一九九六年七月二十日まで、海の日はなかったんだって、知ってた?

 どっかで猫が一声、ぶみゃーと鳴いた。
 おいおい春じゃねぇのにサカるなよ、生体リズム狂いすぎ?
 ただでさえ『眠ってる』とは言いがたい状態なのに――。
「うーん」って寝苦しい寝返りを打ちながら、薄目をあける。
 窓際でだいたいの時刻を予想すると、どうやら夜明け前の、高級住宅街。
 ……追い討ちかけるように枕元で、携帯がアラーム曲をともなって、ぶるぶる震動しだした。
 いやね、めざましに仕掛けておいたのは自分だけどさー。
 うーん、出発前に、休憩がてら少し眠っておこうと身を横たえたんだけども、あんま意味はなかったらしい。
 まぁいいや。
 ベッドの上、むくっ! と、操り人形のような、不自然なくらいの勢いで上半身を起こす。尻を中心に背骨でえがく九十度、半円の半分。
 いやもう、睡眠薬のんだにも関わらず、すぐに覚醒まで浮上できるくらい、眠りが浅かったよ。遠足前の子どもみたく。
 実際、修学旅行まえの子どもなわけですけども。
 さっそく、あーん、と、お口をあけて、枕もとの小箱に右手をかけた。
 紺碧色、海色のちっさな不透明プラスチックケースから、錠剤を一個、シェイクしてはきださせる。
 犬歯をたてて、唾液でしめらせながらぼりぼり噛み砕いて、そのまま水なし嚥下。
 もちろん舌に、喉奥の方に、舌裏に、歯ぐきにまで。びわわわわ〜ん、と、すっげぇ苦いけども。
 こんなもん慣れよ、慣れ。
 人並みより長めであるらしー舌を、ひらひらと空気に遊ばせて、苦味をごまかしつつ。
 左っかわの手の平には、アラーム曲を終わらせたディープブルー色の携帯、むんず、握りしめて。
 こぶしで枕元のリモコンをちょいと叩き、ピ! と、エアコンを停止。
 はだしを床におろし、たえまない寝返り攻撃でぐっちゃぐっちゃになったベッドシーツ、少しもベッドメイクとかかえりみずに、まっすぐドアへと向かう。
 ただでさえ仕事の少ねぇお手伝いさんへ、お仕事を残しておいてるわけですよ。これ思いやり、めんどいからでは決して……。
 身じたくしに、階下へ向かう。
 階段でも、灯りはつけない。ナゼナラバいらないから。
 むしろ人感知センサーを切ってまで、当方、夜をたもつ主義。
 暗闇でもほんとーの闇でなければ物が視認できる。
 それを『夜目がきく』と言うらしい。
 当然のごとく、オレはソレだ。
 とゆーか、直射日光の下とかに放り出されたら、まばゆくって眼球とけちゃうね!
 それほど、夜にばっかに、住んでる。
 たどりついた広ーい洗面所。いわゆる十二畳クラス。
 ドア入ったすぐんとこで、寝汗を吸ったパジャマを、セクシーに魅惑な全裸となって、すべて脱ぎ捨て。
 んで股間ぷらぷらさせながら、カニのよに横移動、すべて洗濯機へ。
 毎年のよーに最新型に買い替えられるソレは、常に子どもひとりぶんの着替えしか食えないために、今日もきょーとて、ゆとりがたっぷり。
 そして今度は、股間ぴこぴこさせながら前進。
 洗面台に立って、じゃばーと水道から水をだして、じゃばじゃば、おおざっぱに洗う。いやもうなんちゅうか、必要以上におおざっぱなしぐさになるね。
 ハイソサエティでセレブリティな、緑色の御石製な洗面ボウルに、金の蛇口。
 いやー、まぁ綺麗だけんども、成金趣味だ。自宅だってのにリラックスさそわねぇっつの。
 客まねいたりしないくせに、なぜにこんなに装飾すんの? 理解不能。
 それから、外出前には必須、ふだんは夕方にしている、流れ作業を開始。
 白い戸棚をジャッと開け、皮膚クリームの容器を、ゴト、ゴン、と取り出す。
 まずはひときわでっかいボトルのほうに手をかけ、フタをくぅるくる。
 アメリカが本社、七つの海をまたにかけた、マンモスな医薬品会社のマークがめだつ、紫外線防護クリーム、つまりは日焼け止めクリーム。五百グラムのお徳用。
 指の腹にすくいとる、ホワイトパールでツルリとした指ざわりの、クリーム。
 まず顔、そっから手、つぎは腕、首、腹、太もも、すね、足、タオル使って背中にも。ヨガの動きでもって、要は全身。
 足の小指のさきっちょまで済んで、ふうぅ、とかがめていた背筋をのばす。
 顔面をてのひらで撫でて確認すると、すでに乾いてさらり、シルキーな肌のしあがり。
 んもう、年々進歩していくね、この手のクリームは!
 で、先のクリームにさらに重ねて、コテコテと要所要所に、二個目のボトルのクリーム。
 オレの肌色に合わせたカラーセレクトで買った、肌色クリームを厚く塗っていく。
 腹まで塗ったら、ボトルに二割ほど残っていた肌色クリーム、切れやがったので、戸棚をふたたびガラリ!
 あらたな容器を、ドンとおかわり。
 大人じゃないけど大人買い、大量に買いだめ済みなのだ。
 高価なコレをこれほど安いかのように大量に使えるのは、ドラ息子ならでは。
 で、昨日、風呂のあとに。
 いそいそと『今日の衣装』を用意しておいたハンガーを前に、たたずむ。
 いつもけっこ、適当にオシャレするけどね、今日はさりげないながらも本気で練ったコーディネート。
 まず新品の勝負下着は基本っショ。まぁいたす予定はないんですけども……そしてフツーの黒いボクサートランクスですけども。
 次いで、身にまとうは、ジーンズ。
 一般的なインディゴブルーじゃなくて、真っ向勝負なブラック。デニム生地ゆえ、砂嵐っぽくグレー粒が走ってるけども。
 で、つづけて黒い靴下もはく。
 なーんか黒ずくめチョイスじゃん、ってのは、まぁねどうしても、紫外遮断の素質が高いからねぇ、この色。
 そんな色の素質と、紫外線を通さない布を使用したこのお洋服たちは、太陽からの紫攻撃を八〜九割をブロック。十割いってくんないかしらね!
 アメリカの糸会社と、韓国の糸会社、の糸で、日本のアパレルメーカーが作ったという異種格闘技ぶり。
 ……でもね、上半身はね、今日はホワイトで決めるわよ、と、かがんでた腰をのばす。
 カッチャ、ずるり、とハンガーから剥ぐ、白いワイシャツ。
 たいしたお洒落ポイントはないシンプルなものなんだけど、一点だけ、袖のさきっぽが異質。中指爪先までおおうほど、ゆとり、ってかサイズ合ってないんじゃね? 長袖。もちろんわざと。
 便所でケツふく、とかじゃない動作は、白布におおわれたそのお手てで、そのまんま出来るように。指の動きを妨げぬよう、広口にふくらんだ状態で終わってる。
 ラッパ袖っての? 女の子にたまに人気だわね。
 当然、このワイシャツにも、紫外線カット糸が使われている。
 シメに黒いネクタイを、首に、しゃっ、とかけて、ムキュウ、と結ぶ。
 太くて短くてコミカルで、なんつーか、ちゃめっけ、子ども服なネクタイ。
 これくらいはonしないとね、みんなちょっとおしゃれしてくるはずだからね。たかだが修学旅行、海水浴でちゃんと律儀にはしゃぐところが、子どもらしくてかわいーわね、……その集団inなオレが言うのもおかしいわね。
 さっき顔を洗った洗面台の上の鏡を、背伸びしてのぞきこむ。
 自分のお顔を、じー、と観察。
 あごに、親指と人差し指なんぞ、当ててみちゃったりして。
 うん、今日も、あの子をとりこにした――かもしんない、美形ぶり。スタイルのバランスも足が長いわよ!
 しかし、やっぱ惜しい。
 小学生とゆーことで『ガキくささ』が、いなめず。
 しげしげ未練がましく観察するも。
 やっぱり一ミリとて。
 昨日と比較し、ますます凛々しくなったり! 成長してたり! 男らしくなったり! して……る気配は、なし。
 やぁねぇケチ、成長期なのにさ。
 しごく残念。

 しかしアレねぇ、我ながら自分の容姿、見るたび少々、ハッとするわね。
 どうも、美術館来訪した気分になるわ。
 ロシアなエルミタージュ美術館とか。
 フランスなヴェルサイユ宮殿とか。
 西洋的ー。
 天使がぷりちーな丸尻のてっぺん、てからせて、ミツバチみたく舞ってるよ?
 ……って風の壁画を、見た、気分。
 その一員になるはずだったんでしょうか、オレは? 血もほぼ純日本人なんですけどね?
 白人よりもなお、白に埋められた身体。白磁器のアンティークドールそっくり。
 神様のしもべ系統。
 あるいは、闇に浮かぶ死霊系統。
 第三者に、どっちに転んで取られても『神秘的な容姿』であるわけだけども、いらんかったよそんな奇跡的。
 男子としてごく標準な長さ、コシがないせいで、くたりと毛根から、子猫の毛のようにすでに寝てる、毛髪からしてやる気のないオレの髪。
 だから『ふんわり』と広がる、髪の毛の色。
 モー、しらがよ、白髪!
 逃れようもなく銀髪。ロマンスグレー。いいやオレは若いっての!
 そんで、クッキリ二重の、つりあがったでかい目もね、カタチ自体は。
 猫っぽい色気あるそのカタチはぁ、問題なし、気に入ってるんだけどー。
 コレもだよ、はまってる眼球、この色、色!
 どーにかなんないかねコレ。
 なんかに驚いて瞳孔がいっぱいに開いちゃってるような印象の目。
 なんでそう思うのかって、瞳孔部分にしかほとんど色がないからだ。
 ブルーに近い瞳孔部分に比べ、黒目の他の部分は、せいぜい『超薄ブルー』ってとこ。
 白目の親戚、いいや兄弟色の『超薄ブルー』。
 こうなりゃ瞳孔も全部、『超薄ブルー』だったなら、かえって地味な目になれてたのやも。オール白目っぽい目……まぁ思っても仮定でしかない。
 で、その目をかこむ、白く輝くせいでかえって目立つまつげ、これも白髪。
 マスカラと逆の色だが、逆もまた真なりってやつ? ぺかぺか発光しているように存在を主張。
 ホラ、若そうに見えて、実は中年さしかかりな人の白髪って「ハッ! けっこうこの人、年食ってる!」って、かえって目立つじゃん。あれッポイよ。
 そして肌。おしろいをはたいたような『マッシロ』。
 ……日焼け止めクリームが粉ふいてるんじゃないよ? もとから美白なの。もう少なくとも東洋人じゃねぇだろ、ってふうに。
 そんな透け感のある皮膚をくるんとかぶっただけの、厚みがうすい唇。血の薫りが「隠せてねぇよ!」ってけっこう漂う、珊瑚色。

 あごに指あてたまんま、首ひねる。
 ……まぁいまさら、どんだけケチつけても、しょうがないわけだわ。
 まだ、じーっとナルシーに鏡の自分と対面したまま。
 キュッとネクタイを、もう少しだけ固く締め上げる。
 で、ようやっと着替えのフィニッシュに、戸棚へ片手をひょいと伸ばし、胸ポケットにサクッとサングラス。
「子どものくせにっ?」って感じだけど。
 いやもぅ、他のついずい、を許さぬくらいオレ、すっげぇ『まぶしがり』なもので、ちょっとでも明るいとこだと、目が痛いのよ。
 しかも紫外線おおめのとこに出るとなったら、皮膚のみならず眼球にも、UVカットな傘がほしいしね。
 オシャレ、ファッション、カッコつけてるんじゃないって。……本当よー?
 そんでもって、ハンガーの真下、の床の上。
 荷作りしたドラムバッグを、たすきがけで装着。
 昨日、自分ひとりで荷作りする時、ワクワクしちゃってチャシャ猫のよーに、にまにまにまにましてました。
 そういう時はまだ、親の存在を欲してみたりするけどね。
 だってハタから見たら、インナーワールド入った、危ない人だからなぁん。
 で、洗面所を出て、いつもどおりに誰もいない家、やっぱり明かり灯さないままの廊下、テーッと歩き抜けて。
 ついでに置きみやげ。
 愛しいあの子からプレゼントされた、靴箱上の日めくりカレンダーを、ビリッと一枚やぶいた。
 現れる赤日付と、祝日表示。
 そう、本日は、まさに海の日!
 ……わきあがってくるウキウキに、弾丸みたいに玄関ドアを開けはなつ。子どもな小人なのにそんなに全開にあけてどーするって? 気合いだ景気だ!
 いちおう豪邸、にふさわしく、指紋認識錠なオートロック。
 おでかけ前の施錠確認なんか、生まれたときから、やったことないね!
 タッとスニーカーの靴音を響かせて。
 馬のひづめの形が闇に溶けこんでいる、夜明け前の道路を駆け上がってゆく。

 さっき眠りを妨げた猫がまた、「ぶぶみゃぁ」と、ひしゃげた顔面が想像できるような、鼻声でひとなき。
 おまえももしや、おディトに向かう喜びに耐えきれず、走ったり鳴いたりしちゃってるのかい?
 今日は。
 全国いっせい『オレたち』のための、海、貸切日。

 ◆

 海の日。
 それは、おそらくね〜『一生に一度きり』の、海水浴の日、と決まっていた。
 小学校では六年生におこなわれる修学旅行。これで京都奈良に行くも、北海道までビュッと飛ぶも、コロンブスの卵で近ぇよ東京見物とかしてみるも、ご自由に。
 そんでね、海っていうのも、人気なチョイスだわね。ホラ、臨海学校って呼び方したりもするしさぁ。最近、沖縄まで行くのが大衆的。だって入りたくねぇよってくらい、汚いんだもの他の海。北海道の海はさむいし。
 で、あえて、その人気チョイスにのっかってみたのが、この。
『特殊夜間学級のみんなで修学旅行に行きます、海の日に』企画なのね。開催は五年生時点だけども。
 昼の日ざしふりそそぐ、海になんか入れない――夜の子どもに、おそらく最初で最後の夢のプレゼント。
 はて、海に入りてぇよぉ、とかゆー夢なんて、切実にみた覚えないんですけども……? まぁ大人から子どもへのプレゼントなんて、ピンボケしてても許してやるのが、ふところの深さの見せつけどころよ。
 別にふだんの日でも海にくらい入ればいいじゃんって?
 だってね。海って野外なのよ。
 夜は暗くなるのよ、黒くなるのよ、これはもぅ大変なこと。
『子どもの安全確保』が、も、すっげー難しい、というアンサーが導かれるわけ〜だ。
 あきらかに昼より見えないもん、監視員のセンセェに暗視ゴーグルをつけさせても。
 モノクロかつノイズまじる視野にめげず、目ぇ皿のよーにみひらいて、監視任務まっとうしててもさ。
 波間に見え隠れする、小さい子どもの頭ひとつ。
 おまけに親に連れられ、手つなぎ監視で、プールで泳いだ経験……も、ない子どもがごーろごろ。ほぼ全員カナヅチだ。
 だって窓に超高性能の紫外線カットガラスとか使ってくれてないプール施設って、まだけっこうあるし。
 そんな夜の子ども達を、一方的にふびんがって、文部科学省が全面的にサポートしてくれるこの企画。
 最新鋭の機材や、予算、便宜を、かなり気前よく割り振ってくれてます。
 ちなみに健康面で不良におちいりやすい子ども――慣れない環境だとコンディションががたがたになりやすい子ども、が多い学級なため。海の日、その次の日、のみの一泊旅行。短期集中講座だよ!

 ところで、『特殊夜間学級』っつーのはナニ? って。
 疑問が当然、わくわねぇ。
 これは新世紀もまったりと落ち着いた頃に、こっそりできた、いっつおニューなシロモノ。
 ペニシリンの世から、エイズちょうりょうばっこに至るまで、病との闘いは。
 人類の一時も休めねぇ、休みゃあ滅びる永遠のいさかい。
 新しく出てくる未知な病気。
 あるいは、古くから存在する病気が手ごわくなっていく。

 ……で、近年もね、次の二つの病気がね。
 爆発的――ではないにせよ、そーとーに増えてきてる。
 アルビノって知ってるかなぁ?
 一番わかりやすいのは、赤い目の白うさぎさん。あるいは天然パーマぎみなふかふか白毛の赤目モルモット。動物実験のターゲットによくなってるよーな。
 または、神社でまつられてる白蛇なんかを思ってくれるとわかりやすい。絵馬の裏っかわにとぐろも巻いてます。山口県岩国市とか、けっこう多い。
 白いって容姿は、アルビノっていう病気、病気って言うか体質のなせる技、なんですけどもねぇ単に。
 体の色の元でもあるメラニン色素、を作る機能が、とってもとっても少ない状態。あるいは零で生まれてきた個体。
 メラニンができねぇ? それはシミができねぇって事じゃねぇか! 私もならせろ!
 ……って鼻息荒くしちゃう妙齢のお姉さんがた、落ち着いて、おちついて。
 先天性、つまりは生まれつきなので、なろーってなるもんではないし。
 外見にも、特殊な特徴がたくさん出て――つまりは他人の目に「なんかこの人、白いねー。いや本当、白いよ」って感じに。
 黒人種、黄褐色人種、黄色人種、のなかでは特にめだつんで、……いじめとかに合う確率も高いよ。
 あと、個人差があるとはいえ、総じて『瞳』にもほとんど色がないんで。視力に問題が、高確率で出る。
 光がまぶしすぎる。
 人が黒やら茶色やら緑やらのカーテンとおして太陽みてるのに、真っ白に漂白したカーテンで拝んでるようなもの。まぶしくてやってらんない。
 他にもやっかいな事は多いよ。
 ええっと日本語だと――『先天性白皮症』。

 XPはどうかしら?
 いや、ゲイツさん家の長男さんとは関係ないんだってば。
 ある太陽を浴びてはいけない病気の名称。
 これも生まれつき。
 日光レベルの紫外線なんか浴びたら、すぐに皮膚が赤くなり。
 その赤みはつまり強度の日焼けなんで、水ぶくれとかになり。
 それはシミとかになったり、なんだったら皮膚がんになってゆく。
 アルビノもねぇ、皮膚がんリスクは高いんだけど。だって紫外線から守ってくれる騎士なメラニンと離婚してるって感じだから。
 メラニンは美白の敵なだけじゃない、紫外線から僕らを守る、守ろうとしてできるもの。
 黒人種が紫外線に強いのはメラニンとラブラブだからで、黄褐色人種とか黄色人種もそこそこ新婚で、白人種は倦怠期。
 ……XPはアルビノみたく、メラニン色素が生成されない体質、ではないんだけどー。容姿もべつに白くないしぃ。
 紫外線でいたんだ皮膚……損傷したところを、じょうずに修復する機能がじゅうぶんじゃない。低下している。
 他にも色々、症状はあるんだけど。
 でけっこうXPは症状別のタイプ分類――『郡』が複雑に多くてね。いやアルビノの型の多さも人の事いえないけど。
 全部のXP患者に共通してるのは、太陽厳禁くらいかな。
 愛しのあの子なんかは、この、XP患者なの。
 ええとぉ日本語だと――『色素性乾皮症』。
 アルビノ=先天性白皮症、XP=色素性乾皮症、……なんか字ヅラが、似てるわねぇ、ね?

