「……ぁあ、セミがよーさんこと、鳴いとるわあ」
 奥島が、裸のままあぐらをかき、窓の方に顔を向けて、だるそうにそうつぶやくのを、高木は布団に顔を押しつけたまま聞いていた。
 ――八月の終わりぐらいの暑さって、夏、真っ盛りの暑さとは、少しちゃう気がする。
 なんや、最後の執念、みたいな、こっちが疲れ果ててぶっ倒れてもうて、取りこまれてまうまで、ただただ執拗にまとわりついてくるような感じがするんやよなァ……。
 そう思いながら、うつぶせにころがる高木の鎖骨の上を、小気味がいいほど、つるつると汗が滑り、シーツに一滴、また一滴としみこんでいった。
 むきだしの背中にも空気中の嫌というほどの熱気と、カーテンを通り抜けてくる日光が当たり、汗がふきでる。
 胸や腹んとこの汗は、どんどん布団に吸い込まれていってるんやろな、と、高木は思った。
 ……こうしていれば、さほど汗だくでいる不快感はないが、だらだらと寝ころがっているうちにシーツはどんどん汚れていく。
 ――どうせ、奥島は今日も飯を作るんやろから、この汚れたシーツを洗うのはおれなんやろな、せやったら景気よく汚さんほうがええな……。
 考えるでもなくぼんやりとそんなことを思いながら、結局、身体がだるくて身じろぎもしないまま、高木は、率直な願望をつぶやいた。
「……来年こそエアコン買ぃいや」
 奥島は腕を伸ばし、机の上のタバコとライターを掴んで、慣れきったすばやい手つきで火をつけた所だった。
 タバコの煙を、眉間に深い皺を刻みながら吸いこみ、さもうまそうな表情ではきだす。
 奥島のはいた煙は、薄い密度になって広がり、部屋を満たしていった。
「いらへんよ。そないなもん」
 平然と、そう言い捨てた奥島に。
 高木はようやく腕を組んで上体を起こし、抗議の目を向けた。
「なんでェよ。こないに暑いのに、いらんわけが」
 奥島は無表情な目で、じっと高木の顔を見つめた。
 多少の怒りといらだちのこもった、高木のアーモンド型の、勝ち気な瞳は、奥島の最も好きな高木の表情の一つだった。
「そんなもん買うてたら、すぐに銭なん、逃げよんねん。貯金しとくのが、一番ええんや」
 高木は、奥島の目を睨んだ。
 奥島の、男前に整った顔立ちの中にある、陰湿そうな目。
 その黒目の部分は、黒過ぎるほど真っ黒な色をしている。
 ……怒っているのに、その純粋な黒を見ると、つい、心の一部が素直に見とれ始めてしまう。
 高木はそんな自分に、いつも腹が立ってくるのだった。
「……あいかわらず、ケッチくさい男やのぉ。おれがいややー、ゆうてんねんから、来年は買え」
 一方的に、柔らかくタンカを切って、高木はまた布団に顔をうずめた。
 ――そりゃ、ホンマは、あっついぼろアパートで、汗をだらだら流しもってセックスすんのは嫌いやないし、終わった後すっ裸でこうやって、だらしなくシーツにくっついてんのも、貧乏くさぁても嫌いちゃうけど。せやけどおれの部屋には、去年おれが買うたエアコンがちゃんとあんねんから、ここはビシッとゆうとかなあかん。
 高木はそんなことを考えながら、しばらくふてくされていた。
 奥島は、タバコを吸いながら、高木の後頭部、金に近いほどの茶髪を見ていた。もともとが天然パーマなせいもあって、毛先があっちこっちの方向へ、愉快にはねて、乱れている。
 奥島は、一見、冷静に見える表情のまま、這うような視線を、そのまま高木の日焼けした丸い肩や、ぽっこりとした尻に、ねっとりと注ぐ。
 高木が、奥島の視線を感じたのか、ぴくっと身じろぎした。
 再び、ひじで上半身を起こし、奥島の顔を見上げてくる。
 その瞳の表情に、さきほどの勝気さはなく、もうおだやかに落ち着いていた。
 それどころかわずかに怯えたような色すらにじんでいて、頼りなげに奥島の目に映る。
 ――集まってきたな。
 胸中でそう独語して、奥島は、高木の目の前であぐらをといて、足を広げながら言った。
「暑いんは、熱うなればなおるんやで。知ってるやろ」
 高木は、目前にさらされた、血液を集めだした奥島の雄の部分をちらっと見て、ぼんやりと奥島の目に視線を合わせてきた。
 奥島は悠然とタバコをもみ消して、
「ちょお、口、つかってぇや、タカキ」
