっとき手にする無常さを、噛みしめてるってとこか……。
 そんな店長を前に置いて、
「うん、数値高いね〜。『経験がある』まで含めれば、七割ってとこ?」
 アンケート結果をナナメ読みしていた爛が、そう総評を述べた。
「表計算に落としてみないとだけど、会社ごとの因果関係もきっちり出そうね〜」
 ぶつぶつと、特に気に入った……? らしき、何枚かを抜き出しながら、独り言。
「『私、社内恋愛中なんですが、相手は営業なんです。彼に聞いても、外回りから帰ってきた直後だってこの冷房はキツイ、って言ってました』……とかね、良いね」
 ……なにがどう良いのかわからないが。お気に入って、けっこうなことで。
 そう思ってると、右隣の爛は振り返ってきた。
 健康的な朱色の唇が、得意げな形になっている。
「ね、やっぱ、アタリだよね?」

 帰宅するなり、ダイニングキッチンの部屋で、爛がなにやらうろうろしだした。
「予備調査の要綱、実施時期、結果、の書類も〜電子媒体からのプリントアウト、でそろってるし」
 指折り数えるようにして唱えながら、なんだか熱心に。
 紙束をクリップで留めたり、封筒に入れたり、クリアファイルにしまったり。
 けっこうな量の書類を、何種類にも区分していってるようだ。
「証言も集まったし、フリーコメントの質もだいたい満足、土台がための学術系書類もたくさんあるしぃ」
 話しかけられている感じではないので、イスに腰かけ。
 行くのを見送って、やって来るのを眺めている。
 大きくなっては小さくなる、爛の姿。
「一個だけ問題のブツも入手できた、保険も後先考えなければ使用できる、と」
 今度は、書類の分類は終わったらしく。
 その場に立ちすくみ、そして、『ブツ』だの『保険』だの、なんか剣呑に聞こえなくもない単語を呟きはじめる。
「では、と」
 おもむろにスタスタと、パソコンと繋いだプリンターへ向かい。
 そこから一枚、紙を取り出して。
 移すようにFAXへ持って行って、ガーとやりだす。
 どっかに送ったのか……? と考えていると。
 戻ってきた爛は、同じ見た目な紙を、二枚持っていた。
 ……じゃあコピーだったのか、と思ったが。
 それも違うらしい。片方の用紙には、先頭に、日付だの時刻だの、FAX独特の情報が入っている。
「うちからうちへ送りまして」
 爛が短く言った。
 なぜそんなややこしいことを……と思うが、それだって。やっぱ何か理由があるんだろう。
 その紙は、スポーツ新聞のような、週刊誌の記事のような……。
 なんだか、そこはかとなく怪しい香りのする、誌面らしきものだった。
 爛はそれを、折りたたんで茶封筒にしまい。
 そしてどこかから発掘してきた、『書留』のハンコを、
「タイになれ! と……」
 ふざけた呪文をとなえながら、ポン、と押した。

 ◆

 濃いわりに苦味の少ないコーヒーを、改めてぐっとあおった。
 味にはこだわりを持ってやっているらしい。胃にも脳にも優しい感じの、けれども深い味わい、旨い。
 横に居る爛に、ちらりと目を流す。
 やや下方に、珍しくレンズ小さめのサングラスをかけて、すましている顔。
 ……思いっきりハマっていない。
 服に……服じゃあないが。着られている。
 つくづくそう思っていると、
「なにその目線」
 爛がからかうような声音で、口を開いてきた。
 ぎく、としながら、
「……いや……」
 いまさら弁解も無駄な気がするが、不自然に目をそらしてみる。
「似合ってないってんでしょ〜どうせ。わかってんの」
 目元が気持ち程度に隠れればいいの、と。
 深読みするとちと怖い台詞を、爛は述べる。
 ――駅から徒歩圏内とはいえ、かなり複雑に道をたどったあげくにやっと着く、雑居ビル。
 の中に入った、喫茶店。
 看板から見るに深夜営業もしているらしき、なんだか穴場っぽい店だ。
 古き良き正統派喫茶店といった感じなのだが、そう言い切るには、やたら店内が薄暗いという奇妙さがある。
 ……だからなんか怪しい感じがするんだよな、と思いながら、床に視線を落としていたら。
 店内で一番大きなライトが、床にもたらしている光が、翳った。
 大ライトは、入り口の頭上位置へ設置されている。
 ――つまり、誰かが入店してきて、その光が遮られたということだ。
 雑居ビルのかなり奥にある店ということで、扉がもうけられていないから開閉音はしないのだ。
 ……頭を上げ、入り口をくぐってきた人物を見る。
 かなりの長身。そして横幅もそれに準じるように、たっぷりとある。
 学生時代は柔道をやっていましたという感じの、がっちりとした体躯。
 典型的なまでの灰色のスーツ。そんなに高級品でもなさそうで、でも密かに仕立てはしっかりしていそうだ。
 頭髪の量は少なくはなく、むしろ白髪の印象が強かった。
 眉も目も鼻も口も、太かったり大きかったり広かったり、という顔立ちで。
 人を時に導いて、時に蹴倒してきたような、貫禄がある……その人物。
 を認めるなり、爛が発した。
 普段よりより一層高い、子ども声。
「脅迫の書留、ご覧になっていただけましたか?」
 ……つんのめりそうになるのをこらえる。
 第一声で、なんてストレートなこと言い出すんだ。
 って言うか、あの書留が、まんま脅迫だったのか。
 ……え、あの新聞記事みたいなヤツが?
 そう悶々と考えていると、相手が正面ソファーへ、腹まわりの脂肪が重そうな動作で腰をおろした。
 牛皮製でなかなかクッションもいい、その座り心地を確かめるように、たっぷりと沈黙を取ってから。
「――どういう」
 なめられちゃナランと思って、なのか。
 わざわざテーブルの上に、両手を置き、左右の指を交互にぐっと噛み合わせ組んだ上での、
「言いがかりか、と思ってね」
 明らかに意図的な。ゆったりとした決してあせらぬしゃべり方。
 ソファーにも、深く腰かけている。
「あーサクっと屈するわけにはいかないご事情は、充分にわかっているんですけどね〜?」
 そんな駆け引きを、いっさい無駄にさせるような。
 明朗な、爛の仕切り。
「でも、ごちゃごちゃ駆け引きしてんのはバカらしーんで、材料ならべますねぇ」
 バサ、ドサ、バサン、と。
 低くて大きな……油分汚れで曇ったガラステーブルの上へ。手持ちの書類を配置してゆく。
 あわてて、爛の飲んでたエスプレッソと、自分のコーヒーを、片手の掌でかぶせ持ってガチャガチャと引きずり、端に寄せた。
 まったくいざとなったら……気が早いって言うか、テンポの速い奴だ。
「一九八四年の記録的大雪」
 相手から読めるよう逆さにし、まず爛が示したのは、折れ線グラフが印刷された紙。
 ここからだと文字がよくわからないが、気象資料のようだ。降雪量、という文字が見える。
「このとき都市機能がマヒした批判から、その翌年、この街のとある地区に試験的に導入された――」
 そこまでで、爛はいったん切って。息を吸い。
「散水消雪システム」
 少し大きな声で、短く言った。
「貴社が施工なされていますよね」
 チラ。目線が交渉相手へ走らされたとわかる、首の動き。
「……それを踏まえまして、本題の『打ち水プロジェクト』――その実施地区選出のために行われた、『アスファルト表面温度計測がメインに置かれた予備調査』――となるわけです」
 開会宣言のように、相手へ一方的に、爛はそう告げて。
「その予備調査は、この」
 ぴらり、とまた一枚、束から引き出して。
「資料でも確認できますが、オフィスビル群に囲まれた公道が『都市部としてふさわしいモデル地区』として、対象にされました」
 右人差し指で、黄色い蛍光マーカーで線引きされた一箇所をさし示しながら、論説を展開する。
「例の散水消雪システムが設置された道は、一流の商社街ですもんね。そりゃあもう普通に、対象内にリストアップされたわけです」
 ……相手は、あいかわらず無言だ。
 聞いているのかいないのか、それすら定かじゃないほどに。
 だが気にせず、爛は紙を、ぽい、とばかりに脇に捨てながら、
「かなり早い段階ででしょうが――『散水消雪システム』の施工を担った地区が、『打ち水システム』の候補地の一つとしてリストアップされたという情報を――つかんだあなた達は」
 ぽつ、と。
 TVで天気予報を見たあとに、「晴れか」とか「雨か」とか意味なく反復するみたいに、そっけなく。
「血眼になった」
 と、低く一言、追加した。
「貴社ほどの規模の会社でも、この仕事、とても見過ごせなかったはずです」
 茶色いサングラス越しに、相手を正面から、じっと見つめて。
「この回本体は、初回ですから、たいした金は動きません。……まずは、ほんの限定区域のみに設置し、その効果を見ることから始まるでしょう」
 さして重大な仕事じゃなかった、そんなニュアンスで言ってから、
「――だけど、圧倒的なくらい『芋づる』ですよね?」
 しかしそれをくつがえしたり。
 政治家もかくや、というほど。メモをチラ見もしない、けど忘れて詰まるようなこともなく、すべらかで情感もたっぷりな、演説。
「ヒートアイランド現象を起こしている道は、この街だけじゃない。東京だけにも留まらない。海外すら、視野に入れられます」
 右手を、手首をくるり返して、自分の右肩のあたりにまで持ち上げ。
 天井にてのひらを向けることで、広域な世界をイメージさせるようなしぐさ。
「打ち水と散水消雪は、排水や給水管などのインフラ共有で、コストダウンを図れます。積雪対策に、差額費用の上乗せで、ヒートアイランド対策も――かねそなえられるとなれば、決定的なアドバンテージを持ってきます。加えて、打ち水システム自体がまだ確率されていない分野。言わば、本年中に工事が始まるこの地方自治体、東京都実施の『打ち水プロジェクト』が、世界的に見ても初の打ち水『事業』だったんです」
 そこまでで、相手と目の位置を合わせるのをやめ。
 多分、意図的に。
 爛は顔をふせた。
「……積雪対策システムのノウハウがある企業は貴社だけではありませんが、夏、冬、両用の機能を搭載したシステムとなれば、まだ実績を持っている企業はなく。そして、もうじき、貴社が唯一の、運用実績まで蓄積している、信頼の企業となります。――将来的にどれだけの市場、受注が見込めることか」
 まくしたてるみたいな展開に。
 もう、置物みたいに少しも動かず、傍聴しているしかないのだった。
「……けれど、その明るい展望も、例の地区が『ヒートアイランド現象を起こしている典型的な道』として選ばれればの話です」
 しかし、直後に続いたセリフでもって。
 麻雀で、誰かが上がりやがったかのような、そんな一掃さを体感した。
 少しだけこわばってた肩の筋肉が、つられてカクンとなる。
「あの区間の散水消雪システムのエキスパートは、もちろん生みの親である貴社ですから……選ばれさえすれば順当に入札でも勝てるわけですが――逆に言えば『あの地区が確実にヒートアイランド現象を起こしていなければ』全てが水泡に帰す」
 爛はコトッと。
 まるで何かをねだるかのような角度で、小首をかしげて。
「だから」
 ……ほとんど、融けゆくような声だった。
 甘いほどの囁き。
「なんとしてでも、あの地区にヒートアイランド現象を起こしていてほしかったんですよね。……わかりますよ」
 わずかに頷きすらしながら、言ったのだった。
「そこで、こいつなんですけども」
 手品師がひけらかす、トランプみたいに。
 ざあっと一直線に、スライドさせて、爛が机上に広げた。三桁と思ってしまうほど大量の写真。
 おまけに背景などからして、どれも同じ物を撮影したものらしい。
 映っているのは、不恰好な何かの機械。かなり巨大だ。
「『過負荷につき故障』で処分済みになったはずのもの、やっとのことで一個だけ入手できまして。ある会社の倉庫に忘れられて転がってたんです。回収しそこねましたねぇ」
 淡々と、落ち着いたスピード。
 気のないそぶりの語り。
 だけど、なんだか。思いやる風のセリフなんだけれども。
 第三者が聞いていても、嫌な感じに押しつけがましい。
「要は、空調機の後付け制御機構ユニットですよね」
 自分が広げた写真に目を落としたまま、爛が、ぼそぼそ言う。
「言うまでもなくコレは、去年の夏。貴社が持てるコネの全てを駆使して、あの道に面したビルへばらまいたブツです。工事人員まで無償で手配する、手厚く断りづらい依頼によってね? 貴社はこれを、『自社で開発中の、冷房システム効率化と省エネをはかるためのユニットで、実際に稼働させたデータが欲しいので、ご協力をお願いしたい』……ってことで、とりつけまわったわけですが」
 爛は、写真を出してからずっと、下を向いてしゃべっている。
 意気ごみというものが感じられない。
 しかしだからこそ、なんか……余裕があるように見える。
「……うちの中でも一番機械に詳しいヤツが、必死こいてこの数日、見させていただいたんですけど。『迷路みたいだった』ってのが第一の意見でした。そもそも基盤の設計からして、効率の真逆へ疾走してるそうで。――まぁ危険ってほどのものじゃあないけれど、無駄の固まりみたいなものらしいですね」
 そこまでで、ひょい、と顔を上げた。
「もちろん本体から電力供給を受けて稼働するタイプですから、電力は使いたい放題なわけですが。それでもこんだけ無茶苦茶してれば『そりゃ過負荷故障も続出する』ってお墨付きまで、出してましたよ」
 目元はサングラスの下ながらも、興奮も迫力もない、冷めた顔色。
「つまりこのユニット、省エネ的には歴然とした欠陥品です」
 そんなことを言い、再びうつむく。
「過剰にエネルギーを消費させ、その影響でアスファルト表面温度を上げるために設計された……のならば、成功品ですけどね……」
 ますます。眠たげにすらなってきたほどの言い回し。……での、断定だった。
 ――その時、ついに。
「うちの技術者も」
 相手方が。
 のりで固められてんじゃないか、というほど開かなかった口を、動かした。
「自己研磨を重ねているんだがな。なかなか、意図した通りの製品は、完成しないんだよ。……効率アップを目指して設計しても、うまくいかずに裏目に出るなど……よくあることだ」
 いっそあっぱれなくらい、真っ白にシラを切って。
「で、それの……何が、いけないと?」
『若造が、言いがかりもたいがいにしろ』――そう、威圧されているような気がした。
 全ての証拠を握っていても、かさねた年輪で押し切られていくような。
 丸めこもうとしてんだとわかっていても、ちょっと反抗しがたい強引さだ。
 ……爛は、にっこりした。
 しごく満足そうなものだった。誘導どおり来てますね……みたいな。
 ファーストフードの店員顔負けの、のっぺりした。
 愛想だけは満タン笑み。
「これだけなら、そんな理屈もアリかもしれませんねぇ」
 そして、ばさばさばさ、と。
 テーブルの上、今度は、コピー用紙が音を立てて乱舞する。
 ……これには見覚えがある。ちまちました女の字が、どれもに書きつけてある用紙。それがおそらく百枚だ。
 相手が、なんだこれは、と少し目を瞠った。
「独自で、アンケート調査を実施したんですけども」
 すぅっ。
 爛の人差し指が、空間を裂くように発光している。ライトを浴びているだけだが。
「『貴社と何らかの関わりがある、あの道に面したビル』に勤めている女性で、去年、低体温症を経験したのは、この調査結果で七割にものぼります。貴社と何も取引がない、てっとり早く言えば貴社の機嫌をとる筋合いがない――例のユニットをつけなかった社に勤めるOLのデータと分けて比較すると、明らかな差を示しています」
 文字をなぞる指先も、妙に鋭利に見える。別に速く動いているわけではないのに。
「フリーコメントも、それを裏づけています。コスト削減の面からも、エコロジー配慮の面からも、そうガンガン、オフィスを冷蔵庫にするもんじゃない。なのに外回りな営業の人間の士気すら、かえって奪うほどに、室温設定を低くしていたのが窺えます。『クール・ビズってなぁに? ハァ?』くらいの勢いでね。そして、最も気になったのは、ココですが」
 乱雑に散らかった用紙の中から一枚、爛は取り上げて。
「『私、毎年、冷房病で体調を崩しちゃうんです。去年は、初夏のうち空調の調子が悪くて、冷えすぎって感じではない日々が続いてて嬉しかったんですが。それ最初だけで、夏本番が来る頃には、毎日、設定温度を最低にされるようになってしまいました。いくら効きが悪いからって横暴すぎる! そこまでされたら調子悪くたって、さすがにキンキンに冷えきって……。しかも暑がりじゃないはずの上司が、なぜか温度を上げるなって全体に注意してきたんで、上げることもできなくて! 毎日歯の根をカチカチ言わせてました……』」
 いかにも女っぽい、男が読むのは気恥ずかしい文章を、さらっと読み上げる。
「これを、うちの『技術者』もどきに見せましたらね、納得してましたよ」
 ぱさっ、と、読み終えた紙を捨てながら。
 相手じゃない、あらぬ方向、遠くを眺めながら。話を続けていく。
「これだけのエネルギーを想定外に消費させるユニットだから、本体の誤作動を誘う可能性が高いって。パワーダウンという形で。外気温が高すぎると冷房の効きが悪くて、設定温度からかけ離れてしまうことがあるでしょう。あれと似たような状態に陥ると。で、誤作動中は、ほとんど除湿運転みたいなことになるそうですね? すると――冷房と除湿では、消費するエネルギーも段違いなら、使う機構も違いますから――ユニットが正常に機能しなくなるそうで。……こうなれば、エネルギーが過剰消費というもくろみが、大失敗です」
 ふぅっ、と。
 両肩を下げての、息継ぎをして。
「それを初期の結果でもって知ったあなた方は、焦って、手段を選ばなくなった。誤作動を誘うという欠点はもう手の打ちようがないわけですが――。設定温度を最低にするという強行策に出れば、誤作動の壁を破れる可能性は高かった。機械としては最大級の鞭を入れられているようなものですからね、イヤでも冷房機能がフル回転する。……除湿運転なんていう、エネルギー消費が少なめなヒートアイランド現象を起こせない運転、にはならないわけです。……そこで、証拠は増えることになりますが、それぞれの会社に直接依頼に踏み切った」
 そこまで言ってから、爛は、唐突にきょろきょろとまわりを見回した。
 自分のエスプレッソを机の隅に見つけ、それに手を伸ばす。
 カップを受け皿ごと、カタカタと引き寄せながら。
「正式に調べれば、貴社から『ユニットの性能実験のために必要だから、設定温度は最低で保つようにしてくれ』という感じの要請が、それぞれの社にあったのが、あかるみに出るでしょうね――」
 そして、写真とアンケートを、適当に一山にあつめて。
「この資料は、お渡しします」
 爛は、ずい、と相手へ押し出す。
 もとい、押しつける。
「で、いままでの情報、すべてを複合して」
 ずずっ、と。とっくに冷め切って、書類をばらまいた時とかに埃が落ちててもおかしくないエスプレッソを、すする。
 なんでもいいのだろう。
 そりゃそうだ、これだけしゃべってる、とりあえず喉と唇をしめらせられればOK、なのかもしれない。
「知り合いのライターに、下書きしてもらいましてね」
 ぺらんとまた、脇の袋から取り出す。
『書留』で送ったものと同一らしき、新聞記事のようなもの。
「一週間前、FAXで送られてきた版、なんですけど。なんかインパクト不足のような気も、まだするんですけどね。手直ししてもらおうかな、とか」
 右手で相手の前に置いてから。
 テーブルの上へ肘をついて、あごの下でちと可愛らしく指を組んで。
 ケチをつけつつ、解説してゆく。
 いかにも第三者が書いたかのように。
 ……テーブルの影、こっそりと拳をにぎりしめてしまう。
 ――わざわざFAX通して日付と時刻入れたのそのせいかー。
 ――おまえがその記事書いたくせにー。
 と、無表情を装った顔面の下で、ムンクにおののく。
「この記事に出てくる『根拠』が――全部押さえてあることは、ご理解いただけましたよね?」
 ……渋い顔つきで伏せられている、相手の顔、を追って。
 潜るように変わった、爛の視線の角度。
 獲物の喉笛を噛んで窒息させている獣のように、生命を見定めようとしている。
「今は世論も厳しい時期ですからね。役所もスキャンダルを一番嫌う。記事が出て、もしも確証となったら、入札の指名停止はもちろん、多方面からどれだけの不利益をこうむるか…………」
 言いながら爛は、壁のレトロポスターへ、目をそらした。
 あえて、猶予を与えるような。
 たるんだ沈黙。
 ――のちに、
「……こちらの依頼主としては、何も、無茶なことを要求する気はないんです」
 また伏し目がちになり、スローに切り出す。
 間接照明で艶めいている唇。
「八月十一日と十月二十七日」
 トン!
 書類の束の上に、爪先を叩きつける。
 オークション終了の、木槌の音のように響く。
「――負けてください。そしたらこのデータ全部、責任持って、こっちで紙ゴミ出さしていただきますんで」

 ◆

 喫茶店から遠く離れた、駅付近。
「すげーな!」
 尾行を警戒して、夕闇をぐちゃぐちゃに歩き回ってから辿り着いた、地下都市に潜るエスカレーターの前。
 足を止め、壁にもたれかかって、陣取るように休息しだした爛に。
 興奮してると自覚できる声で、ようやっと話しかけた。
 ……しかし爛は、
「あんくらいの情報じゃあ、怪しいってダケ。状況証拠にしかなんねーよ」
 エスカレーターの方を眺めながら、つれないほど冷めた態度。
「だって、『冷房の調子が悪くてあったかかったのに、最低温度にされて冷え切るようになった』ってあたりのコメントは、ねつぞーしたんだもん。――まぁ、そうだったらしいっていう情報が出されてきたからこそ、ツクったんだけどさ」
「…………」
 つい反射的に。
 フフ、とばかりの、穏やかな笑みを浮かべてしまう。
 ……うん、実は、ソコはそんな気がしてた……。
 だって美容院で荒くチェックしてた時、爛が上げたお気に入りコメントって、アレじゃあなかったもんな……。
 洗脳のここちよさってこんなもんだろうか。
 微笑んでしまったまま、考える。
 朱に交われば赤くなるということわざを実践している。思わず遠い目と化す。
 しかし。
「じゃ、『状況証拠』だけで追い込めなかった場合は、どうする気だっ……」
 一歩つっこんで質問しようとした、所に。
 爛のジーンズのポケットから、派手な着信音。
 ……爛の曲は、多分、一般の曲じゃない。
 もしかしたら自作。あえてあんまり和音使ってない、シャカシャカした、シンプルかつウルサイものだ。
 ピ、と。
「……ん、着いてるよ〜」
 爛は待ち構えていたように通話ボタンを押し。そして気が置けない応答をかえす。
「ハイ、ハイ、じゃ直で」
 その声が、終わると同時。
 エスカレーターに乗ってウィイーンと、一人の男が、搬送されるように地下から出てきた。
 ツンツンと逆毛を立てた髪型で、爛より更に小柄だ。年は、二十歳は超えているように見える。
 ……知らないが多分、こいつはメンバーだ。
 思いっきりのよい、白いほどの金髪に、その気配がうかがえる。
「じゃ五本、出してきたからねっ」
 エスカレーターから降りた男は、タタッと寄ってきて。
 妙にカン高い、耳障り一歩手前な声で言い、爛にアルミアタッシュケースを渡した。
 ……中身確認のためだろう、おもむろに爛が、片膝をつきだすように宙に浮かせた。
 そこにアタッシュケースをのせ、少しだけ開ける。
 かぱ。
 ――目玉を飛び出させ、息を呑むはめになった。
「ン、確かに」
 中にはびっしりと、万札が詰まっていた。

 夜のにぎわいを見せ始めた地下街を、歩行しつつ。
 どれだけ詰まってんだ、それ、と尋ねると。
「うん、いちおくの半分〜」
 との、お返事。
 ……のほほんとした世間話口調に、泣く思いだ。
 ホテホテと呑気な歩調。今の爛を見て、誰が五千万円、持ち運んでると思うだろうか。
 そんなのを横に、こっちはやたら、すれ違う人間に視線を向けてしまう。もう立派な挙動不審っぷり。
 ――勘弁してくれよ、なんでこんな、現金輸送なマネになってんだよ。
 ほとんど傍観者だったとはいえ、『デカイ仕事の成功』がもたらした、心地よい興奮が。すっかりおさまった。
 しいて例えりゃ、膨らみ気味だったブツが縮んだ感じ。
 万が一、いつものごとくの乱闘にでもなったら、どーすりゃいいんだ。
 自分と爛の命くらいは守れても、手錠で繋いですらいないカバン一個、守りきる自信ねーぞ。
 ハラハラを堪能してるこっちをよそに、券売機の前、爛は切符を二人分購入する。
 めずらしく電車に乗るようだ。
 先導されるまま、改札を通り、階段を上って地上ホームに出る。
 過密な都心タイムテーブルにより、ほどなくすべりこんでくる列車。
 ……車内はすいていた。入ったドア付近に、そのまま二人して立つ。
「どこ行くんだ?」
 まだ今日の仕事、あるんだろうか。
 そう思いながら尋ねると、
「ベタだけどね……海へ」
 こっちを見ずに、爛は答えた。
 ガラス越しにまっすぐ、外を見つめている。
 街の火がユラユラきらめきだした夜景。
 ……暗い瞳で、一心にそれを見ていた。
 それこそ夜の海のような、表情の無い昏さ。
 ――どうしてだろう? デカイ仕事ひとつ、成功させた直後なのに。
 爛は、ゴン、と、意味なくひたいをガラスへ打ちつけながら。
「なんかある意味、今日いちばん、気が重い仕事……」

 夜もとっぷり、って感じの埠頭。
 五千万片手に立っていていい場所じゃあ、絶対ない。
 こーなったら開き直るしかなく、気もゆるんでくる。
「ちょっと早かったね〜」
 つま先立ちなんかをしながら周囲を見回している爛は、と言えば、最初っから気負いがない。
 ゆるみっぱなしなわけだ。豪胆だ。
 ……セリフから推察するに。
 どうやら、さっきみたいにまた、誰かを待っている。
 しかしこんな刑事ドラマばりに怪しい現場で、何があるんだろう。
 薬の取引とか?
「…………」
 って、冗談として成り立ちもしねーし。
 ばちばちとまばたきして、ウソ寒い想像をふりはらい、
「なにがあんだ?」
 と傍らに尋ねてみた。
 爛は、ぼーっとした顔で、
「ホラ、保険の代金って」
 非常にスローモーに、口を開く。
「十年間無事故でも、二十万しか戻ってこなかったりするじゃん。つまり使わなくても、有料なのよ」
 ……なんだその、ダイレクト販売の保険CMみたいな一般論。
 そう言おうとしたところで、ハッとした。
 さっきまでまた小雨がチラついていたせいで、あちこちに水たまりができている地面。
 その地面に、影が生まれてきている。
 自重でしずくと化す水滴のように。
 ゆっくりと肥大していき、突出してくる。
 ――やってきたのは、げっそりした長身の男だった。
 細かい格子柄の、きっちりした黒い背広。
 頂点にのっているのはガイコツのような輪郭の顔。
 細くて横長な糸目に、薄い唇。存在感のある鷲鼻。
 人けのない異常な舞台に現れたせいもあるだろうが、不気味な迫力がある人物だった。
 こんな暗がりでも、明るい表情はしていないことが、わかる。
 疫病神のような……じっとりとした闇の憑いた顔。
「予定通り、今夜の便でお帰りになられてけっこうですから」
 外灯の光で顔を確認するなり、というタイミングで。
 爛がそう言った。
 そして片手を動かす。アタッシュケースが握られている方の手。
 ぎらり、アルミが光る。そこには五千万円がおさまっている。
 チラリと横目で、そのアタッシュケースに視線を落としながら、
「現金でよかったんすか。銀フリでもよかったんですけど」
 と、爛が、多少くだけた口調で相手へ聞いた。
 すると、
「見たかったんだ」
 静かな言い方、を超越したような。尖鋭さを持ったつむぎ方で、相手が答えた。
「――……札束として」
 なんとなく、ぞっとした。
 相手の素性も、立場も。
 この取引がどんなものかさえ、全然わかっていないのに。
 水分零の枯れきった花のような、腐った木のような。
 そんな残酷なものを、視認、させられたような……気になる声だった。
 爛が少し、眉をしかめた。
 だが。静電気にふれてしまった一瞬、いまいましく浮かべるだけのソレに似て、すぐその苦さはかき消え。
「……事前の打ち合わせどおり、あなたのお名前は、出さないラインで済みましたので」
 言いながら、アタッシュケースを。
 相手側にもちてを向ける形で、左掌にのせる。
 ぱか、と響く。少しだけ中身が開示される物音。
「この金額になります」
「…………」
 ぎっしりつまった現金を、垣間見たはずなのに。
 長身の男は、あせった様子もなく。
 両手をさし出してきて、カバンを受け取る。
 興奮がない、動揺すらない、どんよりとした態度のまま。
 ……渡し終えると、爛が、頭を下げた。
「ご助言、ありがとうございました」
 四十五度の見事なおじぎ。
 現代の若者風、そのまんまの爛が。
 その礼にも、何を返すこともなく。
 男は無感慨に方向転換して、来た道へ去っていく。
 ――いや。
 退場していく。
 後ろ姿に漂う雰囲気から。なぜか、ひしひしとそう感じた。
 まばらな外灯と、ぬるい波の音に送られる、そんな男の背を。
 頭を上げた爛が、目を細め、見ている。
 その目つき。
「爛……」
 思わず名を呼んでしまうほど、今度は、ハッキリと。
『痛々しそう』だった。

 ◆

「寄り道、しよっか」
 自分の街へと戻ってから。
 夜になってもかけっぱなしのサングラスを、下にずらしながら、得意げに爛が言った。
「夜景がきれ〜なのよ」
 示したのは、家に戻る道沿いにある、白っぽく細長いビル。
 警備員が出入口手前、尻上で指を組んで立って、微妙に睨みを効かせている。完全に企業ものだ。
 デパートじゃあるまいし、部外者だから止められるだろ、と思いきや。
 爛は出入り業者と見まごうばかりの慣れた態度で、警備員に会釈して。
 フリーパスでするりと、ビルの内部に入りこむ。
「ここのビルオーナーさんとは、繋がりありましてね……」
 もぐりこめるの、と。
 何か黒い絆の気配がする言葉を吐きながら、ふりかえって笑う。
 ……さっき、様子が、なんか変だったが。
 ふざけた口調が蘇っている。
 屋上ドアをあけると、高度がある場所特有のキツイ風が、押し出すように吹いてきた。
 ガコンと重い音を立てて開けきると。
 狭苦しく壁ばかり映っていた目に、いきなり視界が展ける。
「おーさすが」
 爛は、両腕を広げて。
 迎え入れるように、景色を堪能した。
 眼下に広がるのは眠らない街。
「不夜城、ってヤツかな」
 柵の位置にまで進んで、じっくり見ようとする爛に。
 ゆっくりと追いついて、並んで見おろしながら、そう口に出すと、
「いや、今は、朝は眠るようになってるよ」
 と言い「そりゃ全眠とはいかないけど。バブルーな時代はね、もっと、ラスベガスちっくに、二十四時間営業だったらしいよ」と続けた爛を。
「…………」
 無言で見てしまう。
 誰から伝聞された『昔語り』なんだろう。
 やっぱり、革からか。
 もうサングラスには隠れていない、横顔を見つめる。
 ……やっぱり、綺麗めの顔立ちだ。
 はっきりとした二重、猫科の瞳。人形のように整った鼻。つるりと張りつめた唇。
 空気の流れに反応して、上に、下に、回転し。
 明茶の前髪だけが、舞い散っている。
「あの五千万渡したオッサン、ね〜」
 柵に肘を乗せて、爛がぽつりと、口を開いた。
「今朝、わざわざ青森から、出てきたんだよ」
 切なそうな、悲しげな。
 動物実験のあげく死んでいく、白ウサギを見るようなまなざし。
「内部情報提供者サンだったの」
 その場から少しだけ下がって、乾いているコンクリートの地べたに。
 がに股気味で行儀悪く腰をおろしながら、
「内部情報?」
 オウム返しに聞き返した。
 爛は一瞬だけこっちに視線を振って、うなずく。
 そしてまた、景色をおさめるために、正面を向く。
 ……座っても柵のすきまから見える、満天の摩天楼。
 今日もまた、ひととおり雨に濡れた後。だから光もいっそううるんでいるように感じる。
「内情に詳しいから、証言に沿って証拠かきあつめれば、効率いいじゃん?」
 そう呟きながら、頬杖をつく。
「けど、個人が人生で得た情報の売買――ってのは、ある意味、瀬戸際商品だかんね」
「せとぎわ……」
 また繰り返してしまうと、爛は少し笑いながら、
「脅される方の会社にしたって、『む? この情報はこいつとこいつくらいしか知らないはずなのに……。さては売ったなっ?』ってことになるじゃん。アタリつけられやすいのよ。いくら『頼みこんで売ってもらった』からって、のちのちまで身柄守ったりは、こっちだってできないからさ。おおげさに言えば命がけの商品だ〜ね」
 だからまぁ、五千万になっちゃったんデスケド。
 言いながら、首を傾げる後ろ姿。
「あのオッサンの場合は、会社に恨みがあって……だからこそ、取り込めたの。――逆に言えば、恨みありそうな退職者とか探しまくって、それで網に引っかかったのが、あの人だったんだけども」
 ……怨恨から復讐に転じる、か……。
 しごく納得のいく話だ。
 そう思いながら、
「恨みって?」
 と尋ねると、
「てっとりばやく要約しちゃうと……派閥かな」
 爛は首をちぢめて、答えた。
「ついた専務が負けちゃったんで、不条理な条件で退職。役員確実って言われてたのにさ? 冷たいもんだね…………」
 今は、元会社が斡旋はしてくれた、再就職先に居て。
 そこが青森。
 ――そう、とつとつと、補足する。
「でもその青森の会社も、辞めるって」
 強風で前髪が、目にでもかぶさったのか。
 爛は、ぶん、と一回、頭を振った。
 暗闇のなかで、ピカピカと十個ほど自己主張する両耳のピアス。
「『省エネユニット』をばらまいた件とか、ユニットのだいたいの構造とか……あれだけの情報を握ってるのは、数える程度の人間だからね〜。まぁ、うちだけでも、時間かければ不可能じゃなかったかもしれないけどー」
 多分、情報元と特定される。
 そうなればどんな制裁があるかわかんないし、怖いからもう、縁を切るって。
 ……そこまでしゃべって、爛は口を閉じた。
 だから一人、考える。まあ斡旋された再就職先もやめて、完全に縁を切るなら、その先も追いかけられることは、おそらくないだろう。
 終わった件だし、一般の企業だから。
 それに恐喝者は別に存在して、情報漏えい者に制裁を加えたって、脅迫はなくならないのだし。
 堂々と社内に『証拠となりえる情報を流したので以下の者を異動しました』と張り紙広報するわけにいかない以上、見せしめ役にもならないのだから。
 ――つまり。
 あの五千万は、そこまで徹底した自己防衛策を取らなきゃいけないほどヤバイ決断をうながすための、支度金だったわけだ。
「……どんな、なのかな」
 妙に無垢な色調で。
 しかもやたらと儚く。
 爛が、つぶやいた。
「今回は、裏切ってくれたからこそ、コッチは助かったわけだけど」
 会社を裏切る気持ちって。
 これまでの自分の仕事を、拒絶されて。
 捨てられて。
 だから、しかたなく、自分側からも消去する。
「真っ向、ガチンコ勝負で、これまでの自分を」
 自分自身で否定すらする、心情。
 爛の言葉が、いちいち体に入ってくるような気がして。
 反射のように、無意識に胸を押さえた。
 その動作に気づいたのか、
「どした?」
 爛が、声だけをかけてくる。
「――なんか」
 左胸に右掌を当てたまま、
「自分に、重なった」
 告げる。
 つぅ、と。
 爛のまなざしが、音もなく、振り返ってきた。
 あんまり表情が浮かんでない瞳。
 水面みたいな、月面みたいな。
 でも、冷たくはない光で。
 だからこそ、安らかに話し出せた。
「おれも全部抹消して、ここ来たんだ」

 体重をそちらにかけるように、前のめりに、両腕で膝を抱えた。
「小学校一年の頃から、剣道やってたんだ」
 今の自分が蹴飛ばせば、遠くに飛んでいきそうなくらいに、小さな体だった頃。
「んで、ずっと同じ道場で……そばで、一緒に稽古してきたヤツが、いて」
 学校も一緒で、たまにはクラスも同じになった。
 中学三年の時は、革と三人で同級だった。
 ……幼なじみで。
 まあ間違いなく、親友、ってやつで。
「そいつは幼稚園から、剣道やっててな。父親も……流派の関係者で」
 剣道をやりまくっている二人として、セットで学校でも知れ渡っていた。
 一段、浮いていた。
 稽古稽古でろくに遊びもしなかったし、勉強にも時間を割かなかった。
「そんだけ剣道一筋人生だったかいあってか……高校に上がる前、所属道場の上に位置する、古武術道場に……。来ないかって、声かけられたんだ。二人とも」
 それまで所属していた道場は、ごくごくポピュラーな流派だったが。
 スカウトしてきた古武術は、そのポピュラーな流派が分派する前の……いわば親流派だった。
 つまり親戚というか、直系の関係で。
 だから『この二人はいい』という情報が、上っていったようなのだ。
「特殊な流派っつーか、歴史とかもめちゃくちゃ古くて……ほとんど神格化された流派だから……」
 芸術映画の殺陣指導、程度しか、一般とは関わりがなくなる。
 いわば外界からは、秘されるわけだ。
 そこに所属すれば公式試合などには一切、出れなくなってしまうほどに。
 ……でも光栄だった。
 見込みがあるヤツしか、声をかけられないわけだし。
「ソイツも喜んで……二人で一緒に、そっちに移って」
 組んでいる両手の指を、うねらせるように少し、動かした。
 自然と、ため息が洩れる。
 過去のことだからわかる、あれは確実な、分岐点。
「そこの道場――山の中の寺みたいなとこなんだけど、に下宿して。高校はそこの近くの所に通って」
 学校以外の時間は、修行したり、下のヤツらを教えたり。
 高校卒業してからは、仕事部分を増やして、ほぼ同じように生活して。
 二十歳前までは、それでなんの問題もなくいっていたのだ。けれど。
「……師範代が一人、事情で辞めて……減ったんだ。それが崩壊のキッカケ、だったな……」
 年齢は若いが、実力的に。
 欠員となった師範代に、どちらかが取り立ててもらえることになった。
 ……そこで生じたのが『どっちがなるか』という、当然の問題だ。
 サラリーマンみたいなもんで、今回選ばれた方が、出世は早いことになる。
 自分達二人の実力から、順調にいけば将来。
 歴史と、全国の分派への影響力を持つ、この道場の道場長を、継げるはずで。
 それがほとんど決まってしまうことになる、今回の決定だった。
「――その……親友、の、父親、がな。流派の関係者だって、言っただろ?」
 父親は、実は。
 問題の寺のような道場の、現道場長だった。
「だからまぁ……なんか卑怯って言っても、条件的に、アイツの方がなるのが自然だったんだ。……なるべきだったんだ」
 こっちには後ろ盾がないのだから、それもしかたのない話だった。
 そう思いながらも、こころもち上方へ。なんとなくキッパリと、顔を上げていた。
「でも、剣道の実力自体は、おれが勝ってた」
 自惚れじゃない。
 歴然たる事実だった。
 あからさまにアイツ派についていた連中も、それは認めていたほどに。
「昔っからそうだったんだ。一度も、『コイツの方が強い』って思わせられたこと、ない」
 そんな要素と要素が、絡まって。
 道場内部が、揉めに揉めはじめた。
 ……こうなると嵐の中の葉っぱみたいなもんで、本人の意思なんか関係ない。
「あっというまに、対立させられてた」
 向こうの派閥――とりまきが、こっちを口や態度で攻撃してきて。
 こっちについてるやつらが、また嫌味で攻勢をとる、というような。
 本当に、一日でも体験すれば充分うんざりする、腐った雰囲気だった。
 そもそも自分でとりまきを集めた覚えがなかった。
 勝手に周囲が対立させて、周囲どうしでいがみあってるだけだ。
 ……だけど。
 膝を抱えるのをやめて、曲げたままの両脚の上。
 掌を、ごそりと、擦り合わせた。
「目ぇ見りゃ、わかったな」
 数日前には肩を並べて笑いあってたはずなのに、人に挟まれ。
 言葉を交わす距離へ近づくこともできない。
 だけどその人の壁を、無理に突破しようとは思えなかったのは。
 とりまきに囲まれたアイツが、こちらを見た。その目に縛られたからだ。
 飢えた獣のように、暗いながらも光り。
 どこか、うつろな。
 ……悟るしかなかった。
 アイツは。
「――敵として何を失おうと……師範代になりたいんだ」
 将来、道場長となるために。
 そういう欲を。
 罪悪感を抱えながらも、決して捨てようとはしてない目だった。
 ――ゆずってもよかった。
 技の美しさとか、緊張感とか。
 自分を高めていく充実とか。
 そういうものが目当てだったから、地位は、
「必要なだけあればよかった。将来の道場長の立場なんか、全然いらなかったんだ」
 吐き捨てるように独白する。
 爛は。
 完全にこっちに、体ごと向き直って。
 柵に肩でもたれかかるような感じで、ずっと見てきていた。
 ……時折、自然な頻度で、繰り返されるまたたき。
 同情も嘲笑も感じられない、静かな、唯一の聴衆。
「…………だけどこっちがそう思ってたって、穏便には済まない」
 視線を、自分の足下へ、投げた。
 闇に沈んでいる、屋上地面。
「……周囲にも、実力差があるのはばれてたし」
 大幅でないにせよ、歴然と開いていることは、知れ渡っていて。
 だが後ろ盾という面で、どうしてもムードは相手寄りになる。
 要は。
 どちらが師範代に選ばれようと、しこりが残ってしまう。
 ――どちらかが、この世界から出ていかない限り。
「幻滅したっつーか……ほんとにな、もういいだろ、って」
 そう思ったから、むしゃくしゃした気持ちをぶつけるように。
 公衆の面前で、一方的に相手へ、決闘をしかけた。
 予想どおりに勝って。
 ……木刀を遠くへ飛ばされ、濃紺の袴の裾、床へ広げて、尻餅をついたアイツが。
 見上げてきた目も、忘れられない。
 ――ああ、おまえも。
 ――これですっきりしたよな。
 そう、清々しくさえ、思えるような。
 純度の高い憎しみに、満たされた目。
 それをしっかり見定めて、踵を返し。
 その足で山を降りた。
 ……流派内での決闘行為は、破門だ。
 わかってて、それが狙いでもあった行動。
 どちらが出て行くべき、なんて、あるはずもないが。
 むりやり仮定するなら、それは多分、自分の方なんだろうと判断したから。
 確かに剣道は好きで、それをきわめるために歩んできたようなこれまでだったけど、だからって、もう。
 大切だった人間との絆、断ち切られてまで、しがみついていたい場所ではなかったのだ。
 ハァー、と、長く、胃の底からほんものの溜息を吐き出してから。
 顔を上げた。
 ……曇天の夜空。灰の絵の具を溶け出させてしまったような、不透明。
 泣くかと思ったけれど。
 涙は、流れなかった。
 まあこんなもんかもしれない。いちおう決別はしてきたつもりだ。
 さんざん、生ぬるくてぬるぬるして、こすり落とそうとするたび内臓を撫でられる嫌悪に襲われる、あのサイアクな感情と格闘して。
 ――……一般的に見れば。
『大人になればあたりまえのこと』だったのかもしれない。
 二位の実力を持っていて。
 道場長のジュニアで。
 シンパな手下におだてられて。
 そういう中では、いくら親友だろうが幼なじみだろうが、兄弟のような存在だろうが、目障りで消したい存在になるのは必然だったのかもしれない。
 そこまで傍観者的に解答をはじき出すと、さすがに悲しいが。
「そんで、実家に帰った、んだけど」
 ぼそぼそと続ける。
「さすがにすぐ……就職探すとか……そんな気力じゃあ、なかったんで」
 冷静になれる時間が欲しくて、適当にバイトしながら日々を過ごした。
 ――だけど。
「ずっと下宿って言うか……弟子入りしてたんで」
 そもそも、小学校時代のかなり初期から、稽古や鍛錬中心の生活だったのだ。
 実家に帰ってからだって、所属する道場がない状態でも、体がなまらないようロードワークなどはしていたが。
 ……つまり。
 ――いまだかつてないほど家で生活しだした息子を。
 両親は、扱いがわからなそうだった。
 慰めればいいのか。見守ればいいのか。あるいは、せっかくの道場を飛び出してきたことを、叱るべきか。
 どれも態度として表出させるには同量ずつすぎる、せめぎあいが激しすぎる、そんな情が投影された、視線。
 ……ちゃんと、親だとは、思っているんだが。
 自分達は距離感のある親子であるということに、こういうことになって初めて気づかされたのだった。
 そんな居心地の悪さを否定できないところに、一本の電話。
 革からの、この街への呼び出し。
 ……犯罪スレスレなことをやらされる予感はあったが、革ならば。そうそう尻尾をつかまれるような浅はかな犯罪は、指示してこないだろうという一応の計算があった。
 それで、これ以上、両親に気を使わせる前に、と。実家を出てここに来た。
「革は知ってるんだ」
 零したセリフが。
 少し低くなってしまったのが、自分でもわかった。
「……今、話した全部。ぜんぜん言ってないのに」
 闇に沈んだ、自分のスニーカーのつま先を、にらみつける。
「知ったからこそ、おれを呼び出した」
 地元の同期のことだ、情報網にひっかかりまくったんだろう。
 おそらくは、両親とのぎくしゃくした感じまで、革は把握できていたはずだ。
 つまり、断りっこないと……。
 ――残酷なほどの割り切りが可能な男だと、中学時代に既に、知ってはいた。
 だから。
 よくもこれ幸いと利用しやがんなあ、とか、友人と思ってるならもっと気づかえとか、……怒ってるわけでも……。
 拗ねて、いるわけでも、ないんだが。
 やっぱり革は、不遜な『王』だからな、という。
 一線を改めてつきつけられた。
 強くて、自分の上に誰も作らず、そして大部分が非情。
 まるで城なり国なり、何かを築き上げるために生きている、王。
 正直。
 スケールはまるで違うが、いだいた目標のために何でも裏切れるところが、元親友とカブって。
 今、革への感情が……ちょっと複雑だ。
「……なんか、なぁ〜」
 発された声に反応して、また爛を見上げた。
 ふわり、柵から流れこむ空気で、舞い上がっている。
 暖色の印象が強い、前髪。
「大変だったわりに、どうも……」
 感慨深げに、爛は言ってくる。
「――?」
「悲しいだけってカンジ。その親友のこと、うらんでない、っつー雰囲気」
「…………」
 それは、そうだ。
 人生の一部分、つぶされたし。
 目標を喪失させられたし、親にも迷惑をかけさせられた。
 だけど、そういうタイプの火種は、もうなかった。
 ただただ。悟ってしまった後の、うずまくような悲しみが残っただけだ。
 へらっと。
 一転して、バカっぽいほど無邪気に、爛が白い歯を見せる笑顔になった。
「わかる気がすんなぁ、悲しすぎで恨みが影に消えるくらい、おまえがそいつのこと、むちゃくちゃ大事だった気持ち」
「…………」
 ……そう。
 極論だが、そうなるんだろう。
 これまでの人生かけて辿り着いたって言えるほどの、あの道場での立場、と天秤にかけて。
 ……かけられるもんじゃない、かけたくなんかないほど。
 おれはアイツが、大事だったのだ。
 目を閉じなくても蘇ってくる。
 幼い頃、一緒に昼寝したタオルケットの手ざわり。
 ロードワークの最中、たんぽぽの綿毛を鼻で思いきり吸いこんで、悶絶していた背骨の、まぬけな形。
 好きな女子に彼氏ができたという情報、始めて聞いた時の、とりつくろえてない歪み顔。
 断ち切るように、再び九十度、首を振り上げた。
 見事に星が見えない夜空。
 梅雨の雨雲のせいか、月すら見当たらなかった。
 地上ネオンの華やかさに主役を奪われきっている。
「…………」
 アイツは。
 どうして捨てられたんだろう、おれを。
 そう女々しく考えてしまうほど、おれには、不思議でしかなかった。
 地位とか栄誉とか。
 人を従えられる権力とか。
 そんなもんが、そんなに大事だろうか。
 血を分けるかのように時間を共有し、生きてきたはずなのに。
 それほど知っていたはずの相手を、ここまで絆のカケラすら残さず、見失ってしまえるものなんだろうか。
 人間って生き物は。
「……おれが革、好きな感じに、ちょっと似てるかもなぁ〜」
 目をみはって、爛に視線をぶつけた。
 爛は、右の手のひらを開いて、頭部に当て。
 ぐりぐりと頭髪をかきまわす仕草をしていた。毛がないから、『撫でまわす』になっているが。
「尊敬みたいな、鏡のなかの自分、みたいな……。もし、こいつの代わりになら、死んでも――なんにも思い残すことね〜なぁ、みたいな」
 ……ひょっとしたら、照れているがゆえの仕草なのかもしれない。赤面もしてないが。
「どんだけ一緒にいる時間が長くなっても、色々しあっても、はっきり言って女には、持てる気がしねーんだよなぁこういうの? なんだろ、やっぱどっか、対等じゃねーからかなァ」
 ……自分で言ってるのに、不思議そうに首をひねり、ひねりしながら。
 しみじみ、爛は続ける。
「恋愛より、セックスより、だんぜん大事だよな。これって、男が男だけに持てる気持ちだよな」
 ――セックスもしてるんだろ、おまえらは。
 そう、まぜっかえすこともできなかった。
 反復するまでもなくアブノーマルな台詞なのに。
 淡々とつむがれる、その、メロディみたいな高い声は。
 ただ素直に、語っていて。
「…………」
 話に区切りをつけるように、一気に立ち上がった。
 爛の方へ歩きながら、後ろ手にジーンズの尻についた砂をはらう。
 バアッ! と。
 爛の方向から、また強風が来た。
 それにつられるよう爛が、身を反転させ、再び夜景を見た。背中がこちらを向く。
 ……ミリタリーペイントのYバックタンク。まだ子どもの丸みを持つ肩甲骨。
 肉や骨の増殖度へ、摂取している栄養が追いついていない、成長期特有の薄い肩。
「――この街のやつらには、まだ自覚ねェけど」
 光またたく摩天楼。
 爛はそれを、柵に片肘をついて頬杖しながら。
 見下すような視線で舐めていた。
「この街、革のもんだ」
 ざあっと渡ってくる突風。
 柵を越え吹き上げてくる、雨上がりの重たい空気。
 ……一瞬、汗がくまなく全身へ出て。
 瞬間的で、蒸発していった。
 心因性の汗だった。
 なんだ、この理不尽な確信は。
 理論もない。
 根拠も、今はない。
 なのに、壮大な説得力があった。
「…………」
 ゾッとする感覚は、遅れて、背筋へおそって来た。
 革はその気なのか。
 この日本有数の歓楽街を。
 名だたる国際都市を。
 牛耳るつもり、なのだろうか。
 そして。爛も。そのつもりで。
 ――『ぱたぱた』という音に、乖離しかけていた意識を呼び戻された。
 爛が腰に巻いている、黄色いパイル地パーカーの裾が、強風になびいている音。
 ハッとして、目をそらした。
 爛の、革に対する。
 忠誠心とも言うべき傾倒と信頼を、直視してしまった気がして、どこか痛かった。
 劣化しきってしまった自分と元親友の関係、との、あまりの違いに。
 羨望よりは、もう三さじほど苦味が加わったような感情をかかえながら。唇を開く。
「いいな」
 ――好意からズレてしまうこともズラされてしまうこともなく。
 ――これからも変質せず、密であり続けるであろう関係。
「じゃあ、ずっと一緒にいて、支えてやるんだ」
 伏目がちになってしまいながら、そう、言った。
 すると。
「…………」
 刹那。
 爛は、無色の表情に、なってから。
 口の端だけで。
 何かを噛みしめるように、した。
 ――そんな微妙さで、『ほほえみ』の表情をつくった。
 ……その顔が、なんだか。
 淋しそう、に、見えたので。
「――?」
 思わず、眉間をせばめてしまった。
 ……革が今、留守だからさみしいんだろうか?
 逆風が、まだ、『ぱたぱた』と。
 爛の前髪やパーカーを揺らしている。
 それを受けながら、まだ保たれている、爛のその笑顔は。
 珍しく、大人びていた。