 一見してわかるけど、この二つの病に共通するのは『紫外線にあたってはいけない体質』ね。
 ……つーわけで、この二つの病気の増加がすなわち。
 太陽さけた時間帯に授業する『夜間特殊学級』の発祥のきっかけだわね。
 アルビノもXPも、まぁ劣性遺伝だから子どもには伝わらなくて、両方の病気まとめても、その総人口は『ごくまれ』だった。
 ……あ、例外として、『月の子どもたち』つって、アルビノを神の子、神の使い、としてあがめる文化のある〜南米の一部族なんかでは。
 意図的にアルビノを重んじている歴史がため、アルビノ率は激高。二百人に一人くらいだったりする。
 ま、そこで生きてるとしても、生活していくのになにかとふべん、な身体的特徴は変わらないし。
 なんだったらその神秘の力が信じられているという余波によって、「神女とヤッたらエイズが治る!」とかゆー「いやいやいやいや……」と首ふり続けるしかない、そんなわけないっしょ噂が流れて、レイプ被害にあったりとか。
 いろいろアイタタタはありますけどね。
 ……で、アルビノとXPひっくるめて『ごくまれ』だった、ん、だけどぉ。
 よく言うじゃん、地球環境の変化。地球温暖化とか。
 つーかさ、環境破壊ともゆー。そっちのが合ってるね。
 そういうののせいなのか、なんなのか、なーんか年々、アルビノもXPも増えてきましてね。
 ずうっと昔に解決したオゾン層のいたみ――フロンガスの規制でとっくにふさがったオゾンホール――の影響が、今頃になって子孫へ出てきたのかも、とかも言われてるんだけど〜どうなんだろ。原因さっぱり判明してない。
 まあ、とにかく。
 実際問題、なんでか『生まれつき』な病気、アルビノやらXPやらの子どもが増加して。
 そんな『日光ダメ』な子ども達のために、『特殊夜間学級』が誕生した。
 今、ぼくが在学してる、この学級ですね、まさに。
 ……で余談だけど、スッゲすんなりだった、この『特殊夜間学級』の誕生、そのスピード出産の背景には。
 他の、夜のほうが登校しやすいかも子ども、の増殖、という事情が……大きくからんでた。らしい。
 親の育児放棄。あるいは忙しくて手がまわりきらず、が原因で。
 乱れた食生活や就寝リズムに、場合によっちゃあ悪気なく、置かれている子どもの増加。
 結果的に、夜に眠れなくなった『夜は不眠症で、日中は逆に眠れる』ってのが、もぅ筋金入りに板についちゃって。
 短期間に治療が終わる見込みがない、『子ども達』。
 または。
 悪辣、卑劣にまみれた現代社会に生きるがゆえの、うつ病の子どもの増加。
 結果的に、よく晴れた日の真昼に、道をとおりかかろうものなら、症状悪化しちゃったりする精神病な『子ども達』。
 なんで昼の光で、症状が悪化したりする場合があんのさ、っていう問いにはー。
 ほら、うららかな小春日和に、公園のさぁ、まぶしいまぶしい陽だまりの中心で、幸福いっぱいに散歩する。
 貫禄のあるおじいちゃん、上品なおばあちゃん、弁護士かなんかっぽい息子、美人なお嫁さん、生まれたて初孫、な総出ファミリー。
 を見かけた直後にー。
 なんとなく鬱、死にたくなったりしない?……しないか。そりゃ健全。
 すっげ正常なもの見てしまうとぉ、「うわーもういいオレなんてもういいんだ!」みたいに、自殺方向に重くなったりしちゃうのヨ。うつ病ってのはね。
 昼の日光っていうのはさ、代表選手みたいに、正常で健全なのよね〜。ヤァ、ぽかぽか。
 さらには。
 重いアトピーで、日光やその温度変化でますます傷が『じくじく』赤く化膿しちゃう、おまけに塗り薬も溶けたり変質したりしちゃう、『子ども達』とか。
 耳慣れた、耳慣れない病気。みーんなひっくるめて。
 強烈白光にさらされない、夜にひっそりと暮らす生活が向いているとされる、病気にかかっている子ども。
 あだ名的なおなまえ、『夜の子ども達』。
 ……んーそれじゃあ。
 みんなひっくるめて、夜に学校に通わせたほうがよくね?
 通学の、一定の安全さえ、確保できればぁ。
 どうせソイツラ将来――大人になった時だって、そんな生活スタイルを取ることが多くなるんだろうし。夜型の仕事なんか、コンビニ夜勤をはじめ、いろんな職種があるんじゃーん?
 という提案がどっかから出されて、どっかですんなり通過して、でトントンと各都道府県に、一個以上ずつ設置された。
 それが設置の始まり。
 夕方ちょいすぎからの『特殊夜間学級』。
 めでたくハピバ。

 んでね、設置、誕生、どころな、みみっちい話じゃなくて。
 今や『特殊夜間学級』今となってはすっごく数をふやしまして。
 都道府県に一個どころか、市に一個はある。
 そこまでふえた事情はねー。
 この、ケーキをふんわりパンパンに膨張させたふくらし粉は、いわゆる〜。
『いじめに遭っている子ども』だぁね。
 その子たちが、避難場所、シェルターとして、『特殊夜間学級』に編入してくるケース多数。
 ホントはべつに夜の子どもじゃないけど、夜の子どもとしてね。
 いじめを苦にした自殺の回避作戦。
「あの子をいじめたな、いじめは駄目じゃないの、メッ!」っていう。
『いじめ加害者への制裁措置、出席停止の罰則』は。
 証拠不十分で措置するのは問題だ、いやさ逆にいじめた側への人権問題だ、つかそれでいじめって止むか? 報復だっつって、バレねー影に隠れるやり方に変わって、よりひどくなったりしね?
 ……と。
 ごちゃごちゃぐちゃぐちゃ〜!
 ちったぁ片付けろよ散らかしたおもちゃをよ!
 ……てなものに、議論が長くつづけられたぶん紛糾しまくっちゃって。とてもじゃないけど『いじめ加害者への罰則』は、一般化しなかった〜、定着しなかったんで。
 けっきょく、いじめられてる方がどうにかしなきゃいけないとゆー。切実に追いつめられてんのはどうしてもそっちだから。ふりだし戻ってんじゃん。
 引っ越しして、転校して、環境を総とっかえするのはそーとー大ごと。親への負担、だけど。
「ちょっと、ちみっとだけうつ病ぎみになっちゃったんで、一時的にかな、特殊夜間学級の方に移動、転校させます」
 と必要以上にじょうぜつに事情を説明しながら、夜に通学するようになる、だけなら。
 負担、軽っ。
 家庭をしきるママンもにっこり。
 そして。高校とかで遠めの学校に進学して、まっさらに新しい人間関係のなかでリスタートも可能。……という展望で、将来への不安もかなーりぬぐえる。
 いじめられてるサテどーしよー、の、落としどころとしては〜。
 アリじゃね?
 まぁ最初は、生活サイクル激変で、子どもは眠たいだろーけどさ。
 ……アウトローやら、アウトローにならざるを得ないやら、アウトローでも気にしないやら、てかアウトローって何? なマイペースお子様やら。
 そこはさすがな『特殊夜間学級』。
 いじめというマニュアルにのっとった、ありがち行為でストレス発散させてるようなヒマ、ここじゃあ、あんまねぇわ。
 それよりも。
 攻撃、服従、逃亡すべてタブーにせず、それぞれの自分の人生とガチンコ勝負するのでいっぱいいっぱいな。
 それぞれの個人問題、それぞれの家庭事情ぎっしりな――ガキ多し。
 足並みそろわねぇ少人数な個性派社会。
 ……脱線したよ。
 そんなこんなの水増しもあって、当初予定したより人数はふえに増えて。
 われらが特殊夜間学級は、基本的に少人数学級ながらも、安泰、存続、増加のいっとを辿っています。ビバ!

 ◆

 ――というわけで、小学五年生なボクの海の日は、必然的にジャリにまみれた修学旅行です。
 でもさ、今年の春ごろまで、参加する気はぜんぜんなかったのよ。
 普通に不登校だったからねぇ。
 それが、こんな。
 えんえん楽しみにして、上機嫌で参加するようになっちゃうとはねー。
 人生、先がわかんないもんだわ。スルメのように噛みしめる。
 ちなみに、この修学旅行を、なんでプレ状態に五年生でやるのかって、なんでもこの修学旅行〜特殊バージョン〜を、にこにこ笑顔でオールクリアできたなら、真昼の学校でもやっていけるからだろうって。昼間の学校に移して平気そうか、のお試しケースらしい。
 オレらは体質上、昼間はありえないけど。拒否ってる奴とかのね?
 これ逃すともう中学デビューした方が早いから、小学校最後の、特殊学校からの足洗いケース。
 修学旅行が一個増えちゃうわけだけど〜、親もさ、こっち、の修学旅行は、全額国補助だから。
 損はしてないからね、損は。文句もないらしい。でも修学旅行ってそんな金かかんの? とお坊ちゃまなオレにはピンと来ないつつ。
 ……でもさあ。
 修学旅行がにこにこで過ごせるか、って、それってつるんでる存在に左右されね? どう考えても。
 いきなり学級移って、すぐに友達できて、一年後またにこにこで本家の修学旅行に参加できるかって。それはすっげハードル高いと思うんだけど。
 鬱ってしまったら、逆に昼間復帰に時間かかるよ? と邪推しちゃうわ〜。
 まあ、オレはその心配ないけどね!
 早朝、始発も出るか出ないか、っちゅー位の、薄墨いろのプラットホーム。
 タクシー飛ばしてたどりついたってのに、人影まばらだわ。つぅか先生もいないわね。
 うーん? エスカレーターと階段そばの、列車ドア入口には、一先生くらい貼りつけてぇ、生徒誘導にあたらせるもんなんでないの? えー列車につめこんでから点呼すればイイってー? 職務怠慢〜?
 あっ。
 あそこに、片足だちで車体にもたれかかって。
 左足浮かせて、ひざこぞう曲げて、つまさきプラプラさせながら、いかにもヒマそぉ、にしてるのは!
 見つめていると、なんか視線で圧迫かもしだしてたのか、ふぃ、と顔を上げて、こちらを見てくる。
 で。ぱあっ、と間髪をいれず、打ち上げ花火のように、容赦なしの笑顔がはじける。
「ノウ、こっち〜!」
 うっはー、カワ。
 今日も笑顔がまぶしすぎっすよ。
 勘弁して。くらいのレベル。
 朝一番の再会おはようさん笑顔は、また格別で、黄帝液のようにキまる。
 笑顔光線によって本気でシパシパする瞳を、細め、デレデレ顔をゆるめながら、
「ぉーヘキ」
 未成年者略取のゆーかいはん、不審者のように。
 走らず、しかし可能なかぎりにすばやく、な足どり。で近づく。
 あとちょっとで体、くっつきます、くらいの距離まで来て、足を止めて。
 ヒジ、もちあげて、指をのばす。
 生命力にあふれてる黒髪は、長めのスポーツ刈り。
 カット担当しているヘキのお母さんによれば、秋田犬っぽいのに毛足が長くてムクムクした、雑種犬のイメージ。の長さ、らしい。
『かわいらしくも、たくましい感じで』
 と、まさにカット中、はさみを振りかざしながら言っていたあたりに、教育方針もうかがえたわぁ。
 その、ぴんとしたコシがあって、手ざわりの良い黒髪を、指でよじるみたいに、親しくさわりながら、
「おはよ」
 黒瞳を、ちょい高い身長差からのぞきこんで、ご挨拶。
 えへへぇ、って、スキンシップ与えられてる子ども、愛にひたってる幼児。芸術レベルまでいっぱいに体現する笑顔で。
 嬉しそうにほっぺたピンクっぽく染めながら、ヘキははにかむ。
 ああもぅ可愛いわね! 可愛いわね! つかなんでピンク色! ピンクなのよ!
 小躍り、ステップ踏んで、さいげんなく空中に舞い上がってく、内心をおし隠しつつ、
「んじゃ、乗ろっか」
 ひらいた右手をさしだして、ヘキのぷくぷく、やーらかな手を握る。……自分の手もそこそこ『ぷにっ』てるのが玉にキズ。
 で、繋いだ手、くいっと引いて。
 先導、リード、大切にエスコート。
 そんな微妙〜な女あつかいにも、後ろから、ほわほわ笑顔でもってついてくる。
 うぅん、ニブイって言うか、単に子どもだよね!
 ちらり、歩きながら横目で。ヘキの首すじから、つま先まで、お洋服チェック。
 ……むぅー、ひそかに期待してたんだけど、ヘキはあんま、オサレ〜は、してきていないわね。
 まあそれでも、鼻がふがふがして鼻毛が空気に遊んじゃうくらい、ラブリーだけどね!
 上はやや光沢ある黒の長袖Tシャツで、下はサッカー選手がはいてるよーなハーフパンツ。こっちもサイドに黄ラインが入った『黒』だけど……丈が丈だから、ふくはぎが無防備に出ちゃってる。
 その『ぷっくら』とした白さ、は、女の乳房のよーにありがたやありがたや〜眼福、ではあるんだけど、……あるんだけどー。ちょっとひっかかる。
 心配、方向でひっかかるわ。光を浴びる。
 けど。
 ヘキは見た目からしていかにも『活発なお子様』なハーフパンツが。
 性格上お似合いなことに、大好きだった。
 ……お手てつないだまま、電車の扉、くぐりながら。
 肩越しにふりかえる感じで、
「昨夜、お店、手伝えなくてゴメンな。なんか大変だった?」
 問いかけると。柔らかげなフォルムの首を、ヘキは左右に、振る。
「ううん。お母さん、今日ここまで、おれ送らないといけないからって、ゆーべは早めに店しめたし――」
 そんな会話をしつつ、ブルートレイン『はやぶさ』へ、乗車完了。
 閉所恐怖症なら駆けぬけたいくらいの、せまい廊下に、夜に引導わたしはじめた朝日が、うっすら射しこんでいる。
 その光を浴びながら、自分達にあてがわれた場所に向かう。
 紫外線カットフィルターでおめかしした、特別ガラスをはめこんだ『はやぶさ』のなか。
『オレたち』って人種がいっせいで使うのは、毎年、今日、この日だけ、なんだけども。
 文部科学省は資金潤沢なわけですぅ、いくらでも改造費を払うよ〜。こんな部分的なトコではね!
 東京から南方面に向けた路線『ブルートレインはやぶさ』、毎年この日ばかりは通常運転をすべてお休みし、このように寝台列車のくせに、日中、走る。
 ……なんでわざわざブルートレインで旅行するのさぁ? って、あのね。
 オレたちには、昼が夜だから。
 つねに昼夜逆転〜吸血鬼のまねっこ生活?
 朝から昼すぎにかけておねんねし、夕方に身じたく、その他ととのえて、お日様いなくなると同時に海へgo!……のスケジュールが、都合がいいので、このような交通手段となっております。
 せっかくの旅情気分も、これならナカナカに味わえるしね?
 テクテク、ヘキの手を引いたまま、宿泊する寝台、寝台と言うか部屋を、めざして進行する。
 はやぶさ、は、遠い昔にいっぺん廃線でめそめそ泣いちゃった寝台列車なんだけど。
 旅行客増やそうムーブメントとか、熱烈な鉄道ファンの増加とかで、蘇ったフランケンシュタインくん。
 本来の『はやぶさ』はそうではなかったんだけど、海の日、臨海学校に使われるようになってからは、じょじょに手が加えられ、今や、全室個室。
 いちお、豪華ブルトレの旅、カテゴリ?
 ガキにぜいたくをさせてはイカン云々はとりあえずいーじゃん。せっかくの文部科学省プレゼンツ。

 部屋は、圧迫感はまああるけど、なかなか広い感じだった。
 特殊夜間学級仕様の列車、っつーことでそなえつけの、ブラックな遮光カーテンを、入室するなりあわただしく、ジャッと引く。
 かなーり薄暗くなる車室。
 ……ヘキの病気は、紫外線さえカットされてりゃ、まばゆくても平気なんだけども。
 そこはホラ、オレにつきあいってことで。愛、愛でカバー。
 カーテンを引くために膝頭でのりあげたベッドを、そのまま少し這いまわって。
 ぐちゃぐちゃっと毛布、かけぶとんをめくり、ベッドの敷きシーツを露出させる。居心地よく座れるよう。
 済んで。ふぅ、と、靴を床におろし、腰を落ち着ける。
 ゆとりができて見渡せば、立ったままのヘキがキョロ、キョロ、と、室内の『間取り』の把握につとめている様子。
 ……あぐらの親戚に股ぱかっとする風でベッドに腰かけたまま。
 どっか見知らぬところへ連れてこられた赤ん坊の犬、っぽいヘキのしぐさを、じーと見つめる。
「…………」
 うーん。
 入室するなり、二人組みの片方がひととおり疾風に、バタバタ室内荒らすように準備して。
 もう片方はわりとぼーっと、自分のことマイペースにしてる、この感じ……。
 なんだろ、シチュエーションが、似てるわ。
 ラブホにエントリーしたカップル、なの?
 ……自分で自分からかってどーすんだか。
 ほんのり内心、この連想に恥らってると、
「ノウ、朝ごはん食べてきた?」
 ぽふん、と、オレの横に腰かけてきながら、ヘキがくりくりした黒目を投げかけ、尋ねてきた。
「ううん」
 あんまり食欲が旺盛なタイプじゃあない。
 それよりかはー、やっぱね、必要不可欠なガソリンって言えば……。
 体を支配してんのは。
 毎日プチプチ、たくさんひねり出して、海の色のピルケースにためる。
 白い。苦い。粒い。
「ああー、やっぱり……ハイ!」
 ……って。
 おおう、当然のようにヘキリュックから『お弁当』が、さしだされてキタよ!
 なにこの世話女房! おさなづま、め!
 胸中ではジタバッタと、土ぼこり上げて悶えながら。表面上は涼しい顔で、
「あんがと」
 シレッと平気そーな顔をよそおって、貰う。
 ……だって恥ずかしいじゃん!
 膝の上にしばし、わざわざ無意味にのっけて、重みをしみじみとありがたがる。
 聞かなくてもわかる、コレは愛妻弁当!
 ヘキのお母さんが作ったもん、じゃあないはずだ。あの人は店の片づけで忙しかったはず、だからね。
 門前のどーたらが習わぬなんとやら、で、ヘキの中華料理の腕前は、まさにコックに迫る勢い。
 これはヘキのお母さんの店で、持ち帰り用の容器につかってるヤツだねー。
 そう見てとりながら。使い捨ての、ニセモノ木目、紙の弁当箱をかぱっと開ける。
 焦げ目こうばしい、クレープに似ている物体が、二本ででんと横たわっている。
 いかにも腹がふくれそうに、目玉焼きがそれぞれに入っている。ま〜るい黄身が顔のように合わせめからのぞいてる。
 野菜も食べてね、ということなのか、色紙切りの四角いキャベツたっぷり、さらにコーンもちりばめられていて。
 はしを握り、いただきます、と一口かじると。
 見た目だけではわかんなかった味が、口中をわたっていく。
 キャベツに塩気を与える役割をする細かいベーコン、コーンと相性ばつぐんのチーズ。ふにぃっと柔軟な歯ごたえ、きめ細かいスポンジのように旨みがしみだしてくるのは、マッシュルーム。
 それらをラップ状態にくるんでる、こげ目のある皮は、春巻きの皮。
 カリッと焼いてあっても、お弁当だから、その歯ごたえや香ばしさはもう味わえないけど。ふにゃっとしている皮も、それはそれでおいしい。
 おにぎり、サンドイッチ系の、口であったまって噛みしめて味がしみだしてくる、そんなウマさなメニュー。
 いつものことだけど、今日初めて食べるレシピだ。
 ヘキお得意の、無国籍アジア系、創作料理。
 あるもので作るまかない料理、とも言う。
 けっこう栄養たっぷり味ぎっしりなので、無言でむぐむぐ、その食べごたえに立ち向かっていると。
「ハイ」
 またかいがいしータイミングで、ヘキが、いつのまにやら取り出していた水筒から、湯気たつコップ一杯、さしだしてきた。
「あんがとー」
 ヘキは商売柄、いろんなお茶を持っている。
 手にすると、ほわんと湯気と共にたちのぼる金木犀の香り。秋の公園の匂い。
 ズズッと口にふくむと、通常のウーロン茶のしぶみに、ピリッとくるような、かすかーな苦味が走る。いわば薬草系のニガミ。
 コレが喉に良いらしいので、注文時、喉を痛めてるっぽいお客さんには、ヘキはこれ――桂花烏龍茶をすすめたりする。
 で、弁当箱のスミ、つけあわせのデザートをつまむ。
 アップルの香りのするミントハーブが、ちょこん、と、てっぺんに刺されているあたりが。見た目からして、フツーの子どもの料理とは一線を画している。
 茶色い霜のようなものでコーティングされた、バナナのチョコかりんとう。
 ただでさえ甘く熟れてるのに、熱をとおされてそりゃもうとろけんばかりになったバナナの果肉に、砂糖をプラスしたチョコのころもを、飴状態にカリカリに身にまとっている。
 中華なべで強火において一瞬でジャ! としあげる、これは、前にも食べたことある。好物。
「あま〜っ」
 満腹ザマス。

「ヘキ、はもういるかー?」
 三十代の顔にたくわえた口ひげという、わけわからんセルフプロデュース趣味な担任が、ノック直後、返事を待たずに、ドアからひょこっと顔を出した。
 そして、シメの一口のお茶をすすっていた、オレに、目を止めて。
「おぉ、ノウもちゃんといんのか」
 ……どうかしら、この友達しゃべりな態度。
 丁寧語、謙譲語、正しい言葉づかいを広げていかなきゃいけない教師として、どうなの? どうなの?
 まぁ『きたのか?』まがいの内容に関しちゃ、毎日欠席、拒否児童から、毎日遅刻、登校児童へと、ハンパ華麗に昇格した身としては、あんま文句も言えねーけどさぁ。
「おまえの部屋、一個むこうだぞ?」
 クリップボードに目を落とし、チェックシートにペンを入れながら、教師は続けて言ってくる。
「使わな〜い」
 ホテルと仮定するならば、クレームものの狭いベッドだけど。
 そりゃあ大人が使用するケースだもの。
 だっこしあうように体を横たえれば、ノープロブレム!
 子ども身長、こんなときには便利ね。
 ……個室料金一泊ぶん、丸ごと、思いっきりよくフイにする、生意気なガキの台詞に。
 うるさく言う気はないのか、
「ヘイヘイ」
 と黙認の生返事をかえしてきつつ、教師はヘキに、薬を一錠、わたしている。
「酔いそうだったり、眠れなかったりしたら、飲め?」
 という、説明と共に。
 酔い止め――睡眠薬もかねた、お子様も安心な弱い作用のソレを。
「ノウもな」
 ふりかえってオレにも渡して、それからドアをくぐる。
 ジャ! という横に滑らすドアの開閉音を、耳に聞きながら。
 手元に視線を落としつつ、たずねる。
「ヘキ、眠れそう?」
 てのなかには、一つの錠剤。
「うー、眠たくはない、かなぁ……」
 そうでしょうね。
 顔を上げて再確認するも、漆黒の目、活気にあふれて、お目めパッチリ。ウキウキわくわく。
「飲んでおこ」
 はい、あーん。
 とばかりに、プチッとひねりだした錠剤、つまんだ指先、ヘキの唇へ近づけてゆく。
 あむ。そんな感じに、ヘキは流れで、素直に口にふくんでしまってから。
 ぷっくり少しふくらんだほっぺたで、そういえば水は? という、きょとんとした顔を向けてくる。
 ……唾液で溶けてくるから、今、じわじわ〜ぁと、舌、苦いだろうに。
 さしだされるもん、無防備にふくみすぎ。駄目だよ色々なものくわえさせられちゃうよ?
 ……それ、とも、オレが、信頼されてるワケ?
 考えながら。錠剤もってた手を、えいやっ、とさらに伸ばして。
 ヘキの首に、曲げた指先をひっかける。
 ぐいいーっと一本釣り。
 膝こぞうのあたりまでの肉、やーらかいふとももの肉が、足が二つ折りに畳まれてるせいで、むにっとつぶれてる。あひるさん座り。
 そんな正座に近い姿勢のまま、パッタリこっちに倒れこんでくる。
 ――あ。
 苦。
 いや、オレは、クスリの苦味には慣れてるけど。ごめんね、苦いわ。
 さっさと喉に流しましょ、と。
 唇の合わせ目にねじこんだ舌先を、さらに奥まで入れこんだげる。
 キンモクセイ茶を飲んだばっかにつき、うるおい気味な口腔から、唾液も送りこむ。
 そんで、身長差あるペアのダンスのよーに、一方的なリードで舌をからめる。
 その対になる動きに、小粒な錠剤は、木の葉のように回転させられたあげく、ヘキの喉奥へ流れていく。
 むぐゥ、と、息がつまった、ちょい苦しげな声と共に。
 ……よしよし、飲めたねェ。
 去りがけの駄賃、とばかり。濡れて雫まとってる、血色のいいピンク唇、表面を、ぺちゅる。
 ひと舐め楽しんでから、顔を離す。
 まだ閉ざされたまんま、震えているまつげ。
 丸い頬骨部分で、つやぴかに光ってるほっぺた、『桃』色。
 ……うーわ、なんか、はしばし。
 ピンクな生き物だなー。
 感動して眺めてると、その顔で、目が、ぱちっ、とあく。
 ……ああ、ピンクが、ぶわっと濃ピンクに。
「なんでっキスなのっ?」
「えーだってヘキ、薬のむの苦手でしょ?」
 手伝ってあげたのに、と、計算済みの角度で。下からすくい上げるように見る。
「……ったしかにキライだけど! キ、ス……ッしなくてもいいのに」
 わんきゃんわぅん、小犬が吠えている。
 んーむ、朝っぱらからディープすぎたかしら?
 でも僕らの朝っておもに就寝開始時刻だしぃ。なんかやるなら寝る前でしょ。
「がまんくらい……、……ッ!」
 なれなれしく肩に腕をまわして、抱き寄せる。
 頭をナゼナゼする。なだめようとしてるの見え見え動作〜。
 友情範疇のスキンシップ。たとえ人前であろうとも、問題なしなほど。
「できる、の……、……に……」
 だんだん懐柔されて、ぬくもりに忘れてゆくよーに、語尾を飲んでいってしまうヘキ。
 頭二つ、横並べて。
 肩組んだまま、飽きずによしよし。
 なんてーのかな……ヘキの黒髪、やわらかくはないんだけど……しこしこした手ざわりっていうか……。
 気持ちいい。さすがヘキ。
 オレみたいに二十代で確実にM字型に後退の兆しがきてそうなほど、ハゲ必然なコシのない髪、本当、イヤなんだよな〜。