 視線を己の下腹に移しながら、軽くあごをしゃくる。
「…………」
 高木は、しばらく意味を把握していない瞳で、ただぽーっと奥島を、見返してきていたが。
 突然、ぱっと膝立ちになり、奥島の肉棒を、ほとんどひったくるように掴んできた。
 その元気のよすぎる行動にも、奥島は驚かない。
 よくも悪くも、知り尽くしている相手だ。その躯の感度も。攻勢に出てくる時のやり方も。
「……んぁ」
 高木は首をねじり、奥島の血流に隆起しはじめた物体の、側面を、犬歯を使って、かぷ、かぷ、とコミカルな音がつきそうな様子で、甘くかんできた。
 じゃれるような導入をするのも、高木のいつもの態度だった。
「……か、…………くは」
 一通りそうしてから、まるで飽きたように、いったん口元から、奥島自身を離す。
 そうして、反応をおもしろがるように、しげしげと眺めてから。
 両手で根元を持ったまま、ぺた。と片頬にくっつける。
 熱と、硬さを。吐き出したいというおたけびを、確かめるかのように。
 ほとんど閉じそうに細まった眼で、奥島はそれを眺めながら。あがってきた息を、ひとつ、短い溜息で、逃がした。
「ええかげん……っ。口ン中!」
 じゃれあいを楽しむ気持ちを心の隅に残したままで。
 それでも切実な欲求に、奥島が眉をしかめて、そう怒鳴ると。
 にま。と、高木は、じらすように瞳を細くして笑い。
 そして邪魔だったのか、自分の前髪を左手のてのひらで、いっぺんかきあげてから、おもむろに。
 身をかがめるようにして、掴んだままの肉棒を、自分の唇の内側へ、招きいれた。
 じゅぶり、と唾液の音を響かせて。

 ◆

 高木と同居しはじめたんは、高校卒業して、就職した、十八の春やった。
 最初は、高木も、俺とおんなし印刷所に勤めとったから、俺らはそれこそ四六時中、一緒におった。
 仕事はきつかったし、給料かてまさに雀の涙、っちゅうやつやったけど。
 いつでも人わたりがうまぁて、人気が出る高木を、独占できる毎日は、今までのどんな時期より、気持ち的に楽やった。
 せやのに、高木は、
『おまえ、昔っから、変で重ったらしいヤツやとは思おとったけど……。こんだけ一緒におったらホンマ、…………染められてまいそぉやな』
 そう言い出すようになりよって。
 夏のある日、最後に俺の昔っからの願いをかなえたと同時に、ここから逃げ出しよった。ご丁寧に、共通の職場からも、退社して。
 ……それからも、しょっちゅう、ここに来てくれはするし。セックスの相手もしてくれはすんねんけど。
 そんでも、わかる。一緒に暮らすか、セックスさすか、どっちかしか許す気になれへん、って段階で、アホやってそれはわかる。
 高木は俺だけを選んで生きる気ぃは、ない。
 俺は。その気ィしか、ないのに。
 ――そう自覚する瞬間、いっつも、取り残されたガキの気分に襲われる。
 ただこねるみたいに、わあわあ大口開けてムチャクチャにわめきとうなって、高木が憎ぅなる。
 ……いや、ちゃうか、なんで高木と俺は他人なんや、別々なんや、そんなふうに思えて。
 いっそ一個の人間やったらよかったと、本気で願ってしまうんや。

 初めてそんな風に願ったんは、小学校三年の時やった。
 俺と高木は、同じアパート内に住んどった。俺が住んどったアパートに、高木がおばちゃんと越してきたんが、小一の春やったから、高木とつるむようになって三度目の夏やった。
 その年の夏は、いつもの夏とはちょお違て、俺たちの面倒を主に見とった、うちのおかんが、軽井沢のペンションに、ひと夏働きに行ってもうたから、ほんまにどっこにも連れてってもらえへん、ヒマな夏やった。
 おまけにうちの父親は、小遣いなんかようくれへんかったから、俺ら二人は親からせびりとれる小遣いが半分になってもうて、いつもより、より貧乏やった。
 そんなんやったから、学校のプールに行った帰りに、アイスを買う金くらいしかなくて、自分らでちょお遠出する金もなかったし、クワガタとりには三日であきるし、むちゃくちゃヒマやった。
 そんな時に、
「よお、自分らヒマそうやなぁ、一緒に遊ぼか」
 って声かけてきたんが、あのおっさんやった。