 ◆

「どういうことだ」
 ここには竹刀も木刀もない。反射的に拳をかたちづくった。ふりあげる前になんとか自制できた。
 滑稽なほど震えながら、同じ言葉を口にした。
「どういうことだよ」

 ガッチャ、と、少々おぼつかない手でドアを開けると、闇の室内にパッと、独特の、広角な明かりが走っていく。
 めぼしい酒類を探したが、さっきのウイスキーで終わりだったらしい。
 中央あたりに缶ビールや発泡酒――爛の好みの品柄が並んでいるが、そんなアルコール含有量が少ないものに、手を出す気にはなれなかった。
 舌打ちしながら、ドアをつきはなして閉じる。がちゃん、かっちゃ、と中に入った品々が、奏でる抗議が洩れてきた。
 ――酔いという、効率だけが欲しい。
 テーブルの上に置いておいた、茶色い液が四割ほど入ったグラスを、手に取る。さっき見つけたウイスキー瓶からの最後の杯。
 口に流しこむ。そう高い酒でもないのだろう、旨味はほとんど感じない。ただきつさだけが舌を滑っていく。
 半分、干して。
 ハー、と息をつくと。
 いつにない無茶な飲み方に、肩が震えた。
「…………」
 自然と、目が行ってしまう。
 開きっぱなしのダイニングのドアへ。気にしているのは。
 ――一階のあのコンクリート部屋へ続く、狭い階段だ。
「今日もここか」
 つきあって数度、隣で眠ったことがある。コンクリートの監獄空間。
 カツンカツン、足音を響かせまくっておりてきたのに。
 今、初めて爛は。
 だるそうな動作で、こっちに視線を向けてくる。
 膝を抱えうずくまった、ここでのいつもの姿勢。薄い毛布がてきとうに脚をおおっている。
「…………」
 少し不審げに、こっちが左手にぶらさげているグラスに、爛の視線が落ちる。
 水で割っていないブランデーの色。
『珍しい』と露骨に語る目で、再び見上げてきた。
「どうしてこんなとこで眠りたがる」
 喧嘩腰に取れるほど、荒く聞くと。
 爛はひるんだように、軽く目を回した表情になる。
 ……あげく。
「雨の音とかも、けっこう好きだし」
 どこか言い訳のように、言い。
 鉄柵のはめこまれた窓の、外へと視線を投げる。
 ――その瞳の色が。
 またいつもと違って、嫌だった。
 元気がない。はかない。
 中身がどっかよそへ、出かけっぱなしだ。
「水の匂い漂ってきたりすると、すごく落ちつく」
 窓を見上げ続けながらしゃべる、そのポーズが。
『祈るよう』だと思った。
 どんな種類か推察しきれないが、溢れそうな感情がたたえられていて。
「……匂い?」
 目を細めてしまいながら、尋ねる。
「雨の前って、ふわって濃い水の匂い、してきたりしねぇ? おれ、そういうの感じるの、得意……」
「…………」
 途切れ途切れに、小声で返ってきた返事。
 なにか言葉をかけようと、口を開く。と。
 流れこんできた、湿度が限界までいってそうな梅雨どきの空気が。
 口の中、水の味をはじけさせた。
 まるで爛の言葉を証明するように。
 また膝をかかえて、爛はうつむいてしまった。
 こっちの存在そっちのけで、味もそっけもないコンクリートの床を、ガン見だ。
 ……こいつが、下を向いていることはめずらしい。
 そりゃあバカみたいにいつも天を向いているわけじゃあないが、それでもこんな。
 頭を打ちつけられているみたいに、真下だけを見つめて落ち込んでいるなんて……目にするのは初めてだ。
 どことなく、うしろめたいような気分に陥って。
 ますますキリキリと目を細めた。
 ――同情はしている。
 もちろんしている。
 だけど、その『爛の事情』の矛先が向けられるのが、自分となってくるんであれば。
 どうしても、警戒に近い心情になってしまう。
 今だってこうやって心配しつつも、反面、爛の態度をさぐっている気がする。
 あやしんでいる。
 ――どこまで。
 どこまで爛、おまえ、承知の上なんだ?
「……今朝、下にヤクザ、来てただろ」
 景気の悪いトーンで、ざっくり切り出す。
 慣れないヤケ酒に逃げてまで、今日一日、黙ってたけど。
 これ以上、耐えられそうもない。
「うん、対応してもらってたって? ちょっと留守っててさ、悪かったね……」
「…………」
 カラ元気そのまんまに、ペラペラ。
 バックミュージックみたいに重みなく流れる、爛の声。
「こないだの入札の件の、謝礼くれに来たんだ〜。ちゃんとたんまり、貰っ」
「おまえ」
 害意一歩手前の硬い声で、さえぎった。
 ほとんど敵意に満ちた目つきになっていると、自覚できる。
 理不尽だとわかっているが、
「わかってんのか。アイツに」
 内心の緊張が、それを強いた。
「アイツらに、何言われてるか」
 ――自分が。
『革が出向している組の人間』に、どういった目で見られているのか。
「ああ」
 爛は、ははっ、と鼻にかかった高い息で笑う。
 まるで。
 他人事のように。
「さげわたしだって、聞いた?」

 ◆

 レンガの壁、コンクリートのように硬い床。
 一階のたまり場フロアを、視線を左右に流しながら、早足に歩く。
 午前であるにもかかわらず薄暗い空間。広大なスペースのくせに、照明をつける習慣がないから、無理もないが。
 ロッカー群の影をのぞいていくと、隅に立っている三人の人間がいた。ここにはいない。
 ソファーでグーグーいびきをかいているやつがいた。これじゃない。
 地べたにあぐらをかいているヤツ、腰を落とし両腕を前にたらしヤンキー座りなヤツ、携帯をいじりってるヤツ、が三人で円陣を組むようにしてタバコを吸ってる一角があった。ここにもいない。
 荒れている学校の、クラブ棟のような雑然としたフロアを、ひととおり練り歩き終わり。
 ふむ、と足を止める。
 ……どうやら、本格的に置いてけぼりを食らった。
 起きたらとっくに、一般の学校やら会社やらが始まっている時間だった。いつもは爛の方から呼びにくるから、すっかりと惰眠をむさぼってしまった。
 毎日、爛にひっついて流されるように仕事をしているから、こうなるとどうしてよいやらわからない。
 どうしたもんかな、と天井を見上げていると。
 バタン、という、背後のドアが全開に開く音と共に、
「っ?」
 ほとんど間髪をいれず、ぐいー! っと後方から、右腕を思いっきり引かれた。
 あわてて振り返ると、根元が思いっきり黒い金髪が、肩の位置にあった。
 そうしてヒラメっぽい……要は『離れ目』な、素朴な顔が、間近にある。
 二十歳くらいの青年。
 こいつは確実に、グループの人間だ。何度か顔を合わせたことがある。
 ……ってか。
 なんで涙目なんだ、おまえ。
「爛さんドコですかねッ?」
 普通の声量ながら、叫ぶような勢いで、そう聞かれた。
「……いや、今、おれも探してて……」
 面食らいながらも答える。
 携帯はメッセージ残してくれになっているし、連絡はこっちだって取れないでいるところなのだ。
 しかしその返事は、ますますパニックを増長するものだったらしく、
「ああ、もうおれじゃあ…………!」
 頭髪をばっさばっさと振り、小さくわめきながら、腕をぐいぐい引いてくる。
 ひっぱられていくのは、さっき全開になったドアの前。
 ここは……ここに来た初日に、革から『やくざに弟子入りしてくる』と打ち明けられた、会議室のような部屋への入口だ。
 ヒラメっぽいメンバーは、『アレ、アレ』と言うように、会議室の中を指さす。
 うながされるがまま、そっと中をのぞきこんでみた。
 ……奥の方に、なにか黒っぽいスーツ姿な、巨体があった。
 タバコを吸っているらしく、紫煙でけぶって、姿がはっきり見えない。
 が、一番でかいキャスター付きの牛皮椅子に、ででんと脚を組んで座っているらしいと、見て取れた。
「革さんが今、行ってる組の人です」
 こわごわ、という感じに、ヒラメ君も視線を送っている。
「こないだのヒートの件の謝礼とかで……」
「ああ」
 合点がいって、声を出した。
 ――割合に、ここは、銀行口座やらなにやらを通さない、金のやりとりが多いのだ。
 名目が立たなかったり、いろいろアシがつくからなんだろう。おおかた今日も、用件は金の手渡しだ。
 ドラマの麻薬取引で、手形で払わないのと、同じ原理。
 ……というか。
 ……全くそのまんまだな……。
 厭世的になってると、そんなこっちの様子にかまわず、
「わかりますか、さすがですね!」
 と、ヒラメ君がはしゃぐ。
 どうも、やむなく自分が対応していた間、本物ソレモンな威圧感にさらされていたようだ。
 バトンタッチで解放されるのが、非常に嬉しいらしい。
 しかし、『さすが』でもなんでもない。
 ここのところ爛にひっついていたから、何のことかはわかるだけで、しかも、本当にわかるだけだ。
 だが、手放しで「じゃあよろしくお願いします!」と、頭を下げてくるし。
 コイツよりは事情もわかるし、第一、度胸には自信がある。
 ……ということでとりあえず、室内に入りこむ。
 入室すると、軽い喧騒で、わかった。
 埃をかぶった大型液晶テレビに、久しぶりに生命が吹きこまれている。
 流れているのは午後手前のワイドショー。主婦受けする、舌の滑りがなめらかな、中年男性司会者の顔。
 そんなそぐわない番組を、いかにも『ただ眺めて』いた男が、
「……あー」
 うなりながら、座ったまま、イスをこちらに回転させた。
 角ばった顔。うつろな眼球。
 とくに鍛えぬかれた体躯ではない、特徴的に腕や脚のリーチが長い体型でもない。
 だが、まずその身長が、恵まれたものだった。
 百九十を超えているだろう。
 それに伴って、気を抜いたサマながら、その身に存分な重量感がある。
 目つきもサメのようで。
 こりゃあ本気だしたら、そりゃあもうヤクザらしくなるんだろうな、という風体の男だ。
「……すみません、今、爛いなくて。探してきますんで、申し訳ありませんが、もうしばらくお待ちいただけますか」
 観察ばかりしているわけにもいかない。
 さっさと足を踏み出し、五、六歩近づき。挨拶がてら説明をする。
 すると相手は、ぼーっとした表情を微塵も変えず、
「『風』か」
 唐突につぶやいた。
「エ、あ、はい……」
 咄嗟に応答してしまってから、いぶかしむ。
 ……なんで、名前、わかった?
 謎解きは、すぐに前方からもたらされた。
「革から聞いてる。信頼できる人間だってな」
 相応の太さを持った指に、はさまれたタバコが。フ、フッ、と上下にふられ、灰が落ちた。
「…………」
 ほのかにくすぐったいような気持ちで。
 下を向いて、表情を隠した。
「革がああいう言い方するの珍しいしな」
 ますます、なんだかむずがゆい、ストレートに友情証明っぽいことを言われる。
 だが、いつまでもうつむいているのも変だ。
 顔面をとりつくろって、また正面へ顔を上げた。
「そいつにケツのこと、任せてきたんだなって、察したよ」
 当のヤクザ男は、濁った目をしたまま。
 やる気なさそーにボソボソ、まだ言葉を続けている。
「――?」
 情報に齟齬を感じて、少し眉をしかめるハメになった。
 革が、留守の全てを任していったのは、爛だ。自分は単なるサポート役なのに。
「で、爛はどうだ?」
 ――『どう』と、言われても。
 質問が、広くて曖昧すぎて、意味がわからなかった。
 当惑しつつも無難と思われる返答をする。
「よくやってる……と思いますけど」
 敬語のかねあい……どの程度敬語にしたらいいのかも、実ははかりかねながら、ぎこちなく評価した。
 爛は年齢も年齢なのに、しっかりとセミリーダーを務めているように見える。まぁ門外漢だから、アテにならない観察眼かもしれないが。
 しかし、相手は、
「あ?」
 怪訝そうに……むしろイラ立ったように。
 一挙に表情を、でかい皺だらけに醜くゆがめた。
 いきなり倍になってはなたれる、そのスジの迫力。
「そうじゃねぇよ……」
 タバコを、緑色のガラス製灰皿めがけて、投げ捨てながら。
 なんの容赦もなく、飛ばす。
「セックスの相性、だよ」
 あまりに虚をつかれ、無表情で、しげしげと顔を見返してしまった。
 ついで血の気が引く。
 ……何を言い出すんだ、この男は。
 爛が革の『女』であることは公認だ。メンバーの中でだって知らない者はいないし、必然的に、革も爛もよく見知っている様子のこの男が、その関係を知らないわけがないのに。
 こっちの驚愕をおかまいなしに相手は、
「なんで自分が呼ばれたのか、ちっとは勘ぐってみなかったか?」
 馬鹿にし、挑発するような笑みを、口の端に浮かべて畳み掛けてくる。
 ――『護衛』で呼ばれて雇われたのだ。
 ――それで、なんの不思議もないじゃないか。
 そう反論するように思いながらも、体も、口も、動かせずにいた。
 気負いのない口調で、さらに男はつぐ。
「『口ざみしくなった時』につまむのに、帰ってきた後も居るほどの身内じゃあ……。見苦しい事態にもなりかねない、だろう?」
 カッ! と、頬の毛細血管に、血が集まる感覚。
 ――どういう意味だ。
 そのための臨時雇いだとでも言うのか。
 そのために、呼ばれた。
 あてがわれた、とでも。
「どういうことだ」
 ここには竹刀も木刀もない。反射的に拳をかたちづくった。ふりあげる前になんとか自制できた。
「どういうことだよ」
「……怒るなよ」
 なにより爛が侮辱された。
 革も軽んじられてる。
 そして、自分はピエロ扱いだ。そういう発言。
「もっと役割、わりふられてるかもしれねぇんだ、ぞ」
 男は、温度のない視線で眺めてきながら。
 落ち着き払って、まだ話を続けた。
「……そりゃあ、最近は血縁がなくても、実力主義で跡取らせるとこも、増えてきたけどな」
 タバコを、ケースからトントンと一本叩き出す。
「革のケースは、違うんだよ」
 ぱくり、白い筒を、幅の広い口元にくわえる。
 そのまま火をつけずに、プラプラと先を振る。けだるそうに。
「うちの観久お嬢さんが、どうやら今年中に、独身に戻られそうなんでな」
 意味が浸透するまでに、しばらくかかった。
「…………」
 さっきと同じくらい、脳内から血の気が失せた。
 体感的に、寒い、と感じる。それほどのシビアさを持った情報。
 短い、ほんのワンブレスで言い切れるセンテンスながら。
 人ひとり、爛の生命ひとつ、揺らがせられそうな。
 残酷さがこめられていた。
「先月から別居に入って、本家に帰っていらしてるし。それなら縁、組んでおくのが確実ってもんだろう」
 錯覚的に暗くなった視界の中、なおも男の、あくまで平静な声が響く。
「正式な日取りはまだだし、この縁談自体、まだ組の中枢の人間しか知らねーけどな」
 ようやくゆったりと、タバコに火をつける。
 そして、遠景を見やるような目を、向けてくる。
 ――相手の口を力ずくでふさぎたい暴力衝動を、こらえてわななき続けるこちらへ。
「……から」
 ブラインドが下りた窓から、シマ模様の光。
 それに照らされた、立ち上る紫煙。
「双方お気に召したなら、そのまま『どうぞ』って、組織の外にポイッと、まとめて排泄する気かもしれねぇんだ、ヤツは。…………ごちゃごちゃ、しないで済むからな」

 ◆

「――革に言われたのか」
 激怒を抑えているがゆえに、どす黒い声が出た。
『さげわたし』という語句のインパクトで。
 否応なく、そうなった。
 ……剣呑、というほどに、ますますバキリと硬質化したこちらの恫喝に。
 だが爛は、
「言われてない」
 柳に風、とでもいうふうに。
 全く触発されていない、穏やかな、ごくごく普通の声質で返してくる。
「……どころか、結婚するかも、てのも、言われてない」
 そっぽを向くように、顔をこちらから隠している。
 表情が見えない。
 だけど、拗ねているのではないことはわかる。拗ねて済むような、軽い問題じゃ、ないのだから。
「なんで……」
 思わず、革本人以外にしても意味のない問いを、発していた。
 なんで爛には、告げられてすらいないんだ。
 時期尚早ってこともないだろう、こうして向こう側の組と連携を取った仕事をしだしたり、向こうの身内がこっちの敷地をウロついていたりするくらいなんだから。
 言いにくいのはわかる。別の『女』と結婚する、なんて話。
 だけどどうせ、いずれ黙って隠してはおけなくなる問題なのに。
 ――だが。
 ふと、疑問がわいた。
「じゃ……なんで、知ってる」
 革の結婚話を。
 あまりに遠慮のない領域に踏みこんでいるが、尋ねてしまっていた。
 こちらへ、ほとんど。そむけた首筋や、耳たぶや、後頭部を見せている、爛が。
 それでも素直に回答する。
「村野サン、……今朝のやくざさんに、ずいぶん前、こっそり教えられた」
 膝をかかえて、前傾姿勢で丸くなった体を。
 一回、ゆりかごのように揺らす。
「『だから』今後の身の振り方、考えとけって、さ……」
 自分の奥歯が噛み合う、ギッという音が、両耳の根元から骨を通して聞こえた。
「そんなことなんで黙って言われてた……」
 それが例え、現実的な意見であるとしても。
 なにも縁談相手の配下の者からの『荷物をまとめておけ』もどき要請を、爛が考慮するいわれはない。
 今朝の男に、改めて怒りが湧き上がる。
「……や」
 その炎を、制止するように。
 トントン。つま先で反動をつけながら、爛がまた体を、木馬のように揺らす。
 同時に、首を振っている。何度も何度も、大安売りに。
「いや、……ッ」
 唾を飲みながら、テンポを詰まらせながら、
「よーてんだけ、手っ取り早く、伝え、聞くと」
 鼻を小刻みにすすりながら、言葉を続ける。
「キツめに聞こえっかもしれないけど。……けっこー。おれを『思いやってやって』る、からこそ、みたい、な」
 不自然に体をねじって。
「言い方だったんだ……」
 かたくなに表情の読めない部分だけを晒しながらの、消え入りそうな語尾。
 ――かんべんしてくれ。
 おまえ誰だよ。
 こんなの知らねぇよ。
 泣いてこそいないようだが、はたはたと涙が零れていく音すら聞こえそうな気がした。
 背にした壁が、透けて見えるような頼りなさだ。カゲロウかなんかのアレだ。透明で、葉脈のようなものだけが浮いている。
 まるで、おまえは消えたいのかよ、ってほどの、あやうい……。
 なんとか拳を握りしめ、一挙にどこかに流れていきそうな感情を、堰き止める。
 ……いつも自信ありだっただろ? けっこうえらそうだったろ?
 元気いっぱいで、乱暴ダイスキな、微笑ましー野郎だったじゃねーか、ゆうべ、まで、……。
 ――実体は。
 国会図書館に入れないくらい、まだ社会的に、子どもで。
『男』と同棲して、ヤクザみたいな稼業に精を出してるほど、親の気配の見えない背景。
 そんな面もあったんだ。
 こんな、脆い男だったのか。
 仕事中に幾度か見た、世の中ナメてるような『してやったり』笑顔を、今や幻のように思い返す。
 ……もう、絞りだすみたいにして聞いた。
「革は、おまえとの関係、変えていく気なのか?」
 ぶんぶん、と、駄々っ子のように頭を左右される。
 痛みが伝わってくる無心なしぐさ。
「聞けないんだから、わかるわけねー」
 ためらってから、説得するように話しだす。
「なら、わかんねーじゃねーか。革はおまえを」
 そこまで言ってから、あわてて息を吸いこんだ。
 また、改めて、指先を握りこむ。
 ……他の言い方を。
 もっと鋭利さを、響きの矛をおさめた言い方を、模索した。
 けど。
 結局、見つからず、
「……捨てる気、なんか全然……ないのかも……」
 なんでこんな生々しい言葉しかないんだ。
 日本語なんて不足で、脳みそは貧弱だ。
 ごそごそ、と。
 視界のすみ、毛布が動く。
 爛が膝を、ますます固く抱えた。
「……わかるんだよ、周りにしたって、……革にしたって。正妻くらい増えても受け入れられるだろって、そりゃ思ってるだろ」
 爛の肩が揺れだす。身の内から始まる震動で。
「そりゃそうだろ……。おれ、男だもん」
 クッ、ク。こもった笑いが、口から洩れだす。
 自嘲。
 似合いもしねぇ。
「……そんくらいの覚悟できてて、フツーあたりまえで」
 ――いずれ血を、家を継ぐ者を、産める女性を迎える必要があるのは。
 極道や、それに類するグループなら当然だろう。
 それを受け入れられないような『男』の愛人は、女の性を持つ愛人より、確かに邪魔でやっかいで。
「でも、おれはダメだ」
 爛が。
 やけにキッパリ、言い切った。
 ……絶望に感染して、眉をしかめた。
「『妻』ができるのなんか……たいしたことじゃ」
 乾いた唇が、目に映るような、
「ものわかりよく位、できるだろ、って……。自分ダマそうとしてみたけど」
 緊張が。梅雨の空気までをも一時的に乾かしているような。
 そんなぱさぱさとした口調で。
「やっぱ、全然ダメだ」
 爛は、とつとつと心を剥がしてゆく。
「ヘドが出るって、きっとこういう感じだ」
 吐き捨てるように、少し早口へ変化した。
「腹の中が真っ黒になる感じする……緑っぽくて、沼っぽくて、重くって」
 ――今にも。
 ぐるりと出てきそうで。
 騙せない。
「嫁さん来て、たまに顔合わせて……。おはようございますとか、こんにちはとか」
 言えねぇ。
 断言と同時、ゆるり、あごが持ち上がる。
「絶対、殺してぇ」
 狂気の灯った、くっきりとした瞳孔。
 希薄になった感情の割れ目から、苛烈さがあふれ輝いている。
「気がついたら、殴り殺すか、蹴り殺すか、してそぅ」
 ――かりそめに許容したとしても。
 隙から圧壊がすすんでいって、いつか悪意が破裂する。
 その確信。
「…………」
 妄想だと、心配のしすぎだと、笑うことはできなかった。
 爛は、いつでもそれが現実に成りかねないほど、激しさを持った人間だ。
 ほんのちょっとタガがはずれると、剣呑すぎるほどの牙を敵にむく。
 ……そういう男なのは、よく見てきた。
 自分で知っているのだろう。
 だから、おそれているのだ。
 心情と理性と本能。
 ギリギリでバランスを取る三つが、崩れ、完全に失調する。
 その結果もたらされる、焦土を。
 だが、その瞳に燃え盛っていた炎が、ふっと消えた。
 きりりと吊り上がっていた眉毛まで下がりぎみになり、急に、凄みが消える。
 また、ごそごそと爛は、身を抱えた。
 年相応の体躯が、小さくちぢこまって。
 その体表面積に比例するように、またもや存在感が希薄になっていく。
 悲しげに、
「革の奥さん、殺す、なんて」
 かなしげに、かすれた小声が、呟く。
「――ダメに決まってる。だから」
 消えてしまいたいんだ……。
「…………」
 飼い主に捨てられた子犬、まんまの。
 どうにも手のほどこしようのない、『哀しみ』しか、色彩の無い声。
 そんな声自体が、今にも、望みどおり、溶け消えていきそうだった。
「……それ」
 らしくもなく、気弱な言い出しになった。
 戸惑いを如実に反映し、目線が床あたりをさまよってしまう。
「我慢、できそうにないって……ちゃんと、革に言ったか?」
 爛の反応は、即座で。
 またぶんぶんと、ヤケのように勢い良くふられた首。前髪が、おどる。
「でも、ずっと前、話してみたことはある」
 雫のような。
「グループがおおきくなるより、金がもうかるより」
 ゼリー状に震えて、ふりこのように揺れて、
「革の一番そばに」
 重力によって、ぽつり、ぽつり、落とされていくような、
「唯一で、ずっといたい、って…………」
 そんな。
 言葉の生み出し方。
 聞くはしから、自分の耳の中、バラバラと砕けて。
 空気に還元されていくようだった。
 無視されて無視されて、抑え、押し殺すしかなくて、存在感が希薄になりきった心の切片たち。
 身を切る、では済まされない……告白。
 ――どんな状況で革にそう言ったのか、聞くまでもない気がした。
 そんな意識はないだろうに。
 語尾に、隠しきれない艶や、甘みのようなものが、微粒子のように輝き聞こえる。
 ……交わされた睦言は。
 過去として色褪せれば。
 なによりも、どす黒い汚泥だ。
 含まれた毒素でじわりと死ねる。
「…………」
 ――そこまで意志を、伝えてあるのに。
 組織拡大のため、結婚すると言うことは。
 爛は、切り捨てられたということだ。
 少なくとも、その決断についていけそうもない爛の純粋な恋慕は、ズタズタに斬られつつある。
 今日も、今も。
 おそらく明日は、よりボロボロに。
「……改めて、嫌だって言ってみたらどうだ」
 微妙に目をそらしながら、そう勧めた。
 はっきりと明言してすがってみれば……革だって。軌道修正するかもしれない。
「――革が」
 やたらクリアな音質で。
 爛の声が、ピィン、と空気に通った。
「そんなんで『自分が決めたこと』曲げてくれるような男だったら」
 にや、と。
 物理的に、唇を引き上げて、笑った。
「…………おもしれェじゃん」
 ――笑い飛ばしやがった。
 眉を思いっきり、しかめさせられた。
 ……言っていることはわかる。
 組織の停滞を引き起こす『ねだり』を、いかに寵臣からのモノといえども、聞き入れてしまうようであれば。
 王として失格だ。
 街をしきる人間として、本当に上りつめてゆきたいなら、そんな器では話にならないだろう。
 ――でも。
 ――これは、おまえ自身に降りかかってくる問題のくせに。
 改めて爛を見据える。
 今の爛の顔は、やたらと、悲哀を噛み分けた一人前の男じみていた。
 人としての本質的な情――独占欲と。
 男としての根源的な思――崇拝が、ギリギリとせめぎあっている貌。
 ……考えていたのは。
 夜明け前のバーのスツールで、食べ残したカレー皿の前で、このコンクリートの牢で。
 いつもいつも、おれの隣。
 上の空になって、考えていたのは。
「――どうするんだ、おまえ」
 完全に矛盾した心のまま。
 刑場の時を待っているおまえは。
「…………」
 爛がゆっくり、こっちに向けて顔を上げた。
 静寂。
 無音。
 耳鳴りがするほど、それに支配された空間で、見つめあう。
 ……一転。
 爛が、両の口角を上げて、微笑んだ。
「わかんねぇ」
 うやむやにこの場を流す気、満々の。
 へらっとした、紙みたいに薄い、ぺらぺらな表情。
 今にも、飛んで行きそうで。
 ――たまらなかった。
 空気を切り裂く音がしそうな速度で、腕を伸ばし、手を伸ばした。
 パシッと叩くような音を響かせ、掴んだ手首は。
 思っていたよりずっと細かった。それでも、しっかりと詰まった骨の感触。女のものではない。
「…………」
 爛は。
 無感動な顔つきで、繋がっている、たった今、掴まれた箇所を見てから。
「風……」
 咎めるような、すがるような目で、見上げてきた。
 赤茶の瞳。
「――だまってろ」
 白目が、充血しているかもしれない。
 それくらい……手が熱い、頭が熱い、脳が熱い。
 悔しさのような、憤怒のような、哀れみのような、幾本もの感情。
 それが殺伐と絡みあって、螺旋を描いている。
 行き場なく全身を暴れまわるその感情が、どこにも昇華されずに、分類不可能なただの興奮と化して、下半身をも叩いてる。
 ――ゴブっと、濁った音がした。爛を巻き込んでコンクリートに倒れこんだ瞬間。
 太腿をしたたかに打ちつけ、痛かったはずなのに。
 ピクリとも反応を示さない爛の、喉元に、唇を当てる。
 ……生気なく転がっているのに、爛の喉は。
 動脈を連想させるように、唇の表皮へ、熱かった。
 身体の下、ずるずると爛が、右手を自分の口元へ、持っていくのがわかった。
「アハ……、…………」
 口を覆ったのだろう、くぐもった声が洩れてくる。完全に泣き笑い。
「やめ、とけ、よ、おまえ」
 この至近距離でやっと耳に届くほどの声量で、「むなしいよ……」と。それでも最後まで続けられたセリフは。
 ――最初っから。
 いっさい抵抗しない腕や脚に代わる、唯一の防波堤のようで。
 晒されている柔らかな喉笛に、ゆっくり歯をめりこませ、噛みついた。サメの交尾の、始まりみたいに。
 唇をふさげば、また曖昧な程度に開かれている侵入口。
 舌先をすべりこませても、明らかに乗り気でない爛は、依然、
「――、…………」
 人形、もしくはマグロだ。
 たるんだその仕草にムチを入れるように、息をも奪う深さで、舌をつっこんで絡めた。
「…………ム、……ッ」
 そこまですると、殺されないためのように。
 ゆるやかに、応えがきはじめる。
 滑稽なほど固く密着させたままのディープキスは、それならでは、というほど。
 ミチャ、クジ、と、乾きかけの血糊を踏んだごとく、生理的に不穏な音を響かせた。
 舌の裏で練られ、頬のあたりで波打って、前歯にはね返る、唾液の海。
 ……爛の左手を、利き手で覆って。
 こちらの下半身に、誘導するように移動させた。
 ジーンズを押し上げて直立している物に、ファスナー先にひっかけるようなかたちで、指先をふれさせる。
「…………」
 ぱ、と爛の瞳が開いて、見つめられた。
 困ったような、非難するような、ゆらいでる目の表面の色。
 ……初回にパートナーにする相手に、導入からぶつけるには、マナー違反すれすれな行為だとわかっているが。
 女じゃない、しかも流されているだけで、いっこうにやる気を出さない『相手』だということを、自覚してほしい。
 性急にジーンズを引き摺り下ろして、ほとんど同時、爪でえぐらないよう浅く、日で焼けないそこをまさぐった。
『痛さ』を感じさせる表情ではなく、爛が片目をしかめる。
 どちらかと言えばわずらわしそうな。
 ほのかな嫌悪感を匂わせる表情。
 ……そう、多分。電車でふと痴漢を疑う女子高生が浮かべる最初の表情に、近い。
 それに憤る道理はない。
 だけど、鼻白む気分になるのは確かで。
 意趣返しのように、唇を左耳へ、移動させた。多分、爛だって性的なポイントとする敏感部分。
「いつになったら、入れられんだ」
 耳の紋様をなぞりながら、囁いた。
 直接的な言い方に、唇の下、柔らかな耳たぶが揺れた。
 じゃらじゃらと、革とおそろいのような金属的なピアスがついている。白く色を失ったまま、興奮の色など見せていないソレ。
「…………」
 答えはこない。
 プライド、だろうか。
 革との関係で培われたセックスのノウハウを、他人に対して開示するのは、嫌なのだろう。
 知りたくもない事情を熟知しているだけに、心情はわかってやれる。
 と言って、こちらには、尋ねるしか手段はないのだ。
 男を……と言うより尻の穴を、対象にするのなんか初めてだった。
 しかたなく、利き手の指先、ほぐす作業に、半ば機械的に没頭する。
 さすがに『慣れ』だろう。完マグロ状態でも、むやみな筋肉のこわばりは感じられない。
 指を揃えて三本、第二関節まで、ほどなく挿入できる状態になる。
 ……このタイミングでいいのかどうか、あいかわらずわかっていない。だけど。
 ガバッと、ふとももあたりの部位にひっかかっていた爛のジーンズを、全て剥ぐ。
 つま先がひっかかって、脱がしにくい。脱がしやすいよう伸ばされてもいなければ、普通に直角状態でもない……ほんとに協力的な姿勢じゃない。
 愚弄するように、高々と両膝を折り曲げさせた。
 電球を反射してつるりと膝小僧が、小さな円で光っている。
 上から思う様、力をこめられる体位、先端を打ちつける。
「――、ぅ……」
 爛のうめき声の前に、既に悟る。
 強引にいきすぎた。
 潰そうとしてくるような狭さに、生じた、明らかにどっちの分泌液でもない鉄っぽいぬめりに。
「――、……」
 鼻先をわしづかみにされたような気分を覚えながら。
 ……苦しげに目を閉じた、至近にある、卵型の爛の顔を見つめる。
 泣くでもなく、叫ぶでもない。
 ただ苦痛に顔を歪めているだけ。
 自ら快感を得ていこうとは、愉しんでいこうとは、少しも考えていないその姿。
 ……ホント、やる気のねぇ……。
 抵抗する気は、やっぱりなさそうなのに。
 相反して、あまりに強情。
 ――もういい。
 柔布を縦に裂いていくように、意志が一枚、剥けていく。
 革だって。
 決して真綿でくるむようなセックスなんか、挑んでいないはずだ。
 ……なら、こんなのもアリだろう。
 どうせ代替品なのだから。
 暴走する心理のままに、爛の両腰をつぶすように握り、引き寄せた。
 胸中に存在する、わめくような苦さを無視し、埋めこんでは抉る。
 ……歪に外側の肉が動く、うねる。
 ガツガツと音がするような、軋んだ反復運動。
 ダイレクトに掌から伝わってくる。一瞬ごと、かわるがわる爛の筋肉に走り抜けていく、緊張、不快、懺悔。……まんま、強姦そのものな気分へひたれる。
 律動でどんどんずれてゆく、爛のぴったりとした若葉色Tシャツの、裾。
 肌から、汗が手のひらへ付着してきて、つかんだ爛の腰が掌に吸いついてくるようだ。
 ……肉体は、この身の下にあることを実感する。
 強引な突き廻しに、生々しく刻一刻、熱をはらみ変化する結合。
 それでも、あまりに密に、ぎしりと繋がっている。
 柔らかに蜜を帯びて搾乳してくる女膣とは、粘膜の感覚からしてまるで違う。
 背骨との距離が近いせいだろうか、どこか不自然で。
 だからこそ、まるで命のやりとりをしているようだった。
 ふと、視界のなか、目を引かれた。
 どこも主体的に動いていないような気がしていた、爛の躯。
 ――はくり、と、金魚のように丸く開けては。
 ――閉じて、奥歯をギリギリと噛み合わせている。
 裂傷部を広げられてかきまわされている痛みをこらえる為に、決して止まず。
 せわしなく繰り返されてるその動作。
 ……気づくなり、素早く左人差し指を、前歯の間に突っ込んだ。
 はじける血。
 一瞬で見開かれた、爛の瞳。
 混乱と、軽い驚愕がそこに走っていく。
「……んぅ」
 何をされたか。
 状況に追いついたとたん、うめいて、眉間を盛り上がらせる。いやがらせをされたみたいに。
 ……そんなつもりはなかった。
 ただ、ちょっとは。
 こっちを見てほしかっただけなのに。
 ぐい、と下肢を串刺し、ひときわ深く繋がらせた。
 呼応して白い前歯が、噛ませている指へ、刻まれてくる。
 その体勢のまま、口を寄せた。
 鼻先を近づけると、ぷん、と感じる。
 空間をほのかに紅く染めるような存在感のある匂い。
 唾液と混じったそれのせいで、いつもより更に赤い唇を、舌先で舐め上げる。
 錆びた。
 変質した、有機物の塩分。
 ――それが、予定調和の、背徳の味。

 ◆

 グリーンのTシャツがめくれた、裸の腹に、ぺたり、と手を当てると、心配になるほど体温が低かった。
 身を起こして爛の腕を引くと、なされるがままに立ち上がる。
 立ったその一瞬だけよろついたが、……慣れてるからだろう、問題はなさそうだ。
「…………」
 首を折って、俯いた顔をのぞきこむ。
 曇った鏡のように、うつろな瞳。
 それに、唇も青い。
 ……ふぅ、とため息をつきながら、爛の腕をつかんだまま、階段方面へ足を踏み出す。
 爛は一応、自分の脚で歩んでついてくる。ぬけがらの足どり。
 ほどなく三階のバスルームへたどりつく。紺色と水色を基調とした、古いながらもわりと凝ったつくりの浴室。
 浴槽のフタを開けると、残り湯がまだあった。湯気もほのかに立ってるし、手をさしいれると、ぬるいが温かい。
 ふりかえって、棒立ち状態の爛へ手をかける。汗や体液を吸って爛の胴体にまとわりついているTシャツを、はぐ。あとは元々もう身につけていない。
 自分も手早く、全部脱いで、爛をひっぱりながら浴室に入った。
 ざばざばと無造作に爛へかけ湯をし、浴槽へその身を沈めさせる。
 ……そこで、マヌケにためらう。
 心因的な距離のせいで、一緒に風呂につかるような気分にはなれない。
 ……しかたなく、洗い場のイスに腰掛けた。
 シャワーを捻る。頭からぶっかけ、硬い髪を掌でかきまわしながらまんべんなく濡らし、手を伸ばして、シャンプーのポンプを、押し……。
 ぴくり。
 いきなり、電流にふれたように。
 浴槽で仏像のように微動だにしてなかった、爛の肩が、揺れた。
「あぁ」
 感嘆の含まれた、人間味にあふれた声。いつもの、ちゃんと生気の色あいがこもった。
「おまえ、髪、しんなりしてる」
 言いながらこちらへ、指を近づけてくる。
 湯をかぶり、クシが通らないほど絡まりあった寝癖が解消されて、ストレートになった髪。
 その毛先を、爛の指に握られた。かくん、と、引かれて不自然に傾く自分の首。爛の顔が見えなくなり、爛の首元が視界を占める。
「ど……やって、シャンプーしてんだ、って、ずっとギモンだったんだよな」
 視界の左隅に、ぼやけてアップで映る爛の指。
 第二関節から第三関節にかけてが異様にまっすぐな、四本の指。拳でモノを叩くことに慣れた、空手をたしなむ人間ならではの手。
 それを、ただ見つめていた。
 浴室の、湯気で柔らかくけぶった照明のなか。
 初めてこんなに間近に、目にした。
 ……ぶっそうな手だ。さして大きくもないくせに。
 そんな手なのに。脆く、今にも崩れ去っていきそうに映るのは、どうしてなんだろう。
 爛の指が、もてあそぶように毛先を撫ぜてきた。
 繊細ですらある指つき。
 愛撫と勘違いできそうで、一線、決定的に違う、無心でうつろな動き。
「湯ぅかぶれば、言うこときくんじゃん。――やっぱ、ナマケモノだよな」
 ぽちゃ。ぽちゃ。
 不自然に、唐突に。
 ささやかすぎる物音がした。
 予感とともに、爛の首元に、焦点を合わせる。
 ふわふわと室内を満たす暖かなミスト。その発生源である、浴槽の湯面。
「……ヤベ」
 ぐしゅん、と、鼻水を逆行させる音がした。転んで膝すりむいた、ガキみたいな。
「後悔なんかしねーだろ、と思ってた」
 そう言いながらも、止まってない。
 ぽちゃぽた、ぽちゃん。
 あごから落とされる水滴が、作りだす小さい波紋が、いくつもいくつも水面へ広がっていく。そして、刹那ずつで消えていく。
 とぎれない。平均の数も、減らない。
「…………」
 素朴なオルゴール曲の演奏のように、可愛らしく単調な。
 その水面の風景を、見つめていた。
 小雨の春の朝、走りこみの最中にふと目にした、公園の池に落ちていた雨粒を思い出した。
 あれは綺麗だった。静謐だった。あの公園には誰もいなかった。
 すぐに計画どおりの鍛錬メニューに戻らなければいけないのに、立ちすくんで、目を奪われていた。
「…………」
 今もそうだ。腰かけたまま、まぬけにうつむきながら、産み出されては消えていく円を、見つめている。
 頭を振って指をはずさせ、不自然な姿勢から脱却することも。
 あるいは、両腕をのばし抱きしめるなり、唇をふさぐなり、なんなり。できないでいる。
 でも。
 ……涙を吸いこみつづける水面から、視線をはずさないことだけは、選びとっていた。
 その風景には、相手の息吹が、気配が、濃い。
 ――『後悔なんかしない』気でいたのは、自分も同じだ。
 革の髪質とは違うもんな、とか、革の髪はもうちょっと短いよな、とか。思ったりはしない気で、いた。
『ほっとけない』
 そんな心配が同情が、動機のメイン、だったはずなのに。
 隠れていて気づかなかった感情が、月食終わりの満月のように、今、胸中にはっきりと姿を見せ、居座っている。
 結局。
 自分は、忘却のとっかかりとして、役に立たずに。
 自分に、覚醒のきっかけとして、役立ってしまった。この行為は。
 相手へ踏みこまず、塗り薬がわりでいられるラインを、大股で踏みこえてしまった。
 ぽち、ぽちゃ、と、並べられ続けられる、シンプルな水音。
「…………」
 ――髪の変化見てて、これはああ、『知ってるヤツ』じゃん、って。
 じゃあ『人間』じゃん、さっきのってセックスだったんじゃん、って、やっと形になったわけか。
 革の体の代わりにすら、成れてなかった――。
 そう理解した、今、この瞬間に。
「…………」
 もらい泣きしそうな聴衆が、ただひとり、おりました、みたいな……。なァ。

 ◆

 狭い机の上を埋め尽くしているのは、本。
 乳首と毛以外は全部出ている水着グラビア、が満載な、健全な青少年と、それ以上年齢向けな雑誌。
 開かれてるページには、幼児体型、ぷくぷくした肉体の、見た目ローティーンな女。
 写真にかぶせられて桃色におどっている、
『お、に、い、ち、ゃ、ん……』
 との文句が、心を三メートルばかり、ずざざと引かせる。
 表紙が硬くてページ数は少ないタイプの、個人写真集も幾つかある。一つは開かれて置かれている。
 ……やたら布地の多いスクール水着が、かえって目にまぶしい……と言うより、商業主義が目に見えて、毒々しい。
 おれが中学だった頃だって、もっとスポーツタイプのカッティングがされた、赤や青の線が走ったやつを、女子、着てたぞ。
 あきらかに特定の嗜好の人間に向けた編集がされた、山のような本。
「……ロリに趣味変更?」
 それらを眺めながら。
 収集したらしき、かつ、今せっせと目を通している、爛に尋ねる。
「んにゃ、研究」
 手に持った写真集、色白な少女のものだ……タイトルは『藤原恵美子、十一歳』……なんだそりゃ?
 ――を熱心に見つめたまま、そう答えてきた。
「この『なになになんとか子、十一歳』にグアァーってなる気持ちがわかんねぇ」
 言いながら、見ていたページを、こちらにくるりと見せる。
 唇を半開きにした少女が、また布地の多い水着で写っている。
 どうもカメラマンに言われるがままに顔を向けているらしく、たよりなげな表情だ。人形っぽい、わけがわかってない感じ。
 露出した手も足も、痩せている。
 華奢と言うより、『棒』と言う表現がふさわしい気がする。
 要はまだ、何かぶつけたいとか、メチャメチャにしてみたいとか、そういう肉にはなっていない。そんなパーツ。
「なかみはこのとーり、イロンナ法に抵触しないような、ぎりぎりポートレート写真だし」
 言いながら写真集を閉じ。
 それを机上でぐるぐる回転させてもてあそびつつ、思案する顔つきで、天井を見上げる。
「タイトルもなぁ……マニアって、わっかんねー。藤原とか恵美子とか、スゲふつーじゃん、名前。それプラス年齢、で血がたぎっちゃうわけ? むわったくピンとこねー」
 ……おまえも外見、かなりガキくさいけどな、と思いつつ、意見を言ってやる。
「年齢に価値があるんだろ。あと、ホラ……。隣の家に住んでそうな、普通、っぽさ、が、……」
 しかし、ウッカリと口走ったことは。
 かなり生々しく児童わいせつやら幼女誘拐やらの匂いがして、口をつぐむ。
 爛は天井を見上げたまま、頬杖をついた。
「おりゃー、カワイけりゃどーでもいいけどね、実年齢」
「……革はカワイイの?」
 思わず、変にこどもな聞き方になってしまった。
 あの、筋肉むきむきで、日サロいらずで。
 危なくキレめの精神で、なにより男……、が、カワイイのか?
 思わず真剣に悩んでいると、爛は頬杖を解き、てれっと後頭部に右手をやって、
「やぁ、ホモとしてじゃなくってよ」
「…………」
 やっぱりホモなんですか一応……。
 という言葉は、胸に飲みこんでおいた。
「で、なんでこんなもん見てんだ」
 いいかげん、ボケたおしのし合いはもういいだろ、と、区切りをつけるように。
 一冊の本の上を、ポン、と大きめに音を響かせて叩いた。
「やー。ここんとこ、ハデに駅前とかでさぁ、『声かけ、チラシ』実施しはじめた団体があってねー」
 当然、シマ内での話なんだろう。何か問題のある新参が出てきた、ってとこか……。
「連日、デートイベントもよおしててさ。あ、開催場所とか、主催者連の宿泊場所とかは、もう押さえてあんだけど」
 急所はもう、キッチリ把握しているということだろう。あいかわらずの手際。
「――で、まあ、その集団デートイベントの特徴ってのがね」
 机上にうろん、と視線を流す。
「チラシを渡す女の子は、主に、『身長百四十五センチ超えたあたり』という限定ぶりで」
 ……ふむ。
 無言のまま、相槌を打つように頷く。
 そりゃあやばそげな商売だ。
 そんな思いっきり少女対象では、いつなんどき、監禁や殺人事件やらになるかわからない。強姦は多分もう起こってんだろうが。
「で、やめさせようと」
 そう合いの手を入れると。
 爛は、写真集を手放して、両手の指を組んだ。
 こっちを見ていない思案顔のまま、言う。
「いや、それ自体はカマワナイのよ」
「げ」
 ……子どもみたいな顔で、平然とそう言ってのける爛に、思わず声に出して引いた。
 グループだなんだと言っていても、やっぱりやってることは暴力団だ。綺麗すぎる水に魚は住めず、よって綺麗なお水は好みません、か。
「ただ、アガリ入れてくんないってのはね〜。たちの悪いホストが、自宅に住み着き始めちゃったカンジ?」
 なんか妙にリアリティのあるたとえはヤメロ。いちいち生臭い。
「きっちり規定のパーセンテージ払えって。ここ一箇月、徐々に過激度増してさしあげて、何度も何度も通告入れたんだけど。どーもチョーシこいてるみたいでね〜」
 ほとんど独り言なんだろう。爛はつらつらと、
「どーしてかな、と調べたら、どうも後ろ盾がいるみたいでね――……その正体はもぉわかったんだけど。どう手を出したもんかと……」
 気のない調子でそんな風に並べてから。
 おもむろに、爛はイスをはじくように立った。
「……でかけよっかな」
 天井の一角を見上げたまま。ポツリと宣言する。
 それから、着替えるのだろう、廊下の方へ出て行こうと室内を横切りだした。
「――」
 脇目でもって数秒。
 それを見送ってから。
「お供いりますか?」
 開いた雑誌の誌面へ目を落としたまま。
『さりげなく』問いかけた。
 ファミレスで一緒にオーダーするため、事前についでで、仲間のメニューを聞いておくような、そんなトーンを。
 実は全速でもって、心がけて。
 爛は、問いを聞いても、あからさまに動作は止めなかった。
 ただ、ドアノブにかけようと持ち上がり始めていた手が。
 やけにスローに、ドアノブを、握り終えた。
 不自然一ミリ手前のスローさ。
「……ん、一応」
 言う時に。
 首のつけ根から、右肩甲骨にかけて。不必要な緊張が走ったのが、見て取れた。
 ……目を落としたふりをしたまま、食い入るように観察していた。
 爛の、その背へ。
 言い残した爛の背が、パタンという音と共に、ドアの向こうへ消えた。
 同時に、こっちの体からも、ひとりでに力が抜けた。
 はぁ、とため息をつきながら。
 盛大に机へ崩れ落ち、つっぷす。
 ……疲れる。

 無かったかのように。
 あの時間には、その話には、ふれないようにしている。
 鍵をかけた小さい箱を、お互いに懐へしまいこんだ関係。
 だけど白々しい、いつも薄皮一枚はさんでるようなわざとらしさまでは、消しようがない。
 空気を完全に誤魔化せていない。
 ……あいかわらず、同居していることもあって。
 前と変わらずに、常に二人でいるようなもんだ。
 けれど、ここでは階下に下りれば、いつでも大抵は誰かがいる。その安心感というか、余裕が、完璧な以前の再現を容易にさせている。
 だからこそ。
 完全に二人きり、の感じになることには、お互いどうも警戒……のような感情が、先立つ。
 すぐひび割れてしまう薄いガラス板の、端と端を、強制的にお互いの手に持たされているような。
 動けない。
 口を開くことも、目を合わせることも、できない。

 天井を睨み上げる。
 思わず口元が、『へ』の字を表現するほどにひん曲がっていた。
 ……粘膜をもってして、関わってしまったこと。
 それ自体は後悔していない。
 ただ、これからどうなるのか。
 このボールは、どんな坂道を、どう転がっていくのか。
 先が見えない。
 その事こそを『参った』と思う。