 一九九六年七月二十日まで、海の日はなかった。
 ……ずいぶんソレにこだわるね。
 って、まぁね、なんか、暗示的って言うか。
「うん現実ってぇ、宇宙だって、そういうもんだよね〜」って。
 わりと納得材料?
 未来永劫、安泰で変わんないもんなんか、あんまないッつーことで。
 人類は、地球は、変化を常としますぅ〜。だ。
 正確には、海の日自体は、もっと昔からあった。
 でもそんな、日付に次ぐセカンドネーム持った日って、いくらでもあるし。
 子どもって、みどりの日だって〜建国記念日だって〜、休みじゃなければ名前、かすりもしないじゃん覚えないじゃん。
 で、そんな、『ご記憶にとどまれる』インパクトを持ったのが――ようするに祝日になったのが、一九九六年。
 なにを称えてる? って街頭インタビューしたら、「……海?」って返ってくる率百な。なんだその自信なさげ。まぁそれしかないだろうけど。
 地味な休日。
 現代社会な若者としちゃあ、春分の日だの、秋分の日だののより、その意味がわかんないね!
 印象うすっ!……ってか、「あなたはとてもいい友達」って、単なるいい人で終わっちゃうタイプ? むしろ通行人?
 休みでさえなければ。
 この、海の日のめざましいばかりの地味さには、さすがに理由があってぇ。
 月に一度は祝日を、って政策がおこった時、毎月一個の参加人数、数合わせとして、出世、増やされたんだって。
 なんのこっちゃ。
「大人が仕事で、疲れすぎないように、月に一回はいると思ったのかな?」
 目の前、同じベッドに横たわっているヘキ。
 幼児のかわいさ満載で、首をかしげる。
 シーツの上で寝転がってるせいで、押しつけられてぺしょんと片側、寝潰れた黒髪が。ゆったりした首の動作につられて、柔和なスピードで、スススって、シーツをこすった。
 こっちを見つめてくる瞳には、ぽわん、気だるげなうるみが、灯ってる。
 長くはないけど密度が濃いまつげが、犬のアイラインみたいになってる目の形も。『うにゅー』とばかりに、細くたわんでいる。ゆるゆるな瞳。
 ……ナチュラルにそんな心地よさげな目ぇ、やめてくれる?
 頭、首折れそうになるくらいまで撫でまくって、可愛がりまくりたくなるから。
 向かいあわせで、指を、からめる。
 見えないあやとりみたく。いちゃいちゃ。
 ただでさえヘキの体温は、子ども体温、お高めだけど。
 リラックスしていて、眠たいんです、そういう体温が伝染ってくる。とぉっても、ぽかぽかだわ。
 むつごと、ピロートーク、ベッドトーク、愛の言葉の交換。バルコニーでのロミオとジュリエットみたーいな……いやあいつらシェイクスピアによりゃあ十六と十四だったから、年齢的にはそこそこ近いけど、どうも縁起が悪いからヤだな。
「ん〜や、休みを増やして、旅行とか遊びに行くのとか、増やすためだったらしーぜ。旅行会社とかホテルとか、デパートとかディズニーランドとかが、その連休効果で、もーかるじゃん?」
 祝日をのきなみ、むりやり月曜日に移動させた、ハッピーマンデーとおんなじ。
 景気テコ入れのためだった。
 いつの日も、政策は思惑で動きます。
 ひねたガキまんまの考えを遊ばせていると、「やっぱ頭いいよね!」と、正面で、ふわん。寝つきかけながらも、はしゃいだ笑顔。
 ……いっぱしの皮肉屋も、アホで素直なかわい子ちゃんには負けますのよ。
 ――もしか、百年後には、祝日は月二回が義務……かもね。

 すぅすう、って響いてくる。
 鼻のてっぺんが、くっつきそうな距離。こっちの顔面をくすぐる、すこやか、おだやかな寝息。
 ……ん〜。なんだか満足ねー。
 自分の子どもの寝顔で、労働意欲を得る、世の親父の気持ちがわかるわ。
 唇をタコ口にとんがらせ、眠ってる時もわずかに紅潮した、ほっぺたにキス。まさにマシュマロな弾力ぅ。小学生もあと一年ちょいで満了のくせに。
 そんで、よいしょ、と、身を起こし。
 ふとんの端っこを手にとる。
 ヘキの体、つま先までを、夏用かけぶとんでくるむ。もう寝袋のごとく。冷房きいてるし、寝冷えないように。
 そこから、ずりずり、膝立ちのまんま、後じさるように距離を置いて。
 どかんと腰をおろす。
 ヘキから「ノウのぶん飲んじゃったから」とゆずり渡された酔い止め、兼、睡眠薬、を。ジーンズ、ポケットから探りだし。
 ……片腕、横なぐりに振って、豪快にゴミ箱へ、ぺっ。
 カッチ、ごみ箱へホールイン。投棄成功、ないすコントロール!
 こんな弱い初級薬に、いまさら喉の嚥下作用、使ってあげられないのねぇ。
 ごそっと逆のポケットから探りだす、紺碧色のピルケース。
 ぎっしりと詰まった錠剤の重さ。毎日、地道に、せっせと手作業で詰めてるわ〜。
 今回は豪快にスライドさせて、全開にひらくケース。
 しきりで二つに区切られた、内部。
 ローテンションになる方向へ効く、ダウナー系のほうの錠剤は、主に睡眠導入剤としてしか使用しない。だから数錠だけ、小さい方のしきりに入ってる。
 ポポン、と二錠、つまみ出して、お口へぶっこむ。
 がりり。と、犬歯や前歯で、まずはその硬さに亀裂をこころみる。
 そうしていると、刺激的ィ! なニガミで、だらだら出てくる唾液。
 その反射液を利用すべく、二つとも奥歯へ移動させ、水分じゅぷじゅぷ含ませながら、がんばる。崩壊、溶けてゆく薬剤。
 ごっくん。水を必要としない慣れ度。
 ラッパ袖で、ぐし、と、唇をぬぐう頃には、喉筒へ消えてる苦味。我ことながら、すばやっ!
 ゆいいつ――趣味? にしてる、コレ。
 自己紹介ライクな、状態形容としては――『薬物依存』ってとこ?
 薬量から体調から。
 だいたい行き先どこで、どこまでフライトするか、トリップ具合も読みきれる、ベテランぶり。
 ちょっと前まで、の昔は、一人じゃなくって主に、遊び仲間と楽しんでいたのよ。自分が無料配布してねぇ。親切。
 ……膝をかかえる体勢で、頭痛、こらえるみたいに。
 前髪まくりあげる形で、利き手をおでこに当てる。
 そのまま静止していると、ほどなく背筋からゾワゾワしてくる。密室に閉じこめられて、酸素ぬかれていって、視界が、かすみがかってくるような感じ。
 しばし我慢してる、と、浮遊感から『始まる』。
 身体の末端、指先から。
 意識が、夢うつつじみてくる、遠ざかってゆく感じ。
 ……ふらぁ〜っと、のめるように、倒れてゆきながら。
 完璧にキマってきてるせいで、定まらない指を、ワナワナ、のばす。
 おぼろに霞がかって、睡眠に堕ちていく意識のなか。
 体温がある幸福に、その胸元に、腕をからめて。
「お休み、ヘキ」
 やっぱり、ヘキといると幸せだった。
 ふれあってる零距離なら、特に。

 ◆

 休日足したり増やしたり忙しい政策。
 減らすことはないんかい?
 法律足したり増やしたり忙しい政策。
 減ったりはしないわね。

 これ言うと引かれちゃいそうだけど、近年のブームにより、現代っ子にゃホモもレズも多いっす。
 違う、違う、ローティーンは怖いわね、キレるしね、野菜足りてないのね……ってことじゃなくて。
『優生政策』って知らないかい?
「優秀な遺伝子だけ組み合わせていこうぜぃ」ってこころみ。
 どっちかって言うと今、実施されてんのは、「問題がないってわかってる遺伝子だけ組み合わせていこうぜぃ」カナ?
 そんな政策、考え方ぁ、滅びたはずだぜ。って?
 んー甘ぁい、油断は禁物よ。
 タカは絶滅しない。人が集まって生きてゆく限り、国家というものがある限り。
 人類の歴史は『やまい』との戦争、って、言ったでしょ。
 人ゲノムの解析もだいぶん進んできましてー。
 旧種、新種。はびこる色んな病気。
 それらの原因遺伝子、ってやつが、だいぶ解明されてきたんだな。やまいに勝とう! って。正しくまい進したことによって。
 で、そーなると。
 さまざまな議論反論よびながらも、学校でいっせいに、遺伝子検診なんかもされるようになっちゃって。
「この子はこの病気をこの年齢で発症する」
 とか、
「そしてあきらかに次世代、子どもにも発病する、やっかいなレベルで」
 ってのも、その検診で、けっこー判明するようになったのねぇ。
 すると当然、その結果が出た子に、そそがれてくる世間の目って一挙にこうなるわけだ。
「アンタ子ども作んの?」
 ってね。
 だからホモとかレズなのかい?
 と、言われると、いやまぁ、それ以前にたぶん、みんな相手が好きになったからだと……思うけど、とごにょごにょ意見のべてみたりするけど。
 恋愛性別ボーダーレスになった動因なのは、確かだわね。
 ヘキなんかが、オレとのこの状態を受け入れてんのは、かな〜り『同性どうし、珍しくない』先入観に助けられた面があると思う。これについてはラッキィです。
 ちなみにそういう、
「遺伝子ふりわけて、子ども産みわけてみようぜ」ってなウェーブ、時流を受けて。
 現在の法律では、遺伝子検診によって子どもに『きわめて重篤な障害』が出ることが、あらかじめわかっていたのに、産むと――。
 ――戸籍に、血を分けた実子が登録されると。
 なんらかの金を支給されていないと生活が困難、なほどの障害をおっているその子の、補助金やら年金は。
 カットされる〜みたいな。
 みたいなってか、される。
 ……まぁっ。
 なんてエゲツねぇ制裁措置。
 ぴしぱし迫害されっぱなしで収束していった、『ライ』――今はハンセン病っつーね、カン違いまみれの手ひどい差別した記憶を、改名でいっさい抹消したいように――の時の法律を、思ったりなんかしちゃうわぁ〜。
 ライにはあった、強制堕胎、の項目がないだけマシなのかしら?
 海の日はっ、特殊夜間学校の臨海学校に、いっぱい便宜はかっちゃいます!
 博愛、ボランティア精神にあふれてるっしょ?
 ……とか、三百六十五日のうち一日こっきりアピールするぐらいなら、そっちとか、どーにかしたらどぉ?
 そう思ってみたり、するんだけど。
 産まれたときから死ぬときまで、人ひとり一生ぶんフォローする金と。
 一日の大々的お祭り、どっちが金かかるかなんて、幼稚園のお遊戯でもやる計算。めろん一個とさくらんぼ一個のどっちが高い?
 だから天然系よそおった小悪魔女的に、人さし指をすぼめた口にくわえて、今日も今日とて聞こえないふりで開催されている『海の日、臨海学校』だぁ。
 賢いねぇ。わかってんじゃん。悪賢いねぇ。
 いーかげん高齢化社会になりきってるし、未知の病気だってばんばん出てきてるし、へんな突然変異でXPとかアルビノとかも増えたし、他にも色々もんだい山積だし。けど、国債もイッパイイッパイに発行してるんで、もうあんま出せないし、で。
 カツカツ、緊縮財政なんですってよぉ。そうですか。
 うーん、なんつーか、社会だねぇ、多数派だねぇ、右だねぇ。
 人権とか情操教育とかにマッコウ対立。
 ……XPとかアルビノは、この中に入っていないけど。
 このぶんだとそのへんも、明日は我が身、ってとこか? いっくらなんでも心配性? けどありえないなんてとても言えない。
 人権をようごっシヨ?
 ……って。
 正義に怒る道も、あるにはあるんですけど。
 そういう法律に、計算も根拠も、へたすりゃ信念も、ないわけじゃないから困る。ん〜もぅ泣きたいくらいサ?
 まぁーオレなんかは、子どもは作らないよ、作る気ないよ、作れないよぉ。
 愛しのこの子は、男の子ですし。
 安心おし?

 ◆

 しょーこりもなく、またもや暖冬。
 な季節、まだまだ登校拒否。
 もう終業式も洩らさぬ完璧さ〜だぁ。いいかげんにガッコの場所、行きかたを忘れたね!
 そんな数箇月前。
 年単位で言うと、去年。
 ……てか、学校って何のために行くの? いや本当に。
 心底そー思いながら、楽しいこと、なるべく楽しいこと、を求めて。
 日課でうろつく、夜の街。
 やっぱりお出かけ前には、洗面所において、紫外線防止クリーム対策もして。
 だって、夜にも紫外線はあるんだよん〜。すっくないけどね。
 でもそんな紫外線にもめげず、ライトきらびやかな街を、少しもおくさず、まめに遊び歩くオレ。
 夜の都会にフラつき慣れている、いりびたり慣れている。同年齢くらいと、ちょい年上くらい、を、とっつかまえては。
『遊び仲間』にしていった。
 ――ノリのいいやつでしょ。気前もいいでしょ。
 ――仲間もいるよ、キミもどぉ?
 保護者は忙しいんだか放任主義者なんだか、なご同類たち。
 たまり場として用意したのは。
 年齢制限的に、クラブのVIPルームだのなんだの、には居れないので。だっせ、カラオケボックスだけど。
 いい部屋なんで、内装はホテルのスイートルームくらいにゃ良いのよー。連日リザーブ。
 料金スポンサー、オレ。……の家の、金。
 全衛星チャンネル入るテレビ、ゲームも、いくらでも。スナック菓子とジュースも食べ放題。
 目の健康も体の健康も、考えません。
 ……で、どーせ考えないのならいいよねぇ? ってことで。
 ぱんぱかぱーん!
 まずはタバコから、手をつけはじめ〜。
 非行の王道なルート。
 タバコパスポート導入されて久しい現在、ガキはタバコ入手するのが、とっても困難。
 逆に言えば、札束あれば、なんとでもなる。
 超お得意さま、なことにより、はなせる店員がワラワラいるカラオケボックス。
「おつかい、頼める?」
 そう言って、眼前にチラつかせるは、携帯電話。
 現金が、流通の主流ではなくなってから、だいぶになるわけで。
 タバコパスポート持ってることだけが条件な店員がうなずいたら、非接触ICカード技術、ネットセキュリティ技術などで、お財布と化している携帯を操作。
 一万円札いちまい、みせびらかすようにヒラリ、液晶画面でアニメーションしたのち。相手の口座へ入りました、って通知画面。
 うん、そして、「おつりは取っとけ」だ。
 肺いぶすだけなのに〜、金と、ひと手間、かかるわね〜。
 同様の手口でアルコールも確保できるよう、ととのってゆく環境。それはもぅ着々とという形容がふさわしい。
 んで。
 全員参加の日は、部屋が定員になっちゃうほどに、仲間が増えてきた段階で。
 今日からタバコは、そろそろ打ち切り。本題はいりましょ!
 なぜならオレ的に、仲間あつめた目的は、こっちだかんねー。
 不健全なほど遊びはドキドキ。子どもならば、若ければ、なおさら。
 広げたアルミホイルの上に、ぱらぱらと錠剤を広げる。
 学校には行っていないのだけれども、こんなところで理科の実験用具を、お見かけする。すなわち乳棒。
 本日から。
 猫のロシアンブルーの白版っぽい顔に映えるとゆー自覚がある、魅惑的、挑戦的、な笑みをふりまいて。
 全然やましい事なんざない、単なる生活ファッションの一環、アロマテラピーみたいな嗜みの一つ、として。
『気持ちよくなるお薬』を提案してゆこうーというこころみ。
 ごぉ〜りごり。磁器製の棒のしたで、粉末状になってゆく。僕らの体を、ってか脳を、粉砕できる可能性を秘めたおクスリ。
 ――こわかったりする?
 ――んなわけねぇーよ!
 内心はど〜だかわかんないけども、引いて逃げ出す人数は、零。
 いや、今まさにね、しっぽあるなら巻いて、豪快に背中見せまくって、ガタガタブルブル足ふるわしつつ、全力で逃げた方がいいと思うよー。
 心の声でアドバイス。
 初心者は、煙として摂取するのが望ましい。
 ……まぁ、それって。
 タバコの代わりにもちょうどいいじゃない! 抵抗も薄いじゃない!
 最初はごっくごく微量から。バッドトリップはいただけねぇー。
 アリ地獄の最初は、ローリスクローリターンが基本。
 数こなしゃ大成功くるし、慣れればほとんどフライト成功になってくる。
 そう胸中、計算しまくった、ベテランコンサルタントの指導により。
 一箇月もたてば、皆、それなりによちよち歩き。
 というわけで、その頃には、集合の合図は。
 鼻水をすするような。と言っても鼻水は出てない、粉すいこんでるわけだから、ぎゃくに鼻を鳴らす音、にも似てる。
 すんすん、っていう『スニッフの合唱』。
 皆おそろい、横一線な、スタート。
 今日もきょうとて、鼻粘膜は勤勉だ。
 薬物を効率よく、そこそこマイルド、そこそこシャープに体内に入れるため、ガンバっちゃうのよ。
 ……ふと気づく瞬間。
 最近、いかなる煙も、この部屋で見かけない、って。
 いやぁ、この子ら、薬物の旨味に、慣れてきたのねぇ〜。
 コンサルタント兼、お父さんってば感無量だよ?……吐きそう。
 そんな苦みも忘れちゃおーと、自分もいそいそ続く、鼻吸引。
 ――なんとなく『変身!』って感じなのね。仮面ライダー、あるいは魔女っ子。足元から、くるくると渦巻いて。変わるわよーん。
 いやもー。
 何が効くって、化学式な結合でカラダを支配されんのが、一番効く、っつーの。
 ドラッグの作用、波がかぶさってくるよう、つぎつぎおそってくる幸福感。
 多幸感、と名づけられてますね。
 ソファーに沈みこみぎみ、姿勢悪く座り。
 室内はじっことはじっこに位置するソファー、対面の相手と、目が合っては。
 えへらえへら、双方、ひっじょーに友好的に微笑みあう。きもちわるく、不自然に。
 みんな仲良し。みんな幸せ。みんな大好き。いっそ乱交でもしとく?
 くらいの、あぁ、バンザイハッピー!
 ヤク切れた時のゆりもどし、蜘蛛の糸ひとすじだって垂れてこない『絶望』が怖いよ〜、たって。
 こればっかりはやめられない。
 うふふぅ、クスクス、無意味なんだけど、楽しさ漂う空間。
 脳がだまされてくれてる一体感、みち溢れてる。
 そんな部屋の、最奥の上座、で、あんまりかえりみられず、放映されてるのは。
 メンツの一人が、アングラなネットで手に入れてきた、特殊なフィルム。
 一糸まとわぬ男女、からみあうわー。
 おもちゃ入れるも手首入れるも、もはや単なる景色〜っつーまなざしで、横目にしてる。
 これも最初のうちは、かわいらしく、アニメなんぞを流してたんだけどねぇ。
 過激から過激へ走る、ありがち、若者の嗜好。
 ……しっかし。
 空気浣腸とかの陵辱だけなら、まだ。はしたない音だことォーくらいで、流せるんだけど。
 ……今日は、なんか血ぃ映ってるし。
 さらには、ええと、病院ですか? 縫合手術? みたいな、肉片も映るし。
 うーん。
 オレだってナメられたくない、もんだから、止めないけれども。
 うーん、実は愉快でないなぁ、ってか悪趣味だなぁ、本心は引いてるなァ! って思ってる人口が、たぶんこの部屋内部だって、六十パーセントばかし超えている。
 過激へ、より過激へ。エスカレートのスピードって、エベレスト登頂成功しちゃう勢いだね。
 集団で一人をよってたかってリンチしてる間に、うっかり殺してしまう感覚、か?

 ……そんなある日。
 その系フィルム、を好んで入手してくる、たった一人が。
『すごいの』が手に入る可能性があるって。
 政府のある研究施設が閉鎖になるドサクサにまぎれ、職員がこっそり横流ししてくれる品だって。
 入手してやるから金くんね? って。
 報告してきた……と言うか、ねだってきた。
 ……おまえ、トコトン心の病なのねぇ。
 あまり人のこと言えないけどー、ランクが数段、違う。
 目ぇキラキラさせてるんだけど。どーするこのスタートダッシュ。
 ……でも、ま、言われるがまま。
 金は、ぽいぽい出しといた。
 親の金。
 どうにも使うスピードより増えるスピードのが速い、偉大な金。
 どっちにせよ、オレの金ではないわ。
 だからぁ、くすねられる立場にはいるけど、なんにも考えずにポイポイ放出しちゃうもんね〜だ。
 ――で、やって来たのは。
 一九〇七年に制定された『らい予防に関する』政策、に由来する、とんだ掘り出し物。
 ライつまりハンセン病。
 今はもう脅威な病気ではないけども、当時は、皮膚がただれていかにもおそろしいから、めっちゃ怖がられて、隔離されたんですって。療養所に強制的に収容されるというやり方によって。
 そしてその療養所で、せっせと行われていたのは。
『強制堕胎』
 ……まてまて血を絶ちたかったからそういうことしてましたって……? ライは遺伝病じゃあなくって、感染病だってば……え、わかんなかったからとりあえずって……スゴイ『とりあえず』だねぇソレ。
 でもって、結果として今、ここにある。
 ホルマリン漬けになってる胎児。
 えげつないってば。
 胎児標本、というらしい。
 堕胎できないはずの八箇月すぎ、血を絶つためと、研究するため、二つの目的でひきずりだされたもぅ覚醒できない命。
 学術的『標本』だ。
 しげしげ観察したり、考察したりするためのもの。
 ピン止めのアゲハ蝶みたいなもん。
 見た目のいたわしさが、だいぶん違うけど、意味的には?
 で、一九〇七年から遠く時を経て、ようやく迎えた、ホルマリンからの解放。
 死体愛好家、遺体フェチ、血まみれ損傷部を見てハァハァしちゃう変態が、ガラス瓶を床に叩きつけ、がっちゃん、と割る、たった今。
 店員、掃除たいへんだあ。
 ぼくらが退室後、変な色のカクテルがガラス砕片まじりで床にぶちまけられてるよぉ、ってホウキとかちりとりとかモップ、持ってくるでしょう。けど実は液体はホルマリンで、しかも入ってたのは骨董品な胎児の遺体だよー。むしろ精算時、これこれこういうもんこぼしたんですけどぉ、って、告げていかない方が親切だよね、たぶん?
 やっぱしその辺はまともなので、ゲラゲラするところも、ハァハァするところも、見いだせずに。
 内心の眉しかめ〜を、虚勢、表面上に出さないようにしながら。
 ただ視線、そそいでた。
 まだ、クスリは、効きはじめ。
 だから経験上、幻覚はあらわれないはずなのに。
 ……じっと、透明緑の雫をまとう、なまめかしいような肌を見てたら。
 その小さな小さな死体、なんかと重なる、ブレだした。
 子宮に最初に着床できたのに、子宮に必要なだけ住みきれなかった。
 人のかたちで生きて出てきたけど、人形みたいに息は出来なかった。

 ああ。
 ナニ。
 つまりこの。
 緑ィかたまり、は、オレだわね。

 面倒くさいから困難だから。
 成長しない、喋らない、息しない、そのように、どろり、閉じこめる。
 そうすりゃもう、モノだもの。
 面倒くさくない困難でもない。
 とっても、扱い。安い。

 ……ねぇねぇ、お母様、ふつうはさ。
 子どもがこういう『標本』に、されそうになったなら、母親は泣き叫んでいやがるもんなんだよ。
 我が子の命を返してって、愛に燃えるものなんだよー。
 世間が、他人が、誰が子どもを迫害したって。
 ふつー母親だけはよぉ。
 積極的に「しましょ、もう邪魔だし、閉じこめて無視しときましょ」って生命活動停止な標本並みに、自ら捨ててる場合か?
 見捨ててる場合かっての、なぁっ?
 ――雑誌の表紙かざっちゃうほど話題独占、敏腕な女副社長としては、そんな『一般的』な母親してられませんか。
 経済のように、数字でもって、肉親感情を割りきれちゃう感じですかぁっ?
 無口だけどだいたい同類の雰囲気まとった社長、お父様も。
 ああやっぱねーっ!
 ご同類なわけだっ?