 ようその辺におるような、子ども好きのおっさんで。いつも酒、入っとるみたいな赤ら顔して、ガタイもでかぁて、……ちょおあやしげなおっさんやった。
 ほんで、なんの仕事しとったんか、最後までわからんかったけど、とにかく、いっつもアパートにおった。
 あないな1DKの、ぼろアパートに住んどったぐらいやから、絶対、金持ちやなかったはずやけど、俺らには、毎日のように、いろんなモンを買うてくれた。……まあガキの欲しがるモンや、かき氷とか、黄緑色のプラッチックの水鉄砲とか、百円、二百円のモンばっかやったけど。
 そんな気のええおっさんやったから、高木はごっつなついてた。
 ……せやけど俺は、八月の最初ぐらいからやったか、急に、おっさんが嫌になり始めた。もともと、俺は人見知り激しいて、友達もごっつ少ない、ちゅうタイプやから、あんなおっさんと一箇月近くつるんでられたことのほうが、俺にしては異常なことやったんや。
 俺があのおっさんから離れると、高木は、なんでや、って聞いたけど、そんなん、あの笑顔がなんや、きも悪いとか、頭撫でられんのがいややとか、言葉では説明せられへんような、断片的な、理屈でない『なんとなく』ちゅう感情やったから、俺はうまく高木に言われへんかった。
 そんな俺を困ったように見て、結局高木は、一人であのおっさんのとこに行くようになった。最初のうちは、朝、俺を誘いに来とったけど、俺が絶対行かんから、そのうちそれものうなった。
 ……あんなことは、後にも先にもあれっきりやった。どんなに他の奴と、親しくつるむようになった時にも、高木はいつも、少しは俺のこともかもうてくれてたのに。
 高木と全然つるめなくなって、俺は、一人で夏休みを過ごさなあかんようになったから、毎日、図書館に通って、茶色くなった本を何冊か読んだ。
 あの頃の気持ち、朝、図書館の窓際に座って、直射日光を浴びて、ああ暑いなあ、と思て、目を細めて外を見る時の気持ち、あれはよう忘れられん。
 淋しい、悲しい、せつない、そういう種類の感情が、手に手をとって、津波みたいにかぶさってくるんや。
 ――そりゃ、なんでも買うてくれはるけど。
 ――父親みたいに遊んでくれるけど。
 ……高木に、おとんおらんのも、知っとるけど。
 なんであないなおっさんに、あいつがなつくのか、俺には、全然わからんかった。
 あの、願うような感じを、最初に覚えたんは、その頃その図書館の中でやった。
 小学生へおすすめのコーナーいう、一冊、一冊の表紙がちゃんと見えるように、綺麗に並べられた、背の低い大きな本棚が、玄関を入ってすぐの所にあって、そこに並んどるのは、自然を守ろうとか、原爆を忘れないとか、カッタイ本ばっかやった。
 いつもは、そんな所は素通りする俺が、よっぽど読むモンなかったんか、その中の一冊を持って、いつも所定の位置にしとった、窓際の席に座った。
 あの日読んだ、あの本は、……もう、タイトルは忘れてもうたけど、ベトちゃんドクちゃんの本やった。
 大きな写真が、本の見開きの左側いっぱいに載せてあって、右側にちょこちょこと解説文が載ってる、いうつくりのやつやった。写真は枯れた草の様子とかで、解説には、
『枯葉剤は、かれはざい、と読みます。ベトナムの、背の高〜い草に、ベトナムの兵隊がかくれてしまったので、アメリカの兵隊が怒って、この薬をまいたのです……』
 とかなんとかいう事が書いてあった。
 ……せやけど、俺はその真面目な中身、よう覚えてへん。
 俺が鮮明に覚えとるのは、たった一つの映像や。
 ベトちゃんドクちゃんが、小さな汚いベッドの上で、なんや、血ぃに汚れたようなシーツにくるまって、うつぶせに眠っとる写真。
 ……ベトちゃん、ドクちゃんいうのは、枯葉剤のせいで、腰のとこが繋がって生まれてきたシャムの双生児やから、その写真も、二人はどっちかっちゅうと背中を向け合うような感じで眠とったのに、腰が繋がっとるせいで、お互いぜんぜん離れられへんし、腰も引っぱりあって痛そうやし、寝返りも打てなさそうやし、なんや窮屈そうで、痛々しい印象の写真やった。
 俺も、最初はそう思って見てた。
 こんなん苦しいて、なんぎで、かなわんなぁ、と。
 けど、淋しい朝日んなかで、ずうーっとその写真に見入っとると、そのうち、なんや、胸の奥がクワーっと熱うなってきた。