 ◆

 あいもかわらず巨大な駅、その中では目立たない出口の一つ。
 地下街から出るルートで、石畳をイメージした地面が、地上へと続いてゆく。
 この出口付近にはデパートなどがないから、人通りが他の出口に比べ、格段に少ない。
「あそこに立ってるグレースーツの男、その組織のヒトねー」
 地下街から出て数十歩の距離、建物の影に隠れるなり、爛がそう指さした。
 影に隠れるように気を払いながら、そちらを見る。
 いるのは細身の、優しげな雰囲気の男。スーツは普通だが、おどけた……どっちかと言えばピエロのような愛嬌のあるネクタイをしている。
「……しっかし、チラシくばりしてる割には、人通り、少ないとこだな」
 その男に視線を向けたまま、言ってみると。
「チラシもりもり渡せるとこは、都の迷惑防止条例で押さえられやすいから〜。ターゲットに合わせて、ココを選定したみたいね」
 との爛からの回答。
「小中生少女向けなファッション雑誌に、よく載る個人の古着店が、近くにあってさ」
 自分の方がよっぽど少女みたいな小綺麗な顔立ちで、カクッと首を傾け、続けてのたまう。
「あれだ……。獣道にワナしかけとくようなもん?」
 ……『少女』がケモノ扱いか。
 そんなことをしている間に、まさにそういう風な少女三人連れが、男の前を通りかかった。
 男はすかさずチラシを渡す。すばやい速度で動いている口。けっこう長々と話しかけることに成功している。
 爛が、自分のジーンズの尻ポケットから、四つ折りの紙を取り出した。
「ちなみにココではこういうの、配ってるんだけどね」
 こっちを見上げて、渡してくる。
 身長差のせいで、否応なしに上目づかいになっている目。――そんな意図は一切なくやっているはずだが、猫好きにはややキツかった。
 ……うながされるがまま受け取って、広げ、じっくり眺めてみる。
 薄いピンクの紙に、カラーで文字と絵が印刷されている。
 細身の女の子が、どことなしアメリカンなイラストで描かれていたりもして、一見けっこうお洒落なチラシ。まるでアクセサリーショップの宣伝かなにかのような。
 だが、じっくり見れば、それとは似ても似つかないシロモノであることがわかる。
「『年上のお兄ちゃんに思いっきりかわいがられる幸福!』……なんか、字のすきまから、おさえきれない変態パワーがね……」
「つーか、ヒワイな……」
 見計らったように口を開いた爛と、そろって引き気味の空気を纏ってしまう。
 ロリコンなら賛同できる宣伝文なのだろうか……? そんな趣味ねぇぞ。
 目を上げれば、さっきの中学生三人が、ちょうど通り過ぎてゆくところだった。
 チラシをまだ皆でのぞきこんで、きゃあきゃあ言っている。
 やだーとか、変態系だよ、と、騒ぎながらも、まんざらでもない……。
 言わば、イケメンにナンパされた彼氏持ちの女、みたいなはしゃぎようを見せている。
 ……愚かな、とは思うけれども、同情のまなざしも向けてしまう。
 だってまぁ、何が罪って、このチラシにでかでかと書かれた、『お話イベントに一回出席二万円っ』はあんまりだろう。
 チラシ渡したヤツも、そう言えば最後、巧妙に「みんなで来てね!」と叫んでシメていたようだし。
 赤信号みんなで渡れば、という油断が生ずる可能性はじゅうぶんにある。
 この後、行くのであろう古着屋で、すっごく欲しいけれど予算オーバーな服とか発見しませんように……。などと赤の他人ながらアイツラの身を祈ってしまう。
「ナカナカに差が激しいね」
 感心したような声音で、爛がつぶやいた。
 同時に、ぺらっと音を立てて、紙を一枚広げる。普通に白い紙にカラーの印刷。
「こっちが、別のポイントで、男に配っているチラシ」
 爛の肩越しに、目にした途端。
 倫理観なんかそうそう高い方じゃないのに、思わず青ざめる感覚があった。喉が嫌な鳴りかたで、ごきゅると音を立てる。
 まず飛びこんできて気力を奪うのは、でっかい文字で、バッとおどる、
『大人の女なんて馬鹿らしいと思いませんか?』
 ……すごい謳い文句だ。
 大人の女じゃなかったら……イコールでヤバイと思うんだが。
 少なくとも、自分が大人なら、歴然とした『子ども』相手は避けるべきだろう……?
 そうくらくらと思いながらも、目を走らせるたび。ますます順調に気分が翳ってくる。

《素直で疑うことを知らない穢れなき天使!
 ちょっと本気でいじわるしたら泣いちゃうかも?
 生意気っ娘を調教するのもアリッ!
 そしてフリータイムへ……。
 あとはアナタの、思うがまま!》

 相手の意志確認はどーした、ちゃんとするんだろうな、とガンガン不安を増長してくる。
 つーかこの宣伝文、相手側を女……人間扱いしてない。
 まさに『小さい』『勝てる』『好きにできる』おもちゃ扱いだ。
 それに気がついた時点でもう気持ち悪いのに、とどめは、いちばん右下に、小さく書いてある文。
 全てアナタがリードできます……。
 絶対にわざとだろ! 思いっきりロリだけじゃなく童貞も安心、って匂わせてるよ!
 ……別に、童貞だから大人の女にチャレンジできね、ってこともねーだろ……?
 尻込みしてるところを『この対象になら失敗してもバカにされませんよ』って犯罪方向にうながしてどーする。つか、失敗したっていいじゃねーか……。
 賞味期限が一週間前に切れた牛乳、飲んだような顔でもって爛を見る。
 ふむ、と頷きながら。
 こちらの視線に爛が答えたことには。
「まぁ世の中、内臓売るのがけっこう一番、安全でてっとり早い商売って言うかね……」
 ……そんな、今すぐこの世からララバイしたくなるようなこと、言わないでほしい。

 ◆

「……で、なんで」
 濃厚な匂いのなか、ぼそっと呟くと、テーブルの向こう側。
「ん〜?」
 モゴモゴと口を動かしたまま、爛が顔を上げる。
 そうして、
「風、食べないの?」
 と声をかけてきたが。
 無言のまま、首を左右する。……むっつりとした顔で。
 覿面に居心地が悪い。心なしか、周囲からの不審の視線も感じるし。そしらぬ顔ができているつもりだが、さすがに気にはしている。
 ――無理もない、なんせ女性客ばっかだ。
『子ども』カテゴリに入りそうなだけあって、爛だけは、なんとかなじんでいるが。
 そもそも石畳をイメージしたような模様の地面を、スニーカーのくせに足音を響かせんばかりの歩調で進み出した時、『ちょっと考えて、決定しなきゃいけない事あるから〜。脳に栄養を与えに、バーに寄ります』と言うから。なんの心構えもなく、ついてきてしまったのに。
 ……まぁ、いつもの『おさかなバー』に行くにはまだ開店時間じゃないよな? という疑問は、あったのだが。
「バーはバーでもなぁ……」
「人気沸騰スポットなんですけど〜?」
 思い返し、苦々しくそうつぶやくと。
 耳ざとく聞きつけた爛が、少々不満そうに言うが……だから。
 どれだけ話題スポットだろうが、意味がない。自分の人物像にそぐわなすぎなんだっつーの。
 都内で一番大きく、一番有名らしい、駅ビル内の『ショコラバー』。
 広々とした白く明るいホールには、チョコのむせ返るような匂い。
 オープンテラス風に盛大にガラス張り構造なので、店の外を歩く通行人からも、視線が痛いことがある。
 紙製のランチョンマットには優雅な書体のアルファベットでなにがしか書かれていて。
 パティシエがどーだとかこーだとか、一つ一つのチョコを、こだわって解説しているメニュー。
 採光の代わりなのか、天井にまばゆく煌くシャンデリア。そのまわりに垂れ下っている、なんか白い、ベビーベッドの上にあるみたいなオブジェ。
 聞こえる人の声は、きゃあ、だの、きゃい、だの言う女の高い声や、長々とショコラを個別に解説しているウェイトレスの物静かな声。
 ――ふさわしいのは。真っ白なテーブルクロスとか、銀色のスプーンとか、薔薇とかの『お花』とかだろう。
 とにかく筋肉ゴツゴツした、大の男がハマるわきゃない風景なんだよ。
「ン〜っ」
 で、一人でわりあいにしっくりハマっている爛と言えば『ショコラの香りと濃厚さを、最大限に生かすために最適』だそうな、薄い紅茶の、最後の一口をあおっている。
 その後、白い皿に残っていた、ショコラのこちらも最後のひとかけを口に入れる。
 マーブル状にキャラメルが混ぜこまれた仕立てのもの。甘さと甘さの協奏曲。甘味が苦手な自分から見れば、魔のかたまり。
「うん、うん。こう、カロリーが『がつん』と腹に殴りこみかけてくる感じ」
「……いーのか、それは」
「まさに脳に効く! 感じ」
「そら……よかった」
 実際、爛が心底楽しそうなのだけが、この場の唯一のなぐさめだった。
 爛が食べ終わるのに合わせ、こちらもズズ、と、ミルクだけ入ったコーヒーを、すすり終える。
「あ、すいませーん」
 その目の前、ほがらかな声と満面の笑みで、爛が小さく手を上げる。
 自分の背後から、すみやかに出現する白黒制服のウェイトレス。
 その手に押されて同時、滑やかに登場するワゴン。
 骨組みが華奢で、白いレースがあちこちにかぶせてあったりして、乙女チックな感じだ。食堂なんかで見てたワゴンとは、明らかに一線を画している。
 そこへ丁寧、かつ豪華に陳列された、チョコの数々。甘いものが苦手な人間としてもある意味、壮観だ。
 ぽわぽわとした粉雪のような砂糖がまぶされたトリュフ。
 漆塗りような芸術的な光沢を放つケーキのようなもの。
 バラエティ豊かな種類のナッツが飾られた、楽しげな外見なやつ。
 ビスケットと組み合わされた、てっぺんの焼き色が香ばしそうなの。
 濃厚な色をしたオレンジゼリーと、お洒落に幾つも層を重ねた、大きめのチョコ。
「わーっ。ええと」
 爛は乙女状態に、キラキラした瞳。
 物理的に周囲が明るくなるような、ぱっとした笑みを浮かべて、ワゴンを見つめてる。
 厨房にいるパティシエが見たら、職業の意義を完全に満たされそうなほど、源泉的な価値のある笑顔。
 ……てか。
 まだ食うのかよ。

 カツカツ。ショコラバーをようやく出た爛はまた、高らかな歩調で、歩いてゆく。
「うん、やっぱソレでいこ」
 なにやらブツブツ言っている。
「糖分補給して、腹も決まったし」
 身長差ゆえにななめ左後ろからでも、肩越しに見えた。
 右拳を固めて、胸の前、左の手の平を殴った動作。パシリと響く。
 ……なんだか、ヤル気だ。
 次いで、爛は振り返ってくる。
「と言う訳で、行くところがあります」
 暴れるのなら任せておけ。
 ……という気合いを、たっぷり内心にこめ、目を閉じてうなずく。
 なんせ最近、妙に肩がこりそうな、くすぶったストレスが、無駄にたまっていることだし。
 ――甘かった。
「なんなんだよ……。拷問コースか?」
 今日の後半は。
 思わず歯を剥くような悪相で問いただしてしまう。
 復讐か?
 こないだ恥ずかしいトコから血ィ出させたの、もしや根に持ってるのか?
 ……つーか、爛はこんな処にすらもあたりまえに出入りできるほど、肝が太いのだろうか。
 そりゃあもう、度胸通り越して、ただの変態だろ。
 やつあたり気味に胸中、毒を吐いていると。
 態度から憤りを見て取ったのか、
「あ、やっぱ無理?」
 爛はあっさりと、
「じゃあ、そのへんで待ってて。多分すぐ済むし」
 そう言い捨てて、ガー。
 あざやかに開く自動ドアへ、あっさり吸い込まれてゆく。
 その背、やけに、やけに男らしい。
 ぼーぜんとしつつ。
 ……ギリギリと油切れの音がしそうな仕草で、この店で売ってる物を宣伝している、ショーウィンドウを眺める。
 それすらも気がとがめる。
 朝の数秒リメイク魔法! だの。
 グミ感触パッド、キャンディカラー五色! だの。
 プチ胸さんにもBを約束っ。だの、そんな宣伝ポップがおどってる。性別上、なんだか赤面を誘われつつも、魔窟のように見える。
 ランジェリー専門店のショーウィンドウ。

「いくら女はカワイイもんが好きったって、色つけんのはどーなのかね?」
 中央線、連れ立って乗りこみ、手持ちぶさたになるなり。
 出すな、と叱るヒマもなく、爛は白い不透明ポリ袋から、『あざやかで濃いオレンジ色のゼリーじみたもの』を抜き出す。
 ぎょっとした目で、ただそれを見る。
 おそらくは『グミパッド』という名。
「男の前で落としたらどーすんのかね? あ、かえってごまかせんのか。……おお、なかなか気持ちいい。揉むとグミグミっと……」
 ハゲたオヤジを、背に憑依させたようなことを飛び出させながら、オレンジを握った指先を怪しげにくねらせている。
「ちゃんと奥の方に『しこしこ』があるし……。……ぁ」
 どんどんヤバいゾーンに走っていく口列車を、一瞬のスキをついて、奪い取って止めた。
 金で店名ロゴが入った白い袋も取り上げて、オレンジ塊を放りこみ、脇の下に隠すようにはさむ。
 ……男の二人連れと、言ってた内容では、関連づけられないんだろう。まわりから注目を感じてはいないが。
 公共の電車、乗車率八十%ってとこで、堂々とニセ乳談義はできねェ。他の場所でなら考えなくもないが。
 鼻息でもってため息を逃がしながら、
「…………で、今度はどちらに?」
 あれだけ弄くってたわりに『グミ胸』にはもう執着がないのか。いつのまにか窓の外を流れる景色を眺めていた、爛に聞く。
「原宿」
 返事に、さもありなん、と頷く。
 さすがにこの街は便利だ。日本の首都、東京の、どこにでも、最高の効率をもってアクセスができる。
 だが逆に、疑問も浮かんだ。
 輸入品から国内特産品まで。日本ではここでしか手に入らない、という形容に、事欠かない街。
 この街の中で、たいていなんでも揃うのに。なんでわざわざ原宿なのだろう。
 ……何か揃える、とかの用事じゃなく、誰かと会う、とかだろうか?
 しかし続いて爛は、
「中学生のお小遣いで『じゃらじゃら』買えるくらい、やっすいの揃えた専門店が、あそこしか心当たりないしなー」
 と言う。
 ……何の専門店だろう。クスリ、銃、とかじゃなければいいんだが。
 さすがに原宿でそれは……ないだろうか。
「ガキっぽい可愛さながらもオモチャじゃーない、っつ、絶妙なラインって。やっぱ本物ご用達が一番なのね」
 …………ああ。
 そのセリフで、やっと。
 今日の言動やコースをふりかえり、思い当たる一つの指針があった。
 なるほど、もしかしたら。

「こんな商品名にちなんだ写真のパッケージ……。むしろ食欲のが刺激されるんだけどー。『ストロベリージャム』、って……」
 切なそうな顔をするな。今日はさんざん、デザートを堪能したはずだ。
 ……と言うか、さっき帰り際、ドラッグストアでじきじきにそれを選んだの、おまえだし。
 そう内心で思いながら、眺めていると。
 爛はさっそく付属のケープをかぶって、ぺたぺたやりだした。漂いだす薬品の匂い。
 ケープが腕まわりを、やんわり拘束していて、動きにくそうだ。なんか美容院ごっこして遊んでいる子どものようで、かわいらしい。
「ん〜、後ろがうまくいかね」
 ノズルから塗るのをやめて、手袋で直接、ぺたぺたスポーツ刈り状態の後頭部を撫でだした。
 やってやろうか、と申し出かけ、……やめた。
 細いうなじに焦点を合わせたら、ぎくりと。
 例の緊張感のある気まずさが、また自分の身に襲いかかってきたから。
 ……代わりに、
「このウィッグとおんなじ色になれんのか?」
 リビングのテーブルの上にあったかつらを手にとり、揺らし遊んで、話しかけた。
 原宿で髪アクセサリーと一緒に仕入れた、前髪以外は全部出るタイプ、後頭部だけを覆うハーフウィッグ。
 肩にかかる程度のセミロングで、レッドがすごく強い赤茶の髪色。巻き髪もちょっと入っていて、可憐なイメージ。
 これで、『女の子』にしてはどーにもパンキッシュに開きまくった耳の穴を、隠す狙いらしい。
 揃いの髪色になれそうなヘアカラーまで用意するあたり、爛の本気がうかがえる。
「なんで?」
 薬剤を塗り終えたらしく、ラップで頭を巻きだした爛が、振り返って尋ねてくる。
「おまえの髪、かなり茶色いだろ」
「だぁ〜いじょうぶ、ソレ見越して、アップルパイはやめたんだから!」
 意味がわからんが、爛が使用した色が『ストロベリージャム』なのから察するに。多分、色のバリエーションから厳選して、同色になりそうなのを買ったんだ、という主張だろう。
 そんなことを考えているうちに、愉快なラップ人間になった爛が、少々ヒマそうに室内をウロつきだしている。
「一時間、なにならできっかな〜」
 そんなにかかるのか。ご苦労なことで。

「トゥルトゥルってやつですかね、これは」
 キッチンのイスの上、膝をかかえるようにして、Uの字状態に両足裏も座席にのっける、お得意の座りかたでもってリラックスして。
 妙に外人のような、舌長調の発音で擬音を発しながら。
 爛は、自分の前髪の手ざわりを堪能するように、くりかえし手ぐししている。
 ふわっ、ふわっ、と。
 空間に、花咲くように広がっては、爛のひたいへ落ちる。
 昨日から、黒がかったイチゴ色となった、髪。
「すげー指どおり……。やっぱもったいなかったかな〜」
 ……なんだかさっきから。
 昨日のヘアカラーに付属していた『カラー長持ちトリートメント』の効果に、爛は感動することしきり、である。
 爛の髪量には、したたるほど使って、なお余っていた。
 そりゃそうだ。前髪しかない、今にもブレイクダンスしだしそうな、爛の特徴的な髪に、セミロングくらいをトリートメントすることを想定した一パックは、膨大な量と化す。
 全部は使い切れなかったそれは、残りを当然捨ててしまったのだが、『袋の切り口セロハンテープで止めてとっておけばよかった』と、なにやら細かいことで、爛は後悔しているのだ。
「そんな惜しまなくってもな……。おまえの髪、通常でもツヤツヤしてるし」
 不思議に思って、腕組みしながら。
 フツーに日常会話のつもりで、そう言うと。
 こちらもごくごくナチュラルな調子で、返ってきた。
「いや、おまえの髪に効くかな、て……、……」
「…………」
 お互いに。
 目をそらしまくる状況に陥った。
 ぎこちなくて、とらえどころがなくて、やっかいな感じだ。
 ――この程度の思いやり……というか、『気にかけ』は。
 普通に友人や家族、同居している相手になら、したっておかしくはない。
 だけど、寝た後となると、まずいのだ。危険物に等しいセリフ。期待させるそぶりも、期待をつのらせることも、緊縛した今の状態においては。
 ……背後からコンコン、とノックの音がした。
「どぞ!」
 のがしてたまるか、とばかり、取って食うような返事を爛がする。
 ……だからこの場所はありがたい。こんな救世主のような『水さし』が、奇跡的に飛びこんできてくれることがある。
 入ってきたのはヒラメ目の、のどかな顔つきをした、あまり熱心に手入れされていない金髪の青年。
「爛さん、なんか荷物、届きましたけど」
 言いながら、横にでかいダンボールを両手で持って入ってくる。目線にまでそれをかかげている事から、荷物が軽いのがうかがえる。
 案の状、かふ、と、重量のない音をたてて、それはテーブルの上に置かれた。
「でっかいッすね?」
 そう言いながら、金髪青年は顔を上げる。
 そして、初めて爛を目にして。
 ぽかーん、とした顔になった。
「な、ん、っすか。その髪の色」
 呆けた口調で、率直なつっこみをする。
「んぉぉ、これはね」
 言いながら、どこに隠し持っていたのやら、髪ゴムを取り出して。
 爛は前髪の、左右両サイドから、髪を一房ずつ取って。
 それぞれの先端を後ろでもって束ね、頭頂部あたりにUの字を作った。
 そこにひっかけるようにして、装着する。件のハーフウィッグ。
「ってね!」
 無意味にはしゃいだ口調で、観衆二人に向けて、ウインク。
 ……目まわりが全部ひきつれてて、できてはいなかったが。

 届いた、大きくて軽いそのダンボールを開けると、赤系チェックを基調とした制服がおさまっていた。
 ドラマやCMで女子高生が着てるのより、ゴールドアクセサリーな校章や、ベストの胸部分の刺繍エンブレムが、ゴテゴテとよっぽど派手だ。
「これで滑りどめ客あつめて、なんとか偏差値の最下位オチ、くいとめてるジョシチューガクのだもん」
 口を半開きにして眺めていると、脇を通り過ぎた爛からのお言葉。
 そのハーフウィッグな髪には、昨日、原宿の『サン宝石』で買った、さくらんぼの髪どめが、いつのまにやらくっついている。
 原産地、中国、まちがいなしの、白雪姫がうっかりかじる毒リンゴのような、安い安い光り方。
 下品紙一重のきっつく幼い赤が、爛の童顔を際立たせている。
 しかも形がさくらんぼであるために、もはやロリロリという擬音まで溢れ出してきそうだった。
 他の『必要なもの』をかき集めてきた爛が、横で着替えはじめる。
 男同士の気安さで、ばさっと下半身から遠慮なく脱いでは、身につけていく。……さすがに、下着までは女子中学生仕様にはならないようだ。
 しかし上半身はと言えば、ちゃきちゃきと。ニセ乳をブラの中にしこむのまで見事な手際。もしや、初めての経験ではないのかもしれない。
「……ローファーでいいのかよ」
 かがんで、聞いた。
 あざやかに黒いソックスまでを履き終えた爛の足元に、転がっている茶色の女子用ローファー。
「うん」
 応える爛に合わせ、指先をつっこみ、靴内部を広げながら、爛の足先へもってゆく。視線も落とさずにそこに足を入れてくる爛。……多少、履きにくそうではあったが、ぴったりとおさまった。
 両足履かせ、立ち上がると。雰囲気から察していたように、髪にうなじに手首に指に、じゃらじゃらとアクセサリーを忙しそうにつけている爛。ピンクありオレンジあり金ありで、いかにもラブリーな色彩が、ちゃらちゃらという音と共に、乱舞している。
 そんなことを思いながら、少し遠ざかって、イスを引き寄せた。
 方向を少し調整して、爛を正面からとらえる形で、背もたれを胸板につけるようにして、座る。
 爛は、化粧にとりかかっていた。
 と言っても、バケる対象が対象だから、あんまりはしないようだ。机に出されたのは、クリアな発色の、苺色な透明グロスのみ。
 卓上鏡をのぞきこみ、容器にひたっていたハケで、ぬりぬりとしている。完膚なきまでな女子の風景。
 ゼリーがコーティングされてつやつやした、ケーキトッピングのイチゴみたいな唇になっていく。
 昨日、変えたばかりの髪色と、ばっちり合っている。
 爛がグロスのフタを、きゅっとねじって閉める。机に置く。
 そして、くぅるり。
 赤いチェックもようのミニスカートに、ふわっと空気をはらませ、優雅にターン。
「だいじょうぶ?」
 問われて。
 視線を、爛の足元にまで下げた。
 セックスアピールを嗅ぎ取れるほど、細く締まった足首。
 健康的な肌色に輝く、肉感的な太もも。
 じゅうぶん女子で通るスマートなウエスト、しかも高い位置。
 発展途上な乳房を想像させる、ゲル状パッド入りブラジャーを内包した、赤リボンで飾られた柔らかげな胸元。
 目をこらしても喉仏を視認できない、ほっそりした首。
 髪を長くすりゃあ女の子そのものな、上品な顔立ち。
 まさに下から上までを、なめまわし。
 イスの背もたれの上へ、両腕を交差させてのせながら、
「完璧」
 賞賛の目つきで。
 不必要に、実感こもりすぎなコメントが出た。
 具体的な返事には、なってない返事。

 ◆

 日のささない雨模様、昼下がりの路上。
 型の古い、だけども車体の長さと広さは折り紙つきの、ねずみ色のワゴン車。
 運転席と助手席以外はぶちぬきのフロア状態になっている。
 そこに二脚置かれたパイプ椅子のうち、ひとつに座っている。青光を発する液晶モニターにかじりつくように、前傾姿勢で。
 リアルタイムに送られ、うつっている映像は、横方向のノイズが常に幾本か入っているものの、かなり鮮明。
 今、入口をくぐり、ビルに入った。
 音声は、更にクリアだった。
「――、うん。でもね、そのトモチャンはカゼひいちゃったの。だけどー」
 男とは思えないくらいの高さにまで、つくってる声。
 わざとらしくない程度、ある意味絶妙な舌ったらずさで、
「あたしだけでもいい? お兄ちゃん、みたいな人、だい好きなの」
 爛は、
『チラシをもらったトモチャンに、誘われて、今日は来た。しかし、トモチャンの方は、風邪で欠席』
 ――という設定を、スタッフ一人相手に話し終える。
 ぜんぜんおっけー。制服着てきてくれたの? カワイーねぇ。
 こんなイベントに関わっているだけあって、当人もロリ嗜好なのか。
 そんなでれついたセリフを答えつつ、尻を撫でまわしかねないような、ミニスカートの腰まわりへやたら両手をうろうろさせるエスコートの仕方でもって、スタッフの男は爛を導いていく。
 濡れた、ピンクの畳んだ傘を片手に、建物の奥へ入ってゆく爛。
 ――くっちゃくっちゃ。
 前方で運転席に座っている男から、ひっきりなしに響いてくる、ガムの音。
 白金色のツンツンと逆立った髪の、若い男。『ヒートアイランド』の五千万の件で、以前、顔をあわせたことがあるメンバー。
 つぅ、と一粒。
 首筋をつたい落ちた、暑いからじゃあない、妙にねばった汗。
 不快な緊張に、足をそわそわと不用意に動かせば、スニーカーの足裏が大量の黒蛇のように床にうねっている、なにがしかの電気コードを踏んだ。
 ――くちゃ、くっちゃ、クチャ。
 その音だけがひたすら空間に響き続けて、カンにさわる。
 緊張しないのか。
 ……そりゃあ、ご立派だ。
 今まさに、自分のグループのセミトップが、女装して。
 敵対勢力がバックアップしてる集団児童強姦イベントの会場に、潜入したって言うのに。

 カラオケボックスの大部屋みたいな室内に、ざわざわと不特定多数の話し声が漂っている。
 その一角、三人がけのオレンジ色ソファーの真ん中に。
 爛は座っている。
 ご丁寧に内股をちょっと寄せて、足先はハの字にした、なんか甘ったるい座り方。
 その爛が、腰へくっつけるようにして脇へ置いた、スクールバッグ。
 常に肘を当て、角度をコントロールしているそのバッグには、花のアクセサリーがくっついている。
 ガラス系お花アクセサリーに偽造したそのカメラレンズが、部屋をばっちりと目撃し続けている。
 無線で飛ばされてくる映像を、離れたワゴン車、モニターで見つめ続ける。
 ……軽い、イス取りゲームで男だけ一つずつズレていくような、自己紹介のあとに。
 こうやって、目当ての相手に自由に近づきコンタクトを取る時間、となったわけだが。
 座った席が三人用だからか、爛は男二人をはべらせて……はべられて……? いる。
 左側の男は、たまに入れ替わるものの。
 右側の男、一見おとなしそうな、痩せ型だけどつくりが硬い、なにがしかのスポーツ経験者っぽい男は、もはやべったりだ。
 また、左側の男が、席を立った。
 好期と見たか、右側の男が少しまくしたてるように、爛へ話しかける。
 機嫌よさそうに肩あたりの赤髪をいじりながら、爛は相手へ向かい合うように、体をかたむけた。
 ついでに、足を組んだ。
 ……だから、ふとももが眩しいって。
 オレンジがかったライトでつやつやと、ただでさえ光沢を持って主張している。この上、男の眼前で動かしたら、もうキャバ嬢顔負け状態だ。
 その足に引き寄せられたわけでもないだろうが、また一人、ハエみたいな感じでぶ〜ん、とばかりに飛んできた。
 ごくごく控えめな茶髪。パーマもかけている。たれ目がちな上、『にやにやにこにこ』といった表情で、愛想たっぷりに近づいてくる。
「こんにちは〜ぁ。サクヤちゃんだったよね?」
 爛の前に立って、腰を折り、顔をのぞきこみながら。
『サクヤ』ちゃんへ話しかける。
「サクヤちゃん、背ぇ高くって、スタイルいいよねぇ。モデルとかやってるの?」
 騒がしく、かつ褒めちぎりつつ入りこもうとするあたり、ホストっぽい印象。
 しかし左側に座りこむ時、爛に体を密着させない、じゅうぶんな距離を置いて座った。
 好感度を下げないよう、ちゃんと考慮しているらしい。
 まだこの段階では。
 このイベントがどっかで『強姦』に切り替わることは、爛の情報で、既にお墨付きなのだが。
 うううん、と。
 また幼女らしさをふりまくように、爛は、首を軽く左右し、
「お母さんが背ぇ高いから、元々、高いの。そんでバレーボール部だから、ますます伸びちゃウんだよね」
 そう言いながら。前にある小さなテーブルから、オレンジジュースを手に取る。
 ズスー。ストローをくわえ、音を立てて中身を吸い上げる。
 それからまた、赤い髪を右手でいじった。かきあげる、とは違うしぐさで、首のあたりの髪を散らすように揺らす。
 総じて、退屈しだした子どもみたいな動作。
「自分で染めたの? 綺麗にできてるね」
 さっきの、左側の男の方が、揺れたのに触発されたか、爛の髪に手を伸ばした。
 細く一房をつまみ持ち、指にくるくると巻いて楽しみだす。
 ……距離を置いて座ったのがだいなしなほど、なれなれしい態度だ。
 爛が全く気にしていない感じで、またジュースを飲み続けているのが原因ではあるんだろうが……。
 ゴトトッ、と足が波打ってしまい、あわてて膝を押さえた。
 反射的に立ち上がりかけていた。
 渋面を、再びモニターへ向ける。
 仰角で映る、まだまだ爛の髪をいじくってる男。ムカつきが抑えられない。
 ――エクステンションだってバレたらまずいだろ。
 ――ぼこぼこに開けたピアス穴だって、いくらなんでも中学女子にしちゃ異常だって、引かれるかもしれないんだし。
 と言うか。
 もっと単純に。
『さわらせるな』
 いいかげん押しこめてもおけなくなった本音が、素直にころがり出てくる。
 べたべたされるのを平然と放っておいている爛は、子どもらしい、集中力を欠いた様子を演技しつづけている。
 うつむいて足をぶらぶらさせたり、話しかけられてるのに上の空っぽく、髪をいじったりジュースにかまけたり。
 そんな『気まぐれな女のコ』ムードを出しながら。
 草食動物の群れの中から、弱った個体を見極めている、虎みたいに。
 イベントの色あいが塗り替わる瞬間を、まさに身をかがめて、待ち伏せていた。

 一時間ばかりで『じゃあそろそろ』という空気が、スタッフを中心に漂いだし、二次会へと以降がはじまる。
 ここで、まぁ予想していたことだが、場所を移るようだ。
「二次会が終わるのは、ちょーっとだけ遅くなっちゃうかも、OK?」と、スタッフが女個々に確認してまわっている。爛には「二次会は三時間くらいかかる」と伝えていた。
 ……微妙に、それぞれの女に、二次会にかかる予想時間を変えて、伝えている感じがした。
 一番年長、それでも高校生らしかったが、さすがに頭が少し回りそうな女と。キーキーなんだかヒステリックなまでにうるさかった女が、ここで切られたからだ。
 切られたというか、自分から「そんなに遅くなるなら行かない」と言わせた、と推測できる。二十三時過ぎるくらいのことを言えば、自発的にしり込みするだろう。
 帰っていく女には、どうやらこの場で、一万円渡していた。
 ゴネるようだったらもう、さっさと二万渡してケリをつけてるんだろう。で、リピーターとしてまた後日、このイベントに来たら、二次会来ない人は参加拒否するようにしたんです、となるのかもしれない。
 ビルから出ると、待ちかまえている新車の三台のワンボックスカー。
『選定済み』の女の子が、順次、乗りこんでいく。一台目が女用、二台目が男用、三台目がスタッフ専用、のようだった。
 容姿はそもそも、チラシを渡す段階で選定済みなんだろう。私服にお洒落気合いも入りまくった、綺麗めで揃っている。
 それが芋づるに連れてくる友人も、たいがいは『おはなしだけで二万』を貰う権利が、自分にはある、んではないか、と思っている自信アリーな娘だからして、同レベルのルックスだ。
 翻って男群のようすと言えば。何かスタッフに質問することもなく、やたら整然と流れるようにワンボックスに乗っていく。
 どうも『お得意さま』『常連』らしきその態度に、傍観している第三者のこっちに、嫌な予感がつのる。
 ほどなく、爛も女ワンボックスに乗りこみ、レンズから電波で送られてくる映像が『女だらけの車内から』になる。
 最後に運転手なスタッフが一名乗り、それで全員乗りこみ終わって、ガゴー、と扉が閉められた。
 ……いまごろ、すぐ後ろの男用ワンボックスでは、なにが行われているんだか。おそらくは別料金徴収。
「ハーイ、追っかけますー」
 鐘が容赦なく鳴るタイプの目覚ましみたいな。高い音質の声で宣言して。
 こっちのワゴン車でも、運転席のメンバーが、がっくんとチェンジレバーを入れた。
 日暮れてきた街、滑るように、尾行が開始される。
 モニターから送られてくる映像と声は、ペチャクチャとかしましい。
 爛以外は皆、どう見ても『連れ』としゃべっている。こんなイベントに、冒険して一人きりで来る奴はいないのだろう。爛は例外として。
 たまに、爛に話しかける少女もいた。爛は愛想よくにっこりはするものの、積極的に会話をはずませることはなく。
 微妙に集団から離れた雰囲気で、車内に鎮座していた。

 人気のない、中心都市でありながらさびれた場所。駅からの徒歩圏内でなければけっこうすぐあるものだ。
 その一角にある目的の建物に、ワンボックス三台がつく頃には、どんよりした雲からかろうじて気配だけはさせていた太陽が、完全に地面にもぐっていた。
 続いて、本日何度目かにふりだした雨。今回はけっこうな雨足。
 その雨粒のなか見える建物は、なんと言うか、怪盗がいきなり仮面とマントを脱ぎ捨てるような、かなりな正体のあらわしっぷりだった。
 さっきみたいな小綺麗な雑居ビルではない。むしろ、ビルですらない。形容するなら『なんか黒い建物』だ。
 前提知識がなければ『なんかの事務所』として見えるが、その代わり、闇金事務所だって、やくざ事務所だって、おかしくない風貌。なにより看板が一個もないのが痛い。
 女達が、車から降りてくる。
 護衛するように、あるいは監視するように、車のドアから建物入り口まで、スタッフが一定の区間で立っている。
 ここでようやく思い切って、ダッシュかまして女が逃げ出したら、どうなるのだろう。まぁやんわり、しかし有無を言わせず丸めこまれて、脱出は叶わないだろうが。
 明らかに様相の違う、飾り気のない建物、スタッフの挙動に、子どもの範疇に入る女達の雰囲気が、固い。
 青ざめてこわばった顔、顔。
 ……『おはなしだけで二万円』につられたせいで、滑稽――と思うには、あまりに痛々しい風景。
 どいつもこいつもがん首揃えて、大人の胸あたりまでしか身長のない児童、だ。
 ふと、運転席から、またキンキンした高い声。
「――あちゃあ」
 同時に、ぺちっ。
 デコにいきおいよく掌を当てる音が、マヌケに湿った空気に響く。
「革がこの街荒らす前に、いっちばん覇権握ってたグループの持ちモンだね、この建物」
 つっても、このイベントの犯人の後ろ盾が、そーなことはもぉ掴んでたんだけど。
 またコリャ、わかりやすく公明に繋がっちゃったね。
 ブツブツと小さい声で、独り言めいてしゃべる。この声量だと、かなり耳をつんざく感じはおさまってる。
「しっかし直でココに連れてこられてパーテーだとは思ってなかったな〜」
 ……バックのグループと、かなり強固な繋がりってことだろう。
 いまいちわかんないんだが、それってヤバいのか、やっぱり。
 ン、ン〜。
 白金頭は、親指の爪を噛んでうなっている。
「ここに厳選して連れこんだからには、もうここが最終会場だよね」
 神経質そうに、と言うよりは、うっぷん晴らしみたいに、ガブカジリと。おもいっきりよく噛まれている爪。
 まぁ、二次会か三次会が本番だろうとは、爛も断定的にふんでいた。そりゃあそうだ。帰宅時間を遅くさせないため、さっさと二次会あたりで踏み切るしかない。なんせ女の年齢が年齢。
「こっから先は、泣こうがわめこうが『済むまで』出してもらえないだろうねぇー」
 さて、どうなっかな。
 少し不敵に、にやっと唇をゆがめながら、男は言う。
「こっから爛の独壇場だね」
 ……ここまでも、十分見せ場だったような気もするが。女装ショーと危ないコンパ潜入という意味で。
「多少のおさわりはNGにならないように、下着は女モンにしていったんだけど、スカート脱ぐとなるとね」
 言ってる内容につられて、建物を見やる。
 自分でもカッタイとわかる表情で、雨に汚れたガラス越しに、あおぎ見る。
 どしゃぶってきた雨の中、モンスターのような影色に染まった、一般的きわまりない四角い建物を。

 黒ビルは、外見は新築まがいに見えるのに、カメラ越しに見る建物内部はなんだかすさんでいた。
 壁の塗装がこすれハゲている部分もあるし、通路にゴミも落ちている。画面が埃っぽくなったような気すらする。もしかすると、清掃業者を入れてない可能性。
 そんなますます『なんだか顔が変わってきた』道をとおって、女達が連れてこられた場所は、さっきの一次会、カラオケボックスの大部屋みたいな空間、とさして違いはない。
 ただ、三人がけソファー一つごとに、ブース分けと言うか、布製のついたてで三百六十度円周にぐるりと遮られてる。軽い密室。
 そして照明が異常に暗い。いわゆる文字を読むのは不可能レベル。
 で、ほどなく始まる、なんと女サイドにいっさいの意向確認を取ることない、ツーショットタイム。男が勝手にそれぞれ目当ての女に散って、憑いた。ワンボックス車内部でわりふりでもしたのやら。
 爛の隣には、よっぽどお気に召したようで、くだんの。肩とか骨とかが硬そうな、右側にべったり座りっぱなしだった痩せ男。
 一応、スタッフが堂々とこの場で「なにをしていい」とか「なにをされます」とか言ったわけではないのだが。これが本当にグレー中のグレー。
 もはや絶体絶命に、回避しようもなさそうな暗雲がたれこめてきた。ソファーじゃなくていっそベッド置いたらどうですか、という状態だ。ソファーにはバスタオルみたいなシーツかかってるし、秘密の小箱みたいなのも足元に置いてあるし。
 他の女はそりゃあもう青くなってガタガタしている真っ最中だろうが、そこは爛、もちろんおびえた様子なんぞなく、淡々と腰かけておとなしくしている。
 いま見た目は『かわゆい女の子』な爛の、なかみを知っているこっちには、泰然自若、というふうにすら見受けられる。
 むしろ男の方が、いつ手を出そうか、いざ手を出そうか、とでも言う感じの虎視眈々を見せつつ、も、息詰まっている様子を見せている。
 ……つまり、結果的に。双方無言。
 超新人S系キャバ嬢と、今日がキャバクラ初体験な客か?
 ぐるりと爛たちの周囲をかこむついたては、アイボリーな布製で背が高い。
 中におさまった人ふたりの動きは、ついたての効果で、隣からであろうとも、ついたて外からはゆらぐ影でしか判別できない。
 しかし、ついたてはついたてだ。
 上方への空気の抜けはふつうにあるままで、空間への響きは阻害されていない。というわけで、ほどなく。
 キャッ。
 いいから、ねェ。
 や、だ!
 ひそめられてるようで、実はありありとした――声と物音から伝わってくる、どこかで始まった気配。
 そんな、男の邪念を刺激する、罪悪感をマヒさせる。
 赤信号みんなで渡れば的な『効果音』に、触発されたのだろう。
 天井近い共有空間を介して、あちらからもこちらからも、次々に聞こえてくる、幼い悲鳴。
 ついたてに区切られていながらも、この部屋がなみなみと不穏な空気になってきたのが、ヒシヒシわかる。
 ぎゃー!
 群を抜いてデッカイ、引き殺される蛙みたいな。
 女のモノとは思われない耳を疑う、しかし絶対に女の悲鳴が一個、鳴らされ響いた。
 ベシッ。
 それを追いかけた、破裂するような炸裂音。
 どうやら平手が出てる。
 まぁ勃ってるのに股ひらかなかったら、なぁ。
 なるほど、ナンデついたて、小部屋いっぱいのタコ売春部屋みたいな間取りの方が、秘密も守れて気がねなくハメれて、で都合がいいんじゃないかという印象を、最初は持ったが。
 もっともな話だ、ここまで来て『実行できなかった男』がいると、そんなヘタレた美談、かえってまずいわけだ。
 ……輪姦で見張りだけ役にも、最後には一回食わせる、みたいなもんか。
 必ず罪に手を染めさせて、口封じ。
 ついたての外、四方八方あちこちから響き、部屋を満たしていく、加速し転がり落ちる只中バックミュージック。
 ほとほと酷薄な現実予想でもうしわけないが、多分、シャッフルもあるはずだ。
 処女な女ももちろんいるだろう。
 好きでもない初対面の男に破られて、連チャンでまた別の男、とくるならば、こりゃあまぁかなりな罪状。
 ――だけど、二万につられてホイホイ自分の足で、なんの保証もない場所に出向いて。
 普通の仮面をかぶった一次会イベントで気がゆるんで、それでやっぱり自分から車に乗ってしまって、あげくこの魔の二次会会場、という自業自得が。女児側から、自宅に帰ってからも、『誰かに相談』などの行動を奪う。
 冷静に考えるまでもなく、それでも、セックスの段階で嫌がってるのに犯されれば『強姦』なのだが、年齢からくる浅はかな頭、いたずら直後の子どもな罪悪感、とからまって、そこまでの結論になかなか行き当たらないだろう。
 やっとそこまで考えられて、親なんかに相談し、かつ訴え出る覚悟が決まる頃……。
 ――に、このイベントがまだやっているか、開催者がどこにいるかがわかるかは、非常に疑問だ。つか可能性、低すぎる。
 混沌、雑然としていて、真夏のさしみかなんかのよーに足が早い、都市型の闇。
 まさにわかりやすい例、だ。
 ――で、我らがヒーロー、爛は、と言えば動かない。
 そりゃそうだ、『正義の』ヒーローではない。
 グループの益のために動いている、グループのヒーロー、だ。
 まこと、ああ本当、いざ光景見せつけられてると、本気ヘドが出るというかんじに不本意で不服なんだが。
 ここで大手をバッと打って、このお嬢さんたち全員を強姦未遂状態で救い出すことは、なんらグループの益とならない。
 ……せちがらい、けれどな。
 というわけで、まだ潜伏の時。
 しかしすると問題が生ずる。
 たとえば、今まさに爛へにじり寄ってきている、かたわらの痩せ男。
 うつむいて暗い表情で、じりじり距離をつめだした。
『神社で御払い』とか連想してしまうほどの、えらく陰気な雰囲気をしょってる。
 後ろめたいならヤメりゃいいのに。
 で、文字も読めないひかえめ照明のなかにも、しつこく若さとみずみずしさと張りを力説している、爛のふとももだ。
 赤チェックのミニスカートからはみでた、さわってくれ、と言わんばかりの艶めきのそれに、男の左掌がそっと置かれた。
 すぅ、さわ、さすりっ。
 スカート中にも潜りこんで。
 ゆっくり上へ、じっくり下へと、撫でまわしている。
「…………」
 モニターの脇に腕をのばしヘッドフォンを手に取った。
 おかしな様子があればすぐにわかるように、耳に装着した。
 かなり顔いっぱいに唇をへの字にした、苦虫を噛み潰したよな顔、で。
 まぁ、局部をさわられたにしても。
 それで驚愕して萎え萎えになられたにせよ、どんでんがえしで「男かよ!」って気を取りなおし逆に燃え上がられたにせよ、ここからではどうしようもないのだが。
 その左手に。
 イヤがって動きを妨害する、って感じではなく、震える純白うさぎサンを包みこむみたいに。
『ふーわ』と自分の右手を、爛が重ねた。
 ……宙に、いかにも女っぽくたおやかに、男の左手ごと持ち上げて。
 そんでもって改めて両手で、くるむように挟み握った。
 ふらちな行動に及んでいたその左手を、まるでいかにも大切なもののように。
 小型でも高性能なカメラが、床上のスクールバッグからローアングルに送り続ける全体像。
 ヘッドフォンを耳にキリキリと手で押しつけた姿勢のまま、あんぐり見守る。
 ゆっくりとした対、うさぎサン的な動作は、まだ続いている。
 軽く上下にあやすように振り、そののち、おもむろに爛は、その左手にスリ、と頬よせる。
 そんで、繰り出された。
 こぼれるような好意が輝いた笑顔。
 場慣れしてるふうな蠱惑の気配がするのに、低能じみた無垢がいっしょくたに漂う。
 ……なんとも魔性で不可解なシロモノ。
 しかし幼女マニアには、なんかまさに、ストライクゾーンにばっち来たらしい。
 魂を取られたようなふらつき加減、脱力しきった体で、バッタリと横倒しにたおれるように、爛にのしかかってきた。
 爛は。
 上半身でベッタリと接触したその状態で、右空間に両手をのばす。男の膝あたり。
 そわっ、と、男のジーンズの上、てのひらで円を描くようにする。軟体動物めいた、ねとりとした動き。毒気のある怪しさが熟女なみだ。
 そんで十本に開いた指の腹が、トカゲの手足かなにかのように、男のジーンズの膝頭にぺたっと貼りついた。
 自然な桜色のネイルと不自然な感じにあいまって、気味が悪いほど『メス』なしぐさで。
 そのままジーンズ生地を這い、ファスナーの先端をクッと手さぐりでひっかけた。ためらいなく、ジーと上げ。
 幼児のトイレの面倒を見るように、カチャカチャ、両手指をかいがいしく動かして、目視しないままにベルトをとき。
 ボタンをはじいてジーンズの前をくつろげてやり。
 トランクスをつかみ、えいやっとずり下げて、露出させた。
 ……べろんとばかりに出る、やや勃ちなイチモツと、ごちゃごちゃした陰毛。
「うわ」
 白金髪頭も、別モニターを見てはいるらしい。
 いやなもの見せられた、という感じの声が、運転席から聞こえた。
 ……絞りにしぼられきったオレンジの間接照明のなか。
 透明にキラめいて、スゥと。
 しゃべりだした苺色の唇。
「ね、目、とじて?」
 甘えた声。なんか、やっぱ、高さと言い、速さと言い、舌のからまりと言い、絶妙。
 キスを想起させる光景と言葉に、相手の男は、きっとまぶたをおろしただろう。
 ――で、冴えわたる。
 パシィン、と拳がヒットする、乾質な音
 続いて、長めに、激しめの布擦れの音。相手を絞め落としていってる。
 がっくん、と、受けとめる爛の腕のなか、おもたそうに頭を垂れて絶命、いや気絶する男。
 ……しかし、腕を最初に巻きつけた部位は、首。で、あんだけキマった音がするってどういう事だ。危険で容赦がねぇな。
 なでまわされてムカついてたのか?
 うめきすらも発することが許されずに、昏倒させられた男。
 抱っこしているその上半身を、えい、とばかりに後方へふり投げるように突き放し、男を元に近い体勢でソファーに座らせた爛は、スタンと軽快な行動で、床に膝頭をついた。
 スクールバッグを引き寄せ。
 肩ヒモのつけ根に留めた、安っぽくキラキラ光る、ガラスのお花コサージュを取り上げる。
 で、真ん中にはめこまれていた、こちらに映像を送ってき続けているレンズ部分を、くりくりと抜きはずす。
 胃カメラのような形状のソレをつまみ出し、ずるずると、レンズに直結している白い管を、スクールバッグから長く引き出す。
 並行作業で、ぺっ、とスクールバッグの上に捨てられる、抜け殻、オーロラカラーなガラス花びら部分。つれねぇ。
 電気コードのような白い管は、ワイヤー状になってるらしく、細い管のさきっちょを爛が曲げると、くねくねと自在に曲がり、その状態で固定される。首、のようなものか。
 ――両手首についた、ピンクやらゴールドやらの乙女アクセサリーをシャラシャラと鳴らしながら。
 映画やドラマで目にするSAT――警視庁特殊急襲部隊、もかくやという、テキパキとした手つきでそこまでを終えて。
 で、片手にiPodそっくりな、小型モニターを握る。
 スイッチオンのちに、レンズの向いている先の映像が、iPodもどきモニターに反映されるようになる。
 こっちに来ているノイズまじりのモノとは違って、ド鮮明。
 ……これで爛本人にも、はっきりと自分が撮っている場面が、確認できるようになった。
 で、爛はスックと立ち上がり。
 する、り。
 ついたてと天井のあいだにある空白スペースに、指一本をひっかけるようにして、胃カメラをひっかける。
 望遠で盗み見下ろす、光景。
 浅黒い男にのしかかられてる、中学生くらいの女が見える。
 泣き叫んで、着衣もぞんぶんに乱れている。
 あきらかにローライズのジーンズは、剥がれてくしゃりと丸まって、床に。
 あんまりまだアップになっていないが、怪しく腰元が蠢いているところからして……可哀想にすでに既成事実突入、だろう。
 ……なにがいけなかったのか。
 あっという間に、その部屋……と言うかブースから、レンズは抜かれる。
 事前に、
「『強姦証明』になる映像がいる」
 と言っていたから、結合が合意ではなく行われたという、もっとはっきりした決定的瞬間を求めているのかもしれない。
 というわけで、手あたりしだい、今度は逆サイドの隣ブースへ、上方から忍びこむカメラ。
『空気が決壊』したのが遅かったのだろうか。ここでは、まだ女の抵抗が続いている。
 それでじれたのか、着衣のまま及ぼうとしている。女は薄紫なふわふわスカートをまくられ、男はおそらくファスナーだけは下ろしてる。
 わぎゃあー。
 いくつか常に聞こえてきている悲鳴。その中から、口の動きとのシンクロで、ひとつだけに判別ができた。
 この女が上げているのは、未知との遭遇に塗り潰された、金切り声。
 色気もクソもない悲鳴なのだが、まぁもはや男側にはどうでもいい域だろう。勃ってる勃ってる。
 恐怖でこわばった様子ながら女から、それこそ容赦なしの眼球めがけた指も、膝蹴りも入っているのだが、男は慣れてるのか、ひるみもしていない。
 急所を蹴れれば一番いいのだろうが……姑息に腰を密着させていて、それだけは回避している。
 女児の膝位置でくしゃりとまとまっている、コットン素材の、藍色ドット模様もさわやかなパンツ。
 大人の女ならばさっぱり清純派、女子児童ならば年相応。
 ……そういうもの見ると、やっぱりイチイチ気分は悪い。
 でも、もう、他人にかまっている場合じゃない。
 爛の行動を、画面ごしに必死にうかがう。
 さしあたって危機は、爛よりもよっぽど、画面中央の女にまさに迫っている。
 多少、人体構造を無視する感じの、力ずくのひねりで、男の腰元が跳ね浮き上がり。
 ぐっ、と、主張するように、落下力も伴いつきつけられた腰。
 声はよくわからないが、喉奥が見えるほどに、まるく開かれた女の唇。
 ――そのまま、異様に静まる光景。
 男も女も重なったまま、ピクとも動きゃしねぇ。
 だからあからさまにストロークとかはしないものの、……事実が成ったのはわかる。
 串刺しにされた女の見開かれた目尻から、ちぎれるよう、こぼれてく涙。
 ひと粒ひと粒、妙にスロー。
 死体のようにまっくろなその眼の表情。
 瞳孔が開ききっちまってる。
「…………」
「ワァー」
 運転席からも、棒読みの感嘆が聞こえてくる。
 ひたいに手をあてたい心境になった。もぅイヤかもしれん、こんな仕事。
 絶対痛い。むしろ突っこんでる方すら痛い。
 それが処女食いって感じでまた良いんだろうから、同情の余地、心底ないが。
 ……さっきの映像と合わせて、爛も、もうじゅうぶんだと判断したのだろう。
 ゴソゴソ、そのブースからそらされて、爛の手元へ。肌色へと戻ったレンズ。
 その時だった。
 カツ、カツ。
 靴がフロアを踏み鳴らす、硬質な足音。
 ついたての中へ投げられかけてくる、歩く影のゆらぎ。
 ブース内部を背伸びすればうかがえるほど、長身な影。
 どこの部屋でもとどこおりなく強姦――共犯、が遂行されているか、スタッフが点検に来たのだろう。
 ……さて、どうする?
 パッと、飛ぶように赤いプリーツスカートを円状に広げて、爛はソファーに跳躍して。
 腰かけた男の太ももにまたがって、騎乗状態となる。
 で、ソファーの背もたれをグッと両手でつかんで、気絶している男ごと、ソファーをゆさぶる。
 ソファーの底が、一瞬一瞬、浮きあがるほどの激しさ。
 ガタガタガタガッタ、ついたて外からもじゅうぶん窺える、盛り上がってるかのような擬音。
「ァ、ひぁ、……ンン!」
 二人ぶんの体重+ソファー重量をゆすぶってる、細身ながら力強い腕とは対照的に。
 追加料金なしで、『抑えきれない』とでも言うような、恥じらった卑猥な声もオプションだ。つか、強制おまけ。
「……なんの女優だよ」
 運転席からも、呆れと感服を半々で混ぜたような悪態が聞こえてきた。
 爛の体の下、なすすべなくがくがくと、マネキン状態で共に震動している。開きかけたまぶたから、白目むいてるのが見える男。
 加えて言うなら、広がった爛のミニスカート下では、春のご陽気、変質者状態で下半身がむきだしなはずだ。
 まったくもってシュールな風景。
 おかげさまで、またカツカツかかとを鳴らし、影はすみやかに去ってゆく。
 ……すぐ爛は、イチモツが顔を出している男の膝上からのき。床に散乱していたコードやiPodもどき等の機材をかき集め、入ればいいとばかりにぐちゃっと丸めて、スクールバッグへ。
 こっちと繋がっている重要な盗撮レンズも、もはや花びらに再セットはせず、ファスナーではさむように固定して、スクールバッグからレンズ部分だけ露出させる。
 そのスクールバッグを、ひったくるように肩にかけた。
 ついたての入り口を開いて、視線を素早く左右。
 そして身を低くかがめたダッシュで、部屋の出口へと疾走していった。
 くだんの、埃やゴミが落ちている廊下に出た。
 ここまでくれば、照明は普通。でも爛にとって、それはありがたくない。
 足取りが臆病とでも形容できそうになり、慎重さゆえに、進行スピードが明らかに落ちる。
 そう画面ごしに知っていると、遠い曲がり角をかすめた、スタッフの人影。
 ――掃除と違って、監視はしっかり行き届いているようだ。
 まぁ、まさに今が、犯罪行為、複数件勃発させ中なのではあるし。
 無駄にお真面目なご勤務態度だな、皆でトイレ休憩にでも行っててくれりゃよかったのに。
 不審な影や、服色が、スタッフの視界に映らないよう、足音なく速く歩いては。壁をみみっちいほどに遮蔽物として駆使する爛。
 そんでしばし、監視され状況を把握することに専念。
 エレベーター前は、たまに二人が交差して行きかうほどの、厳戒態勢ぶりのようだ。
 時間差で常時、一人は必ず貼りついている感じ。
 ……それでも、一階に行ける非常階段ドア表示の緑の発光が、片隅にあった。
 爛は当然、すぐにそれに気がつき。
 すささと黒い家屋内害虫な動きで、その道へすべっていく。
「…………」
 ドアがないと仮定すれば、いわゆる袋小路状態のそこに入りこんでしまってから。
 やっと見える。
 ドアノブに、ノブよりひとまわり大きな金属がかぶせられていて、そこからデカイ南京錠が下がっている。
 南京錠を開錠しないかぎりドアノブがまわらない、本来は空き巣対策などへの防犯グッズ。
 見事なまでに、無骨なローテク。
 ゆえに、対抗できる手段は、とても少ない。
 壊す方法、はずす方法はあるんだが、機材なしでは純粋に打撃にたよるしかなく。
 それでもはずせなくはないかもしれないが、絶対に時間もかかるし、物音もする。
「…………」
 さすがに、爛は足を、完全停止させた。
 背後からは予断なく迫ってくる、スタッフの気配。
 ――もしもそいつが、この南京錠の鍵を持っていて。
 かつ、悲鳴をまったく上げさせることなく――そいつの味方の敵キャラを呼び寄せることなく――倒せて。
 そいつの胸ポケットやらなにやらを探れるのなら、まだ『しずやかな脱出』の確率はあるが。
 んな奇跡的な確率、期待する方がまちがってる。
 打つ手なし。
 いや、打つ手はもう万全に、多段に手を読んで、どこで断絶しても次善策に移れるようチャート式で用意してあるわけだが。
 このまま穏便に逃れてみるという最上な結果は、ちょっともう望むべくもなし。
 いいことずくめな第一案がつぶれて、次善案へとシフトしたってだけだが……。それでもたった今が、『シフトしてしまうことになった』という決定的瞬間ではある。
 だから。
 チッ。
 舌打ちする爛は、鼻のつけねに、いかにも育ちの悪い、不愉快そうな皺を数本も寄せていて。
 しかし、一転。
 ニヤリ。
 ……鮮烈なまでの、口裂ける笑み。
 たぎりはじめた血潮の色が、見ている者の網膜に投影されてくるほど。
 獣性がめりめりと音たてて顔面へ満ちていく。
 まさに歓びのように。
 ――やべ、キレた。
 瞬時にヘッドフォンをむしりながら、パイプ椅子を蹴り倒して、立ち上がった。
 モニターや電子機器にまぎれて転がっているメッセンジャーバッグ――工具とかいろいろアイテムが入ってる――を、腕をぐぃんとのばして親指にひったくり。
 床にうねる蛇コードをスニーカーで踏みつけがしがし二歩、左手に傘をつかみ、右手で並行してワゴン扉をガッと開けはなつ。
 その地点で『あっと』と、思い出し、くるり、顔だけ振り向ける。
「離脱、よろしく」
 運転席に声をかけると、おげー、とばかりに、指をぴらぴらと曲げてきた。
 これで証拠は確保だ。
 あとは『五体満足』くらいのまま、爛の撤収ができれば、ほぼ任務完遂なわけだが。
 降り立った濡れたコンクリート。
 やっと解き放たれた弓のように、一歩ずつ踏み切りのようにバネの勢いをつけ、走る。
 すっかり闇のとばりが落ちた、夜のゴーストタウンを。