 ……つーわけで二人揃って、会社のおそばのホテル暮らし、せっかく建てた豪邸には。
 そこに暮らす誰かには。
 情も用も無いんだぜぇ、って……。

 ほんとは。
 できればこうやって。
 緑色の液体でビン詰めに。
 もうさ。
 終了させてしまいたい。
 それならそうと言ってくれればいいのに。

 ぎゃははは!
 すっごくストレートな、馬鹿笑いが炸裂した。自分の躯。
 うはは、キャハハン、見くだすように直下に見おろして、両手腰に当ててるような正しい大声量発生で。
 まわってる薬そのままに、ハイテンションさらけだした狂笑。
 破裂。破壊。すっごおぉおい、放たれる音波のイキオイ。喉と腹、はじけさせるような酷使。
 視界がまっかっ赤だよ。なにこれ?
 嬉しいの? 笑ってんの? 怒ってんの!
 ……唐突な独り舞台、せき切る爆笑に、びっくりな反応をしめしてた周囲も。
 つられて、あっちゅうま、駆け上がって。
 口がさけた笑み。
 共鳴するようにドコドコ増大していく絶笑のオーケストラ。
 あはは。
 わはは。
 音量が大きすぎて鼓膜がゆれてる、幻想曲みたいにぼやけていく。
『わかった。ぜんぶ。わかったよ』
 その中。かすかに。誰かが号泣してるような。
 炎のゆらめき、みたいなの。
 しぶとくしつっこく、頭の片隅、でひらひらし続けてたんだよぉ。

 ――『あなたが愛を得られないのは、あなたが前世において犯した罪にたいして、下されている、罰なのです。あなたは、周囲の人たちの為にも、私達のこの神を信心することで、罪を浄化しなければ。それは決して逃げてはならない、あなたの義務』
 ああ、聞き覚えあります、このワンワン耳鳴らす幻聴。
 この、ほざき、はねぇ。
 中央通りで、白ずくめな服着て立ちっぱなし、緑の募金箱もった宗教勧誘員が、肩おさえつけてぶっかけてきたんだよ。
 なんじゃこの『脅迫』〜って思いつつーも。
 死ぬ寸前までひったすらに祈って祈って、万が一、なんにも改善しなかったら。
 時給いくら位な勘定で、損害賠償、かえってくるの。
 ほんで、ついでに近年、日本でも事前合意によって適用可能になった、弁護士報酬敗訴者負担制度は使えるぅ?
 ……とか、一通り、ペラペラゆったら。
 一歩後じさった。
 人の弱みをサックリ遠慮なく刺した勧誘するくせに、それくらいでひるまないでくれる?
 心底、そぉ〜思ったよ〜。
 ああ、こんな。
 まっ正面から人の心びりびり裂く、そんな覚悟なんかはない、馬鹿者にすら。
 わりと一見で見やぶられてしまう。
 意外になぁ、すっごく基本的で、わかりやすい。
 自分の悩みや苦しみが。
 嫌、だなァ。

 あれぇ。
 ここどこぉ。
 まだお薬が濃く、脳に効いている名残で。
 揺らめいている景色。お水の中。
 とぉっても金魚気分だわ。うふふ、ゆらゆら。
 灰色の壁。
 灰色の机。
 灰色の背広は、机の向こう岸に、座っている、人の……。
 ……ふへぇー。
 なじみのカラオケボックス、ではない、なぁ。
 ここは、すごく税金な香りがする。たとえば学校、たとえば市役所。そういう施設の、カホリだぁ〜。
 片頬、机上にくっつけた体勢で、なんとなく現状を悟る。
 ぼやけた水彩画な目鼻立ちの、対面の人が。
 ふぅー。深い、憂鬱な、ため息。
「……まだ酩酊してるのか」
 してるしてるぅ!
 右腕一本、ビシィ! って天へつきさしながら、お返事。
 声は出なかった。
 ぐふふ。口臭くさいかもしんない、ねばった息が。前歯と唇を、汚しただけ。
 右腕、ってか、体も、どーやら動いてくれていない。カッタ! って、自分が座ってるイスの、ぶれる小さな音がしただけで、……やーん、せっかく元気フルでお返事しようとしたのにぃ!
 まだ微妙に危なっかしくブランコしているらしい、イス。
 そんな土台にのっかってるボク、ひたすらに笑顔持続。えへらえへら。
「…………まだ、小学生だろうに……」
 ああ、もう。
 ウッサイ、ワンパターン、それ耳タコ。
 小学生でも幼稚園児でも、高学歴でも高校中退でもかわんないよ。
 無音にゲラゲラ笑いながら、大口ひらいて呼吸しつつ、べたーっと。
 安っぽいツヤな灰色机に、両腕、両手、右ほっぺたで、なつく。
 ガリリって爪を立てて、灰色をむしりとるよーに、手を握ってゆく。
 曲がってゆく指、ほどなく固い拳になる、手のかたち。痛い、痛いってナンデ? 爪、割れた――。
 あるだけの脳みそで、もがいてます。
 そう、あがいていますー、なわけよ。
 どっかに落ちていませんか、宝石みたいに、流れ星みたいに。
 生きたい理由。
 ……とかって、そんな。
 物がさぁ。

 冬の夜風が、その直風が。
 ほっぺたに、首筋に、指先に、いやぁ冷たいわ〜。
 ……コートどこいったのかしら。リュックもだなぁ。
 ラリってるとこ、取締法の現行犯で逮捕されたんだから。
 いっぺん没収されたのはまぁ当然としてさー。
 今から解放されるんだから、返してくれてもよくね? ってか返してよ。
 まぁ、荷物の中には、問題となった現物のクスリも、とうぜん入ってるんだけど〜。
 そうつらつら思いながら、正面玄関の明かりに、ボー、照らされていたら。
 ツカツカ、と、近づいてくる足音。
 正面玄関から出て、こっちへやって来る。
 目に止まる、その人物の小脇にかかえられている、少年の愛らしさアピールなダッフルコートの茶色。リュックの黒。
 ……自分の前で止まったその人を。
 視線を上げて、じっと見つめる。
 お顔は存じあげておりますわ。
 ホームページとか、企業広告パンフレットとか、テレビ取材の映像とか、そんなん経由でですけれど。
 親の会社の、顧問弁護士。
 ……先生様がァすでに、警察からお預かりになってくれて、おられましたか。
 こんな場所にまで夜、ごそくろうをおかけした上に、いろいろお手間もとらせて、まことに申し訳ございませんね〜。……だ。
 親から依頼がいったらしい。
 同時に、数々の手回しもね〜。
 まあそれは、こんなスグサマ解放されるって聞いた段階で、ピンとわかったんだけど。
 だぁって『計器のエラー、検査結果のミス』ってなによそれ。ありえないでしょー。
 参議院の先生とおつきあいトカ、沢山ありますもんねぇ。飛ぶ鳥落とす黒字ほこる成長企業。あきらかに〜、選挙イヤーの来年に、いくら出資、選挙費用負担することで合意したの?
 うながされて、ダルく歩いてゆくと。
 たどりつく駐車場。
 そこで、軽く、大人に囲まれた。つぅか囲まれたのは、弁護士先生様が。
 頭をさげられている。
 頭さげてきているのは、オレの遊び仲間たちの、親御さん。
 オレの『とばっちり』で、我が子が無罪放免になったからねぇ。
 どうも、いっしょくたに便宜をはかっていただいて、ありがとうございました! ってなもんだ。
 そして。
 挨拶を終えた親に連れられ、次々と共に帰ってゆく『仲間』。
 ……たぶん、もう二度と、アイツらと遊ぶこともないねぇ。
 これからお家で言われるもんね、悪い仲間とつきあうな、つって。
 なんか権力あるッポイから、次、また、犯罪発覚しても、保護観察処分はないにしてもさー。
 いわゆる親心?
 まぁ正解っすよ。
 真に楽しい遊び、なんか、当方、クスリくらいしか知らないかんさー。
 あーぁん、あれでも、小学生のガキが、親の金ぱくって、足使って……頭も使って、せーいっぱいの努力で集めた、とてもハッピーになれるクスリ、だったのにさぁ。
 待ちくたびれて。
 背中、丸めて、しゃがんで。
 両手で、左右それぞれの足首つかんで、順番に去ってゆく親子を、ぼーっと見つめていた。
 日光の、お猿さんの一員のカッコウ。そういやカラオケボックスから出て、ちょっと一同でもってドライブに行ったことがある、タクシーで。背ぇ丸めて何か食べてるところはちょい愛嬌あるけど、あいつらってばコンビニポリ袋見ると『食いもの!』って暴走して、襲いかかってくるんだぜ、も〜マフィアだぜ。
 ピッ、って。ふいに、頭上から降りそそいできた、電子音。
 いつのまにかすぐそばに来ていた、弁護士先生の手元から。ボタンで接続を切った音。
「お父さんもお母さんも、怒っておられないから」
 光る携帯の画面には。
 港区のオフィスの履歴。
 たった今まで通話していた、その先の。
「お家まで送ろう」
 ――つって、ベンツに去っていく、ひるがえったブランドスーツ。
 親の。
 代理人。の背中。
 ……ああ、こんな時も、なんだぁ? やるからには徹底的に、ってポリシー? ですかね、ソレ?
 ――クスリは好きでやってんだ。
 仲間あつめてヤりだしたのも、淋しいからで、楽しみを他に知らないからで。
 ついでに、遊ぶ金、よりも決定的に。他人を自分に、縛りつけておくためで。
 だから。
 かまってほしいとか、とめてほしいとか、しかってほしいとか。
 思ってたつもりなかったよ。でも。
 ……なんとなく、首を、ぐるぅっと一回転、ほぐし体操。ここは中央警察署の駐車場、建物入口にゃほのかな外灯、その脇で立ち番している警官、そのまた横には気の毒そうな目でこっち見てきている……事情聴取担当だった、割れた爪にバンソウコウ貼ってくれたぁ、クスリ切れかけた今ならわかる濃い顔なおじさま刑事、しゃがんでるせいで近いよ地面、けっこう綺麗ねぇアスファルト、でも、なんか、年季はいってて古いし、ああ、灰色だな…………。
 うん、叱るのもメンドイもんねぇ。
 ……どんだけ労力はらいたくないよ。
 なぁ、どっかに見捨てられっ子コンテストってなかったっけ?
『怒っておられないから』って、怒れよなー。
 クスリは好きで好きですけども。
 そんなにイイわけでもぉ、ないんだな、致死量まで入れる度胸がナイもんで。
 いっぺんくらいは、ゆってみたらどうよ。
 悪い事してるって気がついたなら。
 やめなさい、とかさぁ。
 学習帳に千回くらい。
 書けばいいっすか、「普通に産まれてこれなくてゴメンなさい」とか。
 それで健康体、貰えるなら、自発的に万回でも億回でも書くよ。
 毎日書いてるっての、もう。
 死ねよ。

 ◆

 ポップ、R&B、演歌、ジャズ、クラシックまで。
 恋の歌は、海の日が休日に設定された頃も、今も、巷にあふれている。
 初恋の歌もしかり。
 生まれて初めて生きてることが嬉しいって感じるんだなぁ、この世で君だけは百パー綺麗なような気がするんだなぁ、って。
 ま。
 そんな感じ。

 遊び代を提供する金つながり、そして、ぶっちゃけ、クスリつながり。
 の、友人関係でも、奪われればそれなりに空白。
 なによもー、ちょっとヒマだわねぇ、って思いながら。
 あいもかわらずウロつく夜の街。
 不機嫌で憂鬱な気分、につき、さらにおクスリ増量状態。記憶も飛びがちなほど、でございます。
 もう、新たな仲間を集めるほどの気力はない。
 めんどくせーから。
 たまーにだ、厳しくなったはずの監視をようやく抜け出して、遊んでいる『元、仲間』を、見かけることもあり。
 そんな刹那アワーの、やりとりは、
「あ」
「ん、よぉ」
「……げ、んき?」
「まぁまあ」
 みたいな。
 ――なんだおまえら、元恋人かよ。つうか妊娠中絶か、金の貸し借りで泥沼に別れたのかよ。
 くらいの、ぎこちない寒々しさ〜な空気。ちっとも愉快でないよ?
 それでも、その背中、見送って思うのは。
「ああ、クスリ、ねだられなかったな」
 とか。
 そんなんで。
 ……なんだこの『ホッ』。
 別に、ねだられたって、全然困りゃしないくせに。まさに愛用してる自分のぶんを、分けてあげればいいだけなのに。
 ――まだ浅かったんだなぁ。
 ――パクられたあの時点で、引き返せたんだな。依存してないんだな。
 ……だからなんでぇ、安心してあげてるわけ?
 イライライライライライラするよ。
 思わず奥歯もきしむってもんだわ。クスリを噛み砕いている、わけでもないのに。
 自分はあいかわらず、首までどっぷりイッちゃってるくせに。
 なんだこの仏心は、良心は――……。

 たいしてムキになって否定できる気も、イマサラしない、よーするに僕は孤独です。
 だけど他の誰かを孤独に巻きこめたって、ちっともラッキ〜、挽回できた気、に、なれない人間。どうやらだぁ。
 だから、ますます。
 孤独だわ。

 そんな乾いたやりとりを通過して、足向ける、今日の目的である『外食』。
 お手伝いさん、のババアが急病で、いきなりメシ供給が不足。
 冷凍食品はあるけど、なんかね〜ってことで、家を出てきたのだぁ。
 しかし病名、盲腸ってのはなんだろねぇ、ガキの頃に切るなり焼くなり散らすなりしとけよ〜。
 と、悪態を思い浮かべる。
 コンビニ、陳列棚の前。
 ……外食のつもりだったんだけどぉ、先ほどの再会劇ですっかりエネルギー消火、もう僕おネム、みたいな気分になったので、新作インスタント、ジャンクフードでも買って帰ろうという方向修正。
 でも別に、気になる新作もないわねぇ。
 ウロウロ視線めぐらしながら、角を曲がる。
 視界に開ける新たな商品棚の列、身長の低い一人の客……。
 ……子どもがいる。
 えいしょ、と、カゴに入れるんじゃなくナンカ商品を直接、だっこするように抱えて、レジに歩いていく。黒い髪、自分より少しちいさい背丈。
 アラ、なんだろ?
 んー?
 もしかして、なんか子どもでも楽しめる、深夜スポットがあんの、このへん?
 やだあ、ボク知らないよー。
 遅れてるって感じか?
 そう考え、追いかけて、レジへと角を曲がる。既に精算を済ませ、その子が自動扉を出て行くのが見える。
 ナチュラルに尾行をこころみる不審者。となって、夜道をくっついていく。