 なんやしれん、綺麗な音楽が聞こえるような気がした。
 さっきまで淋しぃ感じてた日光が、ぴかぴか光って見えた。
 ほんで、そんな空間で、そのまンまじーっと映像を見つめとると、胸の奥のクワーっは、沸騰して、膨れ上がって、一個の感情に なってもうたのやった。
 やばいんちゃうか、とは、あの時かて、その後でかて、なんべんも思たけど。
 あの気持ちは、やっぱり、今考えても。どうしても『うらやましい』いう感情なんやった。

 ◆

「タカキ……」
 いかにも気持っちよさそうな、かすれた声で、奥島がおれを呼ぶ。
「……っカ、キ…………」
 奥島はこういう時、必ず、けっこう苦しそうな声を出しよる。
 顔もどっか痛むみたいに歪んで、眉間に皺が寄りまくるんや。
「高木……」
 それがまぁ、けっこお、セクシーやったりするかなぁ、と思おたりするんやけど。
「……ッ」
 ああ、そろそろやなあ。
 ティシューの箱、どこやったっけ。……急がんと。
 シュシュシュ、と気前よく何枚も抜きだして、スタンバイしとく。
 ……身ィを引くタイミングが少し遅れて、口の端にかなりかかってもうた。
 めんどくさいから舌でぺろんとなめる。にがくてマズイ。
 かぶせたティシューをはずして、体液が吐きつけられたそれを、丸めて適当に床にほうる。
 奥島は、ハアハア言いながら肩丸めて息をしとる。
 出した直後は、畳ン上に、べったぁーとへばってりゃええのに。おれは、その方が極楽やぁ思うけどな。
 扇風機の風が嫌な方位で吹いて、今、まるめて捨てた紙くずの湿気を、もろにこっちに送ってきた。
 濃い匂い。
 ――ああ、あの、日の匂いや。
 これに、雨の雰囲気が加わったら。本当に。
「なあ」
「……ん?」
 奥島は、まだちょっと息を切らしとった。
「雨、ふっとる?」
 奥島のすぐ背後には、カーテンのかかった窓がある。
 音は聞こえへんけど、あの外には、大粒の、ほんで密度も濃い、……まあ簡単に言えばどしゃぶりの雨が、隠れとるかもわからん。
「……んや、ふってへんで」
 奥島は、カーテンの合わせ目をちらっとめくって、そう答えた。
「なんやぁ、そうか」
「あめ、ふってほしいのん?」
 わめきながら、あおむけに寝転がると、奥島が、やさしい目ェでおれの目をのぞいた。
 その目が甘えるような目で、甘やかしてくるような目で、顔が赤くなるような高揚感と一緒に、なんとなく。
 うっとうしかった。
 ……あのおっさんも、こんな目ェで、ようおれを見とった。
 この話、むし返したら、不機嫌になるやろなァ……。
「なあ」
 おれは少し笑って、とろけそうな目の奥島に、話しかけた。
「おれが、最初の印刷所やめた、雨の日ィに話したコト、覚えとるか?」

 夕方過ぎからふりだした夕立が、どしゃぶりの日やった。やっぱり残暑で、雨が身体に張りついて、ねとつく日。
 最初のうちは、退職してもうた、ちゅう興奮からか、傘もささんと歩いてもうて、だいぶ濡れてきてんのに、なんや感覚がマヒして小雨みたいに感じとった。
 ああ、すごいどしゃぶりなんや、と気がついたのは、飲み屋を出て、退職祝いにとおごってくれはった工場長と別れて、ずいぶん経ってからで、もうその頃にはパンツまでびしょびしょやったから、尻のポケットにねじ込んどいた最後の給料が心配で、あわてて確認したら、札ってモンはけっこう丈夫で、乾かせば十分いけそうやったから、ほっとしたんやった。
 コンビニ一軒の明かりだけがついてる、真っ暗になってもうてた駅前から、アパートまで全力疾走したんやけど、その間にもっと濡れてもうて、奥島がドアを開けた時には、まさに水もしたたるいいオトコ、やった。
「どないしたん。工場から傘、借りてくればよかったんに」
 奥島の、やわらかい声が頭上からふってくる。バスタオルでおれの頭をごしごし拭く、器用な指。
「工場はふってないうちに出てん。その後、飯に連れてってもろたから……」
 おれがそう答えると、奥島はいぶかしげェな声で、
「……工場長にはなしって、なんやったんよ」
 と尋ねてきた。おれが返事せんでおると、肩をもどかしげに揺すって、
「なあ、なあ」