 ビル正面入り口から侵入し、容赦なく傘をぶんまわして、スタッフを蹴散らして進む。
 ずっと隠しカメラレンズごしに見ていた映像、そこから推測できる、爛がいるであろう、だいたいの建物内部の位置。
 しばらくは探したが、エレベーター近く、一階の広めの部屋に、爛はいた。
 壁を背面にするように気をつけながらも、盛大に。
 たった一人、暴れ狂っていた。
 足は棒武器のように、縦に横に回転しまくってるわ。腕や拳は、弾丸のように瞬時に出ては消えるわ。
 薄ら寒いほどのスピードと、カンのよさ。
 爛の戦闘スタイルの稀有な点としては、あまりな程に、攻撃に迷いがない。
 常に『窮鼠、猫を噛む』の真剣さで、体格差という歴然としたハンデを、力技に克服している。
 たとえるならそれは、一発一発が長期実刑覚悟な威力。
 あとは、おそらくは経験という単語が、なによりの後ろだて。
 多分、飯を三食くわない日があっても、乱闘に関わらない日はなかったんじゃないだろうか。
 その闘舞へ。
 一瞬だけ、見惚れてしまってから。
「……爛!」
 大声で、覚醒をうながすよう、呼びかけると、
「おぉー、風」
 今、床へノシた、爛よりは十センチは背の高い男の。
 肩甲骨の中央を踏みつけにしながら、首だけの九十度、明朗な笑顔でふりかえる。
 誰かの返り血を、首のあたりに一線浴びているの、とあいまって。
 ……その赤くキュートな髪色に囲まれた笑顔の、カッコイーこと。
「待ってたよんー。もう離脱、じゅうぶんな距離で、完了したよね?」
 言う間にもぐりぐり、倒れ伏した男の背中を踏みにじっている、体重ののった踵。
 年若い美貌の女王様、なプレイみたく。
 そして爛は、いきなり顔を、自分の体正面へふり向けて。
「つーわけで、本当にこのそばで、仲間が待機してたんです。そのちっさいレンズで、今までの映像すでに送ってあって、強姦場面VTRもばっちりですんで、引いとくのが賢い選択だと思いますよ〜。……ねぇ風、この方達、いまいち引き際悪くってねえ?」
 一人立ち尽くした、微妙にガタガタして立っている、グレースーツの、真紅の細いフレームめがねをかけた男に、ベラベラとつきつける。
 頭はよさそうだが、いま、少し女々しいその男の。
 ……まさに守護者、あるいは騎士のように。
 こっちの背後、部屋の入り口からのっそり。出現した一人。
 背をかがめるようにして、巨体をくぐらせ入ってきた、いかにも用心棒な男。
 ……どこに控えていたんだか。
 視線を配りながら、そう、思った。蹴散らしてきたスタッフとは、まとう雰囲気があきらかに違う。
 玄人だ。
 おそらくは、バックアップの『グループ』から、直接よこされている人材。
「あー?」
 坊主頭で、くすんだカーキ色の半袖Tを着ているせいで、なんとなく肌色にのっぺりとした印象の、巨漢の男は。
 うろんな目を、室内へめぐらし。
 前哨戦は。
 まずは口だった。
「ふだんはロクに表に出てこねぇ専用便器が、何しきろうとしてやがんだよ」
 わかりやすく低俗な、辱め。
 ピク、と。
 むしろ、自分の四肢が反応した。
 隣の爛は、微動だにせず。
「お〜よっ」
 新たな人物に気をとられたと思ったのか、起き上がりスタンガン片手に突進してこようとしたスタッフに、キョーレツな掌打を入れてのした、ところで、ドアを振り返る。
「だもんで、イマイチ加減がわかんねーからな?」
 にまあっと、凄惨に、苺唇な口角を上げ。
「それにぃ、留守でタマっててー、むしゃくしゃしてるとこだし。加減わかんねーで暴走するかも!」
 自棄な台詞を高テンションで、そう言い切ってから。
 爛は両手を、スカートを押さえるような位置に伸ばし。
 その両腕をビンと下へ張った状態で。
 キャイ、と。
 はしゃいだ、狂人じみた高音に――……一声きしんだ。
 ……やっぱキレてる。
 で、血に興奮している。
 だいぶしたはずの乱闘で、キレを多少発散させたはずなのに、この上、どこまでもこの勢いでキレるとしたら、どういう状態に入るのだろう。
 そんな爛、まだ見たことがない。
 内心、スタンピートをはらはらと不安に思いながら、傍らにはべっていると。
「どーする?」
 前かがみに、男に向けて上体をのりだして、そう意志を尋ねた。
 首に、赤い返り血のスジついてるし。拳も他人の鼻血で濡れてるし。
 でも女子中学校の赤チェック基調な制服着てるし、ふともも丸出しなミニスカートだし、髪もふわふわな長さで色も赤ピンク。
 けど、なかみは暴力衝動を飼っているガキで、たったいま女役だと貶められて、しかも実は男に捨てられかけてて。
 不道徳に、スタパイラルに、からまって、失墜して。
 壮絶に、キラキラしてて。
「……ッ」
 思わず。
 歯を食いしばって、目をすがめた。
 遠慮なしにゾクッとさせられる表情だった。
 背中がばっくり裂けて、骨まで見えてるのに、気にせず腹が減ってるからってシマウマ襲って食いついてる、ライオン王みたいだ。
 死のうが殺されようが、好きなことをする。
 まわりの感慨も感嘆も気にしやしねぇ。
 はぁ……と。
 まだ、なんにもしてないのに。坊主巨体から、疲れきったようなため息。
 その、ガチンコする前から漂う敗北感。
 察するに、爛とは知らぬ仲でもなさそうだ。敵同士としてなのではあろうが。
「……警察は介入させなくていいな?」
「とうぜんでしょ〜」
 取れるものも取れなくなっちゃう。
 前傾姿勢を戻して直立し、小首を愛らしくかしげながら、爛は悪人な常識を吐く。
 相手の男は、体格に応じてすさまじくデカイ右てのひらを、こっちに伸ばして。静かにすぅと床へ向けて開いた。犬にダウンの命令を出してるみたいに。
「以後、うちが責任もって、こいつらにこの界隈で、同じタイプのイベントは開催させない。んで、ここまで踏み倒したソッチへの金は……。まあ……うちがしばらくソッチに、いろんな面で穏便なツラ、してやるよ。……そんで手ェ打てるだろ」
 爛は、も一度、逆側に。
 首をかしげるような仕草。ふんわり肩で揺れる赤髪。
 しかし、なんとなく穏やかな顔つき。
 身も柔らかに弛緩し、殺気がほぼ消えている。
 むしろおさまらないのは、真紅の極細めがねフレームの男だった。
「ぉい……!」
 弱っちそうなのに、巨漢男の肩に手をかけて、抗議に走ってる。
 その泡くった様子を、蔑むように見下ろしながら、
「こいつらのグループと、こんなきっかけで徹底抗戦なんか、じょーだんじゃね。……おまえらもココらで店じまいが、いい潮時かもしんねーだろ?」
 巨体は、イカツい流し目で言いつける。
 言ってる内容は、食ってかかってる男にすら説得力があるだろう。
 シロウト見立てでも、どうせ続ければ続けるほど、足元がヤバくなる商売。
 店をたたむ時期を見誤れば損害しか出さない、むさぼり時の短さ。
「だいたい児童がらみは今、ヤバイんだよ。おれは反対だったんだ」
 いまいましそうに、巨漢は歯噛みしている。
 爛のグループのシャバ管理が徹底していたがために、乗り気じゃなくとも決意して踏み切ったのに、思ったより短期間しか吸い上げられなかった。そのいまいましさか。
 もしかすると、見込みより採算が悪かったのかもしれない。
 ……こんだけ女側にトラウマな被害出しといて、そんな顔、どーかと思うが。
 それぞれの団体の責任者二人、の、そんなギチギチした風景を、油断なく見据えていた爛が。
 ふいに口を開いた。
「んじゃ、あのねぇ、あん中の女のコ、二人ばかり。今、引き渡してくれる?」
 にっこり。
 人差し指と中指をピィンと立てて、顔前にかざして。
 爛は、首をかしげてチェリーの髪飾りを揺らしながらの、おねだりな笑み。
 ……ええと、ソレな、勝利のVサインに見えるんだが。

 ◆

 巨大駅の前、少し改札から離れた場所。
 バスも停車しているロータリーで停まったタクシーから。
 あいのりでココまで連れてきてやった女児、二人が、爛が最奥に座る後部座席から、順々におりていく。
 ローライズジーンズちゃんと、薄紫ふわふわスカートちゃん。
 本番中まっさかりなイベントから、抜き出されて、引き合わされたこの二人。
 爛は、『自分もまだ心細いの、怖いの』みたいな、抑えた囁き声で。
「この彼氏が、助けに来てくれたの」
 ……と、おれを横に、言った。
「カレシ、やくざ業界の人と、親戚で……そういうコネ使えるから……」
 もう大丈夫。ほかの女の子には悪いけど、今から逃げよう。
 そう、二人の手を、交互に握りしめ、なぐさめながら――言ったものだ。
 黒ビルの外に出て、タクシーを待つ間も、
「あのね、部屋に監視カメラあって、されてるトコ、撮影も、されてたみたい……」
 爛の事情説明は続いた。
「連絡先、教えて。いざというときは、守ってあげる」
 うん、ウソばっかのな。
「ワンボックスのなかで…………話しかけてきてくれたから……」
 まだおびえてる、学校ではちょっと友達少ない、孤独めで心優しい女の子の。
 ぽつぽつと頼りなげな、可哀想なほど幼くて甘い声をもちいて。
 爛が演技しきるのを。
 水たまりかきわけて呼んだタクシーがすべりこんでくるのを見ながら、耳にしていた。
 ――そうやって騙して。
 なんでわざわざこの子達を、駅前まで送ってきたのか。
 さらにはこの周囲に待たせひそませているグループの奴、に、今から尾行させる手はずまで調えて、『確実な自宅住所』まで押さえようとしてんのかと言えば。
 そりゃ証拠VTR出演女優だから。
 相手グループがさっきの約束を守らなかった場合、VTRはまた日の目を見る。
 その社会的制裁威力を高める、切り札の一環にするのだ。
 タクシーから降りてゆく、なんとかシャッフル前に助け出された――抜き出された二人は。
 しおしおと、塩をかけられたナメクジみたいになってはいるが。
 で、歩き方オカシイが。
 病的なうつろと言うよりは、単純に、悲しみとショックにあるように見える。
 そして恐怖で塗りつぶされて、怒りは浮き上がっていない感じ。
 ……まだまだこれは、『人間』って感じがする。
 被害が少ない方だろう。
 介入したのは爛たち『敵対グループ』であり、警察じゃあないので。
 イベント自体は、今もあのビルで続行中なのだ。さすがにそろそろ終わる頃だろうが。
 ……シャッフルも受けた残りの女達は、いまごろ、どうなってるんだか。
 男の身での、とぼしい想像だが、もっと『人形』っぽくなっていると思う。
 道場時代、何件かあった、リンチ行為を思い出す。
 圧倒的で単なる『暴力』を浴びるほど受けた人っていうのは、屈強な男であれ、幼い女であれ、同じ反応になると思う、のだ。
 ――ある組織に強姦されたってのに、ある組織からうわのせでダマされた。
 実は本日、ある意味、特に複雑に、踏んだり蹴ったりなこの二人。
 まぁ……だましはしてるが、害は与えない。
 万が一、あっちが約束やぶって、またこのシャバで同様な商売を始めない限り、この保険VTRは使用されることはない。
 尾行で本物かどうかまでも確認する、この二人の住所も、使うこともない。
 だからどうか。
 ……許して、とは、言えないが。
 さすがに罪悪感や寂寥を抱きながら、下車した雨にぬれたアスファルト。去っていくタクシーを眺めた、次に。
 改札方面へとふらついていく、二人を見送る。
 ありがとう。
 バイバイ。
 そう小さく最後に言い残し、駅前の明かりへと、かすんでゆく。
 どんどんその低い姿は、消えていく。
 ……元青線地帯な、熱帯魚道楽マスターの店を思い出した。
 夜の闇が、海。
 ネオンが、イソギンチャクの触手。
 ひらひら。と、ひらひらと。
 ふたまたに長くたなびく、ハナダイの尾のような、少女の桃紫なスカート。
 放されて、泳いでいく。
 まだ都会の中で個を張るには、稚魚だったと知りながら。
 その胸の中、おれたちのことは、正義の味方なモノに、見えているのかもしれない。
 ……今日のこと、もう少し大人になってから思い出せば、片鱗くらいはわかるだろう。
 単にギャング抗争のどたばたに巻きこまれ。
 脅しとして持っておく証拠の、生きた材料として、一方に保護された。
 利用された。
 けれども、それで結果的に、輪姦だけはまぬがれたのだと。
 自分達をここまで乗せてきたタクシーは、広大街のいずこへか、滞りなく去っていく。
 じゃーじゃー。
 その後を追跡するように、車道を流れてゆく、車。
 タイヤが、たまにある水たまりを、かきわけてゆく断続的な水音。
 淡い曲。
 駅前、だからアジトにもほど近い、巨大都市のどまんなか表通り。
 少し遠くの眼前に、ビルの広告塔ビジョン。
 そこから広がる、ひときわ強烈な照明で、まやかしのよう昼間じみて周囲は明るい。
 行きかう人々。
 この街の名のもと水面下で乱発している、悪質犯罪も知らぬげに、誰もどこかへと急ぎ歩く。
 視線を、後方へ。
 スライドさせて、下げた。
 シャッターのおりたビル玄関前。せまい前庭のような白コンクリート。
 そっくりそのまま、帰る場所がないと感傷している、思春期の少女みたく。
 ストン、と、スカートを気にせず、力なく座りこんでいる、爛。
 傘をさす必要がないほど、消えかけの霧雨。身を守るためではないだろう。糸の切れた人形を連想する。
 真横へ行き、おんなじ様に、しゃがみこむ。
 ――緊張が去って、興奮も去って。
 虚脱した、夜光に照らされた、白い貌。
 ゆいいつ本物な前髪に、指をさしいれる。
 そのまま、とかし滑らし、右腕全体で。セミロングな後頭部をつつむように抱き寄せた。
「…………」
 深く紅い、偽の髪。指側面へ冷たい。
 左腕を、爛の腰にまわして。
 ちょうどすんなりくる太さ、大きさのそれを。
 胸部へと引き寄せた。
 赤、白、青、黄、真紅が織りなす、チェック柄のスカート。
 正統派プリーツなミニスカートからのぞく太ももが、光に白くテカり、曲線を主張している。
 すんなり両腕に入ってきたくせに、その気なし、うつむいたままの爛の顔。
 すぅっと通った高貴な鼻梁を、指先でたどる。
 ごそ。
 スカートの中に、手をもぐりこませ。局部に指の腹を這わせる――。
「……なに」
 ぽそ。
 乾いた声で、手を止めた。
 少年らしく、服装にそぐわないほど、ハスキーに戻ってるその声。
 ――唐突に。
 都会だ、ここは、と思った。
 生まれ育った場所から、電車で一時間もかからないのに。
 そしてここのものだ、爛は。
 ここを凝縮して、砕いて切片にして、それを人型にねりあげて作ったような人間。
 黒ずんだネオン看板。
 今日会ったばかりの人間へばらまく安い笑顔。
 雨に濡れたビルの壁面。
 華やかで、色褪せて。賑やかで、淋しい。乾いていて、しめっている。
 相反と矛盾をこぼれるほど抱えた、あやうい虚像から紙一重の、それでも実存して走りぬけて歴史を作るもの。
 緩慢な。
 だけどムダのない動きで、爛は膝で歩き。右脚をあげ、またがってきて。
 あごの下から、のぞきこんでくる。
 ……水をふんだんに含んだ空気は、街の火をぼんやりと、この視界に拡散させている。
 その中央で。
 頬位置で、淡く光沢を放つ肌を、まず知る。
 その顔。
 ぼんやりと瞳孔が拡大した、焦点があやふやで、真っ黒な瞳。
「スカートに、欲情、した?」
 タカイ。サミシイ。
 かすれた、囁き。
 わざとまちがおうとしても、誘われていると、思えない。
 なんとも乾燥しきった声で。
 砂埃のような、ビル空調の排気のような、街を舐め渡っていくだけの、すれちがうだけの響きで。
 あやつられたように無意識に。
 指を、丸顔のそこへ頬あてた。
 ……ああ、この瞳も、声と同じに謳ってる。
 ――革が連れて行ったのか。
 雨の匂いをつぶやき続けた、あの時もそうだった。
 上の空で、どこかに心を奪われきっていて、捨てられる事実にぼうぜんと、泣くどころか傷つくこともロクにできていない。
 背中の裏が透けて目に映ってくるような、たよりなさ。
 ……腐臭を放つ、ただれた肉のように。
 隠せぬほど赤い存在感を、本来はいつも、傍若無人なほど放っているくせに。
「…………」
 再び右手を、スカートに潜りこませ。
 指先を、おもむろに丸めた。
 薄い女物のショーツの中央部。さすがにはみだし気味。
 ソレを、遠慮なしに握りこむ。
「……っ!」
 さすがに予想外をつけたのか、爛が、すぐそこの眼前、思いきり眉をひそめた。
 こうやって。
 急所を掴まれかねない距離を、自然に与えてくれるのは、おれだから、なのか。
 ――その周辺情報のひとつ、革の友人、で。
 既に爛の頭のなか、おれのスペースは、全部飽和してんのか。
 そのまま、脚側にすべらすと、つややかな素肌の手ざわり。
 薄い肉だからはっきりと手指にわかる、一本の軟骨の筋。
 それを手のつけねで、力いっぱい押してみても。はっきりと、その力を全て跳ね返してきた。
 健康を、頑強を、主張する体。
 ここからも、少年の力強さが通知されてくる。
 手皮での観察のように、さぐっていると。
 自分の目の近く。
 唇からチラリとのぞいた、なめらかに濡れた舌先。
 ピンクとも紅ともつかない微妙な人体色彩が、旨そうだと、食欲すら喚起する。
 呼び水のように、たらり、舌を外出した。
 爛のえりあしに左掌を広くあて、上半身をより乗り出させ、距離を縮めさせる。
 一拍、二拍。
 同質に濡れた、軟体の。食感。
 ――ノッた。
 閃光のように了承しながら、もっと根までも、舌をさしだす。
 スカートの中では、せわしなく膨らみを攻撃する。生理反応なだけなんだろうが、集まってくる熱。
 ぐい。
 爛の両手が、両耳下のあごの線に、当てられてきて。顔があおむけで固定される。
 自然、さらに大きく開いた口に、我が物顔でとびこんでくる、ぬめった舌。
 どちらが誘ったかわからなくなるような、相手からの積極性。
 ――ヤケになってるな。
 そう見透かしながらも、自分も、左手を爛のひたいへ持っていった。
 前髪をかきわけ入り、頭皮をさらっていくように、撫で。
 頭頂部に掌を強くあて、にじるように、まだついているウィッグの毛を、てっぺんからぐちゃぐちゃに乱す。
 淫蕩に乱れる赤い髪。
 耳を支配するのは、さしこみあっているベロの、ねちゃぐちゅ汚し合うような不道徳メロディ。
 カクカク。
 スカートを揺らしだす、小刻み運動。発情期に熱を散らし始めた。
 土台のない爛の腰に、添えて支えるように変えたこっちの右腕も、つられてブレる。
 濃厚になってきたキスシーン、セミセックスの域に達してきたソレにも。
 雑踏は、目撃しているけれど、不干渉。
 水膜で守られているかのよう。
 破られない。
 ここは、見事なまでに、街だから。

 ◆

 アジト一階、爛のこもり場。
 三階の住居部分を通ってからでなければ来れない。
 ある意味、一番メンバーの邪魔を気にせずにすむ、コンクリートの牢獄。
 いざ、深夜にではなく、セックスをしようとすれば。
 確かに、閉じることのできない道に面した高窓から、うしろめたいほど外界を感じる部屋。
 けれど、そんな都市の経済活動によるささやかなさざめきも。
 好きな相手が女装して男にすりよってんの見守って、赤の他人の群れた強姦シーン見せられて、処女じゃなくなった少女二人さらに食い物にして。
 猛りきったこんな夜の、血液の前においては。
 燃え上がれエッセンスにしかなんねぇ。
 性別倒錯的な赤いチェックのミニスカートからはえた、肉感的な曲線美をもった脚。
 頬ずりするように、足元に顔を近づけ。
 黒いソックスを片方ずつ、念入りってくらいにスローに脱がして。自分の左目側、つま先にチゥ、と唇をつけた。
 そのまま離さず、乾いた口皮でかすりながら、足首、すね、膝頭、内股、順追ってたどり上がっていく。
 愛好するように。
 おれがさせたわけじゃないが、やっぱり倒錯変態的、と感慨しながらひらひら赤リボンをとき、ベストをおろし。
 セーラー襟の白い半袖シャツを、開いてとり。
 アンダーを、首とおして、脱がせ。
 ゲル乳じこみのクリーム色ブラジャーをはずして。
 なんとなく、最後にとっておくようになってしまった、チェスもようなショーツと、ミニスカートを、最後にはぎ。
 ……そこで、こっちも上半身ハダカになって、壁に背をもたらせきり、脚のばして座った。
 膝上へ、爛の二の腕をつかみ引いて、導き、またがらせた。
 記憶が重なる。
 さっき路上で、公然わいせつ物陳列罪まがいのシーンかました、同じ体位。
 飼い犬か猫のように見上げてくる、爛のととのった顔立ち。
 膝頭の上にのっかってくる、臀部のやや柔らかな肉の感触。
 シンプルに果報もの。
 一拍おいて。うつむいた爛は、さかさかと作業っぽく、手もとを次々に移動させている。みずからの喉元や手首や指へ。
 ネックレス、時計、指輪、などの女の子演出アクセサリーを、ゴールドやピンクひらめかせながら、自分ではずしている。
 そんなら、と、少々乱れた赤い頭髪に、指をさしこんで。
 パチ、パチ、手さぐりでピンをはずしてやって、少しひっぱって促すと。
 爛は、スピードつけて、首を左右する。
 長い髪がふり捨てられた。
 見えないすぼまりに、手さぐり、右ひとさし指の先を、あてがってみる。
 繊細な箇所への攻撃に、自然に丸まっていた爛の背筋が、ピンと張った。
 天をめざすような伸び上がりかた。
 応じて、少し埋まった爪先が、きゅうと締められて。つれなくはずれる。
「……ん」
 しかし爛の意志は、拒絶方向にはないようだ。
 荒っぽく、グイ。と、あご先を攫われた。
 キスのお誘い。
 ……この場合、繋がる水気。塗りこめるソレの分泌要求、と言ったほうがふさわしいか?
 ン、あフ、と。
 長く続行されるベロキス。
 判別不可能じみて交じりあってしまう、息声。
 爛をかぶさらせている体位の関係上、こっちのが、互いの口から洩れる唾液で、濡れてくるあご。
 そこを両手で広く、爛は愛撫してくる。
 ざりざり。
 夜につき、伸びかけた自分のヒゲの感触が如実で。
 しかし、爛のてのひらは子どもっぽくまだなめらかで。
 ……これ、気持ちイイんだか、微妙なんだか。
 べたべた。
 唾液を集めたその手で、勃ちあがった棒を、いじってくる。
 そんな作業を爛にせっせとくりかえされて。
 たまににゅるってしまう先走りとあいまって、だんだん真夏アイスキャンデーまがいにされていく、ムスコ。
 爛が、唐突におれの右手をとり、指を絡めにぎってきた。
 ホテルのドアボーイに金を握らせるようなしぐさで、こっちの右指にも、二人ぶんの唾液を移してきた。
 そんで、まだ不自由に口を合わせたままで、簡潔な命令。
「……埋めて」
 指南かよ。
 そう薄ら笑いを浮かべながら、さっきの箇所めがけて、もう一度、人差し指をあてた。
 協力的に腰を押しつけてくる爛のおかげで、第二関節までが穴に捕まる。
 ……だから、中指を、そのひとさし指へ追わせながら、呟いた。
「熱い、もんだな」
 体内、ということを生々しくつきつけてくる。
 口腔よりはっきりと熱い熱。
 前回は、そんな風に思わなかった。
 女とある程度は一緒なんだろうか。それは、盛り上がったり、濡れたり、感じたり。
「……テ」
 中指根元までが埋まると、爛が目の端を、忌々しそうに細める。
 ――使ってないもんな、最近。
 言ったら間男である、自分へのダメージこそシャレにならないから。喉まで上がってきたセリフ、腹に戻した。
 そんな気をそらした最中に。
 爛が、埋めている右手を、抜き、押しのけてきた。
 こっちの胸板に飛びこんでくるよう、全身で突進してきて。
 くわえこまれた。
 アイスキャンデー、尖端部分。
「……ン、ゥ」
 ほんの先っちょで繋がった、ソレから逃げることなく。
 背骨をそらし。
 腰を刻むようにゆさぶり。
 タイミングをはかって、膝頭を片方ズイとすすめ。
 内を、こっちへ味わわせてくるように、じょじょに呑みこんでゆく。
「……ぅ、わ」
 分身を食い締められていきながら、思わず声をあげた。
 なんだ、コレ。
 前の一回と、ぜーんぜん違うじゃねえか。
 言わば、これは歴然と『性器』だ。
 不快をさそうほどキツい、拒絶を悟るほどうごめかなかった、アレとは別物。
 ――その気、やる気で、こんなに違うモンかね。
 感服しながら、手をのばして。
 前にある、胸の茶色いポイントを。爪刺すように容赦なくいじる。
 女でも男でも、触点が集まっている場所。
「は。……」
 色っぽくのけぞってくれる、爛の咽。
 爛の体、落ち着きなく溶接部あたりを中心に、わずかな揺れが広がっていき。
 孔がより熱く、充実していく。
 ジェル状の分泌液が、察知できるほどに、肉棒にたらしてこられるのを感じる。
 ……あるんだな、やっぱ少しは、男の穴でも『濡れる』って。
 理解しながら、爛の腰、両サイドを。
 親指とひとさし指、手でもっとも長い尺で捕らえ。
 ウン、と、尻を床から浮かせんばかりに突き上げた。
「ッ、か……」
 責められて、こっちの期待よりけっこうハデに、ひずむ爛の表情。
 苦悶。
 そして快楽も、否定しない顔。
 丹念に、根まで埋めているのが、いいのかも、しれない。
 ……胎内を、反応を、かわしあってまじえていける。
 ヤケでもなんでもかまわねぇか、そう思わせるほどの。
 前回と比べりゃ『きちんとセックス』。
 ぐっと爛の右手が、床にあったそれが持ち上がって、こっちの左肩にかかってきた。
 イッキに波昇らせようとする律動、それに対する抗議のように、力まかせで握られる。つぶれるに類する痛みを与えてくるそれが、離れていかない。
 たぶん、指の形がついてるだろう。
 爛の爪は、人をブン殴る時、割れたり剥がれたりしないよう、常に短く切りそろえられてるから、横を見ずとも血が出る気配はないとわかる。
 ……にひゃ、と、思わず、いやらしげな笑みが浮かんだ。
 ――な、ちょっとは余裕なしで。
 ――このセックス、愉しいか?
 口のはじがパカッと開いて、しめった息が、爛に吹きかかっていったのがわかった。
 唾液臭が漂うような、獣くさい息。
 ……その息に喚起され、うっすらと瞳を開いた爛。
 こっちの笑みを、見咎めたらしい。
 むっ、とばかりに、刹那、さっと上がる眉尻。
 それに答えるみたく、くくっ、と、腹部ふるわして笑ってしまった。
 本当、プラスチック相手みたいだったこの間より、よっぽどマシだ。
 まだ左肩で、行動を抑えようとしてきている爛の右手。
 無視して、あえてまるで定期的にせず、予測できない個人リズムで続けて数度、突き上げていく。
「ぅ、は、あ……ッ!」
 うん、声もいいよな。
 ふたたび、口から生ぬるい息を吐き出しつつ、笑いかけたら。
 ぐ。
 左肩、意図的に、爪を立てられた。
 ここまでされると、視認せずともわかる、浅く皮膚を破ってる。
 ほぼ同時。
 宇宙遊泳に逃げぎみだった爛の腰が。
 床方向へ、吸いつくよう、戻ってくる。
 ……手先に力をこめ、膝を、自分の意志で床に密着させだした爛によって。むしろ、こっちの体へ押しつけられてくる。
 グじ。
 結合部の肉輪から、淫猥な粘質音。
 ……これ、まさに爛の『ヤバイほどの負けん気』の発露だろう。
 同じ深度に突っこまれてても――やらない時はやらね、やる時はやる。
 根性モノな意志の強さのあらわれなのは、この間の人形ぶりだって同じなのだ。
 同じ根っこから、謝絶、攻略、対極の態度が生み出されてる。
 そんな風に、分析じみて。
 まだ余裕残しー、なつもりで見守っていると。
 爛が、フワ、フワ、床から片手ずつ、手のひらをはなしていった。こっちの視界外に、その手先が、消えていく。
 ……自分のやや背後、ちらちらと、かえりみて確認すると。
 壁にパー状態でつかれている、それぞれの手。
 左手が上、右手が下位置だった。
「ぅ……っ」
「――?」
 怪訝に思い観察する間もほとんどなく、爛が、背筋を思いっきりしならせて。
 血肉が咬みあってる筒を、物理的に、搾ってきた。
「ぅ、わ」
 思わず、うろたえを口走りながら。
 本性だしてきた、いよいよかぶった猫捨ててきたな。
 とか、思ったり。
 首筋にささいに光る、汗粒の綺麗さに、目を奪われていられたのは。
 一瞬のゆとりだった。
「――っ!」
 上塗りされてきた感情は『驚愕』。
 爛の体、尾てい骨うえの筋肉が。
 びくり、びくり、奇怪なほど。はっきりと波打って動いている。
 ……そんな部位の筋肉、脈打つように動くようなもんだと思っていなかった。
 だけど確かだ。
 ぐっちり呑まれている己の欲な縦軸から。
 地上に揚がった魚のように、躍動しているのが伝わってくる。
 ……自分から身を、それこそ啜り上げてくるように、くねらせはじめた爛。
 なすすべなく、くいいるように、振れる苺色の前髪を見つめつづける。
 内壁に散った先走りを、再び竿へ、まぶしてくるような腰の回転。
 ヒダをえぐり分けさせるストロークは、さだまらない角度。
 強く引き攣れる包皮にすら、微細にシンクロして、噛みつくよう絡んでくる。
「…………」
 波間にほうりだされた小船じみた心細さに、床の上、指先が勝手に丸まっていた。
 はじめての体験。
 食い尽くされる、搾り尽くされる――生命根本からの捕食への畏れ。
 ただ直下に落とすように。
 そして、わななきながら引き上げるように。
 次いで蕩かせるようにグラインド。
 こんどは筋肉に依存した、鋭いほどの、先端だけへの吸引。
 ――爛の尻膣の内部に、目が貼られているような、灼熱色の生々しい幻覚に襲われ、ゾッとする。
 もうわけがわからない。
 肉輪がギュウとすぼまり、吸着するように全面から、押し寄せてきて。
 最奥が不思議に和らぎ。
 白濁液を、両腕を広げて抱きしめたいよう、うながしてくる。
「ぅ、――!」
 解放。
 もたせようもない。
 早いとしか言えないほどあっけない。
 こらえる、という感覚を忘れるほど、しがみつくでっぱりが、存在しなかった。
 ざばっとつるっと。
 極彩色の射精感に、流されきった。
「――………………」
 視界のハジへと崩れ落ちていく爛、が見えたが。腕をのばしようもない。
 はぁ、は、と、自分の呼気音が、胸に響く。
 腹がヌルついてるから、爛もイケはしたらしい。それくらいは分かるが。
 魂ぬかれた状態、がおとずれる。
 ごく、と、喉笛が、みっともなく鳴る。
 いやらしくでも、はしたなくでもない。
 こわい。引いてる。それを隠せないあからさまさで、ツバを嚥下してしまった。
「……ら」
 茫然と、両掌で、自分の目まわりをおおった。
 脳の混乱をそのまま反映した。
 昏迷して、濁った声、が出る。
「……爛……?」
 こんな魔物みたいな躯を持っていて、よく……。
 ……よく、この間は、マグロになれていたもんだ。
 本当に根性で、自分で動かず、を徹していたわけだ。
 これに比べりゃ、出血させたくらい動きづらかったこともあいまって、ヘッタクッソに体内擦ってるだけで、我慢できなかっただろうに。
 ……これは、ヒドイ。
『女役』だの『専用便器』だの、そんな言い方してやるなよ。
 そう、常識人ヅラで思っていた自分が、今はどっかに行方知れずだ。
 ああ、確かに王様の女役で、高い便器だった。
 今のはセックスだったんだろうか。
 狭くてキツくて、根元がぴったりと閉じきられていて、形状はたしかに尻穴で。
 なのに性器全体へ、針一点一点に緻密に見守られてるかのごとく、からみついて、ほどいて、噛みついて。
 経験上の女膣の味、鼻で笑うような躯だった。
 細身でしなやかに鍛え上げた筋肉の、絶妙な駆使とあいまって。
 もはや。
 いにしえの中国皇帝が飼っていた、人とは名ばかりである淫獣のような。
 ――どんだけ仕込んだんだよ、革。
 うすら寒い上に、下世話な思考が浮かぶ。
 情事後のこころよい汗が。
 冷や汗にすり替わっていったせいで、現実的に、肌寒さを感じながら。口元を手先でおおう。
 ……ええと。
 あったかみレスのコンクリート肌な部屋の中だから。
 視界からフレームアウトしていったまんまの相手は、体温の発生源として。
 まだ、身の末端あたりがかすったりもしかねない位置だと、感じ取れている。
 視線をめぐらせて、その相手を確認しながら。
 さっきも口走った気がするが、再度、名前を。呼びかけを、口にしてみる。
「らん……?」
 ――見つけた先には、転がっている躯。
 カックリ折れた首。側頭部が堕ちきってるせいで、ねじり入った百五度。痛くねぇかそれ。
 だらーんと投げだされた床密着の両腕。それも、砂とかが汗に貼りついて、不快じゃねぇか?
 ……一発しか、ヤッてねぇのに。
 なんだ、その、終わりきったアリサマは。
 こっちがぐったりしてんのは、爛の『女役』としての真価を、思い知らされたせいだ。
 うわ引く、シャレになんねぇ、本気で王様用の極上献上品だった、そう脳内でぐるってるから。
 でも、爛は。
 言いたかないが、革は、……負けてはいないつもりだが性器もゴリッパだし、なにより絶倫だし。
 食われた女の態度からして、『侵食』のような、支配的なセックスをするタイプ……なはずだ。
 ラスト近辺はされるがままに大人しかった、今回のおれが原因で。
 爛がこんなふうになっているわけもない。
 ――つまりは。
 コレは、神経的疲労。
 爛はいよいよ、最後の一滴まで、気力を使い果たしたらしい。
 沈んでゆく、に似たスロースピードで。
 ついに顔面までを、笑えるほどべっちゃり、うす汚れた床にくっつけた。
 さっきまでこの身に、極上をめくるめくように魅せてきた同一体とは思えないほど。
 思いっ切りよく、世捨てに、だらしなく。
 ……だいじょうぶかよオイ。
 かかえるよう、横抱きに、支え起こす。
 それでもまだ無反応。
 小気味いい、すんなりした鼻梁に、丸く押しつぶれたかたちで砂埃がついている。
 ……わらえるはずの光景がわらえねぇ。
 パッ、パッと、指先で払い、その丸を消してやる。
 そのまま右手を移動し、曲げた指先で、くすぐるように、爛の耳うしろを触ってみた。
 死んでないですかーって、救命隊、体温たしかめようとするのに、すこし近い感覚。
 今日はピアスをつけていない耳。
 穴だらけでも柔らかい耳たぶ。
 そこには、さっきまでしてた運動のなごり、爽やかじみた汗が、ちゃんと溜まっているのに。
 ……ピクとも身じろぎしないまま。
 いきなり、爛の唇からだけ。
 妙にクリアな発音が、洩れ、
「最低かも。おれ」
 鼓膜を打ち据えた。
 ――熱が去れば。
 冷静にもなる。なっちまう。
 興奮とか、やけっぱちとか、過ぎされば――ああ、やめとけばよかったって、自己嫌悪になられても、
「…………」
 しょーが……ない。
 味わう苦さ、押しこめて。
 苦々しいセリフ、吐いた相手を、気づかってのぞきこめば、
「〜っ」
 さっきまで性交――後悔のみなもと――してた相手に、『後悔してます』と聞かせてしまった事が、まがりなりにも後ろめたいのか。
 こっちが顔をのぞきこんでいるのに、不自然に目をそらす爛。
 ……こういう時こそ傍若無人、発揮したらどうだよ。
 浮気なんて。
 本命ダレかなんて、わかりきってるよ。
 ただ穏やかに、爛の前髪だけの毛に、指をとおした。
 もう偽の髪はない。純粋本物百%、あざやかな色彩だけはちょっと、ズルしてます。
「……風?」
 さらさら。
 ほとんど往復する間もなく、零れてゆくのが、少しさびしい。
「……髪、気持ちいい」
 水分をあまり吸っていない紅髪。
 水っぽい汗をはじいてる、痛みのないケラチン質が、静かに、指を滑らせる。
 気持ちいい躯。
 とりあえず、今は、
「今は…………そんで、十分、だから」

 ◆

 ――霧雨が、街の早朝の喧騒を押さえつけ、落ち着かせていた。
 ささやかな庭木をけぶらせてる、白ミストを見つめながら、ぼんやり腰かけたベッドの上、そう聞こえてくる外の世界を判断した。
 再び、自分の左がわに、目を落とす。
 ぬけがらのベッドシーツが映るだけだ。
 傍らに丸くなって眠っていたのに。
 寝癖立ち放題な、もっさりと重い黒髪を手に握りしめ、頭皮をごりごりと、指で揉みかく。
 まあ……なぁ。
 快楽で慰めてやるつもりが、逆にこっちが頂上見させられた、役タタな『当て馬』への態度としては。
 冷えたベッドのかたわらひとつ、文句も言えないわけだけれど。
 ハァー、と、ふっかい底から、ため息を絞りだしながら、立ち上がる。
 起き上がったせいでシーツから空気にさらされた、マッパな素肌。
 この裸体がさびしい、というやつだ。
 初回のように、一緒にバスも使ったし。
 初回とは違って、一緒に眠りについたし。
 ……けど、ちっさな恋人気分も、そこまでか。
 目がさめた時が完全な情事の終わり。
 未練を断ち切りながら、衣類をてきとうに身につける。ジーンズ、黒地にくすんだカラーでロゴイラストが散ったTシャツ。かわりばえのしねぇ。
 ――現実、こんなもんだよな。
 そういや、革が手ぇ出したあとの女には、友人一同、誰も惚れたりしなかったっけ。
 できたハードル、女のなかに築かれたソレが、きっと高すぎるから、と。
 おののいて尻ごみして、誰もが遠巻きになった。
 ……いやいや、あなどれねぇって。
 噛みしめながら、ドアノブを握る。
 子どものカンは当てになるもんだなー。

 来訪を隠す気はない。
 むしろ、注意を喚起させるように、カンカンカンと階段を高く音鳴らし、材質を叩きくだっていった。
 ほとんどおりきった位置で、顔を上げ、指定席を見やれば。
 爛はこっちに注意を払ってはいなかった。ジーンズの膝をかかえ。没頭のごとき停滞をおこなっている、読めない瞳。
 子どもに捨てられた、ゴミ集積所の、テディベアを連想する。
 長い間、手元で愛されたために、古ぼけている。
 今は、忘れられて。
 二つに裂けた腹からは白いわたがはみ出てて。
 ……顔表情は、幸せだった頃と、一見なんの変わりもなく笑ってる。
 キッカイでコワレテる。
 階段の最後の段のうえ、しばし、遠目に眺めた。
 ――どうすんだよ、革。
 嘆きに似て。
 絶望に似て、じんわりそう思った。
 嫉妬、の前に、そんな感情が噴いてくるほど、厳粛なまでな根底からの相手の崩壊ぶり。
 すくい上げようにも。
 モロモロになってて、さわれば溶けていきそうな。
 幼い頃の夏夜店、金魚すくい、水へ落ちたモナカすら、思い出す。
 ドンッ、と、最後の一段から降りきって。
 ざらついた床上、やっぱり乱暴に足すすめて、爛の、右の二の腕を握った。
 とりあえずこの牢屋から出そうと。
「……さわんな」
 ぶるぶる。
 染めたての深赤い髪が、左右に、嫌がる。
「なんか、どうすりゃいいんだろ、とか思いながら。…………にかいも」
 茶色がかった黒目、目尻でにじんでいる涙。
 どうしてそう、たやすいんだよ、『革に捨てられる捨てられねー』がらみでは。
「ヤッた方がいいのかな、とか」
 どうもあんまり内容を吟味しないで、ぼろぼろ落下させている言葉たち。
「――――」
 今のはあまりに、厳しく、苦くて。
 表情に出た。
 まぶたをおろし……数秒かかり、やっと、また開く。
 言われたこと、胸に落とす。
 たった今こぼれた爛のセリフ、理解することは。
 ほとんど自傷に、リストカットとかに、似ている。
 自分のフケ顔に『泣きそうな顔』なんて、似合わないってのに。
 ……生来の存在感すら揺らがせる、不安に悲しみに、前後不覚に溺れているからって。
 配慮なしにほころび出してくれる。
 要は『革』の意向かもしれないから。
 だから寝てみたんだって。
 ……うん、じゃあ二回とも。
 最初も今回も、そうだったんだなァ。
 出血しても逃げなかったのは、ヤケにのって身を任せてみたのは。
 あんなに人形だった、あんなにスゴかった、それだけセックスが違っても。
 とりあえず粘膜で繋がることにしてみた――根拠は。
 単純にそこだっけで。
 そういう想像もつかないような『献身』の『忠誠』のあらわれかたもあるんだ、なー。
 ――殺したがっているような速度で。
 両腕をつきだし。
 容赦なく、胸に閉じこめた。
 その容赦なさとは、裏腹に。
 なだめるように手なずけるように。前髪だけというせまい面積、ゆっくり撫でて、みせる。
「だ、から、優しくとか」
 すんなって。という、鼻声の語尾が、嗚咽にさらわれてる。
 ……泣くなよ、強姦シーンさらりと流す男が、乱闘シーン慣れ慣れにこなす男が。
「自分が、ヤ、に、なっから」
 じたばた、と。
「どこの優柔不断の女だよ、て」
 まったく効果的にではなく、力無いダダッコのように、身をバタつかせる爛。喧嘩のシロウトでもあるまいに、それじゃ拘束、とけないだろ。我失ってるにもホドがある、って……。
「抱き枕、この家にねぇだろ」
 ぴた。
 脈絡ない癒しグッズな単語に。
 意図をさぐるように、爛は、止まる。
「けっこーアレ、好きなんだよ。……おとなしくしとけ」
 爛は、もごもご、と、口ごもるような声を出し。
 しばらくは身をよじるような抵抗を、見せていたが。
 ほどなく。大きな枕と、なった。
 ……小柄な体、さらにシッカリ抱き寄せながら。
 上下のまぶたを、合わせる。
 視界が黒く閉じる。
 どうすんだよ、革。
 ――おれはその気になった、けど、これ、おれで代打、埋まんのかよ。

 ◆

「マズイマズイマズイ……」
 ……なんの呪文だ。
 昼前の時間帯、そんでどこにも出動してない。
 待機とも分類できそうな、ダイニングキッチンでのまったり時間。
 けど爛はひたすら、ただ一言をぶつぶつ言いながら、ぐ〜るぐる室内を歩き回っている。
「…………」
 気づいていながらも、あえて、そしらぬふりで雑誌をめくる。
 冷静に考えさせてやろう……というのは、大人きどりすぎ、年上きどりすぎ、か?
 だけど。余裕は、持ってるふり、だけでもしとかないと。
 いかんよーな気がする。
 特に、本当はまったく無い時は。
 全然頭に入ってこない写真を眺める……なんでアウトドア用品の紹介なんか見てるんだおれは……寒い夜にシュラフが便利、一体いつこの情報を活用する気だろう。
 てくてくてくっ、と、こっちに近づいてきた爛が。
 てれん、と両腕をバンザイに伸ばしてテーブルへのせ。
 弱りきった甘え目で、訴えてきた。
「なぁー風、知らんぷりしてないでさ。昨日の晩、ちかくの救急病院に、クスリやりすぎで重体患者五人もかつぎこまれてんのよ。うちの管轄でこの事態、いったいどう思う?」
「って、おれとのことで悩んでたんじゃなかったのかよ!」
 放物線で雑誌をぶん投げながら、そう喉ふりしぼって叫んだ。