 ソメイヨシノってどっかイカれちゃってんじゃないのー、どォーしちゃったのー、ってくらい、全速力で咲き誇りまくるよね。
 桜色のハートの乱舞が、ひらひらと視界をよぎりだして、一枚、鼻にくっついた。
 脂ぎってる、テカってるとでも指摘したいわけ?
 そ〜思いながら指にとり、反射的に見上げると。
 ちょうど満開の桜が一本。
 咲き誇る、まさに『誇る』って感じの大樹。
 しばし。
 その見事さに目を奪われてから。
 ……ふと、前方に目を戻すと。
 尾行の対象者が、立ち止まったところだった。
 暖かい光がぼわぁっと灯った、改造ワゴン車。
 カウンターのようになっている大きなサイドウィンドウから、その光は漏れだしている。
 レジや、おすすめお品書きっぽい張り紙が見えることから推察できる、どうやら屋台ワゴン。
「買ってきたよ〜」
 思いっきりな子ども声、高いわァ! ってくらいのトーンの声が、あどけなく、車内に立っている一人の女に言う。
「ありがとヘキ! 今日はみんなよく食べるのよねぇ……」
 大人でも重そうに受けとっているのは、どうやら米の袋。
 ……『今日はみんなよく食べる』というセリフと、状況を、考え合わせると。
 あの子、この屋台のオコサマ?
 お母さんのおつかいで、コンビニで米を買い足してきた、という推理でOK?
 米を開封するなり、米びつらしいところにザザーと流しこんでいた母親が、子どものひたいあたりに目を止めて、
「あ、ここ、のばせてないわよ、カタマリのままになってる。気をつけて」
 腰をかがめ、黒髪のはえぎわを、ごしごし、こすってあげだした。
 見上げる姿勢のまんま、恥ずかしいよって抵抗もせず、触られている子ども。
 ……なんだろ、スキンシップしてんの?
 オレと同い年くらいなのに……まぁなんともガキくせーってか。
 甘アマなほのぼのだねぇ。
 ん〜あれ〜?
 なんだ、このアットホーム?
 予想外な空間に迷いこんじゃったよ、と、ウロウロと視線をさまよわせれば。
 屋台のまわりに広がってるのは、オープンカフェっぽい。雨天に対応できるようにかパラソルつきな、白い軽そうなテーブルとイス。
 人通り少ねェ深夜すぎだから、わりと交通妨害だって苦情がくることを気にしてない、ゆったり〜な席配置。
 客は半分ほどの割合で、入っている。席埋まり率五十%ってとこ。
 ……ぼんやりそれを確認してから。
 また、さっきの子どものほうへ、目を戻す。
 子どもは、ワゴン車のなか。
 邪魔になりそうな『ちまっ』とした身長で、でもはた目にもわかる、抜群のコンビネーションを見せ、まちがいなく母親であろう女の、サポートをしている。
 ……なぁんか。
 そぐわねェとこ来ちゃったなァ。
 ワゴン車内を立ちっぱなしで、観察しつつ、そう思いながらも。
 まぁ屋台ではあるらしーし、ここでいいや、メシ食ってから退場しよう、と、白いイスを引く。
 腰をどっぷり、深夜の飲食店、に落ち着けても。
 元々『お手伝いな子ども』がいるせいか、怪訝そうな視線を感じない。
 まぁ、珍しい。
 必要以上に受け入れられてるかんじがするんですけども。思わずちょっとキョロキョロしちゃう。年相応におちつきナイ感じで。
 まわりの席を埋めてる客層は、交通整備の仕事途中らしいヘルメットをテーブルに置いた兄ちゃん、由緒ただしいほど大工な格好したビール片手のおっちゃん、あきらかにホステスっぽい厚化粧の女、なんかスゴイ暴食してるくたびれスーツのサラリーマン、と、実に多様多種。
 ……なんだか、ホーント、異世界だ。
 同じ時間、同じ町、同じように他人がたくさんいる場所なのに。
 あのカラオケボックスの一室とも、きらびやかな繁華街とも、まるっきり違う。
 ここ、なんの穴場?
 ――ポン! と、いきなり音鳴らして、肩たたかれて。
 不覚なことに、思いっきりビビり、びくぅっと背筋をしならせた。
 ……オレの後ろに黙って立つな! そんで体を拘束するなんてもってのほかだぜ!
 そんなハードボイルドみたいな心境で、鋭くふりかえる。
 頭をくるむ形で結ばれてるタオル、擦りきれがあっちこっちにある作業着、土で軽く汚れたポケットだらけのベスト。
 さっきビールを飲んでいた、大工の客だった。
 そんで。
「ごくろうさん!」
 って、笑顔で掌つきだし、さしだしてくるのは。
 ――飴玉?
 反射的にうつわにした手で、貰ってしまう。
 ……ナンデスカこれ、とも。
 いやなんでコンナモンくれんの、とも言い出す前に。
 勝手に『気が済んだ〜』ふうに、すたすたと去っていく相手。
 ワゴン車の前で止まり、会計を済ませている。「ごちそうさん」って声かけた。「またどうぞ!」と返事され。
 そのやりとりを横耳にしたらしく、ワゴンからぴょっこり出てくる子ども。
 小回りのきく体を生かし、小鹿かなんかのようにしなやかな動きでテーブルにやってきて、皿をかちゃかちゃと積み上げて。
 テーブル上をサッ、手首のスナップきかせて、小さな布でぬぐってから。
 なんともまぁかいがいしく、コップまでがジェンガになった皿を両手で持って、ワゴン車に戻ってゆく。
 車に入る寸前、くだんの大工の客に呼び止められた。
 何を言われたのか、あーん、と、無防備に口をあけた。
 ぽん、お口のなかに。
 直接、飴玉をほうりこまれている。
 ……一連の様子を。
 結果的に、見届けてしまった、ら。
 スコンと納得がいった。
 ……うわ〜?
 なにそれ?
 ……ひょっとして、いや、ひょっとしなくても。
 僕、も。
 僕までも、『お手伝いしてる子ども』だと思われてたわけ?
 今は食事休憩で座ってるんだろう、みたいな?……くらいの〜?
 いやいや他人なんだけど〜今日はじめて来たんだけど…………。
 どうりで一風景として受け入れられすぎてるわけだわ。
 ひとえにあの子の存在、なのね。
 ……いや僕、勤労とは縁のない存在なんですけどぉ? もぅ完璧に。
 動揺してると、異様に耳の近く、大人じゃありえない低い位置から、言葉。
「ご注文、ぉ決まりになリました?」
 かんぷなきまでの子ども声、での、せいいっぱいの丁寧語。舌かみかけてないかい?
 ……ハッとして、あわててテーブルに置いてあった、ラミネート加工されたメニュー表を、手に取った。
 んー、と悩むこと数十秒、
「おすすめ定食セットの……『鳥』?」
 ABCでも、松竹梅でもなく。
 セット名称は、鳥豚魚。
 わかりやすいー、ってかメイン食材わかりやすすぎだろ。
 告げながら、尾行開始からじつに史上初めて、目を合わすと。
「かシこまりました」
 礼儀作法どおり、みたいなお返事。
 しかし、言いながら口中で、カチリと歯とぶつかって鳴った飴と。
 営業スマイルに成れていない、ゆったりした自然な黒瞳の細めかたが、……なんか、癒し系?
 回収することなく、メニューは置きっぱなし、で去っていった、いつのまにかエプロンつけたウェイトレスちゃんを見送りながら。
 あらためて、手元を見直す。
 自分が反射的にたのんだ『鳥セット』は、
『北京ダックふうの香ばしい一品。特製みそダレと、自家製のもっちりした皮でどうぞ』
 という解説になっている。
 こんなとこで本当の北京ダックが出てくるとは考えがたいし、いったいどの程度『北京ダックふう』で来るのやら? とかダラダラ考えていたら。
 ふわ〜と鼻先をくすぐる、ごま油っぽい匂い。
 中華系の甘辛みそ、みたいな匂い。
 つられて顔を上げれば、ちょうどウェイトレスな子どもが、皿をテーブルへ置くところだった。
「お待たせしました」
 ……言いつつも、まるっきりこっちを見てない。
 こぼさないように、滑り落とさないように。手にもった皿と、置く先のテーブルを、凝視、している。
 幼児のいちずさって感じ。こっちには清潔に切り揃えられた、えりあしの髪の毛しか、見えない。
 で、置き終わったら。
 何かに気をとられてるのか、パタパタって足音をたてて、即行ワゴンに折り返してしまった。
「…………」
 なんとなく、ワゴンに消えるまでを眺める。
 いや、話しかけたかった……わけでもないんだけど。
 見えなくなってから、さて、と、ようやく食事に向き直る。
 大人にでもボリュームたっぷりな量の、定食だった。
 内容は、肉、タレ、それを包む皮となるものの三点セット。さばみそ定食でいけば、さば、みそ、ごはん、ってなもの。
 でもちょっと、妙だった。
 たとえば甘辛みそ。スプーンを入れる前から、ゴロゴロ入ってるしいたけの角切りが見えている。
 こういう時のみそって、フツー、ソース状であって、具なんか一切なくないか?
 それからダックを包む皮だ。小麦粉を焼いた、もちっとした皮。肉まんの外側みたいな。
 半分は通常にソレ、なんだけど。
 半分はレタスだ。
 なにこの『包むもの』バラエティ。炭水化物だけではダメ、生のビタミンがね、みたいなバランス?
 ど〜も。
 やくみ、アクセントとして小山に盛られている、シャッキリな白ねぎの千切りを見ても、「野菜食え〜」という意志をヒシヒシと感じる。
 ――で、メインの肉と言えば。
 なんだかやや『ボロボロ』な肉。
 量はあるんだけども、細切れっぽいと言うか……。
 鳥を一羽丸ごと焼いて、鳥皮を中心にカット、という豪華さの気配が、微塵もない。
 なにより基本的にはダック皮メインで楽しむというコンセプトを、まるっきり守っていない。コレ普っ通に肉つきだし。肉に厚みもないし。
 箸でつまんで味見してみると、ちゃんと甘辛いタレをまんべんなく塗って、皮がカリカリになるまで焼いて、はあるようだった。
 ボロボロボソボソな見た目どおり、あぶらみの味はあんまりしない。だからジューシーさはほぼ無い。
 けど、鳥の……筋肉? の旨みのような味は、濃かった。
 いったい鳥のどの部分を使ってるんだ〜?……まぁおいしいけど。
 いちおう平気そうなので、本格的に食事を開始。
 鳥のせて、ねぎのせて、みそをスプーンで落として、小麦粉の皮をくるくる。
 餅皮がもちっ、ねぎがシャクッ、鳥皮がカリ、鶏肉がじわっ。
 ……ほぉ、悪くないね。まあ屋台にしてはだけどね?
 内心で批評をしつつ、モグモグ咀嚼。
 食するペースはいつもに比べ、あきらかに速い。
 なんだかんだで美味いんじゃん、と、自分にもつっこんでおく。
 お気には召したんだけども、この体型じゃあ、完食にはムリがある。
 まんべんなく四割ほどを残した皿を前に、席を立つ。
 目ざとくそれを見たらしく、ぴょんこ、と、ワゴンから出てくる子。
 ……なんとなく、ちょっと、ビクビク。
 いや、残飯でたのは、マズかったわけじゃないのよ? きみのお母さんのメシが。わかってくれるよね、オレって子どもの体だしさ?
 ……待ってくれ、なぜにビクビク?
 自分に不信感。
 ミズカラの心の動きに納得いってねーまま、テーブルを片づけにくる子どもを見守る。
 なんかイタリアンなガラの、クッキングペーパーみたいな見た目の台ふき片手に、こっちに顔を上げ。
 営業スマイルになりきれてない、お見送りスマイル。
「まいど!」
 鼓膜をゆるがす、ズキュン、という空耳が、したような。
 そんくらい『咲き乱れる春』な笑顔。
 ……なんだもー、そんなベタな効果音、と、ふりかえれば思うわけで。
 けれども、そん時きゃ。
 なに、この晴れがましい音は?
 ひたすらそう、首をかしげるばかり。
 で、いつまでもボーっと見つめて、立ってるのも、ヘンなので。
 さっきっから、子どもを隠しては出していた、ワゴン車に行って。
 会計してみたら。
 メニュー選ぶときに値段を気にしてなかったせいで、驚いた。
 安っ!
 いや、めちゃ安ではないけど、味のわりには、とにかく安。
「ありがとうございました!」
 子ども相手にも律儀な、きっちり挨拶。ワゴン車の大人から。
 それを上の空で聞き流しながら、自分が食事したテーブルのほうを、ふりかえれば。
 オレが食った食器を、やっぱり皿とコップのジェンガにして、ワゴン車に帰ってきている子ども。

 ……なんだか胸が。
 解析できない、いりみだれた感じで、ごたついている。
 他人たちのありきたりな日常、ささいな風景、不思議でもなんでもない。
 でも『新しい』の、つみかさねで。
 ざわざわ、している。
 イヤな感じではない。
 どっちかっていうと、春先の気温そのまま、暖かくなりたいような、胎動して、芽吹くまえ、のような。
 そう、まるで。
 ワクワク、してる。
 ……でも、なんで?
 なにに?
 胸に手ぇあてつつ、首をかしげかしげ。
 風に舞う夜桜をぱらぱら受けながら、帰りだす、夜明け前のみち。
 多分、無意識では、わかってたんだろう、ね。
 変なのよ。
 ワゴン車を改造した屋台、そこから漏れ出す暖色の明かり、時刻は深夜から早朝になりかかり、厨房にいるらしき一名の大人、従業員の大人はそいつだけ。
 パラソルつきのテーブルとイスが五セットちょいで密集する、その屋台専用の小ぢんまりフードコート。
 席を埋めてる客層は、夜間交通整備の休憩中な若い男、やたら気のいい大工の親父、キャバ嬢ではない年齢いった水商売の女、長時間残業でバテてる上に飢えているサラリーマンという、人種ごった煮。
 君の笑顔の背景は。
 散れとばかりに咲き誇る夜桜。
 オレとはまるっきり違う色、違う意味で。
 夜と同化した子ども。
 無意識に嗅ぎつけてたんですよ。

 ◆

 その翌日、ベタな再会。
 なんとなく学校の行き方、地理的な意味でのソレを、忘れきらないうちにここらで訪問しておこうかな〜と、足を向けた。
 本来はもちろん、名門私立のエスカレーターに入っているはずのオレだけど、まるで勉学意欲がないため、ふっつーに公立小学校に在籍している状態。
 けどこれだっけ久々だと、自分の席はおろか、わりふられた教室もわかりゃしない。
 そこでまずは、職員室を訪ねた。
 担任はさすがに覚えていた。もっさりとした口ひげを。
 それ目印にしようと思い出しつつ、コンコン、と職員室の扉たたいて、ガラっと開ければ。
 探す必要もなく、最初に入った視界に、あいかわらずな口ひげ生やしっぱなし。
 だから前から思ってるんだけど、なんで三十代で口ひげ? 男のワイルド演出したいだけの無精ひげ、って量でもないし。
 そぅ詰問しようにも。
 腰かけてこっち、入口側むいている担任の前には、話し相手がいた。
 子どもと、対話中。
 ん、……んー。と思って、生徒なそっちに視線注いでいると。
 用事が済んだのか、出口――兼入口のこっちに向けて、子どもがきびすを返した。
 ――ええっ? って。
 いや、実は、黒髪のはねかたとか、長さとか、コシのある感じが、すっげデジャウ〜とは思って。
 だから見てましたよ、ながめてました、だけどねっ?
「あれ」
 と、のんびり、のんきに。
 黒い瞳を一回隠すまばたき。
 昨夜のイメージ、そのままに。

 一時間目は、体育館での体育。
 窓には紫外線カットフィルター加工済み。まぁ夜間特殊学級もちの学校なんだから、当然ね〜。
 顔出すだけのつもりだったから、当然、体操服なんか持ってなかったけど。
 お邪魔しますわって、私服のまま乱入。
 珍しくやる気あるじゃーん! 自分を褒めたたえ。
 ……しかし、久しぶりに見たけど、体操服って真っ白だわねぇ。
 Tシャツも短パンも、体育館シューズも、見事に真っ白。そんで動きやすいようにって結構ピチピチ。
 そぉして、それが似合ってしまうのが、子どもなのかしら。とりあえず目の前の人には、すっげ似合ってる。
「去年の秋に、転校してきたんだ」
 マットの上で、向かい合わせに足伸ばして座って、お話しながら前屈体操。
 きみ、柔軟性高いですね? つま先まで手が届いている。
「おれはね、XPのD群だから、この学級なの」
 しっかし、高い声だこと。……高い、ってのも微妙に違うか、キンキン響かないから。
 なんつーの、ソフトな声、って感じ?
 ゼリー状って位、口に入れればとろけだすよーな。
 硬さとか、けわしさとか、平たんさとか、持ってない未発達な声のつらなり。おもいっきり幼児。
「ノウはアルビノでしょ? 目ぇきれいだもんね」
 軽く首をかしげ、思い返すポーズで、尋ねてきた。
「あ、うんうん」
 じつは声に聞き惚れていたので、反応が遅れた。
「あ、じゃあここ、まぶしい?」
 ヘキが視線を、こっちから外して、ある一角を見ながら言った。
 体育館のすみ、ややライトに見放されたよーな、薄暗いところを。
「前の学校でね、友達がアルビノだったから。まぶしいの苦手だよね?」
「平気、いざとなったら、サングラスあるし」
 とはいっても、基本的に弱視なので、サングラスをかけた日にゃあ、今度は物の視認がむずかしーくなるわけだが。
 でも全然がまんしちゃうよ。
 もぉ、足の小指をどっかに、ドガァ! ってぶつけても、我慢するね。
 なんせこの時間は、きみとペアで、みっちりお話ができそうだからね。
 ……あれ。
 なんで浮かれてんの、オレ。
 ――え、なに。
 友達、がうれしい?
 むしろ、そんなにこの子が、お気にいりになった? って事?
 ――つーかなんで、自分で把握できてねーんだよ。オレ今、どこにいるの?
 釈然としないまま、本格的になってゆく柔軟体操。舞台前で見本をしめしている担任教師が、ペアの生徒に指示して、肩甲骨あたりを押させている。
 交互に、お互いの背を押し、ギリギリまでうつぶせにさせ、太ももに胸を『より、できるだけ』くっつける、お決まりの体操。
 というわけで、ヘキが立って、オレの後ろにまわりこむ。
 背中に、もみじ型の、あったかさ出現。
 うーわオテテもぷくぷくねぇ、こぅ、猫の肉球みたいな部位が特に。とか。
 一歩まちがえばセクハラ思考なこと、考えたりして。
 ……自分がわかんね〜。
 しかも、
「いでででで」
「カタイねー?」
 体育の授業、なんてほとんど体験したことがないから、立派にさびついている体。
 そんで背中から、ヘキが、けっこう容赦なしに体重かけてくるし。
 そんなしゃべり方で、可愛い外見で、実はSなのっ?

 けっきょくその日、終業まで。
 時間つぶしーな勢いで、勉強する気はナシ、ヒマそぅに、教室に居座った。
 ……全員でのさようなら! を聞いてから。
 ヘキの席につかつかと直行。
 さて本命。
「今日、どっか遊びに行かね? ほら、せっかくだから〜」
 ――何が『せっかく』なんざましょ。あぁなんかムズがゆいよ! こんな正しく、模範的に、『学校でともだち』作ろうとしたことなんかないからさぁ! 大正、って時代くらいから使われてるようなナンパパターンじゃん!
「んーとね、おれも、遊びたいんだけど」
 オレとは違い、ちゃんと校則どおりなランドセルを、帰りじたくで机に置いているヘキは。
 あんまり困ったような顔でもなく、……でもちょっと困ってるんだろう、毛先が揺れるていどに、ヘキはうつむいた。
「あ、じゃあさ!」
 けど次の瞬間には、目を輝かせて。
 ゆうべの屋台へ、誘われた。

 放課後。オレらにとってソレは、深夜以外のどこでもない。
 実はガラス部分が紫外線カットガラスだった、改造ワゴン車から。
 てててっと、ヘキが出てくる。
 このパラソルも実は紫外線カット素材らしい。どうりで寸分もらさず、密集しすぎな感じで置いてあるわけだ。ヘキを守るため、なのね。
「なんでも好きなものたのんで、だって!」
 って、テーブル上のメニューを取り上げて、オレにさしだし、明るい笑顔。
 いかにも『うちの子の友達』へ、ふるまい、おごりなムードだ。……いやぁワタクシ金はあんだけどね?
 まァせっかくの、おもてなし〜なので、お子様らしく、おやつなんかをチョイスしてみたりする。
『かぼちゃカノム。ココナッツミルクと米粉の、タイ風お菓子。プリンとケーキの中間のような味がします。凍頂烏龍茶とどうぞ』
 というの。なんか旨そじゃね?
 その場で作りはじめるような菓子じゃないらしく、ワゴンに帰って、すぐ折り返してくるヘキ。
 そんで、お手伝いをちょっと中断して。
 立ったまんま、テーブルわきにいる。
 オレのお相手。おしゃべり、メインのおもてなし。
 今日も装着中な、子ども服サイズのエプロンは、緑。
 うーん黒に緑って、よく似合うね?
 フォークで一口サイズに切り分け、いただく。ティータイムなムード。
 ……おおう、なんだこの満腹感を誘う食感は……。
 そんで『素朴』としか言いようのねー甘みは。
 手作り菓子っておそろしい。
 口の中で溶けるようになくなってゆくスナック菓子とは、まるでモノが、種類が、違う。
「うちは、片親なんだ」
「へー」
 ずそそ、と、たしか梅雨時の花、クチナシの匂いのする烏龍茶をすすりながら、返事。
 小さめの急須と、小さめの湯呑み、なんかおままごとセットみたいな。あきらかに中華風。
 炭酸でもジュースでも酒でもない液体を飲むのは、なんか久しぶり〜。
「交通事故かなんか?」
 カラになった一杯目、手のなかの白い茶器を、もてあそびながら。
 なにげなく、死因を尋ねると。
「ううん、こんどは絶対、まともに健康な子が欲しい、ってー」
 鼓膜に届いた瞬間。
 敵意にまみれた眼になったと思う。
『見捨てられてもしかたねぇガキ』誰かにそう言われたら、体内で血しぶきあげながら、全力で報復を探す、これはもうクセ。
 ……あれれ、でも。
 これは、オレが攻撃されたんじゃなくねぇ?
 きょとん、と。
 瞬間的に激怒したのに、パァッと散るように毒が抜けて。
 ぱちぱち、速度ののった、まばたきをしていたら、
「あ、でも、お母さんはいるよ!」
 ……いや。
 なんなの、そのフォロー。
 オレがなんで、目ェぱちくりさせてると思ったわけ。
 同情とか、まだ、よぎりもしてなかったよ、このタイミング。
 ぎこちない眼球運動で、ギギギ、きしむようにヘキを見上げると。
「ほら、あそこで鍋ふってるの、おれのお母さんなの。美人でしょ!」
 ……美人であるということが、この場合、どれだけの益になろうか。
 ブスよりかはマシ、そんだけではなかろうか。
 旦那に『俺とおまえの子どもがこんな病気に生まれついたのは全部おまえのせいだ』そう、半、逆ギレされて、子どもごと捨てられた女。
 まだ目を、ぱちぱち開閉させながら、ヘキが指し示す、厨房を見る。
 改造ワゴン車の中には、一人の、まとめ髪の女。
 チラ見したことはある、お顔を、つくづく思い返す。
 ……絶世の美女とかとはほど遠い、つか美人と言い切るのもちと苦しい。
 美人カテゴリに入らなくもない、と、言えなくもない程度の。
 オレと同年代の子ども、の母親として、ふさわしい年齢の女。つまり若くもねー。
 跳ねるピンポンみたいに、反復運動な動きで、ヘキの顔に目をもどす。
「ねー」
 同意してもらえること、あたりまえに疑っていない、無警戒。
 子ども、をやっぱり体言している、笑顔。
 愛されるべきで。
 愛を受けることに懸命な。
 ――もう社会の平均点とか、よその人と比べてどうなのかとか、冷静でグローバルな観点、ぶっちぎって。
 自分の母親、だから美人、料理もおいしいし、優しくしてくれる、大好き、っつー。
 盲目的で、ある種ゴウマンな。
 双方向だからこそ不足なく成り立ってる、愛情。
「……うん」
 うん、じゃねーだろ、なに服従してんだよ、いや美人じゃねーしと思ったんじゃねーのかよ!
 嵐のような胸のうちの反論も、すべてねじ伏せる。
 目の前の、全視界の。
 世界の中心の、笑顔。

 ◆

 二人前のチャーハンつくるので精一杯、って感じの、円の小ささ。
 直径二十四センチ……らしい中華なべが、ガスコンロ、思いっきり強火、の上でおどっている。
 まとわりつく背後のオレを気にせずに、せっせと鍋ふる、ミニコックin台所。
 そうかと思えば、右手がすぃっとおたまを、シンクに置いた皿の上に放し。
 次いで流れるような動作で、ビンにつきささったスプーンを握り、ぺっと、ひとさじ調味料を、中華なべに投入。
 濃い、濃ゆーい茶色のペースト調味料。
 ビンに貼られている赤いラベルは『甜麺醤』。
「なめ……?」
「テンメンジャン、だよー。日本料理で言ったら……。甘みそ?」
 中華なべに目ェ落としっぱなしのヘキが、動作とはウラハラな、のんびり口調で、お答え。
 ふーん、とゴトゴトリ、瓶底を鳴らしながら、調味料棚へ戻す、オレ。
 猫の手なみの手助け。
 すっかり屋台にも、ついでで学校にも通いなれたこの頃、今日はついに、休日のお家にお邪魔。
「あんまり掃除できてないけど、気にしないでね」
 とは、ヘキのおかーさんの弁。いや、気にするしないの問題じゃないっしょ? まぁ気にしないよーに心がけますけど。
 彼女は、休日は飲食店にゃかきいれどき、とばかりに、さっき出ていった。
 そんなわけでただ今、ヘキが子どもながらの腕前を発揮して、突撃となりの晩……オレらにとっては昼……実際の時刻は夜……。……ごはん。
 製作は、子ども用と言えそうな中華なべ、で。
 ……こんなサイズ、けっこう珍しくねぇか?
 ヘキの母親はピンポイントで、ヘキに金をかけている。
 ぶっちゃけ、職業訓練な気配。
 日中の一般的な職業に向いてるとは言いがたい、愛息子の将来への配慮〜、手に職っぽい。
 しっかし、スルーできないような珍品が、けっこう山ほどある台所ねェ。
 収めたテンメンジャン、の横に、読めないラベルをまた発見。また変なものがあったよ?
「なーに、この黄色いラベルに赤丸の、紅茶みたいな液体?」
「ナンプラー。魚からつくった……醤油? かなぁ」
 ああ、ナンプラー聞いたことある、タイ料理で使うやつっしょ?
 試しにあけてみると、すっぱいような……ハエが寄ってきそうな匂い。
「あ、ちょうどいいから、ソレ取って〜」
 リクエストに、バケツリレーのように渡すと。
 ヘキはほんのちょびっとを、鍋肌にまわしかけ。ジュっ。香ばしさで浄化される腐臭。
 そして、シャッシャッシャ。堂にいった手さばきで、鍋のなかみを宙返りさせまくり。
 そうやって、見慣れぬ香辛料とか調味料、駆使してる一方で。
 今はタッパーに入れてあった、かつおぶしを指につまんでいる。
 このかつおぶしが、また、お好み焼きの上でおどってるよーな花かつおでもなく、さりとて冷やっこの上にのってるような普通のやつでもない、一瞬『ナニコレ?』といぶかしげに凝視してしまうような、細かいカッティングがされたかつおぶし。
 マニアック食材なの? いやミキサーで、自宅で砕いた?
 う〜んこのチャーハン、なんの料理なんだろー。多国籍? 無国籍? 中華のやや日系シフト籍?
「ノウ、すっごくおなか減ってる?」
 ヘキが鍋に集中したまま、話しかけてきた。
 ナンプラーを戻しかけの、片手を棚にかけた体勢で、ヘキの顔に焦点をあわす。
 真剣なまなざし、けなげなまでに鍋へ向け、傾いたヘキのあごの角度。
 そのせいで首の耳ねもとあたりに『ぷに』と寄った、柔らかげな肉のクボミ線を、斜め上から拝見するまま。
「いや? なんで」
「だって、ずっといるから」
 調理開始からずっと。
 ヘキの背後にまとわりつくように。
 料理できねーから、手伝えもしないのに。
「いや………………――」
 腹が減ってはいないけれども。
 なんか温かい食い物の気配がするし。おいしいかもしれない食材もたくさん。それに居心地がよい、ヘキがここにいるから。ウキウキウキウキ。
「――っ」
 息飲んで動揺した人影を、察知したのか。
 ヘキがこっちに「ん?」と視線を上げる。
「……え、わ、落としちゃダメだってノウ!」
 落っことしかけていたナンプラーのビン、とっさにパシィ! と、てのひらに受け止めてる。
 反射神経いいんだよね!
 たじろいで身動きできないまんま、固まった息、熱上昇おさまらぬ顔面で、それを凝視している。
「……あれ?」
 見つめあう、至近距離。
「ガスの火、暑かった?」
 ……はずかしめてきた人が、悪気のないお顔でよく言いますね!
 いったい何なのよオレ、片時も離れたくない、ってかっ?
 邪魔だ危ないーっつーのに、昼飯つくるママにまとわりつく、ママ大好きな幼稚園児かよ!