 とさらにゆうた。
 いつもやったらうざったくなって、短気に、うるさいっ、て、怒鳴るトコやのに、今日に限っては切なぁなって、
「……さぶいなあ」
 と、ごまかした。
 奥島は、今までの会話を一瞬忘れて、
「よっしゃ、風呂わかしてくるわ」
 とユニバスの方へ行った。……単純バカやなあ、と思た。
 せやから、……あいつがあんなんやから、なんとかなるかなあ、したいなぁと、おれは、つい思てしまうのやった。
 ガキの頃の友情の延長まんまな関係で、曖昧に一緒に暮らし続けとったんもそのせいや。
 ……せやけどムリや。ムリなんや。
 あいつと同じようには、おれはきっと、生きられへん。
「しゃーけど、しばらくかかんで。先、シャワー浴びとった方がええんやないか?」
 奥島がユニバスから顔を出して、そう呼びかけてくる。
「……ええねん。シャワーは」
 おれは静かに答えた。
 奥島は、顔を出したまましばらく黙りこくっていた。多分、おれの背中を、というか、後ろ姿を見てたんやろう。
 その後、水を入れ終え、戻ってきた奥島は、
「……どないしてん? 具合、わるいんか?」
 後ろから、あっためるみたいに、ぎゅうっとおれを抱きしめて、慎重な言い方で、そう言うた。
「…………」
 なんか、言おうと思たのやった。
 せやけど、ホンマに、のどがつまって、なんも出てきぃへんかった。
「高木?」
 奥島が、後ろから首だけをのばして、おれの顔をのぞき込む。
 綺麗な、からすの羽みたいな、黒い目やった。いつもどおりの。
 おれは身体を回転させ、奥島と向き合った。ただでさえ背の低いおれが、あぐら座りで、膝立ちの奥島と向かい合うと、思いっきり上目づかいになった。
 なんやしらん、涙が出てきそうになった。べつにそんな必要もないのに、そんなに重大なことしてきたわけちゃうのに、奥島の生粋に真っ黒な目ェは、おれン中のうしろめたさや悲しさをぶわぶわあおるんやった。
「たかき?」
 思いっきし上目づかいで、涙目で、奥島をにらむおれの顔は、あの時どんなんやったんやろう。
 ただ、身体の芯だけは冷えきってたから、顔は赤ぁなってなかったやろと思う。
 むしろ青白いくらいの顔でそんな表情すると、どないな感じに見えるもんなんやろか。
 少しは悲しさをこらえてるように見えたんやろか。
 せやったらええなァと思う。やってあん時、おれは悲しかったんやから。
「セックス、しよや」
 かすれ声になった。
「……え……」
 奥島の顔は、マジで、豆鉄砲くらった、ハトみたいやった。
「しよや。したいねん」
 おれは座ったまま距離を一歩詰めた。
「…………高木?……酒、飲まされたんか?」
 奥島は、困惑したような、怒ったような、複雑な顔をした。
 ……そらせやろ、高校の頃から、今まで何回も、ネタっぽく、あるいは血ィ吐くみたいに真剣に、奥島にそう言われてきたけど、おれは、絶対嫌じゃ、って、いつも全力で抵抗してたんやから。
「なあ、ええやろ」
「しやかて、お前、…………どうしたんよ、あんだけ…………」
 奥島は複雑な顔のまンま、おどおどした態度になった。
「ええねん。今は。今はええねん」
 そう、叫ぶみたいに言うて、おれは奥島に抱きついた。
 奥島の身体はあったかかった。おれの濡れた身体が、少し蒸発するようで、暑い、と一瞬、思た。

 ……最大級の世辞、つこても、気持ちいいとは言われへんコトやった。
 けど、あいつの体温とか、細かく、よう動く指とか、時どきうつろにまたたく、黒の綺麗な目ェとかは、……わるなかった。
 それに。これが、今日したことの罪滅ぼしなんやとしたら、フィフティフィフティの、わるない線や、と思えた。
 覚悟はしとったけど、あないにキッツイもんやとは思てなかったから、終わったら、おれはぐったりしてもうた。
「だいじょうぶか?」
 奥島は、おれの額に手を乗っけて、そう言い続けてた。
「……平気やって、……もう寝ェよ……」
 そう、どろどろの、ふにゃふにゃした声でおれが何べん言っても、不安そうな目でずーっとおれを見てた。
 もう、今にも泣きそうな、うるみきった目ぇやった。
「平気かぁ?……平気なことないわなあ」
 そう言い始めた時、おまえ、泣いてたんやろか?