「いかん、ナメられてる、糞ナメられてる」
 とりあえず連絡事項かねてつたえました、的に。
 言うだけ言って、やっぱり柵内のクマな落ち着きのなさで、爛は、室内をぐるぐる。
 ぶつぶつ、唇からもれていくのは、今度は『マズイ』いっぺんとうではなくて。口ぎたない罵り。
 ……そうとうに煮詰まり、かつ全力集中しているようで。
 背中や側面にぶつける、恨みがましい、愛憎、肉欲、汚泥まみれた目線にも、気がついてもらえない。
 あるいは無視してるか、だ。
「…………」
 ついに力なく、テーブルにつっぷす。
 視線での抗議にも疲れたっつうの。
 あまりのないがしろぶりに、心がシクシク、女々しく泣いている。
 留守を預かるサブリーダーとしては、どんだけ切実であろうとも、恋愛いざこざにだけはかまっていられません、ってか。
 スゲェよ、まさに男だよ、おまえは。
「……。……で、事情は?」
 いつまでもダラダラいじけててもしょーがねぇ。
 腹、決めて、しゃっきりとイスに座りなおした。
 ものわかりがいいよな、おれも。
 なんの抵抗もなく爛がよってきて、こっちの目の前に立ちっぱなし、両手をそれぞれにこぶし握ってしゃべりだす。
「あのね、五人ってとこからもわかると思うんだけどね!」
 いきごんでるいきごんでる。
 妥協してやる気だしてやってるだけで、自主性ではないのだが、この積極な聞き姿勢。
「数名でマンション一室にツドって、MDMAパーティかましてたわけなんですけども〜」
 ああ素晴らしき、都市社会スタイルなパーティ。
 ケーキと紅茶でオールドファッションにごまかしとけよ。そんなお茶会、おれもごめんではあるが。
「エクスタシーですから錠剤タイプなんで、錠剤型麻薬プロファイリングの情報が、残ってたクスリからとれたらしーのよ」
 すらすら並べてくれる爛に、
「じょうざい……型? 麻薬プロフぁイリング?」
 オウム返しに尋ねかえすと、
「成分分析で産地とか加工地とか割り出す、麻薬の指紋!」
 と、一喝のように、吠えられた。
『もー、そのへんの基礎知識はいっぺんしか教えないよ、今おぼえなかったら置いていくぜっ?』な速度。
 ……うん。
 ……知らなきゃ恥ずかしいような、怒られなきゃいかんような、一般用語か、それ?
 しっかり厳しい上司、していらっしゃる。
「その情報からみて、今回のクスリ、どう考えてもこないだこのあたりで、ごっそり行方不明になったヤツなの!」
 運び人とかはうちのなわばり近辺でもって、とっくに逮捕されたんだけど、ブツそのものがね、ほぼまとめて行方不明だったんだー。
 ……と、明朗にぽんぽん、飛び出させているが。
「日本で盗難された車が、輸出されていく代金、としてね。北朝鮮国内からペイされた麻薬粒たち〜、なんだけども」
「ちょっとまて。……もういい」
 ひたいに右手あてて眩暈をおさえ、左手でなんとか爛を制す。
 すっげーリアリティがありまくる。
 つうか……もぅ……現実すぎ。
 ――なんか本格的に、裏世界の住人になりつつありますか、おれ?
 かすむほど遠くの景色、見てるような目へと、現実逃避してたら、
「……っああもう、行動あるのみだろ、こーなったらァ!」
 ちぎり切るようながなり声、爛が、またキレた。
 元気のよいことで。
「五人がクスリ買うとき呼び出した、売人の、ケー番は割れてますぅ!」
 絶叫して、あいてるイスの背もたれにかかっていた、レインコートっぽい上着を右手へひったくった。
 半透明に白い、ポリ製のパーカー。赤十字なマークが背中に入っている。
 慈愛とか博愛って感じかおまえ? 着てるだけで訴えられそうだ。
「まいりますわよ!」
 ふりかえり、せかしてくるのは、燃え上がった猫科の瞳。
 なんでお嬢様だ。なんの影響だ。
 つか、やる気が満ちてんなぁ。
「んー」
 ダセイーな感じでイス座席部分を、裏太ももで押しやりながら立ち、生お返事。
 ……こっちは、内心。
『うわ。今はそんで十分、だから、いつかはおれにしとかない?……ってベタでも真剣に誘っておいたのに、完璧、ソレはいったん置いといてー、されてるぞ!』
 と、落ちこみきっているのに。
 はた迷惑な。

 ◆

 ツッタカー、と、極小粒で密度の濃い雨を、裂いて爛が駆けてきたのは。
 駅前からは少々歩いたところ、でもじゅうぶん徒歩圏内な、メガ規模の携帯電話ショップだった。
 ミュージックフルダウンロードで覇権を握った携帯会社系列の店舗。つぎつぎに出す機種の多さも売りな会社。国際電話は、数年前から売り文句からはずした模様だが。
 そういや爛のは、この会社のだなぁ。
 入手した『売人の携帯番号』という第一情報、その番号がここで契約されたらしいという事からの、ご訪問となったわけだが。
 新機種、新規契約、契約変更、その他サービス、最新式がすぐにお引き渡し、充電もどうぞ、の張り紙がショーウィンドウにおどっている。
 それらを眺めるようにたたずんで、爛は、ひとまずは首を傾け、思案している。
「どーしよーかな……ここには、コネらしきコネはないな〜」
「そうなのか?」
 意外だと軽くたずねてみれば、
「裏でちょっと、ごちゃごちゃあるにはあるけど。働いてるのは、日の当たる人間だからねー」
 やはりあるにはあるらしい。それにしても、げんなりするような答え。
 ……やめろ、その日陰者を自認する言い方。
「ま、まずはお客のふりしましょうか」
 爛は、しゃき、ジーンズのポケットから、自分の赤い携帯を出している。
 新機種を物色している客を『よそおって』入店しようとしてんのは、その態度から、察することができるようになったが……。
 けどその携帯、まだまだ最新式なんだが。
 明るい照明の下、きらびやかに最新式がズラリ、陳列された店内。
 爛は、レッドとわずかなブラックのコントラストな、自分の携帯電話を片手に。
 さも比較するように、ゆっくり視線をそそぎながら、カニ歩き。
 手ブレする方がむずかしいです! 曲が入らなくなるほうがむずかしいです!
 そう、ジャイロや、大容量記録を謳った商品たち。
 大型液晶テレビに迫りたい品質、を売りにしたあたりを、爛がじぃっと視だしたときだった。
「お客さぁまーっ。何か〜っ。知りたいことございますか〜?」
 ……あれ? メイド喫茶かなんかに来てたか?
 と思うほど、カン違い入ってる甘ったるい声。
 ふりかえると、元の目の大きさがわからんほどのぐるーりアイメイク、やたら紅色を主張する頬、人工的ピンクなぬらぬらグロスの口、があった。
 化粧品CM顔負けの、めいっぱいメイクな、若い女店員。
 顔はまぁ、グラドル系で、かわいいとも言えそうなんだが……。
 つーか、それを言えば胸元もそうだ。鎖骨の七センチ下までの肌見せ。谷間はもちろんムリッとあらわれ、乳首まではぎりぎりでイカズ。
『友人二人連れ、携帯欲しい片方につきあってる』な役として、無言で立っていると。
 ペラペラ爛が、対応しだす。
「曲ができるだけ入るやつがいいんですけどー。最近ので搭載HDD、一番デカイとか、どれですか? 高くてもいいから、そういうのがいっかな」
 ……どうしてそうすんなり『新しい携帯ほしい客』の役どころにハマれるよ。
 都会なんて何も、なんにも信用できねー。
「フラッシュメモリ重視タイプだとアクセス速いでしょ、それだともっとイイけど、赤系の在庫あります?」
 立て板に水のごとき爛のしゃべりに。
『私はかわいい』という自信の見える、誇示するような速度でもって、女店員は小首をかしげ、
「フラッシュメモリぃですかぁ?……そんなのないです〜よォ?」
 そこまで。
 会話が済んだ時点、爛は。
 顔をこっち側にそらして。
 一瞬だけ、表情を塗り替えた、息抜きみたく。
「…………」
 ゾッとして。
 後じさりこそしなかったが、カカトに重心が行ってしまった。
 物凄く冷たい目、してた。今、見えた。
 ……うわー何がそんな気にさわったんだよ! と、内心ちいさなパニックに襲われていると。
 再び、やたらな笑顔を纏って、爛は、女店員の方に顔向けた。
 今度はつりあがったような唇の形、そこを重視で造りあげた、顔表情。
 ……そんな、三日月唇に印象が取られて。
 細められた眼はめだっていないが。実は、そっちは、笑っていない。
 爛の本性を知っている人間になら、むちゃくちゃわかりやすい手抜き愛想笑いだ。生粋のニセモノ。
「新規でもう一台、持とうと思って。今日ね、あんまり、いい身分証明書ないんですけど」
 その笑みをもってして、爛がなにやら、具体的なことを言い出した。
「友達が、ここはあんま一般的じゃない証明書でも、早く手続きしてくれるよ、って、紹介してくれたんですよね」
「え、身分証明書ぉは、運転免許書かパスポートでしょう? それ以外はあんまり、わたし〜」
 店員は、口に手先をもっていきながら。
『メンドクサイわがまま言って困らせないで?』的、雰囲気。
 そんな男の子はキライよ? みたいな。
 ……合コンかよ。
 爛は、天井をチラッと仰いで。
 それはなげくような仕草で。
「……話が」
 ボソッと、不可解に一つ、呟いた。
 かと思ったら、さらに、ぺかーっ!
 超満面の笑顔になった。こうなれば眼が笑ってるも笑ってないもない。まつげしか見えねぇんだから。
 ……スイッチだ。これ、たとえば手下メンバーをブン殴ると決めた時とかに目にした、腹に据えかねた場合のふりきりキレた笑顔、だぞ。
 察知して少しおびえていると、
「けどさ〜、その黒髪、似合っててほんっと、カワイーよねぇ」
 ……なんだ、この話題転換の唐突さ。
 しかし不自然に誉められた店員は、まんざらでもなさそうに、ハキハキご返答。
「東洋系シャンプーでこだわってるんですっ」
 聞いちゃいないよ? エピソードを語り始めた。
「髪パックも、ラッシュのー。食べ物ばっかから作ってる、ナチュラルなの使ってるんですよぉッ。つやが出るんで、お気になんですっ」
 髪の末端をつまみ、見せつけるようにいじりながら。
 携帯電話の知識より、語らせればよっぽど長そう。たっぷりの自己愛にからめ、何時間でも耐久レースで聞かされそうだ。
「おれ今、彼女いるからくどけないんだけどー。も、ほんっと、もったいない」
 あいづち打つ爛は。いっぺん目を少し開いて、それから両目を閉じて『ほんっと』と部分を言う、演技ぶり。
 あー、ギャンググループのサブリーダーには、俳優力ってのは必須なのか?
「すっごく綺麗に、メイクも決まってるし。今日、仕事終わりで彼氏とデート〜? それとも、……同僚に、好きなヒトとかいたりするんだ?」
 すると、店員は、パッと笑顔を花咲かせた。
 恋愛話もちろん好物です、なにっ仕事終わりッ? みたいな嬉々っぷり。
「あは、実はね、あのひと、あの人なんですよォ!」
 跳ね回るようにして、爛の背後に、びみょうに隠れ。店の一角を指さす。
 同じように一角へ向けられた、その瞳がキラキラ。疾走中の競走馬みたいだった。
 ……どーでもよくはあるんだが。
 このあきらかな態度。気持ちは、本物であるらしい。
 こっそり指さされた男は、穏やかな知性派っぽい目をした人物。
 フレームなしのめがねをかけているが、口がタラコ気味なせいか、冷たい感じはしない。
 長身で、ウエストがぺったんこに締まった、細い、わりかし頑丈そうな体をしている。
「顔よりねっ、頭とか、気くばりとかぁ、いいんですよォ〜っ。も、狙ってる子多いの!」
 くやしい、負けないんだから! という感じに、女店員は解説する。
 ぼんやり、とした顔で。
 いつのまにやら笑顔でもなくなったそんな表情で、それを聞き終えてる爛。
 ……が、尻ポケットに利き手をつっこんで、サッと財布を取り出した。
「ちょっと彼、呼んでくれるかなぁ?」
 目にも止まらぬ早業、こそっと、女店員の爪のとんがった右手を、さらった。
 バケツリレーのように手渡される金。
 ――万札、おそらくは三枚。
 当然、女店員は、ぎょっ、と目ン玉をむく。かわいらしい女の子売りも脱ぎ捨てだ。
 けど、こっちもぎょっとしてるんだよ。なんのシンクロだ。
 ……たまにこうやって、相場なんぞ知らんー! な、突撃現金で解決しようとするな、コイツ。
「ううん? あのね、おれ、ホモでもカマでもないから」
 ごしょごしょ。
 わざとらしく手で口を隠して。爛は女店員と、内緒話トーン。
「こんな女のコに、こんな惚れられてて、うらやましいなーって。男を磨くために、そんな人とお話してみたいなって、思ったのね?」
 女店員は、さすがに不審そうなまなざしで、爛をじっと見返していた。
 だけど、まぁ、この金はもらっとこうと思ったのか。
 はたまた。付け足された「キミにお金あげたとか言いやしないから?」という爛のダメ押しに、卑怯にも惹かれたのか。
 つやつやな、肩ごえの黒髪、ひるがえして。
 恋する男のもとに、小走りに遠ざかってゆく。
 それを見送って、確認してから、
「…………」
 視線をすべらせて。
 このなりゆきを声にはせず、爛へ問うと、
「店長ならまーまず有能なんだけど、たまにハズれるからさ」
 たがえず視線を受けとめた爛が、ため息を伴いながら、ご説明。
「ああいうアタマ悪い女は、アタマいー男に惚れて、バランス取ろうとしてることありまして」
 ――話おせーよ要領えねーだよ、こっちゃ急いでんのに、も死ねっての。
 陶器じみた無血顔で、とうぜんのように悪態、スラスラ。
 ……こわい、こんな調査手法とらせる過密な都市犯罪もこわいが、おまえこそがこわいぞ。

 他の奴に接客中のナンバーワンキャバ嬢、ボーイ経由でよびつけるように。
 三万握らせて呼び出したというのに、やってくる男店員に、疑わしそうな様子は見えない。
 ……あの女、やっぱり、『三万握らせてきた怪しい客なんですけどぉ』とか報告しないで。普通に「私じゃ無理なので」って呼んだんだな。
 そりゃあ、理由もなしに三万もらう女、だとは思われたくなかろうが。
「どうも〜。いやぁちょっと、あの店員さんじゃ話になんなかったもんで」
 すっぱりな毒舌で、爛が愛想よく迎える。おいおい。
 男店員は、めがねの奥、穏やかな目のまんま、苦笑い。
 ……あの女店員の尻ぬぐいは初めてじゃない、という雰囲気。
 でもまんざら、手間かかってイヤだ百%、でもなさそうな顔だ。こりゃくっつくか?
「で、こちらの顧問アドバイザーのぉ。佐竹さん、ごぞんじですか?」
 女の好みに合わせたような。
 甘えた鼻がかった言い方、爛が述べる。
「……あっ? は、い」
 店員からの返事は、すっとんきょうな声。軽いどもり。
 わかりやすい一気な萎縮ぶり。
 ……誰だ『佐竹』?
 なんだこの裏名刺みたいな存在。
 てきめんに接客態度かわっちまったぞ、見た目がカルそげで、少年も少年な爛に対して。
 警戒して、おびえて、下手に出ている。
「今朝、あそこの」
 するり、ショーウィンドウ越しに爛が見る曇天。視線で示される方角。
「でかい救急病院に、五人、急性麻薬中毒で入院した事件がありまして」
「はぁ……」
 わからん、なんの意図で流されるこのニュースなのかわからん、という顔で、応接をこぼす店員。
「ソイツら。麻薬売人の携帯番号に『ついてた』客で、そっからそのクスリ入手したんです」
 しかし続いた爛の言葉に。サッ、と青ざめ、表情をピッキンと固める。
 この店との関連に、ピンときたのだろう。
 そりゃあそうだ、かぶったキーワードは『携帯電話』これしかない。
「090の……8235……○○○○……」
 最後までソラで読み上げ、
「こちらが最後の足跡なんですよね」
 爛は『にっこり』。
 ……ご商売ですもんね、そういう客だって来たりしますよね。
 もしかしたら、なんか疑わしいゾって、来店当初からわかってたとしても。
 そりゃ黙認スルーで契約しますよねぇ、わかります、だから許しますよぅ〜と、漂う慈愛。
『……というわけで、代わりに、ね?』な。
 ギブアンドテイク、おねだり一笑。
「ちょーっと融通して、契約書類、見していただけます?」

 清潔な白い鉄パイプの、テーブルとイスで統一された、応接テーブル。
 いくつも設置されたそんなブースのひとつ、一番奥まった箇所に陣取って。
 店員が出してきた一枚の書類。
 爛は、じろじろと無礼な視線でなめまわした、後。
 ひらり、テーブル上に、紙を落とした。
「…………」
 やたら静謐、芸術のようにすべらかに残像をのこす、指の動きで。
 身分証明書のワクに、トン、人差し指を落とす。
「精神障害者保健福祉手帳……――て」
 爛は、うつむけた顔のあごに、指二本を当てる。思慮深げな小さい横顔。
 ……言い方からして、保険証のような何かだろうか。
 運転免許書、パスポート、それに類する身分証明書。
「アレですよね、色つき塩ビ表紙で、てのひらサイズで、なかみペライ紙ちょびっとな」
「はい」
「白黒印刷で、顔写真なしの」
「……顔写真、は、別で貼付していただきますが……はい」
「偽造」
 スパッ。
 ……おまえはアレか。十九世紀のロンドンに出没していた、なんたらジャックか。
 そうてっとり早く、会話切り裂いて、核心へもっていくな。
 隣で聞いてるだけのこっちにすら心臓に悪い。
 かわいそうに柔和印象な店員は『あーうー』というような、弱りきった顔をしている。
 両脚キッチリ閉じて、正しい優等生にソファーに座っていたのに、少しガニ股に変化したぞ今。
 ビビリ君びびらしてどうすんだ、かわいそーに。
 しかし爛は、
「ココ、大きい店ですもんね。よくいるんですか、そんな証明書使って、ニセモノ名前で携帯つくっていくお客」
 と、容赦がない。
「疑わしいと思われるケースもありましたが……お客様にそのような疑惑をかけるのは、たいへんに失礼ですので」
 しどろもどろの見本。
 ぐるぐる、テレビの白黒ノイズが渦を巻いているみたいな目ぇだ。瞳孔も開いております。
 厄日っつーか……。
 爛みたいな客にあたったのが運のツキ、いっさいの抵抗は無駄、だ。
「ん〜そ、ですかぁ……」
『ここで得るべき情報は得たな、じゃあ次』
 ……という短気さを、もう立ち上がりそうな気配を。とくにスニーカーの足先あたりに漂わせながら。
 爛は、宣告した。
「ソレ証明書として使ってこの店で契約した人間全員の、書類、顔写真、コピーしていただけますかね?」
 有無を言わせない。拒否は拒否する。
 その強引さを纏って。

 ◆

 コピー用紙の束が入った書類ケース――ケースはサービスされた――を握り、ショップから出た爛は、前階段をくだってゆく。
「せーしんしょうがいしゃ、ほけん、ふくしてちょう、はね」
 ぴょん、ウサギみたく、階段の最後の一段、跳ねて。両足そろえて地へ落ちる。
 ぱちゃ。
 ささやかな水飛沫あげて迎える、コンクリート。
「写真撮ったのちに、その『役者』を。ニセ手帳とセットで、携帯ショップにパシらせれば、それでだいたいご来店してるのはご本人ってことになるからね」
 また、知ってる前提な単語で、会話してくるが。
 まぁ今回のは予想がつく。
『役者』は、要は、やとった人間なのだろう。
 纏わりつくような細雨、爛のショート丈のレインコートもどきが、水滴をはじいて生地表面に紋様を作っている。
「しっかし、顔写真もないよーなの単品が、完全な証明書でばんばん通るのなぁ……」
 意外で、首をひねった。
 中高生ならばともかく、身分証と言えば、運転免許書かパスポートが一般的だろう。
「ほら、うつ病だなんだは『偏見』が強いじゃない。就職に不利だとかー、結婚に不利だとか。だから病気証明するモンであっても、顔写真をくっつけるのをイヤがったのね、患者側がさ。で、いまだに偽造の温床と」
 ……よく、そんな、裏の派生経緯までこころえてるな。
 世間一般じゃあフツー、まだ全然ガキ、な年齢なのに。
 かぼそく長く、嘆息してしまいつつ、
「よくご存知で」
 チャチャを入れると、
「偽造しやすいってハバきかせてる証明書だし。身近に持ってるやつもいるからねん」
 にこっ、と、首めぐらして笑いかけてくる。
 華やかな、西洋わたりの花のような、豪奢な笑顔。
 後頭部を覆う、普通の使い捨てもどきな透明ビニール傘が、そぐわない程に。
「たまたまうちおかかえのハッカー君がね、シャレで取ってみた、って。うつ病三級で取得したの、持ってるよー」
 ハッカー君というのは……あれか、入札妨害の件でハッキングさせてた……ハッカー。
 ……ハッカー君ってそのまんまじゃねーか。
「表紙と朱印部分以外は、ひたすら白黒コピー用紙だし。あまりにローコストにまねっこ偽物を量産できそうで、さすがにたまげちゃったよ」
 細部にわたる説明に、ふんふんと頷いていると。
 爛は最後に、わかりきった事実のよーに、一個つけたす。
「ただ、アイツのうつ病は、まったくシャレじゃないんだけど」
 ……なんか聞き逃せないこと、言ったような気がするんだが?

 ◆

「ここまでわかったこととしては、病院にかつぎこまれたのは携帯についてた客。携帯は、顔写真もろとも『役者』でショップにて契約されている。けど正常に契約締結までいってるんで、つまりは一見、『金のめぐり』はシッカリできるようにととのっているって事。それは『名前じたいは実在の人物』で契約が成ってる……という事実」
 すらすら指折り、爛がこっちに横顔を見せながら、挙げている。
 それからなにやら、携帯電話をポケットから取り出しながら、
「アンダスタンー?」
 はい、あんだすたんあんだすたん。
 両手をホールドアップするような気持ちで、大盤振る舞いに何度もうなずいた。
 コポコポ。
 水槽に気泡が、休みなくのぼっていく音。
 現在地は。
 真昼の、元青線、熱帯魚バー。
 建物密集で元々日が当たらない上に、天気も悪い。電気をつけているけどドンヨリ店内。
 事実上、グループ専用店だとは思っていたが、鍵まで預かってるとは。
 陣地のひとつなんだなぁ、本気で。
 若い顔に似合ってねぇちょびヒゲはやした、いつも好みじゃないカクテル押しつけてくるマスターが、不在なカウンターを見やりながら、そう考えた。
 その間にも、セッセとどこかと電話していた爛が。
 ピッ。電話を切った。
「……やっぱ、ダメと」
 反応して、こっちが向けた顔に。
 答えて、肩をすくめる。
「0908235○○○○……売人の携帯電話の引き落とし先、クレジットカード名義人は、やっぱり実在の人間だったけども。そのカードは複雑な転売履歴のあるものなので、どこの誰にわたっていったかという足どり……近日中に得るのは困難すぎ、という確認が取れましたぁ〜、今」
 一体どーやってそんな確認とった。とりあえず、聞かないが。
「ま、わかってます、これでオール綺麗にカタつけられるような情報でてきたら、世の中カンタンすぎよね」
 爛はショックが微塵もない顔つきで、両目を安らかに閉じた。
 あきらめの悪いことで。見上げたもんだ。
「というわけで、残りは。『大量件処理するメガショップゆえに、身分証明書も、ニセっぽかろうがなんだろうが、ガンガン通してたあの店』で。『明らかにニセな精神障害者保健福祉手帳』で問題の0908235○○○○機とおんなじように、契約していったたくさんの客、が同属に怪しいとして。足がかりにするしかないんだけど」
「クレジットカードの名義人が実在ってわかってる以上さ、もらってきたコピー書類に書かれてるのが真っ赤なニセ住所でも、いくらでも名義人の本当の住所とか調べられるけど」
 対面に立ち、向き合ってしゃべっていたのに。
 前ぶれなく、爛はくるり、踵を返して去っていく。
「ただ、コレいちいち全件アタって調査していって、黒幕に繋がる情報探すわけに、いかないーっ。どうせまた転売されまくったヤツかもしんないし。そんな時間かけてもたもたしてると、うちの庭を荒らしてくれてた連中、一網打尽どころかしっぽもつかめないままで撤収されちゃう」
 ガツ、ガツッ、と。ダイダイがさし色になってるカーキのスニーカーが、乾いた床上、軽いながらも気の荒い靴音をたてる。
 そしてたどり着いたカウンター前。
「ね、どーしたらいいと思う?」
 スツールに座っている人物の両肩を、わしづかみにして、力づよくもみもみ。ねだるようなコミュニケーション。
 ノートパソコンにかじりついている三人目――艶のない髪をした、年若い色白男、は。
『やめぃ、こそばゆい』という感じに、身をよじっている。
 そうして上半身をこねながらも、
「売人携帯で、支払いに使用されてたカードが……」
 爛に返事している。
 ……思わず耳にやたらな意識がいってしまう、まだ慣れていない。
 なんか、最初はびっくりしたほど。
 深くて、ビブラートしてて、喉仏にひっかかる感じがセクシーさもにおわす、ムダに美声なキャラクターなのだ。
 ゆるやかで、やや丁寧なしゃべり方とあいまって。女ならドキリとするような魅力を、後ろ姿から放っている。
「ロンダリングに気ぃつかって入手したカードってことは……。他のも多分、混沌汚しまくりで綺麗……なの、できるだけ使用するようにしてる、よね」
 ビューティ声男はもちこんだノートパソコン、起動済み状態のそれを前にして。
 座ったカウンター席から、ギ、渋茶色のスツール鳴らして、爛を仰ぎ見た。
 ……悲しいことに、顔はいたって普通、むしろ『ヒゲあと青いめの男』なので。
 ふりかえられると、なんとなく、物悲しくなる。
 女なら多分なおのこと。
 そんでうつ病になったのか? と邪推がよぎった位。
 ……んな単純な理由で発病するわけもないが、とにかく。
 今日がおれとは初顔合わせな、くだんの。
 凄腕らしい『お抱えハッカー』ちなみにうつ病。
 かさり、と音を立てながら。
 手にしたコピー用紙束……ショップからもぎとってきたやつ……を、ハッカーはしばし、沈黙で流し読み。
「口座引き落としも多い、ね」
 やっぱりどっか、睦言ささやいてるような。
 カスレひっかかり声で感想。
「うかうかカード渡す馬鹿も減ってきてるってことでしょ」
 んー、と。あいづちを打ってハッカーは、ふたたび黙考に入ってしまう。
 ……そのスキへ入るように、
「カード渡す、って?」
 強く疑問で、思わず、そう尋ねてしまっていた。
 だってそんないかにもヤバイそうなこと、誰がするんだ?
「借金のカタ」
 肩こってます、みたいな首のかしげ方、して。
 爛が簡素にご回答。
「裏で流通してるクレジットカードとか、銀行口座はね、かなりの大部分でそーなの」
 もちろん違法取り立てね、脅しとられてるだけね、と、ポップに追加してゆく。
「クレジット作ってきて、貸してくれれば……返済おくれるのしばらく許してやるって。ばかばか作らせられるのね。まだブラックリストのってない『転がり』の初期だと、クレジット作れるかんねぇ、最近じゃあ二十枚や三十枚持ってても、そーんなには変じゃないし?」
「支払い、は、月々こっちからしますから……とか、脅しつつもそそのかして、んだけど」
 ハッカー君がわきから追随している。
「ま、そんなわけもなく、けっきょく限度枠いっぱいまで無断使用されて、その金にも目ん玉むかされて、自己破産」
「てっとりばやく金を取り立てたい、と、短期でもいいから足つかないように携帯を使いたい、が、融合した……。かしこいタッグ方法ではあるんだよね」
 補足説明なハッカーの弁に、爛は、うんうん。
 この飴食べる? 食べるー。みたいな。
 実に邪気などない頭の振られかた。
「クレジット限度枠使い切って、延滞で止められるまでは、ふっつーに使用できるもんね。止められたら止められたで〜、固定客には新しい番号、通知すりゃあいいんだし」
 漫才コンビかおまえらは。
 どーしてか、爛とハッカー君で、分担しているように解説がすすむ。
 まぁ……おかげさまで、自分名義のカードを手放してしまう、そうさせられてしまう、事情はよくわかった。
 そんなカードが、金で転売されたり。きっと親組織から使えと裏社会末端まで渡っていったり。
 カード社会にまったくもって効率よしで適合している。
「未来の金、借り出しでいい目みたのに、ヤッパ払うのいやーって逃げたら、かえって地獄を見るという……。抜け道ナドないという教訓に、満ちみちているね?」
「そうですね、爛サマ」
 テンポいい、二人の総まとめ。
 目線を交わしあっての。双方、チャシャ猫じみた笑顔を、試合っての。
 ……おまえらが言うな、おまえらが。
 ニュースにもなっていないような警察リーク情報とか、暴力団関係者のコネとか、今日も今日とて酷使しまくっている奴らが。
「同じように銀行口座つくらせるケースもあるわけねー。こっちは、携帯とめられたくない間は、金、自主的にふりこんでくれるけど」
 カウンターに腰かけるようによっかかり、脚を交差させて立って、軸足じゃない方をくつろがせながら。爛が蛇足説明。
 ふむふむ、と、内心いまの裏話を噛み砕いていると。
 あいかわらず芸術っぽいヴォーカルで、ハッカーが話を戻した。
「……つまりロンダリング――転売がおこなわれていないカードとか口座からなら、背景情報を近道ゲットできる可能性、が、高いわけ、だね」
「うん。でもどれが転売されまくって追跡に時間かかるようにされてっか、わかんないわけだ」
「あんま遍歴できないケースって言うと〜」
 たたたたたん、たたたーたた、たったったたたる……。
 当然のごとく。いきなり。
 軽快な効果音が聞こえてきそうな感じ、休みなくトルネードにキーの上でおどる、ハッカーの両手指。
 マウスはほとんど握らない操作方法。
 なにがなんだかわからないが、めちゃくちゃコンピューターの使い手だということを示し、次々と目まぐるしく切り替わる液晶画面。
 そうしながら、
「『職に困って金欲しい可能性が高いリスト』と照会してみるわ」
 と、のたまう。
 慣れてるのか爛は、そんな妙技にチラリとも視線を奪われることなく、
「三月横流しが最新な、アレ?」
 いたって平然と会話を続行。
「いや、アレの最新、内藤巡査部長から五月きてるのね」
「わぉ」
 ……ああ、またなんかイヤな会話がおこなわれている気配が。
 巡査部長ってタテに聞いてもナナメに聞いても警察ですよね? つまり、内部資料を流出させているわけですか、礼金で。
 またもやぐったり腰を折っていると、こうしているうちにもハッカーは仕事を進めていたらしい。
 ハッカーの手元から、たん。
 キーを一際、高鳴らしてエンターする音。
「『府中刑務所から五月出所』で、一人ビンゴ」
 打ち返すように、
「あァんっ! ロンダリングしてたヒマなしね!」
 うわ、天然ローションじゃばっと吹いたか? と思うほどトロけた一声あげて。
 爛がウキウキ、前髪をふりみだす。
 おいおい小躍りだぞ。
 ……でも、確かにそうだ、この間まで刑務所内に拘束されていたのならば。
 そいつ名義のカードが作られたのは出所後、ということになる。
 つまり『複雑に転売されて今の持ち主がわからなくされている』ヒマ、なかったという証明だ。
 ……まさか、で、服役前に作っていたカードだとしても。このタイミングで犯罪に絡んでくる以上、他人の手にわたり始めたのは最近だろうから、結果として同じ。
 爛は赤い前髪を、今度は前後にわさっと揺らし。
 ハッカーの背中へ突進、肩に手をおいてガバッとおおいかぶさり、のぞきこんでいる。
「おーおー、住所その他、ズラリね。ありがてぇ」
 舌なめずりしかねない顔つき。
 室内灯おかまいなしに薄暗い店内、液晶の輝きを顔面に受けて、さぁ攻撃すんぞ、といった雰囲気。

 ◆

 ハッカーを店に待機させたまま「今日中に発展させてくるわっ!」と爛が叫んで、出動した先。
 府中刑務所がえりのその人物のアパートは。
 古びていて、小さくて、生活感たっぷりに薄汚れていて、ごくごく小市民的なところだった。
「…………」
 電車とタクシーで二時間弱かけて、やっと到着したというのに、爛は。
 チャイムを押すこともなく。
 無言であごを下げ、玄関ドアから微妙にずれた箇所を、熱くみつめている。
 カッチ。
 ……だけではあきたらず、おもむろに、そこ――ドア横の薄い金属板――を開けて、水道メーターとか機器の集中したあたりを、真剣に観察。
 ……チャ。
 しばしのち、音を立てぬよう、慎重に閉めた。
 次いで、ごそ。両腕を袖のなかに潜らせるよう、肩をごそごそさせる。
 ばさっ!
 なぜか生着替えタイム。
 レインコートをすっぽりと脱いで、裏返した。
 再び着こめば、背中の赤い赤十字が隠れて。胸元とか手首にチラッと散っていた赤いポイントも、生地は半透明素材ながら、肉体の凹凸にまぎれることですっかり隠される。
 立てエリっぽい、作業服のようなカッチリした印象の、白系の服へと一変。
 ……一応リバーシブルで着れる仕立てにはなっていたのか?
 ぱん、ぱん。
 爛は、腹部あたりにできた皺を、払い伸ばして、
「……ま、なんとかなる、かな」
 独り言。
 ビー。
 そこでやっと、爛はチャイムを鳴らす。
 耳ざわりなブザー音。
 古き良き日本、昭和っぽくすらあるアパートにふさわしく、インターフォンもなし。玄関まで出迎えて魚眼レンズで確認、が基本。
 コンコン。
 時間を経てもまるっきり足音もせず、室内からかえってこない反応。めげずに爛は、今度はノックをする。
「村内サン」
 まるで、猫がカリカリ、飽くことなくドアを両前足で、続けざまに交互ひっかいている風景。馬鹿正直っぽくけなげ。
 入れて、入れて、にゃあ。
 中に居ることを、居留守を確信している、爛のようす。
 ……うーん、さっきメーター類、見てたときに、電気メーターか水道メーターでも、カチャカチャ上がってたのか?
 コンコンコン。
 一見、上半身が『白い作業服』な爛は、しぶとくノック。
「あの、アパート管理会社のものです、ガス感知器のランプがついているんですけどもー。ガス漏れ点検させてください、村内サン〜」
 ……頭かかえてしゃがみこんで。
 歯ァくいしばって、分泌されてくる妙に苦い唾液が、口ハジからだらだら落ちそうになるのをこらえた。
 もうイヤだ、この、小回りのきく知能が。
 いやぁアパート管理会社ってのは嘘ですけどね、悪いようにはしませんから、ちょっとお尋ねしたいことがあるだけで、なんなら礼金もお渡ししますから……。
 と、ゴリゴリ押して。
 まんまと上がりこんだ畳の上、むかいあって正座している。
 爛と、村内さん。
 ゴミで荒れた居間だ。ぐしゃぐしゃのスポーツ新聞、ビールの空き缶、コンビニのプラスチック食器。借金に追いまわされている現在の生活なのだろうから、むりもないが。
 前科者なだけあって、村内さんは、最初は虚勢いっぱいの。
 子どもがなんの用だ、おまけにその横の男はなんなんだ、な態度だったのだが。
 爛みずからが『うっかり』をよそおって、座卓の足を一本、大胆バッキリ、力まかせに折ってから、豹変してしまった。
 虎が、猫の子へ。
 そう、そうですよ、ガキで、細身で、ピアスたくさんくっつけて、おまけについ先日からは前髪まで赤くって。
 そんなチャラい見た目で、だけど非ー常にぶっそうなんですよコイツは。
 舐めないほうが身のため、ってなぁ。
「おれのせいじゃないのに、ずっと耐えきったんだ……」
 膝つきあわせた二人のBGMは。ずっと物悲しく続いてる、あんま要領を得ない、村内さんの身の上話。
 爛は根気よく、正座たもって聞いている。
 そうですよね、こんな世間ですもんねぇ。お気の毒に。おっしゃること、ごもっともですとも……。
 年寄りの相手かよ。
 だいたい『こんな世間』って……それをしたたかに相手どっているヤツが言ってもな。
「出所したらあれもしたい、これもしたい、って……」
 運が悪いうえに、頭も悪い、みたいな人生遍歴。
 レッドブラウンの黒目、涙光ってますか? みたいにしながら、爛はまた頷く。
 もう知ってる人間から見ると、安いぞ、その演技。
 目だけ真剣にうるませとけばドウトデモ、とか思ってはいまいか、おまえ。
 しかしこの廉価な舞台と、かけた時間の代償で。村内さん、が、自分名義のカードを手放してしまうほど、借金で困るようになった、そこまでの概要はわかった。
 どうやら勤めていた店の金に手をつけて、捕まって。
 出てきたら、解放感が爆発して、風俗系につぎこんでしまったらしい。
「グラドル起用な金融だと、借りるの簡単ですもんね……」
 また爛の、理解があるような合いの手。
 のせられて、こくん、村内さん首を縦。
「ついどんどん、自動契約機からおろしちまって…………」
 ……おー。
 なにげにオッソロシイ。
 爛の右横、しかたなく自分も正座して、聞いているだけだったのに。ここにだけギックリ反応して、目ェまたたかせてしまった。
『おろして』ときたよ。
 うーん。
 頭をかたむけて、頭髪に指を埋めて、ゴリゴリとかく。髪がほどけず指にギシギシからんでゆくのは日常。
 ……自動契約機は、預金引出機、じゃねーんだけど?
 けど、そういう動詞をつかってしまうの、わからなくもない。
 なんせ機械相手のガイダンス進めればOKで、だから操作は、ATMそっくりだし。
 現代人の感覚、こんなもんなんだよなぁ。
「そっちの返済がいくつもにもなってきたから……だんだん、混乱してきて」
「その頃、ちょうど、『うちのお得な金利でまとめませんか』って、『一本化』業者にさそわれたんですね……」
 切なそう、ですらある、しぼりだす言い方で、爛が牽引。
 借金の一本化。
 たまに聞くなぁ。
「一本化、とは言われなかった……。あとで気が、ついたけど」
 まぁ、その単語で警戒されたら、元も子もないものな。
 一本化業者って言えば。連想するのは。
 一本化のための保証金とか言って、大金とるだけ盗ったり。
 一本化終了するなり強引に急変して、親類のもってる家などの不動産を、担保としてめしあげていったり。
 ようは悪徳が多い。
 だから、感づかれないようにされつつ、村内さん、はパターンにハメられていったんだろう。
 そう思っていた、刹那。
 水面下で静かに高まっていたもの、が、炸裂。
「……で、どこの金融さんがそんなヒドイことを? だいじょうぶですよ『クレジットカード数枚をこちらへわたせば、取り立てをしばらくやめる』なんて、法律違反な約束ですもの、まず勝手に使われているカードから、取り返しましょう」
 職人芸なタイミング。
『誰に渡したんだ、てめぇのあのカード、どうせ口止めされてるんだろうが、いいから吐け』……も。
 策をろうすれば、ここまで穏やか〜な、耳あたり。
 いや、はや、感心してしまう。
 自分の目的を達成するのは今だ! そんでもって目的情報ゲットしたらさっさと退場ぅ! え、うしろめたさって何?
 ってな堂々、威厳すらともなっている。
 ――提示していたはずの、それなりに涙を誘う語り、への共感は。
 やっぱりニセでありましたと……。

 ◆

「こんでともかくは、つながってる金融会社は、見えた、ね……」
 熱帯魚バーに戻って、ハッカーになりゆきを告げると。やっぱり優美なボイスでの感想。
「さいわいなことに地域密着型闇金じゃん〜。こいつらとはけっこう馴染みだもんね、敵対カンケイとして。それだけにそこそこ見張ってるから、情報は持ってるよね」
 のたまう爛は、両掌を閉じて、すりあわせてる。それだけの動作が、やたら剣呑。
 パソコンに向かうハッカーは、またじゃかじゃかとキーボードの上、指をダンスさせていく。連動して切り替わっていく画面、目がくらむ。
 ピッ。
 唐突な高い電子音と共に、やっと画面が静止した。表示されているのは、地図。
 ……なんですか、この、ビルや御苑が目にあざやかな、完璧カラフル3Dは? まるで次世代型ゲームかなんかのようだ。
 ピ、ピ、ピ、ピピピ、ピペ!
 うわがけに赤点が、次々と表示されていく。
「その闇金の、テリトリーでの拠点」
 単純明快な、ハッカーの解説。
「じゃあね、こん中からね」
 ふれれば切れそう、ピアノ線のように細い双眼。でもって爛は、液晶画面を睥睨している。
 もうすぐ草食動物が現れる通り道、ウキウキ張りこんでいる、腹すかした獣。
「キタからの出荷が流れてきやすそーな所、ターゲットよろしく」
 ――隠語っぽい言い回しの。
 意味のあたりをつけられるようになってきた、自分がイヤだ。
 ……北朝鮮からの密輸が、ね。

「注意して」
 そう忠告しながらハッカーは、薄茶のメッセンジャーバッグを、爛へさし出す。
 今回の件で必要そうな泥棒七つ道具……のようなものを、アジトからつめこんで持ってきてくれた、らしい。
 それを受け取れば、出発前の最終準備が済む爛は。
「ありがと」と礼を言いながら、それを肩にし、
「てなわけで、今晩はちょっと、豪快に完全で抜けるわ。通常業務まわすの皆のフォローしあいでよろしッく」
 片腕を、胸の前に肘曲げ、手を立ててお願いしている。
「いいけど」
 ハッカーは、なぜだか、ためらったように口ごもり。
 更には。
 やたらな美声をつむぐ唇を、ちょっと尖らした。
 そんで言うことには、
「幼女専なツツの件どーなったの?」
 そう尋ねる顔の、眉根がキュッと寄った。
 男くっさい、青々しいヒゲ跡が浮いてみえるほど、表情の作り方が繊細だ。声と同じように。
「終わった、終わった。つぶしたし、譲歩も引き出してあっから」
 ほがらかな、爛の答え。
 ハッカーはそれに、ちっとも満足そうな様子を見せず。追加で問う。
「……純潔守れたわけ?」
 ――純潔って。
 爛と革の間柄、知らないわけもないから。
『女装潜入したことによりなんかヤバイことなかったか?』という、暗なる心配か。
 ……なんだよ、コイツにも随分したわれてるじゃねーか。
 まったく……。
 出口ドアの前、爛を待ちながら、ぶちぶち思い巡らしていると。
 爛は苦笑を、くすぐったげに変容させて、一言に茶化す。
「それは元からナイ」
 そうだ、ナイな。内心おおいに頷く。
 しかも、その会場では無事だったけど、晩におれとヤッたし!

 ◆

 路地裏を抜けるなり。
 かなりのスピードな早足で表通りを直進してきた、スーツ姿の中年女性と。
 二の腕対顔面で、したたかに、ぶつかりそうになる。
 瞬間的に見下ろす、ぎょっとしている横顔。
 こんなとこから人が出てくるとは思わなかったのだろう。
 夜闇からいきなり人のかたちがわきでた、ほどに驚いている。
 スイ、と。反射神経が鍛えられてるから、ってだけじゃなく、どこか神経が予測していた動きで。
 衝突事故を寸前で。
 身を引いて、やりすごしていた。
 ――相手の女性の、ぶつかる衝撃にそなえようと顔を歪め、次いで、遠ざかり避けられていくことに目を瞠る。
 そんな顔表情の移ろいすら、スローモーションに見て取れる。
 子ども用マンガに出てくる、数分限定で五倍速に動ける、魔法薬のんでるみたいな。知覚の研ぎ澄みよう。
 中年女性は結局、ハイヒールのかかとをグラつかせ、よろけただけで。
 足を止めることさえなく、遠ざかっていく。
『今のは現実だったの? 距離感まちがえてた? 実はそんなにぶつかりそうでもなかったのかしら?』そんな怪訝顔でもって。
 ……うーん。
 片ほほを、人差し指の爪で、二往復、ひっかいた。
 この都市に慣らされた、と思うのは、こういう時だ。
 信号の切りかわりタイミングを体が覚えて、青になる変わり目、大横断歩道で誰より早く、自然に足を踏み出していた。
 六方面から複雑に人列が流れこむ、刹那でからみあいかたを変える交差した雑踏、そのあやを読みきって、直線で走るのと変わらぬタイムですりぬけた。
 どっかで神経が寝きっていない、休みきってない感覚。
 例えば。『しずか』に思えても、かならずどこかはざわめいている、無音がありえないこの街と。
 類似してゆくように。
 ミニミニ交通事故にもたついている、こちらを。
 なじるでもない瞳で、爛はふりむき待っている。
 歩道を大股にいそいで、傍らへ到達した。
 ……雨の昼、夕方、夜を、乾くヒマなく並んで歩いている、自分の紺傘と、爛の透明傘。
 その光景、並ぶ二つの半球体に、ばくぜんと感銘を覚えながら。
「『幼女専なツツ』って?」
 さっき、またわからなかった単語を、口にのぼらせる。
「ああ、ツツ?」
 肩にのった金属棒、乙女チックにくるん、一回転させて。
 ビニール傘の水滴、切りながら、爛は返してくる。
 腰にまとわりついてる、重たそうなメッセンジャーバッグが、伝達された動きに少し、もさっと揺れた。
 ……幼女専のほうはわかる。アゴを引いて、意思表示した。
「つつもたせってご存知? あれの変形」
 つつもたせ……美人局か。
 やっぱり、げんなりさせてくるような確答だった。まぶたを力なく、トロ〜リ、おろしてしまう。
 ……あー、だけど。
 あれは、デキてる男女が共謀して、そのへんの男カモに『おれの女を強姦したな!』っていいがかりつけるもん、だったような気が、したが?
「意味はたんなる売春に劣化してっけどね」
 売春より、口にだしやすいでしょ?
 爛が、唇にシーってひとさし指あてて、どうやら習得しようともしていない、ヘッタくそなウインク。
 ――頑固オヤジのようですこぶる申し訳ないが。
 出しやすい……しょっちゅう口に出すような生き方を、するなよ。

 ◆

 まずは電車。そこから、運転手に伝えやすい目印スポットまで、タクシー。
 そして徒歩でやってきた、港区のある建物。ハッカーがターゲットとした場所。
 敷地内に少しだけ足を踏み入れた位置、グレーの外壁が作り出している黒影に隠れ、こそこそと小さなビルを仰ぎ見る。
 爛は、いろいろ小道具のつまったメッセンジャーバッグ――小道具もちはこびにはコレと決めているんだろうかここのグループ?……に、ラフに手をつっこみ、一個つかみ出した。
 星のひとつも見えそうな、でかい望遠鏡。
 重そうなそれを、ひょいと肩上にまで担ぎあげ、爛は一言。
「暗視望遠鏡です」
 ああ、そうだなぁ。
 だって夜に、野外から無許可で、室内を偵察するんだものな!
 ……いろいろ持ってるよ全くもう。本気で泥棒七つ道具。
 盗撮――撮ってはいないから、単純にのぞき見、か――を始めた爛を、もはや文句もなく見守る。
 赤外線監視網のように、爛は縦横無尽、望遠鏡の先を向けている。
 くまなくそうし終わった、くらいの時間のあと、
「……うん、アレ」
 言いながら、暗視望遠鏡を固定したまま、頭をはずして。爛が、目で呼びつけてくる。
 うながされるままに、そこに両目をあててみた。
 映像は、驚くほどクリア。ノイズのようなものはあまりなく。けれど色彩は、多少はあるみたいだが、ほとんどモノクローム。
 見えているのはブリーフィングルームのような、机とイスが何脚かある室内。
 細長い机の上には、錠剤が何粒も入った、透明ポリの小袋がいくつも散乱している。
 ――普通の薬剤に見えなくもないが。
 やたら散乱している袋数が多いし、内容量に合っていない余ってるサイズの袋に、無造作に入ってるし。
 しかもテーブル上に、問題の透明ポリ袋たちを取り出したらしき。同一の透明袋がたくさん詰まったダンボール箱が、パカッとフタ開いた状態で、置いてあるんだが。
 おんなじ無地のダンボール箱が室内奥に、沢山つみあげられているし。
 爛が、指くわえたような。
 みじめったらしい泣いた声で、独白しだした。
「ああこんなに……これみすみす警察に押収させなきゃいけないのかぁ……。うち関連をパートナーに選んでくれればよかったのに……」
 まさにヨダレたらしの呟き。
 ……って言うか。
「おまえらも配下で売ってるのかよっ?」
 ボソボソ話しを心がけなきゃいけない状況下では。
 そりゃもうせいいっぱいの声量で、小さく雄たけび。
 ……しかし、はむかってきたのは、赤茶色い涙目、だった。
「やんないでいられる訳ないっしょっ? みんなやってんのよ、うちだけなんにもやんなかったら潰されるって!」
 逆ギレかよ!
 しかし、火がついてしまった『覚醒』状態の爛には、
「それに薬に手ェそめてれば、もうなんにもしなくても濡れ手にあわで商売繁盛だろってのは、シロウト考えなんだかんね! 脱法ドラッグでなんとか利益率高めてたのにっ、法整備で化学式のほうから回りこまれちゃうかもしんないしさぁ! 向精神薬とかは結局くいつき悪いしッ!」
 ……かなわない。敵う気がしない。
 ああ、そうか。
『麻薬とりしまり』といういたって正常な出動だったから、あんま深く考えてなかったんだが。
 そういや警察でもなんでもないんだから、そうでした。
 つまりは『自分達の関知しない麻薬がハデに出まわってるから→こらしめないと』ということだったんですか、今日一日は。
「…………」
 背骨をぐんにゃりと丸めて、精神的疲労を逃がそうとする。
 なんだかもう、おれは本当にバカをみてるよ。
 ひとしきり不満をわめいた後、「おっとそんなコトよりも」と我に返ったのか、再び、暗視スコープをのぞきこむ爛。
「バッチリ、まだ撤収作業すんでない……。しかも、だーいじな金ズルを検分した直後。ってトコ、押さえられたみたいね。普通、ゆうべに患者出た事件が、今、ここにまで捜査、いかないもんね」
 ガンバったかいがあったね。
 ポン。
 そう、背中をひとつ叩いて、ねぎらってきた。
 ああ……。
 今朝から、一般の女に三万にぎらせたり、おとなしい男店員に命令したり、借金で首まわらなくなってる前科者もてあそんでみたり。
 人道としてどうよ? な事にまみれて。
 しかも『おい、おれとの三角関係はどう転がすよ』という心中、懸命におさえながら……だ。
 そう、駆けずり回ったかいは、あったんですね?
「なに魂ぬけたような笑顔してんのー」
 なさけないよフヌケてるよ?
 身長差から『けなげ』と形容したくなる、そりかえった首の形でもって。
 じぃっと幼く、見上げてくる爛の顔。
 ……で。とんでくる叱咤。
 ――うるせぇ、ケツ管に入った、いつもの相手じゃねぇ二度目の男の精液、無視してワーカーホリックになってみやがったくせに。
 どだい、おれは犯罪行為ってものからは縁遠い、清廉潔白はとりえの人生を送ってきたんだよ。
 ここへ来るまでは。

「決まりでいっかな、だってあれ、心臓病とか腎臓病の薬じゃないよねぇ……」
 ブツブツうそぶきながら、たしかめるように爛は、またもや望遠鏡を覗いている。
 ああ、肝臓病でも胃腸病でもないだろうよ。臓器の病気名でそろえ、イヤミに同意。口に出していないんだから腹いせになってないが。
 でもあれは、今日一日おれたちを翻弄してくれた、MDMAであるはずだ。
 なぜなら金融の一般事務所のはずの一室に、あれだけ大量の錠剤が、すでに不自然。
「あらま!」
 いきなり短く叫んだ、爛。
 ハッとし、真横をのぞきこめば。
 意表をつかれた顔、まんまるな目がある。めずらしい。
「え、え、えー。でもほお骨の位置……も、目と鼻の線、も……。顔の輪郭もそうだよなぁ」
 とりとめなく口走り。おろおろ、と、片足をステップのように前後させ、踏み荒し。取り乱しているさま。
 一体。
 暗視望遠鏡ごしに、何を……誰を、か? 見たっていうのだ。
「どした」
 せかすよう、速い口調に問う。
「ん〜てっとり、に高速で言いますと」
 爛は、返事しながらも。
 問題の窓辺から熱視線をそらすことがない。注視している。
「指名手配犯?」
 ……うん、遠回しで言ってほしかった。