 そよそよ、と。
 夜風がそんな軽やかさで、カーテンを舞わせている。
 今年も亜熱帯な夏をむかえる模様の気温に、ほどよい清涼。
 特に夜の風だから、天然クーラーって感じに、ここちよい。
 片膝を立てた、リラックス姿勢で畳に座ったまま、受けるソレ。
 思わず表情も『ゆる〜っ』となるってもんだわ。
 オレたちがあこがれる日ざしの香りを、少し含んだ。風に揺れるカーテン。
 チラ、と、かたわらに視線を落とすと、さっきっから目を開ける気配のない子ども。
 たまーに『むにゃむにゃ』みたいに口動かして寝がえりするだけで、熟睡中。
 屋台にお手伝いに行く前の休憩、ひとねむり中。
 ぽすん、けっこう勢いよく、その横におっこちてみる。
 丸〜いほっぺた、を、爪先で、もしょもしょ。円を描くよーにくすぐる。……反応ナシ。
 いかにも幸せそうな寝顔ねぇ。
 おいしかった? お腹いっぱいになった?
 さっき自分も食った、厚切りチャーシュー、ザク切りネギがボリュームあった、チャーハンをふりかえる。
『なんでわざわざレタス、皿にしいて、その上にもりつけなの?』
 ……とか、思い返せば、いちいち質問してた。
 やっぱママべったりなお子様行動。
 よじよじ、と畳の上を、寝ころがったままイモ虫に進行して、ヘキのしきぶとんスペースに上がりこむ。
 ……おふとん、ってなんか安定感あるわねぇ。ベッドと違って揺れ一切なし、床との距離感零、高さレス。
 綿のシーツがひんやりと、皮膚にきもちよい。
 もうちょっとだけ、イモ虫行進。
 今度は頭を、ヘキの枕にのっけてみる。タオルの枕カバーが、銀の猫っ毛を受けとめてくれる。
 ……近すぎ、ぼやけて目に像を結ぶ、ヘキの顔立ち。
 鼻のてっぺんが、ヘキのまつげか前髪に、くっつきそう。
 ……って言うか、くっつけたくなってきた。
 でもさすがに、顔面だと起きるかな。
 首を丸めて、枕から降り、鼻、および唇を。
 両腕を胸の前で交差させて眠っている、ヘキの手首下あたりに、ぺて、とくっつけてみる。
 つつつぅ、と、そこでもくすぐるように静かに動いてみる。……やっぱ起きねーのな。
 うぶ毛をゆらめかせてる人肌は、唇にやさしい。
 ほのかな、子どもっぽい体臭は、まさに日なたのもの。……日を浴びれない体のくせに。
 肌に小鼻をくっつけたまんま、鼻をうごめかせ、匂いを吸い込んでみた。
 変態チックーと思いながらも、いっぺんそうしたら……、やめらんなくなった。
 吐いて、もう一回。深く、もう一回。
 心臓がタンタン鳴って、耳の根元がポォッと熱くて。
 どきどきするのに、ふわふわする。
 背骨が。体のシンっぽいものが。
 とろとろ、砕け、溶けていってしまう。
 いつまでやってんだよ、とか思いながらも、なんか、もー、離れられない。
 ヘキの断片が、身に入りこんで。
 膨張して、体のすみずみにまで行き渡っていく、感じ。
 ぱたぱた、って耳を打ちつづけるのは、穏やかなカーテンの音色。
 開いた窓、さかいめなく、繋がった外の世界。
 そこでもきっと、この子と、この部屋と、ここと一緒。
 くり広げられている、生活の場所ととのえて、メシ食って、寝て。起きたら仕事いって。
 星の下、太陽の下、ほとんど誰もがつむいでいる。
 いたってシンプルライフ、ありがちで、面白みないほど均一な。
 昔……――最近まで。密かに。
 恋こがれた。

 エッエッ……と。
 なんかの音が聞こえてきて、なんだ、どっからだ、と思ってるうちに。
「……ア、れ、どしたの?」
 起きたヘキの心配そうな声が聞こえて、ようやく納得する。
 ……オレ、が、泣いてんじゃん。
 こわいゆめ、みたの。
 柔らかに鼓膜をなでる、声。
 もう、もうバカ、バカだってば。
 何歳児のガキですか、どぅ考えてもそんなもんで、コンナ泣かないと思うんだが。
 胸中はやっぱり毒吐きぎみで、けど、返答もできず、ひたすら嗚咽してるだけ。
 汗が背中を濡らしていくくらい、パジャマなTシャツが重くなっていくくらい、力ふりしぼった慟哭。我ながら、そうわかる。
 頭を無意味に振る、振る。ごしごしシーツを擦る、右へ、左へ。って言うか、勝手に振れてる。イヤイヤ、するみたいに。
 ナチュラルな生活、レアモノも、狂った笑いもない。
 そんなのが欲しかった。
 あんなもの。ああいうの。あれもそれも。
 ああ、いやなもの。
 ぜんぶいやなものだった。
 見る必要なかった。
 見つめる必要、なかった、んだ、ね。
 無視されてるとか、世の中からあからさまじゃないよーに虐げられてるぅとか、誰にも愛されてなくないかぁとか。
 そういううざったいごった煮スープ、地獄の鍋底、キマジメにのぞきこんでる必要なんか。
 けっしてふりかえらないひとたちの背中を恨みがましく見続ける必要なんか。
 ここに、はめこまれて。
 やっとわかった。たどり着けた。
「ゥ……グ……」
 ふくふくした感触の、ヘキの肘の折れめに、すがりつく。
 たいして長く生きてきちゃいねー人生が、ホラーハウスのメリーゴーランドってかんじ頭の中でぐるぐるしてる。あんまいい光景がない。
 でも流れ星みたい、光帯を引いて、そういう光景たちが遠ざかっていく。見えなくなる、薄れていく。
 涙がとまんない。
 でも、たぶん、これは、嬉し、で。
 エグエグ、苦しい、濁った呼吸音をし続ける。
 鼻穴は豪快に水づまり。も、息が、しにきぃ、のですが。
 ぽんぽんぽん。
 飽きることなく、背中を、リズミカルに、力いれずに叩いてくる手先。
 まるっこい指先。
 なんにもわかってねーくせに。
 トゲトゲなもの、平らに、ならすように。

 ◆

 恋というもの、つぅか初恋というものを自覚いたしまして。
 そーなると、できるだけ一緒にいたいわけ〜。
 自分が知ってるそこそこ楽しい遊び、まぁー、きみを染めるわけにいかないのでクスリ以外のね?
 夜の繁華街に点在してるソレを、一緒に楽しみたいなぁッ、とかって思ったり。
 だからこぉ、小首かしげる感じで、ちょっと鼻に抜ける声で、「ねぇん」って、同年代の女のコならすぐ撃沈な甘い声で、学校やすんで遊びに行きましょ、ってオネダリしても。
「夜遊びしない」
 ってキッパリ。
 つか、「放課後も遊べないよ、だってお店の準備しないとねッ!」ってー。
 ……じゃあ一体、いつ遊ぶのよー?
 すべての可能性をすげなく袖にする発言。
 そんなんじゃあ、タバコのひとつも吸えないのよー? とぉっても不満。目つきもトガっちゃう。
 この、イイコちゃんめ。
 ……そんなこんなで。
 ふりまかれる大好きな笑顔を、きっちり洩らしなく捕食したいオレとしては、やむなくどーしようもなく、一緒になって、屋台のお手伝い。
 自分のテリトリーに連れていけないから、相手のテリトリーに入り浸るわっけね〜。
 そうなると、PTAが眉ひそめる『いかがわしい』場所いかないわ。
 仕事の段取りが乱れるので、必然的に、フライなほどクスリやれないわ。
 なにこの健全生活?
 ってか、誰、コレ。いや、オレだけどー。
 ただいまは、パラソル下の白いテーブルセットに二人して座り、しこみの最中。
 テーブル中央に、でぇっかいボールを置きまして、鶏肉の骨とり作業。
 加速度的に厳しくなっていく衛生管理の法律、食品いじる際には、手袋二重が基本。
 下ばき手袋は、オムツ素材とかにも使われてる、綿の七倍とかゆー高い吸水、吸湿の機能を持つ『ベルオアシス』という繊維入りのもん。
 手ごときの汗腺がふきださせる汗程度、ちょこざいな、とスピーディに吸収する。
 その上から、さらに使い捨てゴム手袋を装着してる。肌色なので、一見、素手に見えるけどね。
 そんなおテテで。
 手羽の骨とり、肉むしり作業中。
 カリッと香ばしく焼かれた後の鶏肉――手羽から、骨をとりさる。仕上げステップ。
 牛肉のスペアリブとかと違って、骨つきのまんま客に出したら軽いイヤガラセだかんね!
 キッチンバサミで豪快に、骨に沿って肉を、縦にまっぷたつ。
 そして、骨から離れまい、とラブラブ抱擁している筋肉を、「へっ、おまえらもう死んでんだよ、いいからこっち来なぁ!」とヤクザな無体さでひきはがす。
 そんで肉を失った骨を、手近な小さめのボールに、ぽい、カラン。
 お肉は大事に、中央のボールへ、そぅっと。女は売り飛ばし先があるのさぁ!
 これでやっと『北京ダックふう』の甘辛な焼き鳥として、面目が保てるようになる。
 オレも初日に食べたなぁ、コレ。
 この骨とりの手間が痛いけれど、手羽は安いので、おかげで材料費はひじょーにローコストに抑えられるという効果。
 屋台一軒を守ってゆくため、お客に値段、味ともに愛されるよう、コストダウンに余念がないヘキのおかーさん。
 けど、
「この手羽先ってなんで安いの?」
 ふと疑問に思って、ヘキにお尋ね。
 だって味は悪くないもんなぁ、脂身に欠けるけど、皮はジューシーだし。
「これ手羽中だよー。手羽先はスープ鍋に入ってるよ?」
 あー、あの寸胴鍋でごとごと、沸騰させないようにえんえん、ネギとショウガと煮込まれてるやつね。
 確かにあれは、これらより更に、骨と、鳥肌たった皮ばっか。
「手羽はね、みんな胴体のお肉は食べるけど、骨が邪魔だから、ハネは食べたくないから。それで余るんだ。ホラ、羽毛とったらいかにも、お肉ついてなさそうでしょ」
 あぁそっか、そうね。
 つまり、まさに今、手ェうごかしてる、この手間でもって嫌われて、廃品並みにデフレなのね。
 ……あれ?
 ハネ?
「……え、手羽って、あそこなの」
「んふ? なんだと思ってたの?」
 両手を止めて、不思議そうに見上げてくる、黒いまなざし。
 頭はよさげなつもりなんで、手羽って部位があること、知識としては知ってたけど。
 どこなんだか、いまいちわかってなかった、気にしてなかった。
 そんな安い食材、あんま食べたことなかったもの。
 おでんとかで見かけたことあるけど、骨だらけで見向きもしたことなかったしー、そしたら家政婦も入れないで作るようになったし。
 ……いやぁ、我ながら、金持ちの一人息子な現代っ子ねェ。

 屋台のお手伝いと言っても、本来なまけものなので、給仕はヘキに任せっきり。
 調理は当然おかーさんに任せっきり。
 ……そんなオレでも、冷蔵庫からモノを出し、またしまい。
 タッパーからのりを出し、また閉めて。
 卵わって、ゴマすりつぶして。
 注文が入ったグラタンスープを、一人分だけ小さいシチュー鍋に盛って、チーズとクルトンとパセリちらして、オーブンにてあっためて、と、立派に忙しい。
 そうやってダルそげながらも、ダンスのように働いていたら。
 ワゴン車にさっき戻ってきてたヘキに、脇から呼ばれた。
「のゥ、口あけて」
 ――何、そのちょっと甘い呼び声っ? 口でも財布でも開けちゃうよ!
 稲妻の速さで半ターンすると。
 ソテーしたてのソーセージに近い、ちょっとチープで油っこい、食欲を満たすにおい。
 ……が、直接、口の中から、鼻にとおった。
 これは売り物の、イサーンソーセージ。肉だんごの串焼き。中にライスボール入り。
 カロリーたっぷりなので、ちょっと空いていた小腹が、一噛みするだけで、みるみる、満たされてゆく。
「今日、もーちょっと食事休憩とれないと思うから、これでもうちょっと我慢して?」
 そう、おねだりしてくる、瞳。
 ……AV女優のカメラ目線も顔負けだよ?
 もぐもぐ冬眠前のリスっぽく、歯を上下しながら。
 これ幸いと、じぃっと、まじまじと。
 穴があくくらい見ていたら。
 視線の先、こっちよりちょい低い身長が、黒髪をかしげて。
 それから、なんでかムゥー? と鳴いて、しばしちょっと悩み顔。
 で、こっちに背を向けた。手元でなにやらごそごそやってる気配。
 ……太ってるんじゃないけど、うつむいたことにより、『ぷに』とちょっとあまってる、うつむいている首の肉が。
 なんつーかまんまラムだ。つまりは羊、子羊のおにく。
 狼は食いつきたくて舐めたくて、ヨダレをこらえるのも一苦労してる現状。
 もんもんと、今にも悪戯にうごめきだしそうな指先をこらえ、まだ見ていると。
 くるり、と、ふりかえってきた黒目。
「そんなにお腹すいてた?」
 すばやい右腕の動き、残像が残るスピーディ。
 イヤもイイもなく。
 唇へ、もう一本、つっこまれてしまいました。
 ……もんぐもぐ。
 不平も言わず、頬パンパンにふくらまして、歯ぁ動かすの続行。
 おとなしーく、そうしながらも。
 腕組みして、眉を寄せて、片足あげて脚も組んだ。
 ……いやぁ『物欲しそうな顔』の種類が違うワケよ。
 表情の読み方はまちがってないけどさぁ、するどくて、かつ、どーしよーもなく、にぶいよ。
 もう満腹ッスよ、かんべんしてくださいよヘキさんー。

 早朝近し。
 吸血鬼一族な僕らとしては、そろそろ巣にね、バタバタこうもり羽うごかしてね、帰らないとってムード。
 警察署が近いせいか、野外プレイに走るカップル、羞恥プレイに走るカップル、ぱーとなー交換プレイに走るカップル、どれもいませんねぇ、な公園。
 そんな時間帯。
 犬の早朝散歩な人影、まだなし。
 小雨がえんえん続いたあとの今日は、なんだか土から、蒸すのだ〜わぁ。
 そんなことを感じながら、五メートルから十メートルほど先の、移動しまくる一点を、とぎれることなく見つめてる。
 最近、ヘキになついてしまった犬がいる、この公園。
 その犬を従えて、くるくる、くるくる、水たまりを避けて走り回ってる。
 全開、大盤ぶるまいな笑顔で。元気ねェ。
 ゴールデンレトリバー種の大型犬の、お相手は。あんま体格差なくって、けっこう大変そう。
 まぁそれ以上に幸せそうだけどー。
 あ、両足のあいまに挟まってこられて、すっ転ばされたわ。
 じゃれつきすぎで相手を土におし倒したっつーのに、犬は。
 ふんふん、今度はヘキの腹に突進していき続けてる。えっらいスピードで首を左右、へそを掘るように鼻ヅラ押しつけ、ぐぐりぐり。
 猪突猛進な愛情表現だこと。
 ……うーん。
 犬と子犬がじゃれてるわぁ。
 孫に鼻の下のばすチックな、じじい、エビス顔、になっていると、自分でわかる。
 どうやら我輩、犬好きだった模様。
「ノウくん」
 声、かけられて、ふりかえると。
 遠目にわが子が確認できる距離の屋台から、いつのまにか店じまいを中断してやってきていたヘキの母親が。
 両手に握っている大きい紙コップを、さしだしてきた。
 ……応じて、ポケットから両手を出して、握り受けとる。
「もうすぐ、片づけが終わるからね」
 かがんで、目線を合わせてきて。
 頭をぐりぐりっと撫でかねない感じで。ごほうびのお菓子に、プラスな、お言葉。
 こくん、って、うなずくことで、無言にお返事。
 ……子どもあつかい、つか、自分の子どもに近いあつかいは、くすぐったいですお義母様。
 ちゃっかり『おかあたま』扱いを心中しつつ、屋台に帰ってゆく背中を見送って。
「ヘキぃ、こおり〜」
 お疲れぎみに首を、ぐるんぐるん回しほぐしながら。
 ビッショリ汗かきはじめた紙コップで、冷たくなってきてる両手、ちょっと高くかかげ、ヘキに呼びかけ。
 顔をこっちへ上げて、
「うん!」
 ヘキは、黄金毛皮の捨て犬の頭を。
 離れる前、なだめるように、撫でナデ。

 大股走りではずむボールみたいにやって来たヘキと、並んで腰かけるベンチ。
 ベンチ真上の緋色がかった外灯が、きらきら、地上にむけて三角形にスポットライト。
 粉星ふるように、輝き、そそぐ。
 ……びみょーに向かい合わせになる角度で座り、お隣どうし、氷を食べ始める。
 売り物、デザートメニューの一品であるこの氷は。
 牛乳で作ったかたまり氷を、カンナみたいなもので薄ーくけずり出して。
 その、ふわふわサクサク! 雪みたいな、繊細で軽い口あたりなものに。
 どかどかと容赦なく、熟れ熟れカットマンゴーを、トッピング、たっぷり。
 さらに上からテレテレと、情け容赦ないコンデンスミルクのまわしかけ。
 レシピ前半のデリケートな白さ儚さはどこいったの?
 まぁ、あっさりめで優しい牛乳の口どけと、南国フルーツの濃厚な甘さ酸っぱさ、充実味と全体調和を与える練乳。と、デザートとしての完成度は高いんだけど。
 名前は……なんだっけ。マンゴーなんとか。
 おいおいそのまんまなネーミングだよ。とりあえず、おいしい。
「うは、舌がピンピンするー」
 ヘキがギューって目を閉じて、ぷはーって風に言った。
「ああ、あるよね〜」
 マンゴーも氷温ギリギリまで落としたところをトッピングするからだ。
 氷をワーって食べるとやってくる、舌のブリザード現象。
 同時にこめかみのあたりがキーンと頭痛もしたりする、アレだ。
 先に食いおわったオレは、もう解凍されたけど。
 やっぱりさっきまでは、舌が麻痺するような感覚があった。
 舌をとんがらせ出して、ひらひら、『でももう、あったかくなったよーん』と、無意味に遊ばせていると。
「わぁーノウ、舌、長いね〜」
 ヘキに受けた、くすぐり程度に。
「そう?」
 れろれろ。細長く空気にさらしたまんま、さらに、くねらせてみる。
「毒蛇みたい」
 ヘキは、そう笑って。
 にこにこしたままカップに、また視線を落として。
 しゃり、と。
 最後のひとサジ、をすくう。
 練乳でつやつやした、唇をくぐって。ちっさい歯がのぞく、口のなかへ。
 氷、の、味は。
 さっきまで食べてたから思い描ける。同じに再現できる。
 ああ。味はねぇ。
 ミルクで、南国の実で、お砂糖で。
 リアルさは、つまり、生々しさで。
「…………まだ、舌、ピンピンする?」
 勝手に、自分の舌が、すべっていた。
 かなり意図を悟られてもおかしくなさそうな、セリフだ。
『舌』『見せろ』ってなぁ?
 しかもおびえたような声だった。
 しかもしかも、じいぃっと、ヘキの口元を見つめて、ゆった。
「――?」
 まだ最後のひとくちが、中に残ってるかんじのほっぺで、ヘキがこっちを見上げる。
 そんで、ケゲン、そーに、首をかしげた。
 ああピンときませんか?
 え、それって、唇処女?
 では、なくても、舌処女は期待できる気配。
「ノウ?……っ」
 かちっ、と、けっこう痛そうな音がした。
 …………いや、前歯どうしぶつけるって、どんな初心者だ。
 だって、つやっとね、コンデンスミルクがね、かかった感じのリップがねぇ、うるおって、ちょっとバターっぽくて、ぷるんって……。
 唇をくっつけたポーズで、あっというまに過ぎる数秒。
 呼吸をそろそろすいたくなるタイミング、唇を離し。
 ……そののち、頭をよぎったのは『うげ』という。
 仮にもキスシーンの直後に、フツー思い浮かべない感想だった。
「先に食べ終わったから、もうぬくい常温に舌、戻ったから、オレあっためたげるわー」
 という、尻まるだしどころか、モウコハンまで出てそうな、押し売りイイワケをね。
 言ってなかった、言えなかった、それすらっ? 言えなかったなぁ、ってことで。
 余裕なさすぎだろー。
 にぶいから全然、そういう好意、嗅ぎとってなかった可能性もあんのにー。
 引かれたらどうすんだよー。
 そう、冷や汗まじりなココロで。
「…………」
 フォローの単語、まだ思いついてないながらも、おずおずと。
 首をちぢめて、下から覗きこみで。
 こわごわっと、ヘキの瞳の表面で、反応をたしかめようとした。
「――」
 ヘキは、沈黙をたもったまま、ぱちくりっとして。
 多分、事態把握にたっぷり、ワンテンポかかって。
 それから。
 ……キラキラ残光を引いて、細められる黒瞳。
 へれっ、と、ゆるんだ、ピンクくちびるから、のぞく犬歯。
 完全、に。
『テレ』笑い。
 なんと嫌がっていません。
 なんと吃驚もしてやがりません。
 ――万馬券ですよ奥さん。奥さんってダレだ?
 ぺぃ! っと反射的に、からっぽになった氷の紙コップ、てのひらパーにして思いっきり、ポイ捨てていた。
 試合終了まぎわの逆転ゴール、祝うようにワァっと両手で抱き寄せる。チームメイトと勝利を喜びあうみたい無欲の抱擁。
 右腕いっぱいに使用して、ヘキの背中よぎって身を拘束し、掌でつつむよーに、右肩をがっちり握る。
 ああ、オレ男なのね、って思うような、自分の目に見せられてもけっこう男っぽいしぐさ。
 力加減もできてない、ヘキはちょっと痛いかも。
 幸せなんだけど、幸せすぎて、逆にせっぱつまってます。余裕、ない、ない。
 オレンジの外灯に照らされて、つやつやテカってる、ヘキのほっぺた。
 少しピンク色になってる。恥ずかしい、の?
 おでこをコツンッとくっつける、何かテレパシーしたいみたいに。
 そんで期待満載で問いかける。
「ずっと一緒?」
 うん、って。
 吐息で帰ってくる返事。ハッピーッ。
 くすくす、くすくす。
 恥ずかしい、嬉しい。追いかけあう輪唱みたいに、お互いの笑う息。
 灯りからふる暖かな光が、世界を本気で、バラ色って感じにしちゃってる。
 いつまでも浸っていたい、その中心で。
 ふと思い出してくちばしった。
「あ、舌、からめるの忘れてた」
 そもそもは、それを、いいわけに……と、あの一瞬、駆け巡って、血ぃ上ったんだったのに。
 するとヘキが、まだおでこをくっつけてくれている体勢のまま、
「ええー」
 と、微妙に、『サイテー!』響きを纏った声をあげた。
 ち、ちがいます。何も、こんな生ぬるい可愛いキスじゃ物足りねぇぜとか、そういう意味じゃあありません。
 入魂の恋、しちゃってますから。自分で思い知ってますよ。景色が輝いちゃって、どーにもなんねぇっつうの。
 あのね。あのねぇ。
 大好きです。