「……堪忍な。……俺、お前んこと、すきやねん、…………かんにんなぁ」
 世にも情けない顔やった。
 もうろうとしてきた目にも、それだけはわかった。
 あないに汚く映ったんやから、きっとおまえ、泣いてたんやろう。
 ねむくて、しんどくて、ぼんやりしながら、その時おれはなんだか変な気分になっていた。ちょうどよぉない感じに酔いがまわってきた時のような、なんや半端で、やるせないような、むかっ腹立ってくるような、そんな妙なカンジ。
 ……なんで。
 コイツはなんで、高校のころから……さしてくれ、やらしてくれ、たのむわ、とはなんべんもゆうてきたくせに。
 なんで。一度も。
 強姦してくれへんかったんや。
 ……けど、ホンマはおまえに腹が立っとるんやないことも、ぼんやりと、意識の下の方でわかっとった。
 おれかって、自分でわかっとる。
 奥島と恋人、いうやつになって……ホモになるんでも、オカマになるんでも。
 奥島にむりやりヤッてもらわな、なられへん、なんて……そんな理屈、あるかい。
 ――そんくらい自分で決めろや、って、自分で自分につっこみ決めまくりたい。
 せやけど、おまえがなんの躊躇もなしに選べる生き方を、その好き勝手な生き方を……おれは選べへん。
 めっちゃ腹が立つ……倒れるまで、わめき散らしながら走りまわりたいくらいに。
 おれだっておまえが好きなんやから。
 ……けど、好きは好きやのに。選べへん、っていう結論。どうにも揺らがへんみたいなんや。
「……おくしまぁ」
 おれも、あん時、泣いてたかもわからん。
「なんや?」
 まぶたの裏っかわに、ゆらゆらゆれる景色。
 色あせてるはずやのに、十一年も前のことやのに、妙にあの瞬間の、あの男の顔だけは、くっきりと浮き出てくる。
「あの日ぃなあ、おれ、あのおっさんに追い出されてん」
「…………あの日って、いつや?」
「小三の夏や。おっさん、覚えてるやろ。おまえが忘れるわけないやろ」
 びしりと突きつけるように断言すると、ふっと、奥島の顔が、あんま汚くなくなったように見えた。ということは、泣きやんだんやろう。
「遊びに行ったったらなあ、台所で少し待っとけ、って部屋から追い出すねん。妙に暗い顔してなあ。おれ、具合わるいんかな、と思てんけど、子どもって、ちょっとでも待たされたら、退屈やろ。しばらく待って、もう帰ろ、思て、ふすま越しに、今日はもう帰るわ、言うたらなあ……」
 奥島の顔が、また少し、汚く見えた。けどそんなに醜くもなかったから、多分、顔を歪めたんや。
「……待っとけ言うたやろ、て、ごっつ怖い声で怒んねん。しゃあないから待っててんけど」
 ねむくてしんどうて、もう口が開かなくなりそうやった。せやけど、なんやこれだけは言わな、みたいな気分になって、必死にしゃべった。
「……やっと、もういいで、って言われた時は、けっこう、退屈しきっとってなあ。ふすまに飛びついて、両手でこぉ、がらぁっと開けてんけど」
 小さかった。ほんとにチビやったおれは、ふすまの合わせ目のすき間に爪を立てて、まさに、飛びつくように開けたんやった。
 しんどくて、もう、目を開けてられへんかったから、閉じて、続けた。
「……顔に、ぴしゃあって、かかってん。……かけられてん。なんなんか、そん時はわからんかったから、なんやこのくさい汁、って思ただけやってんけど」
 奥島が、おれの右手を握った。ぎゅうっと握られて、痛かった。
 ――よみがえってくる、あの日の濃い湿気。
 あの日ィも、どしゃぶりやった。少しだけぬれたTシャツの襟元が、ねっとりと、気持ち悪かった。
 顔にもねっとりと、あのおっさんの精液が、独特の匂いと一緒にへばりついて、しけって、臭くて、暗くて、悲しいほど……うっとうしかった。
「……あん時見上げたおっさんの顔、よう忘れんわ。なんやしょぼしょぼした目つきでなあ。なんかにおびえとるみたいな目ぇして……。万引き犯が捕まって、連行されとる時みたいなカオやったわ」
 ほんまに、あのおっさんはなんやったんやろか。
 あんなことするために、わざわざタイミングはかって、ふすま開けさせて、……なにが楽しかったんやろか。
 あれからすぐ、秋の初めに引っ越して行ったけど、最後まで、世間には『子ども好きの、人のいい、けどちょっとあやしげなおっさん』のままやった。
 ――ホモで、ガキ好きの変態なんは、ギリギリばれへんかったんや。
 ……わからん、わからんわ。
 どういう、気ぃやったんやろ。
 ――顔にかけるだけ、なんちゅう、中途半端な手の出しかたしよって。
 あないに妙な人やったのに、守らないかん人も地位も、さして何も持ってなさそうやったのに、どうして『普通』に引っかかっていたがってたんや。
 ――おれみたいに?