 交代した暗視望遠鏡。
 爛がしめす窓辺にいるのは、あごが四角い、細長い顔の男だ。麻薬関係の大物な指名手配犯、であるらしい。
 うわ〜たまんね、アンダーグラウンドもほどほどにしてくれよ、とひるみがちにテンションを下げていると。
「うーん、こりゃあ……。うまく立ちまわらないともったいないよねぇ。無茶するべきだよねぇ」
 爛が悩みだして、かつ、さっさと結論を出しやがってる気配。
 ……無茶。
 今日のここまでは、全然、おまえのなかでは無茶苦茶に分類されねぇわけだな。
「おれちょっと、手配してくる」
 爛が、くるっと踵を返しながら、そう言い置いた。
 ……気が早い爛のことだ、そのまま走っていってしまうものだと思ったが。
 どうしてか、真剣で落ち着いた瞳で、見上げてきた。
「ここ任せていい?」
 ……他に任せるヤツなんかいないだろ、おれだけなんだから、と吃驚していると。
「あの犯人がもし、移動したら、尾行もしてほしーんだけど。風、尾行なれてないし、一人だし、武器もあれだから、……ごめん、危ないんだけど」
 悪条件です、ということを、正直に並べてくる。
 前髪だけふさっとした赤い頭が、微妙に傾きしおれていて、申し訳なさそうだ。
 ――いきなり思い出す。いや、普段から、忘れちゃあいないんだが。
 年下なんだよなぁ、コイツだいぶ。
「…………」
 にがわらいで、頷く。
 拒否したってしょーがないだろう、この場合。危ない橋は、いつものこったし。
 なにやらでっかいチャンスがめぐってきているらしいのは、爛の様子から、洞察できるのだ。
「じゃあ、これあげるから」
 了承を受けて、爛は、ごそごそ。
 メッセンジャーバッグを大きく開いて、右腕をつっこみ、かき回すようにしだす。
 目でも探しているらしいが、外灯の光しかないから、そっちはあてにならないだろう。
 結局、だいぶん長くまさぐった後、手のひらで探り当てたらしい。
 むんず、と握ったそれを。
 胸高に持ち上げ、つきつけてくる。
 ……なんだ、この。
 青とオレンジの二色分け、カラフルでおもちゃみたいな、携帯電話?
 しかもなんか、軽そうだし、かわいいデザインだし、小さいし……、と、見て取っていたら。
 爛は、作り声で、ひとさけび。
「キッズケータイぃ〜」
 ……ドラえもん、の真似ね。
「おれが持ってる『母』役割の携帯に、地図にポイント表示で、キッズの居場所、定期報告してくれるし。他にもいろいろ機能が、たとえばコッチのわっかストラップはね……」
 手のなかの携帯電話、要所要所を指さして、ペラペラ。
 爛は解説してゆくが、おれはキッズ、か?
 と言うか。
 増える凶悪犯罪から子どもを守ろうとする親心が、ごちで〜す、とばかりにカンタン操作なアイテムとして、こんなところに取り込まれている。
 どうよこの殺伐。

『気ィつけて』と、いまさらな、でも嬉しくはある、いたわりを残して。爛が去ってから。
 数分後。
 一点集中にマークしている人物が、建物出口からひょろりと、出てきてしまった。
 あたりまえだが、最初見かけた窓辺からいなくなることも多く、だけどたまに他のあちこちの窓から視認できていたので、安心していたのだが。
 ……ゲッ、動きやがった。
 そう内心で毒づきながら、暗視望遠鏡を、爛から分けられた小さな肩がけバッグに放りこむ。
 そいつは、奥の誰かへ向かって、何か、一声どなり。
 駐車場へと、まっすぐに歩き出した。
 外灯をさえぎらないよう、影をなるべく作らないよう、にしつつ、足音をひそめて自分もそっちへ急ぐ。
 男は何台かある車のうち、シルバーの乗用車に乗りこみ、バタンと扉を閉めた。
 車下へもぐりこみたいような、腰をかがめきった低い体勢で、闇にまぎれてそのナンバープレートのそばに片膝をつく。
 エンジンをひねる時間につけこんで、ひとつ作業をする。
 爛からの、事前の指南どおり、バッグからある小道具を取り出した。
 二枚の、白く四角い薄手パッド――。
 硬めのシップ、に似ている外見のそれから、ついている『保護シート』をはがす。ゴミにかまっている暇はない、アスファルトにひらひら落ちていく透明シート。
 白パッドのうち一枚。
 保護シートをはがした面、を、ジーンズのポケットから出したキッズ携帯、その背に。
 もう一枚の、やはりシートに保護されていた面を、車裏のたいらな部分に、すばやく貼りつけた。
 それから。
 保護されていなかった面の、白パッドと白パッドを、合わせ取りつける。
 ぺたり、吸着しあっているみたいに。噛む、さながら、パッドとパッドは一体になり。
 車と携帯も固定される。
 三百グラムまでの重量は支えられるらしい。脱着可能で痕跡も残さない、接着シート。
 百グラムと少しの子ども用携帯電話なら、かなり激しい走行をされても、楽勝だ。
 ほどなく駐車場からすべり出る、シルバーの車。
 門をくぐって、どこかへと移動していってしまう。
 すぐ脇に止まっていた車の影に身を丸め、それを見送りつつ。
 本来の自分の携帯電話を取りだした。
 来る時にも降りた『近所の目印スポット』に、タクシーを小声で呼びだす。
 済むと、周囲に気をくばりながら立ち上がり、自分も移動を開始する。
 ……こっからの問題は、シルバーの車が『向かった先』となる。
 だから続いて。
 携帯電話のボタンを、送る。
 電話帳より早いから、履歴からかける相手。
「……あ、爛?」
『母』携帯を持っている爛へ、携帯画面地図上に赤星が表示される形で『子』携帯の位置は通知される。ほぼリアルタイムな、数分おきに。
 GPSさまさまの機能だ。
 もし探知場所に誤差があっても、数十メートル以下、だそうだ。
 冗談ヌキで本来なら、子を心配する親しか、使うべきじゃないような気のするアイテム。ストーカーとか大喜びなんじゃないだろうか、この追尾機能。
「あァ、じゃあ折り返しで、中継たのむ」
 通話を終え、ぽん、と携帯をたたみながら。足は道を駆ける。
 ……単独行動は、やっぱり、緊張する。
 どうにか何事もなく、おさめられればいいんだが。

 交差点を東とか、次の角を左折とか、爛の携帯から来るどうしても臨機応変な実況中継、そのままタクシー運転手に伝え。
 ピンポイントで降り立った場所は、小規模な倉庫らしき場所の……目鼻先。
 赤星が表示されているらしい倉庫敷地内は、完全に暗くて、内部から人の気配はしてこない。
 ……しゃがみこんでるような姿勢で、移動しながら。
 まずは、薄暗い駐車場から、キッズケータイを回収する。白パッドは、爪をひっかけてはがせば、糊跡も残らない。
 車がここに停車したのは、この発信機からして、まちがいはないが。
 まったく無い、建物内の人の気配に、少し不安に陥る。
 ちゃんとここにいるのだろうか? それとも更にどこかへ移動されたか。
 なにせ既に指名手配犯、いつどこに逃亡しても当たり前。
 ナンバープレート番号とか押さえられていそうな危ない車で、まずここまで来て、乗り捨てて。比較的安全な車に替え、どこかへ逃亡中、という線もじゅうぶんにありえる。
『居場所を常におさえておいて』という、爛の指示だ。
 しばし暗視望遠鏡で、方向を変え、角度を変えて、窓をせかせかとのぞいていたが。
 そのうち、イライラしてきた。
 この距離じゃあ、いくら高性能な望遠鏡を活用しようと、なかの奥のほうにいる人影など、捉えられるわけがない。
 ……もうちょい。
 こそこそ、ぬすっとの動きで、倉庫のはじに取り付く。
 ドアレバーをおろし、手前に引くと、音もなく普通に開いた。
 ……こうなったら、開けっ放しにしておくのもアレだ。もう少し様子を窺おうと、するっと入りこむ。
 まずあるのは、通路。けっこう長く左右に走り、ほとんど外からの光も届いてはいなくて、闇に沈んでいる。
 天井の電灯たちは、もちろん、どれもついてはいなかったが。
 それでも根本的に落ち着かない。
 もしも誰かが通りかかったら、身を隠す場所がない。
 物陰をさがし、視線を流していると。
 気になるものを発見した。
 なんだかさっきから、暗視望遠鏡ごしに、見慣れているような輪郭。
 ダンボールの山。
 一歩、二歩、吸いこまれるように、その小部屋に踏みこむ。
 案の定。無地の、サイズもさっきから見かけているタイプな、ダンボールども。
 中に入ってるのは当然、ちゃちな透明ポリに入った、MDMAの錠剤なんだろう。
 ……ここも保管庫なんだろうか?
 末端価格いくらだよ――?
 景気のよさにあぜんとしていると。
 バン!
 いきなり、爆音に近いような、激しい音が耳打った。
 ハッと半身をひねり、飛びつくようにとって返す、扉に。
 壊さんばかりにノブを握る。
 がっちゃん。
 ゆらせば、響いてくるのは、頑丈に施錠されたドアの手ごたえ。
 気づかれてたのかよ――ここの監視カメラかなんかに映ったか?
 ……閉じ込められ、た。
 現在状況を、把握するにつれて。
 じわじわと頭痛、発汗を伴い、脳髄を圧迫してくる。恐怖。
 脳みそが物理的に、縄に締め上げられているような。
 でも。
 なんも出ねぇよ、案。
 逃げられないネズミとして、首を必死に左右した。
 四角い小部屋、細部は黒い塊として、目に分析できない。けれど脱出できそうな窓なんかは、そんな大きなもの、どうやらない。
 シュワアアァー。
 ぎくり、異音に驚愕して、体ごと回転するいきおいで、視界をブンまわす。
 部屋の一箇所から、白煙がせまってきている。
 またたくまに白霧が、体積を、濃さを、増してゆく。すぐに室内に充満するだろう。
 あわてて口元を覆う。しかし、あたりまえだが、遮断なんか望めなそうだ。
 息を止める、そういう選択肢が、二番目に浮かんだが……どうせ息を完止めすんのなら、結局死ぬじゃねーか。
 ばたばた、そういうオロカな事たちがよぎったのも。一瞬だった。
「がっ!」
 眼球が穴を見放し、転がり落ちていこうとしているような激痛が、角膜に。
「うっー」
 衝撃で、不自然にキツく結んでいた口が、ゆるむ。
 すると更にしめった喉の奥にまで、目と類似した痛みが広がる。
 ひぃゆう、ひゅう。
 干上がったような音で、異常を訴える気管。
 あまりに活動が阻害されている喉部のせいで、全身全霊こめて『呼吸』に苦心しなければ、酸素が足りなくなる恐怖。
 どぉっと前方へ、崩れる膝。
 全くかばえなかった、全体重のっかって床に叩きつけられた皿骨。だけど痛覚をそっちに向けられない。
 ぐぉっほ、ぐほっ。
 吐けない二日酔い人間のように、続くコメディ。しまらねぇー。
 目も同等に痛い。砂漠のさまよい人がメじゃないくらいに、水が恋しい。
 ――片腕が、ひねるように後ろ手に、持ち上げられる触覚。
 おぼろに知る、持ち上げてきているのは誰かの手だ、いつドアあいてたんだよ!
 チクッ。
 皮膚を三ミリ、持ち上げるように、入りこむ――冷たい細い、金属の質感――それは。
 注射針イメージ。
 追いかけるように、やはり冷たく、なにか澄み切って――チュウウと入ってくる、血液とはねばりの違う液体。
 ……あー、打たれた。
 ナンカ打たれたぞ。
 まるっきり手遅れに、なんとか視野を、腕を持たれた方向へむける。
 闇の中でもわかるほど、人の顔をしていないモノがいた。
 黒一色で凹凸が多い形、ひょっとこのお面のような顔――ガスマスク……だ。
 次の瞬間、それをかきなぐって外しだした。
 あらわれる、でっぱった頬骨が特徴的な、細長い男の顔。
「ボロいぶんなぁ、この倉庫、監視システムは水も洩らさないようにできてんだよ」
 ああ……。
 さっきのビルでは、発信機つける為にけっこう動き回っても、まるでザルだったから……油断してた。
 しかし、この段階での反省って、役に立つのか?
 ……役に立ちやしないことの証明のように、いまだゲッホガッホと咳きこみを、空間に派手に響かせながら、朦朧と思う。
「ここの場所知ってるってことは、あそこの所属か? おまえらの売人がヘマうったんだろうが、手ェ切られるののどこが不服なんだよ。まったく今朝からネチネチとよォ」
 ……なにやら揉めてるらしいなぁ。
 回らない頭で判断する。
 思いっきり所属をカン違いされている雰囲気。
 まだ、これだけ売る薬があるわけだから……足元がヤバくなってきた今までの協力相手とは、手を切って。他の団体と、残りのブツを売りさばくべく、準備中だったんだろうか。
「ま、いいよ」
 男は話を切って、さぐるような目で射抜いてくる。
 どこか、ずるいまなざし。
 息の根止めた天然記念動物、どこへ売り飛ばしてやろうかと値踏みしているような。
「おまえ麻薬、初めて……だな?」
 静脈注射のあざとかが、無いから。そう判断したんだろうか。
 常用者ならハッキリした効き目を求めて、吸引やら粘膜吸収やらじゃなく、注射で直接摂取する傾向にあると言うが。
「入れたのは致死量だ」
 入れた。シンプルな、単語だ。
 どこへ。体内へ。
 ――さっきの注射か。
 うわ、死ぬのか。
 ……苦悩に喉をかきむしり、もだえ苦しみたいところだが。
 あいにくとっくに咳に翻弄されているわ、しにくい呼吸に腕うごかすのも、ままならないわ。
「ここに近いな、もっと割れやすい拠点があって。そっちに遺体は捨てるから」
 ああ、それってあのビルか?
 やっぱり止めたくとも止められない、ゴホゴホ呼吸まじりの咳の下、そうあたりをつける。
「で、コレを握っててもらう……数日くらいは警察へのめくらましに、なるだろ」
 ぴらり。
 かざされる、あまったポリ生地がぶさいくな、錠剤が、袋よりはるかに少なめに入った小袋。
 さっきから暗視望遠鏡ごしには何度も目にした、大量在庫なお薬。
 ……掌を、ジーンズの腰になぞらせ、尻ポケットに忍びいれた。
 手を丸め、黄色いリングへ指先をつっこむ。
 ストラップを引くと、ビビビビビビビ。
 鳴りわたる電子音。
 だけど屋外までには、おそらくほぼ届かない。
 しかも人通りなんか、思い出したように、程度しかない立地だ。
「……防犯ブザーか? かわいらしーもの持って……」
 全くあせる様子もなく。溺れたアリを見るように、男からは哀れみの白目。
 通行人なんかいるわけないだろ、助けがくるわけないだろ。そう、軽蔑もにじむ表情。
 ……大の男と、キッズケータイとは結びつかないから、そういう判断に当然なるんだろう。
 まぁ、この土壇場で鳴らして、どうにかなるとは思っていないが。
 リングひっぱって、スイッチ引いてブザーを鳴らすと、自動的に爛の持ってる『母』携帯を鳴らすようになっているのだ。非常事態です、現在地はここです、という通知と、共に。
 やらないよりはマシだろう。
 と言うか。
 これ済まさないで意識を手放せば、怒られる。
 ――ま、それも。
 がくがく、ぶるぶる。咳に、目の痛みに、攪拌されながらも。
 さっきから体内に、足音は察知していた。
 それがついに、脳へ、末端へ、駆け上がってくる。
 筋肉が、スジが、血が循環してゆく肉体のはしばし、あますところなく。
 体の、指先の、爪先の。爪の下にある指肉の。
 すべて、すみずみまで。
 圧倒的な薬物におかされていく。
「ガぐ……」
 ただの蹂躙。
 暴虐の電気信号の奴隷。
 ダラダラと、半開きになった口から、よだれが球体でしたたっていく。妙にスロー。床へ水たまりを描き出す。
 ジェットコースターに固定具なしでのっけられた疾走。
「あッ!」
 跳ねる。
 男が、冷静に見下ろしてきてる。検分の視線。
 イヤミ度が乗算されているその顔面。ああ、この人殺し。
「瞳孔ひらいてきたなぁ」
 ――最後の義務、ストラップの一つも引かずに、麻薬に侵されきったら、怒られる。……ま、それも。
 ――生きて会えたら、の話。

 ◆

「よ」
 そんな、そっけない、無責任ほどの。
 呼びかけと共に、暖色のライトを逆光にしょった、爛の品のいい、顔かたち。
 それが。
 深い、泥のような眠りから。
 昇るように覚醒したあと、最初に映った世界で。
 ……少し重い、原因は爛が手をのせてきているから、そんな胸上のリアルさと、あいまって。
 まったくシャレにならない事態なのに、あえて深刻になろうとしない、ふざけたセリフまで。
 いつも、どおり、で。
「…………」
 はぁー。
 心っから、臓腑の底から、体の細胞という細胞がひねりだす安堵。
 最近増えたため息のなかでも、過去最大のやつを吠えてしまう。
 ごそ。
 身じろぎすると、首うしろに、のりがパリっとしたシーツの感触。ホテルのものとは違う、消毒薬くさい香り。
 生きてる実感を確かめたくて。
 ごそ、ごそ。
 何度も幾度も、利き手の掌をそのシーツに這わし、這わしては、握りしめてしまう。
 ああ、乾いてる、きめ細かで、清潔で、生きている。
 すがりつくように、無駄な動作をくりかえしていると、
「麻薬の中和っぽい処置は、してあるから。も一日、入院してぬこうね」
 ポンポンッ。
 掛け布団の上、腹を軽く叩いてくる、爛の右手。
「……どーやって、おれの存在、ごまかした……?」
 おれが死ぬ前、間一髪に、あの現場を警察が押さえたんだろうとは、予想がつくが。
 麻薬大量摂取により意識混濁し、あやしさプンプンでころがっている男一人。あのガスマスクの男と共に、逮捕くらいはされそうなもんだ。
 だけど、爛がこうしてつき添えるということは。
 この病院は、警察の施設じゃあないのだろう。おれは逮捕されていないということになる。
「だって駆けつけさせたのは、うちの『仲良しさん』だもの」
 疑問をあっさりと解決する爛。
 よく話を掘り出すと、どうやら『グループと内通している警察官』に情報を伝えて、さしむけたらしい。
「手柄、立てさせて、恩売れたからー。財産財産、貯金できたよ」
 指名手配犯を目撃した時点に立てた計画が、成就したことを。トントンと教えてくる。
「ここの入院も、手あての種類も、極秘でつごうしてもらえたし。ホレ、『善意の通報者が被害にあった』が『警官側にすら被害が出ていないのに、それを表ざたにしてしまうのは、権威にかかわる問題だ』ってことでね。なにもなかった……被害は零だった……そういうフリを皆で決めこもうと、話がついてるから。安心して〜一般市民として〜ナースに甘えちゃったりして、休んで」
 善意の通報者。
 おれの立場がか。
 ……誰がだ、人の敷地、倉庫内部にまで入りこんで、しかもその場所にやって来たのは発信機経由で。
「風、さいしょさぁ、熊殺しでヤラれちゃったんだよね〜」
 ……なんのことだ、と。直下からえぐるように視線を合わせると。
 ヘラヘラ、めずらしいほどに薄っぺらく笑いながら。
 首が据わってない赤ん坊のように、爛は首をぐるりと回転させた。
「…………」
 違和感に襲われる。
 じっと、かぶさってきているような位置にある、爛の顔を、見上げ続けるが。
「催涙スプレーで、まず無力化されたでしょ。あれ、ベアー対抗用にそもそもは作られた、外国製の強力なヤツでねー。なーんでこれが普通に『購入』できんだよ、ってくらいに、凶悪な効き目なの」
 熊に勝てるくらいだからね。スポーツマンや武道家くらいは軽いよ、と。
 ことさら軽薄に、爛はならべたてている。
 ……回転させた時に、折れたままの爛の首。
 真っ白なシーツがかけられている掛け布団の上、そこに視線が落ちているようだ。そんな白一色のもん、見つめてても、何も楽しいわけがない。
 ……いつもよりいっそう、軽い語り口になっているのも。
 さっきの違和感も。
 つまりは、正体は、
「あのな」
 ぴた。
 バレたか、と言わんばかり。
 爛の口が、ピシリと打たれたよう、静止した。
「あのな」
 事件直後につき、ややけわしくなってしまう声ながらも、穏やかなトーンを心がけて。
 言い聞かせるように、伝えた。
「謝りたいなら、あやまっとけ」
 じわじわ、もち上がる苺頭。
 やっと捕まえた目線。
 合って一秒、まぶたがグッと下がって瞳が細まり、眉根がよって思いっきりハの字眉になる。
 うるみだす赤褐色の瞳。
 ……なんだその、わかりやすい、泣きだす寸前の子ども顔。
 ……つーかよ。
「おれのミスだろ」
 告げながら、ごりごり、頭頂部を、むしるように掻く。
 ワビを入れたそうだったから、入れさせてみたが。
 ――倉庫内部にまで入るべきじゃなかった。
 いかに、本当に中にいるのかが不安だったはいえ、あそこは待ちの姿勢でいるべきだったのだ。
 敵の上がりを妨害しまくるあまり、捨て牌ばっかになった、麻雀かっての。
 爛は反抗的に、頭をブルブルと左右。前髪だけしか揺れない赤。
「監視だけまかしとくべきだった。所在、いつも確認しといて、みたいなこと、言っちまったから……」
 シュン、と、伏せがちになったままの、まつげ。
 捨て犬の態度だ。黒々しい瞳が『ひろって』とばかりに濡れ濡れなところも、もうそのまんま。
 ……舞いおりてきてしまう沈黙。
 どうなぐさめたもんか、これは。
 そう悩むが、……投薬に睡眠薬系もあったのかもしれない。
 実は、目覚めのクリアさが嘘のように、急速に神経がツラくなっている。
「…………」
 なぐさめる文句を考えながら、も、どうしようもなく下がっては。イカンイカン、と上げるまぶた。
 爛は、めざとく察知したらしい。
「おれも、まだ後処理、山のようにあるから」
 イスから起立しながら、爛がそう言い訳した。
「また明日、くるから」
 ギュウ、と。お手て、と、お手て、という感じに。
 ふとんの中にあった右手を取られ、密着ににぎりしめられて。
 びっくりした。
 まるっきり性欲とか、色気とか、感じさせない。
 とても親しくて。
 かつ無垢すぎる動きだった。
 ……おまけに、まるでためらいを見せず、鼻先をふれあわすように近よってきた。
「おやすみ」
 やっぱりライトを逆光にしょった、至近距離になった顔。
 ――真芯でかっとばすホームランに似た、爽快なほどの攻撃を、そのおももちに、された気分だった。
 心配そうな、離れがたそうな。
 しかも、相手が弱っていることにより、自分自身も弱ってしまっている顔。
 だから『おまえが大切だ』そう打ち明けてしまっている、そういう顔……。
 するり。
 ドアの向こう側へ、しなやかな背中が消えて。
 その背を追いかける、パタン、という物音で。ようやく少し解凍される。
「…………」
 なんだか、困る。
 いやもぅ、こんなもの、困惑、の域に入ってる。
 こんな生還直後に、あんな表情見せて。
 まるで本能へのすりこみみたいに。
 かわいい、とか。
 ――あぁ、この上、思わせてどうしようってんだ、おまえは?

 ◆

 男が男にもってくる『見舞い品』として、あまりに形式的だ、花ってのは。
 ひげの剃り跡が青い訪問者が、左手にかかえてる、ピンクや紫に華やかなソレを、呆然と眺めた。
「……花びん、なんかねーけど」
 そう文句をつけると。
 個室であるこの部屋のサイドテーブルに、花束をとさっと置きながら。
「いや、べつに? 枯れるにまかせとけば」
 やさしそうな口調とは裏腹に、花束にたいしてものすごく薄情な、言葉。
 ……まぁ、看護師にたのめば、貸し出し花びんくらいはあるんだろうが……どうせ、明日あたりには退院だし。それしかねーか。
 そう結論づけ、ふぅ、と嘆息していると。
 花束とは逆。左手の、手首に。
 さげていた洒落た紙袋から。漆塗りのような質感の、ブラックの箱を取り出して。
「こっち……高級トリュフチョコだから」
 同じくサイドテーブルに置く。
「……甘いもんは」
 なんでそのチョイスになったんだと、言葉少なに断ろうとすれば。
 ハッカーは平然とした顔で、
「いや、だいじょうぶ、爛は好きだから」
 という返事。……見舞い品じゃ、なかったのかよ。
 それからハッカーは、所在なげに、うろ、うろ、と、室内をゆっくり無軌道に歩きだした。もちろん無意味に。
 ……話題に困ってんのかな、あんまり知らねぇ同士だしな、と思っていると。
「あんまり……責めないで、やって、くれる」
 もじもじ、と、小綺麗なマリンブルーのTシャツの裾を、両手でもっていじりながら、そう頼んできた。
 ……いや、だから、どっちかってーとおれのミスだから……ゆうべも責めやしなかったんだが?
「今、家族、みたいに同居、してんでしょ……。そういう存在が消えかけたら、爛、それだけでそぅとぅ、ダメージ受ける。から、さ」
 口をはさむ間もなく。
 ボソボソと美ボイスで、つづられて。
 ふいに悟る。
 爛の肉親がどーなったか、とか、……こいつは知ってる、らしい。
 ……いずれは自分の耳で、爛から聞かされる予定だから。こいつに尋ねたくはないが……。
「おまえは」
 反射的に、つい、問い返していた。
「住んでみないのか、爛と」
 今は革がいないんだから、絶好の機会だ。
 もしも捨てかけてるんだとしても――革のモノに手出しするのは怖い、それを差し引いても。
 ……ぱた、と一度、殉教者のようにまぶたを閉じて。
 それから口元をゆるめたのちに。
 うつ病の腕利きハッカーは、すぅと開眼し。
 思いもかけなかった回答をよこした。
「あぁいう……人が出入りする場所へ住むのなんか、三日が限度」
 晴れやかな陰鬱が潜む目で。
 慈愛を顔いっぱいへ広げて、微笑した。

 ◆

「これ、なんで水にいけてないの」
 高カロリーチョコを、もぐもぐ口中で溶かしながら。
 夜に訪ねてきた爛は、サイドテーブルに置きっぱなしにしてあった花束を、両腕でつつむように、わさっと胸に抱いた。
 赤ん坊を抱き上げる新米パパ、のようなポーズ。
「花びんねぇぞっつったら、枯れるにまかせとけば、だと」
 いかにも興味外のものには冷たそうな、ハッカーの言をそのまんま伝えると。
「……そーね」
 爛は、いたわるような紅茶色の瞳に、変化して。
 匂いを嗅ぐように、密集した花部分に、口先を埋めた。
 唇に、ピンクのスイートピーの花弁を、はむように挟んだりしている。
 わびしい追悼の光景。
 ……なんかなぁ。
 自分のあご下をざりざりと撫でつつ、見惚れてしまう。
 かわいそうには思うけど、助けません、根がないんでどうせ無駄だから。
 そんな刹那な感じに、やたらガラスみたく、綺麗なんだが。
 フワリ、花束を、やっぱり傷めぬように。
 爛はサイドテーブル上に、戻した。
 その隣の箱から、また茶色いカタマリをつまみ出し、楕円に迎えあけた唇のなかに、放る。
「これアイツから、風への見舞品でしょー。食べてあげないの?」
「……全部食え」
 おまえ宛てなんだと、好意をピーアールしてやる義理はない。
 それでも。
 自分で食べる気にはおろか、捨てる気にもなれない……ので、そう返答した。
 ――やっかいなもんなんだなぁ、心の病、ってのは。
 ぼうっと、うつ病ゆえに爛のそばにつき従えない、ハッカーの悲しみを思っていると。
「どしたの?」
 ベッド脇のイスに、よっこいしょと腰おろした爛が、不思議そうな顔つきで視線を合わせてくる。
 ……ああ、心がやっかいなのは、こっちも同じか。
 自分もそうだし――コイツもそう。
 革の意図がどんなであれ、『革の女』なんて高価なものに本気になるのはバカなんだし――正妻の存在が許せないくらい、主人に心酔してしまう女役も、やっぱりバカ者。
「あのな…………おれと」
 言い滑りだしてから、気がつく。
 シーツを指で不審に、つまみ握っていた。固く激しくそうしてるせいで、かけ布団にツリー状で、皺の波紋が広がっている。……なんだよ、小心者くせーなぁ。
「おれと……寝ただろ」
 ……どんな切り出しだ。
 最悪な話題提起。
 だから入院なんて嫌なんだ、まだアタマ寝てんのか、おれ。
 もっと歯に絹きせて核心にせまれよ、最初っから問題の中核いってどうするよ。
 心中、ガンガン頭を壁に、打ちつけるような気分でいると。
 コトッと、小動物のように、爛は小首をかしげて、
「うん、もぉスッゲひさしぶり、浮気は」
 そう言いながら、口もとに浮かべているのは。ふふ、って感じの。
『たおやか』とすら形容できそうな、日だまりの笑み。
 ……なんでこの話題で、そんな表情になるんだよ、不釣合いな?
「昔は……してたのか? 浮気」
 革は『自分の女』の浮気を、心広く容認するような人格じゃあない。
 意外さをたっぷりにほのめかせて問えば、案の定、爛はふるふると前髪をふりこのように揺らす。
「してたってほどでもないよー」
 そう軽ーく答えてから、ふいっと、唐突にそっぽをむいた。ドア方面を見ている。
 不自然なタイミングだ。
「だってねぇ革はさ、今もだけどさぁ、ふだんからー。政治関係者が出入りする老舗クラブのママさん〜とか。実家がこのへんの地主な熟女奥さん、とかとね、寝るからね」
 ……この角度から見ているだけで、性別も年齢も、把握できるような。
 男のゴツさも無ければ、少女の華奢さもない。
 伸び盛りの草のようなえりあし。
 ……革の女性関係、あげつらう口調に、つらさは滲んではいないが。
「……そか」
 なんと返してよいやら、わからない。
 ギャンググループのリーダーが女に『不能』では。
 商売の潤滑上、まずいことも多々あるだろう。
 街の実力者の女と、体で保っておく、裏の繋がり、というのも。
 アリなし……で言えば、現実面から勘定して、アリ、としか言いようがない。
「若い頃はさすがにねぇ、やっぱり苦しくってね。なんでおれだけじゃねーのとか、なんでおれの方は他の誰かとヤッちゃダメなの、とかね。モヤモヤッと不満があったのよ」
 ……若い頃、って。
 ギャグに逃げるな、まったく。
「そんな頃にねぇ、うちのシマの、稼ぎ頭の風俗店でナンバーワンはってたお嬢に、襲われてねぇ。それが、結局一回こっきりになった、浮気、なわけ〜」
「……そりゃあ……」
 微妙。
 玄人相手だ、『裏の繋がり』を求めて、グループで当時からそれなりの位置にいたであろう爛に、相手から媚売ってきたのなら。ちょっと浮気とはいいがたいし。
『プライベート』で来たのなら、玄人だろうが、複数交際だろうが、やっぱ浮気なイメージがする。
「まぁ、隠してたんだけど、スグサマばれてね。無言〜で寝室につれこまれて、壁に押さえつけられて。もう怖くって、血の気失せまくっちゃって、スピンしてるみたいな目眩するし。背中も、泣くみたいな冷や汗で、ぐっしょぐしょに濡れていくし。でも逃げられないっ〜てか、むしろ逃げるなんて更に怖いから、思いもつかないし。逃げるかわりに、壁に、皮けずれるくらいせっせ、芋虫チックに指、にじらせてさ。うわぁ、とりあえず鼻血と、口からの出血と、それからアソコからと。ひょっとしなくても頭蓋骨からも出血覚悟しないとダメか、とか、ぐるってたんだけど」
 ボッコボコに殴られ。頭まで骨折を負い。のちに犯される覚悟。……を、かためていた、と。
 どんだけ暴力的な愛人関係だ。やくざ映画かなんかかよ。
「そやってガタブルしてたらー。おとぎばなしでさ、お姫様ダンスに誘うときみたいに、片手、とられて。キュッとにぎにぎされて。『なんかかんちがいしてないか、爛』って」
 ……こわい。
 素でものすげぇこわい。よく殺されなかったな、その場で。
「甘く」
 ……え?
 思いもよらない追加説明に。
 目を見開き、まじまじと爛を見つめてしまう。
 あいかわらず、そこにあるのは、健康的な肌色の、ひねられた首。
「『十八になるまでは、そこそこ普通の体でいさせてやろーと思ってたのに?』って。目のかたちは笑ってんだけど、浮かんでるひかり、冴え渡って、白くって。『無駄撃ちするような玉、残ってると思うようなココロエだと、死ぬぞー』って」
 ハハッ、と。
 自嘲のように、鳥を撃ち落とすように、爛は笑い飛ばす。
「……そんで、こんな体だよ」
 ――口腔が、酸性に傾いて。
 不快で苦い、唾液で充たされた。
 ぞっとした心境を、投影して。
 その革のセリフの直後。
 なにをされた。
 多分。
 ターニングポイント、作り替えられたんだろう、排出のための器官を、あそこまでの性器に。

 セピアになった記憶を想起する。
 古い、懐かしい、おぞましい記憶。
 色あせた事実シーン。
 中学三年生のときだ。
 クラスで一番、女っぽい女子だった。
 切れ長の目の美人、爪先までも欠かしていない様子でスキなしに手入れされた身体。
 誰へもキツイ性格で。好きになった男子への、攻撃的なまでの積極性も、まず学内一という評判。
 その押しの強さによって、番長――何をしていたわけでもないのだが万人がそう認めていた――革の、彼女席に。いっとき座っていた女。
 ソイツが。
 ある日のある休み時間、なんの変哲もない日常の一コマに。
 授業の終了チャイムが鳴ると、同時、革の席にずかずかスカート翻らせて、つめよって。一方的にまくしたてて、責める喧嘩をくりひろげだした。
 たぶん、直前の授業中に煮つまりきってしまったのだろう。
 ものすごい決壊ぶりだった。
 ほえる子犬、と形容するよりは、狂犬。
 あるいは毛を逆立てて、泡までふいてミギャアミギャア半狂乱になっている猫。
 そんな女の態度を迎え打つ革は。
 イスに座ったまんまで。
 肩幅に開いた両足を、体格に比すると窮屈そうな机下におさめたまま――それでも学内に何セットかしかないトールサイズ生徒用の机とイスだったのだが――両手もだらんと、肩から自然にたれ下げて。
 眠たい時に見せるややの半眼、も。
 どこまでもリラックス、そんな体勢で。
 聴衆がいるのに、声を抑えるそぶりもなく。
 わずかに拗ねたような。
 けれどそれをはるかに凌駕して、わずらわしそうな。
「えーでもな、おまえ陣内の準備室でやってただろ、もう終わりでいいんじゃねぇか」
『陣内』……というのは。
 結婚がまだの、三十前の男性教諭だった。
 担当学科が理科なせいで、準備室を自分の管理で持っていて……。
 そこで『やってた』。
 意味なんて一個しかない。
 さっきまで女がけたたましくつけていた、
『どうして最近つめたいの』
 そのクレームを、かえりみれば。
 青褪め。
 ぱくぱく。さっきまでの金切り声が、ウソのように、無音に口を空回させている、革の元彼女。
 何か言葉をぶつけたそうで、けれど、何も絞りだせずに失墜しては、懲りずに再燃する。そのくりかえしの魚口の開閉。
 ……意外だな。
 まるっきり第三者に傍観しつつ、内心で無責任に感想した。
 昨日の態度も、今日の態度だって。
 つきまとってたし、キラキラした目で見てたし、体を密着させたがっていたし。
 革にだいぶ惚れてたみたいだったのに。
 ……他の男棒をつまみ食いされた割には、革はムカついたようすもなく、いたって大人な態度で、女をイスに着席したまま見上げている。
 コケにされたってのに、なんなんだその寛大?……と、友人としては延々、首をひねりたくなった。
「あーわかるわかる、言いたいことはわかる。みんなこんなもんなのかって不安になったんだろ?」
 革は何も考えていない、力ぬけきった顔で、首を斜めにする。
 自分が激怒するどころか、むしろ、相手をなだめるような言い方で。
 その返しにつられて。
 再び視線をふりわけて、わなわなと震えながら立つ女子を、よく、見直してみた。
 そうしてよくよく観察すれば、顔面を埋め尽くしてるのは、図星をつかれたあせりや、公衆の面前で暴露された怒りじゃない、のがわかった。
 瞳にいっぱいに盛り上がってきている、熱そげな涙も。
 失禁しかねないほどに大きくブルついている、膝や足首も。
『捨てないで』
 目で、形相で、全身で、すがりついていた。
「違うんだって確認できたのはオメデトウだけどよ、その間にこっちは『もういいや』になったんだよな」
 革は、耳たぶの後ろあたりを、いかにもカユそうにぼりぼりっ、と、かきむしりながら。会話をシメてしまう。
 傷つけようとする意図すらない。すっきり片づけようとする意欲もない。
 そっけない、という形容ではおっつかない。
 含まれているのは、ただ、ひたすら、
『売り切れですよ?』
 そんな事実通知の、香り。
 お、あと一分。
 便所、便所。
 場違いでのんきな事を言って、身軽に起立する、革の長身。
 イスを蹴る音。木が床をひっかく音。
 黒基調な冬制服の、肩、ふれあわす距離ですれちがう、肉体関係アリだった中学生男女。
 ――通常、中学生ってのはもっといたいけなんだよ! 見やがれ、人垣で遠巻きにしてる目撃者ンなかに、意味わかんねー顔のヤツいるよ!
 そう叫びだしたくなるような。
 ド修羅場を。昼休みですらない、ただの授業時間あいまの十分休憩、教室の微妙にまんなか寄り、で、かましていた男だった。
 そんな。
 不安になるほどのセックス。おそらくは快楽の深さの、あまり。
 そういうのをする男だった。
 同級生だった、いとけない頃、にさえ。

 ……こっちも顔を、微妙に爛からそらした。
 おそらく、ソレ、がどんなものなのかを真に知るには。それこそ身を以って『実感』するしかなく。
 それはゴメンなんだが。
「どぉんな…………セックス、してんだか」
 からかい、たっぷりに、口から出したセリフが。
 自覚できるほど、加えて指さしケラケラ笑ってやりたくなるほど。
 喉がヒクついた、動揺やら嫉妬やらがあらわれた発音になってしまい。……みっともない。
「ん〜」
 爛が、右手を、自らの眼前にもっていって。
 リズムを取るように、円描きにその手首を揺らし。
 一本ずつ指折って、謳い上げていく。
「パワフル、神速、濃い、多い、スタミナ権化……」
「――オイ」
 切り裂くように爛を見つめた。怒りを伴って。
 ……下ネタ的な話じゃねーっつーの。
 一応……なんだ? なんだろう。
 真面目な? 真面目?
 ……まがりなりにも真剣に、こじれた肉体三角関係、について、お話し合い、をしているわけだ。
「太い、長い、密度みっしり、でこぼこ、強い」
 今度は指を伸ばしていって、そう箇条書きにしていく爛。
「だから」
 不機嫌に懸命に、抑止しようとする。
 爛は、ようやく指折り数えていた手を、ひたいへ移動させ、
「ごまかしてるんでもないよー中学の頃から、こう、だったんじゃね?」
 紅い頭全体をなぜるように、手を広く、前髪をかきあげた。
 つい、息を飲んだ。
 性行為に疲れた娼婦みたいな、モノトーンの色気がふわりと立ちこめた。
「……おれは寝てねーぞ」
 即座にそこだけは、否定すると。
「うん。でも、革が寝た女は何人も見たでしょーよ?」
 キィッと首をねじって、横目で見上げてきた。
 赤みの強い黒目。
 ……否定できない。いまさら、ショックもなにも、ないだろうし。
「チンポでのしあがるってのはこーゆ〜ことだねー、みたいな。女、服従するでしょ、高確率すぎで」
 無理もないよ。
 ぽそ、と、抑揚なく言う。
 そして、ゆっくり両腕を、折り曲げた。じぶんの腹をかかえた。視線もそこへ落とし、
「おれでも妊娠したんじゃねェのかと思ってるからね、朝には」
 ひらいた両手を、下腹部にあてている。
 幻覚の胎児を慈しむような姿。
 ……そんなにか。
「子宮とかナイおれでもそうだもんね。女のヒトなんか、ひとたまりもないよね多分」
 アッツイのよ。
 おそれを含んで、そう、双唇から零した。
 ……多分、言うままの意味だ。
 肌と、肉塊と、液体と。
「……なんで」
 やわやわと爛の口から与え続けられる、ショックに。
 現実感を失いかけたまま。
 茫然と、一言、呟いていた。
 ……ちゃんと、浮気、の酷薄な事実を、飲み下せていて。
 それを容認することを知っていて、経験もできていて。
「なんで、がまんできないんだ。正妻だけは」
 ヒシヒシと疑問で、つきつけてしまう。
 爛が精神的に崩れているのは、おれに『さげわたされた』かもしれないからでも、革が離れているからでも、ない。
 ひとえに、強力なバックボーンとなる正妻を娶るから、ただその一点だ。
 革は仕事上、これからも何人もの女と関係を持つ。持つ。
 持ち続けることが、王となる必須条件の一つ。
 その単なる一環として、正妻の存在も、飲み下せないのだろうか。どうして。
「……がま、ん――」
 爛から、煮えきらない返答がくる。一音が長く引き伸ばされた、唸り声で。
「今だって我慢、できてないよ……一晩中でヤリまくって、死ぬ一歩前ってか、実はもう死んでるのかもと思わせられた後でも……底なしなモンってあるもん……」
 淡々とこぼされる、爛の吐露。
「まともに座ってることもできねえし、目ぇかすみっぱなしで、とてももう相手できねえんだけど。それでも革が『よそ行くのかな』って感じ取ったら……つい、『よそ行かねぇで。まだ、搾れるから』って、力もう入んねぇ指で、鎖骨なぞっちゃったりするもん。そんで……『あーあ』って呆れられる……」
 ……奴属させるようなセックスの嵐で、奪われて。
 体力気力がボロボロで明けた朝に、なお。
 どこにも行っては欲しくないと。
 秘匿された泉からコンコンとわきでる、独占欲。
 一見、もう水気がないように見えても、踏みしめれば水しみだす、スポンジみたいだ。
 ……革とは違う意味で、底なし、だった。
 爛らしいと言えば、そんな気がした。
 よく似合う烈火。
 戦闘的な独占欲。
「…………」
 口が、溶接されたように開かなくなってしまう。どこにもツッコめない。
 一体。
 どこまで、惚れぬいてやがるんだよ、革に。
 ……どう言っていいのかわからなくて黙っていると。
 爛の雰囲気が、急変した。
 激変。
 いや、変質。
「あれ。『一番』に受けていい人間が」
 白から赤。内から外。防御から攻撃。
「革の一番ワキ、固める人間が」
 小柄な背から立ち上る鬼気。
 白い、こげつく煙が、錯覚できるような気迫。
「その権利が、誰かに移るなんて」
 ゾッと――女がここにいる、と感じた。
 侮蔑ではなく、ただ実感として、そう知った。
「信じらんねぇ」
 いつのまにか真正面を睨みつけている、二つのまなこ。
 修羅が宿ったような燃えたつ色、いっそう赤みがかって見える。
「それ、認めなきゃなんねーなんて」
 両手のひらを、掛け布団の上ふわり、爛は開いて。
 赤みがかった瞳を、そこへ落とした。
 人を刃物で殺した直後の人間が、放心して血塗れた両手を確認するみたいに。
「殺す。勝手に、手が、たぶん、たぶん」
 ――殺さない自信がない。
 そんな物騒で、致命的なことを言ってる割には、やけに非主観で着実な響きを持った声だった。
 資料情報を閲覧し、述べてる感想みたいな。
 ……フッと。
 唐突に鬼火が、かき消える。
 悋気が晴れた。
 ばちばち爆ぜる線香花火の火玉が、落ちるように。
 いいや。
 息の根を止められるように、――だ。
「革はだいじだ」
 色褪せた声は、どこか清涼で。
「革の、夢も」
 痛々しくも、曇らない忠誠心を反映しているように。
「好き、にひきずられるなら、そんでどーしても、夢の邪魔をしたくなるなら。……おまえとか、他の誰か、あてがわれるまでもねぇよ」
 口汚いほどの容赦なさで、切り捨てる。自分を。
「……わかってん、だけど」
 ……それでも慕情が、ちょうど舟のイカリとなって、激動の波に、流されて、ゆけないのだ。
 消えたくない、そばにいたい。
 メビウスの輪。
 裏と表が繋がっている。
 出口なし突破口なし。
「……ダメだねぇ」
 ひぐ、と。
 しゃくりあげ。
 イスに腰かけたまま、爛は、どさっと前方に脚を投げ出した。
 両掌を、股間付近に、だらしなく放りだして。
 がっくり折れた首、上がった両肩。
 ……たまげてしまって、尻を一瞬、ベッドからビクッと浮かした。
 うわぁ、おれの方こそダメだ。
 なんだ、なんだよその、かつてないほどの崩れっぷりは。
 風呂場で泣きだした時だって。そんな泣きじゃくって、くしゃくしゃになって、顔、真っ赤にするみたいな泣き方、しなかったろーが。
 アレなんか、おれが初めて貫通した直後だったろうが。なんで。なんで。
 そんなに欲してならない、のか、革を。
「……っ」
 天井を見上げて、右腕を一杯にのばして。前髪しか生えていない頭の、位置をさぐり。
 毛足の短い頭を、ごしごし、混ぜるように撫でた。ぞうきんで掃除するみたく。
 この表情の顔を、合わすわけにはいかない。……以前に。
 顔、下げただけで、こっちも雫、こぼれる。
 誰かどうにかしろこの状態。
 手首足首、細い鋼鉄の糸にからみつかれてるみたいに、ここまでガチガチに牛耳られてる、それはそれは愚かな二人だ。
 この場に、この地に。
 こんなに長くいない男に。

 ◆

 ナース靴が早足でロビーを抜けていく足音。松葉杖を伴った体重ののっていない引き摺る歩行音。車椅子のタイヤが床を踏む、じゃっ、じぃぁ、という重い物音。
 病院ロビーの、せわしない、雑然とした背景音の群れ。
「……で、今日、これから退院だから」
 いまや携帯禁止な病院でくらいしか、活用されない公衆電話。それを前に。
 この街に来た日、教えられた革のナンバーに。
 指定されたこの時間帯、はじめて電話をし、『薬を打たれた当事者』から、一連のあらましを、不在中なグループのリーダーへ、報告し終えた。
 ……受話器を左耳下にはさみながら。
 スリッパを片足、脱いで、素足になり。足指先を、ごし、と、くるぶしに擦りつける。
 ビニールレザー素材で足先が開いていない、いたってノーマルなタイプのため、公衆電話に来るまでに歩いてきた距離で、湿気がこもって心なしか、かゆい。……もしやおれの個室の、前の入院患者、水虫だったか? 殺菌処理しきれていないのか?
『いろいろヤバかったな、今回は。……こんなこと、めったにないんだけどな。まぁ爛はよく立ち回ったと思うけど。おまえには、悪かった』
 爛からすでに十分、報告は受けているのだろう。落ち着き払った総評。
 それにしても『ちょっと危ない橋を渡った』なんて本当に思っている様子は、微塵もない。本来のリーダー、大黒柱ぶり。
『これで被害受けたのが爛だったらなー。さすがに本調子じゃなくなったかなとか、もぅ任せておけねぇかな、とか。いったん戻るのもアリなんだけど。……おまえだから』
 革はそこまで言って。
 さすがに、機嫌を。
 こちらの温度を、うかがうような間の……後。
『……帰らなくて、いっか?』
「ああ」
 もちろんかまわない。
 その間に、貰うから。
 ――譲られたものを。

 ◆

 ふぃ〜ん。
 換気扇の羽根が、風を切る音が響いている。
 湿気がたっぷりとこもってる蒸しぎみの室内を、風が渡っていく。
 気温自体はまだ肌寒いんだが、今年は。
 しーん。
 ……とした、扇風機の音すら大きく聞こえる、この沈黙が……。耳に痛ぇと言うか……気恥ずかしい。
 さっきまでひたすら馬車馬のよーにギシギシいってたベッドとか、二人分の荒いハデな呼吸音とか、爛の鼻声の悲鳴やらが、あらたまって肉迫してくる感じで。
 ボーっとあぐらをかいて、そうやって扇風機を眺めていたら。
 汗がさめてきて、くしゃみが出そうになってきた。
 どっかに転がってねぇかな、と、タオルを探しかけて。やめる。
 ベッドシーツのはじを持ち上げて、後ろ首から、ごしごしとやる。
 どうせ今日もシーツの洗濯日和、だ。……ぜんぜん晴天ではないわけだが。
 激しい運動にめくれかけてた上に、さっき爛の体に巻き取られて、もう用をなしていないのだから。
「――、み、水」
 そのシーツの繭のなかから、うなり声がした。
 ハ、として。
 そのへんのものを最低限ひっかけ、ベッドから立ち上がる。
 ドアから出て。外から洩れはいる人工の光のせいで薄闇な、人の気配のない三階を、歩いてゆく。
 冷蔵庫をかっちゃんと開いて、ミネラルウォーターのペットボトル百五十mlを、とりだす。
 帰り道、リビングを通り抜けるさいに、壁かけ時計を確認した。
 ……深夜一時、ね。
 寝室へ戻るまでの間に、既に容器表面に水滴を浮かばせた、よく冷えたミネラルウォーター。
 水色のキャップをはずしてから。
 ベッドからもりあがった、白い姿へ、差し出すと。
 シーツのおばけが、ふるふる震えてる手を、伸ばしてきて。
 ごくりごくり。シーツの中にこもったまま、あおいで。豪快に喉を鳴らす。
 天を仰いだはずみで、ぺろり、シーツが頭からはずれて。
 小柄な全裸が現れる。
 汗まみれで、乾燥状態より濃い色あいになった、苺色の前髪。
「……な、なんなんだよ、おまえ」
 水を飲んでなお、がっさがさの、老婆の肌のよーな爛の声。
 ぺたんと足をMの字状態にして座っている。おとなしげなポーズ。
 ……ケツが痛いですか? すみませんねぇ。
 どこがキスマークなんだかもあやふやになるような、赤い箇所が散りまくりの肌。
 歯型のみならず、舌で擦りすぎた跡、爪跡、指型、にまぎれこんでしまっている。
 爛の『弱い』部分に集中しているから。
 こういう風に布で隠さずに座ってると、性感帯をさらけだしてるようで、淫靡な感じだ。
 本人、わかってないだろーが。
 ……しかし、『なんなんだよ』っつわれてもなぁ。
 無感情に、しかしひそかに真剣な瞳、で見返すと。
 爛はひるんだように、への字な唇になった。
「退院してから毎日毎日……。メシはレトルトかぁコンビニだし、仕事も最低限しかしてねーし、もぉ日付もよくわかんねーよおれぁ。なんなんだ、おまえ、絶倫だったのか?」
 ペンギンかなんかの目のように、まんまるになった瞳で、うつろに並べている。
 何かに驚いてるんでもなければ、こちらを怒ってるのでもない。
 ただただ混乱し、現状を分析しようと試みて、あてはないけど頭を回転させている、焦点のない目。
 隣に腰掛けて、淡白な観察の眼で、ジーっと眺めていたが。
 だいぶ復活したみたいだな……と予想をつけて、こりずに腕を伸ばす。
 ここ数日は、変わらない。一戦二戦できるだけ戦、ぐったりと泥のように眠って体力回復、目覚めてメシとシャワー、可能な限りそのサイクル。
「うわ、うわ」
 捕獲の腕をかわしたそうに、爛は頭をふり回すが。
 別段かかえる必要もない罪悪感をかかえてるせいだろう、結局、おとなしく捕まる。
 下に敷きこんで倒れると、
「おまえ、遠慮しなさすぎ……」
 ちょっと血の気が失せている顔で。
 小声の、深刻そうな非難。
「う、くぁ……」
 亀頭を逆手に、掌にのっけ収めて。
 親指で雁首をのけぞらせるようにしごくと、完全に苦しそうなだけの、爛の声があがる。
 たいへん失敬だが、ヤハリ自覚はある、ここのところの理不尽なしうちだけに、そうとも口に出せない。
 ……まぁまぁオーラス時には、さすがに追いついてくるだろ。
 ここんところはそん時も、いくにいけないみたいな事になってるけど。
 自分でもびっくりはしてんのだ。こうも勃起がコンスタントに続く経験は、もちろん未知の領域。
 いくらでも、という高みが見えるぞ。
 そろそろ休憩か、と思っていても、つっこめば正直、本腰にビンと復活するという状態。
 原因はハッキリ、爛の体にある。
 どうも。気を許している相手、しかも『命の危機』にさらしてしまったという弱気、の。ダブルパンチで。
 最初の時みたいに、ガチガチ人形で拒絶してこないのだ。
 積極的とは言いがたいが、拒絶とはとても言えない、その加減。
 そうすると。『さすが』と形容するのはムカつくし……恋情をヌキにするのも、獣のようでなんなんだが……。
 要は獣の論理で、物理的に物すっごい。
 ということは、こっちとしては、ひかえる理由はないわけで。
「ゥ、ひあ」
 ご乱行、となってしまうわけだ。
『なんなんだよ』ってなぁ。
 理由なんかひとつしかないだろ。
 とりあえず、体から追いついていこうと思ってんだよ。