 ◆

 うっすら、と目を開ける。
 かすんでる視界。なにもかもがぼんやり。
 水中にいるように、物が視認できない。
 瞬間。
 自分の口が、はくり、と開いた。
 で、洩れたのは「はふ」っていう、熱い浅いため息。
 マラソンやりとげてる人みたいなせっぱ詰まり、表現してる苦しげ。
『ん?』と、一瞬だけ、内心で首をひねって。
 …………なにごともなかったかのよーに、うぞうぞ、唇をくっつけているものに、顔を埋めなおす。
 うン、って、極限までくすぐったがるの圧縮した、たまんない小声が。密接してる肌から直接、響いてくる。
 目がかすんでるのは、あまりの気持チよさのせい。
 脳にピリピリ、抵抗できない電流が流れっぱなし。
 いわゆる、下半身の大事ーな箇所から、直結して。
 にじむ涙に邪魔される眼球に、チラチラ映るのは、モロな肌色。
 どこもかしこも正常な色カタチのまま、成長した体だ。
 中学生くらい、かなー。
 だいぶ大人、に近づいたお互いのフォルム。
 水っぽいサラリとした汗をまとった、相手のなまめかしい腕をつるん、ってなぞって。
 ヘキの指先を、利き手にすくい取ってからめ握った。
 全身の震えが伝わってぴるぴる震えている耳も、前歯で探り当て、そのまま犬歯で捕獲する。
 けっこうやりたい放題。
 そうこうしてるうちに、また自分から飛び出た、デカイ息。
 はァ、っていう吐息に。水滴になっていきそうなほど、いっぱいいっぱいで、含まれてる湿気。
 ヘキの肌に跳ねかえって、自分の口腔の湿度温度こそを上げていく。
 続けて、は、ふぅ。
 もうアエいでるでしょって位、己の演奏。
 ……ぬクぬク、いくら分身が、滅茶苦茶に気持ちいいからって。
 どーなの。つっこんでる方が、ああんイイッ! って声だしまくりっつーのも?
 ヘキはむしろ、この腕のなか、かなりぐったりとした状態。
 気絶とか、すこしだけ心配になるほどの。
 だけど、素肌と素肌のすきま、生まれ変わりつづける、玉の汗が。まさに生命を主張してる。
 けど、そんなミリほどのすきまを埋めたくて。
 両腕をヘキの背中へ、まわし直し、更にぎっちり抱き寄せる。
 そんで直角に近づいた、ヘキの腹筋。
 すぼまり収まってるのは、オレの赤面した肉塊。
 ……奥、のほうが、カリのあたりだけが、キュウムぅって搾られていって。
 むぅ、ふ。と。
 また、女王様からムチくらったみたいに、鼻の穴から、興奮した息。
 まったくもっていやらしーわね。
 天国みちゃってる。
 つやつやと光はじく黒髪が、目の水晶体に乱反射してる。
 フワリと、ソレに撫でふれてから。
 すがるようにギュッと指につかんだ。頂上こらえて。
 黒はどんな色彩にも勝る。
 七色すべてを含んでる。
 なんども、そう、うっとり打ちのめされている。
 汗があっちこっちに溜まってる、東洋種の肌にも、豊かなその色の気配。
 根元までぎっちりと、納めてもらっている快感も、止むことがない。
 吸いつかれてるような、叱られているような、抱擁されているような。
 もどかしい苦しさと痒さ……混じりの、絶対的に受容されてる、悦楽。
 大の字の姿勢になっているヘキを。
 両腕でもっともっと近く、かかえ直す。
 汗ばんだ鎖骨からは、相手の匂いが強い。
 ふわん、って酔いながら、アゴをかたむけて、かじる。
「……ふ」
 意識が、鮮明に浮上してきたのか。
 はえていることを確認するように、ヘキが、足をみじろがせた。
 すると自然に、力がこめられることになる、腰元。
「んぁ」
 首筋をかじったまま、尖った犬歯が、ピンと前へ突き出てしまった。その微弱な責め苦に反応して。
 ビクン、と、首をすくめる相手。
 波が、なすすべなく。
 高まる方へ同調してゆく。
「ん〜、……ぅ」
 イカれてると思われるだろうけど。
 ヘキに、ヘキを入れさせてあげたい、と思うほど。
 それくらいの、胸の満水。
 まるごと、重なっている。
 ……もー炸裂限界で、震えてる唇を。
 ヘキのひたいにくっつける。
 はむはむ、歩くようについばみながら、小鼻の頂点にたどり着く。
 そこで止まって、ヘキの瞳をのぞきこむ。
 と、犬っぽいまっくろ黒の瞳が。
 ……じわっと柔和に、笑んで、視線に応えてきた。
 穏やかにしめやかに。
 ウルんでいるから。
 キラキラきらきら、黒に。
 色んな、円い光が、たくさん。
 余裕あって笑いかけてくれた、……わけじゃないってわかってあげられる、だって今、とっても。ひとつ、だから。
 体ありったけでの対話。
 また両腕で、閉じこめなおした。監禁しなおし。
 しめった胸板に、やわらかな肌。体位をずらされてピクピクッ、って今、少しくるしそうにうごめいた。
 抱きしめられるだけ腕にした。
 欲ばりに、取りこぼさないように。
 ああ。
 大好きです。

 ◆

「ノウ、ノウ。ついたよ」
 はっ。と。
 よびかけへの反射で、もれた自分の吸引で。
 体内に響いたその空気音で、一挙に意識が覚醒する。
 そして、あわてて唇をしめた。
 ヨダレがたっぷりと、舌まわりに溜まっていた。
 ねばりっ気のない。
 いわゆる『やらしい』ヨダレ。けっこう大量。
 危ねー、もうちょっとでダラダラ、口からこぼれるとこだったっての!
「…………んぁー。よ、く寝た」
 ごくん、飲みこんでから、ごしごし目元をこする。不自然な沈黙をごまかす。
 ……って、うわー、なんかマツゲもしめってるんですけど?
 かんべんしてよ、かっこワルー。
 ――どんだけ煩悩にまみれた夢。見てるんだか。
 あきれながらも、上体を起こす、と。
 ハラリ、胸元から落下する、夏用かけぶとん。
 あれ、ヘキに寝袋状態にかぶせたはずなのに。
 ……ああ、オレが寝てから、ヘキがかけたのねぇ。
 なんだこの思い合い状態。老夫婦かよ。それかアツアツ恋人どうしか? いや、そーなんですけども。
 ちょっと離れた床にあるスニーカーめがけ、つま先をつっこむ。よぉっこいせ、と、ベッドから降りる。地に足がつく。
 旅のブルートレイン過程終了。
 こっからは、バスで海へ、海岸めがけ特攻、と。

 先のことってわからない。
 一九九六年七月二十日まで、海の日はなかったし。
 ほら、九つあった惑星カテゴリィからも、冥王星がリストラされたりね。
 三百年後、サイコロの目がどこに出るか。
 地表面積ひとつ取っても、南太平洋のツバルって国みたく、温暖化でどんどこ海に飲みこまれてなくなってるのか。
 あんがい、大穴いっきなしの氷河期再来、で、海面下がってるかもよ。
 とどのつまりぃ、手さぐりなんだ。
 人のいとなみ、つねに人体実験のくりかえしよ。
 だってソレしかないじゃんか?
 人類って、神様じゃないもんで。
 ごめんね。
「いいよ」
 熱風に髪をゆらされながら。
 お空から電波受信したみたいに、とーとつに呟いた。
 たまに、ザックリと胸が痛い、そんで、打ち消すためにアブナイ人ちっくに独り言グセ。いつのまにやら不可欠。
「――? どしたの?」
 ……いやいや愛らしいお顔で。
 ほとんど黒目の、でっかい瞳。凹凸のないべビィフェイス。てるてるぼうずとか、雪だるまに、ポピュラーに描かれるのに似た、愛され顔。
 特に、こういう問いかけ顔は、まさに子犬。首のかしげ角度は二十五度。くぅん? 聞こえるか聞こえないか程度の、ほのかな鼻ならしとか。ふさふさな三角耳が垂れてるという。しっかりとした幻聴や幻覚まで見えます。
「ん、なんでもなーい」
 そう返事しつつ、寝癖でへし折れているヘキの髪を、ちょいちょいと手グシで直したげた。
 夏の空気にみちみち満たされた、ホーム。
 自分のおでこに浮かんでる汗を、ラッパ袖でぬぐう。
 暑いから。
 列車の外に出たから、冷房ないから、そんで暑いから。
 別に〜、そんだけの汗です。
 なにを求めてるわけでもありません。
 喉が渇いてるのも、呼吸が荒いのも、なんか苦しいのも、すべって気のセイです。
 青函トンネルに続いて――いや続いてない、ぜんぜん続いてない年数おいて、だけど同様に海底にえんえんーっと掘られたトンネル。
 青函は本州と、海と牧場の食べものおいしい、北海道をつないでて。
 今とおってきたのは、本州と沖縄を、らんでぶぅ。
 飛行機つかってカッ飛ぶより、乗り換え的にも、かかる時間的にも、色々便利な面も多いってんで。開通後は、群れ群れする海水浴客やダイバーに、大人気。
 僕らももれなくそれを利用し、やっとやって来ました、到着しました沖縄。
 ……そんな道中。
 とにかくやたらヒワイな夢を見た気がします。わ〜。
 実はあんまり珍しいことでもないんだけどねー。
 チラ、と自分の左側、ちょっとだけこっちより背の低い人、を見る。
 直したげたはずの寝癖が、一個だけ復活して、しぶとく、しなやかに、ピコピコはねている。
 その下は、にっこにこの笑顔。
 ついに沖縄だ〜、楽しみ〜、わくわく〜! な顔。
 あー。
 こんなに純粋な人間の隣に、こんなに不純な僕がいて、なんかもう、スイマセン。
 ……喉かわいたなァ。
 にわかに、やたらに浮かんでくるえり首の汗を、手首でぬぐう。
 指先までかかる袖口は、こんな時に便利っす。
 好きなのにな。
 駅構内をだぁら〜り長く歩く、ガキの行進。バスへの乗り換えに、教師先導な生徒の行列。
 その中、オレの隣。
 初めて来た場所に、きょろきょろしっぱなしの黒目。
 僕らがのるバスあっちだよ? けんとう違いの方向へばっか、目が釘付けになっている。おみやげ物が山積みな売店へ、足が向きかけている、お子様な危険性。
 はぐれちゃうよー? 隣にイナサイ。と、首根っこをつかまえておきたい。
 ワラワラと、大好きです。
 でもねーなんかねー。
 手ぇ出せないんだよねー。
 性的好奇心マンマンな、あるタイプの女の子にだったならば、「オウまだ生理はじまってねーしな! ジャスト! やれるとこまでチャレンジ!」ってガッツポーズ共犯も、アリだったんだけど。低年齢化だどーのな躊躇はいまさらアホらしいしー。
 でもこの。
 わたくしたちの場合、のケースは。
 相手、コレだし。
 ……だからぁ、なんでそんなもんの小山に目ぇ奪われてるの? リスのぬいぐるみなんか沖縄じゃなくってもあるデショ。ん、宣伝ポップが『アマミノクロウサギぬいぐるみ』? リスじゃねーのか、っつうか一応、ここならでは動物なの?
 ――ヘキだしねぇ。
 きっと誘えば、たのめば、断られないだろーけど。
 無理させるのはね〜。
 ほら、わんさかと大好き、なもんで。
 ……愛だわね。

 こんな子どもに育ったヘキを、不思議ーに思うこともあった。
 だってさ、まぁさ。
 父親には捨てられたわけだ?
 ヘキお母さんは、オレも大好き、ああいう人で、なんつーかどう形容したもんか、立派な人なんだけど。
 ある日ぽっかりいなくなった父親は。
 傷になってないわけ? クスリやってぶっとぼうとか思わないわけ? どうして?
 あんまり不可解で、さすがに気ぃ使いながら。手羽の骨をとる作業中、ヘキへ遠まわしに、ツンツンつついてみたら。
 あのセリフ。
『今度は絶対まともに健康な子が欲しい』ってアレ。
 オレを激怒させかけた、燃え上がる前にシュッと『あれコレ可哀想なのこいつじゃん』って消火させた。
 あれはヘキの父親の、遺言。
 遺言ちがう、出て行く直前、最後にヘキに言い残していったもの、らしい。
 ……どんな捨てゼリフで去ってくれんだよ、オッサン。
 ひでーという感想も、もはや出てこねーよ。
 まさか本人に言ったとは。あきれ果てて、口ぽっかー。恋心てつだって、シンプルに、『すっげー悲しい』んだけど。
 でも。
 一拍おけば、ほんの、ほんの少しは。
 わかる気も……するんだな。
 我が子への、最後の、お情け程度に置いてゆく、未練な愛情。

 おまえの父親はまちがいなく最低だった。
 罪はないかわいそうなおまえを捨てた。
 しかし逃げられない。
 おまえとはつまり。
 かわいそうな存在だ。
 ――だから。
 くやしかったら生き延びてみせろ。
 押しつけられたかわいそうを無視してみせろ。
 長く、しぶとく。

 ……ま、そうだったとしたって。
 つきあいきれねぇ、俺は逃げる、でも見殺しにしたって思い悔やむのもイヤだからこんなセリフも残しておく、みたいな。
 透けすけなのは、そんな内心でねぇ。
 捨てて逃げたって罪状は、いっこも減罪されない。
 やっぱりアンタは世界一大っキライ。

 無学歴でもインテリめなガキとしては、知りたかないけど知ってるわけよ。
 障害もった子どもを捨てる親ってのはいること。
 たいていは、どっちかっちゅーと踏んばるの女親で、すたこらするのは男親だってことも。
 あれかしら、根本的な性別論で。女はとどまり子宮ではぐくんで、男はふらつき精子をばらまく論?
 ナンカぼやけすぎ! そんな学問みてーな考え方までいけば、遠いよ。
 それにぃ、盲点。
 両方、双方、すたこらさっさするケースも、まぁありますわな。ううーん、ちょっとデジャウ、こっちはまた近すぎるわ、まるで自分のことのようなデジャウ〜。
『なんてこと言うの子どものくせに! 美しい心で信じなければ、それこそ愛されない、バチがあたりますよ!』
 ……憎まれ口で『夜遊びしてたって勝手でしょ』って反抗して、いつか誰かにそのまんまのこと言われたなぁ、フラついてた繁華街で。紫のネオンに照らされた、口紅が唇からはみ出たおばちゃんだったこと以外、おぼえていない。
 でもね。
 憎まれ口、って思われるほど不信のかたまり、そういう覚悟を決めておかないと。
 折々につけ、切腹。
 ……なみの切胸おっちゃうわけよ。
 いやもう。季節ごと、何かのきっかけごと。
『現実はこうで、残念ながらオレはそれに当てはまり、だから』
『愛されない、愛されないかもしんない、愛されなくてもだいじょうぶ』
 ラララ〜。
 おまじないじゃない、これは、呪いの呪文。
 好きでとなえてるって思ってる?
 こんなドロ色の歌詞を。
 もちろんですとも、強がってる。
 言いきかす『愛されない〜』は、一個一個いちいち、どろどろ胸にたまって、煮つまって、重い苦しい。
 だけどね、ドロは砂になってくれる。
 砂をためこんでくように、胸に『愛されない〜』をご機嫌テンションに、……やけくそテンションに、ためこんでおかないと。
 それで心臓くるんで、守っとかないとね。
 切られた時に。
 血が、ブシャーふき飛ぶ。
 おぉ、死ぬ死ぬ死ねるぜ。
 ガタガタ震えながら、そう何度も自覚、すりゃあ。
 さすがに防衛の方法くらい、いーかげん身についたってコトよ。
 美しい世界を信じたい、汚いものからは目をそむけたい、のはわかる、でもそりゃあ一人でやって、おばちゃん。
 どうやらー――住む世界が違うのだ。
 ……誤解のないように言っとくと。
 そっちのね。
 あんたの世界に当然、生きたかったよ?

 かえすがえすも、
『あ、でも、お母さんはいるよ!』
 なんか真実の匂いだわ。
 あるもので生きていく。
 そんな風かしら?
 だいたいにしてヘキの料理からしてそうだし。あまり物、残り食材、ありがたく活用。
 ないもの、なくなったもの、どーしようもないものは。
 たとえば『ふりかえらない人』の背中は。
 もう見ない。
 だから父親を、ハンパねぇくらいマジにだ、ヘキは思い出していない。
 終了したこと扱い。
 大人の女、大人の男のぉ、人生経験、過去の恋愛経験みたいな〜?
 見習ったらこんなに、どーしようもねぇな的くるしさが減ったワケで。
 うーん。
 折々につけ、惚れ直すわねー。

 親ってむつかしいねぇ。
 そう思うよ、本当。
 自分を生み出した二人、戸籍でつながった二人、でなきゃあ、ただのオッサンとオバサン。
 ああ他人なら。
 ……それが『自分の親』ってだけで、どうしてこうも感情が、深くね、違う?
 親、つまりは人間。
 偉大でもなかったり。
 むしろ家庭内別居に音信不通なまま、イッパイイッパイ風だったり。
 神様でも仏様でもありゃあしない。
 虐待しなきゃオールオッケー、という単純なモンでは、こっちの求めからしてもねぇ、絶対ないし。
 関わり合いかた、って言うの?
 愛情のかけ合いかた、って言うの。
 ボタンかけちがえれば無関心、階段踏みはずせば憎しみあい。
 イヤン。
 うちはなぁ、まー無関心かな、いやどっちかな?
「きみ、ご両親は」
 って何回、補導員やら、エライぶった大人やら、に言われたことか。
 二親ちゃんといるのになんでこんな子に? そういうまなざしにも慣れたなぁ。
 多分、オレが悪いんではない、んだけど。
 と、思いこみたいわけだけれど。

 ひどいのかな、とたまに思う。
 ずっと一緒だよって、おでこをくっつけあって、囁いて囁き返して。
 それで、くっついたまんまでいられるように、でこがズレていかないように。
 肩に力をこめて、おさえた忍び笑い、した。
 いつまでも、いつ想っても、奇跡みたいにオレンジ色な記憶。
 そこから。
 置いていかれる気持ちってわからないんだ。
 たぶん置いていくことしか経験しないと思うから。

 最初は、目的も意志もなく、ついた嘘だった。
 目ぇきれいだもんね、って。
 舌まわってないその言い方に、聞き惚れてたってのもぉ、あるし。
 次の頭の回転も、きれいかしら? 常に光がまぶしいし、うっとうしいだけなんだけどね、でも汚いって評価よりはそうね、素直に嬉しいかな、とかテレテレ方向に頭が回っちゃったり。
 聞いてなかったよタイミング寸前になって。
 やっと、とっさで、かえした返事。
「あ、うんうん」
 なんとなく、知ってる、なじんでる病気の方が、いいかなー、とか。
 友達になりやすいかな、とか、話し合わせやすいかな、とか。
 ホラたいがい、みっちり説明すると引かれるしぃ、とか。
 そんな程度の。

 ところで、紫外線って基本的に、放射能と一緒で、人体をブッ壊すパワーがあるのごぞんじ?
「こわされたことないよー」
 って言うあなた、日焼けしたことないんですね。
 ……ある?
 あんた、そりゃもぉ、犯られてるよ。
 細胞というものが一個一個かならず持っている核、その中の染色体であるDNA、遺伝子――
 が、破壊された、っていう証拠なんざます。
「でもたかだか、体のホンの一部な細胞の遺伝子が狂ったからって、なにが問題?」
 とか思っちゃうでしょ。
 でも人間の細胞って、けっこう日々、子どもうんでるようなもんなんだな。
 新陳代謝とか、成長とか、そーいうのしてるからね。
『体細胞分裂』読んで字のごとくで、わかりやすいでしょ。
 まず始めにありきは、一個の細胞。
 その中の核、○に入ってる四つの染色体にワレメが入っていって、そのワレメを左右に引き裂き、壁でチョン切り。二個の細胞に増えたよーん。
 この作業、生きてる限り、人体で常におこなわれ。
 日焼けでの損傷が治らないまま、体細胞分裂、明日を迎えたなら。
 誤ったままの細胞が、つまり。
 二個になる計算ですから。
 それが修復できないまま、また増えて、また増えて、また増えちゃったりして……。
 それが、ガンという最凶の異常を呼びよせるってゆー。
 ね、ダメじゃん?