「……いっそのこと」
 もう、ほんまはねむってたんかもしれん。
 寝言みたいなもんやった。
「いっそのこと、あのなんも判断できんころ、あのおやじに仕込まれてカマんなってもうてたほうが、よかったわ」
 奥島が、もっとぎゅうっと、手を握り締めた、ような気がする。
 ……気が、した……。

 ◆

 奥島が少し開け放った窓のすき間から、一気に夕暮れ時のさわやかな、すずしい風が吹きこんできて、高木の体から汗をさあっと引かせていった。
 急速に傾いた日光が、窓の脇に座った奥島の彫りの深い、苦虫をかみつぶしたような顔を、赤く彩っている。
 おこってるんかな、と、ぼんやり高木は思った。
「……覚えてへんわ。そんな、昔のこと」
 低い声で、そうどんよりと言った奥島を、高木は子どものように穢れなくきらめく目で見上げる。
「……ふうん」
 ウソ言え、と思いながら、相づちを打つ。
 高木は目を閉じて、またふとんの上をころころと転がった。
 奥島はその高木を見つめ、悲しそうな表情で、言う。
「だいたいなあ、お前、この二年で、何回転職したと思てんねん。最初もクソもいちいち覚えてへんわ」
「たった三回やろがい。んなに記憶力ないんか、おまえ」
「二年で三回て、めっちゃ多いわ。お前はじゅーぶん風来坊や」
 高木は、少しムカッとして言い返した。
「ふん、風来坊どころかなあ、おれ、永久就職かて狙えるかもわからんねんで」
「……なんやぁ、それ?」
「あんなあ、おれが今、勤めとるとこなァ、一人娘がおんねん」
「……自動車修理所やったっけ?」
「おん。そこのな、一人娘が、今二十四……やったか、二十六やったかな。とにかく、うちみたいなちっこい修理所は、その娘と結婚した奴が、修理所、継ぐことになるわけや」
「はーん」
「ほんで、その娘がなあ、おれのこと気に入ってんねん。ごっついやろ?」
 そう言って、高木は心なしか得意げに、両目をつむった。
 奥島はそんな高木を見下ろして、
「ほんで、お前はその修理所の跡継ぎに、見事、おさまる気になったわけや。……やーらしいやっちゃのお」
 と嫌味たらしく言う。
 高木はあわてて身を起こして、
「せんわいっ」
 と奥島の頭を勢いよくぶつ。
「なんでぇ。……自信あるんやろ?」
 奥島は、ぼーっとした気のなさそうな顔で、そう言いながら高木を見つめた。
「自信……。も、くそも、あるかい、アホ」
 余計なことをしゃべり過ぎたのを後悔し、高木は気まずそうにそう言って、寝ころがった。
 奥島はじっとその動作を目で追った。
 そしてそのまま高木が動かないのを見てとると、窓の外に視線を転じた。
 外では相変わらず、セミがわんわん鳴いている。
 ……ああ。今年のセミも、もうすぐ死による……。
 そうぼんやりと考えながら、奥島は口を開く。
「……べつに、ええねんでぇ、俺は」
「…………なにィが」
 うざったそうに、高木が応じる。
「俺はさっぱり、そういうんイランねんけど。お前、いっつもあきらめきれへん感じ、させとるもんなァ。一人息子なせいなんか、実はマザコンなんか、知らんけど。おばちゃんに孫、抱かせたりたいとか、どーにもあきらめきれへんのやろ」
 言われて高木は、自然、自分の母親の姿を、回想した。
 自分が幼い頃には、美人とも形容もできたはずだった。
 年を経るにつれ、要は自分を育てていくにつれ。一年に、まとめて数年、年をとるかのように。老けて、汚れていった。
「……おかんに、そんくらいまともな幸せ、味わわせたりたいなぁ、くらい……」
 それは、どこか。いつも、罪悪感を与えてくるような事実だった。高木にとって。
「何が変なんよ」
 ……奥島の疑いを、認める発言だ、とわかっていながらも。高木はこぼした。
「変なんは俺なんやろ。そこは、わかっとるけど」
 直す気はない、と言外に伝えてくるセリフで、奥島が答える。
 続けて、
「せやからええで、どーしてもしたかったら、結婚とか、しても」
 ……そう言った奥島を。
 高木はしばし、絶句して眺めた。
 そしてだいぶ経ってから、起き上がって。