 相手だけではなく、自分だって、こんだけ性生活送ってれば、時間感覚ってあやふやなのだが。
 時計の短針が三時すぎ、の位置で。
 コンコンッ、という軽いノック音ののち。
「らーん、らんっ」
 非常にアホっぽい、春のお花が咲き乱れたような呼びかけが、ドアの外からかかった。
「……ぉ、ぉう」
 幾度目かの小休止に、屍と化していた爛が。
 既にバスタオルがわりになったシーツを、山に盛り上げ、のっそりと顔を出した。
 で、ドアの外に、かろうじて声を届かす。
 ……んー、こりゃ、これから仕事だな、と察して。
 リモコンで、部屋の電気を、一段強めた。
 明るくなった室内、身支度をととのえだした爛を。あぐらをかきながら、無言で見守る。
 猫っぽいくっきり二重の目には、いたぶられた後だというのに、クマが浮かんでいない。
 若いから、以前に。わりと小作りなパーツで構成された、上品な顔立ちのせいだろう。
 そう考えていたら、スライドさせるように顔を巡らせ、爛がこっちを見た。
 ……涙が残った、赤く充血した目を、スウッと半眼にして。
 ガラッガラに干上がった声で、一言、恨みごとを投げてくる。
「類友……」
 誰と比べてんだよ。
 そう思いながらも、にやにや笑いを続けられる。
 さっきまでさんざん抱き尽くしていたのだ、それ位の余裕はある。
 ……類は友を呼ぶ、最初の頃、おれも爛を見て、思ってたな。
 ぜんぜん別の『暴力沙汰』というジャンルでだけど。
 まだなんかうーうー不満げに鳴きながら、爛は。
 茶、黒、紺、紫の四つの配色が大胆なTシャツをかぶり、手近なジーンズによろめく足を通して――細い膝がガニ股になっててガタついてるのが可哀想と言うかおもしろいと言うか――よろりと立ち上がって部屋を出て行った。……頭痛こらえるように、後頭部に利き手を添えながら。
 ほどなく、少し遠くから、バッタン。
 なにがしかの相談事を持って階段を上がってきたメンバーを追いかけて、リビングに閉じこもった気配。
 ……それを聞き届けてから。
 おもむろに自分も、服を着こみだす。かわりばえのしないジーンズ、裾が長めの洗いざらしなグレーのコットンシャツ。
 のっそりとドアをあけ、廊下に出た。
 ――目撃者なしになってから、の、合流。
 非常に『不倫』な気分だ。
 しかも、家庭内不倫っつーか。
 密室じみてて、ヤタラメッタラに狭い趣向。
 いずれ誰かにバレるな、と、歩きながら、のんびり思う。
 何より、徹底的に隠そうとはしていないのが致命的だ。
 ……リビングのドアをくぐると。
 二人は立ったまま、お互いの距離を近くして、なにやらまじめに話し合っていた。
 眉間に皺を寄せている爛が、手先を口もとにかざす感じで、微妙におおいながら、
「エ、段階……、どこなのソレ」
 と、ぼそぼそ質問すれば、
「法律……まだ……」
 答える相手も、ぽしょぽしょ、と声を潜めている。
 こいつは爛の側近とも言うべきヤツ――五千万円運搬したり、集団幼女強姦イベントぶちこわしで運転手をつとめたり――な、白金でツンツン逆立った髪型、のメンバーだ。
 教室すみにかたまった女子の内緒話、みたいな女々しぶりで、二人して、
「………………消滅してな…………?」
「いや、でも今日、銀行……は……って見こみは確実……ら」
 相談と言うか、密談中。
 それにしても。
 幼い若者と、若い若者が、なんとも後ろ暗そうな会話をしてんなぁ……いまさらだけど。

 雨上がりのビル街、まだほとんど光射さぬ早朝。
 水の名残のミストっぽい空気が、爽やかだ。まぁどうせ今日も、そのうち降りはじめるに決まっているが。
「おはよーす」
 いつものとおり爛と二人、出動した先に待っていたのは。
 爛と張るくらい小柄で、めがねをかけた、ねずみっぽい出っ歯とアゴを持った男。
 そいつが、ピッと。
 三角形にとがらせた手先で、『○○レンジャー!』とかそういう、特撮戦隊モノちっくに、敬礼してきた。
「経理のトキ」
 爛の、簡潔にすぎる人物紹介。
 ……いや、経理のトキじゃなくて。
 もうちょっと説明が欲しいところだったが、
「きょおのターゲットは、こんビルのオーナー社長さん。銀行取引も停止カウントダウーン!」
『トキ』は気にした様子もなく、楽しげに説明を開始した。
 壇上の司会者のように、片腕をバーンと広げて、目の前のビルを示す。
「にわか占有屋に立てこもっちゃって、出てきてくんないらしぃーのよコレが」
 なんつーか、ノリノリだ。
 ゆうべは完徹だったのだろうから、それでテンションがハイなのか。それとも常にこう、なキャラクターなのか。
「でね、不渡りが産声あげちゃいましたよ、ってなカホリをぉ、ナンバァワンに嗅ぎつけた〜。例の組のお兄さんがたが、ひととーり、フィルムで強化したガラス扉、砕いて裂くぞコラァ、って脅したり。電話攻撃したりもしたんだけど。お話し合いに応じてくれませんのよこれが」
 かちゃり、と、四角い輪郭を持っためがねを、ずり落ちたらしい鼻にかけなおしながら、
「で、このへんに拠点もないし、朝になっちゃったし。一般人に見られるとねぇ? 人相も風体もあれなんで、四課と顔合わせるのも、まるで揉め別れた元カレとのバッタリ再会、みたいに気まずいなぁっ。……ってことで、こっちにお鉢が来まして」
 とんだ顔合わせにくい元カレもあったもんだ。
 四課って、暴力団対策専門の、警察の部署だろうが。
「富士山とかあふれる愛とかから、債権譲渡、一手で受けてるから。他の債権者おさえて、このビル、かなりのパーセンテージでむしれること確定らしいよーっ」
 なんか生々しい話だ……債権譲渡、貸した金とりたてる権利の移行、て。
 しかも富士山だの、あふれる愛だの……ソレってCMでもおなじみな武富……とか、アイ……だろうなぁ。
「んじゃ、いぶりだしはよろしくねん〜ッ。……こっちは組さんから貰う報酬の計算、してくるからっ」
 浮かれた、徹頭徹尾ふざけていた調子で、話を終えて。
 いそいそとはずむような足取りで、アジト方面へ去りゆく、男の背中。
「こんでかなりの利益みこめるわ、来年にはアノ会社、株式にしちゃおう〜っ」などと、なんだか経済っぽい独り言をくりだしている。
 そんな退場をよそに、既に、
「……ええと、このビルの玄関付近の警報装置は、たしか」
 ぶつぶつ。細めた眼で、唱えるように計画を練りだしている爛。
 警報装置の位置って……。『パトロール』で覚えていたんだろうか。
 街を、己の庭としている、把握ぶり。
「……の、三箇所で。器物破損罪にひっかかんないようにイジれるのはアレだけで、まだ震動感知タイプだったはずだからー」
 いちいち闇社会に片足つっこんだような計画を立てるな、頼むから。
 器物破損、って何をする気だ。
「風、傘、貸して?」
 突然、こっちをふり仰いで、手をパーにしてさしだしてくる。
 身長差そのままに、おもいっきり見上げてくる瞳が、普通に愛らしい。……末期だ。
 心中、げっそりしながら、武器としている藍色の傘をさしだすと。
 爛はそれを、剣のように高々と刺し持ち。ビル正面玄関のガラス扉、天井近くを、ためらいなく強く叩きはじめる。
 がっつんがっこんどっこん、滅茶苦茶スタンダードな、強盗っぽいサウンド。
 当然、そんなことをすれば。
 ビー! ビィー!
 乱暴な扱いに対する抗議のように、警報機が不服を申し立てはじめる。
 音にとっさに反応し、脊髄反射に逃げようと、身じろぎした瞬間。
 ツン! と強烈なひっかかりを覚えて、横方向に進もうとした力の流れが、抑止された。
「おい?」
 そのひっかかり点に向けて、首をひねり、問いただす。
 原因。
 コットンシャツの裾を、爛の右手に、固くつかまれていた。
 しかし爛は、まったく動じず、
「まだダメ」
 前をきっぱりと見すえて、仁王立ちまがいに佇んでいる。
 泉鏡のような、冷静な瞳。
 何を計算してんだろうか。
 ……そのまま三分ほど、ハラハラ、棒立ちになっていると。
 ガラス扉の向こう側、ビル内部、長い廊下の果て。
 遠い床面に。
 ふと、薄い影がゆらめいた。
 それの根元に、チャコール色のくたびれた背広の、脚の一部と。靴先が見える。
 このビルに立てこもっているオーナーが、鳴り響く警報機に、様子を見に来たらしい。
 しかし、近づけば、強化ガラスをむりやり破壊されて何か危害を加えられる、とでも思っているのか。
 遠いその位置から、動かない。チラチラ頭部らしきものが曲がり角から見え隠れするので、こっちを盗み見てはいるらしいのだが。
「よし、ゴー」
 ポン。
 突如、うながしの言葉と共に、爛に背中を叩かれて。
 ハッと我に返り。
 次の瞬間、はじかれたよう、走り出していた。
 ……首をかしげながら。
 なんでこのタイミングだ?

 そして。
 なんで。
「……なんでこんなに近いんだよ……」
 ビル壁に尻を、体重をあずけ。
 ぐったり、首を丸め、肩を落として、嘆いてしまう。
 爛にひっぱりこまれ、身を隠したのは。
 姿どころか、ヘタしたら声さえも聞こえてしまいそうな、さっきのビルから距離にして約二十メートルしかはなれていない、ビル狭間。
「こんくらいでいいんだよ〜」
 まのびした返事をしつつ、しきりに爛は。
 春のつくしかなんかのように、顔をぴょっこりビル影から出しては、問題の方のビルを見ている。
「あ、いらっしゃった」
 そして。
 ド敬語で、嬉しげに、もてなすように歓迎するは。
「……え、ぁ?」
 気になって、爛の頭の上から少し顔を出し、自分も問題のビルを見ると。
 一人の人物が、来訪していた。
 ポケットの多い、茶色の制服。白い軍手で保護された両手。
 頭は、メタリックに銀色なヘルメットに包まれている。
 上着の上腕部分に縫いつけられたワッペンには、会社のマーク。
 ……つまりは、多分。
 このビルが契約している警備会社の、警備員じゃねーか。
 小太りの中年……さっきのくたびれた背広の主だ……が、ガラス扉から出てきて、警備員に対応している。
 会話はとても聞こえないが、内容は予想できる。
 何かありましたか。侵入しようと扉を乱暴に叩いていたヤツが。だいじょうぶですか。とりあえずは逃げていったようです。
 おそらく、そんなやりとり。
 ドン。
 ……唐突な重い衝撃音で、それが中断された。
 ――短い距離を弾丸のようにダッシュした爛が、中年男の体を軽くひっぱりだし、ビル壁に叩きつけた炸裂。
 旋風の速度でおこなわれた、一連の動作。
「西森さん、おはようございっますっ。やーちょうどお話したくて、尋ねてきたとこだったんですよ」
 満面、満開、爛の笑顔。
 だが、ビルのオーナー『西森さん』の頬下は、爛の右手により、くっきり手形に陥没している。ギリギリとビルへ押さえつけられ、口封じをされている。
「おい」
 ……まぁ、当然そうなるわな。
 目の前でそんな悪行かまされて、硬い声で。爛の背後から警備員。
 その茶色の制服を。
 あいかわらず咲き誇る笑顔で、ふりかえって爛は、
「あ、ごくろうさまです、気にしないでください、僕と西森さんは年齢差こえての親友デスカラ」
 へつらった対応。
 その爛の右腕先で、予兆もなく。
『西森さん』の、上唇あたりの下から。
 パキィッとこもった、しかし確実な、損傷音。
 ……前歯ァ、地味に折れましたか?
 まぁ、このあっけなさからして、さし歯かなんかだったんだとは思うが。
 完全に凄みに呑まれてるのであろう、両腕は空いてんのに、爛の手をひきはがそうと抵抗もしていない『西森さん』。
 スッと爛の左手首が持ち上がり。
 鼻水と、少々の涙で濡れた、『西森さん』の鼻下を。素手でこしこしとぬぐってあげている。
 ――あげてる、って表現も変か。
 その反応液の元凶。犯人、なのに。
 ふたたび、肩越しに、爛は警備員へ顔を向け、
「じつはぁ西森さん、昨日づけで手形の不渡り出しまして。んでそんな不渡りが、今日からえんえん続くこと確実でして、ミッドナイトラン寸前なんで。『ビル警備』のお給料以上のお仕事なさらなくともですねぇ、口コミで評判落ちることも、警備会社の方へあなたの名指しでチクりが行くこともないっすから」
 いやらしーく。
 ここでシッポ巻いてもデメリットなんかないんだよ〜、と、伝える。
『犯人が逃げ出すとこわざと見せて、油断させたあとに、警備員がくれば。ノコノコ出てくるだろ。ってことで、おまえを利用しただけなんだよ、用は済んだから、黙って何も見なかったことにして帰れ。護衛しなきゃまずいんじゃないかとか余計なこと考えずに』
 裏に隠れているのは、そんな本音。
「まぁ、なにがしかのご不安が、まだあるようでしたら」
 とどめに、ドカッ。
 いきなり背後から、片肘で、腰の裏をどつかれ。
 おれが前方へ、おしやられた。
 たたらを踏まされ、二歩、警備員と近づくハメになる。
 ……パッと見的には、つめよる、様にだ。
「こっちと心ゆくまで話し合ってください。――言葉で」
 ……言葉、を強調すんな。
 話し合い、を必要以上にアピールすることで。
 逆のことがプンプン臭わされる。
 いかにもビルの隙間につれこんで、なんかやるみたいじゃねーか。
 ――長身でいかにも鍛えた筋肉の男と、それなりな柔道経験くらいしかなさそうな警備員……しかし会社の看板をしょっている。
 が、二人、気まずい対峙。
 沈黙が鉛のよーに重い。
 こっちに争う意欲はないんだが……。……まぁ、もしビルのはざまに行って、そうとしかならない雰囲気になったならば、傘ふるわねばなるめぇよ。
 そんな、悪人をみねうちで済ませられない場合の武士のような、時代劇な心境でいると。
 ゴホン。
 ……警備員が、もったいぶった。
 どこか罪悪感にまみれた、咳払い。
「事件性のないトラブルと判断いたします。また何かありましたら、ご遠慮なく」
 ……今、思いっきり『何か』に遭ってるだろうがよ。
 社交辞令、マニュアルにのっとり、なシメの台詞に、内心おおいにため息をつく。
 背後をチラリとかえりみると、ウルウル、捨てられた子犬の目で、中年男は警備員にすがっている。
『西森さん』にしたら、警備員はボディガードとも言うべき。
 味方、騎士、守ってくれるはずの存在、だったんだろうが。
 ……まぁ、それは期待しすぎってもんだ。
 誰が。法律的にあんまスキのなさそうな理屈、しかも暴力をかねそなえた相手へ。
 会社に名指しの密告が行かない……行っても、既に金払う顧客じゃなくなっていて効果が無い……という保証までついてきているのに。
 身を粉にして戦いをいどむだろう。
 ――ぺこり、丁寧に四十五度以上のおじぎをしてから。
 カツ、コツ、黒い革靴を鳴らしながら、早朝の閑散とした街を、遠ざかっていく警備員の。背広のような作業服のような、独特の背中。
 人情紙風船……という言葉を思い出しながら、見送ってると。
「夜分からの勤務、ごくろうさまで〜す!」
 特盛り、つゆだく、玉つきの、爛の媚び。
 いつでも絶賛、いくらでも売り出し中。
「さて」
 そうして、首をぐるんと返して『西森さん』へ向き直った時には。
 茜色に塗り替わった、虎の眼。
「奥でお話うかがいましょっか。ちなみに手ぇ離すのは、お互いイスに座ってからっすから。まともに息吸いたかったらイイコで歩いて、な?」

 ◆

 換気口に吸いこまれていく、濃い大量の白煙。
 ジュジュウ、パチパチッ! 動物性に濃厚な脂身がこげる、食欲をそそる香ばしさ。
 身からスタミナを呼び起こすような、にんにく混じり、醤油ベースのタレの匂い。
「いや、一仕事こなしたあとの肉はウマイね」
 目の前のアミ上で、焼きあがるはじから。
 口にぽいぽいぽぃと、放りこんでいく爛。
 ――破産を見送る。むしろ早める。という、そこそこ後味の悪い仕事のあとで。
 カロリー高い重い食事を、食欲旺盛に、ぱくぱく腹におさめられるってのも、どうなんだ。
 性格わるー。
 ……そこがカワイイ、と思わなくもないが。
 おれは、人の不幸を食っている気がするぞ……。
 そんでも、まぁ、箸は伸ばすわけだが。
 肉をつまむ。これは『ツラミ』。
 顔の部位で、頻繁に動くところなので、濃厚なうまみが味わえます。と、回想する、セルフサービスの生肉トレイの、説明文。
 むさぼっているのは、定額の食べ放題コース。
 西森さんとあらかたの話がついた頃、ちょうど到着した怖い兄さんがたに、引き継ぎを済まし。
 さらに携帯電話でさんざん、何らかの処理指示を、テキッパキッと出したあとの、
「あ、腹へったぁ」
 との、爛の我に返ったような一言で、ここへ来た。
 駅前ですでに開店していた焼肉店。
 入店直後は、朝一につき店内の客は、自分達をふくめて三組しかいなかった。
 他の二組は。夜勤明けのタクシー運転手と、早朝割引タイムで稼いだ後の風俗嬢らしき女達、で……。
「…………」
 チラリ、遠いテーブルにいる、その風俗嬢らしき四人組に、視線を走らせてしまう。
 やかましいはずの女の小集団だが、仕事疲れらしいローなテンションで、各自、もそもそと口を動かしている。
 食事の前、爛は、その三十代らしき女の四人グループに、近寄っていって。
 なんか、やたら親しげに、会話をおこなっていた。
 歓声を上げられたり、頭をなでられたり。しまいには一人の女に『ハグ』っぽく軽く抱きしめられたり。
 きっと、なわばり管轄の店の女達、なんだろう。
 ……未成年も未成年なのに、どうしたもんだか。
『そういう知り合いがたくさんいる』こと自体は、法律違反でも、条例違反でも……。ない、わけだが、ああ。

「……ん、まんぷく!」
 テーブルすみの容器から、一本抜いた、つまようじを右手に。
 牛肉を何百グラムか食べ終えた爛が、イスから身軽に立ち上がる。
 そして、会計に向かっていく。
 ……のかと思いきや、レジに行く前に。
 少し、通路を遠まわりに迂回しやがった。
 再び、女集団へ声をかけに、近づいていく。
 最後にまた、二言三言、笑顔でおしゃべりしている。
 ……帰る前に挨拶入れるとは、ずいぶん礼儀をつくしている。
 なついてる、とも言えそうだ。
 どうも、女達に向けている顔が嬉しそうで、ふだんより、少し子どもっぽい笑顔、に見えた。
 爛の母親、と見れなくもないのもいる、女達の年のせいだろうか?
 ……けれど、だ。
 茶色の二点ギリギリまで出した、たれぎみの乳房。
 セクシィ見せしてるモロ肌は、仕事終わりにつき、商売柄から精臭漂うよう。
 ……を間近にしても、動じてないこと、岩のごとし。
 ――だから、おまえ、年齢考えろ年齢。
 女の柔肌に、動揺しなさすぎだろ。

 精算をすませて外に出れば。今日はまだ、かろうじて曇り、をたもっている天候。
 少しだけ青い空、でもすぐにまた翳りそう。
 つまようじを、歯につきさした状態にしたまま、
「うぁぁ、食いすぎた、食いすぎた」
 ぐいーっと、朝の空へと腕先を向け、いっぱいに伸びをし。
 爛は、苦しい腹を悔いるような発言。
 シーシー。自分もつまようじを使いつつ、その横へ追いつきながら、
「すぐカロリー消費すんだろ」
 もはや。
『暗に匂わせる』というレベルではなく。
 帰ったらまた励むぞー、と、宣言すれば。
 あからさまにゲッと顔を顰め、非難のまなざしを投げてきた。
 嫌なら断ればいいと思うんだが……まだこの間の件、気にしてんのかねぇ。
 かわいー奴。
 帰り道、
「あとは組さんの方に、だいたい実働が移るんだけど。手配がちゃんとイッたか、ちょっとチェックしていきます」
 ……と言い出した爛が、散歩みたいなマイペースな足取りで、さっきの場所へ足を向けた。
 くだんのビル前、に到着すると。
 問題のビルを、おろおろと横目で見ながら、どこかと携帯で電話連絡している、見るからなビジネスマンが路上にいた。
 若者らしく態度悪く、さっさと地面へしゃがみこんで。前髪をかきまわしながら、その人物を観察しだす爛。
 ビジネスマンは、『今朝、銀行取引が停止しまして』とか。
『資料を見る限り、債権者集会でも勝てないと思われ……』とか。
『いえ情報監視をおこたっていたわけでは決してッ』とか。
 ……なにか修羅場っている。
 爛が、
「他の債権者さんだね〜」
 と、あんまり興味なさそうに言った。
 債権者……。
 このビルのオーナーに金貸してた会社、そこの社員、か。
 生き馬の目を抜くっていうのは、いかにも強烈な表現だなぁ。
 ぼーっと、そんなことを考えた。
 生きてる馬に、数人がかりで一斉に群がって。
 その馬脚を生かし走り去られようとも、ともかく目標の目ン玉だけは、ズゴッと強制的に、どーにかしてえぐり抜くわけだ、馬本人や飼い主とかが、泣き叫ぼうとも意に介さず。
 ……しつこく、つまようじで。
 肉をむさぼった後の、歯隙間をいじくっていた爛が。
 遠ーい、瞳で。
 死んだ魚。ちがう、もはや死んでだいぶ経って、スゴイ腐った魚みたいな、似合わない瞳で。
 ポツリと、
「西森さん、慣れない土地での生活は最初タイヘンでしょーが……。お元気で」
 薄あじに、葬送した。

 ◆

 帰宅の道は、いつもの慣れた繁華街の人ごみ。
 すっかりと、爛の先導なしだって、縫って歩くのがうまくなった。
 そう思いながら、人の頭の群れを、見渡していて。
 ……その群れが薄墨色に沈んでいること、日中とは言いがたいほどに太陽が陰っていること、に気がつく。
「…………」
 顔を天へむけると、曇天に変化している、空。
 今年の梅雨は本当に長い。この街にやってきてから、雨ばかりを拝んでいる。
 ……こりゃあ、今日も雨模様、と。
 ふぅ、ため息をつきながら。
 横下の、爛の姿へ、目をもどす。
 ……その時ちょうど。
 爛の斜め後ろから、歩行者一人の肩を追いこして、男が一名、抜け出してきた。
 ふらり。
 足どりが、ラリっているように、常人と比べて違和感があって。
 奇妙に視界にとまる。
 眼球を数ミリ動かし、足元から、今度は人相に、目を向けた。
 真っ赤な――細いめがねフレーム。
 既視感。
 知っている人間。
 最近かかわりを持ったことがある人間。
 同時に、ダイアモンドと似た、強いきらめきが目に映る。
 ……なぜか。
 ぱちゃんという一瞬の水飛沫を、じっくりと水の動きを追いきった、観賞できる長いフィルムに変える、超スローモーションカメラの映像。
 そんなように千里眼じみて。
 ぶつぶつ。
 まじないのように呪詛を唱えている、危ない、据わりきった憎しみの眼も。
 キラリ。
 かたくつかみ固めている、刀身が長い、出刃包丁の輝きも。
 演出のように細部、切り取り、切り取り、一秒すらかけずに、走馬灯のようにものすごい情報量で、目から流れこんでくる。
 とっさ、というほどのヒマもなかった。
 倒れこむように前のめりになりながら、体の全面積かけて急いで、爛を押す。
 …………だ、から。シロウトは怖いっつーんだ。
 止まれよ、目の前でなんか大きく人影が動いたら。
 アッパレだよ。
 どーしてそのまま。
 ちょっとも止まらずに、全身全霊こめて刺すかよぉ。
 ――脇腹に灼熱が生じてる。
 熱、熱いって、『痛い』ふりきって、肉がドンドンむしられなくなってくみたいに熱いんだって!
 どぉっ、と倒れる物音が響く。骨から、びぃん、と、かき鳴らすような衝撃が、身の内へ。
 自然法則に従って、アスファルトにタックルしてしまったのだと、知る。
「――、あ、っ」
 空白、驚愕、対応。
 一泊ずつ塗り替わる、はるかに感じる、高い頭上からの、爛の声。
 直後、ダガッ! という。
 爛お得意の、蹴りが決まる妙音が、耳割るようにした。
 ……あー、立派、立派、よかった、我を忘れることはなく、きっちり襲撃者を気絶させたよーだな…………。
 いまさら、この両手をぬめらせている赤い液に、そのみなもとに埋まり光る刃物に、なんだかバッタリ倒れている男二人に、雑踏は目をむけだしたのか。
 キャア、とか、うわっ、とか、おい! とか、性別年齢反応まちまちの、ギャラリーの悲鳴が聞こえてくる。
「ふぅ……!」
 やたら近くから。
 泣きそうな、よりすがるような。
 ……好きな、声。
 膝まくら、位の、距離からだ。
 目を、よっこらせ、と、開けて、その爛の顔を見ようとしたら。
 細く露出した眼球に、細い雨粒のいやがらせ。
 季節ガラだよ。見たいものが、ぼやけて、見えない。
「ふ、フゥ、風」
 耳には分かる、あえぎまくるみたいな、吐息に近い呼びかけになってる、爛の狼狽しきりのよびごえ。
 ……うん、うん、とりあえずの対処が終わったら。素直に人間らしー感情、バラしまくっちゃう所が、だから。なぁ。
 そこが、『良くない』わかんねーかなあ、……。
 鉄分多いこの体液に、紅く汚れるのもかまわず。
 脇腹おさえてた掌を取って、両手でにぎってくる爛。ひっきりなしに強く、強く、それをギュ、ギュウ、落ち着きなく握りなおしてくる。
 つまりはそっから伝わってくる。
 沈むな、逝くな、わめきちらす、哀願の空耳。
 ……なんだか朦朧としてきた意識の下。
 その手を、そうっと、包みかえした。
 愛しいものに。
 愛しいと、告げるように。

 なぁ、爛。
 やっぱなんか、あんまりゾッとしねぇ生き方じゃねぇか、これ?
 だから。
 いっしょ、に。

 ◆

 エッ、エッ。
 覚醒を導いたのは、そんなつまった息の音で。
 目をあけると、視界の左。
 激しい嗚咽によってさかんに、しょげた苺頭が上下振幅している。……豪勢な泣き方だな。
 ――夢だったかのように、痛みがない。
 というか、感覚が異次元に飛んでる感じの腹部へ、意識をむけてみる。
 なんとなくだが包帯のさらりとした布擦れがする気がする。消毒薬の香りも、漂ってくる。麻酔と縫合と手当てのあかし。
 ま、夢だったわけはない。
 ……かえりみるように肩の上に視線をやる。
 背をつけている、全身をのっけているのは。しみ一点もない、独特に清潔な、病院色のシーツ。
 つうかな、最近まで見慣れてたぞ。
 とにかくアバンギャルドな日常なんだと、自覚しなおしながら。
 ――改めて、上方面に、目線をやった。
 頭がふりかぶられるたび、表情がチラ見えしてくる。
 皺々に、顔中心に寄って、ギュウムと閉じられた目。
 涙がかかっていて、つやつやに濡れた唇が、定まりなくぶるぶるしてて。
 真珠色の歯が、カチ、カチィ、慟哭によるジェットコースター並みの震動に、打ち鳴らされている。
 しばし。
 容赦なくガンメンにたれてきてる、涙の粒を、受け止めてから。
 はぁ、と、
「泣くな」
 ため息ひとつ、ついてから、声をかける。
 上空に腕を、直線にかかげ。利き手を丸めて、柔らかい指の根元を、爛の目尻にくっつけ。
 涙を、ごしごしと、ぬぐってやる。
 ……テレるっつか、くすぐったい、気恥ずかしい。
 だからおまえ、その。
 しっかりしなきゃと強がりつつーも、自分こそがボロボロに弱るのやめろよ。
 愛とか感じるだろ。
「革に呼びつけられてノコノコ来たからにはよ、どてっ腹に穴あくくらい、覚悟の上だから」
 涙の量産地をなぞりながら、言い聞かせると。
 上下ではなく、左右に、爛が頭をふる。透明な雫が、ぱっと散る。
「おれ、おれを……かばって」
 うぐぐ、と、上がる呼吸をこらえながら、そう言って、
「どーすんだよ、何考えてんだよ」
 すんすんっ、鼻をすすりながら。ややの逆ギレ、
「押しつけがましーよ…………」
 つれない、どころではない。
 爛の呟きに。
 うぇぇっ? と目を丸くしてしまった。
 ……おいおい、混乱してるからって、エライ率直な……。胸のうちの開示だなぁ。
 まぁ。
 燦然と『革』という存在がある以上。
 こんな間男に、まさに命がけでのアプローチ、かまされればかまされるほど、困るのかもしれないが。
 ――真紅の細いめがねフレームが特徴的だった、あの犯人には、覚えがある。
 このあいだの幼女専門強姦イベント、その主催者。
 聞かなくてもわかる、イベントぶっつぶされた恨みによる、凶行。
 ……アレが爛以外の、誰かへ向かったやいばだったら。
 そりゃ弁解のしようもない、確かに庇いやしなかったわけで。
 ひっく、ひっく。
 呼吸のコントロールもできずに、一心に泣く、こどもの情景。
 その噛み合わせようとしている歯から、責めるような文句。
「告白、も、ロクに、しねぇくせに」
 ……あー、そうだったか?
 少し弱ってしまい、首をひねった。
 尋ね返す。
「言ってなかったか?」
 夢中だって。
「……全部、ほだされてほしいと思って、やってんだよ。セックスざんまいも、代わりに刺されんのも」
 たどたど、と、まるでカッコウつかずに、
「おまえは、革が、……そんなの、わかってっけど」
 明確できない言葉多すぎ、に、言いよどみながら、
「そばにいるのも、もうダメなんだろ。相手の女、殺しそうで怖いから」
 二本腕、てっぺんにのばして、爛の首にからめた。
「じゃあ、一緒にこの街から、出ていこう、って」
 グイッと引き寄せ、ベッドに寝転がりっぱなしの胸部へ、抱き寄せようとすると。
 なされるがままに墜落してきた、小ぶりな頭。
 ……ふぅ、感嘆するように。
 ふところから、深く、呼気をはきだしながら。
「もうずっと、たくらんでた」
 しみじみ、白状した。
 うっ、うっ。
 腕が接している、肩の。胸を中心に接している、全体の。
 嗚咽にともなう、爛の身のわななき。
「……ほ、ほだされた、よ」
 ポツリ、けれどやたらハッキリ、そう短く言って。
 んぐぅと、唇から零れそうになる唾液、飲みこむ喉の音を響かせながら。
「ほだされてるよ。とっくで、もぉ、ほださ、レて、るから」
 すりり、首筋に、小鼻の頂点を。
 匂いづけするように、押しつけてくる。
「…………」
 アゴをずらし、顔を、うかがい見れば。
 まだまだリアルタイムで追加されてる、涙に、ふんだんにまみれているのに。
 ふんわり、幸福そうに笑んだ目。
 春の日なたの三毛猫。
 そんな印象を呼ぶ、ほのぼのとした表情で、ギュウ、と、抱きしめかえしてきた。
「もぉ、こんなアピール、ごめんだから、な…………」
「…………」
 ――ああ、居場所あるんだな。
 おまえの中に、その内側に。
 おれは歴然と、一個の人間のかたちとして、居るんだな。
 革との対比とか。
 かなうとか、かなわねぇとか。
 あんまり考えれずに。
 ……きめの細かいつるんとした肌との摩擦から、甘えてくる体温から、スコンと悟ることができた。
 それは、非常に。
 かけがえ、の、ない。

 ◆

 刺された当日より、麻酔が切れる、その翌日からの方が。
 あたりまえだが、少々つらかった。
 身じろぎするだけでも痛みが走る。トイレに立つのも億劫な気分。
 ……んなことでどーするよ、と、気をとりなおし。せっせとリハビリに励み。そういう流れで日々は過ぎ去り。
 自然治癒力により、傷が肉の底の方からくっついてきた感じで、痛みがだんだん消えていく。
 ――そんなこんなで。
 今度はそこそこ長居した病室から、退院する日、となった。
 ヤレヤレ、忘れ物ねーかな、と、ぐるりと部屋を見回す。
 迎えに来た爛は、ベッドの上にカバンをのっけて、私物をまとめてくれている。かいがいしい。
 ……ンンギューと、許容量こえてるみたいなのに全部つめこんで、カバンがはちきれそうになっているあたりが、そうとうに男性的なので、そうとも言い切れないが。
「――?」
 ふと、その爛の丸い頭に、違和感を覚えた。
 ぽわぽわと、なんとなく和やかな印象になっている。
 激しく華美な印象が薄れている。
 どうして……。
「ああ、茶髪に戻ったのか」
 苺なままの前髪とバランスをとるためにか、わずかに赤っぽい、明るい茶色に変質している。
 前髪以外の、ファンキーな短髪の部分。
 指先をのばして、くすぐるように茶色いところへタッチすると。
「カットしたら、プリンな黒髪がほっとんどになっちゃっててさ。こんなら、前髪以外の部分はもぅ茶色に戻していこ、って店長が」
 少しこそばゆそうに首を縮めながら、爛が答える。
「てんちょう……? ああ……。あの小デブな店長な」
 ヒートアイランドの件で、ニセアンケートを実施させた美容院。
 赤のシャツに、黒い太身なパンツだった店長を、思い浮かべる。
「小デブて」
 爛が、目の前で、苦笑している。
 そうしてファスナーを閉めおえたカバンを、肩にかついだ。
 ……どうやら帰りの道中、持ってくれるらしい。別に平気なんだが……また気にしてるな。
「さて、大先生にちょっと挨拶していこ、診断書ごまかしてもらったし」
 爛はまた、怪しげなことを小声でブチカマシながら、ドアへ向かう。
「風、最後に、ナースステーションに挨拶してこいよな? ロビーで待ってるから」
 すれ違いざま、そう言った。
「ああ。……」
 自分を追い越していく、その肩を見送る。
 後ろ姿になった、爛の小柄。
 ……前髪だけが特出して長い髪。
 他の部分は、完全な短髪で成り立っている頭。だから、今、目にするようになった後頭部は、ライトブラウン一色。
 ただの茶髪だけで構成された、髪型に見える。
 最初に出会った頃と。
 革がいなくなる前と、なんら、変わらず。
「ぁ……」
 心臓の内側に手をつっこまれ、かき混ぜられたような。
 不安。が襲って。
 唐突な衝動からの発音なために、腹筋のこもっていない、細い声をもらしながら。
 なんとなく、指で、その肩を追いかけた。
 聞こえなかったのか。
 爛は、歩調をゆるめることなく。
 バタン。
 ドアの閉まる音が、ほどなく、その背中を遮断した。
「…………」
 何も捕まえなかった、手をだらりとおろし。
 指先を丸める。
 軽くこぶし作られる、自分の手。
「――?」
 なんとなく、ナースステーションへ向かう、という次の行動を、起こせずにいた。
 ……なにが淋しい?
 どうして、地面が震えているような、不吉な予感がする?
『捕まえられなかった』
 日常にまぎれるべき、そんな瞬間を、なぜか。
 しばらく忘れることが、できなかった。
 傷ついたように。

 はこびゆく、かわりゆく、うつろいゆく。
 それは、望まずとも。

 ◆

 民家とも、店舗とも言いがたい、奇妙な家屋。久しぶりのアジト。
 住み慣れてきたため、帰ってくるとホッとする感覚がある。
 ……もうすぐ雇用期間切れ、出て行く所、ではあるけれど。
 到着するなり、爛の側近、カン高い声の白金頭が寄ってきた。
「革から電話あったぞー」
 と、爛に伝言する。
「今、いねーみたい、つったら、まぁいーや、つってたけど」
 舌打ちするような発音の言葉、を、つらねてしゃべる。
「携帯、忘れたの?」
 質問に、爛はバツが悪そうに、頭を中指でポリポリかきながら、
「や、病院に迎えに行ってたから……。病院敷地内じゃ切ってた」
 と答える。
「おんや、ぜーたく」
 白金頭が、チロッ、と爛の後ろにいるこちらを見てきた。
『サブのじきじきの送迎つきとは、贅沢な。健康になったんなら自分の足で帰ってこいー?』
 そういう、とがめるような色を、瞳の中に感じる。
 からかい半分な感じだが、本気でそう思ってもいるようだ。
 ……いーんだよ。
 内心で、ふてぶてしく返す。
 それどころか、これから。
 さらっていって、独占する気でいるんだから。
 三階のあっちこっちを回り、入院中の荷物をひきあげてきたカバンの中身を、ちみちみと収納してゆく。
 最後に、爛の……と言うか、最近は自分も寝てた、寝室に回る。
 ドアをひらくなり。
「…………」
 視覚的に、ほとんど暴力だった。
 見慣れたベッドの型。自分でも何度も洗濯したシーツ。どろどろにしたタオルケット。ぐしょ濡れにさせた枕カバー。
 氷りついて立ち尽くしたまま、脳裏だけは巡る。
 繋がる深度で、角度で、当たる箇所の変化で、さかんに形を変えていた唇。
 真珠色で綺麗に整列した歯、そこからたまに、苦悶に耐えかねてのぞく、紅い舌先。
 なまめかしい肌色を飾っていた、球状の汗。
 ……心臓が。
 素直に、ドキドキと脈打ってる。
 心拍数も上がってる、そのさかんな震動が、まだ腹に響く。
 興奮でつい足元がよろつき、逆らわずそのままふらふらと、ベッドに腰かけてみた。
 ギシリ。
 ベッドの中にしこまれたばねが跳ねる、スプリング音。
 それは、聞きなれたもので。
「――っ」
 ……火に油だ。
「風、片づけ終わった〜?」
 階下で用事をしていた爛が、ぴょこっと開いたままのドアから、顔を出した。
「あれ」
 そう言いつつ、パタン、と、ドアを閉じながら、入室して。テクテクと歩んできて。
 じぃっ。
 やたら真っ黒な目で、凝視してくる。
「……ナニ、顔、まっ赤にしてんの」
「……赤い?」
 顔の半分、耳下を、てのひらで覆いかくし。微妙に掌でさすりながら、問い返す。
「赤い、赤い」爛から、容赦ない肯定。
 ギシ。
 左足の膝頭で、爛が、同じベッドの土台にのりあげてくる軋み。
 爛の首筋から、匂いがふわ、と鼻先をくすぐって。
 次いで、ふとももに体重が、一部のっかってくる。
「フクランでる?」
 ……その気さくな偵察やめてくれるか。
 診察みたいなセリフ吐きながら、ジーンズの前、に、両手をかざしてきて。そのまま開いて、爛はボクサートランクスの生地をどけていってしまう。
「つっかえる前に出しとこっか」
 言葉と同時進行、まだ勃起しきるまえの質量を、むるん、と、外界へ挨拶させられる。
 ぺろり、舌なめずりみたく。こっちの目下で、下唇をつやりっと、潤おした。
 口もさし挟めないまま、やられたい放題に、鼓動が速まる。
「うーん、入院中、禁欲性活だったもんね〜」
 ニギニギ、と、両側から、棒を軽く揉んでくる。
 ここまでヤラれれば、しんぼうしなくてもいいんではないか、な、と、思うのだが。
「……いい、のか?」
 ちゃっかり腰に、腕なんぞは回しながら。
 一応、了承をとろうと、試みてみる。
「うわー。イマサラ」
 鼻先でケラケラ、爛は腰までしならせ、のけぞって笑いとばす。
 確かに今までロクに確認なんぞしないまま、がんがんピストンしてた人間がほざくのはおもしろいが。
 ……見惚れる、底抜けのよどみない笑顔。
 それは明快な承諾。
「んー、でも、もぅ、多分」
 笑いをおさめ、天井を見上げ。
 爛は、思いめぐらしているような顔つき。
 だけどあんま、悲壮感がない。肩の荷おろしたような、楽観しているような。
 一瞬後、目を閉じて。
 顔をかたむけて、距離をつめてきた。キスの角度。
「革とスルことの方が。ない、でしょ」
 歓喜に心臓が、野放しになる。
 トクトクと、自由に駆ける、浮かされた気分のままに。
 尾骨からつらなる、くっきりとした爛の背骨のラインを、服上からたどりながら、唇をふれさせた。
 ――チャ。
 ドアの音が。
 妙に冴えて、ありえないほど大きく、耳殻に飛びこんできた。
 ――ノックをせずに開けるのは。
 ――そんな立場にいれる人間は。
 奔らせる視線、爛の頭頂ごしに見る、先天的に恵まれた大きな体躯。
 日サロいらずな浅黒い肌。精悍な顔立ち。
 さすがに一瞬、目にした光景に、かたまっている様子の。
 瞬間的な台風じみた衝撃。
 密着している太ももから、ドカンと伝わってきた。
 そのエネルギーがぶちまけられたのは、自分へ、ではないのに。
 とっさに瞬きをしてしまい、……目をあけると。
 爛が、膝の上からどいている。
 ……ふっとばされて、ベッド下に、どかされている。
「殺されたいか」
 宣告のようなおどし。
 ゴキ。
 殴ったあとなのに、なお、骨響かせて、力をこめなおされる、小麦色の握り拳。
 息が阻害される、体躯が何倍にも見える、圧迫感。
 こっちは見もしない。爛だけに、火炎放射器のように、業火で向けられている激怒。
 そのまま、正反対の方向、ドアの外へ、踵を返す。
 機嫌をそこねた側室を訪ねた王、そんな威信がただよう、デカイ肩甲骨。
 ……気ィ。
 ……ヌキすぎて、たな。
 ておくれな見解をよぎらせながら、白いTシャツに包まれたその骨を、見送って。
 ベッドからぎしり、床に降り立って、横臥している爛へ、手をさしのべる。
 ……反応、しない。
 すぐ前に膝をついて、低い目線から、状態を検分する。
 着地がきりもみ状態だったのか、片頬が赤い。
 口元から血もはみでている。
 アレでも、さすがに手加減はされてたらしい。命に別状はなさそうだが。
 強引に、身体に腕をからめ、助け起こす。
 かるく脳震盪を起こしているらしい、濁った瞳表面。
「……な」
 茫然としている爛の口から、漏れだした。独り言。
 泣きついてくる様子などみせない。
 それどころか、知覚してもらえているかどうか、も、怪しい。
 今、革に与えられた暴力を。
 その理由を、力の限りに考えている。
 しのぎを削るように恋愛をしあう。
「なんで……?」
 浮気相手であろうとも関係者になれない。
 個人、対、個人、おぞましいほど、その、スタンスで。

 ◆

 ここが最後にさがす場所だった。
 ここにいなければどこかヨソに出かけた、と諦めるしかなかったから、少しだけ安堵する。
 屋上。
 薄青をわずかに残した、かわりばえのしない曇天。
 その下で、コンクリートに腰はおろさずに、しゃがみこんでいる。
 タバコの箱をにぎる手が。一本のタバコを、つぶしかねない力で挟んでいる指が。ガタガタと震えている。
 ……愛犬に噛まれたのが、んなに痛いショックかよ。
 犬扱いしてんのに?
 底意地の悪いことを考えながら、会話が可能なそばにまで、近よる。
 すると、
「風」
 こっちを見ることなく、口を開いた。
「おまえ、今すぐ出て行け」
 そりゃあかまわない。
 どうせ近いうちの予定でもあったし、出てはいく。
「……出ていくけどな」
 けど。
 ――殴られる、蹴られる、足首をつかまれる、もろもろに対応できる気合いを、フォームを作る。
 ふさがったばかりの傷、死闘には耐えられそうもないが。そう選んでいられる情況でもないし。
「爛は、連れてくぞ」
 そう切っても。
 革は、無反応。
 想定範囲内の言いだし、だったか。
 けど、認める気は、ないんだろう。あの態度からして。
 ……それでも、引く気はない。
 爛としても自分としても。
 サブで女役である男に、あれほどの『執着』、予想外だったが。
 ――最初にこのアジトに呼ばれた日を思い出す。
 あの日、この屋上で。
「爛を」
「よろしくな」
 そうたのまれた。
 その言葉の解釈は、事情の変化につれ、だんだん自分のなかで、勝手に変わっていっていた。
 アレが。
 当初、受けとったままの意味で。
『手を出すな』『誰にも出させるな』そのまんまだったのだとしても。
 有能な側近、兼用して、なじみのいい愛人、として飼い殺しにしておく気だったんだとしても。
「あいつは。おまえの嫁……やくざの親分の娘、殺しかねないって怖がってる」
 そもそもの発端。
 自分に有利に改ざんしたわけでもない、爛の本当の気持ちを、通達する。
「実際しそうなヤツなのは、おまえも百も承知だろ」
 山猫のような虎のような、猫科の肉食の激しさを。烈火を飼う、若い、男。
「それもこれも、おまえが好きだからで」
 爛が誰を好きかって。そんなのは。
 現時点でおよびもつきはしない、わかっている。
 ――かまわない。
「だからこそ、しょうがねぇだろうが」
 別れるしか、爛を切り捨てるしか、ないだろう。
 そんなサスペンスをはらんだ状態で、結婚生活をいとなめない。リスクだらけだ。
 びゅう。ビル群を渡ってきた風が、突風となって、やって来て。足もとで巻く。
 ……なにより、
「もう、渡さねえ」
 ……ゆるり、と。
 首を回転させ、目をあわせてきた。
 あまりに意外な、穏やかな目だった。まるで馬の、草をはむ生物の、静まった光り方。
 ふぃっと、それが、無作為に遊んだ。
 雨の予兆をはらんだ空気中に、解答を探すように。
 流線型を幾度も描くよう、さまよう目線。
「…………」
 長く停止。
 のちに、ふらり、手が。
 何かを包もうとするような形で、もちあがって。
 タバコを自然落下で、するり、滑り捨て。
 指の長く見える両手でもって、顔を覆った。
「また、かぁ……」
 なげく。
 そうとしか聞き取れない、全く場にそぐわない。
 気楽さすら匂わせる。
 まるで、心底からの諦めの。

 ◆

 コンクリート床に接しているジーンズの尻も。コンクリート壁に接しているTシャツの背中も。ひんやりとする。
 どちらかと言えば、それは、こころよさを伝えてくる冷感。
 ……こっちの体に、全身でのっかっている爛が、身じろぎする。
 むずかるように首を、少し左右した。
 前髪や鼻先でくすぐられ。胸板がいぶられる。
「……熱い……」
 言うとおり、梅雨独特の、しみこんでくるような寒さが、失せている。
 コンクリートにじかに腰をおろしていても、もう、冷えこんでくることはない。
 もう。
「……そと、出たい……」
 爛の左腕に、絡めていた右腕を、ほどいて。
 苺色に赤い、相手の前髪を。右手でかきあげ。
 唇をとがらせて、毛先へ、髪を揺らすようにキスをした。
 高い湿気にややしめった、水の匂いのする髪。
「……雨だぞ」
 口をつけたまま、ひそめた声で囁く。
 高い、鉄格子つきの小さな窓から、はっきりと水の雰囲気。
 梅雨という季節の、最後の主張。
「……出たいぃ……」
 けれど爛は、バタバタと身をよじらす。
 だだっ子のしぐさ。
 年齢層低下の甘え。
 プレイくさいほど、演技くさいほどの。
「…………」
 うなじの、茶色い短髪を。ときおろすように、指先で撫でつけて。
 相手の身を抱えたまま、右足首を、直角に曲げる。
 ――足裏を力いっぱいに、地面にあてた。

 外に出ると、雨はちょうど上がったばかりで。
 霧のようななごりを残し、去っていた。
 ガヤガヤという平和な喧騒を謳歌している、週末の街。
 歩行者天国には、ロープで仕切られているわけでもないのに、常に同じくらいの幅で、二つの道ができる。
 必ず、駅から繁華街へ前進と、繁華街から駅への後進の、二つのルート。
 子どもの頃、学校でプール時間のしめくくりに、『遊び』として作った、流れるプールを思いだす。
 ただ全員で、プールの壁づたいにしばらく、ぐるぐると歩くだけなのに。
 連鎖を起こす水流の、物理法則に従って。洗濯機のような円周のルートが、いつも作り出された。
 一見、不思議なようで。
 水の性質と照らし合わせれば、無数のうちから一つしかない、可能性。
 ――ひとつにしか行き着けない選択肢。

 居酒屋は今がかきいれどき。
 カラオケボックスも、まさにそう。
 もう少しすれば、恋愛じみた商品の販売に盛りがうつる。
 ホステスが小ぢんまりした店で接客する、スナック系。
 またはキャバクラ、ホストクラブ、に花が咲き。
 アフターやデリヘルで、その火花が散り。
 巨大歓楽都市の一日が。
 終了する。
 うわのそらに油断しているスキに、ちらしを一枚、すれちがいざま、脇の下にねじこむように押しつけられた。
 CPU特売、HDD特売、そんな単語がポップな書体でおどる、コンピュータ、パーツショップのちらし。
 だんだん普及してきてるらしいパソコン自作、しないできない人間には、縁遠い目玉商品。
「爛さん」
 並んで歩く背後から、声をかけてくる者。
 ふりかえる爛の、前髪がえがく、赤い軌道。
 まだ赤い。まだ。
「革さん、帰ってきてないんですか」
「おとといは一時的に帰ってきただけだから、もう戻った」
「それ知らなかったんですよねぇ、ああ、ちょっと困ったなぁ」
「あと一週間くらいで完全復帰するから」
 ……そんな、業務連絡のようなやりとり。
 無関心な顔で、聞き流す。
 人より、頭ひとつぶんほど、長身な視点から見渡す――夜の雑踏。
 黒い頭、茶色い頭、蠢く群れ。
 ズレるようにすれ違う、すれ違っていき続ける。
 かたくなに静止しない、留まらない世界。
 たとえ、迷走であろうと、錯綜であろうと、ただひたすら。
 ――それが都会、都市、ようは人という生命体。
 その只中で、ただ。
 立ちすくんで、狂ってしまいそうだ。
 あるいは。
 泣いてしまいそうだと。