 ガンって誰がつけた名称なんだろねー。
 いかにも生命力ある異常細胞、って響きじゃね?
 そのままモロモロと、体がはじから。
 そう、滅びてゆきそう。
 でも大丈夫!
 紫外線からなりうるガンに関しちゃね、まず大丈夫。
 われわれ人体には、太古の昔から進化してきた、
「紫外線で損傷したところを治す機能」
 があるのでーす。
 だてに紫外線の下で、駆けずりまわって食って糞してセックスしてガキ産んでエンドレス、のサイクルばっか、くりかえしてきたわけじゃねぇぜ。
 で、苦々しーことに。ヘキの病気、XPってのは。
 その大事な機能が、絶対的に不足している病気で。
 なもんで、十分な健康管理が必要なんだぁ、紫外線防護クリームぬりたくって日光さけて生活しててもね。
 ……ちなみに、XPは、多彩に「郡」――タイプ、がありまして。
 最重度と最軽度、では、まるきり違う。
 最軽度ってのは、ちょうど、ヘキ程度。
 紫外線にだけ慎重になってれば、その他の神経症状とかまず縁なし。
 労働だっておっけーさ。
 手足動かすことすら困難な最重度とは、まるで、まるきり違う病気。

 ……ところで。
 このXPの定義も、最近、ゆらいできてるんだけどねー。
 ホラ、新種な病気もぽこぽこ、芽生えてきてるからさ〜?
「これどこの病気カテゴリーに入れるのっ? どこっ? ドコ! とりあえず放置っ」
 ってヒステリックにほっとかれ状態の病気も、あるわけさぁ〜。
 ひょっとしたら、XPの最重度はこっちなのかも、って雰囲気の、新種の病気もある。
 神経症状とかはほぼ無くって、一見、元気なんだけどー。短命なんでそのへんのポイントで。
 どんな病気かってゆーと、なんつーの、一言であらわすなら、
「紫外線を浴びないこと前提で生まれてくる」
 みたいな体。
 太陽光を浴びない深海に生まれてくるように、ごっそりその辺の防衛機能、治癒機能が『欠如』している。
 さっきの損傷修復機能オフ。メラニン生成機能もほとんどオフあるいは零で、体の色素もすっごく無いかんじあるいは零で産まれてくる。
 だから外観は、そうねぇ……。
 アルビノ、とかに。そっくり。
 ほおぉ。

 というわけで、その病気の人って、物心ついた頃から、存在するのは。
 紫外線零で薄闇、な空間。
 メラニン色素ほとんどないまぶしがりーな瞳に優しくレスな照明、さらに、まぶしがりなもんだから光源はわずか。
 んで、外出して紫外線いっさい浴びずって難しいので、パソコンなどで好き勝手に自宅学習。
 だから妙に知識がかたよっていたりする、知りたいと思ったことしか、勉強しないから。
 家庭教師ってかベビーシッターみたいなのがいた頃もあったけど。
 地味な服で化粧が薄くてアクセサリーが嫌いな人は、毎日泣き出すようになり、しまいには悲しそうな目で去り。
 だんだん派手な服になり化粧が濃くなりアクセサリーを痛そうなほどつけだした人は、どれだけ家計から横領したんだかー、強制的にクビで去り。
 つらいかねぇ?
 淡い淡いブルーの瞳にあわせて、薄闇のなか。
 せんこう花火みたいな寿命の子どもと、二人きり顔つきあわせて、ひがな一日過ごすのは。
 ノイローゼになったり、買い物依存症になったりする位?
 一緒にクスリでもやれば良かったかねー?
 って、その頃にはそんなこと、考えもつかなかったんだけどさ。
「なんか疲れるから、もういらない」
 と親へ電話で伝えてみたら、誰も『付き人』としては雇われなくなった。
 そしたらもー、びっくりするくらい、口を会話で活用しねぇのなぁ。
 親御さんとはまったく会いませんもの。お仕事いそがしいんですって。
 没頭は、いいわけであり、真実でもある。

 たとえば豪邸の私室のまんなか。
 決して虐待ではない、ことは、判断できる。
 必要だから、仕方ないから。
 もっといえばアナタ自身のため、の監禁状態。
 けど、色無い目をこらすようにして、考えに没頭してると。別の判断も見えてくる。
 誰も会いにこない。
 誰にも目撃されない。
 ここは疑うことなく牢獄だ。

 ……これは、植物人間の生命維持装置を「はずす、はずさない」という問題に酷似。
 ソンゲンってやつですね。
 ……まるで「好きにしなさい、できる方にしなさい」そんな感じに。
 ドアに。鍵は。かけられてなかったから。
「そうします」って駆け出してみたよ。
 とりあえず手始めは、学校とかいうものに。
 すぐに飽きて、夜の街に。
 たぶん、かまってもらいたい人は。
 愛してもらいたかった人は。
 最初は決まってた、たった二人に、ターゲットされてたけど。
 まぁ、避けられたけど。

 愛がない、というのとは、チョイ違うんではないかと思ってる。
 いわばその前段階?
 このさい前戯でもいいよー。んん〜シモはいらない? 失礼しました。
 カンもいいつもり、頭もいいつもり、の子どもだよ。
 愛してよ、とストレートに言えないのは。
 そこに由来するんだな。
 気を引くようなマネ、っぽいマネは、微妙にしてみれててもさ。
 愛すかいがないっての?
 むしろ愛する根性? 労力? はらえないっていうか。
 来年には死んでるかも。
『情が移るとツライから』みたく?
 えええーそれって、飼おうかどうか迷ってるペットに向けた、対ペット用語、じゃん。
 一粒種の息子に向ける態度としてはちょっと、どうなのか、と。
 愛すのが怖いって?
 それは我儘ですよ、臆病ですよ、って。
 言えたらな。なんにも理解できないまったく賢くない子どもみたく。

 たとえば、どれだけ綺麗で、模様くっきりで、大ぶりでも。
 虫の寿命を持つ、アゲハ蝶。
 ペットとして愛するのさえ、ちょい、むつかしい。

 虫の寿命。
 でも、今、生きてるんだけどなー。
 まだ生きて、るんだけどなー。
 ナー。
 うん。

 ◆

 キャア、って一山、車内で高い声があがった。
 つられて目をやるバスの窓。のぞめる海岸線。
 夕焼けを終えた空。
 それに従う、もっと濃い色の海。
 夜の開始色。
 ヘキに、隣の座席に、目を転じると。
 がっくり首が、痛そうなくらい折れ曲がって、頭が落ちている。子どもな寝姿。
 ……こんな『正統派』な子どもがワラワラと訪れる今夜。
 悪影響を与えぬため、ビーチは一般人立ち入り禁止。
 サカってるカップルさぁん、海岸で砂まみれ子作り、をシャレこんではいけませんよぅ、っつう、国家規模のおたっし。
「そんでもヤロう!」
 とヌーディストビーチプレイに、まぎれこんできても、つまみだしが許可されている日。
 よいしょっと、窓をスライドする。
 細く開けた窓から、ふわーっと風が入ってくる。冷房きいた空調に混じる、自然の暑い空気。前髪をぶわぶわと散らす、ちょっと爽快。窓枠に頬づえついて堪能。

 セックス、ファック、性行為、ねぇ。
 したいとは思っているんだけども。
 飢えて……も、いるんだけども。
 君がしたくなるまでは待ちたいかなー、とか。
 アレ、甘いような?
 らしくもなく、お人よしなような?
 でも。
 感情も、快感も。
 ましてや合意もなくったって、ギョンってとんがった性器がどっちか一方にあれば、交われるって。
 そんなことばっかは知ってるんで。
 そんなのが究極形態じゃないだろう、って、夢とかもまだ持ってるんだけど。

 容姿がいい、ってのは、すぐに知ることができました。
 綺麗系お姉さまに、『本気でチョットつまみ食い、かじっちゃおうかな』的眼光だされながら、指先でなぞられたりとかねェ。
 まぁ不愉快ではなかった。
 しかも便利だった。
 意外に、同性の友人を、作る時にもね。
 恋愛感情に近いファーストインパクトが、運命的な友情にすりかわって知覚される。
 金とともに武器にしてきた、この、顔や体〜。
 そんなこんなで。
 なんかねぇ、処女じゃないような気がすんのよ。
 いやね、自分のケツ穴が。
 ――正直、あんだけ金ばらまきつつ、安全性とか考えないで夜に遊んでたんだから。
 それまで暴力ザタから無事だったのも、まぁ奇跡っちゃあ奇跡だった……。わね。
 短期間でむさぼるよーに集めた『遊び仲間』が強制解散くらって。
 そんでも他にしたいこともなく、夜、歩いて。
 クスリ増量キャンペーン中だったんで、記憶なく迎えた朝。
 まだクスリ残ってたんで、痛み麻痺、『ナニコレぇーひりぴり!』ってへらへら、ひとしきり笑って。
 ほどなく『うぉおおイテェ!』ってのたうちまわって、ギリギリ歯をすりへらした。
 ……いや、失敗、失敗。
 ラリリすぎて記憶さっぱり。
 相手どころか場所の記憶もない。
 さすがにグッタリ、ベッドにうつぶせで、世の中が怖いよぅって引きこもった。
 ――馬鹿じゃねぇの?
 自分をののしる一言、でもなぐさめてくれる人がいなきゃあ、あっさり床に落下して消滅。サヨウナラー。
 ぼんやりと、トイレタイルに投影されてる、大きい影。
 規則正しく、速く動く、つかめない像。
 大人年齢ではあったんだろうけどね――。ああコイツは今、トイレ個室に持っていって後ろからつっこんでガツガツンしても、朦朧としてるから抵抗しねぇなって推測できる観察目もった。んで白人種系の色白が好きなヤツ。
 まぁね、当方、全身においてメラニン色素が品薄すぎで……ちんこも赤いだけで黒ずみオフで真っ白よ、驚いた?……好かった?
 おかげで、背後から肩叩かれたり捕まれたりすんのは、なにげに地味に、苦手です。
 そんなわけで屋台のお得意さん、オレとヘキにいつも飴玉くれよーとするおっさんよぅ、常にぎこちない態度で接してしまうのは、嫌いなわけではないのよ。頼むから背後から肩つかまないでくれ。
 あーあもぅ、トラウマも心的外傷も、ちっとも『来年からブレイク、流行のきざし!』じゃないのにねぇ。おそー。
 ……まぁ。
 荒れてた、っつーことで。
 性病はもらってないみたいだしさぁ、コレってほら……なんつったっけ。
 おんのじ、だっけ?
 男の特徴ほとんど出ていない児童な体は、性差レスで、ようするに似たようなもん、で、幼女愛好な変態に受けがいいらしいよー。
 おーい。ねー。聞いてるー?
 ……なにも自分の体はって、アンケート取って、ソンナコト分析しなくったっていいんじゃねぇのぉ。
 昔の自分の、肩、生ぬるくポフポフ叩いてやりたい気持ちで、いっぱいだけど。
 ……夜の街でしか気をまぎらわせることができなかったから、こんな事故も、しょーがないっちゃあしょーがなかったんだけど。
 だから今度こそさー、夜の街ウロついて楽しみ探すのよしたら、って話なんだけど。
 だって涙、止まんないし。
 このまま広い家の、ほとんど唯一機能している一室で、気ぃとか狂っていくのかなぁ、と。
 淋しいよさびしいよサビシイはどういう意味の感情だっけ? って見失っちゃうくらい塗りつぶしだよって。
 日光にあたんなくったって、身体のりんかく、失せていくみたいだよって。
 ……んで、外傷が癒えたら、また出て行くわけだ、頻度ひかえめにしながらも。
 ヘキに会うその晩までフラフラフラフラあてはなく。
 やっぱあの頃は。
 他に居場所ったら、見つけらんなかったワケで。

 ◆

 このサラサラな白浜こそが、海の日の、開始地点。
 正念場、生本番!
 アヤウイな、って一人、眉をしかめる夜明けも。のり越えてきちゃいましたよ。
 自分で勝手に立てた、誓いどおりにね!
 海にはいる前、事前の注意をちょうだいする集会中。
 すでに海パンいっちょう、で、半袖パーカーはおってる。だいたい周りの皆とおそろいの格好。
 そのなか、一人で先陣きって、準備体操、開始するように。
 手首もちあげたり、かかとピョンコともちあげたりして、腕や脚をチェックする。
『オトコの急所』以外の、モロ肌むいた場所を、入念に見ておく。
 朝、日焼け止めクリームのあとに、のせた肌色クリーム。
 さすがハリウッドご謹製、特殊メイクの最高峰を何百年やってりゃ気がすむのか知らないけど、さすがぁな技術だわ。
 ポイントカバーメイクに愛用してる、夜稼業な女性が多い〜のもうなずけるわね。
 セメントみたいに固まって、皮膚とがっちりと癒着。
 ゴムのよーな伸縮性もあるため、肌と同じく、皺よったり伸びたり。
 そんで、専用の溶剤ちっくなクリームでなければ剥がせない。
 トイレで背後からブッこまれるだけ程度のセックスなら、気がつかせないことができるほど、高品質ってかあ! そのぶん高額ですけどねー。
 シミどころかほくろを消せるくらいだもの。
 きっちり、しこり、赤みといった、皮膚異常をごまかしてくれてる。
 ま〜、少ぉし不自然、明るい日光の下なら、ちょい厳しいかもしんないけど。
 薄闇の海水浴で。
 愛しい可愛いボケ素直子ちゃん、騙すくらいなら、どんとこいなんだわ。
 準備体操をへて、携帯電話をめしあげられました。ヤーネ返してよ。まぁ今日はいらんけどさぁ。
 そののち、心臓、脈拍、体温を、現在位置と共に電波でとばす――病院まっ青のリアルタイム測定な医療機器を、ぺたぺた全身にくっつけられる、生徒全員。暴れても取れない強さで。
 なぜならば、夜間照明は激し〜くつけているけど、それにしたって夜のビーチ。
 視界が悪いので、異常が生じた場合はすぐに駆けつけられるように、の防衛策。
 プールとさほど変わんないほど、網で限定にかこった区域でしか泳がせないくせに、過保護だわぁ。ま、保護者からの訴訟沙汰になったらマッズイしねー。
 そんでさらにぃ念のため、な、うきわの強制配布を受ける。
 この『海の日』のために、ここんとこ短期集中で水泳訓練したのにさぁ。付け焼刃な実力はアテにできませんかーそりゃそうだ?
 ……で、ようやく好き勝手に散会することが許される。
 やれやれ、やっとヘキと再会できるのだわ。
 シュカッ、と砂を踏みしめ、跳ねるように一歩め、駆けだす。
 まちあわせは、集会前のさっき決めた、ひときわ目を引くでかいヤシの木の根もと。
「あんま危ないことすんなよー!」
 羽はえたよーに飛んでいくオレに向かって、担任が大声をかけてくる。
 左腕に抱えたうきわに回転を妨害されながら、も、
「わぁーかってるって、ジイ!」
 ちょっとターンして、お返事。
「じいっ? 爺ってなんだ!」
 と憤慨する声が響いてくる。
 小学生と若さ比べするなってのー、大人げないぜ。
「おつきの執事イメージっ?」
 広い空間をもつ、砂浜の暗闇に、カンと高く抜ける自分の声。
「この、クソおぼっちゃんがぁ!」
 と、地団太を踏んで、真実ではある罵詈雑言、投げてくる。
 んー、でも、健康は金では買えないぜ?
 おまえのソノ健康くれるってのなら、今年、一部上場ほやほや上昇気流な父母の会社もポイッ、ってあげるってもんだぜ。
 ……とは、冗談じゃあ流せないッポイから、言い返さないけど。
 若い教師は発言に配慮がなくてイカンねー。
 だけどね、この教師、嫌いじゃないのぉ。
 特殊な学級を担当することになって、どう接したらいいのか迷いに迷ったあげく。
 普通の子どもに接するのとなんーら変わらない態度に、なんとか落ち着けた。ってのが透けて見えるから。
 ああ、あんたいい人なんだね、みたいな。
 ハレ物あつかうよーにされても正直、遠ざかりあう関係になるだけだしさ。
 かと言って、明るく希望もって生きろって、むりに熱血指導されても困る、もともと熱血ないんで。わりと最近まで死にたくない理由もなかったのよー?
 わかんないならわかんないなりに、いたって普通の態度ですごす。
 そんなに悲しくない子どもなふりで通ってくる子どもとかと。
 そんなに悲しくない宿命にあるの見守る感じで。
 舞台って、演技って、仮想世界って、もしかしたら言うのかしら。
 逃げかしら?
 ダメかしら?
 言わなきゃいけないんだろう事、伝えないのも。
 やっぱ、最低男?
 まぁ、どれでも……良いわね。
 心配しなくても、言えないまま、こーやって悩んでるうちに、終わる。

 さく、さく、ざくっ!
 と、足の裏に砂が吸いついてくる。くっついてくる。
 細かい、さらさらの、気持ちいい砂だ。こんな足ざわり、始めてで。
 堪能しながらダッシュダッシュ。
「ヘーキ!」
 ヤシの木の下。
 たいくつそうに海見ながら、自分を待っててくれている。
 顔こっち上げて、ぱっと笑顔になる。
 黒いから目立つ、遠くからでもわかる、わかりやすく細まる目。
 チューリップとかぁ、すずらんとか、桜一個とか。
 とにかくあんま複雑にごちゃごちゃしてない、シンプルな花イメージの笑顔ですよ。真っ向勝負でかわいいの。
 つられて自分も、いっそう、笑っていくのがわかる。
 見たことないけど、多分イイ顔してんじゃないかな、我ながらヘキといると。
 そんな、でろりとトロけた笑顔を、集中攻撃に向けて。
 手を、大事ーに取る。

 今日はとっても楽しみにしてた日。
 七月のだい三週目の月ようび。
 その日ね、オレは幸せなんだって、予想してたよ。
 くりかえしくりかえし。
 思っては。一人でブキミーに、ふふって微笑しちゃいながら、思ってたよ。
 空は晴れだろう、夜でもね。
 海はブルーに澄んでるでしょう、見えないからあんま関係ないけど。
 子どもたちもはしゃいでるだろう、一生一度の海水浴でもね。
 君は笑顔をいっぱい見せてくれる、いつかは何かで、悲しんで涙することがあったとしても。
 それは楽園って言うだろう。
 ……観光地のメジャーな宣伝文句すぎて、恥ズ、口にはできない、けど、ね?

 覚えててくれるかしら、この日を。
 学校が休みじゃなけりゃ気にもしない意義がぼやけた記念日。
 シンプルな名前すぎてつっこみどころがない祝日。
 引率のせんせぇはビキニ美女でもねぇヒゲがもさくてウルサイ男。
 いまどき海外ですらないシケた国内観光地の海。
 空も海も砂浜も森もウツクシクともほとんど意味がない闇。
 おまけに実は聞き慣れない潮騒がちょびっと恐怖。
 ――小学五年生の、海の日を。
 いっしょにいたこと、にこにこしていたこと、あたたかかったこと、やわらかだったこと、だいすきだったこと。
 オレが幸せだったことを。

 ハッ、ハッ。
 荒い自分の息、みみざわり。下がったアゴ。
 ちょっと本気で駆けすぎちゃった。
 だってもー、浮かれてるんだもん、最強に!
 ……だけど――脳内麻薬ですぎで、油断しまくっていたらしい。
 息切れに引きずられるように、ずるずる、うずくまってしまった。
 うわわわぁって感じに痛い……からだのあっちこっちが。蟲に、暗黒に食いちぎられてってる感じ。
 いやあねぇ、きちゃったよ、きちゃったよ。効果切れちゃったくさいよ。
 頭を占領する、すでに命綱な、白い錠剤。
 こんだけ愛し求めてんだから、勝手に口に入ってきてほしいもんだ。
 ポケットにはあんだから。
 ポケットから口、距離としては一メートルもないけどさ。
 あやしいじゃない、とても飲めない。
 できるだけ量、ひかえないと、どんどん効きが弱くなっていくとはいえ。
 さっきの集会中に、ヘキと離れた間にさ。飲んどくべきだったわぁーあ!
 どうでもいーような刹那な快楽、カラオケボックスな集いでは、あれだけバンバン入れてたくせに――
 クリーム厚ぬりしてサングラス装備でも、ありえない超リスク、日中に出歩きまくるという愚行おかして。
 そんで総合病院前の公園で、生まれたて赤ん坊と、それを腕にした退院の新米お母さんと、その夫と、さらに祖父母という『完璧幸福な家族』を、ウッカリ目にしちゃったりして。
 鬱ぎみを深刻にしつつ、足、棒にして、医者めぐりして、
「他の病院にはかかってないです本当よ? 痛くて痛くてしかたがないの、センセェ、鎮痛剤いっぱいちょうだい」
 ってイイコぶって、処方箋によって調剤薬局でという超ー正規ルートで。
 しかもどっかで『重複して薬を受けとりまくってる』チェックにひっかかるとまずいから、保険使用しないで大金ばらまいて。
 そやって。
 ガン末期患者用の。
 ドラッグ転用できる鎮痛薬あつめまわって。
 ――そんな気ばらししてたくせに。
 いまさらケチってるのは滑稽だって笑う?
 笑っちゃえ! もー、オレも笑うよ!
 自分の目の前が、柔らかく、一段濃い闇にかげった。
 腰を落として、膝に手をついて。
 ヘキにのぞきこまれてる。
「だいじょうぶ?」
 心配げな、不安げな。
 理由わかってない、なんにもカンづいてはいない、けなげな声。
 うーん知らせたくないわねぇ、普通に知らせたくないわねぇ。
 土下座してでも、靴なめてでも、キャインキャインって犬の真似して尾を巻いてでも、死んでもだよ、知らせたくないッつうのねぇ!
 強引に『えくぼ』つくって、顔あげる。
 そんでヘキの顔、見上げると、なんと、食いしばった奥歯がゆるんだ。条件反射……いやもう、好き好き。
「ちっと疲れちったー。先、行ってて?」
 きょとん、と。
 鼻先で何かがはじけたような、意外そうな顔をした後。
 ……ヘキは首を、一回、左右して拒否する。あたりまえに。
 たしなめるように。わざとらっしーくらいの苦笑に、して見せて、
「すぐ追いかけるかんさ」
 って、たたみかける。
「一生でもう、今日しかないんだからさ、海なんかで泳げるの。一瞬ももらさず、チャンと楽しんできなって」
 ぱっちん、大きな黒目でまばたきして。
 後ろ――地球の面積ほとんどを占める海、首ひねって見つめて。
 ちょっと考えて、こくん。
 ヨイ子、イイ子。
 開きっぱなしがしんどくなっていく目に、スローに映る。白い砂塵まきあげて、踵をかえす足。
 ダッサダサの体育座り、よいこみたいなポーズで見送る。
 ……波の前で、パッ、って体全体で、振り返った。
 うきわ抱えていない右腕、一直線に天にふり上げて。
 その動作で大きく開いた脇の下、そんでまくりあがった裾から、入る潮風、上着のパーカーがぷわぁっと膨らんだ。幼稚園児がかぶってる桃色や水色のスモックふう。
 そんなシルエットがずぅっと崩れないくらい、たくさん、大きく、腕をふってくる。
 恥ずいから苦笑いのフリの、内心は超笑顔で、ひらひら指をふりかえす。

 夜のヤシの木をゆらしながら流れていく、磯の匂いのする風が、汗ばんだえりあしの毛を乾かしてゆくので、気持ちがいい。
 まだ全開微笑みビームな君。幼児チックに丸い頬がイトオシイ。細められた黒目がちな優しい瞳がすごくイイ。さっき直してあげたはずの寝癖が復活してヤガル。
 君が悲しむのがイヤだから、つき続けてるウソじゃない。
 大好きな君の、輝いちゃってる笑顔が、こんなにも大好物。
 オレを見て笑う時、それが一点でも曇るようになっちゃったらイヤだから、つき続けてるウソです。
 悪い男だって、泣きますか。

 一九九六年七月二十日まで、海の日はなかったんだって。知ってた?