 奥島に向かって座り、なんとかしゃべり出す。
「…………お……、……おま、勝手、やなあ。んな、都合のいいハナシ、あるかい。そんな都合のいい女、おらんやろ」
「なにがいな。おるやんけ」
 奥島は、あっさりと答える。
「おらんわい。……だいたい、おれは、そういうの好かん。例えば」
 一瞬言葉を切り、高木は、下唇を少し噛んだ。
 重くて言いにくいというより、言ったら重くなりそうな言葉だった。
「……おまえと、別れる、とかいうんなら、別やけども」
「それは、困るわ」
 シレっと、奥島は言う。
「……やろ?」
 重いため息をつきながら、高木は応えた。
「……やって、お前に捨てられたりしたら」
 高木は、丸い目を上目づかいにして、うつむいたままそっと奥島を見た。
 視界に入った奥島の口元には、うっすらと不精ひげがはえてきていて、それが妙に男臭く、高木は少しだけ、怖い、と思った。
「俺、死んでまうと思うし」
 淡々と。
 あくまで淡々と、奥島はそう言った。
 高木は、丸まったタオルケットを手元に引きずってきて、手で撫でながら、
「……怖いこといいなや」
「怖ないやん。せやって、多分、死ぬで。俺は。しゃーないやん」
「なんで、そうなんねん」
 高木は、顔を上げないまま言った。怒った声だった。おびえた声のようでもあった。
 奥島は高木のそんな声を、快く聞いていた。
 同時に脳裏に、あの写真の映像が、駆けぬけていく。
 痛々しいはずのその映像は、奥島にとって何より甘く、憧れに似た想いを、胸に湧き起こさせる。
「――ベトちゃんドクちゃんの腰んとこ、ぶちっとぶった切って、むりやり引き離してもうたら、――きっと死ぬやろが」
 自己陶酔しているような遠い目で、奥島はそうつぶやいた。
「…………なにを言うとるんや。わけわからん」
 高木は、怒鳴りながら鼻をすすった。
 なぜか、泣きかかっている自分に腹が立った。
 ――息ぐるしい。めっちゃ息ぐるしい。うっとうしいの極致や。
 ――眩暈、する。
 心の中でそう怒鳴って、高木は目を閉じた。そのまま、倒れるようにあおむけに寝る。
 それからしばらく、二人とも、なにも、しゃべらなかった。

 ――セミ、うっさいわ……。
 みーん、みーん、ジーワ、ジーワと、窓ガラスを叩くような勢いで、セミが鳴き続けている。
 高木が薄く目を開くと、奥島がまた、窓の開いたすき間から外を眺めていた。
 ――こいつ、セミすっきやからなあ……。
 ぼんやりと、高木はまた瞳を閉じた。
「……セミって、なんであないに鳴くんやろ」
 奥島が、重たく、ゆっくりと、そう言った。
 高木は寝ころがったまま、無言でいる。
「あいつら、もう死ぬの知ってるんかなあ。知ってて、あれだけ鳴き続けるんかな」
 高木は、奥島の酔いしれたような声を聞いていた。
 低くて、どこか暗く、それでいて断片が輝くような、音色。
「……鳴く為に生まれたこと、知ってるんかな」
 その断片が、聴いた者の胸の中、輝く。輝いて、刺してくる。
 ――痛い。
 そう感じて、高木はそっと胸をさすった。
「……俺、セミ、すっきやなあ……」
 奥島はうっとりと、つぶやく。
 高木は身じろぎもせず、奥島に背を向けるような姿勢で、寝ころがったままでいた。
「……なあ」
 暑く、気だるく。重く、昏く。
 ――それは残暑。
「俺、ほんまに、……どーでもええねんでぇ」
 ……に似た、言葉。
 ――お前以外、どうでもええねんで。
 奥島は、高木の背中に向かって、呼びかける。
「なあ」
 高木は動かない。
「なぁ」
 奥島は呼び続ける。呼び続ける。
「なあて」
 ……呼び続けるだけだ。
「うっさいわ」
 高木は口を開く。
「鳴けばええと思いやがって。命がけやって――鳴くだけなんやったら、たれ流しでうっさいだけやないか」
 早口で、散弾銃のようにバラまく。それぞれに爆ぜた火がついている言葉達。
 しばらくの沈黙の後。
 奥島が、ためすように、尋ねた。
「…………何の話や?」
 ……高木は、まつげをだるく持ち上げ。
 ほんの少し瞳をのぞかせて、つぶやいた。
「…………セミの話やろ」