 ◆

 爛が熟知している路地裏の近道を、いくつか経由して。
 駅前の一角、ひときわ明るいスポットに、抜け出た。
 大きな太い道路を一本はさんで目の前に、広告塔がある。
 まばゆく映像を変えていく大型モニターを、最上階あたりに備えたそれは、なにより明かりのパウダーを街へ広報していっている。
 その根元付近では、人が、まばらな混雑を見せている。
 夜よりは、昼に人が集うスポット。
 ……閉店したビル店舗の前で。閉じたシャッターに背をあずけて、楽な格好をとった。空に近い高さにあるテレビ画面が、正面に位置する。
 爛が真横で、低く、しゃがみこむ。
 身体の柔らかさが一見して知れる、くんなりと丸まった背中。
 エサを逃してしまって、マヌケにしょげた猫のようにも見える。元気の奪われた、背骨の形。
 目の前の車道に、歩道に乗りあげかねないほど乱暴な運転で、一台の車が停車した。
 ほとんど間をおかず、バンッ! と大きな開閉音をとどろかせて、タイコ腹の男が、運転席から出てくる。
 降りるなり、携帯電話を取り出して、どこかに電話。
「アイコちゃん、同伴できなくてゴメンね〜。今から行くから」
 と、まんまな会話をしている。
 キャバクラかなにかの女は、もしかしたら別の客に接客中だろう。
 留守電にふきこんだらしい。さっさと伝言だけ入れると、せかせかした様子でおめあての店を目指し、去ってゆく。
 残された車から。
 つけっぱなしになってる、カーステレオの音。
 ラジオになっているらしい。ジ、ジじぃ、こげつくようなノイズが、ひっきりなしに混じる。
 気さくな大人女性といった感じの、パーソナリティのすべらかな語りが、雑音まじりながらも、ほがらかに流れてくる。
『――このウツクシー音割れに哀愁がただようナンバーは、埼玉県のうりりんぼーさんから』

「この世で一番強いもんて何だと思う」
『グループのメンバーが、まず、いないトコじゃねぇと、まずいからな』そう連れ出された、駅そばからかなり外れた、ロイヤルホスト。
 あまりに奇妙に、とてつもなく不気味に。
 治まりきった革に。
 わけのわからない設問で、開始された。
「借金取りなんだってよ」
 ……たしかに、つい最近も、目にした。
 爛がそうなっているところを。
 回収だけを目的に、駆使できるだけ手を駆使し。
 暴力、賄賂、法の抜け道、あたりまえ。
 自分――あるいは自分の雇い主――が、つぎこんだものを、取り戻さなければ。自分の首がしまる、それゆえの。正当な気合いからくる、邪道の数々。
「……その借金取りもかなわね、取り立てに入りこめやしねー場所が、世の中に、三種類だけあるって言われてる」
 骨関節がコブのように目立つ、浅黒い手。
 それが右の、てのひらを、テーブル上で開いて。
 まずは親指を、折った。
「刑務所と」
 法の管理と、看守の監視、のある場所。
 支払い能力のない者に、「では生命保険でお願いします」に類する、どうしてもグレーに寄るとりたて単語を、不用意にはくことが叶わない。
「やくざの組事務所と……」
 単純に暴力の恐怖、居直りによる逆襲、命の保障の危機、に満たされている世界。
 命と天秤にかけてなお、取りたての成功がみこめないとなれば。
 突撃する意味すらない。
「カルト宗教の施設」

 火をつけたタバコの煙を、手元からたなびかせて、革は続けた。
「熱帯魚マニアのバーに、何度も寄っただろ」
 第二の陣地、パトロールのあいまの休憩場所。
 元青線地帯。
「あのすぐそばに、オレが最初にオーナーになった……最初に買い取って入手した店……ソープランドがある」
 明確に『売春』を約束する宣伝方法を、口コミでしか持たなかった青線は、赤線に付随した地帯に広がった。
 コバンザメ商法は、昔からある。
 この街の赤線跡地には、今も性風俗店が、非常に多い。
 百花繚乱という言葉がふさわしいほどに看板がみだれ咲く。
 ヘルス、ピンサロ、イメクラ。
 そしてソープランド。
「ソープははやりじゃねぇけど、やっぱり、他で代替できねぇぶん安泰だから」
 現代の日本の法律は、売春を認めない。
 けれど、綺麗すぎる水に魚は住まず、突然にしめつけを厳しくすれば、犯罪誘発もありえる。
 だから『チェックしきれない分』として手綱をゆるめている箇所は、どこかに、必ず。
 ソープランドでは、いわゆる『本番、売春』が、他のヘルス等とは一線をかくして行われる。
 入口で店に入場料、それから女に直接渡しの、自由恋愛と言いのがれるため完成された二段階料金システムと。
 店の者が多数、同じ建物内にうろついている『治安』のよさから。最大でも運転手、兼、護衛一人ていどで見知らぬホテルにまで出むかなければならないデリバリーヘルスなどより、女側としても体を開きやすい、という防衛面の利便。
 最後に、法律的には『銭湯』に分類されるがゆえに。
 水の使用がない風俗よりもおおっぴらに、従業員にたいして定期的に、感染症をもってないかという検診――本命は性病にかかっていないかどうかの検査――を義務づける、大義名分があり。
 実際に義務づけ、費用も支給するような店もある、だから個人ホテトルなどよりはやや清潔だと、男側もわりきれる、という事情が加味された。
 赤線――政府公認売春区域に、近代日本でもっとも近い場所。
「……オレと爛が、初めて会ったのは」
 タバコを、指先ですこし、揺らしながら、
「そのソープ店の、裏口あたり、従業員のロッカールームでだ」
 そう革は明かす。
「オレは経営の改善だの、金の出入りだので、その頃はひんぱんに顔出してた。爛は、爛の母親が、そこに勤めてて。……ああ、街、爛と歩いてる間に、見かけたことないか。爛のこと『ハグ』すんのが趣味な、見るからに風俗の女」
 フラッシュバックする。
 いつかの、爛が、ビル社長の前歯を折ったあとの。
 路上での刃物ざた直前の。
 朝の焼肉店。
 早朝割引タイムの性風俗で一稼ぎして、あいまに食事に来ていた、三十代の女。
「ありゃ、爛の母親の、同僚で……親しい友人、だった女だ。いっときは爛たち母子と、その女と、家賃ワリカン同居もしてたくらいで……べつべつの家になってからも、食事とかまとめてすることも多かったから。爛のこと、今も、姉みてーにかわいがってる。爛もなついてんだ」
 その日、爛がロッカールームにいた理由は、
「お得意さまのお客さんに、頼まれて買っておいたもの……。……ま、その日、使用することリクエストされた、大人のオモチャかエロ下着、系統のもんだったんだろうけど」
『忘れものしてんぞ、母さん』その一言をともなって。
 教育上よろしくないであろうものが入った荷物をたずさえ、ロッカールームへ尋ねてきた。
 当時、中学生だった、爛。
 ふは、という感じに、革は、軽く吹き出して、
「中学の制服のまーんまで、来てたんだぜ。紺色のブレザーで、えんじ色のネクタイで、もぅ、あんまりにも場違いすぎ、ってかな……。……体育祭の練習で、帰りが遅かったから気づくのおくれた、着がえるヒマなかった、だって出勤直後ちかくに来る予定のお客だって言ってただろ、ってアッケラカンと……。…………昔ッから、大胆不敵ってーか、恥じない、ってか、なぁ……」
 もう正真正銘なくらい子どものフォルム、してたけど。一目ぼれに近かったな、と。
「なんか、リンとしてて。目の光りが綺麗で、強靭だとか、気高いとか、そんなイメージで。磨かれる、……っつーより、削られるの待ってる、宝石みたいで」
 革は、賞賛するようにまなざしを深めながら、そう独白する。
「コイツは耐えるだろう、って」
 おもむろに、口はじを、べろる、舌先で舐めうるおして。
「オレの隣に、立ってられるだろうって……な」
 爛の母親は、店の『女の子』のなかでは、年長の部類だったが、
「爛によく似た……。美人、だったからなァ」
 雑誌や看板に顔を出してくれないか、と望まれることが多かった。
 だけどそういった、顔だし要請は、目もとモザイクであろうとも全部はねつける女だった。
 どうしても必要な、指名用の写真を撮るときでも。素顔が判別できなくなるレベルの厚化粧をほどこし、時にはさらに目尻などに、修正加工を希望する。
 ……つまりはどうも。
 何かから逃げている。
 そこに、どこの家庭にもそれなりにある『問題』を嗅ぐことができた。
 それを共有することが。
 おそらく爛の母親を。
 ひいては、母親しか守るべきものを持たない爛を。
 篭絡する直路だと、判断できた。
 プライバシーもなにもない。
 店の実権力者なのだ、保管されている履歴書や、いっしょになってる面接時のメモや、実際に面接した人間に尋ねる、革を、阻むものなど何もなかった。
 おおまかな事情は、すぐに知れた。
 爛の母親は、学生時代からある教団に所属していて。
 爛が生まれるまでは、その教団の施設で生活をしていた。
 ……爛が生まれた直後の十数年前、その教団が『水と安全はタダ』という日本国イメージを揺るがすほどの、大事件を起こす。
 それをきっかけに、どっぷり首まで漬かっていたそのカルト宗教から、俗世に出てきた。
 だが、わかったのはそこまでだった。おそらくはこの事情が関係しているのではあろうけれど、そこからは口をつぐまれている事情。
 ――そこから先を、革が知れたのは。
 単なる地道な干渉の、成果。
 食事をおごったり、騒音に悩まされる住居から転居の便宜をはかったり。爛の母親にあきらかに下心を持っていて、なれなれしい態度でモメごとを作るスタッフの、首を切らせたり。
 爛の母親と、爛の信頼を、だんだん得ていくことで。
 つぐまれた爛の母親の口から、徐々に、細部の事情がもれだしてきた。

 すぐそばに停められた車の、カーステレオから、
『……テスト前になると熱心に机の掃除をしたあげく、深夜ラジオをもらさず聞きまくってしまうのはオレだけでしょーか?……うーん私もそうだったわねー。でも大丈夫ーそんでも大人にはなれるからっ。けど出世はね、できないかもねー。……それでは今夜のラストナンバー』
 小川のようにサラサラと流れていく、さっぱりとした気性の女の、甘いボイス。
 つっかえない。言葉としてではなく曲のように流れていく。軽々となめらかに。
 蛍光緑のV字型ベストを着た、ぺかぺかと上半身を光らせる男の二人組が。残響が反射しまくる曲をたれながしだした車へ、近づいてきた。
 きょろ、きょろ、と、二人して。秒数を長くとって、丹念に周囲を確認――持ち主の姿が見えないことを決定したのち。
 一人がメジャーで、車位置を測定しはじめ。
 一人がデジカメで、車体を――ナンバープレートともども――ぱちりと撮影し。それから端末機械をいじり、諸情報を入力。
 最後に、赤丸に斜め線がよぎる禁止マークが目立つ、端末からプリントアウトされたステッカーに、すばやくいくらか走り書きをし。
 黄色がかったそのステッカーを窓に貼り、さっさと立ち去る。
 ……定年退職な警察官の再就職をすいこむ、民間警備会社。
 そこへ警察から『コレあげる』とまわされる、委託仕事、路上駐車とりしまり。

「その、カルト教団っつのは……。おまえも一番に連想するだろ、アレだよ。ばかデッカイ事件ってのは、例の事件のことだ」
 開祖は犯罪責任で、警察に身柄を拘束されている。事件の規模からして、生きて出てくることはありえない。
 だが、カリスマであった開祖が逮捕されても、教団は消滅しなかった。
 そして開祖は『教団内においては失脚していない』。
 開祖であるがゆえに、『それ』は間違った事件だったかもしれないけれど、『それでも』偉大な方であると。そう全面肯定されている。
『それ』は。で、済まされる事件でもないのに。
 世界に名をとどろかせた、初の化学兵器テロ、最悪の無差別犯罪。
 治安に神経をつかう諸外国からは、同じ教団が名を変えながらも存続していること、それを容認していることを、『正気の沙汰じゃない』と、危機管理への批判ですらなく、ただあきれ返って首を左右される。
「なんでソープにしか就職できないくらい、身元かくして、小金ためて、いつでもやめれる状態にして……全力で逃げてるのかって。つまりは、そこまでして逃げまくらないと、追っ手につかまるからで」
 けだるげに指のすきま。タバコを強めにはさんでは、ゆるめ。白い紙筒をもてあそびながら。
「……それだけ追われている、教団にとって重要な存在」
 か細く、たなびく白煙。
「教団の重要人物が爛の母親に惚れてるとか。爛の母親の実家が、じつは資産家だとか。そういうのじゃなくて」
 まだ、その方がマシなことに。
「爛は開祖の、長男だ」

 教団員が自分にできうるかぎりで教祖につくすのは、当然といえば当然。
 だが、教祖といえば通常、人格者であり『禁欲的』であるから、『ハーレム』は防がれるはず――だが。
 現代のカルト宗教において、教祖と言えばこうあるべき、という範疇は、崩壊している。
 爛の母親は、なんの疑問もなく教祖に性的にかしずいてきた、女の一人だった。
「寵愛うけてた、つーかな…………爛の母親との間にしか、教祖の子どもは、いねぇんだ」
 開祖と、戸籍上の妻、との間には子どもがいない。
 つまり爛の母親とのあいだにできた『二人』の子どもが、ただ二人の開祖の実子。
「教団を抜ける時に、その――爛の姉、は――教団に置いてきた」
 爛の母親が十七歳で生んだ、爛と大きく年の離れた女児。
 赤ん坊の爛とともに爛の母親が教団から脱退するとき、教団に置いてきてしまった子ども。
「当時で十歳……物心がもぅついてて、幹部連中に『あなたはお父様以上の生まれついての徳が』とかナントカさんざん、おだてあげられて、育てられてたせいで。いざ、母親の方が『脱退しよう』って決意しても、私は行けない、って、嫌がられたと」
 それに、結局は。
 状況的に、どちらかを差し出さなければ、抜け出せなかった。
 ……その爛の母親の脱退、教団が大事件をおこした直後、の時期は。と言うより。生まれてからほとんど、爛の姉の女児は、学校にかよったことがなかった。
 在籍はしていても、通学せず、教団内部の『次の教祖をそだてる教育係』が、学習はすべてとりしきっていた。
 それがいきなり、中学一年生で、女児はその『不登校』状態を、教団の方針によって解除される。
 理由はあった。
 対外的な、アピール。
「教団は生まれ変わりましたよ。もうあんな危険な事件は起こしません。無害です。社会になじみます。証拠にホラ、現教祖代理である、開祖の愛娘だって、一般の学校にかよっている」
 結果の。
 サルでもわかるような事態は、初日からすぐに引き起こされた。
 三年とたっていない以上、連日ではなくなっても、テレビも新聞もさかんに報道する。
 教団施設から通っているため、初日から素性はバレた。
「ああ」
「あの事件の」
「教祖の」
『おそろしい』
 いじめと形容できるほど、ありふれたものではない。
 遠巻きで。
 あざけりよりは、恐怖にまみれて。
 刺激すれば、いっせいヒステリー攻撃へとなだれこみそうな。
 ……同じ教団施設から通う子どもを、同じクラスに一人在籍させることができたので。
 その子どもに徹底的にカバーさせることにより、孤立無援というわけではないようにできていた。
 しかし。拒絶されきった反応を、目にさせないよう護衛しきるなど、もちろん不可能。
 ……それでも「一新しました」というアピールを、教団はあきらめようとはしなかった。
 おそらくは、いったんは適用しないと決定されたのに、諸外国で頻発したテロなどを受けて「やはりあの宗教はつぶしておこうか」と、『破防活動防止法』の適用をふたたび検討しはじめた、国会の動きが関係する。
 しかし、一応は。
 中学校での、いじめより徹底的な異端視。
 その雰囲気の轍を踏まぬようにしようと、高校は、教育方針で人道をつよく謳っている、私立高校をいくつか受けた。
 ――そのどこからも合格通知がこなかったことから、また事態はころがる。
「『成績は足りてたはずなのに』ってな。歯ぁ、噛みしめてたよ」
 教育係は東大卒。他にも教祖側近信者には、高学歴者が揃う。
 身元で落とされたとしか、考えられなかった。
 ……誰からも頭脳明晰と称えられていた女児にも、当然、そう察しはつくはずで。
 産まれも育ちも選べはしない『子ども』に、あきらかに責任はなく、だから誰もが面とむかって明言はしてこない。
 あなたの『せい』じゃない――罪のないあなたは元凶じゃあない。
 ……でも、現実が。
 世間が優しくしてくれるラインは、そこまでだ。
 あなたの『ため』――原因、ではあるかもね?
 違う。異なる。交わらない。
 究極的には、区別と差別は、おんなじで。
 ……爛の母親が。
 こんな状況では、教団以外のものは全て敵、と思いこむようになっているのではないかと、胸騒ぎをかかえて。
 定期的にしか許されていない面会に出むいたのは、そんな頃だった。
「甘かった、って言ってたよ。自分の子なのに、まだホンの子ども、だってわかってたのに。なんでそんな……『強く汚れた』大人みたいな心で、事態をうけとめてると思ってたのかって」
 本人に会ってみると。意外に、落ち着いた様子だった。
 杞憂だったのね、と、心から安堵して。
 そして、デパートの紙袋からいそいそと、娘の好みで選んで買ってきた、光沢とハリのある素材の白いワンピース、を広げてみせながら。
 会話していると。
 爛の姉はとうとつに、フラリ、と頭を、居眠りで舟をこぐように前のめりにし。
 ハッとしたように、まっすぐに立て直そうとし。
 ……反動で、今度はそりかえるような位置に、頭を持っていってしまった。
 不自然な、挙動。
「ぐあいが悪いの?」
 生地をのばして、細部のフリルを見せていた手をやめて。爛の母親はたずねた。
 爛の姉は、ようやく、のけぞった頭を戻し。首に力をこめている様子で。
「いいえ」
 爛とは違い、『次期教祖』であり『すでに事実上の現教祖代理』としての育てられ方から、貴族のような話し方をする爛の姉は。きっぱりとそう返事した。
 納得できない思いで、爛の母親は、目をこらし。
 じぃ、と、自分の娘を、あらためて見つめてみた。
 ……そのうち、脳が電気ショックを与えられているようにピリつきだした。
 驚愕。恐怖。あせり。
 とっさに飛びかかり、襟元に手をかけ。
 ブラジャーを露出させる勢いで、思いきり服を下へひっぱる。
 ――鎖骨の上下が『陥没』していた。
 そんな形容になるほど、骨皮ばかりに、痩せ細っていた。
 顔からはそんなこと、ほとんどわからなかったのに。
 拒食症。
 名前は知っていても、我が子へのそれを、疑いもしなかった。
 ――高校への受験勉強を、本格的にはじめたあたりの面会から、最近、ずいぶんとほっそりしてきたな、とは思っていた。
 でも、それは、成長期のものか。勉強疲れ、あるいは少女らしいオシャレ心からのものだと思っていたのに。
 ……いきなり服をむかれかけた、目を丸くしている娘へ。
 涙ながらに問いただすと。
 銀のような、氷のような、それはそれは澄んだ瞳で、
「肉を、つけているわけにはいかないの」
 ……こんな、最低限すら食べていない、飢餓に苦しむ国の難民にもまさる姿で。
 意識レベルを覚醒で保てなくなってるというのに、何を。
 声を奪われ、嵐のような眩暈のなか、なすすべなく聞き入る。
「けがれをなくして」
 それは高みを目指すまなざし、
「みんなを、救うの」
 夢見る瞳とはかけ離れて断固として、
「私が、すべてへの光を、見せてあげる」
 越えてしまった証にハッキリと、
「救ってあげるの」
 蜃気楼、こそをみすえる。
 ……語って、爛の姉である、本来なら高校一年生の少女は。
 かえって心配するような表情で、首をひねった。
「母様にも、まだわからないの?」
 自分を排斥した子ども達も、その保護者達も、入学を許可しなかった学校経営者までもう全てすべて総てだ。
 私の。
 神の。
 おおいなる慈悲でもって。
『かわいそうな迷える愚民』だから『助けてあげる』。
 ――それがどうして栄養をここまで拒絶することになるのかは。
 教団の外の思考でとこうとしても、まったく解析できない。
 けれど少女は、決意していた。
 ただの子どものように、ヒドイよ、と叫べればよかった。
 幼さののこる女の子として、泣きじゃくれればよかった。
 そう自然にできていれば、どれだけ悲しくても悲惨でも――事実の形はゆがまなかった。
 精神階段は。
 最初の、いじめじみた状態に置かれてから、すでに踏み外されていた。
 たかだか子どもである同級生に、親しくなりたいと目を投げかけると、「ヒッ」と息をのまれる事、に。
 傷つき、悲しみ、苦しんでしまう、自分は『小さな人間』。
 それを許せぬ『ささやかな人間』。
 あたりまえの、血のかよった、女の股から血まみれに産まれて、焼いたら白っぽい灰と骨になる、少し脳みそが大きなだけの動物なんだと。
 そんなの。
 幼き教祖、まさに生き神、として扱われてきた少女には――認められぬ『堕落』だ。
 痛くて痛く、目の前に出現した。
『人間だから痛くていい、逃げていい』上階段と、『神だから痛くなどない、毅然としていろ』下階段。
 どちらを選ぼうが、現実は。
 ――別に、かわりなく、悲惨。
 どちらがまだ、今までの自分、信じてきたもの、築きあげたものを、守ることができると。心が判断するか。
 足は、踏みだされた。
 墓穴がぽっかりと暗闇をさらす、どこへも続かない、くだり階段へ。
 教団存続のために続行される、一般学校への就学計画。
 確実に合格するための緻密な受験勉強。
 まってもまっても来ない合格通知。
 最後まで受け入れられないまま卒業した中学校。
『オープンな宗教に変わりました看板』として、さしだされ続ける少女の身には。
 まさに矢面として、痛みが刺さりつづける。
 炎のように、感情はダンスする。
 くねり、よじれ、手を打ち鳴らし、宿主を苦痛からのがれさせようとする。
 死にかねない心の痛みを、生きさせようとやわらげる。
「痛い」
「私は神だ」
「じゃあ痛いわけがない」
「本当は痛い、耐えられない」
「痛みを与えてくるのはおろかな民達」
「罰を与えて覚醒に導くことは、あの事件によって禁止された」
「ではこのままなのか?」
「もっと完璧な神になり」
「まちがって攻撃してくる民を、別の方法で救って」
「そうすればみんなは」
『私を、刺さないで』
 ダンスの結果が。
 心満たされて微笑みながらの、ガイコツような身をかかえた、肉体の死でも。
 ――自分の手もとで育てられないと思いきった段階で、覚悟はしていなければならないことだった。
 ああ壊れてますね、あの事件によってそう結論は出きった『宗教教義』によって、神として頭をいじくりまわされることを。
 そうだ、知っている、知っていた。
 だからこそ判断できる。
 自分を『神』と信じる、この子の、根本から歪んだ精神を。
 すぐに治すことなどできるわけがない。
 すぐに治さないと死んでしまうじゃあないか。
 拒食症の末期患者の、食物への嫌悪はすさまじい。
 点滴で栄養を入れようとすれば、針を、床へ抜き捨て。
 鼻から管を挿入し、それを経由して栄養を入れようとしても、がっちり固定しているテープごと、鼻をもぐ勢いでむしりとる。
 だから体の拘束、そして。
 顔面の表情筋を動かしてでも、の抵抗をこころみることができない、喉への刺激で嘔吐反応も誘わない、鼻ではないへそ近くからの経管栄養で。
 ようやく、しかも一時的に、命を繋ぐ。
 そういった入院措置が原則であって。
 ――それもしなければ、死を待つだけだ。
 不思議そうな顔をする自分の娘の、腕を引いて。
 教団施設から出て、病院に向かおうとした。
 出口で待ち受けているチェックに、数人がかりで妨害されて、足は止められた。
 ――悟りの邪魔をするな。
 ――もうすぐ、この方には、ゲダツが。
 もともと健康体で、若い教祖代行が、食事を極端にとらなくなっても。
 本人が、修行なのだ、もうすぐ何かが見える、と言いはれば。信者は了解するしかない。
 しかも、納得していようが、心配していようが、どちらにせよ。
 近代医学の手にかけるわけには、いかないのだ。
 病院ごときでは治療できない『やまい』も、ここを信仰すれば救われる、治ると教義しているというのに。
 外界の病院にみせ、それで回復なぞしようものなら――恥だ。
「イエス、キリスト、も、そーゆー苦痛に耐えたんだってよ。それと関係あんのかは知らねぇ……けどな。なんか混沌としてるだろ、パッと見ただけでも、あのカルト教団の文化」
 タバコをはさんだままの右手で、鼻筋を親指でもって、革はこする。
 荒野での四十日間の絶食。
 のちに悪魔があらわれ、パンが欲しいだろう? とそそのかし。飢餓のきわみにいるはずなのに、それを神々しく拒絶してのける。
 中世にみられる『聖女』の大部分は、そんな行いをなぞった存在だ。
 その時代、神は、父と子と精霊に祝福を与え、女は妻として母として従属することで、ようやくおこぼれにあずかる。
 男女平等など遠くはるか見えなかった時代、女性が模索できる自己実現の道など、そうはなかった。
 修道女になるだけでは神に近づけない。世間にも認められない。
 自分にどれだけ信心があるか、主張するには。
 教えのなかで、キリストの体、とされているパン。
 聖なる食物であるそれだけを、週に何度かだけ、極少食み、生きる苦行。
 そう拒食を続け、睡眠をけずってひたすらに祈っていると、ユラリと救いもあらわれる。
 神秘体験――キリストの声を聞き、姿を見て、触れてももらう。
「ソレ単純にすきっぱらのランナーズハイじゃねぇのって……。……どうでも。いいな」
 奇跡を再現する女たちは、当然、平均寿命にはおよばず若くして死亡した。
 その遺骨は、聖遺物として各地の教会にわたっていった。
 しもじもの民衆は、信心とはあまり関係のない精神で、聖遺物をほしがる傾向にあった――すばらしい聖遺物がある場所には多くの巡礼者がやってくる、おおそれはまちおこし観光商売に使えますね?
 無駄のないリサイクルの図式。
 正面から拒食症なんだって、病気なんだって、とにかく科学治療で命だけでも繋がないとって、話し合おうとしてもダメなの。
 あいつらは頭がおかしい。
 ……自分、かつての自分のように。
 ――過去を伝え語る、爛の母親は、娘を失った直後の憔悴を身によみがえらせて、革のまえ、うなだれてみせた。
 信じた教えが溶け消えれば、自分が崩れる、だからこその自己防衛、その、恐怖でもって、耳を、閉じる。
 あの子が殺されるって、もう、わかってたのに、取り戻せなかった。
 貸したものを、法律で認められた契約どおりの利子をつけて返せ、と、せまる借金取りに。
 我々は○○○○だから俗世の○○○の概念に捕らわれる必要はなく、よってあなたは帰りなさい。
 そう常識的には破綻としかいいようのない理論を、集団でつめよりながら口々に、毅然、と吐ける。
 一般の理論が。
 人間の言語が、成立しない。
 世の中で極わずか、数少ない『結界』。
 あんな集団に私はいたのよ。
 その私の罰が、あの子にいってしまった。
 叫んでも、泣いてたのんでも、いいから帰れ、と首はふられるばかりで。
 娘に必死に哀願しても、やはり悲しそうに、そして心配そうにだ、「もうすぐだから」と告げられる。
 もうすぐって、何がもうすぐなんだろう。
 もうすぐ。ゲダツが。くるのか。あの世で?
 自分が手をこまねいたように、警察、支援者団体、どこも手出しはできず。
 あってはならないことながら、あきらめに支配されていく心。
 やがて。
 教団に所属していた時代、自分の側近であった女信者から――その女信者も母親だ、感じるものがあったのだろう――実はついさきほど、と、女児の死亡が連絡された。
 手をはなしてしまった娘、ちゃんと愛していた娘。
 その葬儀にも出ないまま。
 連絡と同時、膨大な危機感に、目を血走らせて。
 あてなどなく、『爛だけは』と身一つで、逃げ出した。
 そして。
 素性不明な母子をたやすく受け入れる街。
 なりあがりを目指す若い男が始動している街。
 性欲にも暴力にもまんべんなく値札をつけて交換する街で。
 ――爛と革は、引き合った。

 ◆

 見るからにキャバクラの黒服なのが、最後に車にやってきた。
 客から預かってきたキーを手に、さっさと車に乗りこもうとして。
 瞬時に、渋面をつくり。
 チチィッ、と、盛大に舌打ちする。
 窓ガラスには、駐車違反のステッカー。
 駐禁ですよ〜、反則金は一万五千ね、こんど郵便局で払ってね。んで、ばっくれてると、免許から二点、点数引いちゃいますからねぇ。
 駐車後、十五分とたたず、既にとりしまられた後。
 車をてきとうに道にとめてきちゃったから、あのあたりだから、とりしまられる前に、駐車場にまわしとけ。
 そうキーを渡しながら、気楽に言ってくれたであろうタイコ腹の客から。怒号を浴びることは避けられない。
 しかしナンバーをデジカメで撮られている以上、既にどうしようもない。
 気を取りなおして黒服――ポーターは、運転席にすべりこむ。
 手馴れきった動作でハンドルを切り、道路にのりだしていく。
 カーステレオのラジオからの曲がなくなると。
 ビルのビジョンから降ってくる音が、かわって鼓膜を、占領する。
 トークがメインの歌番組、ゴールデンタイム、芸能人が何かしゃべっている。
 ビジョンからの明かりは強烈だが、声は、距離と雑踏に踏みにじられて、どこか不鮮明だ。何をしゃべっている?

 姉さんはおまえと引き換えに捨てる結果になってしまったんだということも。
 父親の正体も。
 爛の母親は、爛へ、何もおしえないままに、暮らしていた。
 どちらもとても告げられないと。
 だから爛はいまだに、今日まで。
 あやふやに。
 二親とも同じである姉がどこかにいるらしい、ということ。
 父親は死んではいないが、気楽に会うべき人物ではなさそうだということ。
 そのくらいにしかわかっていないのだ。
「『知りたくないわけはないんだけど、聞けば、私が苦しそうになったり、悲しそうになったり。そういうのにあの子は、小さいころから……敏感だし、弱いから』……てなぁ。マザコンだよ」
 くくっ。
 閑散とした時間帯、夕方前の、ロイヤルホストのテーブル席。
 喉奥で、革は、皮肉げに笑う。
 瞳に、手の中でころがし愛でているような、慈しむ光をたたえて。
 革のこの街でのバックボーン――権力、ゆえに。
 自分の息子が、革と、恋人になってゆく事実どころか。
 肉体関係へバリバリと進行してゆくことすら容認していた、その爛の母親が。
 手段を選ばず逃げ回る生活に、疲弊していたのか。
 亡くなってしまったのは、去年だった。
 それからは、爛は、住居を『アジト』に移し、革と同居して本格的にサポートをしながら、高校生活を送っていた。
 そんな。
 一つ大きく失った、変化した環境にも、慣れたころだった。
 爛が、同じ高校の一人の生徒を、アジトに連れて帰ってきたのは。
 友達の友達の知り合い、という、わけのわからないスタンスで知り合い、多少親しくなったらしいその人物を、
『なんかな、革にどーしても、会いたいんだってよ。メンバーになりたいのか? って聞いたらー、そうなるかもしれません、とかも言うし』
 爛は、当人も納得していない様子で、そう解説した。
 とりあえず使用されていない大型液晶テレビのある、会議室のような一階の部屋で、待たせているから。仕事の手があいたら行ってみてくれ、という。
 ……小学生の息子がつれてきた新しいオトモダチ、に、こんにちはって言うママじゃあるまいし。
 どうも恥ずかしいと言うか、妙だと言うか。
 そんな、きまりの悪さを覚えながらも。頼まれるがまま会いに向かった。
 暮れなずんでいく太陽光のなか、電気のスイッチも入れていない広い室内で、ただ待っていた訪問者は。
 ドアの開閉音に反応し、制服姿をふりかえらせて。
 革の、喉仏や肘先や指関節がコブのように目立つ、褐色の肌の容姿と。
 爛の口から得ていた実質、保護者の容姿を、照合したらしく。
 夕日をバックに、開口一番。
「あの子は、『うち』の『奪われた教祖』ですか」
 物悲しそうに、そう切り出した。
 信仰を捨てた母親に奪われている、見つけ出してお助けしなければならない、少年。
 教祖として高い素質を持っていた爛の姉の。
 後釜にすえる教祖代理として、捜索している存在。
 ――警戒で、如実に眼をほそめた革に。
 高校三年生というわりに、やたら大人になりきったその人物は、落ち着いたようすで説明しだした。
 在家信者の親につれられて、数年前から引っ越しと転校を、くりかえしているのだという。
 行方をくらました爛の母親と、爛を探すという、教団からの指令のため。
 そんな生活なために、留年も三年していて。転校の頻度も、この、爛と遭遇した高校で、今年二回目の転入だったそうだ。
 ……その高校でもって、爛を発見し。
 ひとまず調査して、ほぼ確信を得たが。
 どうも本人は、自分自身について知らないようすだから、保護者にあたる人物に、コンタクトしてきた。それが今回の訪問。
 ひととおりお互い、情報を交換しあって。
 事情をのみこんだ革は、
「報告は」
 両手指を組みながら――殴るまえのほぐし、柔軟体操をひそかに済ますように、
「するのか」
 まだ。
 凄みは効かさずに、回答をうながした。
 すると、思慮深そうな瞳を、またたかせて。
 在家信者の息子――二十歳の高校生は、視線をのろりとテーブルの上へ、たどらせた。
 ――自分をどうするのか、もう、迷っていたんです、と。
 懺悔のような調子で、打ち明けてきた。
 なまじ在家信者として、在家でしかできない密偵役を、くりかえす転校先でこなしているだけに。
 そうやって外との関わりあいを拒絶していない、ぶん。
 一般の世間が教団へもつ認識と、教団が自分達にもつプライドの高さとの、違和感は増すばかりだ。
 たとえば出来た友人に、自分はあの教団の人間だ、と言ったとしよう。
 反応が。
「うわっ、痛!」
「本気で引く」
 そんなもんだと予想できる程度には――。
 それが妥当だと理解できるほどには、一般社会になじんでしまった。
 まさにソレが、教団から見れば、俗世に『穢された』と、されるのだとしてもだ。
 このまま大人になって、本格的に教団の組織にとりこまれる前に、抜けた方がいいんじゃないだろうかと。
 たとえ、親を残していくことになっても。
 そんな思いが、迷いが、だんだん浮き彫りになってきていて。
 ……ちょうどそんなときに、爛を発見し。
 母親を亡くしたばかりなのに一見、てんで平気そうにふるまってるとか。
 安定しない逃亡生活を送ってきてたようなのに、母親に何も問いただしてはいなかったようだとか。
 そういった爛を、観察していると、
「かわいそうになった、んです」
 そう言った。
 だから。
 これをきっかけに自分自身も、道ゆきを――。
 脱退することを、決めようと思うのだ、と。
 その対面をきっかけに。
 何かやっかいごとが発生する前に、爛を、退学させた。
 成長期だから、もう少しは変わる顔も。
『専用便器』『女役』と他グループから蔑まれるほど、なるべく表舞台には立たせず、あくまでサブリーダーに徹させていることも。
 いずれは役に立たなくなる、時間の問題でもう教団に居場所は割れる、そう覚悟しながら。
 長くはもたない、いいかげんリミットだ、全て告げなければならないだろう、そう感じつつも。
 それでも最後にとばかりに――口を結んだまま、革は断行した。
 それが爛の高校中退の。裏事情。
「…………その」
 無理矢理ひっぺがすような重さで、革が唇を開き、話をつづける。
「密偵してまわってたダブりの高校生――すぐ教団抜けさせたら……直前に通ってた高校でナンかあったのか? って、なりかねねぇからな……抜けたあとのサポート約束して、連絡とりあいながら――今はまだ、あいかわらず親元で高校ドサまわらせてるけど」
 留年できるだけ留年しながら、爛を、指令のままに探しまわっていた、フケた高校生も。
「村野……も。一緒だったんだろ」
 自分の所属している組の、組長の娘と、革が結婚することになるだろう。
 だから準備をしておけ、と、爛に告げたヤクザも。
「かわいそう、になったんだ。爛がどうなろうが、どれだけ傷つこうが。村野にも、組のほうにも……影響しねー関係ねぇ、つーのによ。むしろ、『爛は愛人として飼い殺しておくつもりだったのに、余計なことしやがって』て、オレに制裁される可能性だってある、ってのに……。口出しせずに傍観だけしてること、できなかったんだ」
 父親のようにか、兄のようにか、あるいはもう少し違う色彩の感情でか、わからないが。
 どちらかと言えば敵である相手が、爛のためを思って。
 動く、助言する。
 それは血の祝福を、血縁の呪いを感じさせるような、カリスマ。
「わりと誰でも、あいつを守りたくなるんだよ。ぱっと見、極彩色の花みたいなイメージのヤツだから…………豪華で強くて生意気で、心配ねぇように見えるだろ? ギャップってか――呼吸、みたいな。アイツのそばにいて、アイツ見てたら、さりげないグラム数で積み重なっていくもんだから……説明できるもんじゃねぇけど――どうにも愛しくなる」
 隙を見せるのがうまいんだ。
 嫌な言い方しちまえばな、と、つけ足した。
「自分だけがこいつの弱さを知ったんじゃないかと思わせられる。アイツは人を受けいれてるって空気、醸しだすのが、上手だから。先天的に、そうなんだ。もしかしたらそれが、受け継いだ才能、なんだろよ。一代であの宗教を作り上げた、爛の父親の、初代教祖、開祖サマのよ。迷惑だろうが捨てたかろうが、……あいつにまとわりついてんだ」
「そりゃわかってたから……。今回。も」
 ぴくり。
 微動だにしていなかった、自分自身の左腕が、テーブルの上、条件反射のように波打った。
 電気ショックをとおされる心臓停止した躯のように。
 魂がぬけてて、気味が悪い動き。
「万が一とか、ねぇように、留守にする前に、皆。厳命で遠ざけておいた」
 あまり爛のそばに入り浸るな、住居部分である三階に、長居はするなと。
 嫉妬心、独占欲を、どんどん垂れ流し、釘を刺しておいた。
 ますます『アキレス腱』と流布させることになろうと、そうしてから行ったのだ。
「家族愛とかに飢えてきたあいつが、母親ももぅいねぇのに、オレまで消えたら寂しがるの、わかってても」
 徹底的に一線引かせた配置に、していった。
「実は仕事人間で、他にはな〜んにも関心もてねぇヤツとか……。爛がスキでスキだけど、うつ病でアジトには住めねぇとか。新米で純情で、爛にちょっとビビってるし、女以外とヤるなんて考えつかねぇ、手を出す度胸も今のところマイナス値、ってヤツとか。そんなやつらが主なサポート、まわり固める、ようにして行った」
 よぎる顔、顔、顔。
 キンキンとかん高い声、仕事が手早く、爛を上司として扱わないと不愉快な顔をする、側近の白金頭。
 強姦されなかったかどうか遠まわしに聞いた、花束とチョコを持って爛を叱るなとたのみに来た、美声のハッカー。
 ヤクザの村野におびえきっていた、女子中学校の制服を三階に運んできて爛の赤髪にポカンとした、両目の距離がはなれた、ひらめ顔の金髪青年。
 たちの悪いサブリミナル効果。
 血液を頭からザッと引かそうと、するような。
「今回のことは、急だったんだ」
 古くから存在するという歴史に基づく力と、構成員総数にも現れる規模と、わりあいに合理的なシステムをもった組。
 ……そこの一人娘が、強く望んで結婚した男が。
 やはり跡取りとしての重責にたえきれず折れて、近く離婚のはこびとなったという情報。
 まだ書類的には離婚してない、そんな状態でも、次の夫のイス争奪戦は始まっていた。
 最有力候補でも、さっさと参戦する必要があった。
 全てを完璧にととのえては行けなかった。
「おまえは」
 ワントーン、かげった低音。
 その不本意そうな影が。手をつけにくい話題に入りこむときの影が。
 ……血が足元のほうへ下がっていると自覚できる、青褪めた脳に、追い討ちをかける。
「おまえには、言っておけば、じゅうぶんだろうと思ってた。おまえは執着心のうすい物静かな――タイプだったし、それに、オレのモノだ、っつっとけば」
 裏切ることはないだろう。
 それは。
 それを。
 まさか、信頼と、呼ばない、のなら。
 なにを呼ぶ?
「けど、原因はわかった…………から……な」
 苦々しそうに、片頬を、ひきつるように歪ませ、
「村野に、あいつに……洩らされたのは、オレのミスだった」
 悪かった。
 そう、妙にとおりのいい声質で。
 革の言葉が、鳴った。

 なんで。
 ようやく出た声は、他人のもののようだった。
 なんで爛にその宗教のこと言ってないんだよ今の今まで。
 しかも壊れたラジオのように変化のない一本の音程で気持ちが悪い。
 壊れてるのは。
「意外か」
 ふう。喫煙席ゆえに堂々と立ち上る、白煙。一瞬で晴れてゆく。
 だって肝心なことだろう。
 何もおれに言いやしなかったけど爛は革がなんのために絶対できるだけでっかいギャングになろうとしてんのかすら知りゃしなかったんだ。
「爛には……仕事がら、いろいろと見せた。オレの隣にいるんだから、サポートしてんだから、当然だった。世間が汚いとか冷たいとか黒いとか、そんなん……全部わかってるだろ、でも」
 ぐじ、と、踏みにじるような物音がした。革の口元から。
 タバコのフィルターを、犬歯で噛んでいた。
「自分のことって、別だろう」
 人が振り返ってどうしようもないほど腐臭を放つ足なら、切って。
 顔のケロイド状のやけどなら怪しまれつつも、隠して。
「無駄にでかいんだ、あの教団は。そんで、これから年々、爛の存在価値も利用価値も、加速度的に上がる」
 まさに会ったこともないような父親の、血はどこにやる。
 切れる?
 隠せる?
「力、手に入れて戦うのはアリでも、逃げるのは無理だ」
 投げ捨てるように、そっけなく言い放つ。
「容赦なくケツ仕込んでようが、学校ヤメさせようが、あいつの年齢、一番噛みしめてたのはオレなんだよ」
 十六歳。
 たいていなら、日本の現代、それは高校生。
 爛と同様の出自からくる環境に耐えきれずに、拒食症で死亡した姉と、同じ年。
 見た目でナメたいだけナメられる、酒もタバコも認められていない、車の免許も持てない、国会図書館にすら入れない。
 生まれついて自分にかかってる障害を認識させ、走り立ち向かう覚悟を、無理矢理にでも固めさせるのは。
「……親みたい、で、ナンだけどな」
 忍びなかった。
 ふう。ぷう。立て続けに上がる、おおきな白煙。晴れては、山と盛り上がり、また晴れて。
「甘いか?」
 なぜか。
 言葉ではない革の何かに、完膚なきまでに殺された気がした。
 不運は尊大に、平等に、街におりる。
 天から降ってくる、水のように。
 マイナス方向の宝くじのよう、当たらなければ知ることもなく、明日を変わらず生きてゆける。
 ただ、当たるか当たらないかが、デカイ。
 当たった時には。
 当たれば。
 なにを思えばいいのだろう。
 息の根は、恋情のソレは、すでに殺されていて。
「オレは」
 ギュッ。
 まだじゅうぶんに吸える長さをもったタバコを、灰皿にねじりこむ、褐色の指先。爪の部分が、白く、めだつ。
「議論も正論も、一生、誰ともどことも、たたかわす気はねぇよ」
 テーブルへ落ちた視線の、目は、真剣で。
 同じ教室で、同じ机を並べたころに。見かけたことはない必死さで。
 爛以外、を、切り捨てている。
「おんなじ組織が残ってんのに、昔の罪は忘れろなんて……都合のいい話だ。怖がるなってのも無理な話だ。――で、忘れてくれねぇって恨んで、こりかたまってくのも、不自然じゃねぇ流れだ。だけど」
 テレビ番組で、コメンテーター達が何時間でもしゃべり続けるであろう議論を、
「オレにはほんとう、どーでもいいんだよ」
 手をつけようとすらせずに、さっさと放棄する。
「オレに社会を、人間全部の根本を変える力なんか、あるもんかよ。……オレは、爛を、守りたいだけだ」
 遠ざけておきたいだけだ。
 なによりその為にこそ、この街を望んで。
 ――力を育てている。
「一般世間からは、かなり、古い存在にされかけてるけど。実はあの教団、まだまだ滅びやしねー。教団員も地味に増やしてんだ。インターネットで、音楽会とか絵画鑑賞会とかの名目で、人を集めてみたりするのはもちろん。スポーツクラブで、ダイエットヨガを一緒にやってた、隣の人が、とか。公民館の貼り紙で、メンバー募集していた山登り会に、入ってみたら、とか。そんなきっかけで知り合った相手に、もちろん教団名なんか微塵も出さずに、じわじわ親しげに食いこまれて……気がついたら」
 若年でも中年でも老年でも、どこにも安全圏はない。
 誰もが平等に身をおいている現代、それは狩場。
 ウサギにはならないよう、キジにもならないよう。
 捕食されないように、ターゲットにされないように、頭が悪いふり、警戒心は強いふりで走りぬけろ。
「この街じゃあのさばらせてねぇけど、電子の業界でも、あいつらしっかり勢力をもってる。修行時間とごっちゃにして人件費ごまかして、安くモノ出してくる上に、日本人なもんだから丁寧品質でけっこう良い。プログラム関係は特に、高学歴なやつが多いせいか、強い。政府機関のプログラムも、こっそり偽名の下請けでやってたりするくらいなんだ。――気ィぬいてたら危ねぇよ」
 普及するばかりの携帯電話、パソコン、電子機器。
 この街の路上でくばられている、自作パソコンのパーツ特売というマニアックなちらしを、熱心なワケ知り顔で、十代の少女が読んでいる光景を見かけるほど。
 それらに必要なプログラム等を、中国産より丁寧で良い品質、くわえて安い価格、で生産できるとなれば。
 もたらされる結果は繁栄、金、力。
 さっきまで革が吸っていたタバコの煙が、なごりで漂うテーブル席。
 そのうっすらとした白煙をかきまわさないほどの自然さ、エネルギーのなさで。
 首をめぐらせ、革が、窓の外を見た。
 その革の、動きを追って。
 伏せていた顔を少しだけ上げて。
 初めて、今日も、窓ガラスを雨粒が、濡らしはじめていることに気がついたのだった。
「……たとえ、何年かして、あいつがちゃんと大人の年齢になって。組織のトップとしての頭とか態度、身につけた人物になれても」
 単純な足し算式をよみあげているような声で、そう言った。
「そもそもが、ああいう事件ブッ放した……――狂った教えの、閉鎖集団だ。先は見えてる」
 フー。
 タバコはもう吸いこんではいなかったのに、吸った直後のような息だった。
 それくらい、そのとき吐き出された相手の息は、深かった。
「つい、こないだも言ったけど」
 正面に、革が、向き直る気配。
 こちらを、見定めてくる気配。
「おまえ、は、バカじゃねぇ。だから、一言だけ言う」
 同情をふくんでいるような。
 愛人を寝取ったはずの男へ、人格的にもありえないはずの、そんな音色を。
 確かに聞きとれる『旧友』の声が。
「おまえじゃ、爛を守れない」
 ――見た目より内容量を重視した、不恰好なグラスの中で、アイスティーの氷がぶざまに全部、溶けていた。
 グラスのまわりにびっしりとついた水滴が、コースターに思い出したように、つ、つつ、と、垂れていっていたのだった。
 視界の右はし、ガラス窓の外では、雨がしとしとと勢いなく振り続けていて。
 左はしに入ってくる、自分の握られているこぶしも。
 力なく。

 ◆

 さんぜんと輝く光の塔。
 番組はようやく、ゲストのスペシャルライブ、ミュージックに切り替わる。
 最先端を取りいれたデザインの衣装、今シーズンから流行るアクセサリー、元の顔だちはわからないほどの厚化粧。
 しっとりと濡れてビブラートした歌声。
 光の粒子とともに、シャワーとなって、そそいでくる。

 選択肢は、いくらでもある。
 ように見える。
 その実、ひとつにしか行き着けない。
 駅は、娯楽を提供する繁華街へ、人を吐き出し。
 繁華街は、家に帰る手段としての駅へ、人を戻す。
 それが歩行者天国に、道として、二本の流れを産みだす。
 わき道へそれる少数の人は、道筋を作りだすまでの現実を、無力につき、持たない。
 その足どりが。
 そこを目指したい意志が、どれだけ強固で渇望でも。

 さからわずに、唯一と形容できるようなその選択肢を、選ぶ理由はあった。
 記憶喪失を夢想するほど。
 爛の前髪以外の短髪が、染めた赤から黒へ伸びかわる期間だ、たったそれだけの記憶が、消えるだけでいいのにと。
 思いつめるあまり、手が届きそうに錯覚するほどに。
 全ては誤解だった。
 自分の。
 爛の。
 そして、誤解ではなかった部分は。
 やがて来る正妻を、嫉妬で殺しかねないと、我慢できそうにないと、怖がっていた不安は。
 それは。
 贅沢、というものだ。
 そんな。
 一般の人間、みたいな、権利。
 自分がナニモノか、知っただろう。
 都市で、他人の不幸の土壌だけに実る。
 目を濁らせるような餌も、身を腐らせるような餌も。
 食べていくしかない存在だと、理解したろう。
 強靭な常を裏切って、愛情の深さでつぶれる姿にも。
 華美な匂いにも、柔軟な肉にも。
 本当に本当に手をふれてはいけなかったんだと。
 男をひとり、絶望させただろう。
「なー、風」
 白々しさをもはや隠せない、明るい声。
 爛の、声。
「……おれ、なんになると思う?」
 幼稚園でおこなわれてるような、あどけない問い。
 将来、なに屋さんになりますか。ケーキ屋さん。花屋さん。消防士。
 ……そんな質問をくりだしてきた爛は、こっちを見てはいなかった。
 足もとに広がっている、地面の水たまりをじっと見おろしている。
 膝をかかえた、いかにも淋しそうな、その姿。
 だけど。
 そばには、寄れなかった。
 なぜなら、片腕を大きくのばして抱き寄せて、高くも低くもない気温に緊張する肌をからめて、ぶつけて這わせてさかい目をなくして。
 いつかの、いくつもの晩みたいにそうすること、できないから。
 見るのをやめた。
「…………」
 答えることも、できなかった。
 恋愛にはつらさがあるからいいのだと、とおい頭上から、今年一番の歌姫が謳う。
 痛みがあるから、いいのだ、と。
 痛いのかどうかもわからなかった。
 全てをむりやり、自力で必死にぼかしている感じだった。
 動かない。考えない。
 ただ、まだ濡れている大きなマルチビジョンを、見つめ続けた。
 爛も、自分も、なんにでもなれる。
 そして、何にもなれないのだった。
 ただ誠実に流派に身を捧げてきただけの男と。
 ただのカルト教団の後継者。
 自分という枠の中、今、藻掻く道すらわからない。
 どちらも、無力だ。
 守ることができない。
 守られないと生きていけない。
 革は、爛を守る力のなによりの基盤を、今、まさに、手に入れようとしている。
 昔からの努力に基づいて。
 ほんの数か月前、爛に会った自分には、真似のできないことだった。
 感情を捨てられない理由は、相反するように、ひとつだけだ。
 この、気持ちだけだ。
 あまりにも、たよりなかった。
 ほとんど、ただの。
 わがままだった。
 ……爛は。
 革のものだ、と唐突にそう感じた。
 その瞬間だけ、心が焼けつく感触があった。
 だから目をすばやく閉じた。
 震えるような響き、日本語ではないような発音で、歌声が続いている。
 膝あたりから聞こえてくる、爛のかすかな呼吸音が、共鳴するように揺れていた。
 また波紋つくってるな。
 そう感じた。
 きらびやかなイルミネーションは、まぶたを浸透してくる。眼球をせわしなくチラチラ、ノックする。
 ……紙一枚の細さで、ぶるり、と開けた薄目に。
 さかさまつ毛をかぶって、映る。
 雨に濡れた東京の一角は、ネオンが紅色に、碧に蒼に、きらびやかににじんで。
 今日も朝まで、眠りそうになかった。